小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000… 小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000年10月1日)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。広島県出身。 1936年に熊本薬学専門学校を卒業し、同年に山之内製薬に入社した。1962年3月に取締役に就任し、1969年8月に常務、1974年8月に専務を経て、1977年3月に社長に就任。1980年3月に会長に就任し、1984年3月に相談役に就任した。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年10月1日肝不全のために死去。88歳没。
紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 20… 紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 2004年3月30日)は、日本の経済評論家。 東京出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、安田銀行入行、戦後改称して富士銀行調査部長、67年常任監査役。経済評論で活躍。のち創価大学教授、90年退職、国際経済研究センター理事長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
能 登志雄(のう としお、1912年5月 - 1988年2月… 能 登志雄(のう としお、1912年5月 - 1988年2月6日)は、日本の地理学者。専門は、集落地理学など。東北大学教授などを歴任。 長崎県長崎市生まれ。父親は、当時長崎高等商業学校教授であったが、その後転勤を重ね、登志雄は青年期を石川県金沢市で過ごすこととなった。 石川県立金沢第二中学校から第四高等学校 (旧制) 理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地理学科で人文地理学を専攻し、辻村太郎の指導を受けた。地理学科の同期生には木内信蔵、1年後輩には矢沢大二がいた。能は語学に優れ、学生時代から英語やドイツ語に通じていた。 卒業後の1935年、大学院に進学し、辻村との共訳という形でノルベルト・クレープス『人類地理学』の翻訳(1936年)を出したが、1936年に広島陸軍幼年学校教官となり、1941年には陸軍気象部付陸軍技師として予報班に勤務し、さらに1942年には南方派遣野戦気象部隊付予報技術将校として出征して南方各地を転戦した。
野口 省己(のぐち せいき、1911年(明治44年)5月31… 野口 省己(のぐち せいき、1911年(明治44年)5月31日 - 1999年(平成11年)1月)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸軍士官学校第46期生、陸軍大学第56期生。陸軍での最終階級は少佐で、戦後は陸上自衛隊に入隊。長男は外交官の野口雅昭。孫に登山家の野口健、曽孫に野口絵子がいる。 ※他、雑誌『丸』(光人社)などに多数の論文執筆。
足羽 進三郎(あすわ しんざぶろう、1911年5月31日 -… 足羽 進三郎(あすわ しんざぶろう、1911年5月31日 - 1998年2月13日)は、日本の農学者・官僚・実業家。専門は協同組合論。北海道大学名誉教授・札幌学院大学名誉教授。生活協同組合コープさっぽろ会長。北海道出身。 学部生時代は上原轍三郎に薫陶を受ける。論文主査は高倉新一郎。門下生に村岡範男・山田定市など。 勲二等瑞宝章(1988年) 足羽進三郎先生定年退官記念事業会編『足羽進三郎先生 : 最終講義, 著作目録, 履歴』(足羽進三郎先生定年退官記念事業会、1976年)
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5… 徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5月28日 - 1933年1月19日)は、昭和初期のアララギ派の歌人である。アララギ派の天才と呼ばれ将来を有望されていたが、夭折した。 1911年(明治44年)5月28日、大分県大野郡上緒方村(現・豊後大野市緒方町)に森下虎三郎の二男として生まれる。 1927年(昭和2年)、旧制竹田中学(現・大分県立竹田高等学校)在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる。1929年(昭和4年)、竹田市の教会でキリスト教の洗礼を受ける。大分新聞(現・大分合同新聞)に短歌を投稿したところ選者の土屋文明が「宝玉的天才歌人」と呼んで高く評価し、重い病気を持っていることを知って新聞に30首一挙掲載を行う。
賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28… 賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28日 - )は、日本の産婦人科医、内科医、スーパーセンテナリアン。奈良県大和郡山市在住の長寿の女性。 江戸時代から続く医者の家の生まれ。93歳で死去した産婦人科医の叔父は80歳を過ぎても診察を行っていた。 郡山高等女子学校(現・奈良県立郡山高校)卒業を経て、1934年(昭和9年)3月 、大阪女子高等医学専門学校(現:関西医科大学)卒業。1934年(昭和9年)4月からは大阪市立南市民病院(現:大阪公立大学医学部附属病院)産婦人科で勤務、1936年(昭和11年)4月からは同病院内科で勤務した。1937年(昭和12年)7月に開業を果たした。 太平洋戦争中は大阪市内の病院にも勤務し、86歳まで現役の医師として勤めた。
佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999… 佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999年7月8日)は、日本の西洋史学者、教育者。熊本学園大学名誉教授。朝鮮京城府大和町生まれ。京都帝国大学文学部史学科卒業後、京城の高等女学校で教員生活を始める。第二次世界大戦後は父の故郷である熊本県で熊本師範学校教授、熊本短期大学・熊本商科大学(いずれも現・熊本学園大学)教授、熊本商科大学付属高校の校長などを務めた。1983年、勲四等旭日小綬章受章。 1911年(明治44年)5月28日、朝鮮京城府大和町に佐々正之(まさし)・トキ夫妻の四男として生まれる。兄3人、弟1人、妹2人の7人きょうだいだった。父・正之は熊本藩士・佐々陸助(むつすけ)の四男として幕末の熊本に生まれたが、結婚後に京城に移ってジャーナリストなどを務めており、久を含む7人きょうだいは皆京城で生まれた。
川原 琢磨(かわはら たくま、1911年5月24日 - 19… 川原 琢磨(かわはら たくま、1911年5月24日 - 1980年10月2日)は、日本の土木・地球物理学者。大阪工業大学第5代学長。工学博士(大阪大学)。輻射科学研究会元監事。 専門は地球物理学・ 地球環境科学、環境水理学・土木工学、農業土木・農業気象学。 福岡県出身。京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(第3講座気象学指導教授:日本気象学会関西支部創設者の滑川忠夫)。同大学助手などを経て、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授 。1961年工学博士(大阪大学)。1972年大阪工業大学学長に就任するも、翌年、健康上の都合により同大学退官。 大阪工業大学工学部土木工学科にて、20年以上教鞭を執り、特に大学初期の地球環境科学/環境水理学と土木工学の融合の研究育成に貢献した。
栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月2… 栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月24日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の演出家、児童劇作家。女優栗原小巻の父。 福岡県出身。小倉師範卒業、満州(現、中国東北部)に渡り、大連市に居住。のちに日本大学演劇科卒。 日本大学の講師、テレビ俳優学院理事長などを務め、「泥かぶら」(真山美保作)などを演出する。『学生演劇』を創刊し、教科書用戯曲教材の執筆など、児童・青少年演劇の育成に努めた。日本児童演劇協会会長を務めた。 1981年、『飛ぶ教室』編集委員。 (1994-12-19) 1994年12月19日(83歳没)。住所は東京都杉並区永福1丁目。
一圓 一億(一円 一億、いちえん かずお、1911年〈明治4… 一圓 一億(一円 一億、いちえん かずお、1911年〈明治44年〉5月23日 - 1987年〈昭和62年〉6月3日)は、日本の法学者。専門は憲法。 高知県安芸郡安芸町(現安芸市)で、一圓太吉郎、猪久代の五男として生まれた。県立安芸中学校(現高知県立安芸中学校・高等学校)、高知高等学校を経て、1934年京都帝国大学法学部を卒業。 卒業後、民間企業に就職したが、個人的に京都帝大の教授であった田村徳治に師事し、憲法研究を行う。1943年、上海の東亜同文書院講師となる。 終戦により帰国。1946年愛知大学助教授、1953年関西学院大学法学部教授。1956年「法の解釈と適用」で関西学院大学より法学博士の学位を取得。
林 千博(はやし ちひろ、1911年 <明治43年> 5月2… 林 千博(はやし ちひろ、1911年 <明治43年> 5月23日 - 1987年 <昭和62年> 5月25日)は、日本の電気/電子物理工学者、制御工学者。工学博士(京都帝国大学)・理学博士(京都大学)。京都大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。 マサチューセッツ工科大学(MIT)・コロンビア大学客員教授。電気学会元副会長・名誉員。電子情報通信学会非線形問題研究会元専門委員長。国際非線形力学会元編集委員。元国際理論および応用力学連合(IUTAM)非線形シンポジウム組織委員。国際的な非線形振動研究のパイオニア。勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。 専門は、電気/電子物理工学、非線形振動/非線形力学・カオス理論・制御工学、電力工学・電気回路(電動機含む)。
尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日… 尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、日本の実業家。アパレル企業・レナウンの戦後創業者。 レナウンの前身は大阪で佐々木八十八(ささき やそはち)と尾上設蔵(せつぞう)によって1902年に創業されたメリヤス等の繊維卸売業「佐々木営業部」。 1911年、尾上清は同社の支配人、尾上設蔵の長男として大阪市住吉区帝塚山に生まれた。帝塚山学院小学部、住吉中学をへて慶應義塾高等部に進む。卒業と同時に東京佐々木営業部に入社。同期入社に本間良雄、鈴木達雄、尾上俊郎など後の最高幹部たちがいた。 1922年、英国皇太子エドワードが巡洋戦艦レナウンで具奉艦ダーバン(英語版)とともに訪日。
古田 紹欽(ふるた しょうきん、1911年5月22日 - 2… 古田 紹欽(ふるた しょうきん、1911年5月22日 - 2001年1月31日)は、日本の仏教学者。仏教・禅を思想面から研究した。学位は、文学博士。 岐阜県山県郡下伊自良村大森(現在の山県市大森)に生まれる。父の死後に東光寺、後に慈恩寺で生活。旧制松江高等学校を経て、東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に進学する。卒業後は鈴木大拙に師事した。 禅の思想的研究を進め、特に禅僧の問答集である語録の研究に専念した。北海道大学教授、日本大学教授を歴任し、師・大拙の没後は財団法人松ヶ岡文庫の文庫長を継ぎ、『鈴木大拙全集』ほか関連著書の刊行を行った。 他に出光美術館、日本宗教学会、日本印度学仏教学会の理事を歴任した。
松田 智雄(まつだ ともお、1911年5月22日 - 199… 松田 智雄(まつだ ともお、1911年5月22日 - 1995年11月9日)は、日本の経済史学者、東京大学名誉教授。近代ドイツ経済史を研究。 朝鮮仁川生まれ。旧制成城高校を経て、1934年に東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業し、経済学部経済学科に入学。1937年に卒業。1948年に立教大学教授、1955年6月1日から1972年3月31日まで東京大学経済学部教授。その後、ケルン日本文化会館長、図書館情報大学長。 松田は長野県軽井沢の別荘地発展に大きく貢献した人物である。市村今朝蔵夫妻が1932年に開拓した、軽井沢南原にある学者村別荘地「友達の村」に我妻栄、蝋山政道、松本重治、吾妻光俊、井上秀、黒川武雄、野村胡堂、前田多門らとともに初期から別荘を構えた。
川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 20… 川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 2001年6月29日)は、日本の洋画家。 現在の東京都文京区生まれ。祖父は明治期の日本画家である川端玉章、父も日本画家の川端茂章という美術家一家であった。1934年(昭和9年)、東京美術学校油画科卒業。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した『海辺』で選奨を受賞。1939年(昭和14年)光風会会員。1950年(昭和25年)多摩美術大学教授。1958年(昭和33年)以降、ニューヨークを拠点に活躍。抽象表現主義の作品を多く生み出す。1960年(昭和35年)に初個展。作品に「緑のなかのフォルム」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
北林 谷榮(きたばやし たにえ、1911年5月21日 - 2… 北林 谷榮(きたばやし たにえ、1911年5月21日 - 2010年4月27日)は、日本の女優・声優。 本名・安藤 令子/蓮以子(あんどう れいこ)[4][5]。長男は画家の河原朝生。
牧野 忠永(まきの ただなが、明治44年(1911年)5月2… 牧野 忠永(まきの ただなが、明治44年(1911年)5月21日 - 昭和51年(1976年)11月22日)は、明治から昭和にかけての越後長岡藩牧野家の第16代当主。貴族院議員、子爵。妻は高倉永則の娘・元子。 明治44年(1911年)、大給松平家の宗家である旧三河西尾藩主家の子爵・大給松平乗統の次男として生まれた。初名は松平義夫。先代当主・牧野忠篤の死後、親族などの協議により養子に迎えられた。なお、牧野忠篤の長男・牧野忠康は、相続人からはずされていた。 昭和10年(1935年)4月21日、養父の死去により家督を継いで、越後長岡藩牧野家の第16代当主となった。そして、爵位を襲爵し子爵となる。同年、京都帝国大学経済学部を卒業し、三井生命保険に入社。
斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5… 斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5月20日 - 1996年〈平成8年〉11月27日)は、日本の玩具研究家、新聞記者。 群馬県伊勢崎市生まれ。旧制太田中学校を経て、1935年(昭和10年)に早稲田大学文学部英文科を卒業。 1936年(昭和11年)朝日新聞社に入社。社会部に勤務する。編集出版局、応召でジャワに渡る[要出典]。1954年(昭和29年)からは『週刊朝日』副編集長を務めた。1966年(昭和41年)定年退職し、朝日新聞社客員となる。 1970年(昭和45年)より女子聖学院短期大学の講師を勤める。 1996年(平成8年)心不全により死去。 弟は芸能音楽評論家の斎藤茂(1922年 - )。
古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月2… 古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月20日 - 1964年(昭和39年)7月4日)は、栃木県大田原市生まれの箏曲演奏家・作曲家である。宮城道雄の高弟。代表作として、「富嶽三十六景」「箏八重奏曲」「地蔵浄土」「平調子」「足をはづされた客車」などがある。 古川太郎の門下生に、尺八家・作曲家として高名な船川利夫がいる。
荻原 克巳(おぎわら かつみ、1911年(明治44年)5月2… 荻原 克巳(おぎわら かつみ、1911年(明治44年)5月20日 - 2008年(平成20年)1月31日)は、日本の政治家。長野県飯山市長。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)で、荻原善蔵、こま の長男して生まれた。1928年(昭和3年)旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業1947年(昭和22年)4月、同郡柳原村長となり1期在任。1951年(昭和26年)4月、長野県議会議員となり、1955年(昭和30年)には副議長を務めた。 1958年(昭和33年)飯山市長選挙に当選し1期務めた。在任中は豪雪対策、小中学校の統廃合、スキー場観光の振興などに尽力した。その他、旭町農業協同組合長、長野県信連や共済連の各理事長、長野県植物防疫協会会長を務めた。
黒田 海之助(くろだ うみのすけ、1911年〈明治44年〉5… 黒田 海之助(くろだ うみのすけ、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1995年〈平成7年〉10月4日)は、日本の政治家。埼玉県熊谷市長。位階は従五位。 旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業。卒業後は教員を経て、住友金属工業(現・日本製鉄)に勤務した。1950年(昭和25年)、熊谷市職員となる。1957年(昭和32年)に収入役となり、1961年(昭和36年)に第一助役となった。 1962年(昭和37年)5月19日に10代目熊谷市長に就任した。 1982年(昭和57年)の市長選挙に6選を目指して立候補したが、増田敏男ら2人に敗れて落選した。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年5月18日に市長を退任した。
張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5… 張 暻根(チャン・ギョングン、朝鮮語: 장경근、1911年5月18日 - 1978年7月5日または7月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。初代ソウル地方法院(現・ソウル中央地方法院)院長、内務部・国防部次官、内務部長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 漢字表記は張璟根とも。 日本統治時代の平安北道龍川郡または京畿道富川郡または京城府(現・ソウル特別市)出身。1932年京都第三高等学校卒。1936年東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒、在学中の1935年に高等文官試験司法科合格。1936年または1937年または1938年から京城地方法院判事、1941年から京城覆審法院判事を歴任し、解放後は京城地方裁判所首席判事(1945年)、ソウル地方法院長(1948年)、弁護士、内務部次官(1949年)、国防部次官(1950年5月14日~1951年6月22日)、韓日会談首席代表(1953年)、第14代内務部長官(1957年2月4日~9月25日)、自由党政務部長・政策委員会委員長・民法起草委員長、国連総会韓国代表を務めた。
中井 春雄(なかい はるお、1911年 <明治44年> 5月… 中井 春雄(なかい はるお、1911年 <明治44年> 5月18日 - 1991年 <平成3年> 4月4日)は、日本の経営者。日本水産社長を務めた。位階は従四位。 三重県出身。1933年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、共同漁業での勤務を経て、1940年に日本水産に入社。1951年に取締役に就任し、1958年に専務を経て、1961年に副社長に就任し、1963年6月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1974年11月から1978年6月までに取締役相談役を務めた。 1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年4月4日心不全のために死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお… 北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお)、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1980年〈昭和55年〉8月4日)は、日本の俳優。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。妻は俳優の堤真佐子。文化学院文学部卒。 文化学院在学中から演劇活動を行い、1931年、同窓生の長岡輝子らとテアトル・コメディを結成。 昭和12年、劇団解散とともにPCL(東宝の前身)に入社。 復員後はフリーランスで活動し、1950年に自宅で朗読(後に演劇)集団やまびこ会を主宰。多くの演劇青年がこれに参加し、本格的な活動を志向することとなり、テアトル・エコーと命名された。1956年に劇団現代座を創立。現代座と並行して綜芸プロに所属し、二月プロなどにも所属していた。
正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 -… 正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 - 1994年4月17日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、経済企画庁長官。
丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 19… 丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。愛知県議会議員(2期)。名古屋市内の陸上自衛隊駐屯地で、統合失調症で入院から一時退院中だった男に首を刺され、翌月に亡くなった。弟は丹羽久章元衆議院議員。孫に丹羽秀樹衆議院議員がいる。 愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)出身。名古屋中学校(現・名古屋中学校・高等学校)卒業後、牧師を目指して関西学院神学部に進むも父である丹羽兵助(先代)の急逝にあう。長男として家業の土建業の丹羽建設を継いだ。 1941年4月、守山町議会議員に初当選。 1947年、愛知県議会議員選挙に東春日井郡選挙区から民主党公認で立候補し、初当選。
吉武 廣次(よしたけ ひろし、1911年 <明治44年> 5… 吉武 廣次(よしたけ ひろし、1911年 <明治44年> 5月15日 - 1997年 <平成9年> 1月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。位階は従四位。 福岡県出身。1935年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1936年に橫濱護謨製造 (のちの横浜ゴム) に入社。1965年8月に取締役に就任し、1967年8月に常務、1969年8月に専務、1971年8月に副社長を経て、1973年2月に社長に就任した。1977年12月に会長に就任し、1981年3月に取締役相談役を経て、1983年3月に相談役に就任。 1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1997年1月29日、肺炎のために死去。
権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911… 権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911年5月15日または1912年1月26日 - 1951年2月2日)は、朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。朝鮮戦争中に大邱に駐屯した米軍の銃撃により殺害された。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は木園(モグォン、목원)、カトリック教徒。 慶北大邱出身。養正高等普通学校、明治大学法学部、同校大学院卒。1931年より中国国民党の藍衣社で活動し、臨時政府と光復軍を支援した。1948年に護国軍106連隊副連隊長となり、その後は大韓独立促成国民会忠清南道支部副委員長を務めた。1950年の第2代総選挙では達城郡選挙区から当選した。 朝鮮戦争中の1951年1月26日、大邱南山派出所付近の住宅街で米軍2名が女性にセクハラしようとすると、大邱南区青年団団長のキム・ヨンドゥクと一緒に米軍を阻止しようとしたが、米軍が撃った銃によって左脇腹貫通傷を負った。
戸頃 重基(ところ しげもと、1911年5月14日 - 19… 戸頃 重基(ところ しげもと、1911年5月14日 - 1977年3月1日)は、日本の倫理学者。日蓮宗の仏教学者。 東京生まれ。1935年立正大学文学部宗教学科卒業。1939年同大学院修了。1944年東北帝国大学法文学部哲学科修了。金沢大学法文学部助教授、教授。文学博士。
谷 友幸(たに ともゆき、1911年5月13日 - 1981… 谷 友幸(たに ともゆき、1911年5月13日 - 1981年7月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 東京市本郷区生まれ。1931年第六高等学校理科乙類卒業、1939年京都帝国大学文学部独文科卒業。戦後京大教養部助教授、1957年文学部助教授、1962年「ヘルダーリーン文学の基礎的研究」(未公刊)で文学博士、1967年教授、1975年定年退官、名誉教授。大谷大学文学部教授。初期にはライナー・マリア・リルケを主として研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
花井 孝久(はない たかひさ、1911年5月13日 - 19… 花井 孝久(はない たかひさ、1911年5月13日 - 1999年1月30日)は日本の実業家。元大正海上火災保険(現三井住友海上火災保険)社長。愛知県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石井 花子(いしい はなこ、1911年5月13日 - 200… 石井 花子(いしい はなこ、1911年5月13日 - 2000年7月1日)は、20世紀の日本の女性。ソビエト連邦のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの愛人として関係を持ち、ゾルゲが刑死した後は遺骨の埋葬や墓碑の建立を手がけ、回想録を刊行した。一時期三宅姓を名乗っていた(経緯は後述)。 岡山県倉敷市に生まれる。父は醸造業を営む資産家だったが、石井の母は正妻ではなく、夫を亡くした後に子女(男女二人の子がいた)の養育を頼って庇護を受けたという事情であった(ただし、石井によると父は継子の養育にはほとんど金を出さなかったという)。高等女学校を3年で中退。これは、母の影響で父が天理教の宣教師となり、教会を建てる目的でそれまで一家(父とは別の家をあてがわれていた)の暮らしていた家屋を売却したためだった。
松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月1… 松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月12日 - 1997年〈平成9年〉10月11日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に、大腸疾患)。弘前大学名誉教授。勲二等瑞宝章、従三位。医学博士。 群馬県利根郡沼田町(現・沼田市)上久屋町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部卒業。1936年、同医学部内科教室(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。 1942年医学博士。1948年、弘前医科大学教授(1952年、弘前大学に改称)。1959年から1963年まで同大学附属病院長。1972年から1975年まで同大学医学部長。1975年、同大学退官後、都立駒込病院院長に就任、1984年より同病院名誉院長。
矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983… 矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983年3月18日)は、日本の裁判官、弁護士。財田川事件弁護人。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、経理事務講習所(東京商科大学内に設置)卒業。 経理事務講習所を卒業後、広島高等工業学校に就職。昼間は会計課職員として勤務しながら、夜は独学で法律の勉学に励み、1937年(昭和12年)高等文官試験司法科合格。1939年(昭和14年)朝鮮総督府平壌地方法院判事に任官。 1946年(昭和21年)釧路地方裁判所網走支部判事、1947年(昭和22年)松山地方裁判所西条支部判事、1953年(昭和28年)松山地方裁判所判事、1967年(昭和42年)高松地方裁判所丸亀支部長判事を務めた。
松本 栄蔵(まつもと えいぞう、1911年5月11日 - 1… 松本 栄蔵(まつもと えいぞう、1911年5月11日 - 1988年12月8日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。福岡県出身。 1935年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1939年に日鉄鉱業に入社。1961年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年11月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月には相談役に就任。 1988年12月8日肝不全のために死去。77歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 19… 嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 1989年9月21日)は、日本の経営者。白鶴酒造社長、会長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西学院大学高等商学部を卒業。1947年に白鶴酒造社長に就任し、1983年6月には会長に就任した。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年9月21日、心不全のために死去。78歳没。 妻の宏子は星島義兵衛の三女。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8… 池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8日 - 2001年(平成13年)8月13日)は、日本の実業家。兵庫県出身。大英帝国勲章KBE。 三井物産の社長・会長、日本放送協会(NHK)の会長を歴任した。 神戸二中、旧制第三高等学校を経て1936年に東京帝国大学経済学部卒業。中学から大学まで野球部に所属。 1936年に三井物産に入社し、食料部門を歩む。穀物油脂部長、1954年-1958年ニューヨーク支店次長、1961年-1963年台北支店長、1963年-1965年ロンドン支店長、1965年-1967年取締役ロンドン支店長、1967年業務部長、1968年常務取締役、1971年副社長を経て、1973年社長、1979年会長に就任し、1982年退任。
柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子と… 柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子とも)、1911年5月7日 - 2013年12月2日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を2期務めた。夫は日本共産党名誉幹部会委員の松島治重(1994年死去)。日本で最初に女性参政権が認められた、1946年総選挙で当選した日本最初の女性国会議員(39人)の一人。共産党女性国会議員第1号としても知られる。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、道庁などでタイピストをしながら日本労働組合全国協議会に参加。三菱美唄炭鉱などでストライキに関わるが、非合法活動により1929年以来数度検挙される。
本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 19… 本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身。数々の東宝特撮映画を撮った。
冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月… 冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月7日 ‐ 1944年〈昭和19年〉8月31日)は、日本の華族、歌人。また、上冷泉家23代当主。父は冷泉為紀伯爵、母は水無瀬忠輔子爵の娘恭子。 祖父、父が宮中で御歌所参候を務めた影響からか、歌学を学ぶため國學院大學文学部に進学。卒業論文では藤原俊成をテーマとした。大学卒業後は陸軍に応召。1936年(昭和11年)4月21日、京都在住華族総代として昭和天皇に拝謁する。 太平洋戦争により中国湖南省邵陽県磨石舗にて戦死したため、妹の冷泉布美子の夫冷泉為任が婿養子として跡を継ぐ。
浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7… 浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7日-1997年(平成9年)1月20日)は昭和期の芸者歌手。本名は大竹ハルイ。 1911年(明治44年)5月7日、新潟県沼垂町で生まれる。家業が傾いたため福島県会津で芸者となったが、新潟に戻り15歳の6月、芸者置屋「村上家」から「〆香」と名乗って再び芸者になる。その後、新潟村上家〆香の名でコロムビアやリーガルなどで新潟県民謡を吹き込む。映画監督の斎藤寅次郎や小津安二郎らに見出され、1933年(昭和8年)、浅草〆香の名でポリドールから「柳の新潟」「雨の大川端」でデビュー。「東海の顔役」、「流れ三味線」、「大陸夫婦囃子」、「梅雨小袖昔八丈」などを吹き込む。
立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月… 立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月6日 - 1970年〈昭和45年〉4月10日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第1王女子。立花種勝の妻。旧名は、美年子女王(みねこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、妹に東園佐和子(佐和子女王)と徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1911年(明治44年)5月6日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第1王女子として生まれた。 学生時代の学習院初等科から女子学習院(現在の学習院女子中・高等科)においては、高松宮妃喜久子と同級で仲が良かったという。
宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 20… 宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 2006年6月14日)は、日本の洋画家。広島県福山市出身。 明治44年(1911年)5月6日、広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現:福山市水呑町)に生まれる。 昭和初期、福山より同郷の彩美堂主人・土肥円修を尋ねて上京する。本郷洋画研究所、太平洋美術学校、番衆義塾に学び、安井曾太郎に師事した。新燈社展を始め、光風会展、白日会展、第一美術展、東光展、春陽展、二科展、第1回日展に入選する。 戦後は国展(国画会)及び埼玉県美術展に毎年出品し、それぞれ委員、審査員を務めた。 主に福島県の只見川に取材し、四季折々の自然に感じた生命感を、画面に形象化して制作した。
市古 貞次(いちこ ていじ、1911年5月5日 - 2004… 市古 貞次(いちこ ていじ、1911年5月5日 - 2004年3月25日)は、日本の文学者(中世日本文学)。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1954年)(学位論文「中世小説の研究」)。元日本学士院院長。1973年紫綬褒章受章、1984年文化功労者。日本文学研究者として初めて文化勲章を受章。 1911年、山梨県甲府市で生まれた。旧制巣鴨中学校(現巣鴨中学校・高等学校)、第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国文学科に進学。1934年に卒業した。 1936年、東京帝国大学文学部副手に採用された。1939年、第一高等学校講師を命じられ、1940年に同教授昇格。1950年、東京大学教養学部助教授に就いた。
堀川直義(ほりかわ なおよし、1911年〈明治44年〉5月5… 堀川直義(ほりかわ なおよし、1911年〈明治44年〉5月5日 - 2006年〈平成18年〉1月12日)は、日本のマスコミ研究者、成城大学名誉教授。 京都府出身。弟は映画監督の堀川弘通。成城高等学校卒、京都帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒、朝日新聞社入社、調査部に勤務しジャーナリズム研究を行い、1961年「新聞における取材と表言に関する科学的研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。のち成城大学教授、文芸学部長、1982年定年退任、名誉教授。1977年日本新聞学会会長。インタビューを「面接」と訳し、「面接博士」と呼ばれた。
古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1… 古谷 倉之助(ふるや くらのすけ、1911年5月4日 - 1961年)は、東京都出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手、一塁手、外野手、二塁手。 史上初の打点王を獲得し、史上初タイとなる本塁打王も獲得している。 八王子中学から八王子実業団を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。金鯱軍では主将を務めたほか、投手としては先発陣の一角を占め、打っては時には4番に座るなど、主力選手として活躍した。 1年目の1936年秋季リーグでは、山下実、藤村富美男と並んで本塁打王を獲得。さらに打点王も獲得。打率は中根之に及ばず2番目の成績だったためプロ初の3冠王とはならなかったが、見事2冠王となった。この年の秋季リーグは投手兼任だったが全試合出場を記録している。
何 初彦(が はつひこ、1911年5月4日 - 1997年7… 何 初彦(が はつひこ、1911年5月4日 - 1997年7月19日)は、日本の新聞学研究者、東京大学名誉教授[3]。東京大学新聞研究所所長、上智大学教授などを歴任した[3]。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。