穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1… 穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1856年8月11日〈安政3年7月11日〉 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。獨逸学協会会員。弟子に牧野英一など。 1856年8月11日(安政3年7月11日)、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた。明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている。
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安… 一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日) - 1922年(大正11年)2月4日)は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。 阿波国名東郡徳島(現徳島県徳島市)で、徳島藩士・一坂周作の長男として生まれた。新居水竹の塾で漢学を学ぶ。 1874年(明治7年)初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。 この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。 その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。
二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7… 二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7月4日〈1856年8月4日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月12日)は、日本の政治家、銀行家、名望家、群馬県多額納税者、地主。群馬県新田郡太田町長(初代)。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)出身。質店を営んだ初代澁澤金蔵の長男で、1887年に父から家政を譲られた。前名を直次郎と呼び1889年、家督を相続して二代目金蔵を襲名した。 商業、金銭貸付業を営んだ。上毛実業銀行顧問、上野銀行、新田銀行各取締役、群馬商業銀行監査役などをつとめた。 町村制実施と同時に太田町初代町長となり、太田消防組第一回の組頭として以来町政に貢献し、また町議として活動した。
山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(185… 山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(1856年8月3日) - 大正7年(1918年)12月26日)は、明治期の日本の篆刻家である。曹洞宗の僧侶であり詩書画にも堪能であった。 名は潤子、号が寒山。 尾張国愛知郡長久手村(現・愛知県長久手市)出身。曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂に訪ねて篆刻について問い、24歳のときに福井端隠に入門し高芙蓉の流れを汲む古体派の篆刻を学ぶ。明治16年(1883年)に最明寺(熊野市二木島町)住持を任されるが、明治19年(1886年)には辞して大坂に出る。明治28年(1895年)に東京に移り住み芝瓢箪池畔に芝仙堂と名付けた庵を結ぶ。明治30年(1897年)に清国に渡り、呉昌碩と親しく交わりその門下となっている。
島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7… 島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7月2日) - 1910年(明治43年)11月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1856年(安政3年)、土佐国土佐郡久万村(現在の高知県高知市)に島村重吉の次男として生まれる。1873年(明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。1874年(明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、1877年(明治10年)6月、歩兵少尉に任官。1879年(明治12年)から1882年(明治15年)までと、1884年(明治17年)から翌年、渡清し諜報任務に従う。 1896年(明治29年)9月、歩兵第33連隊長に就任。
新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2… 五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2年7月16日〉 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の政治家、資産家、地主。東京府会議員、東京市会議員、神田区会議員。族籍は東京府平民。 栃木県宇都宮の人で、宇都宮藩士・五味吉房の二男。1869年、東京に出て吉川慎堂の門に入り漢籍・洋書を学んだ。1875年、分かれて一家を創立した。 1873年、樺太に渡り、後九州に於いて警察官となり西南戦争に従う。1879年、兄が病んで没した。卯三郎は官を辞めて上京し、遺子・保に其の後を継がせ、自ら分家した。 1892年、神田区会議員に挙げられ、以来20有余年間毎回当選した。1896年、東京府会議員に挙げられ、1897年、東京市会議員に選出された。
山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1… 山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1855年8月24日) - 1943年(昭和18年)4月5日)は明治時代の写真師。岡山県井原市出身。維新後上京して林董宅に住み、中島待乳に写真術を学び、新橋で開業後、北京王府井に写真館を構え、西太后等要人や北京内外の風景を写真に残した。 安政2年(1855年)7月12日備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)に生まれた。1868年(明治元年)頃阪谷朗廬と親戚の医者の息子(山鳴弘斎三男清三郎か坂田警軒兄待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露するのを見て、初めて写真に触れた。 明治4年(1871年)兄讃太郎を頼って上京し、1874年(明治7年)8月叔父梅園の師林洞海の子林董の書生となった。
斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日… 斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日〈安政2年7月12日〉- 1910年〈明治43年〉5月6日)は、日本の外交官、農商務官僚、実業家。農商務次官。号・半狂学人、談笑門人。「斉藤」と表記する場合がある。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・眼科医、斎藤策順の息子として生まれる。沼津兵学校付属小学校、大学南校で学ぶ。1873年(明治6年)、大学南校が開成学校と改称して、1875年(明治8年)に卒業し、同年7月、文部省第一回海外留学生として渡米し、1878年(明治11年)6月、ボストン大学法科を卒業した。 1880年(明治13年)9月に帰国し、同年11月、外務省権少書記官に任じられ公信局勤務となる。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年… 片山 国嘉(かたやま くによし、安政2年7月7日(1855年8月19日) - 1931年(昭和6年)11月3日)は、日本の法医学者。 遠江国周智郡犬居村(現在の静岡県浜松市天竜区)の医師の二男として生まれる。大学東校を経て、1879年(明治12年)に東京大学医学部を卒業。東京大学助教授となり内務省衛生局にも勤務した。1884年(明治17年)から1888年(明治21年)まで法医学研究のためドイツ・オーストリア=ハンガリーに留学し、ベルリン大学とウィーン大学で学んだ。帰国後、東京帝国大学医科大学教授に就任し、法医学講座を担当した。また1891年(明治24年)に医学博士の学位を得た。法学部で法医学の授業を担当したほか、東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)講師も務めた。
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈185… 依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 中山道八幡宿の大地主・依田七郎兵衛の長男として生まれ、1874年(明治7年)1月、家督を相続する。御牧原の開発を進め、1889年(明治22年)町村制の施行に伴い、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併し南御牧村が成立すると初代村長に就任し、1893年(明治26年)3月まで務めた。 1911年(明治44年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期在任した。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855… 末岡 精一(すえおか せいいち、旧字体:末岡 精一、1855年8月2日(安政2年6月20日) - 1894年(明治27年)1月22日)は明治時代の日本の法学者。法学博士。 帝国大学法科大学教授、東京図書館(現・国立国会図書館)館長。日本法律学校(現・日本大学)の創立者の一人。東京大学にて、日本人として初めて国法学の講義を担当した。
小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6… 小島 憲之(こじま のりゆき、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1918年〈大正7年〉8月15日)は栃木県出身の建築家であり教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学や英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。 下野国河内郡雀宮(後の栃木県宇都宮市)で幕臣・小島信民の家に生まれる。旧名は作次郎、兄は信之。 明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。
菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7… 菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) - 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。法学博士。陸奥国岩手郡外加賀野村(南岩手郡を経て岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854年(嘉永7年)7月28日、岩手郡外加賀野村(後の盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎(後の那珂通高)によって名付けられた。 1875年(明治8年)大学南校(後の東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。
高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(… 高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(安政元年7月25日)- 1933年(昭和8年)9月3日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員。 日向国那珂郡板敷村(宮崎県南那珂郡飫肥村、飫肥町字板敷を経て現日南市板敷)で、飫肥藩士・高山伝蔵、のぶ の長男として生まれ、1881年(明治14年)2月に家督を相続した。藩校で学び、その後上京して岡松甕谷に師事した。 1883年(明治16年)7月、宮崎県御用掛となり庶務課に配属。以後、8等属、7等属・地理課勤務、町村制施行順序取調委員、判任官6等・学務課勤務などを歴任し、1892年(明治25年)4月、南那珂郡長に就任。1895年(明治28年)5月、高等官7等に進み、同年8月、病のため退官した。
赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月… 赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月21日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国石川郡宮腰町(金石本町、石川県石川郡上金石町、金石町を経て現金沢市)出身。金沢師範学校で学ぶ。小学校訓導、石川郡金石町戸長、同町助役、同町長、同町会議員、石川郡会議員、石川県会議員、加能合同汽船(株)支配人となる。 1898年3月(明治31年)第5回衆議院議員総選挙において石川1区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1906年に死去した。
右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7… 右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7月19日)- 1933年(昭和8年)12月12日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 石見国那賀郡田野原村(島根県那賀郡杵束村、弥栄村を経て現浜田市弥栄町田野原)で、豪農・右田常十郞の長男として生れ、右田古信の養子となった。津和野の福羽美静に師事し漢学を修めた。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1874年(明治7年)木束部副戸長に就任。以後、田野原村会議員、町村浦連合会議員、杵束村会議員、町村組合会議員、田野原区会議員などを務めた。1885年(明治18年)島根県会議員に選出され、1894年(明治27年)同議長に就任。
中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、… 中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日(1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。 上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した。1883年、「上野新聞」を発刊。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した。
加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(185… 加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(1854年8月11日) - 昭和16年(1941年)8月2日)は、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任した。 武蔵国足立郡滝馬室村(現・埼玉県鴻巣市)加藤唯右衛門の長男として生まれる。1869年、英漢私塾を開く。16歳で父を亡くす。。馬室村の村長に就任した。糠田学校の教員時代に白根多助埼玉県令に見出され、県の学務課に就職したが、友人の桐原捨三の誘いで、1875年(明治8年)11月、慶應義塾に入学。在学中より、東京日日新聞や東京曙新聞に寄稿していた。福沢諭吉の紹介で五代友厚が経営する大阪新報記者となり、同紙にて、福沢が提唱していた商業学校設立の啓蒙キャンペーンを行い、大阪での商業講習所設立に尽力する。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈185… 小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈1853年8月19日〉 - 大正2年〈1913年〉12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた。 信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。
河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6… 河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6年7月14日) - 1904年(明治37年)7月13日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。滋賀県坂田郡長浜町長。 寺村喜右衛門の子として近江国坂田郡長浜町(現滋賀県長浜市)に生まれ、1872年(明治5年)醤油醸造業を営む河内重内の養子となり、1876年(明治9年)10月に家督を相続した。 1874年(明治7年)以降、坂田郡第十六区戸長、長浜町会議員、同町長のほか、第二十一、第六十四各国立銀行頭取、日本精米、日本汽船各取締役、近江製糸、長浜生糸米穀取引所各監査役などを歴任した。ほか、長浜銀行、長浜貯蓄銀行などの創立に関与した。
井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7… 井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7月11日〉 - 1936年〈昭和11年〉11月11日)は、明治・大正時代の神奈川県の政治家。自由民権運動家として活動し、神奈川県会議員、向丘村長を務めた。武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)出身。 1853年8月15日(嘉永6年7月11日)、武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)の名主・井田勘左衛門の長男として生まれる。井田家は『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項に、小田原北条氏の家臣・高橋帯刀を先祖とする百姓太郎兵衛として記載されている。北条氏の滅亡後に長尾に移り、井田に改名したとされる。 21歳のときに長尾村ほか3ヶ村の戸長に選ばれるが、1876年(明治9年)4月17日に辞職する。
森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年… 森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年7月11日?〉 - 1970年〈昭和45年〉6月7日)は、長寿日本一とされていた兵庫県宍粟郡千種町の女性。ただしその長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。 伯耆国東伯郡上浅津村(その後鳥取県東伯郡浅津村大字上浅津を経て、現湯梨浜町上浅津)生まれ。明治元年、僧侶であった父とともに兵庫県宍粟郡西山村の教福寺に移住した。父が亡くなって以降も西山村(のちに千種町となり、現在では宍粟市の一部)に居住していた。生涯独身であった。 1967年9月役所が古い戸籍の整理を進めていたところ、戸籍の間違いが発覚したとして、1968年3月に明治6年(1873年)生まれから嘉永6年(1853年)生まれと訂正された。
草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(… 草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(嘉永6年7月8日)- 1942年(昭和17年)11月1日)は、明治から大正期の地主・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・川合。 肥前国松浦郡、のちの長崎県北松浦郡山口村(相浦町を経て現佐世保市)で川合小一右衛門の二男として生まれる。平戸藩校・維新館で学び、1869年(明治2年)から平戸藩砲兵塾で学んだ。1871年(明治4年6月)農業、回漕業・草刈太一左衛門の養子となり、1876年(明治9年)6月、家督を相続した。 実業界では、九十九銀行取締役、平戸貯蓄銀行取締役、長崎県農工銀行取締役、相浦銀行監査役などを務めた。 政界では、1879年(明治12年)山口村会議員に就任。
鞍谷 清慎(くらたに きよちか、1853年8月7日(安政3年… 鞍谷 清慎(くらたに きよちか、1853年8月7日(安政3年7月7日) - 1943年(昭和18年)5月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡平野村(神戸市垂水区を経て現・神戸市西区)出身。1884年、東京専門学校政治学科卒。平野村会議員、同村長、兵庫県会議員、徴兵参事員、明石農業(株)社長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫4区から進歩党公認で立候補したが31票差で落選。同年9月の第6回衆議院議員総選挙で立候補して初当選。1902年の第7回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補したが落選。1902年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年… 小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年8月7日) – 明治44年(1911年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 津軽藩士小山内連司の子として弘前に生まれる。1868年(慶応4年)2月、海岸警備のため平舘に派遣され、翌年には箱館戦争に参加し、旧幕府軍と戦った。1877年(明治10年)、警視局に出仕し、三等少警部心得、警部補、二等警部を歴任したが、ほどなくして辞職した。辞職後は郷里に帰り、北津軽郡相内村に協就社という牧場を開いた。 1884年(明治17年)、県会議員に当選し、1889年(明治22年)には議長に就任した。日清戦争の際には第1師団司令部に属して視察に赴き、実際に戦闘にも参加した。
松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独… 松野 クララ(まつの くらら、松野 久良々・松野 くらら、独語名: Clara Louise Zitelmann〈クララ・チーテルマン〉、1853年8月2日 - 1931年7月18日)は、ベルリン生まれのドイツ人女性で、明治時代の幼児教育者、音楽教育者(ピアノ奏者)。配偶者は農商務省官吏で林学教育者の松野礀(旧長州藩臣)。 ベルリンにて、Carl Friedrich Zitelmann(父)とEmma Pauline Ulrike (Tangermann) Zitelmann(母)の娘として生まれる。姉はEmma Maria Luise Zitelmann(1847年3月23日生)。 フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校を卒業したとされる。
榊 喜洋芽(さかき きよめ、1852年8月26日(嘉永5年7… 榊 喜洋芽(さかき きよめ、1852年8月26日(嘉永5年7月12日) - 1912年(明治45年)6月21日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。 陸奥黒石藩領津軽郡黒石村(青森県南津軽郡中郷村、黒石町を経て現黒石市)出身。黒石藩士榊波衛の長男。のち弘前市下白銀町に移り住む。 1872年(明治5年)東奥義塾の設立に関与し教師を経て寮監となったが父の勧めで上京し明治法律学校に入学し法律を学んだ。卒業後、代言人となり青森と弘前に事務所を開いた。一方で政治活動にも奔走し、1882年(明治15年)から青森県会議員を3期、1889年(明治22年)から弘前市会議員を務め、県議、市議ともに議長を務めた。
飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月2… 飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日)- 1923年(大正12年)9月18日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。 越後国刈羽郡新道村、のちの新潟県刈羽郡日高村(高田村を経て現柏崎市新道)で、大地主・飯塚弥兵衛の長男として生れた。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ。1868年(明治元年6月)に家督を相続。農業を営む。 実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた。
大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8… 大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉1月10日)は、日本の医師。貴族院勅選議員。医学博士。 三河国宝飯郡当古村(現在の愛知県豊川市当古町)に神職・大林美濃の四男として生まれ、三河吉田藩の侍医・大沢玄竜の養子となった。東京の医学所で医学を学んだ後、1870年(明治3年)にドイツ留学を命じられ、ベルリン大学で学んだ。帰国後、東京医学校教授に就任したが、1878年(明治11年)に辞職して、自費で再びドイツに留学し、シュトラスブルク大学で医学博士の称号を得た。 1882年(明治15年)に帰国後、東京大学医学部教授となり、1886年(明治19年)には東京帝国大学医科大学教頭に就任した。
藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8… 藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8月10日) - 明治25年(1892年)8月19日)は、日本の新聞記者、政治家。旧姓は林、号は鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生。衆議院議員。 豊後国海部郡佐伯(現在の大分県佐伯市)の城下町で佐伯藩のお抱え水主の子として生まれた。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆となる。立憲改進党に参加。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選。その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算二期務めた。 その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任。
十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8… 十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8月9日(嘉永5年6月24日) - 1924年(大正13年)8月12日)は、 明治大正期の企業家。三重県四日市市出身の三重紡績創設者で第2代東洋紡績株式会社社長。三岐鉄道建設に私費を投じて沿線に小野田セメントを誘致した四日市市名誉市民の十一代目伊藤伝七は息子(養子)である。 伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造業の伊藤家に生まれる。母は進士みす。幼名は伊藤清太郎。江戸時代の幕末期に元服して伊藤伝一郎。1883年(明治16年)に父の9代目伊藤伝七が亡くなり、伊藤伝七(10代目)を襲名した。 1879年(明治12年)5月60歳で没した稀代の製糸王伊藤小左衛門 (5代目)の遺志を継いだのは、製糸頭の伊藤小十郎(伊藤小左衛門5代目の子)と、後に紡績王と称される伊藤伝一郎(伊藤伝七10代目、後の伊藤伝七知周)の2人であった。
北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(18… 北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(1852年8月5日) - 大正14年(1925年)1月25日)は、堺市長、衆議院議員。 和泉国堺出身。1874年(明治7年)より、副戸長、学区取締、学区取締幹事、戸長、和泉郡・大鳥郡書記を歴任した。1881年(明治14年)、大阪府会議員に当選し、1891年(明治24年)には副議長、1892年(明治25年)には議長に就任した。また1889年(明治22年)には堺市会議員に当選し、議長に選出されている。 1893年(明治26年)、堺市長に就任。学校建設、商品陳列所・米穀取引所設立に尽力した。1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5… 野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5年6月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。正五位勲三等功四級。 特記のない場合『旧岡藩勤王家略伝』による
千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(185… 千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(1852年8月2日) - 明治16年(1883年)11月13日)は、日本の教育者、自由民権運動家。私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。 1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫、北緯38度46分35.1秒 東経141度5分55.7秒)に仙台藩の下級士族である千葉宅之丞と妾のちかの長男として生まれる。3歳のときに母親が千葉家を去り、義母に育てられる。11歳で仙台藩藩校・養賢堂(北緯38度16分6秒 東経140度52分16秒 / 北緯38.26833度 東経140.87111度 / 38.26833; 140.87111 (仙台藩藩校・明倫養賢堂(跡地は宮城県議会議事堂)))にて大槻磐渓に師事。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(嘉永4年7月12日) - 1929年(昭和4年)8月27日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡日光(栃木県下都賀郡日光町を経て現日光市)出身。漢学を学ぶ。主に外国人を相手とする美術貿易商を営み、日光町会議員、栃木県会議員となる。豊富な財力と人脈を有していた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 1905年頃から訪日外国人旅行者を対象とする「大名ホテル」の建設を進め、1919年頃に建物が完成したが、ホテルの開業には至らなかった。
山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年… 山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日)は、明治時代の日本の洋画家、版画家である。 嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。
関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永… 関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永3年7月5日) - 1912年(明治45年)1月21日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 木村寿山の子として水戸城下に生まれ、1870年(明治3年)常陸国信太郡鳩崎村(茨城県信太郡鳩崎村、稲敷郡鳩崎村、江戸崎町を経て現稲敷市)の先代・関口八兵衛の養子となり家督を相続する。漢学を修めた。1882年(明治15年)鳩崎村外2箇村戸長となり、1884年(明治17年)同職を辞し、翌年の1885年(明治18年)茨城県会議員に当選するが辞退した。醤油醸造業に従事する傍ら、1888年(明治21年)為替回漕会社を江戸崎町に興し、1889年(明治22年)には煉瓦製造場を設立した。
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(185… 田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 大正12年(1923年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3… 岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3年6月28日)- 1919年(大正8年)12月17日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・高橋、幼名・権作、雅号・雲隣。 出雲国神門郡稗原村(現島根県出雲市)で、豪農・高橋佐十郎の二男として生まれ、10歳で松江堅町の豪商・先代岡崎運兵衛の養子となる。江戸の昌平坂学問所で学び、帰郷後、藩儒・澤野修輔、中村守手などに師事し、さらに南画を天野漱石に学んだ。慶応3年(1867年)養父の死去に伴い18歳で家督を継承し、運兵衛を襲名した。 維新後、自由民権運動に加わり自由党に入党。松江町会議員、松江市会議員、同議長、島根県会議員、同副議長、同議長を歴任。
粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 … 粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 - 1919年〈大正8年〉9月24日)は、幕末の長州藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等功三級。 長門国阿武郡椿郷西分村(現山口県萩市)で、長州藩士・粟飯原衛門兵衛の長男として生まれた。四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争での奥州各地の戦闘に参戦した。 1872年(明治5年)2月、陸軍少尉に任官。西南戦争では別働狙撃大隊(長:河野通好少佐)の第1中隊長を務め、佐賀県を転戦のち熊本城下守備につく。1891年(明治24年)4月に陸軍歩兵中佐・歩兵第19連隊長に補任され、第3師団・桂太郎中将隷下で日清戦争に出征し、海城攻防戦にて奮戦した。
多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2… 多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2年7月14日)- 1919年(大正8年)6月9日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。蚕糸業功労者。山形県における機械製糸業の先駆者であり、世界的人気を博した生糸ブランド「羽前エキストラ」の生みの親として知られる。 出羽国置賜郡漆山村(山形県東置賜郡漆山村、宮内町を経て現・南陽市漆山)で、資産家である3代目・多勢長兵衛の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月に分家した。 明治維新後、日本の主要輸出品であった生糸の品質向上のため、兄の4代目・多勢長兵衛とともに先進技術の導入に奔走する。1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場を視察して機械製糸の技術を習得し、1873年(明治6年)には漆山に初の機械製糸工場を建設した。
磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年… 磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年8月27日) - 明治26年(1893年)11月29日)は、明治時代、滋賀県旧神崎郡(のちの八日市市、現在の東近江市)選出の県会議員。 磯部家は神崎郡上中村(現在の東近江市建部上中町)では裕福な家であった。明治21年11月から明治25年の間、県会議員に選出されている。上中村戸長から明治22年6月に建部村初代村長に就任する。当時の制度では村長は官吏ではなく官からの給与は支払われていなかった。 旧八日市市域選出の県会議員は市の規模と比較して少ないのは否めない。これは、当地域では政治性が希薄であったことによる。そういった中、磯部亀吉は当地域選出の議員としては非常に活躍した議員であった。
白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月… 白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月25日) - 大正元年(1912年)9月10日)は、婦人運動家、庄内婦人会会長。出羽国庄内(現在の山形県鶴岡市)出身。
塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永… 塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永2年6月20日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家、篤農家、長野県の大地主、長野県多額納税者。佐久銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川幸左衛門の長男。阿部四之助、塩川幸太、塩川賢三、塩川三四郎の叔父である。農業を営み、大地主である。1887年、家督を相続する。佐久銀行監査役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6… 古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6月18日) - 1910年(明治43年)1月5日)は、明治時代の政治家、大地主、岐阜県多額納税者。衆議院議員(岐阜県郡部選出、当選1回)。岐阜県恵那郡大井村長、大井町長。族籍は岐阜県平民。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡大井町(現恵那市)に生まれる。尾張明倫堂に入り、漢学を学ぶ。 農業を営み、学区取締、恵那郡書記、岐阜県会議員、大井村長、大井町長などを務めた。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。中正倶楽部に所属した。