目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4… 目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日)- 1899年(明治32年)12月31日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した。 戸長を務める。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門、岡田龍松らと共に加わった。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任。
井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(18… 井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(1854年5月6日) - 昭和9年(1934年)3月9日)は、明治時代から大正時代の官吏。徳島県阿波市出身。 嘉永7年4月10日(1854年5月6日)、阿波国阿波郡大俣村(現在の徳島県阿波市)で生まれる。徳島県庁に入り、海部郡長・麻植郡長・美馬郡長を歴任。1902年(明治35年)より名西郡長を務め、吉野川から水をひく麻名用水、板名用水の建設・整備に力を注いだ。 1934年(昭和9年)3月9日、79歳で亡くなる。没後、名西郡石井町の麻名用水土地改良区に銅像が建つ。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
柴田 孟甫(しばた もうほ、安政元年4月5日〈1854年5月… 柴田 孟甫(しばた もうほ、安政元年4月5日〈1854年5月1日〉 - 昭和元年〈1926年12月30日〉)は、静岡県出身で1889年に東京で公証人に任命された最初期の公証人のひとりであり、大正4年(1915年)に懲戒免職となった。女優の三浦環は長女。 安政元年(1854年)、遠江国城東郡朝比奈村(現在の静岡県御前崎市)に、父・秀吉の長男として生まれる。幼少期より聡明で、早くから和漢の学問に通じ「神童」と評された。14歳の時には、浜松県知事による計算能力者の選抜において第一位に選ばれるなど、若くしてその才を示した。 20歳で戸長に就任し、村の行政事務を担い、その真摯な仕事ぶりで信頼を得た。その後、榛原郡の書記を務めた。
山田 薫(やまだ かおる、1853年5月24日(嘉永6年4月… 山田 薫(やまだ かおる、1853年5月24日(嘉永6年4月17日) - 1925年(大正14年)8月17日)は、日本の薬学者。正四位勲三等。薬学博士。宮内省侍医療薬剤師長。日本薬学会名誉会員。薬剤師試験委員。族籍は福井県士族。 福井県士族・山田小十郎の二男。1879年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市牛込区払方町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4… 江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日〉- 1932年〈昭和7年〉8月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部・内務官僚、政治家。号は狂塢。 文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城・栃木・愛知・広島各県知事、貴族院議員、文部大臣、皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。 周防国岩国藩出身。岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)。1870年(明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び、翌年より開拓使仮学校、大学南校、工部省工学寮などに学ぶ。1874年(明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官、参事官、普通学務局長を歴任。
鳥取 治郎八(とっとり じろはち、1853年5月15日〈嘉永… 鳥取 治郎八(とっとり じろはち、1853年5月15日〈嘉永6年4月8日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の実業家、資産家、篤農家、大地主、香川県多額納税者。合資会社信正社有限責任社員。讃岐農工銀行監査役。族籍は香川県平民。憲仁親王妃久子は曽孫。承子女王、千家典子、守谷絢子は玄孫。 讃岐国三野郡笠岡村(現・香川県三豊市)出身。鳥取為三郎の長男。1886年、家督を相続した。農業を営んだ。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。金持ちであるが驕らず勤倹力行を旨とし家業の発展を図った。公共慈善の事に接すると私財を投じて惜しむ所はなかった。住所は香川県三豊郡笠田村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
斎藤 勘七(さいとう かんしち、1853年5月11日(嘉永6… 斎藤 勘七(さいとう かんしち、1853年5月11日(嘉永6年4月4日) - 1936年(昭和11年)2月18日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(3期)。名・忠篤、号・桂斎。屋号は勘左衛門。 出羽久保田藩領仙北郡花館村(秋田県仙北郡花館村、大曲市を経て現大仙市)出身。生家は農業と清酒醸造業を営んだ。角間川青松館、二階堂鴻之進に師事し漢学を修めた。自由民権の発揚を訴え、秋田県会議員に挙げられたが、1881年(明治14年)病のため辞す。ほか、花館村長、仙北郡会議員を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では秋田県第4区から出馬し当選。つづく第2回および第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた。
遠藤 慎司(えんどう しんじ、嘉永6年3月30日(1853年… 遠藤 慎司(えんどう しんじ、嘉永6年3月30日(1853年5月7日) - 昭和7年(1932年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計監(少将相当官)。和歌山市長。 紀州藩士・遠藤圭介(泰貫)の長男として和歌山城下の藩邸で生まれ、藩主に従って江戸に遊学した。1877年(明治10年)より陸軍省に出仕し、会計局に勤務した。1881年(明治14年)よりドイツに留学し、会計学を学んだ。帰国後の1885年(明治18年)に陸軍大学校教官を兼務し、お雇い外国人クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの通訳を務めた。1890年(明治23年)に陸軍経理学校が設立されると教官に任命された。日清戦争が発生すると第二軍経理顧問として従軍し、さらに台湾総督府中央会計部長心得、台湾兵站監督部長を歴任した。
浅野 一摩(あさの かずま、1852年5月26日〈嘉永5年4… 浅野 一摩(あさの かずま、1852年5月26日〈嘉永5年4月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月30日)は、日本の剣道家。流派は津田一伝流。称号は大日本武徳会剣道範士。 一伝流浅野庄太夫重賢の二男として、現在の福岡県久留米市荘島町に生まれる。重賢が若くして病没後、一門とともに津田一左衛門正之に合流、津田一伝流の極意印可巻を授かる。 1883年(明治16年)、福岡県警察本部教習所の剣道教授となる。 1894年(明治27年)、日清戦争中の広島大本営で開かれた天覧試合に出場する。 1896年(明治29年)、第2回武徳祭大演武会に出場。高野佐三郎に敗れる。 1897年(明治30年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。
宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年… 宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年4月3日)- 1930年(昭和5年)9月9日)は、明治から昭和初期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議長、群馬県碓氷郡初代原市町長。 上野国碓氷郡郷原村(群馬県碓氷郡原市町、安中町を経て現安中市郷原)で、薬屋絹商人・孫平、みい の二男として生まれた。兄・裕平が上京したため家督を相続した。安中藩藩校造士館教授佐々木愚山に師事し漢学を修めた。 1873年(明治6年)原市村吏員に就任し、第21大区副区長、碓氷郡書記を歴任。1879年(明治12年)第1回群馬県会議員選挙で当選し、通算6期在任し、同常置委員、同副議長を務め、1891年(明治24年)第4代議長に就任。
松野 勇雄(まつの いさお、1852年5月17日(嘉永5年3… 松野 勇雄(まつの いさお、1852年5月17日(嘉永5年3月29日) - 1893年(明治26年)8月6日)は、皇典講究所、國學院設立に尽力した国文学者。幼名・秀吉、通称・栄、または盛枝、達志、尚志、のち勇雄に定めた。号は東海。 1852年、備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)生まれ。父は広島藩三原城主浅野家の家臣で郡奉行に所属、平田篤胤没後の門人であった。勇雄は幼少より国学、漢学を修めまた剣、弓、銃、砲の技を学んだ。1864年浅野家の大砲方を拝命、1866年、藩校の授読を命じられその後、矢野郷校、三原郷校(藩校修道館分校)、竹原皇学校、三津皇学校の教授となった。 維新後の1872年に大阪に出る。
沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年… 沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年5月10日) - 明治20年(1887年)3月27日)は、日本のキリスト教牧師、教育者。「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。 周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。父は長州藩士沢山源之丞。父源之丞は吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士であった。同郷に先輩に内務大臣の内海忠勝(豪助)がいる。 1858年に憲章館に入学し、四書五経の漢学、書道、武術、礼式などを学ぶ。同輩が服部一三で、6年後輩が成瀬仁蔵である。1867年(慶応3年)まで憲章館で学ぶ。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月1… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月14日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、幕末の会津藩士。明治、大正期の警察官、開拓者である。西南戦争では抜刀隊としても戦い、戦後はせたな町の一部となっている丹羽村を開村した。警察官時代は田村五郎と名乗る。 会津藩重臣丹羽家(1000石)の分家に生まれる。曽祖父の丹羽能教は家老であった。父の丹羽族は100石取りの藩士で、戊辰戦争において越後口八十里越方面の兵糧総督として自刃した。丹羽は本家に男子がいなかったため養子として跡を継ぐ。戊辰戦争時は会津藩主・松平喜徳の側近くで仕えたが、この戦いで一族40名以上を失い、従兄弟の永瀬勇次、有賀織之助は白虎隊士として自刃した。
金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永… 金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永4年5月1日) - 1909年(明治42年)2月18日)は、明治時代の新聞・雑誌記者で、主に日出新聞(現:京都新聞)の新聞記者、小説家として活躍した。また、美術品鑑定家でもあった。明治20年代からこの名前を名乗る。本名は錦二(きんじ)。 竹居明男『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都』による。 (同書に木下知威「金子静枝に向かって」が収録されている)
石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永… 石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永4年4月27日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、日本の政治家・貴族院多額納税者議員、実業家。武相貯蓄銀行頭取。江之島電氣鐵道監査役。族籍は神奈川県平民。 相模国大住郡石田村(中郡成瀬村、伊勢原町を経て現伊勢原市石田)に生まれる。石井作右衛門の長男。農業を営む。1878年(明治11年)、家督を相続。 1881年(明治14年)7月、補欠選挙で神奈川県会議員に当選し、その後、1888年(明治21年)1月まで4期在任した。1884年(明治17年)7月、戸長、1890年(明治23年)10月、2代成瀬村長を歴任。成瀬村長を1894年(明治27年)10月まで務め、同年から1897年(明治30年)まで成瀬村会議員に在任した。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4… 沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、兵庫県の大地主。志方銀行頭取。国包銀行取締役。広尾金融社長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県人・沼田惣左衛門の長男。1870年、家督を相続する。住所は兵庫県印南郡東志方村(現・加古川市志方町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえ… 12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえもん、嘉永4年4月6日〈1851年5月6日〉 - 1917年〈大正6年〉10月1日)は、明治時代の政治家、明治・大正時代の実業家である。長野県下高井郡平野村(現・中野市)の地主で、長野県会議員・貴族院多額納税者議員・衆議院議員を歴任するとともに銀行・会社経営にも関わった。晩年は山田 荘哉(やまだ しょうさい)を名乗った。 山田荘左衛門は、嘉永4年4月6日(新暦:1851年5月6日)、山田董平の長男として生まれた。初名は熊太郎。1881年(明治14年)に先代荘左衛門の養子となり、1885年(明治18年)12月に家を継いで荘左衛門を襲名した。
村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851… 村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851年5月1日) - 昭和4年(1929年)10月31日)は、日本の明治・大正期に活躍した日本の教育者・仏教史学者。東洋高等女学校創立者、東京帝国大学印度哲学科初代教授・同名誉教授、大谷大学学長。 明治・大正期の教育界において主として高等教育の充実に尽力。特に、仏教思想・仏教史を近代的学問体系からの批判に耐え得る形で研究するとともに、その成果を自ら整備に関与した公私の諸教育機関において公開した。 1851年(嘉永4年)、丹波国の真宗大谷派教覚寺に生まれた。本姓は広崎。幼時より父について浄土三部経を習い、漢学の才にすぐれるが、生家の寺が貧しかったため近郊の行雲寺(岡村波洲)に預けられた。
佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)… 佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・河野。 日向国諸県郡志布志郷帖村(現・志布志市志布志町帖)で河野家に生まれた。 西南戦争に中隊長として従軍。戦後に刑を受けた。佐藤家に入籍し、農業を営む。内之倉村戸長、蓬原村戸長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区)で当選し、その後、第6回総選挙でも再選され、最後は立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。 その後、郷里の子弟の教育、産業振興に尽力した。1914年11月、郷里で病のため死去した。
桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)… 桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)- 1925年(大正14年)7月6日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県徳島市佐古出身。 1851年(嘉永4年)、阿波国・佐古台所町(現在の徳島市佐古)に生まれた。 1876年(明治9年)、第一大区(後の名東郡)二等副戸長に就任。1878年(明治11年)に佐古村戸長兼学区取締に就任。1889年(明治22年)、徳島市収入役に就任。1890年(明治23年)、同市助役となる。1902年(明治35年)に徳島市長に就任し1906年(明治39年)まで務めた。 1925年(大正14年)7月6日、没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永… 初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永3年4月15日) - 1907年(明治40年)9月30日)は大阪の両替商。野村徳七 (二代)、野村元五郎の父。 1850年(嘉永3年)4月15日、河内国渋川郡久宝寺村(現在の大阪府八尾市久宝寺)に生まれる。幼名は徳松。11歳から大阪屋弥兵衛の大弥両替店に丁稚奉公する。1871年(明治4年)2月、大阪屋弥兵衛の養子となるが、8月に主人の弥兵衛が他界し、さらに翌1872年(明治5年)8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。明治維新後の1869年(明治2年)には、東京、大阪に為替会社が設立され、1872年(明治5年)の「国立銀行条例」によって国立銀行が設立され、幣制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下した。
瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体… 瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体: 瀨戶岡 爲一郞、1850年5月19日(嘉永3年4月8日)- 1934年(昭和9年)2月10日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡瀬戸岡村(のち神奈川県西多摩郡瀬戸岡村、東京府移管を経て、現:東京都あきる野市瀬戸岡)で名主・瀬戸岡為助の長男として生まれる。 1881年、自由党の結成に加わり、石坂昌孝、村野常右衛門、内山安兵衛、瀬沼伊兵衛らと自由民権運動を推進した。神奈川県会議員に選出され、1890年7月の第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第三区から立憲自由党所属で出馬して当選。以後、第2回総選挙でも再選され、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を連続二期務めた。
木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 -… 木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 - 1908年(明治41年)3月2日。)は、明治時代の日本の教育者である。子訥、斉治と名乗り、北村と号した。小学校教員のかたわら仙台師範学校校長をつとめるなど、宮城県で初等教育の確立・充実に尽力した。 仙台藩士・木村景直の長男として、嘉永3年(1850年)5月18日に、木村家の領地である陸奥国桃生郡北村で生まれた。現在の宮城県石巻市北村である。弟が二人いて、木村剛は海軍の軍人、木村匡は台湾総督府の役人になった。妻にたびたび先立たれて4度結婚し、最初の妻との間に力という息子を儲けた。 慶応4年(1868年)、19歳のとき戊辰戦争に従軍し、白河口で戦った。
佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月… 佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月17日(嘉永3年4月6日)- 1909年(明治42年)10月27日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・市助。号・栗園(りつえん)。 出羽国置賜郡成田村(山形県西置賜郡成田村、長井村を経て現長井市成田)で、先代・佐々木宇右衛門の息子として生まれた。 佐々木太右衛門、佐々木忠右衛門と協力して桑畑10町歩を設けた。1873年(明治6年)製糸工場を開設し、製糸業の発展に尽力した。また、明治初期に森鉱山を開いてその経営に当たった。 政界では、1879年(明治12年)1月に山形県会議員に選出され、1880年(明治13年)1月、病のため辞職した。
間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(18… 間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(1850年5月6日) - 明治28年(1895年)3月2日)は、駿河国沼津出身の教育者。沼津尋常小学校(現・沼津市立第一小学校)校長。 間宮家は駿河国沼津宿の下本町で本陣を営んでいた家である。嘉永3年3月25日(1850年5月6日)、間宮喜十郎は間宮家の長男として生まれた。生まれ諱は格、通称は喜十郎、後の呼び名は烟雨。父親は間宮喜右衛門。幼少時より聡明だった間宮は、西間門村の實相院の院主である西尾麟角から書法を学び、水野藩士の五十川中に経書を学んだ。 元治元年(1864年)5月には14歳(数え年15)で江戸に出て、林大学頭の門で漢学を学んだ。
井上 武子(いのうえ たけこ、1850年5月4日〈嘉永3年3… 井上 武子(いのうえ たけこ、1850年5月4日〈嘉永3年3月23日〉 - 1920年〈大正9年〉3月21日)は、日本の女性。井上馨の妻。夫と共に「鹿鳴館外交」を担い「鹿鳴館の華」とも言われた。旧姓は岩松、新田。 生年は嘉永5年(1852年)とも。父は上野国下田島(現・群馬県太田市下田島町)領主の岩松(新田)俊純。母は旗本の関盛泰の娘の千代子。武子は幼少期を下田島で送ったが、明治元年(1868年)の10月に東京へ上っている。 明治2年(1869年)、当時大蔵少輔であった井上馨と結婚した。 1876年(明治9年)に井上と共にアラスカ号で渡航し、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスにそれぞれ滞在する。
金沢 松右衛門(金澤、かなざわ まつえもん、1850年5月3… 金沢 松右衛門(金澤、かなざわ まつえもん、1850年5月3日(嘉永3年3月22日)- 1924年(大正13年)9月18日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・平治。 先代金沢松右衛門の二男として出羽国秋田郡土崎湊(秋田県南秋田郡土崎港町を経て現・秋田市)に生まれる。兄は夭折し、二男である松右衛門が家督を継いだ。1883年(明治16年)以降、南秋田郡学務委員、同郡肴町および連合町会議員、南秋田・河辺両郡連合町村会議員、南秋田郡会議員などを歴任する。 のち、秋田県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1892年(明治25年)6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年… 安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年〉 - 1921年〈大正10年〉1月26日)は、明治期の司法官僚、大審院判事。 美濃国中島郡駒塚村(現・岐阜県羽島市)生まれ。1867年(慶応3年)江戸に出て安井息軒に漢学を学び、1874年(明治7年)慶應義塾法律科一期生として卒業する。卒業後司法省八等出仕となり長崎上等裁判所の裁判官となり大審院検事となる。1886年(明治19年)大審院法律諮問会員、1890年(明治23年)青森地方裁判所検事正、1892年(明治25年)福島裁判所検事正等、各地方に歴任し、のちに退官し京都に移る。
阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5… 阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5月19日) - 大正13年(1924年)10月22日)は、幕末 - 明治期の武士、実業家、官僚。日本初の生命保険会社明治生命保険(現明治安田生命保険)の創立者(初代頭取、初代会長)として知られる。従五位勲四等旭日小綬章。 三河国吉田藩(維新後豊橋藩)の藩医豊田鉉剛の三男として八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)に生まれ、1860年(万延元年)同藩の医師・阿部三圭の養子となる。儒学者を目指し漢詩を小野湖山に、橋本一斎に蘭学を学んだ後藩命を受けて江戸に上り、開成所教授・杉田玄瑞、穂積清軒、中島三郎助に蘭学を学んだ。1868年(慶応4年)に鉄砲洲の慶應義塾に入学するが、戊辰戦争に際して藩命により帰藩し、各地に転戦。
金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5… 金光萩雄(こんこう はぎお、嘉永2年4月25日(1849年5月17日) - 大正8年(1919年)12月17日)は、金光教の初代管長。 嘉永2年(1849年)4月25日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の4男。幼名は、茂平(もへい)、後に石之丞(いしのじょう)と改められる。 慶応2年(1866年)10月11日、浅尾藩有志組に志願して名字帯刀を許され、明治元年(1868年)11月1日金光山神(こんこうさんじん)の神号を授けられた。 明治8年(1875年)古川参作の長女ゆきと結婚、三男二女をもうけた。 父、金光大神の布教を助けるため、教導職の資格を取り佐藤範雄らと共に金光教公認活動の中心となった。
小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年… 小倉 信近(おぐら のぶちか、1849年5月14日(嘉永2年4月22日)- 1926年(大正15年)10月1日)は、明治期の政治家、官僚。衆議院議員、官選県知事。 出羽国南置賜郡米沢上花沢中町において米沢藩士の家に生まれる。明治5年(1872年)、海軍少尉となる。1876年、愛知県三等警部に転じた。以後、石川県警部長、徳島県警部長、青森県警部長、検事、警視庁警視、警視総監官房第一部長などを歴任。 1896年4月、福島県知事に就任。同年12月に同知事を退任。1897年6月14日、台湾嘉義県知事に就任し、1898年3月15日まで在任した。 1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に山形県第二区から憲政党に所属して出馬し当選。
濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月… 濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月20日〉- 1925年〈大正14年〉9月25日)は、日本の文部官僚、政治家。旧豊岡藩士。位階勲等爵位は従一位勲一等子爵。 文部省専門学務局長、元老院議官、第8代東京帝国大学総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任した。 嘉永2年4月20日(グレゴリオ暦1849年5月12日)、但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に生まれる。初名は貞次郎。 1869年(明治2年)9月に藩費遊学制度により、21歳で芝新銭座慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学する。同窓に、中上川彦次郎、村尾真一、吉村寅太郎、矢野文雄、藤野善蔵、魔野巻蔵、秋山恒太郎、名児耶六都、小林雄七郎、城泉太郎、森下岩楠、坪井仙次郎、後藤牧太、鮫島武之助、日高壮之丞、近藤良薫、田尻稲次郎、穂積寅九郎、永田健助、中村貞吉など)慶應義塾に在学中、慶應義塾の派遣教員となって一時高島学校(藍謝堂)に赴任する。
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1… 安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(福岡藩士)、戦前の政治家、実業家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松。
神野 金之助(かみの きんのすけ、1849年5月7日(嘉永2… 神野 金之助(かみの きんのすけ、1849年5月7日(嘉永2年4月15日) - 1922年(大正11年)2月20日)は、尾張国海西郡江西村(現・愛知県愛西市江西町)出身の実業家。 愛知県豊橋市の神野新田(じんのしんでん)を開拓した功績で知られる。神野家はもともと「じんの」と発音していたが、大正初期頃に「かみの」に改めた。 嘉永2年(1849年)、尾張国海西郡江西村(現・愛知県愛西市江西町)に豪農の神野金平とマツ子の五男として生まれた。元治元年(1864年)に神野家の家督を相続し、苗字帯刀が許された。 1873年(明治6年)、江西村ほか九か村戸長に就任した。1876年(明治9年)、名古屋において兄である富田重助の紅葉屋の経営に参加した。
広瀬 和育 (ひろせ わいく、嘉永2年4月14日(1849年… 広瀬 和育 (ひろせ わいく、嘉永2年4月14日(1849年5月6日) - 大正14年(1925年)4月29日)は、山梨県の名望家。貴族院議員、第十銀行頭取。号は梧邨、東田外史。 甲斐国巨摩郡藤田村(現在の山梨県南アルプス市)に、父・和達の長男として生まれる。明治6年(1873年)1月に藤田村戸長、1876年明治9年(1876年)10月に山梨県学区取締総理、明治12年(1879年)8月に藤田村会議長、明治17年(1884年)5月に藤田村浅原村両村戸長、明治19年(1886年)3月に三恵、鏡中条、下今井、藤田四ヶ村戸長を務めた。その後、明治22年(1889年)8月の町村制施行により藤田村の村会議員、村長となり、明治23年(1890年)3月から明治28年(1895年)9月まで山梨県会議員を務め、明治30年(1897年)9月には多額納税者の互選により貴族院議員となり、同年9月29日から明治34年(1901年)9月28日まで在任した。
植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月… 植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月13日) - 1906年(明治39年)8月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 丹波国氷上郡和田村(のち兵庫県氷上郡和田村、山南町を経て現丹波市)生まれ。1872年、豊岡県教員伝習所(のち兵庫県師範学校、現・神戸大学教育学部)卒。農業を営み、和田村成章小学校教員兼校長、兵庫県会議員、氷上郡蚕糸業組合長、兵庫県茶業組合会議員、和田村長、同村会議員、町村組合会議員となる。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫県第3区から自由党公認で立候補したが38票差で落選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では兵庫県第3区から憲政党公認で立候補して当選した。
高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永… 高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永元年4月26日)- 1907年(明治40年)6月15日)は、幕末の会津藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 陸奥国会津郡若松城下で会津藩士の息子として生まれる。漢学、武術、英蘭学を修めた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、東北の戦闘に従軍。 1873年、小樽に渡り船舶回漕業を営んだ。1890年8月、小樽総代人に選出された。その後、小樽区会議員、北海道会議員を務めた。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区から出馬し当選。交友倶楽部に所属し衆議院議員を一期務めた。 その他、小樽商業会議所会頭、北海道拓殖銀行創立委員、小樽米穀外五品取引所監査役、小樽銀行取締役、北海木材 (株) 監査役、北海生命保険 (株) 社長、北海道鉄道 (株) 取締役、大同生命保険 (株) 取締役、小樽電燈合資会社執行社員なども務めた。
吉田 顕三(よしだ けんぞう、嘉永元年4月8日(1848年5… 吉田 顕三(よしだ けんぞう、嘉永元年4月8日(1848年5月10日) - 大正13年(1924年)3月1日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→中正倶楽部)。海軍軍医大監。 安芸国山県郡吉坂村(現在の広島県山県郡北広島町)出身。1865年(慶応元年)より京都・大坂で医学と英語を学んだ。1868年(明治元年)、箱館府民政方病院掛となるが、箱館戦争が起こると甲鉄艦乗組医官を務めた。その後軍艦や海軍病院に勤務。1872年(明治5年)よりイギリス留学を命じられた。1878年(明治11年)に帰国後は、軍医少監に任ぜられ、軍医中監、軍医大監と昇進した。その間、医務局副長、海軍病院副長、同院長を務めた。また1881年(明治14年)からは大阪府立病院長・大阪府立医学校長も務めた。
福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年… 福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年5月10日〉 - 大正13年〈1924年〉3月31日)は、日本の実業家。第3代日本薬剤師会会長、資生堂創業者として知られる。 安房国松岡村(現:千葉県館山市竜岡)の郷士の家に、平民である福原市左衛門の次男として生まれる。1865年、18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後の1867年から同所で雇われる。1868年7月に東京大学病院雇、1869年に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、1871年海軍病院薬局長となる。 その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる「資生堂」を銀座に開業。
岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、18… 岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、1847年5月31日(弘化4年4月17日)- 1921年(大正10年)1月4日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡熊谷町長、同北埼玉郡下忍村長。 武蔵国埼玉郡樋上村(のちの埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上、現:行田市)で生まれる。忍藩士から漢学を学んだ。農業を営む。 明治3年(1870年)、樋上村名主役となる。副戸長、戸長、長野村連合戸長、下忍村会議員などを務め、1890年、初代熊谷町長に就任。その後、埼玉県会議員、北埼玉郡会議員、同議長を歴任。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。
杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847… 杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847年5月31日〉 - 1899年〈明治32年〉10月2日)は、明治時代における愛知県岡崎市の実業家。同地の電力会社岡崎電灯の創業者の1人であり、電源開発の功により岡崎市の名誉市民に選ばれている。「杉浦銀蔵」の名は養父の名を襲名したもの(2代目杉浦銀蔵)で、前名は仙吉。 本項では、2代目銀蔵の死後に岡崎電灯の経営を引き継いだ3代目杉浦銀蔵(文久2年3月18日〈1862年4月16日〉 - 1941年?)についても記述する。 2代目杉浦銀蔵、幼名仙吉は、弘化4年(1847年)に三河国幡豆郡西尾順海町(現・西尾市順海町)に生まれた。11歳のとき地元西尾の古着商「河内屋」で働き始める。
内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年… 内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年4月15日) - 1926年(大正15年)2月20日)は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名は助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の「鳴雪」は、「何事も成行きに任す」の当て字という。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。嘉永2年(1849年)に実母が死去すると、曾祖母と祖母のもとで育てられた。安政元年(1854年)頃から父に漢籍を教わり、軍記物や草双紙、寄席や義太夫に親しんだ。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。
武市 安哉(たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日(18… 武市 安哉(たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日(1847年5月15日) - 明治27年(1894年)12月2日)は、土佐藩出身の明治時代の日本の政治家であり、北海道を開拓した人物の一人である。 土佐勤王党を結成した武市半平太や、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬の親戚である。 土佐国長岡郡大埇村住吉野(現・高知県南国市大埇)で、土佐藩郷士の武市家の分家に武市才次の長男として生まれた。1862年に15歳で本家の武市善之助より武市本家を相続する。1868年(慶応4年)には、土佐藩士として鳥羽・伏見の戦いに参加する。明治維新を迎え、1872年(明治5年)に小学校の教師となるが、1876年には小学校を辞して、立志学舎の学生とになる。
野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、… 野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、1847年5月4日〈弘化4年3月20日〉 - 1916年〈大正5年〉10月10日)は、日本の政治家、地主。鳥取県会議員。鳥取県西伯郡大幡村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡大幡村(のち岸本町、現・伯耆町)出身。弥十郎の長子。1872年に第九十六区副戸長に任ぜられる。1874年、岸本、吉長両村戸長。1875年、押口村戸長兼務。 吉定学校保護人、旧会見郡吉定村、上細見村、立岩村、岸本村、押口村、吉長村戸長、同郡上細見、立岩、吉定、岸本、吉長、押口の6村戸長再任、同郡第四番学区学務委員、同郡十七連合戸長、同郡第三四番学区学務委員。 1889年、町村制実施に付八幡村、古豊千村、王子村の主担命ぜられ、村政施設事務取扱、同年大幡村会議員、同年大幡村長。
新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年… 新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年5月5日) - 1922年(大正11年)6月16日)は、元仙台藩士で、「有神無我」を唱え、自らを「クライストの志願奴隷」と定義した明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想人。 戊辰戦争後に森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。アメリカでキリスト教系新興宗教団体教祖トマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送る。 1899年(明治32年)、53歳のとき、英語の自著Inward Prayer and Fragments(『内観祈祷録』)一冊を携えて帰国する。 1904年(明治37年)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。
白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年… 白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年4月29日)- 1927年(昭和2年)10月9日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、幼名・常松。 父・佐藤愛之助(幸助)は三春藩領陸奥国田村郡菅谷村(現田村市)の名主を務めていたが、天保の大飢饉の際に藩主の許可を得ずに蔵米の放出を行ったため一家で他国に逃れた。その後、下野国芳賀郡真岡(現栃木県真岡市)の円林寺の寺代官となり、その地で遠平は誕生した。その後一家は水戸藩の西丸帯刀の食客となり、遠平は松霜塾で学問を修めた。1856年(安政3年)陸奥国磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村、小川町を経て現いわき市)の名主、酒造業・白井佐平太の死跡を継いで一家養子となり白井に改名した。
松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4… 松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家、男爵(依勲功特授)。幼名は又之輔(又之助)、大之助。号は牛州・江村など。 肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]、小城藩士横尾唯七(岡氏より婿入り)と妻・まちの次男として生まれた。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する。
海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3… 海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3年4月7日)- 1913年(大正2年)10月16日)は、幕末から明治期の大庄屋・銀行家・政治家。衆議院議員、三重県会議長。 伊勢国安濃郡粟加村(三重県安濃郡明合村大字粟加村、協和村、安濃村、安芸郡安濃村、安濃町を経て現津市安濃町粟加)で生まれる。津藩士・野田竹渓に師事し漢学を修めた。大庄屋役を務める。 廃藩置県後、小区戸長に就任。安濃郡書記、明合村会議員、所得税調査委員、所得税審査委員などを務める。1880年(明治13年)11月、三重県会議員に選出され1900年(明治33年)3月まで在任し、この間、同常置委員、同副議長、同議長(4期)なども務めた。
結城 無二三(ゆうき むにぞう・弘化2年4月17日(1845… 結城 無二三(ゆうき むにぞう・弘化2年4月17日(1845年5月22日) - 明治45年(1912年)5月17日)は、明治時代のキリスト教メソジスト派伝道師。死後に息子結城禮一郎によって出版された書籍により、幕末期には京都見廻組及び新選組に所属していたとされるが、研究者からは疑問が持たれている。幼名は米太郎(よねたろう)、のち有無之助(うむのすけ)、さらに無二三(むにぞう)。名は影祐(かげすけ)といったが、知人からは「けいゆう」と呼ばれたという。 甲斐国の医師・古屋景仲の長男として生まれる。幼名の「有無之助」は「俺ほどの豪傑が世の中に有るか無いか」という意味で、「無二三」とは「俺ほどの豪傑は天下に二人も三人も居ない」という意味で名乗ったという。