大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 19… 大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 1985年7月7日)は、秋田県南秋田郡戸賀村出身で高島部屋に所属した力士。本名は石川 三治。187cm、101kg。最高位は東前頭3枚目。 1926年5月場所初土俵、1932年2月場所春秋園事件により幸運な十両昇進。十両では新十両の場所で8戦全勝優勝を果たすなど負け越しがなく、翌1933年1月に新入幕を果たした。連続6場所幕内を務めたのち、一度十両に陥落したが、再度十両優勝を果たしている(1936年1月場所)。1936年5月に再入幕、1940年1月場所には最高位である東前頭3枚目に進出、同年5月場所では横綱男女ノ川を倒して金星を獲得したが、翌1941年1月場所を全休してそのまま廃業した[要出典]。
伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月3… 伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月30日 - 1990年(平成2年)5月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐弘の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)1月15日に子爵を襲爵した。1936年(昭和11年)京都帝国大学経済学部卒業。同年、日興木材(宮城県)相談役に就任。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 古美術に精通し、数冊の書籍を出版した。また、渋谷区松濤の自宅を高級マンションとして開発して戦後も事業家として成功を収めた。
斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日… 斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日 - 1977年1月1日)は、西洋哲学研究者。山形県酒田市出身。 1925年酒田市甲種商業学校卒、山口銀行東京支店勤務、1931年早稲田大学文学部西洋哲学科卒、1934年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1935年同副手、1936年同法学部助手、1939年大東協会調査員嘱託、1940-1942年イスラム研究のためエジプト大学に学ぶ。1947年北海道帝国大学法文学部助教授、1951年7月北海道大学文学部教授、12月神戸大学文理学部教授、1954年中央大学文学部教授。 1957年「イロニーの研究」で北海道大学文学博士。1961-1962年渡欧しマルティン・ハイデッガーに面会している。
磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月2… 磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月29日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の実業家、登山家。元明治屋代表取締役社長。元日本商品学会顧問。 東京出身。磯野長蔵の長男。1931年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。同大学山岳部出身で、在学中冬の鹿島槍ヶ岳登頂に成功。1933年からイギリスで商社実務研修を受け、ウォルター・ウェストンと交流を持った。明治屋取締役を経て、1944年、明治屋取締役副社長。1950年、日本商品学会顧問。1959年、明治屋代表取締役社長、キリンビール監査役。1966年6月27日、膀胱癌のため慶應義塾大学病院で死去。 1987年、磯野文庫創設。
鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、190… 鄭 鎮瑾(チョン・ジングン、朝鮮語: 정진근/鄭鎭瑾、1907年9月29日 - 1984年7月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、農家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道梁山郡(現・梁山市)出身。早稲田大学政経科卒(中退という情報もある)。中国にて長い間民族運動を行った後に帰国し、農家を営んだ。また、安熙済が経営する白山商会を通じ朝鮮独立運動のための資金的な支援などを行った。1948年の初代総選挙に梁山郡選挙区より無所属で出馬し当選した。国会では懲戒資格委員会委員を務めた。 1984年7月25日に梁山郡上北面の自宅で老衰により死去。享年79。 1950年の第2代総選挙では梁山郡選挙区から従兄弟の安鐘石と同時に出馬したが、2人を含む計10人の候補者がいた混戦で共倒れして徐璋珠に敗れた。
松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日… 松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日 - 1997年〈平成9年〉2月5日)は、日本の日本文学者。専攻は平安時代文学。学位は、文学博士(東京大学)。学習院大学名誉教授。 東京帝国大学で池田亀鑑に師事。旧制学習院高等科の教員での教え子に三島由紀夫がいた。松尾光は、5男、日本古代史研究者で、博士(史学)の学位取得者。 東京市赤坂区(現・東京都港区)青山生まれ。第一高等学校文科甲類、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部国文学科卒、同大学院(旧制)修了。卒業論文は『浜松中納言物語』の研究で、全5巻のうち欠落していた末巻を発見し、その翻刻校訂の成果を『尾上本浜松中納言物語』にまとめた。
佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - … 佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前から戦後にかけて活躍した作曲家。 福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)。東洋音楽学校(現:東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラムとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。 そして1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒットメーカーとなった。
浅尾 丁策(あさお ていさく、1907年9月27日 - 20… 浅尾 丁策(あさお ていさく、1907年9月27日 - 2000年1月29日)は、日本の油絵専門の絵画修復師(英語版)。美術モデル紹介所のプールヴーモデル紹介所の創始者でもある。 1907年9月27日、東京市下谷区(現・台東区)に生まれる。父親は、油絵筆の製作販売店「拂雲堂」の主であった。 1925年、画材店竹見商店の店員となり、画材の知識を詰めこむ。1927年に、東京美術学校の近所に、画材店の浅尾拂雲堂(あさおふつうんどう)を創業する。画材店経営のかたわら、油絵の修復について研究を重ね、東京美術学校教授の田辺至や画家の山下新太郎ら修復に詳しい人物から知識教わるなど、油絵修復技術の確立にこぎつける。
柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 194… 柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 1946年7月27日)は、日本の画家。旧姓最上。最上広胖の娘。 1907年、秋田県大曲市で生まれる。但し、父広胖は1900年より貴族院議員になってすでに東京麹町に邸宅を構えていたので東京生まれの可能性が高い。母か禰。幼名義枝。父の帰省に伴い、度々秋田県角間川の尋常高等小学校に一時編入した。 1919年、安子に改名。 1921年、鎌倉女学校入学。 1923年、震災後東京にもどり、千代田高等女学校に編入、在学中から松岡映丘に師事。 1931年に由利本荘市出身の東洋史学者柴田宜勝と結婚。 1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月… 中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 1936年の二・二六事件に決起部隊将校として参加し、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。 東京牛込に、陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。本籍地は佐賀県。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)を経て東京陸軍幼年学校に入った。 陸軍士官学校第41期生となり、同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。この2人とは二・二六事件の同志となるが、この頃交友があったかは不明。
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 20… 井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。 東京府生まれ。東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1930年京都帝国大学文学部独文科卒。 神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。1939年法政大学で教える。 1935年治安維持法違反で検挙、不起訴。 1936年日本大学講師。1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、1951年教授、1971年定年退任。 1997年、これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1… 山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1991年10月6日)は、日本の吹奏楽指導者である。世界的打楽器奏者、ツトム・ヤマシタの父。上京中学校吹奏楽部を創部。生徒には北村源三が所属。 京都府南丹市美山町鶴ヶ岡出身。東京音楽学校選科ピアノ研究科修了。京都市上京中学校教員を勤める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
川野辺 静(川野邉 静、かわのべ しづ、1907年(明治40… 川野辺 静(川野邉 静、かわのべ しづ、1907年(明治40年)9月24日 - 2003年(平成15年)4月25日)は、日本の政治家、小児科医。位階は正五位。参議院議員(1期、自由民主党)。 静岡県静岡市出身。7人兄弟の長女。不二高等女学校を経て、1930年に東京女子医学専門学校を卒業。同附属病院の小児科医局長となる。帰郷後、1935年に焼津市で小児科医院を開業、2年後には静岡市に移転。静岡大火や空襲でたびたび被災するが、恩師の吉岡彌生からの医療器具の寄付や、趣味の日本舞踊を通じて懇意にしていた尾上菊五郎(6代目)の見舞金に助けられたという。 1951年、静岡市議会議員に当選。児童福祉事業中心に活動、静岡県婦人団体連絡会の会長となる。
井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1… 井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1988年11月5日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。宮崎県出身。 1934年に京都帝国大学法学部を卒業。京都市役所での勤務を経て、1939年に淀川製鋼所に転じ、1944年に常務に就任し、1957年5月に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1977年6月に相談役に就任。 1988年11月5日肝不全のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月… 大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月24日 - 2008年(平成20年)4月1日)は、日本の内科学者である。 愛知県名古屋市に生まれ、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する。1931年(昭和6年)に卒業後は同大学の教授だった呉建が担当する内科教室に所属し、筋ジストロフィー発症の実験的研究に携わったことで1938年(昭和13年)に医学博士を取得した。その後は都立養育院付属医院の院長を経て、戦後当時二大腎臓病であった腎結核や高血圧による動脈硬化の研究にも携わる。 1953年(昭和28年)には日本大学の教授となり、教鞭を執る傍ら血液透析機器の普及等にあたった。
森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 198… 森 恭三(もり きょうぞう、1907年9月24日 - 1984年2月15日)は、日本の新聞記者。朝日新聞所属。 兵庫県西宮市出身。父は神戸市の外国商館に勤務し、兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に進学したが、在学中に父を失う。1930年、東京帝国大学法学部を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。東京帝大在学中には帝大セツルメントの法律相談部で活動した。大阪朝日新聞への就職は母を養う必要からで、社会運動を継続する友人に対して罪悪感を抱いており、大阪経済部に配属後は夜勤料を運動にカンパしていたという。しかし1934年に逮捕状が出た(親友の前田俊彦の妹と交友を持ち、この妹の逮捕による)際に、その執行を差し止めた部長の和田信夫から「人間には得手、不得手がある。
梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - … 梨木 作次郎(なしき さくじろう、1907年9月24日 - 1993年4月9日)は、日本の弁護士、社会運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認)。金沢弁護士会会長、自由法曹団常任幹事などを歴任する。 石川県石川郡蝶屋村(現・白山市)出身。日本大学専門部法科を卒業後、弁護士資格を取得。1931年に日本国民救援会の前身である日本赤色救援会へ入り、三・一五事件や四・一六事件をはじめ治安維持法違反事件の弁護に当たるが、1933年の日本労農弁護団一斉検挙事件で検挙。1935年には懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受け、5年間の弁護士資格停止を命じられる(弁護士業は1938年に再開)。 1946年に日本共産党へ入党すると、自由法曹団や解放運動犠牲者救援会の再建活動に奔走。
河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 19… 河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 1988年4月7日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1925年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、翌年に日本毛糸紡に入社。1955年に東洋紡績取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年に副社長に就任し、1966年6月には社長に昇格した。1974年6月に会長に就任し、1978年7月に相談役に就任し、1986年7月から名誉顧問を務めた。関西電力監査役も務めた。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月7日心不全のために死去。80歳没。
清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993… 清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993年8月10日)は、日本の歴史学者、立教大学名誉教授。専門はアメリカ史。 東京都出身。東京帝国大学卒。第四高等学校講師、1949年立教大学文学部史学科教授に就任。1972年~1974年、アメリカ学会第5代会長。立教大学での教え子に、カナダ史研究者の大原祐子がいる。1976年国際商科大学教授。1985年退職。 アメリカ学会は、1996年、清水を記念する「清水博賞」を創設した。
川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1… 川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1996年6月17日)は、日本のスポーツジャーナリスト、新聞記者、スポーツ評論家。オリンピックを初めて「五輪」と表記したことで知られる。
米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21… 米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21日 - 1994年〈平成6年〉)は、日本の実業家。日本海テレビ、日ノ丸自動車各社長。鳥取商工会議所会頭。 鳥取県八頭郡智頭村(現・智頭町)出身。米原章三の長男。1925年、鳥取県立鳥取第一中学校を卒業する。1928年、第六高等学校を卒業する。1931年、東京帝国大学文学部独逸文学科を卒業する。文部省嘱託拝命。 1936年、高知高校教授。1943年に文部省教学官、1946年に文部省学校教育局専門教育課長に就任する。1949年、鳥取大学教授に任ぜられ、学芸学部長を拝命する。1954年、退官する。以降日ノ丸自動車、鳥取大丸の社長(のち共に会長)、その他各社役員を兼ねる。
上條 信山(かみじょう しんざん、1907年〈明治40年〉9… 上條 信山(かみじょう しんざん、1907年〈明治40年〉9月20日 - 1997年〈平成9年〉2月12日)は、日本の教育者、書家。信山は号で、本名は周一。宮島詠士に師事し、独自の書風を確立。戦後、毛筆書道を学校教育で復活させる必要性を訴え、実現させた。文化功労者。 1907年、長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で農家の三男として生まれた。小学生の頃は野球に熱中していたが、小学校担任の影響で書にも関心が向くようになり、秋山白巌の内弟子として2年間指導を受けた。松本教育実業学校を卒業後、訓導として小学校に勤務する一方、師範学校の受験準備も進め、1925年に長野師範学校に入学した[要出典]。師範学校3、4年の時には信濃毎日新聞と長野県が共催する県展に作品を応募し、連続して最高賞を獲得した(特に、4年の時の審査は比田井天来が行っており、審査後の講評において信山の号をつけられた)。
南部 利英(なんぶ としひで、1907年〈明治40年〉9月1… 南部 利英(なんぶ としひで、1907年〈明治40年〉9月19日 - 1980年〈昭和55年〉12月15日)は、南部家第44代当主。現当主の南部利文の祖父。爵位は伯爵。貴族院議員。後陽成天皇の男系九世子孫にあたる。 1907年(明治40年)公爵一条実輝(旧字体:一條實輝)の三男として生まれる。初名は一條實英(さねひで)。1928年(昭和3年)、南部家当主南部利淳の長男利貞が18歳で死去したことから南部家との婚約が持ち上がり、1929年(昭和4年)に利淳の長女瑞子と結婚し、養嗣子となる際に(南部)利英(「利」は南部家の通字)と改名した。翌1930年(昭和5年)1月1日に養父利淳が急逝し、南部家第44代当主となる。
飯田 高央(いいだ たかお、1907年〈明治40年〉9月18… 飯田 高央(いいだ たかお、1907年〈明治40年〉9月18日 - 没年不明)は、日本の政治家、東京板橋の素封家、地主、家主。東京市会議員、板橋区会議員。 東京府北豊島郡板橋町大字下板橋出身。飯田宇兵衛の長男。父・宇兵衛は病を得て夭逝、母の薫陶を享け人となった。 東京帝国大学経済学部卒業。1914年、家督を相続した。金融業を営んだ。趣味は読書。住所は東京市板橋区板橋八丁目。 飯田家は板橋の旧家・名門である。先祖は大坂冬の陣に大坂方に組し、今福の合戦で関東方をなやませた飯田左馬允貞秀である。代々「宇兵衛」を襲名し、板橋宿中宿の名主で脇本陣を務めた。幕末には14代将軍家茂へ降嫁する皇女和宮が宿泊した。
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 … 関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は、昭和期のソプラノ歌手。本名は秋山種子。 岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京府立第二高等女学校から東京音楽学校に進学。ドイツリートをマルゲレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。 「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭(もた)れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
武政 英策(たけまさ えいさく、1907年〈明治40年〉9月… 武政 英策(たけまさ えいさく、1907年〈明治40年〉9月18日 - 1982年〈昭和57年〉12月1日)は、愛媛県出身の作曲家。代表作『南国土佐を後にして』『よさこい鳴子踊り』などがある。 出生時の姓名は和気政之であったが、武政家の跡を継ぎ、武政政之となった。「政」という字が続くので、東京に出るときに英策と名のりはじめた。15歳で電機学校(現・東京電機大学)に入り、卒業後、就職せずに門馬直衛と山田耕筰に師事。耕筰の助言を受け、23歳で京都で機械設計の仕事に就く。 1937年にNHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者となる。新興キネマの映画音楽監督も務めていたが、戦争が近づき、34歳で大阪大学航空学研究所で低速飛行機やオートジャイロの研究に携わる。
東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9… 東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9月17日 - 1994年(平成6年)9月8日)は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm。 新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。 1907年(明治40年)9月17日(火曜日)、群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[要文献特定詳細情報]。
武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月1… 武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月17日 - 1991年(平成3年)12月22日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行。 全国金融統制会出向。東海、北陸地方商工局事務官を経て勧銀に復帰。調査課長、調査部次長、業務部次長、審査室審議役、調査部長、人事部長を歴任。 1957年11月に取締役に選任。常務、副頭取を経て、1966年12月には頭取に昇格した。 1969年2月、4月末からの全国銀行協会連合会長の激職を控え、持病の糖尿病を心配して、横田郁副頭取に頭取の座を譲り会長に退いた。
山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月… 山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月16日 - 1974年(昭和49年)5月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。4歳の時に函館市に転居。1925年(大正14年)北海道庁立函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)を卒業。 鉄道省に入省し函館駅貨物掛に就任。大山郁夫の演説に感銘を受け、1929年(昭和4年)濱口内閣の官吏減俸政策への職場の反対運動を主導した。太平洋戦争中に函館駅助役館俊三らと社会主義研究グループを結成し、戦後の労働運動解禁を受けて指導者となる。1946年(昭和21年)函館地方労働組合会議議長に就任。
平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9… 平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9月15日 - 昭和63年(1988年)11月14日)は、日本の実業家。 父は弁護士・政治家の平岡萬次郎。叔父は内務官僚の平岡定太郎。従兄は農商務官僚の平岡梓。平岡梓の長男は作家の三島由紀夫である。 明治40年(1907年)9月15日(日曜日)、平岡萬次郎の長男として生まれた。 昭和7年(1932年)慶大政治学科卒業。三和銀行に入り昭和25年(1950年)馬喰町支店長となり日比谷中之島サンフランシスコ各支店長紐育事務所長横浜支店長を経て、昭和34年(1959年)9月東洋信託銀行設立と同時に取締役営業部長。後に常務に就任。昭和63年(1988年)11月14日死去。
河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月1… 河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月15日 - 1993年(平成5年)8月29日)は日本の政治家。元東京都議会議長。位階は従四位。 1907年(明治40年)9月15日に東京で生まれる。1934年(昭和9年)に法政大学法学部を卒業する。 1947年(昭和22年)に世田谷区議会議員(2期)に当選し、1952年(昭和27年)に世田谷区議会議長に就任する。 1955年(昭和30年)に東京都議会議員(8期)に当選し、1977年(昭和52年)に東京都議会議長に就任する。 1993年(平成5年)8月29日、心不全により死去、85歳。死没日付をもって従四位に叙された。 1969年(昭和44年)に藍綬褒章を、1978年(昭和53年)に勲三等瑞宝章を受章する。
浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - … 浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - 2008年4月3日)は、日本の実業家。ヒガシマル醬油社長。 兵庫県揖保郡龍野町(のち龍野市、現・たつの市)生まれ。名古屋の旧制第八高等学校を経て、1931年、東京帝国大学経済学部を卒業する。卒業後は浅井醤油に入る。1942年、浅井醤油は合併で龍野醤油となり、取締役に就任する。その後、専務、副社長を経て、1963年、社長に就任する。翌年、龍野醤油をヒガシマル醬油に改称する。会長、名誉会長を経て、1998年、相談役となる。また、龍野市議会議員、同議長、龍野商工会議所会頭、龍野観光協会会長、日本醤油協会会長などを務めた。 2008年4月3日、心不全のため相生市内の病院で死去した。
羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - … 羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - 1990年2月28日)は、山形県出身の鉄道技術者。息子に国鉄車両設計事務所主任技師を務めた羽島継男。 羽島金三郎の次男として生まれ、第二高等学校を経て、1932年に京都帝国大学工学部機械学科を卒業後鉄道省に入省。 1941年に札幌鉄道管理局工作課長、1947年に大阪鉄道管理局高砂工機部部長、1950年に東京鉄道管理局車両長、1952年に浜松工場長、1956年に機器製作監督事務所長、1958年に大宮工場長、1959年11月総裁室を歴任。 1959年に国鉄を退職し12月に川崎電機製造に入社、製造取締役を経て1962年常務取締役、富士電機製造への合併後は常任顧問を務めた。
玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月1… 玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月12日 – 没年不詳)は、昭和期の商工官僚、実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1931年(昭和6年)10月、高等試験行政科試験に合格。1932年(昭和7年)東京商科大学を卒業した。 横浜専門学校(現神奈川大学)教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)講師を務めた。三菱商事勤務を経て、1937年(昭和12年)企画院事務官に任官。同調査官を経て、1938年(昭和13年)商工事務官に転じた。以後、物価局事務官、近畿地方総監府副参事官、内務省調査局第一課長、商工省賠償実施局第一課長などを歴任。
星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日… 星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の工学者。切削工学を専門とした北海道大学教授、同名誉教授である。旭川工業高等専門学校校長、精密工学会名誉会員。「金属切削における構成刃先の研究」で東京大学工学博士。 福島県会津若松市出身。会津中学などを経て1933年(昭和8年)に北海道帝国大学を卒業。基隆炭鉱、栗本鉄工所、新潟鐵工所に勤務する。北大に精密工学科が設置された1958年(昭和33年)に教授となり、1972年(昭和47年)には名誉教授の称号を授与される。この間の1970年(昭和45年)に旭川工業高等専門学校校長に就任。1979年(昭和54年)の退官までに、同校では設備の充実が図られた。
逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 194… 逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人、童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる。また、弟の大野五郎は画家。 詩は寡作。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する。『歴程』創刊時の同人の1人である。 1907年、茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた。1908年、東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]。
前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年… 前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年1月1日 )は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。 和歌山県出身。1929年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に伊那合同銀行(のちの紀陽銀行)に入行した。1948年に取締役に就任し、1959年に常務、1961年に専務を経て、1974年に副頭取に就任し、1981年4月には頭取に昇格した。1985年6月から1987年6月までに会長を務めた。 1985年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2003年1月1日、老衰のために死去。95歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年1… 高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年10月27日)は、日本の仏教学者。東北大学名誉教授。インド哲学・仏教美術専攻。 三重県生まれ。1931年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。副手、52年東京国立文化財研究所に入る。60年「醍醐寺五重塔の壁画」(共同研究)で日本学士院賞恩賜賞受賞。61年「仏像の起源」で東京大学文学博士。62年文化財研究所美術部長、1969年東北大学文学部教授、71年定年退官、名誉教授、成城大学教授、78年退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7… 三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島。 旧小城藩主の系統で子爵の主猟官・鍋島直庸の二男として生まれ、陸軍大佐(騎兵)で子爵の三宅忠強の養子となる。養父が実兄の鳥居忠一子爵夫妻と共に京王線に衝突した自動車事故で死去したことにより、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。1934年(昭和9年)富士写真フイルムに入社。その後、飛島組などで勤務した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した
松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9… 松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9月7日 - 1978年(昭和53年)7月11日)は、日本の医師、医学博士、寄生虫学者。 慶應義塾大学医学部長(第7代)、初代琉球大学保健学部長、防衛医科大学校初代校長等を歴任。従四位。 山口県萩市の旧家真鍋家に生まれ、少年時代に東京に出て、のちに同じ萩出身の高名な日本画家・松林桂月の家に入って松林と姓を改めている。
杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 200… 杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 2001年8月13日) は、東京都出身の日本の洋画家である。 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。本郷洋画研究所に通い、在学中の1930年(昭和5年)に第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなどのあと、1933年(昭和8年)に第1回東北美術展(現河北美術展)で最高賞の河北賞を受賞。その後、戦後の1946年(昭和21年) - 1964年(昭和39年)塩竈で暮らし、数多くの油彩画を描く。 兄は歌人の杉村顕道(宮城県芸術協会理事長・宮城県教育文化功労者・国見台病院理事長)、甥は杉村隆(国立がんセンター名誉総長・日本学士院長・東邦大学名誉学長・鶴岡市名誉市民・武蔵野市名誉市民)
内海 巌(うつみ いわお、1907年〈明治40年〉9月7日 … 内海 巌(うつみ いわお、1907年〈明治40年〉9月7日 - 1987年〈昭和62年〉8月22日)は、日本の教育学者(社会科)。教育学博士。広島大学名誉教授。比治山女子短大教授。広島市立中央図書館長。日本ユネスコ協会連盟副会長。 大阪市北区樋之上町に生まれる。父・内海岩五郎、母・ツネの長男。1920年、大阪府三島郡高槻町立高槻尋常小学校卒業。1925年、京都府立京都第一中学校卒業。 1930年、広島高等師範学校卒業。1942年、広島文理科大学哲学科卒業。1945年、広島高等師範学校教授。1951年、広島大学教育学部教授。 1953年、全日本社会科教育学会を創設し初代理事長を務めた。1956年、文部省初等中等教育局視学官となる。
立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月… 立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月7日 - 1995年(平成7年)6月6日)は、日本の社会主義者。京都市下京区の喫茶店「フランソア喫茶室」の創業者として知られる。 山口県伊佐村(現在の美祢市伊佐町)の楮(こうぞ)卸の商家に生まれる。1915年(大正4年)京都に移住。京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学し、フランソワ・ミレー、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画や、志賀直哉、武者小路実篤などの自然主義文学の影響を受ける。また同校在学中の1924年(大正13年)、同じ敷地内にある市立絵画専門学校で教育管理強化に反発する争議(絵専騒動)に出遭う。これが後に立野が社会主義活動に向かう伏線となった。
中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - … 中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学商学専門部を卒業し、同年4月に住友銀行に入行。1962年5月に山之内製薬に転じ、同年8月に常務に就任し、1968年8月に副社長を経て、1974年8月には社長に就任した。1977年3月に会長を経て、1980年3月には相談役に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 … 大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 - 1983年6月14日)は、岡山県児島郡粒江村(現:岡山県玉野市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は臼井 悧(うすい さとし)。最高位は東関脇。 1907年9月5日に岡山県児島郡で陸軍御用商人の家に生まれる。角界で活躍している同郷の常ノ花寛市に憧れて、1924年秋に出羽海部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名の「大邱山」は現在の大韓民国・大邱市に由来しており、このことから朝鮮半島出身のようにも見えるが、陸軍の御用商人であった父親の仕事の関係で一家で同地に居住していたことに因んだものである。初土俵からは順調に出世していき、1932年に勃発した春秋園事件による繰り上げ措置で十両へ昇進、同年5月場所には新入幕を果たした。
田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月… 田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉)は、日本の政治家、実業家。久米桜酒造会長。鳥取県公安委員会委員長。 鳥取県米子市糀町出身。父・田村源太郎、母・あさの長男。家業は肥料商、酒造業。米子中学校を経て1929年、神戸高商を卒業、同年に田村源太郎商店に入り、酒造肥料商に従事する。1939年に米子市会議員に当選、1943年に再選する。米子市翼賛壮年団長をつとめる。 企業整備により家業を転廃業、米子境商業統制組合、米子市総合配給所の各専務理事に就任する。1947年、公職追放を受け、同年に久米桜酒造を創立し社長に就任。1952年、米子市教育委員に当選する。
山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治4… 山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治40年> 9月3日 - 2007年 <平成19年> 6月28日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 京都市生まれ。1925年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。八木助市に師事し、ヘンリー・ジョージなどの土地制度論の研究を行った。 1932年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。1936年同大学研究科修了。1937年大連高等商業学校教授。1948年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1951年神戸大学経済学部助教授。1953年神戸大学経済学部教授。1962年経済学博士。1965年神戸大学経済学部長。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。