猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万… 猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万延元年4月4日) - 1944年(昭和19年)1月31日)は、明治期から昭和初期における外科医。京都帝国大学医科大学名誉教授、同附属病院初代院長、日本で最初の喉頭癌手術を行った。但馬国豊岡藩出身。 1860年6月(万延元年4月)但馬豊岡藩(現:兵庫県豊岡市)の家老猪子清の長男として誕生した。藩校、稽古堂を経て1873年(明治6年)東京外国語学校に入り、翌年東京医学校に転じ、1882年(明治15年)3月東京大学医学部を卒業した。同期には青山胤通・西郷吉義・佐藤三吉・田代正等がいる。 卒業した年の5月京都府立医学校教諭になり、1887年(明治20年)には医学校校長に就任、翌年には日本で初の喉頭癌全剔出摘出手術を成功させた。
横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6… 横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6年4月16日)- 1916年(大正5年)12月5日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林村長。 日向国諸県郡小林郷細野村(鹿児島県諸県郡、宮崎県北諸県郡、西諸県郡小林郷細野村、小林村大字細野、小林町を経て現小林市細野)で、農業・横山通章、タメの長男として生まれた。赤木通園、谷山照方に師事し漢学を修めた。小林小学校、都城学校、宮崎学校で学んだ。1875年(明治8年)12月、宮崎学校師範学科(のち宮崎師範学校)を卒業し、1876年(明治9年)1月から1881年(明治14年)1月まで小林小学校訓導を務めた。また岡千仭に師事して漢学の学びを深めた。
難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月… 難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月12日) - 1920年(大正9年)12月22日)は、元電気学会会長の工学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。京都の疏水を利用した発電法の考案のほか、蓄電池の研究・開発を行った。 長男の難波幸一は九州帝国大学電気工学科卒、同大学名誉教授、次男の難波勝二は京都帝国大学法学部卒業後、横浜正金銀行を経て東洋大学名誉教授、五男の難波捷吾は国際電気通信技師、次女・春江の夫は住友原子力工業取締役・高州紀雄、三女・環の夫は京福電気鉄道専務・石川敬介(同社会長石川芳次郎長男)。
喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(… 喜多川 孝経(孝經、きたがわ たかつね、1859年5月7日(安政6年4月5日)- 1930年(昭和5年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。幼名・奈良蔵。 山城国綴喜郡田辺村沓脱(京都府綴喜郡田辺村大字田辺小字沓脱、田辺町を経て現京田辺市田辺沓脱)で、南山郷士、庄屋、農業・喜多川喜右衛門の長男として生まれる。沢辺正脩、大亦俊に師事し、皇学、漢学、詩文を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)7月、有志と南山義塾を設立し、同年10月、初代副社長となり、1883年(明治16年)4月、伊東熊夫の後継社長に就任し1884年(明治17年)3月まで在任。のち同塾の組織を改編して京都府立三山木中学校を設立する際にも尽力した。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年… 秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年4月18日) - 1934年(昭和9年)2月20日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。別号・大忍。黙照円通禅師。 1858年(安政5年)、遠江国相良(現・静岡県牧之原市)に秋野新七の三男として生まれる。静岡・長興寺で出家し、1872年(明治5年)伊藤慶道について得度。曹洞宗大学専門本校(のち駒澤大学)卒業。 1880年兄弟子の加藤玄裔に嗣法。西有穆山に師事し「正法眼蔵」を研究。總持寺、天徳寺、大洞院を経て、1892年(明治25年)曹洞宗大学林学監、1900年教頭、1902年総監となる。
玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安… 玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安政5年4月17日) - 1915年(大正4年)6月27日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。 大和国添上郡奈良町(現・奈良県奈良市)生まれ。弁護士試験に合格し、その業務に従事する。奈良市会議員、同参事会員、同議長、奈良県会議員、宅地貸借価格調査委員、大阪電気軌道(株)取締役となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において奈良1区から自由党所属で立候補するが次点で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月… 大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月11日〉- 1932年〈昭和7年〉5月22日)は、日本の看護師である。 下野の黒羽藩の国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる。明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する。年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年(明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱)と結婚し、やがて一男一女をもうけた。しかし、福之進と妾()の関係が清算されなかったことから離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと)。
渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(… 渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(安政5年4月8日) - 1939年5月24日)は、日本の司法官、政治家。貴族院議員。旧佐倉藩士。
荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政… 荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政5年4月8日)- 1911年(明治44年)5月9日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国鹿島郡大船津村(茨城県鹿島郡豊津村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の糟谷清兵衛の次男として生まれ、のち同郡中野村大字荒野(大野村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の荒野清右衛門の養子となる。農業を営んだ。 1898年(明治31年)茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月5日から1899年(明治32年)1月12日まで在任。同年4月18日、補欠選挙で互選され、1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3… 高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3月25日)- 1934年(昭和9年)5月14日)は、明治から昭和初期の日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡、のちの愛媛県越智郡近見村を経て現今治市)で、農業・高須吉一郎の四男として生れた。農業を手伝い、漢学塾で学ぶ。1878年(明治11年)大阪の難波学舎で学び、1879年(明治12年)慶應義塾に転じ政治学、経済学を修め、1882(明治15年)に帰郷。代言人(弁護士)となった。 1883年(明治16年)愛媛県会議員の越智郡選出議員の欠員により繰上当選し、以後、連続3期在任した。当初、代言人の藤野政高と親交を持ったが、藤野らが松山士族中心の党派形成を行ったことに反発し、小林信近、井上要らと改進党の組織を設け、井上とは共同法律事務所を設置するなど、終生親交を保った。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5… 伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5月29日〉- 昭和9年〈1934年〉2月19日)は、明治から昭和の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位勲一等伯爵。 安政4年(1857年)、長崎町年寄・伊東善平の三男として長崎酒屋町で誕生。早くから長崎英語伝習所でグイド・フルベッキに師事して英語を修め語学を修得。明治4年(1871年)に明治政府の工部省の試験に合格して上京、電信技師となったが退職、明治6年(1873年)に兵庫県に六等訳官として登用され、県令神田孝平から目をかけられた。明治9年(1876年)に神田が元老院議官として上京する際に、伊東も再び上京することを決意。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年5月5日)- 1935年(昭和10年)12月7日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美作国真島郡、のちの北条県真島郡木山村(岡山県真島郡下方村、真庭郡下方村、木山村、落合町木山を経て現真庭市木山)で、福井真兵衛の二男として生れた。讃岐国の中村三蕉に師事し漢学を修めた。北条県伝習所で普通学を学び、同所が岡山県師範学校と改称し、1875年(明治8年)卒業した。 訓導、岡山県3等教授として小学校で教える。1876年(明治9年)上京して私立学舎で学ぶ。1881年(明治14年)甲府日日新聞(現山梨日日新聞)記者となり、峡中新報主幹に転じた。
前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5… 前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5月26日) - 1927年(昭和2年)1月24日)は戦前日本の英学者。土佐藩出身。岐阜県立岐阜県尋常中学校大垣分校初代校長、日本中学校教頭、郁文館中学校教頭。 安政4年(1857年)5月4日土佐国高知城下(高知県高知市廿代町11番地)に土佐藩槍指南前田元幸の嫡男として生まれた。文久3年(1863年)寺子屋に学び、慶応3年(1867年)5月15日祖父及と藩主山内豊範に御目見した。 明治2年(1869年)藩校致道館に入学して漢学を学び、明治5年(1872年)7月から英学を学び、廃館後、明治6年(1873年)5月共立学舎英語学校に入学して引き続き英学を学んだ。
大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日(1857… 大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日(1857年5月22日) - 明治43年(1910年)10月1日)は、日本の詩人、作詞家、国文学者。東京高等師範学校(現・筑波大学)教授。「鉄道唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの作詞者として知られている。 1857年(安政4年)4月29日、伊予国宇和島に生まれた。父の大和田水雲は宇和島藩士であり、その影響で幼少期から書道・四書・和歌・俳句を学び、1869年(明治2年)には培寮に入学して漢学を学ぶ。同時期に穂積重樹や清家堅庭について国学や和歌を学ぶ。 1873年(明治6年)頃、翻訳書によって外国事情を知り、宇和島藩校明倫館卒業後、1876年(明治9年)広島外国語学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも、1878年(明治11年)母の死亡のため退学(持病とも言われる)。
今井 喜八(いまい きはち、1857年5月21日(安政4年4… 今井 喜八(いまい きはち、1857年5月21日(安政4年4月28日)- 1928年(昭和3年)5月11日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・藤田、幼名・長之助。 武蔵国江戸、のちの東京府東京市 浅草区馬道町1丁目(現東京都台東区雷門)で、藤田久兵衛の二男として生まれる。1874年(明治7年)8月、馬道の質商・伊勢屋、先代今井喜八の養嗣子となり、1885年(明治18年)2月、家督を相続した。 質商を営み、中央製糖(のち大日本製糖)取締役、台湾拓殖取締役、内国通運社長などを務めた。また、浅草銀行を設立して頭取に就任し、その後、豊国銀行と合同して同行取締役となった。 政界では、浅草区会議員、同区会議長、東京市会議員、同参事会員、市区改正委員、市学務委員などを務めた。
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年… 池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。族籍は大阪府平民。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる 1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。会津藩士・池上武輔の二男、あるいは四男。池上三郎の実弟。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。
影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年… 影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年4月18日) - 1913年(大正2年)10月15日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。大地主。衆議院議員(3期)。 駿河国富士郡岩本村(静岡県富士郡岩松村岩本を経て現富士市)の農家に生まれる。1872年(明治5年)沼津兵学校附属小学校を卒業し、山梨県の近藤漢学塾で漢籍を修めたのち上京・遊学し、1877年(明治10年)帰郷し、岩松村および富士郡の地主惣代となった。1880年(明治13年)富士勧業を創立して社長となり養蚕、製糸、製茶などの事業に傾倒する。1883年(明治16年)には県庁に要請し、養蚕伝習所を設け静岡県内に蚕の温度飼育法を広めた。
稲野花 倉吉(いねのはな くらきち、1857年(安政4年)5… 稲野花 倉吉(いねのはな くらきち、1857年(安政4年)5月8日(旧暦4月15日) - 1889年(明治22年)9月15日)は、尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)出身の元大相撲力士。本名は高木 倉吉(たかぎ くらきち)で、8代・田子ノ浦の養子だった際は大坪 倉吉(おおつぼ くらきち)。 1857年(安政4年)5月8日(旧暦4月15日)に尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)で生まれる。1876年1月場所で二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1880年1月場所で新十両に昇進、1881年1月場所では西十両9枚目の地位で8勝1敗1分の優勝相当成績を挙げた。1883年1月場所で新入幕を果たすと、同年5月場所で6勝3敗1休の優勝次点の好成績を挙げるが、これが生涯唯一の勝ち越しとなってしまった。
関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月1… 関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月15日) - 1939年(昭和14年)2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員、青森県八戸町長。 八戸藩士・関彦市の息子として八戸城下で生まれる。1875年(明治8年)に蛇口胤親によって開設された八戸で初の英学校「開文舎」で学ぶ。翌年に陸奥国八戸光学会でギリシア正教の洗礼を受ける。1881年(明治14年)に明治天皇が八戸に巡幸した際には漢詩の祝詞を贈ったこともある。 1888年(明治21年)に青森県会議員に初当選、翌年に奈須川光宝らと自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で青森県郡部から選出され、衆議院議員に1期在任した。
寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月… 寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月13日)- 1942年(昭和17年)12月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。 衆議院議員、小樽貨物火災保険株式会社社長、富国火災海上保険株式会社社長などを歴任した。 下総国相馬郡井野村(現・茨城県取手市)で、農業・寺田伊兵衛の二男として生まれる。 1877年、千葉県師範学校を卒業。千葉県行徳小学校長、山形県鐘秀学校長、京都府属兼京都府高等女学校教諭を歴任。1890年、釧路小学校長に転じた。 1892年、榎本武揚、北垣国道が所有する小樽の十万余坪を宅地として開発する際、その経営を行う北辰社の主幹に就任。その後、小樽商業会議所特別議員、北海道水力電気取締役、旭川市街軌道社長、小樽運輸社長、小樽漁港社長などを務めた。
内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安… 内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安政4年4月11日〉- 1935年〈昭和10年〉12月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。孫は映画美術監督の内藤昭。 出羽国最上郡新庄城下三本橋(山形県最上郡新庄町沼田三本橋を経て現新庄市沼田町)で新庄藩士内藤秀升の三男として生れ、1879年(明治12年)5月に家督を相続した。 1875年(明治8年)兵学寮(陸軍士官学校前身)に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任官。西南戦争に歩兵第9連隊小隊長として出征。日清戦争では第3師団高級副官として従軍。 1902年(明治35年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第38連隊長に就任。
11代 橋本 平左衛門(はしもと へいざえもん、1856年5… 11代 橋本 平左衛門(はしもと へいざえもん、1856年5月27日(安政3年4月24日)- 1920年(大正9年)10月18日)は、明治から大正前期の酒造家、政治家。衆議院議員、秋田県河辺郡和田村長。旧姓・後藤。幼名・庄五郎。 出羽国雄勝郡湯沢町(秋田県雄勝郡湯沢町を経て現湯沢市)で、素封家・後藤伊八の三男として生まれた。和漢学を修めた。1876年(明治9年)1月、河辺郡和田村坂本(和田町、河辺町を経て現秋田市河辺和田)の酒造家・10代橋本平左衛門の婿養子となる。1879年(明治12年)2月、養父の死去に伴い家督を相続し11代平左衛門を襲名した。酒造業を営むが、明治末頃、火災で設備が全焼したため廃業した。
君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月… 君塚 省三(きみづか / きみつか せいぞう、1856年5月26日(安政3年4月23日)- 1906年(明治39年)5月20日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡総野村長。幼名・道太郎。 上総国夷隅郡芳賀村(千葉県夷隅郡芳賀村、総野村芳賀、勝浦町を経て現勝浦市芳賀)で、農業・君塚勘解由左衛門芳高(のち傳に改名)の長男として生まれた。1874年(明治7年)自ら省三に改名。大喜多の私塾・大泉堂で学び、その後、大多喜藩校・明善校で漢学を修めた。 1875年(明治8年)第6大区第1小区副戸長に就任した。1879年(明治12年)以文会の結成に参画し、1881年(明治14年)自由党が結党されるとこれに加わった。
大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政… 大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政3年4月21日)- 1930年(昭和5年)2月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡、のちの長崎県下県郡厳原町(現対馬市厳原町)で生まれる。1875年(明治8年)朝鮮慶尚道釜山に永住目的で渡航した。 旅館業から始めて、回漕業、用達業、不動産業と事業を拡大して財産を築いた。釜山電燈社長、釜山軌道取締役、釜山商業会議所会頭、釜山水産社長、釜山海産物組合長、釜山産業取締役、釜山繁栄会会長、亀浦銀行取締役などを務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し、早川鉄冶、浦瀬済之の有力候補と激しい選挙戦を戦い、浦瀬と2票差で当選した。
瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年… 瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年5月20日〉- 1920年(大正9年)12月21日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。瀬川小児病院初代院長。
四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3… 四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3年4月16日) - 1903年(明治36年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。 下総国印旛郡新橋村(のち千葉県印旛郡富里村→富里町→富里市)出身。鹿山中学校(現・千葉県立佐倉高等学校)で学び、後に漢籍を学ぶ。農業を営み、学務委員、七栄村(現・富里市)外十二ヶ村戸長、印旛郡徴兵参事員、千葉県会議員となる。また、房総馬車会社を経営した。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において千葉2区から立憲改進党公認で立候補して初当選する。以来1898年8月の第6回衆議院議員総選挙まで連続4回当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13… 秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13日 - 1915年(大正4年)5月29日)は出羽国田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の政治家、衆議院議員(2期)、済急社監査役、庄内煙草社長である。 1856年(安政3年)5月13日、庄内藩士・伴弥平の3男として生まれる。その後、庄内藩校致道館で学ぶ。 1872年(明治5年)、松ヶ岡開墾に参加。1880年(明治13年)、済急社(現・荘内銀行)の設立に関わる。 1889年(明治22年)、鶴岡町会議員就任。西田川郡会議員、山形県会議員に就任。1894年(明治27年)9月1日、第4回衆議院議員総選挙(旧山形3区・立憲革新党公認・2119票獲得)初当選。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。
高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5… 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。号は立雲。
大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4… 大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4月11日(1855年5月26日)- 1935年(昭和10年)7月12日)は、日本の政治家。衆議院議員・農商務大臣などを務めた。土佐国(高知県)出身。 土佐国長岡郡池村東孕(高知県長岡郡三里村を経て現高知市大石谷)で、高知藩士・大石良則の二男として生まれる。戊辰戦争では迅衝隊鼓手として従軍し会津戦争に参戦した。 1874年(明治7年)に板垣退助の立志社に参加し、自由民権運動に従事。1881年(明治14年)自由党幹事。三菱商業学校(明治義塾)卒業。1882年(明治15年)板垣の洋行に反対して離党。1887年(明治20年)には後藤象二郎の大同団結運動に参加。
阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月… 阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月11日)- 1919年(大正8年)8月29日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)で、農業・大地主の家に生まれた。 1887年(明治20年)4月、村会議員に選出された。以後、岩手県会議員、稗貫郡会議員、同参事会員なども務めた。1901年(明治34年)10月、日本赤十字社特別社員となる。 1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙で岩手県郡部区から帝国党所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙(中央倶楽部所属)では落選したが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙で立憲同志会から出馬して再選され、その後憲政会に所属して衆議院議員に通算2期在任した。
福岡 精一(ふくおか せいいち、安政2年4月8日(1855年… 福岡 精一(ふくおか せいいち、安政2年4月8日(1855年5月23日) - 昭和17年(1942年)4月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 三河国加茂郡殿貝津村(現在の愛知県豊田市)に福岡新蔵の二男として生まれる。幼時は僧籍にあり、大沼枕山のもとで漢学を学び、旃檀林で原坦山について哲学を学んだ。その後僧職を捨て、法学を学んで弁護士となり、岡崎町に事務所を開いた。 1881年(明治14年)に自由党が結成されるとこれに加入し、以後自由党系政党の支部幹事を務め、愛知県会議員にも選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回まで4回連続当選を果たした。
有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4… 有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4月8日)- 1931年(昭和6年)8月29日)は、明治から大正期の養蚕家・政治家。衆議院議員。 大隅国桑原郡粟野郷木場村(鹿児島県粟野郷木場村、栗野村、姶良郡粟野村、栗野町を経て現湧水町)で、蚕業を営む有村家に生まれた。漢学を修めた。薩摩藩兵小頭を務めた。私学校で学び西郷隆盛の薫陶を受け、西南戦争に従軍。 1885年(明治18年)粟野郷戸長に就任。鹿児島県会議員に選出され3期在任。その他、鹿児島県郷教教授、学務委員、鹿児島授産学校長などを務めた。 河島醇の辞職に伴い、1897年(明治30年)7月に実施された第4回衆議院議員総選挙鹿児島県第5区補欠選挙で初当選し、その後、第6回総選挙まで再選され、最後は立憲政友会に所属し、衆議院議員に連続3期在任した。
櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月… 櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月4日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。 1855年(安政2年)東京日本橋で生まれる。1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年(明治9年)日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する。1879年(明治12年)同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年… 永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年3月27日) - 1924年(大正13年)5月21日)は、カナダに移住したことが記録されている最初の日本人。 1855年(安政2年)、肥前国高来郡口之津村(現・長崎県南島原市)に生まれる。少年時には石炭運搬船で働いていたとも、大工の見習いをしていたともいう。のちにイギリス船に乗り組むようになった。 1877年(明治10年)5月、ブリティッシュコロンビア州ニューウェストミンスターで船を降り、カナダに入国。フレーザー川で鮭漁の漁師として働き、のちにはバンクーバーで木材を船に積み込む仕事をはじめた。1884年に日本へ一旦帰国したのち、アメリカ合衆国シアトルに渡ってタバコ屋と食堂を始めた。
墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21… 墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21日) - 1938年(昭和13年)5月14日)は、尾張国葉栗郡玉ノ井村(現・愛知県一宮市)出身の実業家。 幼少期は実兄とともに家業である艶屋(織物の艶出し業)を手伝う。1888年(明治21年)分家し、その翌年起、1891年(明治24年)には小信に居を移し、次第に業務を拡大した。 1911年(明治44年)に、墨合名会社を設立。 1924年(大正13年)、艶金興業を設立。 出生地である一宮市木曽川町玉ノ井にある念敬寺には、1963年(昭和38年)に銅像「墨宇吉像」が建立されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2… 栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 志摩国鳥羽藩士中村武市の三男として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる。藩校で漢学を修める。明治の初めに上京し同人社で学んだ。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選。
伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5… 伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5月 - 1923年(大正12年))は、日本の教育者。 水戸藩出身。1878年(明治11年)、東京大学理学部化学科に入った。卒業後、和歌山県御用掛・学務課出仕、和歌山中学校教諭・和歌山師範学校教諭を経て、1882年(明治15年)に三重県津中学校校長・三重県師範学校校長に就任した。1885年(明治18年)、東京職工学校御用掛・教諭となり、特許局を兼ねた。その後、東京工業学校教授を経て、1896年(明治29年)から大阪工業学校(のち大阪高等工業学校)校長を務めた。
日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永… 日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)- 1895年(明治28年)8月4日)は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 備前国和気郡奥吉原村(岡山県和気郡熊山村、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた。閑谷校で学び漢学を修めた。農業を営む。 1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され、3期12年間在任し、この間、常置委員を2期務めた。 1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力。
諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7… 諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7年4月20日〉 - 1912年〈明治45年〉1月24日)は、明治時代の華族(男爵)、長崎県の大地主、長崎県多額納税者。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。勲等は勲四等。 肥前国高来郡諫早に生まれる。1871年(明治4年)にドイツに留学し、1880年(明治13年)より外務省、太政官、参事院等に勤務する。 1893年(明治26年)10月10日に貴族院多額納税者議員として、選出された。1898年(明治31年)8月4日、貴族院議員を辞任した。この時は、会派には所属せず、無所属だった。 1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。
関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年… 関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年4月15日〉 - 1909年〈明治42年〉3月2日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。初名は満作。 土佐国長岡郡大埇村(現・南国市大そね)の素封家・関田伊三郎(関田猪三郎)の長男として生まれる。生家は代々農業を営む大地主で、上田100町歩を有した。戊辰戦争の際には少年鼓手として従軍。1870年(明治3年)城下の朝倉町(現・高知市南はりまや町)に移り、酒造業を始め、1876年(明治9年)陶冶学校に学んだ。以後小学校訓導、長岡郡書記、所得税調査委員を経て高知県会議員に当選した。 自由民権運動家として物部川堤防事件、三大事件建白運動、選挙干渉事件などで活躍した。
大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月1… 大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月10日) - 1916年(大正5年)6月25日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村→出島村→霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ。法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する。東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選。