伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は… 伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
7月生まれ:10,459人
伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は… 伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 -… 八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。 京都市五条坂に陶芸家八木一艸の長男として生まれる。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業の後、商工省設置の国立陶磁器試験所の伝習生となり、沼田一雅の「日本陶彫協会」に入会し陶彫を学んだ。1939年兵役で南支広東方面へ派遣されたが、病気のため翌年除隊。帰国後、日本画の前衛団体「歴程美術協会」などと関わりを持つなかでシュルレアリスムや抽象美術などの西洋の最先端美術への親しみを深めるが、戦時下の社会で前衛を否定して古典回帰を求める風潮が高まり、八木もまたしばらくは陶芸を中断して神戸や京都で教員として生活した。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日… 久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の経営者。テレビ西日本元社長。 東京都出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1951年に文化放送に入社した。1961年にフジテレビジョンの総務部長に就任し、取締役、常務、専務を歴任した。 1973年にテレビ西日本の専務に就任し、1979年から1985年までに社長を務めた、1985年以降、取締役相談役、顧問、フジテレビジョン監査役を歴任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1989年9月21日腎不全のために死去。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 … 三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 - 2012年〈平成24年〉7月31日)は、日本の政治運動家、社会活動家。第66代内閣総理大臣三木武夫の妻。三木事務所代表。全国発明婦人協会、アジア婦人友好会、国連婦人会の各会長、社団法人中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長など役職多数。旧姓は森。 千葉県出身。森コンツェルン総帥で昭和電工の創業者・森矗昶の次女。この父をはじめ、兄の森曉と森清、弟の森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員に、また長女の高橋紀世子は参議院議員になっている政治家一族の出身である。また、姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる。 東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)卒業。
井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 2001年2月21日)は、日本の都市計画家。技術者。都市工学者、都市研究者。建設官僚。東京大学名誉教授。東京大学工学部、横浜国立大学工学部教授を歴任し、全国各地の都市計画に関する審議会や委員会委員をつとめて全国各地や海外の計画に関与、また長きにわたり都市計画の研究と人材の育成につとめる。戦後結成された国際住宅都市計画連合IFHPでは初代理事で後に会長。米国生まれ。 1917年、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェストフィールド生まれ。生まれたころ父親は三井物産ニューヨーク支店に勤務していた。 東京府立第一中学校 (旧制:後の東京都立日比谷高等学校)をへて、第一高等学校に入学。
川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 19… 川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 1993年3月3日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。東京都出身。 1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日立製作所、京浜急行電鉄での勤務を経て、1952年12月に神奈川トヨペットタクシー常務に就任。1955年5月に相模鉄道に転じ、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長に就任し、1976年6月に社長に昇格。1988年1月に会長に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章。 1993年3月3日呼吸不全のために死去。75歳没。
磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 … 磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 - 1998年〈平成10年〉11月25日)は、日本の合唱指揮者、作曲家である。東京都大田区大森生まれ。NHK交響楽団で長く首席クラリネット奏者を務めた磯部周平は子息。元学習院長の磯部忠正は兄。 早稲田大学文学部芸術学科を卒業。在学中から平尾貴四男に作曲を学び、15年間早稲田大学グリークラブの専任指揮者を務め、共立女子大学合唱団・いそべとし男声合唱団・フレーベル少年合唱団など、多くの合唱団の指導に当たった。1955年、新しい子供の歌の創作活動「ろばの会」を大中恩、中田喜直らと結成し、数々の賞を受賞した。 後半生は神奈川県藤沢市鵠沼に住み、「湘南コールグリューン」を指導し、福永陽一郎に協力して藤沢市民オペラを発足させるなど、地域文化の向上に努めた。
坂野 重信(さかの しげのぶ、1917年〈大正6年〉7月23… 坂野 重信(さかの しげのぶ、1917年〈大正6年〉7月23日 - 2002年〈平成14年〉4月17日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。自由民主党参議院議員。正三位勲一等工学博士。北栄町名誉町民。 孫は女優の坂野友香、民主党から参院選に立候補経験がある坂野真理(松下政経塾出身、医師)。真理の夫は鳥取県議会議員の坂野経三郎。 鳥取県東伯郡北条町(現北栄町)に生まれる。旧制倉吉中学、旧制松江高校を経て1941年(昭和16年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業と同時に内務省採用試験に合格したが、時局を踏まえ陸軍に入隊。復員後は茨城県、大阪府勤務を経て、建設省に移り、河川計画課長、関東地方建設局長、河川局長、建設技監、建設事務次官などを歴任。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 -… 浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター。兵庫県神戸市出身。愛称はハマクラ。府立四中卒業、早稲田大学中退。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は子。元女優の渚まゆみは妻。
松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6… 松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6年〉7月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 熊本県鹿本郡三玉村久原(現・山鹿市久原)出身。松尾鶴彦、まつ枝の次男として生まれる。父は八幡小学校校長、母も元小学校教師であり、厳格な家風で育った。 鹿本中学を経て、1938年(昭和13年)9月、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長として訓練を受け、日米開戦前に真珠湾を視察している。真珠湾攻撃においては予備指揮官として現地まで赴いた。
山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1… 山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1992年3月21日)は、日本の外交官。 山下はブルガリア人民共和国特命全権大使時代に当地で1970年バレーボール世界選手権が開催された際、その大会で銅メダルを獲得したバレーボール日本男子代表を応援のために夫人と共に試合を観戦した。その試合で日本チームの選手たちがサインプレーの暗号として「おにぎり」という言葉を使っていたのを耳にし、後日、「試合中に『おにぎり』を盛んに言っていたから、おにぎりが食べたいのだろう」と思って日本男子代表チームにおにぎりを差し入れたという。
太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015… 太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015年12月31日)は、日本の英語学者、言語学者。東京教育大学名誉教授。神奈川県横須賀市生れ。 1950年代以降活発な研究活動を行なった。アメリカ構造主義および生成文法の影響下での業績が多い。
李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 … 李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 - 2020年4月12日)は、大韓民国の弁護士、法学者、教授、政治家。第11代韓国国会議員。 本貫は全州李氏、号は為村(ウィチョン、위촌/爲村)。カトリック教徒。 日本統治時代の忠清北道清州郡(現・清州市)またはソウル出身。東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒。法学博士。朝鮮弁護士試験合格。普成専門学校、高麗大学校、ソウル大学校や梨花女子大学校で講義したほか、中央日報論説委員、成均館大学校教授、梨花女子大学校大学院長、国会議員、民主正義党中央委員会副議長、韓国放送倫理委員会委員長、ユネスコ韓国委員長、韓国刑法学会会長を歴任した。 2020年4月12日に死去。
菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 … 菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 - 1950年(昭和25年)4月6日)は、日本の哲学者。シベリア抑留後、徳田要請問題に巻き込まれ悲劇的最期を遂げた人物として知られる。 愛媛県宇摩郡津根村(現四国中央市)で父勝吉・母ツ子の7人兄弟姉妹の三男として生まれ、5歳で北海道常呂郡野付牛町(現・北見市)に移住。父母は染物屋「三吉堂染舗」を経営し、近在の木材工場の印伴天や漁場の大漁旗を一手に引き受けていた。地元の小学校、野付中学校(現・北見北斗高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)に東京高等師範学校文科に入学、3学年終了後、東京文理科大学哲学科に入学し、務台理作、田中美知太郎に師事し、ギリシャ哲学、ヘーゲル哲学を学ぶ。
佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は… 佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2… 都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2000年3月21日)は日本の民俗学者。群馬県勢多郡北橘村(現渋川市)出身。 民俗学研究、特に地史の分野で活躍し、地名を成り立ちから分類して自然地名・人文地名・修飾地名・新付地名という概念を打ち立てるなど、顕著な功績を残した。 1937年 群馬県師範学校卒業。1941年 今井善一郎と勢多郡誌作成のために民俗調査を行う。1946年 上毛民俗の会が発足し入会する。1947年 民俗学研究所例会で柳田國男と出会う。教師として、群馬県玉村町、高崎市、赤城村、北橘村、富士見村、黒保根村などの小中学校に勤務し、中学校長をつとめ1976年に退職。1983年からは群馬大学教育学部非常勤講師を勤める(1986年まで)。
平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1… 平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1984年6月26日)は、昭和時代の労働運動家。日本教職員組合(日教組)書記長。 大阪府池田市生まれ。1937年大阪府池田師範学校卒業。大阪市成小路小学校の教壇に立ったが、学問に興味を抱き関西大学に進学。1940年関西大学専門部法科卒業。学生時代、賀川豊彦等の指導により洗礼を受けた。戦後、大阪教職員組合(大阪教組)、日本教職員組合(日教組)、総評大阪地方評議会(大阪総評)の結成に参加。1947年大阪教組組織部長。1949年日本社会党に入党。日教組近畿地区協議会書記長を経て、1951年日教組組織部長、1953~1958年日教組書記長。 1951年に国労の岩井章、全逓の宝樹文彦らと「三角同盟」を結成。
相模川 佶延(さがみがわ よしのぶ、1917年7月13日 -… 相模川 佶延(さがみがわ よしのぶ、1917年7月13日 - 1987年1月22日)は、神奈川県愛甲郡南毛利村(現在の同県厚木市)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は原島 寶(はらじま たから)。身長189cm、体重124kg。得意手は左四つ、突っ張り、上手投げ。最高位は西関脇(1944年5月場所)。 17歳の時に春日野部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 1937年5月場所で序二段優勝してから上昇気流に乗り、三段目・幕下・十両をそれぞれ1場所で突破し、1939年5月場所に於いて新入幕を果たした。 長身から繰り出す突っ張りは威力があり、それが上位へ進出する際の大きな武器になった。
安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 19… 安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 1985年5月6日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授、成城大学学長。 1917年、大蔵省の役人であった父の任地の広島市で生まれた。1935年3月、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。旧制弘前高等学校に入学して学んだ。 1939年4月、東京帝国大学経済学部に入学し、土屋喬雄のゼミナールに学ぶ。1941年12月、東京帝国大学経済学部を卒業し、同大学助手となるが、1942年1月、応召。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業し、1943年11月、主計大尉に進み、戦時中を通して海軍省に勤務し、戦時統制経済の実務に当たった。
富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1… 富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1983年7月20日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12… 鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12日 - 2002年〈平成14年〉12月22日)は、日本の経営者。三井生命保険社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1949年に青山学院高等商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1967年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年4月に副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1987年4月に会長に就任し、1993年4月に取締役相談役を経て、1996年7月から相談役を務めた。 青山学院大学理事も務めた。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年12月22日肺炎のために死去。
斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 … 斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 - 1950年1月22日)は、北海道斜里郡斜里町出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は京堂 菊三(きょうどう きくぞう)。最高位は西前頭18枚目(1943年1月場所)。現役時代の体格は173cm、102kg。得意手は右四つ、押し。 18歳の時に上京し、二所ノ関部屋へ入門。1936年1月場所で初土俵を踏んだ。 入門時から最初の師匠である横綱・玉錦に期待され(四股名は、出身地の斜里郡斜里町と師匠の四股名に由来)、1936年5月場所で序ノ口に付いてから勝ち越しを続け、1939年1月場所で新十両に昇進した。ところがその場所直前に応召され、約3年の期間を経て1942年1月場所より角界に復帰した。
林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 -… 林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 - 1994年(平成6年)5月4日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 東京府出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 司法省に入省し、司法官試補に任官。横浜地方検察庁検事、東京地方検察庁検事、経済安定本部経済査察官を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に東京都第6区から出馬したが落選。同補欠選挙、第25回、第26回総選挙でも落選したが、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に日本民主党公認で出馬して初当選。第28回総選挙では落選し、1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙で再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不… 市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手(投手)。 1950年に広島カープへ33歳で入団。武器はドロップ。1951年に引退。
千代田 葛彦(ちよだ くずひこ、1917年7月10日 - 2… 千代田 葛彦(ちよだ くずひこ、1917年7月10日 - 2003年11月22日)は、俳人。本名次郎。台湾台中州にて生まれる。1934年阿川燕城の「竹鶴」に参加。終戦後に引揚げ。肺湿潤で療養後、中央大学法学部を卒業、教職に就く。1950年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1964年、『旅人木』で第4回俳人協会賞受賞。2003年、葛飾賞受賞。代表句「眠るまで月をいくつも見て眠る」他。「賜る俳句」を作句信条とした。句集に『旅人木』(1964年)『瀝々集』(1980年)『無邪』(2003年)。
大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10… 大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10日 - 1994年〈平成6年〉1月28日)は、日本の外交官。 ブラジル、サウジアラビア、ポルトガル駐箚特命全権大使を務めた。 サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日に、都市ゲリラによる誘拐事件で日本人外交官初めての人質となった。4日後の3月15日に無事解放された。 1917年(大正6年)愛知県豊橋市で政治家・大口喜六の4男として生まれる。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。
中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月1… 中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本のドイツ文学者、翻訳家、早稲田大学名誉教授。 島根県生まれ。1944年早稲田大学文学部独文科卒。早稲田高等学校講師、1951年早稲田大学理工学部助教授、1957年教授、1968 - 1974年語学教育研究所長、1988年定年退任、名誉教授。 1991年『少年ルーカスの遠い旅』で産経児童出版文化賞受賞。ドイツの児童文学を多く訳し、『大どろぼうホッツェンプロッツ』三部作がロングセラーとなっている。
丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1… 丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1971年5月8日)は、日本の歴史学者。 長野県生まれ。1935年県立長野中学卒業、1938年旧制第二高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。中村孝也に師事し、1941年に卒業。「宮座ノ研究」を研究課題とし、同大学大学院に進学。1948年に法政大学教授となる。 宮座の研究の他、古代史では三世一身の法、墾田永年私財法、家人・奴婢の研究に取り組み、また戦時下の空襲で自宅を失った東京のホームレスや戦災孤児の姿を見て、近世史では加役方人足寄場の研究も行った。
増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日… 増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日 - 2001年(平成13年)8月24日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。交通経済学を専攻。 経済学者・増井幸雄の長男として静岡県浜松市に生まれる。慶應義塾幼稚舎、普通部、予科を経て、1940年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年4月から助手を務める。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。 1945年10月に解員(復員)し、同助教授。1955年教授、1957年商学部教授、商学部長、1983年定年退任、名誉教授、松阪大学教授、1994年退職。
片岡 鶴八(かたおか つるはち、1917年7月7日 - 19… 片岡 鶴八(かたおか つるはち、1917年7月7日 - 1988年7月13日)は、日本の声帯模写芸人。 音楽家の片岡慎介は実息。 実家はハンコ職人。素人時代にNHKのど自慢、ラジオ東京の「しろうと寄席」に出演し名を馳せる。自転車でハンコの配達中に肩の怪我で玄人に転身。玄人になってからは1957年より8代目桂文楽の一門で落語協会に属した。 芸名は「しろうと寄席」の審査員であった安藤鶴夫と木下華声(2代目江戸家猫八)の「鶴」と「八」の字を貰った。 物まねのレパートリーは浪曲の節まね、歌手、政治家、評論家、歌舞伎俳優、映画俳優、動物のまねなど幅広かった。 1980年に脳出血で引退した。 弟子にお笑いタレントの片岡鶴太郎がいる。
浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980… 浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980年1月4日)は、教育者、服飾研究家、学校法人浅井学園元学園長、専門学校北海道ドレスメーカー学院初代院長、北翔大学の前身にあたる北海道女子短期大学創立者。 北海道札幌市生まれ。叔父を頼って上京し、1934年、東京国華高等女学校卒業。その後、東京女子医学専門学校に合格するも、両親に反対されて女医の道を断念。生家の家事を手伝いながら学費を貯め、1937年再上京して、1939年杉野ドレスメーカー女学院師範科卒業。同年9月、洋裁教育を通じて女子の教養を高め、専門的技術修得によって女子に経済的独立の能力を習得させることを目的として、各種学校「北海ドレスメーカ一女学園」を創設した。
竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3… 竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3日 - 1990年(平成2年)8月)は、日本の検察官であり、弁護士でもある。大分弁護士会会長を務めた後、大分県地方労働委員会会長を務める。岡山県高梁市出身。 1917年(大正6年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)の竹中家に出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1935年(昭和10年)同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校文科乙類へ進学し、1938年(昭和13年)同校を卒業、東京帝国大学法学部へ進学する。1941年(昭和16年)10月、東大在籍中に司法試験に合格。同年12月、第二次世界大戦の影響で、同大学政治学科を3ヶ月繰上げ卒業になった。
中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 19… 中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 1994年7月4日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)。
柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年… 柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年11月)は、日本のジャーナリスト、実業家。日米にまたがる広い人脈を駆使して、日本へのテレビ導入と日本テレビ設立、原子力利用、ゴルフブームに重要な役割を果たした。正力松太郎とも深く関係している。
風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6… 風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6月26日)は、日本の技術者、実業家。電子顕微鏡の開発と普及に努め、日本電子を設立した。 レーシングドライバーの風戸裕は次男。 千葉県長生郡茂原町(現・茂原市)に生まれる。1938年に海軍機関学校(46期)を卒業後、1944年11月からは海軍技術研究所電波研究部に勤め、奮龍の開発などに関わった。海軍在職時に、黒岩大助の著書『電子顕微鏡』を目にして電子顕微鏡への興味を抱いた。 太平洋戦争後に電子顕微鏡の開発研究に着手し、1949年に日本電子光学研究所(1961年に日本電子に改称)を設立して社長に就任した。1968年に日本電子顕微鏡学会会長を務める。
中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31… 中野 幡能(なかの はたよし、1916年〈大正5年〉7月31日 - 2002年〈平成14年〉12月3日)は、日本の歴史学者。宇佐八幡宮の研究で知られる。 大分県宇佐生まれ。1943年東京帝国大学文学部宗教学科卒。大分県立教育研究所副所長、61年新設の大分県立芸術短期大学教授、68年「八幡信仰史の研究」で東京大学文学博士。83年定年退官、名誉教授。91年秋勲三等瑞宝章受勲。西日本文化賞受賞。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
梅澤 邦臣(うめざわ くにおみ、1916年7月30日 - 2… 梅澤 邦臣(うめざわ くにおみ、1916年7月30日 - 2006年1月23日)は、日本の通商産業技官。科学技術事務次官を経て、原子力安全技術センター理事長、海洋科学技術センター理事長、ライフサイエンス振興財団理事長等を歴任した。 東京都生まれ。1938年武蔵高等学校理科卒業。1941年北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科卒業。1944年商工省地質調査所技師。1953年通商産業省大阪通商産業局総務部技術課長。1956年工業技術院調整部業務課長。 1962年科学技術庁計画局科学調査官。1963年科学技術庁原子力局次長。1964年科学技術庁計画局長。1967年科学技術庁研究調整局長。1968年科学技術庁原子力局長、造船技術審議会委員。
日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
谷川 宏(たにがわ ひろし、1916年〈大正5年〉7月29日… 谷川 宏(たにがわ ひろし、1916年〈大正5年〉7月29日 - 1989年〈平成元年〉2月7日)は日本の大蔵官僚。大臣官房日本専売公社監理官、国税庁間税部長、東京国税局長、関税局長、石油開発公団副総裁、北海道東北開発公庫総裁などを務めた。 群馬県高崎市赤坂町に生まれる。旧制東京高等師範学校附属小学校を経て、東京高等師範学校文科甲類を卒業。1939年10月 高等試験行政科を合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1940年 大蔵省入省。専売局長官官房兼専売局販売部属。1950年5月13日 主計局主計官(歳入、大蔵、終戦処理担当)。1951年4月 主計局主計官(大蔵、外務、政府関係機関担当)。1952年4月 主計局主計官(歳入、大蔵、外務、政府機関、調達担当)。
鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28… 鳥越 俊雄(とりごえ としお、1916年(大正5年)7月28日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。鳥越製粉専務。鳥越製粉創業者鳥越彦三郎の孫。ジャーナリスト鳥越俊太郎の父。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。1939年、京都帝国大学経済学部卒業。住友本社に勤務。札幌の北日本鉱業所に配属された。現場で鉱山労働者などから相手にされず、いじめにあい、神経症を発症した。1940年、長男の俊太郎が誕生したときは九大の精神科の病棟に入院していた。1943年、退職。対人恐怖症を克服しようと、仏教に傾倒した。京都帝国大学文学部に入学した。 1946年5月、同大学中退。同年10月、鳥越商店入社、監査役。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
中沢 護人(なかざわ もりと、1916年7月27日 - 20… 中沢 護人(なかざわ もりと、1916年7月27日 - 2000年2月22日)は、日本の科学技術史家。 山梨県出身。1939年、東京帝国大学を卒業し、日本製鐵に入社。1942年以後、横浜事件に連座し、戦後退社。1955年から東京大学生産技術研究所に技官として勤務。ドイツの技術史家ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck) の『鉄の歴史』を日本語に翻訳し、1979年の日本翻訳文化賞受賞。幼いころに受洗したキリスト教徒であり、中国派のマルクス主義者。 長兄はNHK職員、次兄の中沢厚は中沢新一の父、妹は網野善彦の妻。中沢家は山梨の豪商で、父親は生物学者。