斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、18… 斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう / にたろう、1865年4月12日(慶応元年3月17日)- 1933年(昭和8年)4月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮城県桃生郡赤井村長。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、農業・斎藤恒治の長男として生まれた。漢籍を修めた。農業を営む。1881年(明治14年)赤井小学校教員となる。 1884年(明治17年)広淵村外4ヵ村戸長役場筆生に就任。深谷村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。日清戦争、日露戦争に従軍。1907年(明治40年)赤井村収入役となり、助役を経て、1908年(明治41年)同村長に就任。
秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2… 秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2年3月15日) - 1943年(昭和18年)3月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 山縣銃太郎の弟、山縣昌繁の二男として駿河国志太郡島田宿(静岡県志太郡島田町を経て現島田市)に生まれ、1884年(明治17年)4月、秋山家の養子となり、同年6月、家督を相続する。1881年(明治14年)静岡師範学校高等師範科を卒業し、小学校教諭を経て、師範学校訓導となる。1887年(明治20年)10月、上京し慶應義塾に入り、1891年(明治24年)4月、同校を首席で卒業した。安田銀行に入行したのち、イーストレイクらと共に日本英学院を創立し教鞭をとる。
山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応… 山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日)- 1943年(昭和18年)8月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。 伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋(鳥取県久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した。 1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた。
矢本 平之助(やもと へいのすけ、元治2年3月11日(186… 矢本 平之助(やもと へいのすけ、元治2年3月11日(1865年4月6日) - 昭和13年(1938年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員。宮城県桃生郡大塩村(現在の東松島市の一部)村長、宮城県会議員、桃生郡会議員。江合川・鳴瀬川・吉田川の合流や北上川改修などの治水事業を推進し、「治水王(治水翁)」の名で知られた。 元治2年(1865年)3月11日、陸奥国桃生郡深谷大窪村(現在の宮城県東松島市大塩)に矢本平太夫の長男として生まれる(誕生日は戸籍では「3月11日」とあるが、墓誌では「3月21日」とある)。生家の矢本家は戦国時代の矢本館主であった矢本筑前景重の末裔と言われ、代々村役人を勤める豪農で、地方屈指の名家であった。
菅沼 貞風(すがぬま ただかぜ / ていふう、慶応元年3月1… 菅沼 貞風(すがぬま ただかぜ / ていふう、慶応元年3月10日(1865年4月5日) - 1889年(明治22年)7月6日)は、日本の経済史家・著述家・南進論者。弟に海軍少将で西海中学(現・西海学園高等学校)創立者の菅沼周次郎がいる。専修学校(現在の専修大学)の学風に大きく魅了され、法律学と経済学を修し卒業。 同郷の石橋禹三郎・稲垣満次郎とともに「平戸派南進論者」と称される。 肥前国松浦郡平戸(現長崎県平戸市)に、平戸藩藩士・菅沼量平の長男として生まれる(名はしばしば「ていふう」と読まれるが正しくは「ただかぜ」[要出典])。父量平は藩主に詩歌について進講するなど文武に優れ、貞風はその父について学問を始めた。
八木 寅次郎(やぎ とらじろう、1865年4月5日〈元治2年… 八木 寅次郎(やぎ とらじろう、1865年4月5日〈元治2年3月10日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月7日)は、日本の柔術家。 天神真楊流免許皆伝、大日本武徳会柔道範士、日本柔道整復師会三代目会長。 1865年4月5日(元治2年3月10日)に武蔵国秩父郡寺尾村(現・埼玉県秩父市寺尾)に八木柳太郎の三男として生まれた。八木家の先祖は北条氏の家臣であった。 幼いころから体格が人より勝り武術を好み軍人を志望していた。郷里の秩父で甲源一刀流を教えていた辺見多四郎、逸見愛作に就いて剣術を修業した。 1882年(明治15年)17歳の春に東京へ修行に行くため一人で正丸峠を越えて上京した。東京へ向かう途中で柔術の手合わせをしばしば行ったが「むこうに敵なし」と評判になったという。
中川 藤右衛門(なかがわ とうえもん、1865年4月5日〈慶… 中川 藤右衛門(なかがわ とうえもん、1865年4月5日〈慶応元年3月10日〉 - 没年不明)は、日本の商人(中川屋、呉服洋反物商)、三重県多額納税者、三重県の大地主、銀行・会社の重役、政治家。津市会議員。旧姓・鈴木。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡黒田村(現・津市)に生まれる。鈴木藤次郎の二男。鈴木平兵衛の弟。中川家の養子となり、1899年に家督を相続し、前名・魁蔵を改める。 呉服洋反物商を営み、三重県下の多額納税者に列し又推されて津商工会議所常議員である。伊勢晒工場を設立する。方面委員、安濃津地裁調停委員、呉服商組合長を兼ねる。 津農商銀行取締役、三重合同電気、津電燈各監査役をつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日(1865年4… 原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日(1865年4月2日) - 1937年(昭和12年)9月30日)は、明治から大正時代の土木技術者、内務技監。工学博士。 原田精一の長男として周防国(現・山口県)に生まれ、1900年(明治33年)11月に家督を相続する。1883年(明治16年)旧東京大学理学部に入学するが、寄宿生一同のストライキに参加して1886年(明治19年)退学し、ドイツに自費留学する。シャロッテンブルク高等工芸学校(王立シャルロッテンブルク工科大学、現在のベルリン工科大学)に入学し、河海工学を修めて1891年(明治24年)卒業する。 翌年の1892年(明治25年)5月、内務省に入省し、土木監督署技師、1898年(明治31年)第4区(名古屋)土木監督署長、1905年(明治38年)名古屋土木出張所長、1911年(明治44年)下関土木出張所長を経て、1918年(大正7年)内務技監となり、1924年(大正13年)退官した。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30… 仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30日(元治元年3月25日) - 1919年(大正8年)12月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。幼名、外太郎。 1864年(元治元年)、土佐国安芸郡穴内村(現在の高知県安芸市)に生まれた。父、武英は旧藩時代の安芸町寄役。申議学舎で船本楠吉に学び、1883年(明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。1886年(明治19年)4月、海軍少尉任官。 日清戦争には「千代田」分隊長として出征。1896年(明治29年)7月、「鎮遠」砲術長となり、「平遠」副長を経て、1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「浅間」回航委員に発令されイギリスに出張。
亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元… 亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。 熊本藩士・亀井忠左衛門の三男として生まれる。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学(現東京大学法学部)卒業。同年12月、高等試験に合格し法制局試補となる。1890年(明治23年)、法制局参事官に就任。 1902年(明治35年)2月、徳島県知事に就任。その後、1904年(明治37年)1月に静岡県知事、1905年(明治38年)12月、宮城県知事に就任。 1908年(明治41年)の第2次桂内閣の際に警視総監に就任。
奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元… 奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元年3月22日) - 1912年(明治45年)1月2日)は、日本の盲目の盲学校教師。盲学校の職業教育に理療を確立させた。 1864年、加賀国(現在の石川県金沢市)で生まれる。3歳のときに失明した。8歳から加賀藩医久保三柳について鍼灸・按摩術を学んだ。研究意欲が旺盛で、西洋医学を学ぶことの必要を感じ、金沢医学専門学校の教師や学生について解剖・生理・病理などを学び、鍼灸・按摩術の研究をする。上京してさらに研鑽を積みたいという志を持つが、父親は盲人の一人旅に強く反対していた。その父親が亡くなったことから、1886年(明治19年)に上京し、築地の訓盲唖院に入学する。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4… 田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した。 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。 東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。
中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元… 中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1927年(昭和2年)4月22日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)。1890年、第五高等中学校医学部(のち長崎医学専門学校→長崎医科大学、現・長崎大学医学部)、1893年、東京帝国大学専科、1900年、伝染病研究所(のち東京大学医科学研究所)研究科卒。医師を開業する。阿久根村で温泉を経営し、阿久根村会議員、出水郡会議員、出水郡医師会長、鹿児島県医師会代議員、日本医師会代議員となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から無所属で立候補して当選した。
戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元… 戸田 恒太郎(とだ こうたろう、1864年4月20日(元治元年3月15日) - 1934年(昭和9年)12月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、行政裁判所評定官。 長門国萩出身。長州藩士・戸田雅喬の長男として生まれる。1886年、帝国大学文科大学を卒業した。 1890年10月、石川県参事官に就任。以後、長野県参事官、長野県警部長、高知県警部長、青森県書記官、福井県書記官、茨城県書記官、静岡県書記官、同事務官・第一部長などを歴任。 1905年12月、宮崎県知事に就任。1906年7月に休職。1907年4月、行政裁判所評定官に就任。1913年6月に休職し、1924年11月に退官した。
牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年… 牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年3月14日)- 1918年(大正7年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。 甲斐国都留郡玉川村(山梨県都留郡三吉村、南都留郡三吉村、谷村町を経て現都留市玉川)で牛田八郎の長男として生まれる。1878年(明治11年)上京して同人社で学んだ。1879年(明治12年)8月、家督を相続した。 帰郷後、戸長、組合村長、南都留郡会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、同参事会員、同議長も務めた。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に山梨県郡部で立憲政友会所属で出馬して初当選。
若杉 喜三郎(わかすぎ きさぶろう、元治元年3月13日(18… 若杉 喜三郎(わかすぎ きさぶろう、元治元年3月13日(1864年4月18日) - 大正5年(1916年)3月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。医師。 越後国蒲原郡五十嵐浜村(現在の新潟県新潟市西区)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学医科大学を卒業。1891年(明治24年)より新潟市に若杉病院を開業した。1901年(明治34年)、新潟市会議員に選出され、1904年(明治37年)には市会議長に選ばれた。その後、1908年(明治41年)から1年余りの間、医学研究のためドイツに留学した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治… 水町 袈裟六(みずまち けさろく、1864年4月16日〈元治元年3月11日〉- 1934年〈昭和9年〉7月10日)は、日本の官僚。大蔵次官、英仏駐在財務官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官を歴任。横浜正金銀行頭取。法政大学総長。 佐賀藩士水町邦実の次男として生まれる。水町家は佐賀藩の重臣の家系。佐賀変則中学校、大学予備門を経て、1891年(明治24年)に帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業後、同年大蔵省(現在の財務省)に入省。 理財局長、大蔵次官、1908年(明治41年)から英仏駐在財務官を歴任する。1911年(明治44年)に大蔵省を退官して日本銀行副総裁に就任した(1919年まで)。
佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈186… 佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈1864年4月15日〉 - 大正9年〈1920年〉5月13日)は、明治・大正期の教育者・図書館学者。息子に、戦前の日本共産党(第二次共産党)中央委員長を務めた佐野文夫、孫に慈善家の吉田千鶴がいる。GreenT株式会社代表の吉田愛一郎はひ孫にあたる。 上野国前橋藩士の子として武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。明治15年(1882年)に群馬中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、明治18年(1885年)に東京大学(後の帝国大学)に入学する。だが、卒業直前に外国人教師との対立を理由に大学を中退、明治23年(1890年)に山形県の米沢中学校に教師として赴任し、翌年に地元の医師の娘と結婚した。
平石 氏人(ひらいし うじんど、元治元年3月10日(1864… 平石 氏人(ひらいし うじんど、元治元年3月10日(1864年4月15日) - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の判事。旅順市長。 土佐国(高知県)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事となり、大審院判事まで累進した。のち関東都督府判事に転じ、同高等法院長、関東庁高等法院長を務めた。 1924年(大正13年)、旅順市長に選任された。
磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4… 磯部 正春(いそべ まさはる、元治元年3月8日(1864年4月13日) - 昭和3年(1928年)10月12日)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。旧名は百輔。 山口県出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学を卒業。農商務試補、法制局試補、鉄道庁事務官、農商務省特許局審判官、農商務省参事官、同書記官、特許局長、農商務省鉱山局長を歴任した。1917年(大正6年)3月に退官し、同年6月21日に錦鶏間祗候となった。 その後、産業組合中央金庫監事を務めた。
上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元… 上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元治元年3月6日)- 1933年(昭和8年)2月28日)は、日本の外交官、宮内官僚。宮内大臣秘書官、宮内省式部官、大膳頭等を歴任した。 出羽国由利郡(現秋田県由利本荘市岩城)出身。亀田藩藩校長善館を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。在ドイツ公使館書記等を経て、1897年香港二等領事。1901年にサンフランシスコ領事に着任。在任中アメリカ合衆国での排日運動の高まりで日本人が公立学校への入学を拒否されるなどの事態が生じ、カリフォルニア州知事への抗議などを行い対応にあたった。1907年シドニー総領事。1909年宮内大臣秘書官兼式部官。
前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年… 前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1926年(大正15年)6月17日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、ジャーナリスト。族籍は和歌山県平民。 紀伊国那賀郡田中村(現在の和歌山県紀の川市)出身。前川彌兵衛の長男。 年少のころより政治に興味を持ち、自由民権運動に心酔した。1885年(明治18年)、那賀郡長児玉仲児の知遇を得て、郡書記となるが、児玉の欧化主義と合わず、2年で辞職した。その後、和歌山県会の書記となるが、児玉が県会議員に当選し、議長に就任したため辞職した。 官を辞した後は新聞記者となり、紀陽新報主筆を経て、大阪で立憲改進党機関紙の「東雲新聞」に入った。
留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年… 留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(のち教護院、後の児童自立支援施設)教育の実践家。 児童養護施設東京家庭学校(東京都杉並区高井戸東)および児童自立支援施設北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡)の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 1864年4月9日(元治元年3月4日)、髪結い床を営む吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として備中国高梁新町(後の岡山県高梁市新町)に生まれ、まもなく隣の南町(後の高梁市南町)で米屋を営んでいた留岡金助(1835年-1904年)の養子となった。
塩川 幸太(しおかわ こうた、1864年4月8日〈元治元年3… 塩川 幸太(しおかわ こうた、1864年4月8日〈元治元年3月3日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家、長野県の大地主。佐久銀行頭取。衆議院議員(長野県郡部選出、当選1回)。勲四等。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡森山村(現・長野県小諸市)生まれ。塩川仁助の長男。郡会議員、県会議員に選ばれる。1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。立憲政友会に所属。実業界では佐久銀行頭取、長野農工銀行取締役、長野貯蓄銀行監査役などをつとめる。 1883年、家督を相続する。住所は長野県北佐久郡三岡村。 塩川家は代々農業を営む。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3… 若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、日本の教育家、翻訳家、作家。巌本善治の妻。別名に巌本嘉志子。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。 1864年3月1日に、会津藩藩士松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。本名は松川甲子(かし)であり、『甲子』の名は誕生年の干支に因む。 甲子が1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争は父不在の間、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。なお、甲子の母に関しては詳しいことは分かっていない。
二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、元治元年2月28日〈186… 二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、元治元年2月28日〈1864年4月4日〉- 明治42年〈1909年〉5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。 本名は長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる(異説あり)。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である(『予が半生の懺悔』)。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。 江戸市ヶ谷(現在の東京都新宿区市ヶ谷)。自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、その後卒業した。
水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元… 水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1922年(大正11年)7月30日)は、日本の漁業家。 陸前国気仙郡吉浜村(のち岩手県気仙郡吉浜村→三陸村→三陸町、現・大船渡市)千歳(せんざい)で半農半漁の家の水上助十郎の長男に生まれる。1881年(明治14年)父の金を持ち逃げして、上京、東京では煎餅屋に奉公した後、養鶏業を始めた。翌年、父に呼び戻され、帰郷。佐々木ソデと結婚する。吉浜で漁業を手伝いながら、機を見て5年後に再び上京、小笠原諸島の父島に渡り、製塩法を学んだが、島内で牛を見て、牛の飼育を思いつき、牛2頭を父島から吉浜に連れて牛の飼育を始めたが長続きしなかった。
園田 兵助(そのだ ひょうすけ または そのだ へいすけ、1… 園田 兵助(そのだ ひょうすけ または そのだ へいすけ、1864年4月1日 - 1935年)は日本の獣医師。鹿児島県で黒豚(現在のかごしま黒豚)生産の土台を作ったことで「黒豚の父」と呼ばれる。 1864年4月1日、薩摩国川辺郡鹿籠郷(現・鹿児島県枕崎市)で馬の管理や調教を行う藩馬役・園田仲兵衛(そのだ ちゅうべえ)の長男として生まれ、父の見習いをしながら育つ。 1895年、獣医師の免許を受け、生家の一角で獣医を開業する。懇切丁寧な治療で近郊農民に親しまれる一方で、自らの不注意から馬を怪我させた飼い主を怒鳴りつけることもあった。 獣医の傍ら、ホルスタイン種の牛を十数頭を購入し、牛乳の販売を始める。
肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3… 肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3月8日〉 - 1922年〈大正11年〉10月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)生まれ。1881年、鹿児島県師範学校卒。鹿児島県会議員となる。また、鹿児島県蚕糸組合長、県生糸検査所長、県授産所長、鹿児島県農工銀行監査役、鹿児島郵船、大隅鉄道各(株)社長、鹿児島共同倉庫(資)代表社員を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1922年死去。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(186… 入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(1863年4月14日) - 昭和8年(1933年)7月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。弁護士。 備前国赤坂郡立川村(岡山県赤磐郡東高月村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)に右遠槌次郎(作家右遠俊郎の曽祖父)の二男として生まれ、入江米吉の養子となった。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、代言人免許を取得した。岡山法律学校を開き、また1897年(明治30年)には岡山弁護士会長に選ばれた。さらに岡山県会議員、同参事会員、同副議長に選出された。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4… 長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4月14日(文久3年2月27日)- 1927年(昭和2年)3月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国丹羽郡、のちの愛知県丹羽郡穂波村(西成村を経て現一宮市)で、尾張藩士・長谷川甚左衛門の二男として生まれた。鷲津私立学校で漢学を修めた。製糸業、石炭販売業を営む。日清戦争に従軍。 木曽川三川四百七箇村土功会議員、愛知県会議員、丹羽郡会議員、同参事会員、愛知県税賦課額調査委員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第4区、無所属)で当選し、その後、新自由党に所属し衆議院議員に1期在任した。 その後、愛知県湯屋連合組合組長、愛知県会議員、同市部会議長、名古屋市会議員、名古屋商業会議所特別議員、日本赤十字社終身社員などを務めた。
大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久… 大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久3年2月27日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月22日)、雅号・大野 雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本の画工・人類学者・考古学者。東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物の図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。 旧越前国の福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京の本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。 1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる。
小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久… 小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久3年2月25日〉 - 1893年3月12日)は、明治時代の社会事業家。日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現・社会福祉法人博愛社)を創設し、小野田鉄弥、弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力した。 1863年(文久3年)、播磨国赤穂郡瓜生(現・兵庫県相生市)に庄屋(地主)の小橋亀次郎の長男として生まれる。 竜野中学に入学し、儒学者の矢野真吾に学ぶ。神戸医学校予科(現・神戸大学医学部)を卒業後に上京し、高瀬真郷の心学や感化事業に影響を受ける。 1887年(明治20年)、東京での修学中に結核にかかり、英国の実践者J.ミューラーとの出会いをきっかけに洗礼を受けて聖公会の信徒となり、チャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)から薫陶を受けた。
太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(18… 太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(1863年4月10日) - 大正3年(1914年)4月6日)は、明治時代の官僚。福岡藩出身。貴族院書記官長などを務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。 福岡藩士・太田來作の三男として生まれる。明治21年(1888年)、東京帝国大学法科卒業後、判事試補、法制局参事官補になる。明治22年(1889年)に欧米諸国を視察して、翌年帰国すると新設された貴族院書記官に任じられる。明治31年(1898年)6月に農商務省に転じて農務局長に任じられるが、9月には今度は行政裁判所評定官に転じ、更に同年11月18日に貴族院書記官長を兼ねた。従三位勲一等に叙され、明治44年(1911年)7月1日以降は書紀官長専任となる。
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(… 山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、二位で卒業する。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。
津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2… 津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2月22日) - 1933年(昭和8年)12月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。前名・光三郎。 素封家・津村重兵衛の長男として紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡山崎村(岩出町を経て現岩出市)で生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続し紀陵と改名した。 1884年(明治17年)中野黒木村外8カ村戸長に就任。和歌山県会議員を経て、紀南索道、野上軽便鉄道、秋津川水力電気各社長、和歌山倉庫銀行取締役などを歴任した。1918年(大正7年)6月和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862… 山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862年4月27日〉 - 1933年〈昭和8年〉1月4日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(3期)。号に鶴園。 山宮元右衛門の長男として、相模国高座郡萩園村(神奈川県高座郡鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1882年(明治15年)3月、家督を相続する。江陽銀行取締役を務める傍ら、1893年(明治26年)鶴嶺村長に就任した。同郷の菊池小兵衛と共に1895年(明治28年)の改進党県支部創立に参加。1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで神奈川県会議員を務めた。この間、1900年(明治33年)県立第三中学校の藤沢への設置に尽くすも失敗。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2… 中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2年3月21日) - 1936年(昭和11年)5月17日)は、日本の宗教家。岡山県出身。宗教団体・福田海(ふくでんかい)の開祖。旧姓・薬師寺。本名・多田盛太。多田通幽とも。 備中国(現在の岡山県高梁市)に生まれる。3歳で吉備津の多田家の養子となる。[要出典] 16歳で小学校教員となる[要出典]。当山派で修験道を修する。また、井上円了の哲学館に学び、大阪に関西哲学館を開く。1895年(明治28年)、大阪市天王寺伶人町に宗教団体・無縁法界講を結成し、無縁仏の供養に取り組む[要出典]。 1908年(明治41年)、大阪で神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体・福田海を開宗し、陰徳積善を説く。
森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久… 森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久2年3月17日) - 1945年(昭和20年)2月9日)は、日本の政治家、弁護士、衆議院議員(1期)。 文久2年(1862年)、信濃国筑摩郡郷原宿(現在の長野県塩尻市広丘郷原)にて赤羽弥一(あかはねやいち)の三男として出生。生家の赤羽家は郷原宿の問屋場で、郵便制度発足後問屋業を継承して郵便物取扱所その後五等郵便局、三等郵便局となり現在は郷原簡易郵便局となっている。現在も問屋の屋号で呼ばれている。明治期のジャーナリスト、社会主義思想家の赤羽一(巌穴)は、問屋(上問屋)の赤羽家とともに郷原宿で交代で問屋をつとめた下問屋の出身で、儀文治の14歳年下の甥にあたる。
内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年… 内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年3月15日 ) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、日本の漁業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は金田。 越後国蒲原郡、のちの新潟県北蒲原郡南浜村(現新潟市北区)で里正・金田家に生まれ、慶応元年12月(1866年)同郷の内山タケの養子となる。漢学を修めた。1877年、函館に移り北海道、樺太で遠洋漁業を経営。1895年、サガレン(樺太)漁業組合総代に選出された。 また、北海道機械網(株)監査役、東洋捕鯨(株)取締役、函館商業倶楽部会頭などを務めた。 立憲政友会の結党に参画し、同函館支部創立委員、同支部幹事となる。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙の北海道庁函館区において平出喜三郎と戦い落選。
高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年… 高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1918年(大正7年)8月14日)は、明治時代から大正時代の弁護士、法律家。 越前国福井藩士の木内盛潔の次男として生まれ、1876年11月に高橋左十郎の養子となる。福井県より選ばれて駒場農学校に入学し、予科、大学予備門を経て東京帝国大学法科に入学する。1885年に同校を首席で卒業し、大蔵省主計局に入って数年後、弁護士に転身。1895年には東京弁護士会の会長となる。日本銀行顧問や横浜正金銀行の監査役などを務めた。また、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立に尽力した。後の学長である林頼三郎は弁護士事務所の書生であった。 1918年の春、肺炎に罹ったため、二宮町の別荘で静養していたが、帝大病院に入院後、渋谷町下渋谷氷川裏の邸宅に戻り、同地にて没した。
青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2… 青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1925年(大正14年)7月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県南魚沼郡藪神村(大和村、大和町を経て現南魚沼市)出身。村会議員、南魚沼郡会議員。新潟県会議員、芹田耕地整理組合長、薮神信用販売購買組合理事となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において新潟10区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1925年死去。
唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久… 唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久2年3月8日) - 1920年(大正9年)6月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県飾磨郡谷外村(現・姫路市)に生まれる。東京専修学校(現・専修大学)で学ぶ。青森新報社に入社するも生家の事情により帰郷し兵庫県御用掛に出仕、上司の赤穂郡長就任とともに赤穂郡役所に転勤し郡長を補佐する書記となる。 1892年(明治25年)、相生村に村長として招聘される。神戸の繁栄を見た唐端は当時寒漁村だった相生村に造船所の設立を決断、1907年(明治40年)、神戸の財界人や地元有志から出資を募って播磨船渠株式会社を創立した。これは技術の未熟さから事業は高橋為久の播磨船渠合名会社に引き継がれたが、のちに鈴木商店による買収を経て1916年(大正5年)4月、鈴木商店による株式会社播磨造船所の設立に至る。
佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2… 佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2年3月5日) - 1953年(昭和28年)5月30日)は、日本の産婦人科医。佐伯病院、京都産院各経営主。京都看病婦学校、京都産婆学校各校長。学会活動のほか、公衆衛生、医史学、医師会などで優れた働きをした。 文久2年3月5日、肥後国(後の熊本県)に生まれる。佐伯清次郎の長男。 1878年、県立熊本医学校に入学。1882年7月、熊本医学校卒業。上京し、東京大学で外科ユリウス・スクリバ、内科エルヴィン・フォン・ベルツ、眼科梅錦之丞 の指導をうける。1884年、海軍軍医補(横須賀海軍病院)。組合教会系のクリスチャンの佐伯はこの頃、アメリカンボードの宣教医セオダー・ギューリックに出会い、教会の設立に関わることになった。