井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年… 奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1933年(昭和8年)1月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。横須賀市長。 土佐国土佐郡潮江村(現・高知県高知市)で、土佐藩士・奥宮暁峰(正路)、亀江の二男として生まれる。1883年10月、海軍兵学校(10期)を卒業し、1886年4月、海軍少尉任官。 以後、「武蔵」分隊長、「海門」分隊長、海兵砲術教官兼生徒分隊長、「龍驤」分隊長兼教官、横須賀鎮守府海兵団分隊長などを歴任。日清戦争には「厳島」分隊長、「高雄」分隊長として参戦。1898年3月、「笠置」回航委員として米国へ出張し、1899年5月に帰国した。
岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1… 岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1860年11月27日) - 大正12年(1923年)9月22日)は明治時代から大正時代にかけての書籍出版、販売業者。 盛花堂と号す。万延元年(1860年)10月15日に近江国甲賀郡(後の滋賀県甲賀郡北杣村、現・甲賀市)に生まれた。明治23年(1890年)6月に出京し直ちに銀華堂野村銀次郎に雇われ1年余り勤め、さらに順成堂瀬山佐吉方に半年勤務した。明治25年(1892年)3月5日に浅草区左衛門町に盛花堂という出版および書籍取次販売業を開始している。明治36年(1903年)3月に浅草区下平右衛門町9番地に移転、各種の出版を行って大正期にいたる。
東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月2… 東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日(万延元年10月10日)- 1911年(明治44年)5月8日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国市原郡山木村(千葉県市原郡八幡町山木、市原町を経て現市原市山木)で、代々医を業とした東条家で東条養仙の長男として生まれる。父は高野長英門下。嶺田士徳(楓湖)から英漢の学を学んだ。1874年(明治7年)に上京し、華岡真節に医学を学び、1877年(明治10年)8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた。 1887年(明治20年)4月、八幡町会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1… 清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1860年11月19日) - 昭和9年(1934年)12月5日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。位階および勲等は従三位・勲二等。 武蔵国大里郡大幡村(現在の埼玉県熊谷市)に四分一啓次郎の二男として生まれ、清水賢良の養子となった。1890年(明治23年)に高等文官試験に合格し、外務省試補となった。1894年(明治27年)ホノルル領事官補。1895年香港領事官補。1896年(明治29年)香港二等領事。1897年(明治30年)バンクーバー二等領事。1902年(明治35年)待命。1903年(明治36年)シカゴ領事。1908年(明治41年)オタワ総領事。
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年… 松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 神戸師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学、卒業して医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ、近くの村出身の女性と結婚したが離婚した。原因はひとえに「小さな家」のためであった。 最も長命だった弟の柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860… 小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860年11月5日) – 1917年(大正6年)2月6日)は、日本の内務官僚。山口県下関市長。 信濃国佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)出身。1890年(明治23年)、内務属となり、県治局市町村課長、大分県参事官、福岡県参事官・内務部第一課長、同事務官・第三部長、京都府事務官・第三部長、徳島県事務官・第二部長を歴任した。1908年(明治41年)、韓国政府の応聘により全羅南道書記官に就任。 韓国併合後は下関市長に転じた。退任後、大阪市助役・港湾部長を務めた。
田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月… 田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月19日) - 1936年(昭和11年)11月18日)は明治から昭和期の法曹家。大審院検事・大審院部長判事等を歴任し商法起草委員として新商法成立に尽くした。滋賀県出身者として司法省法学校同期の河村譲三郎と共に最初の法学博士(博士登録番号22番)。 田部芳は、1860年11月1日((旧暦)万延元年9月19日)に彦根藩士下士の家(犬上郡彦根上藪下町)に生まれる。父田部密は桜田門外の変後彦根藩内に台頭した尊攘派下級藩士の結社である至誠組に近い立場にあり、明治維新後の藩政に関与。維新後は大和国の高市郡・葛上郡・葛下郡・忍海郡の郡長を務めると共に大阪・名古屋間の運送業を起こした。
浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年… 浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年11月22日) - 1931年(昭和6年)9月30日)は明治時代の日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。 安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた。明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ。 1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ。1879年(明治12年)6月中村正直の同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安… 淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった)。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。 広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。 収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安… 塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安政6年10月22日)- 1944年(昭和19年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国幡羅郡蓮沼村(のちの埼玉県大里郡明戸村、現:深谷市)で生まれる。英学、国漢学、法律学、経済学を学ぶ。 1885年、文部省中等教員検定に合格。比企横見中学校の教員を務め、大里外三郡中学校連合会議員となる。1894年、埼玉県会議員に選ばれ、所得税調査委員も務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を二期務めた。 実業界では、1901年、深谷商業銀行を設立して頭取に就任。
上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈… 上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈安政6年10月19日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月26日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 秋田県出身ながら愛知県名古屋市に移り名古屋財界で立身、名古屋商業会議所会頭や名古屋鉄道社長を務めた。政界では名古屋市会議員・同議長を歴任した。 上遠野富之助は、安政6年10月19日(新暦:1859年11月13日)、出羽国横手城下(現・秋田県横手市)に久保田藩士上遠野群吾の次男として生まれた。実家上遠野家は代々剣術・槍術師範をつとめる家であり、実兄秀忠(幼名:馬之助)も剣術家となっている。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の養子に引き取られた(養子だが戸籍上は豊の長男という扱い)。
伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859… 伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859年11月12日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は俳人、古俳書収集家である。本名は半次郎、俳号は松宇・雪操居。 伊藤洗児の長男として、信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。10代頃から俳句を作り、加部琴堂に師事する。1882年、家業の藍取引を通じて知遇を得た渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職につき、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員となった。1897年、静岡に転勤し、のちに東京に戻った。 旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1890年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。
石河 幹明(いしかわ かんめい、安政6年10月17日(185… 石河 幹明(いしかわ かんめい、安政6年10月17日(1859年11月11日) - 昭和18年(1943年)7月25日)は、日本のジャーナリスト。新聞『時事新報』主筆、茨城県会議員。慶應義塾理事および評議員。交詢社常議員長。徳川家評議員。千代田生命取締役。 号は碩果生(せきかせい)。福澤諭吉の伝記『福澤諭吉伝』全4巻を執筆し、大正版『福澤全集』全10巻、昭和版『続福澤全集』全7巻を編纂した。 『慶應義塾豆百科』 No.80 『福澤諭吉傳』の復刊
松村 介石(まつむら かいせき、本名読み:すけいし、1859… 松村 介石(まつむら かいせき、本名読み:すけいし、1859年11月9日(安政6年10月15日) - 1939年(昭和14年)11月29日)は、日本のプロテスタント系新宗教の指導者。植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。道会の創設者。一時期養家の森本姓を名乗る。別名に市谷隠士、足堂、容膝堂主人。昆虫学者松村松年の実兄。いとこの子に橋本関雪がいる。 安政6年(1859年)に播磨国明石藩士の家に生まれる。祖父・橋本文水、父・松村如年は武士で漢学者であったため、幼少の頃より『大学』『中庸』はじめ、四書五経に親しむ。明治3年(1870年)11歳のとき上京し、安井息軒の門に入塾するが半年で辞めて神戸に帰郷する。
菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6… 菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6年10月15日)- 1942年(昭和17年)12月28日)は、明治から昭和前期の紡績技術者、実業家、政治家。大日本紡績(現ユニチカ)社長、貴族院勅選議員、工学博士。幼名・文造。 伊予国宇和郡川名津浦(愛媛県西宇和郡川上村を経て現八幡浜市川上町)で、庄屋・菊池久右衛門泰成、久子の三男として生まれる。1871年(明治4年)、一時、伊予吉田藩郡奉行・鈴木勝吉の養嗣子となり、藩校文武館で学んだ。その後、松山の勝山校などで学び、1976年(明治9年)大阪英語学校に入学。1878年(明治11年)11月、父に無断で上京したが、父の許しを得て勉学を続け、1879年(明治12年)工部大学校に入学し、予備科、機械工学科で学び1885年(明治18年)4月に卒業した。
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年1… 坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、坂本速、熊の息子として生まれた。致道館、さらに上京して山内家邸内の東京海南私塾で学んだ。 1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、日清戦争に出征した。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859… 武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。 以下の生い立ちは、大東流合気柔術の伝承によるものであり、各種事典、小説、漫画『王道の狗』『銀色の路』などは、大東流口伝の歴史で書かれた『武田惣角と大東流合気柔術』を引用している。 会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。 惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。 惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政… 井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政5年10月24日)- 1925年(大正14年)12月13日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、玄洋社社員。旧姓・田中。 筑後国御原郡、のちの福岡県三井郡小郡村(現小郡市)で、田中利平の二男として生まれ、1878年(明治11年)4月、御笠郡筑紫村(現筑紫野市大字下見)の大地主・井手シケの養子となり、1879年(明治12年)2月、家督を相続し井手武右衛門を襲名した。 筑紫村助役(1892年8月 - 1896年9月)、筑紫村長(1899年10月)を務め、1886年(明治19年)1月、福岡県会議員に選出され、通算4期在任した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に福岡県郡部から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1… 松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1858年11月26日) - 昭和18年(1943年)6月30日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)。 加賀国石川郡村井村(現在の石川県白山市)出身。松田太郎兵衛の長男として生まれる。津田純一に法律学を、沼田悟郎に経済学を学んだ。1877年(明治10年)、戸長となり、1884年(明治17年)には石川県会議員に選ばれた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回まで9期務めた。第2回衆議院議員総選挙における選挙干渉の際には30余箇所の重軽傷を負った。 その他、石川機業会社・北陸鉄道会社の創設に関わり、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)まで北陸自由新聞社の経営にあたった。
鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(… 鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(安政5年10月14日)- 1929年(昭和4年)10月27日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員、福井県会議長。 越前国足羽郡福井木田中町(福井県足羽郡福井木田中町、福井市木田中町を経て現:福井市西木田3丁目)で、茶商、薬種業・鷲田杏菀の長男として生まれた。1871年12月2日(明治4年10月20日)に家督を相続した。1881年(明治14年)東京大学医学部製薬学科を卒業した。 1882年(明治15年)福井県医学校教諭に就任。福井市豊(みのり)学区会議員、福井市会議員、同参事会員を務めた。1897年(明治30年)9月、福井県会議員に選出され、1903年(明治36年)9月まで2期在任し、第16代県会議長(1899年10月-1903年9月)も務めた。
隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858… 隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858年11月18日) - 1918年(大正7年)4月7日)は、日本の医学者。土木工学者(工学博士)の原龍太は実兄。 福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった。1883年(明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。
中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5… 中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5年10月12日〉 - 1925年〈大正14年〉2月17日)は、日本の土木技術者。宮城県仙台市生まれ。東京帝国大学名誉教授。工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。明治31年以降、旧東京市技師長、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員をつとめる。 箱根宮ノ下御用邸への給水引き込みの設計協力を行い、また東宮御所の水道施設をはじめ日本や満州の多くの近代水道施設を手がける。 1858年(安政5年)10月12日 - 仙台城下支倉通り(現宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれる。
島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(18… 島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(1858年11月17日) - 昭和2年(1927年)2月21日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)、ジャーナリスト。 近江国野洲郡中洲村大字新庄(現在の滋賀県守山市)出身。郷里で漢学を修めた後、京都に遊学した。1880年(明治13年)、滋賀県医学校に入学したが、翌年に東京に遊学した。東京で自由民権運動に参加し、1884年(明治17年)に自由党に入党。その後も立憲自由党の設立に尽力し、1892年(明治25年)から自由党滋賀県支部幹事を務めた。1894年(明治27年)、「淡海民報」を創刊し、1902年(明治35年)には「江州新聞」を創刊した。
大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858… 大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和15年(1940年)8月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。山本権兵衛の実弟としても知られる。史料によっては太田誠実とも。 大田盛実は、安政5年(1858年)10月11日に生まれ、父は山本盛珉、兄に後の海軍大将・内閣総理大臣となる山本権兵衛がいる。盛実は開拓使生徒として若くして海軍に入り、そこで才能を見込まれた。 明治15年(1882年)に鹿児島県士族・大田休左衛門の養子となり、同年に大田家の家督を相続した。妻はヨシ(元治元年生)で、長男に大田操(明治22年(1889年)11月29日生、十五銀行新橋支店長)がいる。
勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1… 勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の獣医学者。漢詩人。仙之介とも書く。号は仙坡。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)に駒場農学校に入学した。1882年(明治15年)、駒場農学校獣医学科を卒業。農商務省嘱託、助教授心得を経て、1887年(明治20年)に東京農林学校教授となった。1889年(明治22年)よりドイツに留学し、ベルリン高等獣医学校で学んだ。1891年(明治24年)に帰国し、帝国大学農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授となった。1899年(明治32年)には獣医学博士の学位を受けた。
渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5… 渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5年10月9日 (1858年11月14日) - 昭和12年 (1937年) 2月4日)は、日本の教育者。 下総国岡田郡花島村(後の茨城県結城郡大花羽村花島→水海道市花島町、現在は常総市花島町)出身。 1883年(明治16年)、茨城県猿島郡小山村(後の同郡中川村小山→同郡岩井町小山→岩井市小山、現在の坂東市小山)に、日本で初めての子守学校を開設した。家族の人手不足から、幼い弟妹の世話をしなければならないため学校に行けない子供たちのための学校で、渡辺は、そうした子供たちが子守をしている幼い子供たちも一緒に連れてこさせ、その幼児たちも保育の観点から一緒に教育した。
吉川 類次(よしかわ るいじ、1858年11月12日(安政5… 吉川 類次(よしかわ るいじ、1858年11月12日(安政5年10月7日) - 1927年(昭和2年)8月10日)は、日本の篤農家。イネの品種改良に尽力した人物。土佐国長岡郡稲生村(現・高知県南国市)生まれ。 農業に従事するかたわら、農業の研究や社会奉仕活動も行う。 1895年、隣村の十市村の鍋島菊太郎が採取した早稲「出雲早稲」を改良し、「京早稲」を経て「衣笠早稲」を完成させた。この品種は短期間で実るため、土佐に二期作を広めるのに役立った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857… 陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育て、池辺三山、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。幼名は巳之太郎、のち実、号は羯南。 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男 の両説がある。謙斎は微禄であった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士)に逆らい退校処分を受けた。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安… 加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安政4年10月10日) - 1934年(昭和9年)1月16日)は、熊本バンドの一人である。 1857年肥後国菊池郡広瀬村(現・菊池市)に生まれる。1872年熊本洋学校に入学し、1876年(明治9年)1月30日に花岡山で奉教趣意書に署名する。L.L.ジェーンズから洗礼を受ける。 1876年9月に同志社英学校に入学する。海老名弾正、小崎弘道、森田久万人らと西京第三公会に転入会する。 1879年(明治12年)、同志社英学校を第1期生として卒業する。同志社の同志社女学校、予備学校、普通学校の教員になり、英語、数学、物理を教えた。 1883年(明治16年)熊本バンドの海老名弾正、宮川経輝、横井時雄、金森通倫、上原方立らと一緒に、東京の新栄教会で開催された、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。
大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(… 大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(安政4年10月10日)- 1918年(大正7年)5月7日)は、明治から大正前期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県有馬郡三輪村長、同郡道場村長。 摂津国有馬郡田中村(下田中村、兵庫県有馬郡三輪村下田中、三輪町、三田町を経て現三田市下田中)で、農業・大西利右衛門の息子として生まれる。普通学、和算学を修めた。農業を営む。 1880年(明治13年)有馬郡西組選挙郡農会員に就任。以後、全国米麦外三品共進会審査員、下田中村会議員、有馬郡連合会議員、摂津5郡連合農談会員、同会長、摂津5郡連合勧業会員、有馬郡連合町村会議員、同郡全町村勧業委員などを歴任。
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安… 高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)、群馬県会議員(7期)、従六位。 上野国緑野郡中島村(群馬県緑野郡小野村、多野郡小野村を経て現藤岡市)の高津類蔵(のち安蔵に改名)の次男として生まれる。母くめ、兄佐市は仲次郎の幼少時に死去した。生家は養蚕業を生業とした。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。
菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4… 菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4年10月2日)- 1923年(大正12年)1月15日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・朝次郎、号・東山。 甲斐国山梨郡下萩原村(山梨県山梨郡七里村、東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山下萩原)で、農業・菊島定右衛門、イセの長男として生まれる。下瀬久寿、藤田習斎から漢学を学んだ。 1877年(明治10年)東山梨郡於曽学校事務掛に就任。以後、東山梨郡役所傭、同郡書記を務め、1883年(明治16年)8月に退官。1884年(明治17年)山梨県会議員に当選し2期7年在任した。その他、山梨県学事会員、同蚕糸業取締所議員、東山梨郡蚕糸業組合委員長、所得税調査委員などを務めた。
中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857… 中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857年11月15日) – 大正13年(1924年)3月21日)は、日本の日本の官僚。会計検査院長。位階および勲等は従二位・勲一等。 安政4年9月29日、佐賀藩士中隈武雅と母乕子の二男として生まれた。1871年に藩の推薦で東京に出た。大学南校を経て、1880年、東京大学理財政治学科を卒業した。 会計検査院に出仕したが、まもなく大蔵省御用掛に転じ、さらに農商務省御用掛、東京山林学校(のち東京農林学校)教授を務めた。1886年、大蔵権少書記官となり、1889年には第一高等学校教授を兼任し、理財学を担当した。その他、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)講師・専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4… 丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4年9月25日) - 1922年(大正11年)11月21日)は、日本の政治家(衆議院議員)、実業家。族籍は東京府士族。 信州須坂藩士・丸山本政の長男。1874年(明治7年)に上京。講法学舎を経て、明治法律学校(現・明治大学)に入学。内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画。東京横浜毎日新聞記者、下野新聞主筆などを務めた後、1885年(明治18年)に代言人となる。 国会開設後は、第2回、第8回衆議院議員総選挙に当選。その他、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員も務め、1899年(明治32年)に明治法律学校校友となる。
長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4… 長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4年9月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月18日)は、明治時代から大正時代に活躍した日本の彫刻家である。 陸奥の一関(現在の岩手県一関市)に士族の家系を持つ子として生まれる。維新後の1875年(明治8年)に上京しイタリア公使館に勤務し、これにより1881年(明治14年)留学のためイタリアに渡った。ヴェネツィアに居住しヴェネツィア王立美術アカデミー(現在のヴェネツィア美術アカデミー)でルイジ・フェラーリ(イタリア語版)及びアントニオ・ダル・ツォット(英語版)から彫刻学を学んだ。後に同地の王立高等商業学校で日本語の教鞭を執った。1885年(明治19年)に優秀な成績を収めた事で卒業が認められ、1887年(明治21年)に帰国する。
佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7… 佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7日 - 昭和9年(1934年)11月17日)は、神奈川県中郡秦野町の実業家、政治家、クリスチャン。 1857年(安政4年)、曽屋村の製油業「大安(だいやす)」を経営する商家に生まれ、1874年(明治7年)に17歳で父が亡くなったことで家業を継ぐ。明治20年頃から醤油醸造業にも進出し、成功を収める。さらに、地方銀行業の草分けとなる相模銀行の前身「共伸社」の設立に関わり、その後、相模銀行取締役、秦野銀行頭取を務める。 曽屋村からコレラ蔓延による死者を出したことを憂えて、町内他の篤志家と協力して、国内初の民間による上水道、曽屋水道の設置に貢献する。
村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安… 村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安政4年9月18日〉 - 1915年〈大正4年〉4月25日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 遠江国長上郡川袋村(掛塚村、磐田郡掛塚村、掛塚町、竜洋町を経て現磐田市)に生まれる。7歳の時に父と死別し、12歳の時に母の勧めで商人を志し横浜に出て回米問屋を開業する。1892年(明治25年)東海屋鉄工場の設立および経営に関与し、以後、日本精製糖、日本石油精製、日本製粉、小樽木材など数々の会社を立ち上げ重役を歴任した。さらに、株式仲買業にも携わり、東京株式取引所仲裁委員、東京商業会議所議員、横浜四品取引所理事などを務めたほか、日本重石、九州炭鉱汽船、日本醤油醸造、宝石油、日本活動写真、東京澱粉各取締役、営口水道電気、旭薬各監査役などを歴任し、鉱山業の経営にも従事した。
賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴ… 賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である。日本統治時代の台湾における実業界の大物。相場師「賀田金」としても知られる。 1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる。漢学を学び、やがて家業を継ぐ。 1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年(明治30年)には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと駅伝社設立し、台湾での郵便や国庫金の逓送、苦力供給などを業務とする交通業を手がける。
井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856… 井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856年11月27日) - 大正12年(1923年)3月25日)は、石川県金沢市出身の機械工学者。東京帝国大学教授。荏原製作所の創業者の一人。 1856年(安政3年)加賀(現在の金沢市)に生まれる。1882年(明治15年)に工部大学校機械科第4期を首席で卒業し、工部大学校助教授、その後は海軍機関学校、海軍大学校の教官を歴任した。1894年(明治27年)にヨーロッパ留学し、1896年(明治29年)に帝国大学教授となる。1897年(明治30年)に日本機械学会を設立、1899年(明治32年)に工学博士となる。1905年(明治38年)に「渦巻ポンプの研究」を発表、1909年(明治42年)には帝国学士院会員となる。
桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日… 桐山 篤三郎(きりやま とくさぶろう、1856年11月23日(安政3年10月26日) - 1928年(昭和3年)5月20日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政… 林 太一郎(はやし たいちろう、1856年11月12日(安政3年10月15日) - 1914年(大正3年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 能登国鹿島郡中挟村(石川県鹿島郡徳田村を経て現七尾市)で、林太郎平の三男として生まれる。1876年(明治9年)石川県師範学校を卒業し、鹿島郡内の小学校で教員として務めた。1877年(明治10年)4月、陸軍教導団に入団し、1878年(明治11年)10月、歩兵科を卒業し軍曹に任官して大阪鎮台に配属された。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し 歩兵少尉に任官。1882年(明治15年)1月、歩兵第8連隊付となる。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を卒業。
的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11… 的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11月9日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の冶金学者、工学博士。工部大学校(現・東京大学工学部)卒業、冶金鉱山学研究のためドイツに留学、東京帝国大学工科大学教授、東京帝国大学名誉教授の称号を得た。 伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)出身。1882年(明治15年)、工部大学校鉱山学科を卒業。工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を歴任した。1890年(明治23年)から1893年(明治26年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学教授となり、1899年(明治32年)に工学博士の学位を得た。
新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(185… 新山 荘輔(にいやま そうすけ、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 昭和5年(1930年)11月7日)は、獣医学博士、下総御料牧場長、新冠御料牧場長、馬政官、農商務技師、宮中顧問官。日本の官民両面における畜産業、特に馬産事業の貢献者。正三位旭日重光章受章。 種畜の改良、繁殖、育成等を通じた飼養管理や治療法等の功績により『日本獣医学の生みの親』として知られる。 岩山敬義によって創設された駒場農学校(後の東京大学農学部)で獣医学を学び、ヨーロッパの畜産業の視察のため藤波言忠子爵に随行した。この間、ドイツ語が堪能であったことから渡欧中だった伊藤博文一行と会い、通訳や翻訳の仕事にあたり、明治憲法制定に一役買ったとされる。