船木 長一郎(ふなき ちょういちろう、1915年〈大正4年〉… 船木 長一郎(ふなき ちょういちろう、1915年〈大正4年〉8月20日 - 2003年〈平成15年〉7月11日)は、日本の政治家。元佐呂間町町長。位階は従五位。家族は兄に船木長蔵(元佐呂間漁業協同組合組合長、北海道漁業協同組合連合会副会長)、息子に元椴法華村村長の船木英秀。 佐呂間町出身。漁師の家系に生まれ、1934年に北海道酪農義塾を卒業し佐呂間村産業組合に入職、その後有志とともに運送業者を起業し1940年まで経営するも、ガソリン配給制が敷かれたことにより廃業を余儀なくされ地元農協を経て佐呂間村役場に入職。 1941年の役場入職後は書記補を経て36歳で助役、国鉄湧網線建設の陳情や町内の電力供給を改善すべく自家発電設備の建設・送電線改良や変電所設置に尽力。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 20… 橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 2001年10月1日)は、日本の騎手、競走馬調教師。 1933年に騎手デビュー。太平洋戦争最中の1944年に「能力検定競走」として行われた東京優駿(日本ダービー)をカイソウで制したほか、1950年にはクモノハナに騎乗して皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。騎手通算成績は1154戦154勝、うち八大競走3勝を含む重賞5勝。 1953年に調教師へ転身し、それぞれ菊花賞に優勝したコマヒカリ、アカネテンリュウ、中山大障害を4連勝し海外でも2勝したフジノオー、日本ダービー優勝馬メリーナイスなど数々の活躍馬を手掛けた。1993年に定年引退。調教師成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で通算7361戦931勝、うち八大競走・GI級競走4勝を含む重賞30勝。
諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 -… 諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 - 1989年(平成元年)12月9日)は、日本の実業家。北海道小樽市出身。TBS社長などを務めた。 小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)、慶應義塾大学経済学部卒業後、国際電気通信に入社。 1951年(昭和26年)、TBSの前身であるラジオ東京の設立に参加。ラジオ編成部長、テレビ演出部長、テレビ営業局長、1964年(昭和39年)11月常務を歴任。1969年(昭和44年)11月28日社長に昇格、1977年(昭和52年)6月29日会長に退き、山西由之に社長を譲る。 1983年(昭和58年)相談役、1986年(昭和61年)山西が死去したため3月25日会長に復帰し、1989年(平成元年)6月29日特別顧問。
北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 199… 北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 1995年2月3日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 北海道出身。旧制北海中学校を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学農学部卒。大学卒業後、北海道庁に入庁。林野庁旭川営林局本庁を経て、1951年(昭和26年)全農林労働組合中央執行委員長に就任。1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し当選、以後3期務めた。社会党内では左派に属した。1963年(昭和38年)参議院建設委員会委員長、1970年(昭和45年)参議院災害対策特別委員長を歴任した。引退後は、全国高齢者退職者連絡協議会会長などを務める。 1985年(昭和60年)勲二等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)。
笹崎 僙(ささざき たけし、1915年3月25日 - 199… 笹崎 僙(ささざき たけし、1915年3月25日 - 1996年8月7日)は、日本のプロボクサー。北海道空知郡歌志内町(現歌志内市)出身。 戦前、戦後にピストン堀口恒男のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人。その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた。戦後の初代日本ライト級チャンピオン。通算戦績115戦72勝(26KO)28敗11分3EX無判定。引き分けを挟まない26連勝の記録を保持。試合数115戦は日本歴代8位。 1941年に両国国技館で行われた堀口戦は元同門という因縁や、笹崎の公開挑戦状に対し堀口が応戦し、舌戦を繰り広げたことなどにより大きな話題を呼び、「世紀の一戦」と謳われ日本ボクシング界では伝説の試合として語り草となっている。
関戸 力(せきど つとむ、後に矢崎姓、1915年3月25日 … 関戸 力(せきど つとむ、後に矢崎姓、1915年3月25日 - 1987年11月23日)は、北海道小樽市出身のノルディック複合、クロスカントリースキー選手。 旧制小樽商業学校 → 札幌鉄道管理局(現・JR北海道鉄道事業本部) 小樽商業時代の1933年、第11回全日本スキー選手権大会のノルディック複合個人とクロスカントリースキー個人長距離(18km)の少年の部で優勝。卒業後札幌鉄道管理局に入り、1935年の全日本スキー選手権大会のノルディック複合とクロスカントリースキー個人長距離(17km)の成年の部でともに2位となり、翌1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックの代表に選出される。同オリンピックのノルディック複合個人では35位、クロスカントリースキー個人長距離(18km)では55位、4x10kmリレーで12位だった。
上関 敏夫(かみぜき としお、1915年3月20日 - 20… 上関 敏夫(かみぜき としお、1915年3月20日 - 2003年8月21日)は、日本の経営者。北海道新聞社社長を務めた。 北海道出身。1946年に北海道庁立釧路中学校を卒業し、同年に北海タイムス社に入社。1942年に統合により、北海道新聞社に転じ、1964年12月に取締役に就任し、1966年に常務を経て、1968年に社長に就任。1979年1月に会長に就任し、1981年には相談役に就任。 1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年8月21日脳梗塞のために死去。88歳没。
水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2… 水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー、タレント。
枯木 虎夫(かれき とらお、1914年〈大正3年〉12月29… 枯木 虎夫(かれき とらお、1914年〈大正3年〉12月29日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の詩人。本名、井上虎夫。 北海道帯広市生まれ。詩人加藤愛夫に師事。戦時中は樺太豊原支庁に勤務、戦後は札幌地検事務官を長く務めた。更科源蔵主宰の詩誌『野性』を経て、『詩風土』を主宰。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001… 斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001年3月6日)は、日本の工学者。工学博士(北海道大学)。専門は、熱工学。札幌市出身 1939年北海道帝國大學工学部機械工学科卒業。1939年同工学部助手。1940年同工学部助教授。1949年北海道大学工学部教授。1957年同工学部教授。1960年北海道大学にて論題「高速流動域における管内熱伝導に関する研究」で工学博士受く。北海道大学工学部長や北海道大学副学長を経て、1978年同停年退官。同名誉教授。豊橋技術科学大学副学長。1980年同工学部教授。1984年同定年退職。同名誉教授。日本工学院北海道専門学校自動車整備科客員講師。1987年同退職。
龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1… 龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1991年1月1日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。「竜田」という表記もあり。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業。 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だった。 引退後はスコーバレー・グルノーブル両オリンピックでスキーチームの監督をつとめ、その後も全日本スキー連盟の常任理事を務めるなど、スキー界に携わった。実弟の龍田鳳三も元ジャンパーでスキー連盟常任理事などを歴任。
野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 20… 野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 2008年12月28日)は、北海道ウタリ協会理事長。 1914年、胆振の白老村に生まれる。幼少期から父親はおらず、母の野村ミツの元で育つ。母方の野村家は、白老の『コタンコロクル』(首長)の家系である。 1935年(昭和10年)、日本軍の第7師団月寒歩兵第25連隊に入隊する。1936年、白老漁協会に就職する。1939年、再び日本軍に徴兵されたが、1940年、除隊となった。1943年(昭和18年)、3度目の徴兵を受けた。1945年、樺太にてソ連軍に抑留されたが、1948年、引き揚げた。1949年に、白老漁業協同組合の専務理事となる。 1955年に、白老町議会議員に当選する。
名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - … 名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)。最高位は西大関。 1914年9月27日、北海道高島郡高島村で家伝の灸と鍼を用いた治療業を営む家に生まれる(母は鍼灸師の免許を持っていなかったため正式な開業はできなかったとも伝わる)。生後10ヵ月くらいの時に、岩壁家は名寄町に移住し、もう1つの家業である小さな養豚業を営んでいた。 6人兄弟の長男である静雄少年は馬にリアカーを引かせて町内の旅館などから豚の餌となる芋の皮や残飯を貰い受けていた。幼少期から体格が良く、街で彼の姿を見かけた人々は、「静夫少年が馬より大きく見え、馬を引いていたように見えた」と語る。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不… 山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は万田 正敏(まんだ まさとし)。北海道浦河郡浦河町出身。グループ71に所属していた。 1929年、北海道庁立室蘭商業学校中退後、王子製紙工業苫小牧工場に入社。 映画『大学は出たけれど』を鑑賞したことがきっかけで、1936年に日活多摩川撮影所の美術部に入社 。翌年、俳優に転向し、助演俳優として活動 。戦後は大映に入る 。戯曲座の舞台でも活動した 。1954年に映画製作を再開した日活に戻り、アクション映画の悪役として活躍。1966年にフリーに転向して以降はテレビドラマを中心に活動した 。
島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1… 島本 虎三(しまもと とらぞう、1914年6月20日 - 1989年11月10日)は、日本の政治家。 日本社会党に所属し中選挙区時代の衆議院北海道第1区で5度当選を果たしたほか、仁木町長を2期務めた。 船頭の長男として北海道高島郡高島町(現小樽市)に生まれた。高島小学校の高等科を卒業後、地元の水産試験場に勤めながら札幌逓信講習所の受験勉強を行い1928年に合格した。 札幌逓信講習所を卒業し1929年から札幌郵便局電信課、1934年から小樽郵便局電信課に勤務、その後札幌逓信講習所の高等科に入所、1942年には逓信官吏練習所に合格したが陸軍に尉官待遇で徴用されてフィリピンのマニラに派遣され、そこで1年半余り過ごした後、ネグロス島に送られ終戦を迎え、1945年12月に復員した。
岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 199… 岡田 春夫(おかだ はるお、1914年6月14日 - 1991年11月6日)は、日本の政治家。衆議院副議長(第53-54代)、衆議院議員(15期)。 戦後日本社会党の安全保障問題の代表的な論客として名を馳せ、「爆弾男オカッパル」の異名をとった。幼名・穣。父の初代・岡田春夫も政治家(立憲民政党所属の代議士)で、父の死後名前を「穣」から父と同じ「春夫」に改名した。外交官の岡田晃は弟。長男は岡田宰(弁護士)、次男は岡田充(共同通信客員論説委員・客員大学教授)。 北海道美唄市生まれ。出生地の美唄市には生家が保存されている。1937年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業。製材業、北海道議会議員を経て、1946年戦後初の総選挙で旧北海道4区から衆議院議員に初当選。
神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1… 神威山 力雄(かむいやま りきお、1914年6月5日 - 1974年2月19日)は、北海道室蘭市出身で花籠部屋に所属した元大相撲力士。本名は熊谷 力雄。最高位は十両4枚目。 花籠部屋に入門し、1929年5月初土俵を踏む。1934年1月満19歳で十両に昇進。この場所負け越し、幕下に落ちる。1935年1月、一場所で十両に復帰したが、この場所も負け越し再び幕下に落ちる。1936年1月、三度目の十両昇進で勝ち越し、この場所から5場所連続十両の地位にあった。1938年5月幕下に落ち十両復帰を目指し、「神惠山」(かむえやま)に改名(1941年5月)したが、十両に復帰することなく1942年5月に廃業した。1974年死去。
堂垣内 尚弘(どうがきない なおひろ、1914年(大正3年)… 堂垣内 尚弘(どうがきない なおひろ、1914年(大正3年)6月2日 - 2004年(平成16年)2月2日)は、日本の技術官僚・政治家。東日本学園大学(後の北海道医療大学)の名付け親でもある。学校法人東日本学園名誉理事長。位階勲等は、従三位勲一等瑞宝章。学位は、工学士(北海道帝国大学)。称号は、剣道範士。 札幌市出身。札幌一中(現北海道札幌南高等学校)を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学(後の北海道大学)工学部土木工学科卒業(工学士)。海軍省建設局に勤務。復員を経て、1946年(昭和21年)北海道庁に勤務。その後北海道開発庁へ出向し、1965年(昭和40年)同庁事務次官となる。1967年(昭和42年)北海道開発庁退官。
伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006… 伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。位階は従四位。 ほぼ独学で作曲家となった。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。北海道出身。 1914年(大正3年)、北海道釧路郡釧路町(現・釧路市)幣舞にて、警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005… 宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005年6月21日)は、北海道小樽市出身のスキージャンプ選手。宮島の表記もある。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)4年時にジャンプを始めた。中学卒業後、小樽高等商業学校(現:小樽商科大学)に進む。 高等商業学校在学中の1936年にガルミッシュ・パルテンキルヒェンオリンピックに出場、31位だった。本人は「恥ずかしいばかりの成績」と不本意な結果だった。 当時主流だった両腕を前に伸ばして前傾するフォームではなく、現在において主流になっている両腕を身体に添えるフォームを用いていたという。
船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 198… 船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 1981年8月5日)は、日本の小説家。船山春子の夫。次男は彫刻家の船山滋生。戦後文学の旗手として活躍し、代表作に『石狩平野』『お登勢』などがある。 北海道札幌市生まれ。実父の小林甚三郎は余市町の出身で、馨の出生当時は東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)の学生であった(後に北海道拓殖銀行などに勤務)。母方の実家の意向で母方の船山姓を名乗り、実父とも生後間もなく離別した。なお、馨によると甚三郎はクリスチャンで、トルストイなどの文学愛好者でもあったという。養父は新聞記者・森笛川。 札幌二中(現北海道札幌西高等学校)に在学中、組合教会に通った。
田中日淳(たなか にちじゅん、 1914年(大正3年)3月1… 田中日淳(たなか にちじゅん、 1914年(大正3年)3月17日 - 2010年(平成22年)7月18日)は、日蓮宗の僧。第48代日蓮宗管長・大本山池上本門寺第81世貫首。立正大学仏教学部卒業。北海道出身。 北海道爾志郡乙部町出身。母親の願いにより乙部町本昭寺の久遠院日啓(浅野本淳)に就いて出家。1929年(昭和4年)に15歳で上京、大本山池上本門寺塔頭の照栄院に寄在しつつ立正大学仏教学部を卒業した。またその際に、久遠院日啓の願いにより照栄院住職であった観是院日教(石川日教、後の池上本門寺第77世貫首)の弟子となった。 第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)に応召され、仙台市の予備士官学校を卒業後、見習士官になり航空兵に転科。
木呂子 敏彦(きろこ としひこ、男性、1914年(大正3年)… 木呂子 敏彦(きろこ としひこ、男性、1914年(大正3年)3月11日 - 2005年(平成17年)4月)は、農業家・教育者・アイヌ史研究家・編集者。館林藩の自由民権運動家・木呂子退蔵の孫。
日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 … 日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。 北海道函館市出身。北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)卒業。いむらプロに所属していた。 中学校卒業後、新協劇団を経て劇団俳優座に入り、移動演劇の芙蓉隊に参加する。1946年3月、俳優座第一回公演『検察官』の舞台に立つ。後に劇団民藝を経てフリーとなり、この間にもジャンルを問わず多くの作品に出演していた。 2004年に公演された舞台『アマデウス』以降の作品が見当たらず、以後の消息は不明である。没年不詳。
上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2… 上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2001年9月10日)は、日本の詩人。 北海道札幌市出身。旧姓は高垣。生後6ヶ月で伯父の養子となり、大蔵省専売局官吏だった養父に従って全国を転々とする。同志社高等商業学校卒。大阪地方専売局を経て、高砂香料工業に勤務。取締役総務部長を務めた。 1936年池田克己、佐川英三らと『豚』を創刊。戦後は『花』を創刊、『日本未来派』に参加。1952年『都市幻想』で第3回H氏賞受賞。1963年から日本現代詩人会理事長として、事務的手腕を発揮した。1987年日本現代詩人会会長。
大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 199… 大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 1998年1月10日)は、日本の地方公務員。札幌市交通局長、札幌副都心開発公社社長などを歴任した。 北海道札幌市または石狩郡当別町出身。実家は旅館「大刀館」を営んでいた。札幌第二中学校(現・北海道札幌西高等学校)を経て、1932年に北海道帝国大学予科農類へ入り、1938年に北海道帝国大学農学部卒業、卒業論文は「インドネシアの植民政策」。 大学卒業後は満洲興業銀行に入社、日中戦争の勃発に伴い、入社から8ヶ月後の同年12月に月寒連隊に現役招集され1943年5月まで兵役につき、復職後1945年3月に満州で再招集され、北支戦線で3年間に84回の戦闘を経験し「人斬り大刀中隊長」の異名で報じられ、大尉に進むものの、その後1945年8月にソ連軍に捉えられ、戦後3年間のシベリア抑留の後、1948年に引き揚げし当別町で郵便局長を務めていた弟の家に居候しながら職を求めた。
斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大… 斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。
荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 199… 荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 1996年3月1日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。北海道札幌市出身。 1935年帝国音楽学校卒業後、1936年ヨーロッパに留学、ウィーン、ベルリンなどで学び、ヴァイオリンをヨゼフ・シゲティらに師事、ベルリン室内楽協会の団員として演奏活動を行い、1945年7月に帰国。1948年に札幌音楽院を開設、弦楽器のほか、ピアノ、声楽、作曲、美学、音楽史の講義を組み、1949年札幌音楽院管弦楽団を結成。1950年北海道文化賞受賞。1961年札幌交響楽団設立に参画、1968年まで初代常任指揮者を務めた。1986年北海道開発功労賞受賞。1997年札幌交響楽団から名誉創立指揮者の称号を贈られる。
但野 寛(ただの ひろし、1914年1月29日 - 1986… 但野 寛(ただの ひろし、1914年1月29日 - 1986年9月6日)は、北海道旭川市出身のクロスカントリースキー、アルペンスキー選手。 旧制旭川中学校 → 日本国有鉄道札幌鉄道管理局 1935年の第13回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人耐久(56km)で3位となり、翌1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックの代表に選出される。同オリンピックのクロスカントリースキー競技では、個人耐久(50km)で28位、個人長距離(18km)で59位、4x10kmリレーで12位の成績を残した。また、同オリンピックより採用されたアルペンスキー競技のアルペンスキー複合(滑降・回転)にも、同じ距離選手の関口勇・関戸力とともにエントリーしたが、後半の回転で全員失格した。
竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - … 竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - 1998年4月20日)は、日本の中国文学者・教育者・学校経営者。専門は中国文学。北海道夕張市出身。 1939年大谷大学文学部専門部卒業。1944年北京大学研究院修了。北京大学研究員。1945年日本に引揚げ。 大阪商科大学高等商業部教諭。1951年大阪市立大学法文学部専任講師。1960年大谷大学文学部専任講師。1962年大谷大学学監・学校法人真宗大谷学園事務局長。1965年京都産業大学学監・学校法人京都産業大学事務局長。1968年京都産業大学常務理事・同副学長・同外国語学部教授。1973年学校法人札幌大谷学園理事長。1974年札幌大谷短期大学学長。
今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 199… 今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 1990年9月4日)は、日本の実業家。丸井今井代表取締役社長、札幌商工会議所会頭、札幌証券取引所理事長等を務めた。 北海道札幌市生まれ。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業(同期に小泉明ら)。大阪の大丸百貨店で修業したのち、家業の丸井今井グループ入りし、1944年から丸井今井の三代目代表取締役社長を務めた。1973年から札幌商工会議所会頭を務め、北海道商工会議所連合会会頭、札幌観光協会会長、北海道百貨店協会会長、札幌証券取引所理事長なども歴任した。1974年北海道経済連合会設立発起人代表。1981年エフエム北海道発起人。1987年北海道立文学館建設期成会会長。
佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月… 佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月4日)は、日本のプロ野球選手スカウト。大阪タイガース・阪神タイガースで大物選手の入団を担当した、1950年代後半から1960年代を代表する敏腕スカウトとして知られる。 1914年、北海道生まれ。旧制札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)から旧制立教大学へ進学。札幌商業時代は、1931年の夏の甲子園に出場した経験がある。ポジションは捕手。立教大学卒業後は、富士銀行で銀行員として働いていた。1945年11月には、同行数寄屋橋支店で勤務しており、同支店に口座を持っていた日本野球連盟が、同年に行われた東西対抗野球の入場料金を収納した際に窓口で応対している。
掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉… 掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉11月17日 - 2007年〈平成19年〉12月26日)は、日本の写真家。北海道室蘭町(現・室蘭市)生まれ。 中学在学中にカメラを始める。室蘭中学校(現北海道室蘭栄高等学校)、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。誠文堂新光社『実際園芸』編集所に勤務。編集記者兼カメラマンとして活躍。 1950年代に土門拳が提唱したリアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響を受ける。戦後は伊達高校に教員として勤務するかたわら、北海道における社会派カメラマンとして、貧しい漁村や開拓農家の暮らし、アイヌ民族、伊達発電所建設反対運動、ポリオ(小児マヒ)の子どもたち、有珠山噴火などを長期にわたって撮影。
小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011… 小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011年11月10日)は、日本の実業家。元住友軽金属工業(現・UACJ)社長・会長、名誉相談役、住軽アルミニウム工業社長、日本アルミニウム連盟会長。 北海道小樽市出身。1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友金属工業に入社。企画課長、商務部長、東京支社長などを経て、1961年取締役、1962年支配人、1964年常務、1967年専務、1971年副社長。日向方斎社長の有力な後継者候補と言われたが、1974年に経営危機に陥っていた住友軽金属工業社長に転出。同社の再建に尽くした。1977年に住軽アルミニウム工業社長を兼任。1980年に住友軽金属工業会長となり、1986年に相談役となった。
鎌田 正三(かまた しょうぞう、1913年9月 - 1997… 鎌田 正三(かまた しょうぞう、1913年9月 - 1997年)は、マルクス経済学者。北海道大学名誉教授。 北海道小樽市生まれ。1936年小樽高等商業学校卒業。東北帝国大学法文学部経済学科に入学。経済学科の同年の入学者には内藤知周、一柳茂次、浅野正明、中野正、志賀金吾、大島清(新潟高校中退)、大島清(小樽高商卒業)らがいた。斎藤晴造、2人の大島清、一柳茂次、志賀金吾、大友福夫、内藤知周らは下宿に集まって資本論について議論をする仲間だった。宇野弘蔵、末永茂喜などから経済学を学ぶ。 1940年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。同じく小樽高商出身の大島清とともに財団法人三菱経済研究所に入所。1941年大島とともに財団法人東亜研究所に移り、新設の欧米部門のイギリス班に所属。
郡司 正勝(ぐんじ まさかつ、1913年7月7日 - 199… 郡司 正勝(ぐんじ まさかつ、1913年7月7日 - 1998年4月15日)は、日本の歌舞伎研究家・演劇評論家・国文学者。早稲田大学名誉教授。 1913年、北海道札幌市生まれ。北海道庁立第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、1939年早稲田大学文学部国文科を卒業。大学では河竹繁俊に師事した。卒業後は、早稲田大学演劇博物館学芸員となり、同大学講師などを経て、1960年から84年まで教授を務めた。 その著作は、『郡司正勝柵定集』(全6巻)にまとめられている。故郷である札幌大学に、郡司の蔵書を納めた「郡司文庫」が設けられている。
井尻 正二(いじり しょうじ、1913年6月26日 - 19… 井尻 正二(いじり しょうじ、1913年6月26日 - 1999年12月1日)は、日本の地球科学者・古生物学者・地質学者。学位は、理学博士(九州大学・論文博士・1949年)。東京経済大学教授を歴任。北海道小樽市出身。 小樽で倉庫業・海産物商などを営む名家に生まれたが、父が政治に血道を上げて家業に身を入れず没落し、中学校を卒業後に家族で上京。稲穂尋常高等小学校4年生の時に、大きな塩の結晶を作り、先生に褒められたことをきっかけに理科に興味を持つ。旧制小樽市中学校(現・小樽市立長橋中学校)卒。小中学校の同級生に広谷俊二(日本共産党中央委員)がいる。 1933年4月、動物学者で大伯父に当たる東京帝国大学教授・谷津直秀の勧めで東京帝国大学理学部地質学科に進学、古生物・化石研究の道に進む。
寺前 武雄(てらまえ たけお、1913年〈大正2年〉6月12… 寺前 武雄(てらまえ たけお、1913年〈大正2年〉6月12日 - 1998年〈平成10年〉10月25日)は、日本の政治家。北海道北見市長(1975年 - 1987年、3期)。 北見市生まれ。1927年(昭和2年)、北海道庁野付牛中学校(旧制)卒業。札幌の司法書士事務所や弁護士事務所に勤務。1938年(昭和13年)兵役に就く。1945年(昭和20年)終戦により復員。その後、北見市農業共済組合に入る。同組合長を経て、1951年(昭和26年)に地元・北見市の市議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選。以後、市議会議員を連続6期当選した。1959年(昭和34年)5月8日、第5代同市議会副議長に選出された。
三枝 三郎(さいぐさ さぶろう、1913年(大正2年)6月1… 三枝 三郎(さいぐさ さぶろう、1913年(大正2年)6月11日 - 2014年(平成26年)2月22日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。衆議院議員(3期)、福田派。 白鳥大橋の建設に尽力した。 北海道、現在の室蘭市で生まれる。旧制室蘭中学校(現北海道室蘭栄高等学校)を経て、1939年(昭和14年)東京文理科大学哲学科を卒業。同年10月、高等試験行政科に合格。同年、内務省入省し大阪府属となる。 以後、三重県、福岡県で勤務。1945年(昭和20年)宮内省書記官、1946年(昭和21年)警視庁警備交通部警備課長、1954年(昭和29年)警視長・和歌山県警察本部長、1960年(昭和35年)初代内閣総理大臣官房広報室長、1964年(昭和39年)総理府特別地域連絡局長を歴任。
伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 200… 伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 2000年10月4日)は、1930年代に活躍した元スキージャンプ選手。 山形県生まれで、7歳の時小樽の伊黒家に養子入りする。旧姓は松宮。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)-北海道帝国大学(現:北海道大学)から札幌鉄道局(札鉄、のち札幌鉄道管理局)。安達五郎は旧制小樽中学の同期生である。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックに出場し、ジャンプ競技で7位入賞を果たす(当時は入賞は6位までだったため、入賞はならなかった)。 1938年(昭和13年)のノルディックスキー世界選手権大会(フィンランド・ラハティ)で10位。 1940年札幌オリンピックが幻に終わったことを機に札鉄を退職して茨城県の日立製作所に転職、一時競技を離れた。
武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 19… 武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 1989年7月29日)は、北海道旭川市出身の洋画家。色の魔術師と呼ばれた国際的な画家である。エーゲ海をはじめて描いた作家でもあり、1960年代より国際展に出品し多くの国際賞を獲得した。フランス美術家連盟会員。ル・サロンフランス政府展 金 銀 銅 受賞。長男は俳優の武田光太郎。6親等に武田真治がいる。 1913年4月28日、北海道旭川生まれ。小学校のときに応募した水彩画公募展の審査員であった上野山清貢にほめられたことを契機に画家を志す。1932年、北海道庁立永山農業学校(現北海道旭川農業高等学校)林学科を卒業して上川支庁林務課に勤務し、大雪山自然林の保護に携わる。
安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999… 安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999年9月13日)は、1930年代に活躍した日本の元スキージャンプ選手。 1913年、北海道余市郡赤井川村出身で牧場を営んでいた安達正平(のちに第17代赤井川村村長)の5男として生まれる。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)- 鉄道省札幌鉄道局(札鉄、現・JR北海道鉄道事業本部)、伊黒正次は旧制小樽中学の同期生である。 オリンピックに2大会連続で出場、19歳で出場した1932年のレークプラシッドでは8位に入賞するも、1936年ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは45位と振るわなかった。1936年のホルメンコーレン大会では3位に入賞している。
松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)… 松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)は、北海道平取町出身の民謡歌手。本名、平村花子。 ピリカ(pirka)はアイヌ語で「美しい」「良い」という意味。 平取小学校を卒業後、17歳で芸能の道を志し、旅芸人の一座に参加し、ピリカ花子と名乗った。20歳から松前ピリカを名乗った。家族については詳しい記録が限られるが、民謡歌手の初代浜田喜一に関する伝記的記述では、浜田が二代目玉子と結婚する際に「松前ピリカ夫妻」が仲人を務めたとされる。この記述からは配偶者の存在がうかがえる。美声で知られ、「松前ピリカ一座」を主宰し数十名の団員を引き連れ、各地を巡業し、一世を風靡した。また、津山洋子・高樹一郎らの後輩を養成した。
大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 1… 大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 12月26日 - 1994年 <平成6年> 9月25日)は、日本の畜産学者・農学者・元地方公務員。専門は、畜産学・酪農学・草地学。学位は、農学博士(北海道大学・1945年)。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。恩師は井口賢三。 北海道苫前郡羽幌町生まれ。1936年(昭和11年)北海道帝国大学農学部を卒業し、北海道庁技官。1942年(昭和17年)帯広高等獣医学校教授。1945年、北海道大学より農学博士の学位を取得。学位論文の題は「北海道産笹類の家畜栄養学的研究」。1950年(昭和25年)帯広畜産大学畜産学部教授。1969年(昭和44年)、同学長事務取扱。
飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月2… 飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2003年(平成15年)4月24日)は、昭和期の作曲家。北海道根室市出身。 初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業学校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。 同じ根室出身で、根室商業学校の先輩でもある作詞家・高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などの楽曲を作った。故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等の根室に関連する曲を数多く作った。 1973年、ミサ曲が認められ、ローマ法王庁より褒状を授与される。 根室市総合文化会館1階には飯田三郎資料展示室がある(2022年11月26日に根室市図書館から移転)。
大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 … 大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 - 2001年3月2日)は、日本の経営者。北海道文化放送社長を務めた。北海道上川郡剣淵町出身。 1931年に旧制名寄中学校を卒業。旭川新聞社、小樽新聞社での勤務を経て、1964年に北海道新聞社取締役に就任し、1968年に代表専務を経て、1974年に顧問に就任。1971年には北海道文化放送初代社長に就任し、1978年から1980年までに会長を務めた。 2001年3月2日急性肺炎のために死去。88歳没。
佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年… 佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年不明)は、日本の競馬騎手、調教師。 1931年に騎手デビュー。1939年に騎乗馬ホシホマレで阪神優駿牝馬(オークス)を制した。1957年より調教師に転じ、1974年の桜花賞優勝馬タカエノカオリなどを管理し、1990年に引退。日本中央競馬会(JRA)調教師の佐々木亜良(つぐよし)は長男。 1912年、北海道函館市の農家に生まれる。3人いた叔父がそれぞれ高等馬車の御者を務めており、その姿に憧れて馬に関わる仕事を志した。1928年、叔父の紹介で札幌競馬倶楽部(札幌競馬場)の稗田虎伊厩舎に入門し、1931年7月に騎手としてデビュー。8月7日に騎乗馬エベツで初勝利を挙げた。
増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 … 増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 - 2005年7月3日)は、日本の数理統計学者。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校理科乙類を経て、1937年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。中央気象台衛生気象係。1939年、東京大学医学部物療内科教室嘱託。1943年「ベクトル量の相関測度について」で理学博士の学位を取得。1944年文部省統計数理研究所第三部兼任所員。1952~1953年インド統計研究所客員教授として、P・C・マハラノビス所長のもとで研究。1965年ノースカロライナ大学統計学部客員、1966年カトリック大学数学科統計研究室教授、1970年~1988年、東京理科大学教授。