永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月… 永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月1日 - 1998年 <平成10年> 2月9日)は、日本の経営者。日立造船社長、会長を務めた。位階は従三位。 熊本県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、1934年に大阪鉄工所(のちの日立造船)に入社。1962年11月に社長に就任し、1979年6月には会長に就任。1983年6月に代表取締役を経て、1986年4月から取締役相談役を務めた。日本経営者団体連盟副会長も務めた。 1998年2月9日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 197… 大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日)は、将棋棋士。棋士番号7。東京府東京市(現:東京都台東区)出身期。木見金治郎九段門下。 東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。1929年に四段昇段。 戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年(昭和22年)に順位戦がスタートした際に、振り飛車を積極的に採用するようになる。それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が「持ち時間各7時間の1日制」に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がない振り飛車を採用したとされる。この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、「振り飛車の神様」の異名を持つ。
結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9… 結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9月 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の教育史学者。位階は従四位。 石川県宇出津生まれ。1940年、東北帝国大学法文学部国史学科を卒業。教師を経て、1944年、東京第三師範学校助教授、翌年教授となる。1949年6月からは東京学芸大学助教授。1965年4月に名古屋大学教授となり、1975年に定年退官、名誉教授。同年、皇學館大學教授となり、1982年3月まで務める。1960年に「金沢文庫の教育史的研究」により、日本大学から文学博士の学位を授与される。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 -… 小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 - 没年不詳)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内市(現薩摩川内市)で生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1932年(昭和7年)に旧制第七高等学校造士館文科を卒業して東北帝国大学法文学部へ進学するが、1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部法律学科へ入学し直す。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井鉱山(現日本コークス工業)に入社。終戦直前に帰郷した。その後、鹿児島造船役員、東亜重工業役員、西日本建設業保証 (株) 営業所長などを務めた。 戦後、山中貞則らと青壮年同志会に加わり青年団運動に参画。
畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 -… 畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉1月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(4期)、埼玉県知事(5期)を歴任。 埼玉県北埼玉郡礼羽村(現・加須市)出身。礼羽村立礼羽尋常小学校、旧制不動岡中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学教養学部)、東京帝国大学法学部卒業。 弁護士を経て、埼玉県議会議員を2期務めた後、1960年の第29回衆議院議員総選挙に旧埼玉1区から日本社会党公認で立候補し当選(4期連続当選)。社会党右派の有力議員として活動した。 1972年(昭和47年)の埼玉県知事選挙で自由民主党公認の前川口市長・大野元美と反共全国遊説隊公認の高田がんの両候補を破って初当選、以後連続5期。
秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1… 秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1991年8月27日)は、評論家、哲学者。本名は秋津賢一(あきつ けんいち)。 静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退。 1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。
井上 ふみ(いのうえ ふみ、1910年9月28日 - 200… 井上 ふみ(いのうえ ふみ、1910年9月28日 - 2008年10月12日)は、日本のエッセイスト。作家井上靖の妻。 京都市の吉田山に生まれる。父・足立文太郎は京都帝国大学教授、解剖学者。同志社女学部から専門部英文科に進むが、病気のため中退。1935年、当時京大の学生だった井上靖と結婚。1991年、夫の没後は、井上靖文化財団理事長を創設。5冊の回想エッセイを刊行した。 長男の井上修一は、ドイツ文学者。次兄の娘婿である福田宏年もドイツ文学者で井上の評伝・作品編さんに当たった。
山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 200… 山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 2001年10月)は、日本の政治家・元地方公務員。北海道江別市長(1971年 - 1983年)。北海道網走郡美幌町出身。明治大学専門部商科(後の明治大学商学部)卒業。 美幌町の造材屋に生まれるが、早くに父を亡くす。小学校は網走で終えた。 自治講習所で学んだあと、小清水村役場にて4年間勤務する。 それから、東京で新聞販売店を経営していた兄を頼って上京し、1938年(昭和13年)に明治大学商科専門部を卒業した。 芝浦マツダ製作所(後の東芝)の経理として就職し、神戸の子会社に出向するなどしたが、1945年(昭和20年)に故郷近くの湧別町に疎開。太平洋戦争終結後は、湧別定温倉庫の支配人を務めた。
岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月2… 岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月27日 - 1958年(昭和33年)11月17日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 鹿児島県姶良郡、のちの隼人町(現霧島市)で岡元常助の長男として生まれる。1923年(大正12年)宮崎県立小林中学校(宮崎県立小林高等学校)を卒業。さらに市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高等学校)機械科を卒業した。 1929年(昭和4年)大阪川西内燃機関研究所員となる。1931年(昭和6年)朝鮮西松組に転じた。以後、朝鮮水力電気機関庫主任、国際運輸自動車部主任を経て、承徳と天津市で華北運輸公司を経営し、さらに北京市で北支工廠を経営して終戦を迎えた。
相良 惟一(さがら いいち、1910年9月27日 - 198… 相良 惟一(さがら いいち、1910年9月27日 - 1987年5月15日)は、日本の教育学者。専門は教育行政学。 東京帝国大学卒業。文部省総務課長、ユネスコ本部学校教育振興部長を経て、1955年京都大学教育学部教授、退官後国際大学都市日本館長、聖心女子大学学長などを歴任した。 1910年(明治43年)9月27日、東京に生まれる(本籍地は福岡県)。 1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。大学では美濃部達吉・田中耕太郎の指導を受ける。同年7月、文部省専門学務局雇員となり、翌1936年(昭和11年)4月、文部省嘱託、外務省文化事業部第二課勤務。 1937年(昭和12年)9月から1938年(昭和13年)12月まで応召、中支派遣部隊に従軍。
波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年… 波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年)9月27日 - 1951年(昭和26年)12月10日)は、青森県八戸市出身の歌手。 青森県八戸市の大地主の息子として生まれるが、歌手になるために親の反対を押しきって東洋音楽学校に入学する。1936年(昭和11年)同校卒業後、日本劇場に出演などを経て、1937年(昭和12年)ビクターよりデビュー。「皇軍大捷の歌」、「かちどきの歌」、「大陸行進曲」、「日の丸行進曲」、「興亜行進曲」、「空の勇士」、「国民進軍歌」など、戦時歌謡を多く吹き込む。 1942年(昭和17年)にビクターのトップ歌手だった徳山璉が亡くなった事から、その後ビクターの戦時歌謡は波岡に回って来ることが多かった。
前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1… 前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1988年12月10日)は日本の造園家。造園史家。農学博士。 東京に野尻爻六・すね夫妻のもとに生まれる。豊山中学校を卒業し、國學院高等師範部に進学し、渡辺世祐、高柳光寿の指導を受け、1931年に卒業。博文館に勤めた後、東京市に任用になり、井下清課長のもとで公園行政ともっぱら公園機関紙の編集に関わる。 1970年、第1回日本公園緑地協会北村賞受賞。1983年に「宗教緑地論 : 社寺境内地の歴史的評価と公園緑地政策におけるその役割」により、東京農業大学から農学博士の学位を授与される。おもな著書に東京公園文庫シリーズがある。
中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9… 中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9月26日 - 1969年(昭和44年)2月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 山口県、現在の美祢市出身。小学校卒業後、中央鉄道教習所運転高等科を卒業し日本国有鉄道に就職。国鉄機関士、華中鉄道機関士、運輸省技官、教官などを歴任。 労働運動に加わり、日本国有鉄道機関車労働組合(のち国鉄動力車労働組合)副委員長、同委員長、機労政治連盟議長、全交通運輸労組協議会副議長などを歴任。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)し、1962年(昭和37年)7月の第6回通常選挙で全国区から出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2… 中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。 山梨県白州町に医師中村進の長男として生まれる。東京出身。旧制新潟高等学校卒。1934年、千葉医科大学卒。瀬尾貞信の元で学ぶ。1936年、同助手。1938年、医学博士。1947年、千葉医科大学教授、のち組織改編により千葉大学医学部教授。1964年、国際外科学会の「世紀の外科医賞」を受賞。1965年、東京女子医科大学客員教授。同大に消化器病センターを設立。同年中山癌研究所を創設。1966年ベルツ賞1等賞を受賞。日本消化器外科学会会長、国際外科学会会長。1991年、がん医学の中山恒明賞を創設。
杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1… 杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1991年5月7日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。 兵庫県美方郡浜坂町(現・新温泉町)出身。姫路師範学校卒、広島高等師範学校卒、1937年広島文理科大学教育学科卒、福井師範学校教授、鹿児島師範学校教授、鳥取師範学校教授、1947年広島文理科大学講師、1949年助教授、1952年「生命哲学と教育学」で広島文理科大学文学博士。1953年教授、広島大学教育学部教授、1961-1964年広島大学教育学部附属小学校校長、1974年広島大を定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。1983年勲三等旭日中綬章を受章。
久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 199… 久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 1993年11月23日)は、日本の政治家。長崎県知事(公選第7-9代)、参議院議員(2期)。愛称は「クボカン」。元五島市長の中尾郁子は娘。 長崎県五島列島の三井楽町(現五島市)で生まれる。長崎県師範学校(現長崎大学)を卒業後、五島の農協組合長を経て長崎県議会議員に当選。1961年から1962年に同議会議長。 1962年の第6回参議院議員通常選挙に出馬し、長崎地方区で初当選。参議院文教委員長などを務め、2期目途中の1970年に長崎県知事選挙に出馬。4選をめざす佐藤勝也に挑戦し、地元生え抜きの久保と官僚出身の佐藤という構図の対決となり、自民党県連が2つに割れた。
中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24… 中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道範士九段(全日本剣道連盟)。流派は神道無念流剣術、夢想神伝流居合。職業は警察官(宮内省皇宮警察、鹿児島県警察)。 鹿児島県出身。大道館武道専修学校を第一期生として卒業後、上京して中山博道の道場・有信館に入門する。剣道の公式戦で69連勝を打ち立て、「昭和の武蔵」、「戦うに敵なし」と謳われた。第二次大戦後は全日本東西対抗剣道大会で9人を勝ち抜く記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとった。 関東管区警察学校教授、一橋大学、中央大学、防衛医科大学校剣道部師範、鹿児島県剣道連盟理事長、全日本剣道連盟審議員などを歴任した。
中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明… 中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球審判員。
山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 … 山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 - 1993年9月15日)は、日本の洋画家。 1910年(明治43年)9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。東京美術学校卒業後兵役に就き、戦災でアトリエを焼失。戦後は東京都・板橋区に居を構え、創作を再開。日展出品を重ね、1992年(平成4年)日展参与となる。1993年(平成5年)9月15日に死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20… 田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20日 - 1998年〈平成10年〉3月30日)は、日本の政治家、華族(男爵)。正三位勲一等。首相を務めた田中義一の長男。 戦後間もなく貴族院議員、山口県知事を務め、のち自由民主党に所属し衆議院議員、通商産業大臣、文部大臣を歴任した。福田派の幹部として重きをなし、岸派以来の福田赳夫側近として行動を共にした。また長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地の日系移民とその家族の支援に尽力した。 1910年(明治43年)9月20日 、陸軍軍人・田中義一の長男として山口県萩市に生まれる。暁星中学校から一浪を経て浦和高等学校(現・埼玉大学)に進学し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。
天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 19… 天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 1992年11月22日 本名・中野政雄)は、東京都出身の音楽家、作曲家、ピアニスト。 東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)本科卒。その後東京中央放送局(のちのNHK)の専属ピアニストに就任。特に、戦後の『のど自慢素人演芸会』や、音楽ゲーム番組『三つの歌』では出場者の伴奏を展開した。 歌手・タレントの天地総子は実の娘である。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月1… 浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月16日 - 1986年〈昭和61年〉12月2日)は、元二松學舍大学理事長・学長、日本遺族会副会長、全国社会福祉協議会評議員・理事。故郷・群馬県では「上毛かるた」の生みの親として知られている。 群馬県吾妻郡長野原町林に、浦野安・倶子の六男として生まれる。浦野家の先祖は、大戸城主・浦野真楽斎の次男・浦野左衛門尉村信であるという。浦野家は代々大乗院住職・王城山(みこしろやま)神社別当を世襲し、その墓所には初代村信の墓という「御塚」(長野原町指定文化財)が所在する。 父・安は地元の小学校校長を務めたのち東京法学院(現・中央大学)を卒業して大蔵省主計局に勤務し、帰郷後は長野原町長などの公職に就任、神職としても群馬県皇典講究所理事、全国神職会群馬県代表などを務めた。
伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - … 伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - 1983年2月5日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長を務めた。東京都出身。 1933年に明治大学法学部政治学科を卒業し、1935年4月に千代田火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1965年6月に専務、1969年6月に副社長を経て、1977年7月から1980年7月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1983年2月5日に急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月1… 植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22日)は、日本の郷土史家。山梨県の郷土研究を行う。位階は従六位。 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業後、西八代郡高田村(現・市川三郷町)の高田小学校、山梨県女子師範学校附属小学校に勤務し初等教育に携わり、1948年(昭和23年)には東山梨郡後屋敷村(現・山梨市)の後屋敷小学校、塩山市立北小学校、山梨市立八幡小学校において教頭職を務め、1966年(昭和41年)に東山梨郡牧丘町の牧丘町立牧丘第二中学校(現在・山梨市立牧丘第二中学校)校長で退職。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8… 林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8月6日)は、日本のアメリカ文学者。 千葉県出身。1935年東北帝国大学文学部英文科卒。旧・東京都立大学助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、創価大学文学部教授。92年定年、名誉教授。
真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -198… 真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -1987年10月30日)は、日本の小説家、文芸評論家。大衆文学研究会会員。 愛媛県宇摩郡関川村(現・四国中央市)出身。1931年、広島高等師範学校(現・広島大学)国文科中退。上京して日本プロレタリア作家同盟に加入するが、後に脱退。1939年博文館に入社し、勤務の傍ら時代小説を執筆。戦後は数年間、新小説社の『大衆文芸』の編集をし、自ら「炎風」を連載。1958年『炎風』で新鷹会賞特別奨励賞を受賞。その後は実作及び評論を手がける。
花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 19… 花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 1984年6月12日)は、日本の女優である。出生名は瀧川 幾代(たきがわ いくよ)、結婚後本名は松崎 幾代(まつざき いくよ)。1920年代末の松竹蒲田撮影所の喜劇女優として知られ、戦後は新東宝に所属、脇役俳優として映画に多く出演した。 1910年(明治43年)9月11日、静岡県静岡市寺町(現在の同県同市葵区駿河町)に生まれる。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』(蒲田雑誌社)には「1911年9月1日出生」との旨の記述がみられる。 旧制小学校卒業後、旧制・静岡精華高等女学校(現在の静岡大成高等学校)に進学、1928年(昭和3年)3月、同校を卒業する。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉… 平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉9月10日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の作曲家。本名、平井 保喜(ひらい やすき)。 高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。父親・惣太郎の影響で、家にはオルガンや蓄音器がある等、音楽的に恵まれた環境で育った。伊野小学校から、1923年(大正12年)に旧制土佐中学校(現:土佐中学校・高等学校)入学。土佐中学校在学中に当時の校長:三根円次郎(ディック・ミネの父)が生徒向けに用意していた蓄音機で音楽を聴き、独学でヴァイオリンを練習したことがNHKのラジオ番組で息子の平井丈一朗によって語られた。1929年(昭和4年)に東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)ヴァイオリン科に進学し、ローベルト・ポラックに師事して1934年(昭和9年)に卒業。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。
黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 200… 黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 2006年8月16日)は、日本の随筆家である。タレントの黒柳徹子の母親。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月… 頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月4日 - 1992年6月)は、日本の国文学者、広島大学名誉教授。竹原頼家の子孫である。 広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)に生まれる。竹原町の富豪で製塩業・頼俊直の三男。第三高等学校を経て、1933年、東京帝国大学文学部国文科卒業。 1939年から1945年まで日本放送協会勤務。1946年、三原高女、県師範女子部、1949年、広島大学教育学部分校の教師。1953年から1963年まで三原分校付属校長。その後広島大学教授となり、1974年、退官、名誉教授、安田女子大学教授。 頼山陽の叔父頼春風の玄孫である。近世浄瑠璃を専門とした。趣味は柔道。住所は広島市南区比治山町、広島市牛田本町6丁目。
宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1… 宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。 明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。 1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910… 金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910年9月2日 - 消息不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 京畿道楊州郡州内面維楊里(現・楊州市維楊洞)出身。中央高等普通学校(現・中央高等学校)を卒業した後、1930年に京城法学専門学校(現・ソウル大学校)、1933年に普成専門学校(現・高麗大学校)法科にそれぞれ入学した。1936年に卒業後、渡日し中央大学法学部に入学し、1940年に卒業した。光復後は米軍政庁で管財処の監察官、楊州郡の州内面長などを務めた。1948年5月の初代総選挙に無所属で楊州郡甲区より立候補して当選し、制憲国会議員となった。当選後の6月に無所属倶楽部に参加し、常任委員会の産業労農委員会に所属した。
水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 19… 水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。
宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980… 宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980年5月9日)は、日本の俳優。宇佐美 淳也、宇佐美 諄の芸名でも活躍した。本名:駒木 五郎。 岩手県二戸郡姉帯村出身。東京農業大学中退後に明治大学を卒業。その後は松尾自動車会社に就職。1937年、親類である作家の北村小松の紹介で新興キネマに入社。映画役者として端役からキャリアを積み、二枚目スターとしての地位を確立。 新興太泉への入社時に付けた芸名「宇佐美諄」は宇佐美が理想の青年像と考えていた菊池寛の小説「心の日月」の登場人物「宇佐美慎介」にあやかったものだが、これをそのまま拝借しようとしたところ新興の宣伝部長に「慎介という名前は現代青年らしくない」と反対されたため、一字名の「諄」にしたという。
近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日… 近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日 - 2025年〈令和7年〉5月20日)は、日本の農家、スーパーセンテナリアン。愛知県額田郡幸田町在住の長寿の女性。2025年4月26日から死去まで国内最高齢であった。 愛知県東加茂郡旭村大字伊熊(現:豊田市伊熊町)に生まれた。結婚後は農家として働き、明るい性格で周囲から好かれていた。 2023年3月に愛知県最高齢者となり、2024年12月に日本で2番目の長寿者となった。9人の子をもうけ、孫が16人、ひ孫が33人、玄孫が11人いる。「うまい、うまい」が口癖であるという。長生きの秘訣は好き嫌いなくなんでも食べること。また「よく外に出かけていたこと」も秘訣とされ、毎年豊田市の香嵐渓を訪れ、うどんや五平餅を食べていた。
吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年1… 吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年12月18日)は、日本の実業家・技術者。旭硝子株式会社(現・AGC株式会社)で常務取締役を務め、戦後のブラウン管テレビ用ガラスの国産化および量産体制の確立に貢献。日本の高度経済成長を支えた素材産業の技術系経営者の一人である。 鳥取県八頭郡安井宿(現八頭町)に生まれ、鳥取県立鳥取中学校(旧制)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。 卒業後、旭硝子株式会社(現・AGC)に入社し、技術者としてガラス製造現場に携わる。1950年代、白黒テレビの急速な普及を背景に、テレビ用ブラウン管ガラス(バルブ)の国産化プロジェクトに参画。
江津 萩枝(えづ はぎえ、1910年9月 - 2008年3月… 江津 萩枝(えづ はぎえ、1910年9月 - 2008年3月27日)は、日本の小説家。 東京・京橋出身。沢村貞子の紹介で築地小劇場内の移動劇団「メザマシ隊」に参加し、小杉てるの芸名を名乗った。小説家としては、原爆文学として知られる『桜隊全滅』や築地小劇場を描いた『メザマシ隊の青春』など、太平洋戦争の時代とそれに翻弄された演劇集団を描きだした著作がある。 『桜隊全滅』は1988年、新藤兼人の脚本・監督により「さくら隊散る」の題名で映画化された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
市田 禎蔵(禎藏、いちだ ていぞう、1909年 <明治42年… 市田 禎蔵(禎藏、いちだ ていぞう、1909年 <明治42年> 9月30日 - 1992年 <平成4年> 7月27日)は、日本の経営者、銀行家。位階は正五位。 滋賀県出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1959年4月に日本開発銀行理事を経て、1966年5月に常陽銀行副頭取に就任し、1967年11月には頭取に昇格。1975年7月に会長、1979年12月に取締役相談役を経て、1981年6月には相談役に退いた 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年7月27日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月… 正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月29日 - 1988年〈昭和63年〉5月28日)は、20世紀の日本人女性。日清製粉社長・正田英三郎の妻。上皇后美智子の母。今上天皇の外祖母に当たる。旧姓:副島。旧名:富美。 中支那振興の常務理事であった副島綱雄の長女として生まれる。上海の日本人北部小学校に通学していた。その後、麹町区の雙葉高等女学校を卒業した。 1929年(昭和4年)春、19歳のときに後の日清製粉会長となる正田英三郎と結婚。英三郎との間には2男2女をもうける。1959年(昭和34年)に長女の美智子が、民間人として初めて皇太子明仁親王と結婚して皇族となった。1988年(昭和63年)5月28日、入院していた聖路加国際病院で腎不全のため死去(満78歳没)。
小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐198… 小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐1982年6月13日)は、キリスト教徒の医師で、信徒伝道者、信徒神学者、聖書研究者。 北海道釧路生まれ。1927年北海道帝国大学医学部入学。同年に洗礼を受け両親が所属していた札幌独立キリスト教会の会員として奉仕活動を始め、札幌市東端のスラムで伝道及び無料診療を行なう(召集を受ける1937年までの10年間)。 1934年北海道帝国大学医学部卒業、附属医院第二内科に入局し結核の研究に従事。太平洋戦争開始の1941年札幌市で医院を開業するも召集と解除の繰り返しの中で終戦を迎え、本格的な開業医としての生活は戦後になる。 1945年終戦により札幌独立キリスト教会の再建に努め礼拝の証詞を担当するなど信徒伝道者としての働きを本格化させる。
木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 19… 木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 1971年4月17日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。 長崎県出身。1932年日本大学法律科卒。卒業後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府で検事をしていた。終戦後に引揚げ、長崎市で弁護士を開業した。長崎県労働委員会中立委員、同会長代理となり、1951年の長崎市長選挙では現職の大橋博に対抗する形で無所属で立候補したが、同じ弁護士の田川務に破れて落選した(現職の大橋も落選)。 その後、1952年第25回衆議院議員総選挙で長崎1区から日本社会党左派公認で立候補して初当選し、6回当選した。この間1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選、1967年の第31回衆議院議員総選挙で復帰、1969年の第32回衆議院議員総選挙に出馬せず引退した。
玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 20… 玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 2013年)は、日本の物理学者・科学史家。