湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)… 湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)5月2日 - 1963年(昭和38年)4月9日)は、日本の国語学者。 1887年(明治20年)、秋田県広山田村(現・秋田市広面)に農家の三男として生まれる。広山田村立楢山尋常小学校卒。 秋田県立秋田中学校を経て1905年(明治38年)東京高等師範学校国語国文学科に入学、卒業後は富山県立薬学専門学校、東京府立第四高等女学校の教員となるが、府立第四高女に勤めながら東京帝国大学国文学選科に進み、これを修了、1915年(大正4年)文部省嘱託となる。 1933年(昭和8年)東洋大学教授に就任。以後、文部省図書監修官(1942年(昭和17年)就任)、早稲田大学教授(1949年(昭和24年)就任)、上智大学教授(1959年(昭和34年)就任)を歴任した。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 … 石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 - 1962年1月7日)は、日本の舞踊家、ダンサーである。いずれも作曲家の石井歓、石井眞木は息子、石井五郎は弟。また現代舞踊家の石井登は孫。舞踊家の石井武は曾孫である。 1886年(明治19年)、秋田県山本郡下岩川村(のちの山本町、現三種町)に石井龍吉・ハツ夫妻の長男として生まれた。1893年(明治26年)、下岩川尋常小学校に入学、吃音の友人の口真似をしているうちに自らも吃音となる。1897年(明治30年)に森岳尋常小学校の高等科に入学したが、友人との交流を優先して学業を怠るようになった。これを問題視した父の龍吉は、石井を能代港町の渟城尋常高等小学校の高等科に転校させ、能代の親戚の家から通学させた。
澤木 四方吉(さわき よもきち、1886年12月16日 - … 澤木 四方吉(さわき よもきち、1886年12月16日 - 1930年11月7日)は、日本の西洋美術史家。慶應義塾大学部文学科、美術・美術史科の初代教授。『三田文学』二代目主幹。筆名は、澤木梢(こずえ)。学問としての西洋美術史を初めて日本に紹介し、その基礎を固めるなど、日本における西洋美術史研究の分野に残した功績は大きい。また、ミロのヴィーナス(アフロディーテ)を日本に紹介した。秋田県男鹿市出身。 生家は資産家で、12歳で故郷を出た。上京して明治学院に入学したが、翌1900年には兄弟達が通学していた慶應義塾普通部に転校した。同校では終生の友となる作家・水上瀧太郎と出会う。1909年、慶應義塾大学部文学科を卒業。
安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1… 安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1974年4月30日)は、日本の歌人、小説家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)出身。父正治は元長府藩士で阿仁鉱山の高級機械工だった。兄は評論家安成貞雄、弟は福原信三の秘書だった安成三郎。 秋田縣立大舘中學校を中退した後に上京し、徳田秋声の門下生になった。土岐善麿編集の「生活と藝術」などで生活派の短歌を発表する一方で、金尾文淵堂を振り出しに、実業之世界社や複数の新聞社の編集記者として長く勤めた。平民社に出入りしていた兄貞雄の影響で、大正初期から内田魯庵、大杉栄らと交流を持った。大杉や荒畑寒村が創刊した「近代思想」の編集の手伝いを兄とともに行った。
澤口 フク(さわぐち フク、1886年(明治19年)8月25… 澤口 フク(さわぐち フク、1886年(明治19年)8月25日 - 1972年(昭和47年)12月24日)は、日本の政治家。秋田県仙北郡中川村(のち角館町を経て、現・仙北市)長。秋田県議会議員(3期)。 秋田県仙北郡荒川村(のち協和村→協和町を経て、現・大仙市)生まれ。秋田女子師範学校(現・秋田大学教育文化学部)を経て、日本音楽学校に入る。その後、帰郷し、1911年に中川村の澤口朝治と結婚する。朝治は後に中川村長となる。 1947年、公職追放となった夫に代わり、中川村長選挙に立候補し、当選。秋田県では初の女性村長となった。同時に秋田県議会議員選挙に仙北郡選挙区から秋田県民主党から立候補し、当選した。
佐藤貞子(さとう さだこ、1886年 - 1950年)は、秋… 佐藤貞子(さとう さだこ、1886年 - 1950年)は、秋田県仙北郡出身の民謡歌手である。 民謡「秋田おばこ」の生みの親として知られている。「秋田おばこの女王」とも、江戸時代初期にかぶき踊りで全国巡業した出雲の阿国になぞらえ「秋田の阿国」とも呼ばれた。「秋田おばこ」、「秋田甚句」などを収めたレコードは戦前としては「驚異的」とされる60万枚のヒットを記録した。 1886年(明治19年)、秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。笛の名人であった父の影響で民謡をはじめ、幼いころより歌の上手さは近隣に知れ渡り、地元の祭のスターであった。1922年(大正11年)、東京上野で開催された平和博覧会に出演。
山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 194… 山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 1945年)は砂防・植林技師。父は山本庄司。メダカの研究で知られ、名古屋大学教授も務めた山本時男は甥(兄時宜の子)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 -… 福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 - 1931年2月8日)は、白水社の創業者。現在の秋田県横手市(旧雄物川町福地)出身。俳号は雄川。 秋田県平鹿郡福地村深井(現・横手市雄物川町)の造り酒屋で、二百町歩の小作地に広大な山林を持つ素封家の長男として生まれる。旧制第三中学校(現秋田県立横手高等学校)から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科を卒業した。 在学中に父が逝去したため、明治43年(1910年)の卒業後に帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興にも力を入れる。大正3年(1914年)に郡会議員となるが、しがらみや因習に疲れ辞職。1917年、農業振興に見切りをつけ上京。 白水社を興してフランス文学の普及につとめる。
田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 -… 田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 - 1980年3月20日)は、日本の農学者・化学者。学位は、農学博士・理学博士(東北帝国大学)。 北海道学芸大学・帯広畜産大学・北海道女子短期大学の学長を歴任。 秋田県能代市生まれ。1910年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)卒業、同大学助手。1911年、同助教授。1919年農学博士の学位を取得。1921年、北海道帝国大学教授。1928年、東北帝国大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は「Sex differences, from the stand-point of biochemistry(生物化學上に於ける性的差異)」。
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 … 日本海 忠藏(にほんかい ちゅうぞう、1885年3月25日 - 1953年9月19日)は、現在の秋田県横手市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は最上 忠五郎。身長178cm、体重83kg。最高位は西前頭16枚目。清ノ森政夫の大叔父。 1904年1月初土俵、1910年6月十両昇進。1914年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り、櫓投げを得意としたが、幕内では全く通用せず、初日から5連敗で途中休場。1914年5月十両に、1915年5月には幕下まで陥落したが、中々勝てず、1917年1月廃業した。その後は名古屋市で会社勤めののち、手打ちうどんの製造販売業に従事した。 上の名前は改名歴なし。
小田島 樹人(おだしま じゅじん、1885年3月19日 - … 小田島 樹人(おだしま じゅじん、1885年3月19日 - 1959年10月11日)は、日本の作曲家。童謡『おもちゃのマーチ』の作曲者。本名は小田島 次郎(おだしま じろう)。「樹人」は俳号。鹿角市先人顕彰館、秋田県立博物館に展示がある。 1885年、秋田県鹿角郡花輪町(現鹿角市)で、当時の花輪郡長 小田島由義の次男として出生する。1899年、 岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に進学。一年上に石川啄木がいた。1904年、鹿児島県の第七高等学校造士館に進学するも、翌年に中退する。1914年、東京音楽学校器楽科(現東京芸術大学)を卒業。同窓に中山晋平、梁田貞らがいた。同年、東京都芝区の三光小学校に音楽教師として奉職した。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月… 横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月1日 - 1963年(昭和38年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。東北興業総裁。 以下、「横山 助成 (よこやますけなり)東京都知事も務めた 内務省高級官僚」(秋田高等学校同窓会、2014年3月21日更新)参照。 「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。 石田八弥の女婿。義弟は文化人類学者の石田英一郎、姪の子に阿部牧郎がいる。
菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1… 菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本の実業家、俳人。秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章、1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した。 菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県南秋田郡土崎港町に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)… 上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 秋田県出身。1901年(明治34年)12月[要出典]、士官候補生(15期)として陸軍に入る。1903年(明治36年)陸軍士官学校を卒業し、翌年2月に陸軍砲兵少尉任官。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)卒業し、参謀本部要塞課に配属された。 陸軍重砲兵学校教導大隊長、同教育部長、横須賀重砲兵連隊長等を歴任し、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将へ昇進。陸軍重砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、陸軍重砲兵学校長などを経て、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に進級。
田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 195… 田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 1956年1月16日)は、日本の新聞人、秋田県会議員、郷土史家。松圃(しょうほ)と号した。 田口家は秋田県の花館村の人であり、先祖は千助とされる。大曲町の素封家であった田口米吉の二男として産まれる。祖父・岩蔵が、謙蔵には幼くして非凡な才能のあることを見抜き、満三歳から大道政治郎という人をつけて勉強させた。大道の熱心な教育もあり、通常より2年早い5歳で大曲小学校に入学し神童と呼ばれる。 1891年に秋田市伝紳画会が平福穂庵の追悼画会として全国から作品を募集した際に、当時9歳の謙蔵も絵画を応募したが、審査にあたった鈴木百年、菅原白竜は筆致に感じて奉書紙に漢文の奨励詞を書いて、手づから与えた。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12… 仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12月15日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の鳥類研究家、農業改良家。「鳥のファーブル」と称された。 秋田県岩城町(現在の由利本荘市の一部)出身。1901年に秋田県農学校を卒業し、大曲の農商務省農事試験場陸羽支場に農業技師として勤めた。ここで、寺尾博とともに新品種のイネ「陸羽132号」を生み出した。 イネの新品種の開発の傍ら鳥類の観察を始め、1915年に「敦公の蕃殖に関する研究」を発表した。1923年の行政整理に際し依願退官し、1925年には農商務省により委嘱を受け、野鳥の生態研究に専念した。1936年に著書「野の鳥の生態」を発表した。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 19… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 1953年11月9日)は、日本の冶金学者で鉱山技術者。前半生は藤田組(現・DOWAホールディングス)で製錬技術改良を手がけ、学術に転じた後半生は秋田鉱山専門学校 (旧制)校長を務めた後、同校を母体とした秋田大学の事実上の初代学長となった。 現在の秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)に生まれる。父の孫一は県内の田子内鉱山の経営者となる。孫一は元は仙北郡の出身で、謙三が生まれた年に秋田に出て企業の経営に加わり、1886年に田子内鉱山の運営を始めた。 秋田師範附属小学校(現・秋田大学教育文化学部附属小学校)から旧制秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に進む。
滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月2… 滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。本名は滝田 哲太郎。総合雑誌『中央公論』の編集長を務めた。 秋田県南秋田郡手形新町下丁(現・秋田市手形新栄町)生まれ。父・滝田以久治は秋田藩士の家系の出で、立憲民政党総裁等を務めた町田忠治の弟。厳格で教育熱心な父親に期待をかけて育てられた。秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科に進学、のち法科に転じる。在学中に近松秋江が主幹を務める『中央公論』で、ロンドン・タイムズ、デイリー・メール等外国の新聞雑誌類の翻訳アルバイトをするが、やがてその能力を認められ正式な編集者になり、大学はほとんど出席しなくなって中退した。
山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月… 山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉7月2日)は、日本の書道家。本名は南寿、字は穆卿。 秋田県北秋田郡大葛村(現在の大館市)出身。1905年に秋田県師範学校を卒業し、土崎尋常高等小学校に勤務した。土崎尋常高等小学校在職中に書道を学び、1912年に上京し日下部鳴鶴に入門した。1918年に文部省習字科試験に合格した。日本美術協会第1回展覧会に出品して入賞してから各展覧会で賞を受けた。日本書道作振会第二回展覧会には、久邇宮殿下が台臨のときに御前揮毫を行った。 1936年には秋田書道展主査となり、1962年まで務めた。1939年には興亜書道連盟理事となった。
勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 19… 勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 1940年10月20日)は、現在の秋田県秋田市出身で尾車部屋、藤島部屋に所属した力士。本名は渡辺 鉄藏。身長173cm、体重113kg。最高位は西前頭8枚目(ただし番付外8枚目格)。 1900年5月初土俵を踏んだが、脱走し京都相撲、大坂相撲に在籍した。1912年5月東上し、番付外8枚目格付出で入幕したが、1勝も出来ず途中休場。翌場所十両に陥落したが、こちらでも1勝も出来ずと途中休場。幕下に陥落しても、休場が続き1914年1月廃業した。その後は神戸市に居住した。 沖ノ石 鉄三→勝時 鉄三(1903年1月場所-)→勝鬨 鉄藏(1912年5月場所)
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881… 塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名。 旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した。
須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日… 須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1898年(明治31年)9月、士官候補生(12期)として陸軍に入る。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 佐賀連隊区司令官、歩兵第55連隊長、第16師団参謀長等を経て、1927年(昭和2年)3月、陸軍少将に進む。同年7月、歩兵第3旅団長に就任し、1928年(昭和3年)8月、予備役に編入された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月… 石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月4日 - 1947年〈昭和22年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 秋田県南秋田郡秋田町中長町(現秋田市中通)出身。新聞記者、秋田時事新聞主幹、秋田新聞社、東北拓殖、東北物産商事、能代無尽各(株)取締役、秋田木工、辛酉銀行各(株)代表取締役となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選した。1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立候補したが次点落選。最下位当選者とは1票差だった。しかし、同年12月に同じ選挙区の中田儀直の当選無効により、更正決定で議員となる。
奈良磐松(なら いわまつ、1879年(明治12年)8月15日… 奈良磐松(なら いわまつ、1879年(明治12年)8月15日 - 1961年(昭和36年)3月13日)は、日本の銀行家。政治家。元秋田銀行頭取。元金足村(かなあしむら)村長。秋田縣多額納税者 。秋田縣士族。 秋田県南秋田郡金足村(現・秋田市)の「豪農」奈良家の次男として生まれ、兄が死去したため家督を継いだ。父は奈良茂。 奈良家は磐松の孫である奈良岩雄の代をもって直系が断絶し、その血統は現在、小野寺家および升屋家の二家にのみ継承されている。 旧制秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)中退、東京専門学校(現・早稲田大学)政治学科を卒業後、帰郷。金足村村議を経て、同村長を務めたほか秋田県町村会会長、秋田高等家政女学校(現国学館高等学校)理事長も歴任した。
井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10… 井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 秋田県雄勝郡湯沢町(現在の湯沢市)出身。1900年(明治33年)、秋田県師範学校を卒業し、1904年(明治37年)に東京高等師範学校国漢科を卒業した。東京女子高等師範学校教諭、静岡県女子師範学校校長、長崎県師範学校校長、福島県師範学校校長を歴任した。1928年(昭和3年)、東京市に入り、視学・学務課長に就任した。1932年(昭和7年)、豊島区長に転じ、のち赤坂区長、本郷区長を歴任した。
大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年… 大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名早坂 正巳(はやさか まさみ)。芸名の表記は大村 正夫、大村 正男と揺れがある。新派の舞台俳優としてキャリアをスタートし、黎明期の日活向島撮影所を支えたスター俳優として知られる。 1878年(明治11年)10月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に生まれる。 東京に移り、満18歳を迎える1896年(明治29年)、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区神田三崎町)にあった、川上音二郎の川上座(のちの改良座、現存せず)で初舞台を踏んだ。以降、新派の舞台俳優として、各地の舞台に立った。1918年(大正7年)に発行された『花形活動俳優内証話』によれば、東京に来た経緯は、地元の旧制中学校を2年で中途退学して東京に移り、専修学校(現在の専修大学)に入学、その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移ったとされている。
男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - … 男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - 1943年12月1日)は、秋田県由利郡鳥海町(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋(入門時は秀ノ山部屋)に所属した大相撲力士。本名は三船 専造(みふね せんぞう)。得意手は左四つ、吊り、寄り。現役時代の体格は176cm、98kg。最高位は前頭12枚目(1908年1月場所・5月場所)。 元天津風雲右エ門の秀ノ山部屋に入門し、1900年5月場所初土俵。1905年5月場所新十両。十両昇進まで負け越しは1場所だけで「太刀山の再来」と評された。1908年1月場所新入幕。幕内は4場所だけと目立った活躍はなかった。その後は十両と幕下を前後しながら次第に陥落していった。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 … 安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 - 1942年(昭和17年)2月5日)は日本の内科医。医学博士。 秋田県北秋田郡阿仁前田村出身。医師安倍全庵の長男として生まれる。 秋田師範学校附属小学校、秋田尋常中学校、第四高等学校を出た後、1902年(明治35年)京都帝国大学医科大学を卒業。そのまま大学院で学び、同大学助手、助教授を務めた。 京都市衛生技師を経て1909年(明治42年)には満洲に渡り南満州鉄道医長に就任。数々の論文を著し、1910年(明治43年)医学博士の学位を得、1911年(明治44年)南満医学堂教授となる。 1912年(明治45年)から1914年(大正3年)までアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、オーストリア等の欧米諸国に遊学し、医療・衛生事情を巡察。
信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 … 信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 - 1922年〈大正11年〉9月23日)は、日本の内務官僚。 秋田県出身。士族柿岡源十郎の二男として生まれる。信太家には養子に入った。 第二高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月の文官高等試験に及第し、司法省司法官試補から内務省に転じた。 以後、和歌山、福井、山梨各県の事務官、滋賀県港務部長、島根県内務部長、長崎県港湾部長を歴任するが、この間、呼吸器を患い2年ほどの休養をとっている。 その後、高知県内務部長、長崎県内務部長を経て、1921年(大正10年)12月、富山県知事に任命され、翌年1月12日に着任した。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 … 島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 - 1928年(昭和3年)12月26日)は秋田県山本郡(現・能代市)出身の俳人にして実業家、政治家。本名・島田豊三郎。別号に香車、悟空、五工、山頭火など。 1875年(明治8年)4月1日に父豊三郎、母キヱの次男として現在の能代市畠町に生まれる。幼名は島田長冶郎といい、この島田家は名士の家系であったが父と兄の死により幼くして島田豊三郎の名を継ぐ。小学校卒業の頃にはすでに日本外史、十八史略、三国志、水滸伝などを次々読破するなど大変読書熱心な子供であり、才気煥発、敏捷にとびまわる利巧者ぶりが孫悟空のようだと称されたことが後の雅号の由来となる。
河田 与惣左衛門(かわだ よそざえもん、1875年(明治8年… 河田 与惣左衛門(かわだ よそざえもん、1875年(明治8年)2月27日 - 1945年(昭和20年)3月1日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 秋田県北秋田郡鷹巣村(現・北秋田市鷹巣)の豪農。河田与惣兵衛の二男として生まれ、1888年(明治21年)3月に家督を相続する。 1902年(明治35年)秋田銀行取締役となり、のち秋田県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1906年(明治39年)12月24日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。 その後、秋田郡地主会長、同郡中央会長、赤十字有功社員などを歴任した。 妻 きさ (1881年生まれ、佐藤新三郎三女) 義弟 高安 正一 (1903年生まれ、扇田鉄鉱取締役高安虎治長男)
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) … 藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) - 1948年(昭和23年))は、日本の医師。秋田県仙北郡六郷町(現・美郷町)六郷字本道町出身。六郷町長も務めた。 本道町の角に住み、「ゲンジ」さんと呼ばれていた町医者である藤井玄瑞の長男。六郷町における医者が3代続く家系だった。1891年(明治24年)、秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業し、第一高等学校へ進学。1896年(明治29年)には、帝国大学医科大学(大学名は1897年に東京帝国大学に改称)へ入学し、1901年(明治34年)に卒業した。卒業当初は同大学病院の副手、のち松江市の病院へ赴任する。 その後、郷里へ帰り、六郷町において、初めて開業した帝大卒の医学士となる。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月2… 近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日 - 1942年(昭和17年)6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員)は子。 秋田県南秋田郡一日市村(現八郎潟町)の生まれ。旧姓名は畠山留吉。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる。最終学歴は、秋田中学校中退。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。 私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、「近江谷波止場」とも呼ばれた。
青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。