森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年… 森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年11月10日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。埼玉県出身。 旧制熊谷中学を経て、1928年に東京高等工業学校電気科を卒業し、同年に沖電気工業に入社。1947年に取締役に就任し、1956年に常務、1963年に専務を経て、1966年11月に社長に就任。1972年11月に会長に就任し、1976年6月に相談役を経て、1979年6月から特別顧問を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年11月10日肺炎のために死去。83歳没。
高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995… 高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995年3月26日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、新聞記者。埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)出身。選手時代のポジションはフォワード、ハーフバック。高師康夫とも表記される。 1914年、埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年時の1919年に同校で初めて開催された校内試合に出場し優勝した。高師は自著の中で「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。 1920年に旧制埼玉県立浦和中学(現、埼玉県立浦和高等学校)へ進学し、4年時の1923年にア式蹴球部を創部。5年時の1924年に東京高等師範学校主催の全国中等学校蹴球大会に出場した。
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 200… 石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。 「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」「うさこちゃん」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。 埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。 1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学。
荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40… 荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる。 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男。埼玉県立工業学校卒業、明治大学専門部中退。織物製造業を経営。 「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)。
奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月2… 奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月25日 - 1999年(平成11年)5月29日)は、日本の生化学者。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 埼玉県に生まれる。旧制埼玉県立粕壁中学校、旧制山形高等学校を経て、東京帝国大学理学部に入学。1929年(昭和4年)に卒業後は徳川生物学研究所に入所し同所の研究員として活動した。その後は柴田桂太が主催した岩田植物生理学研究所に入り、後にわかもと製薬創業者の長尾欽弥が設立した長尾研究所に転勤する。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)には大阪大学の教授となり、同大学で教鞭を執る傍らでミトコンドリアの電子伝達系や生体の酸化還元反応等主に細胞呼吸の仕組みの研究に携わった。
奥貫 賢一(おくぬき けんいち、1906年9月20日 - 2… 奥貫 賢一(おくぬき けんいち、1906年9月20日 - 2002年2月22日)は、日本の官僚、行田市長。旧姓・清水。 埼玉県出身。1924年、埼玉県立熊谷中学校卒業。1927年、第三高等学校卒業。1930年、東京帝国大学法学部仏法科卒業。朝鮮総督府に入り、平安南道学務、地方各課長、拓務事務官、拓務書記官、殖産局商工課長、興亜院調査官、大東亜省調査会在ハノイ総領事を歴任。 戦後の1946年埼玉県地方労働委員に就任。翌1947年には忍町町長に就任した。1949年に忍町が市制施行により行田市になり、同市の市長に就任した。在職中は市消防本部の設置、下水道工事に着手、中央公民館の開館が挙げられる。 1951年に一度市長を退任するが、1955年に再び行田市長に就任した。
鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月1… 鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月17日 - 1979年(昭和54年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位勲一等。衆議院議員(7期)、熊谷市長(3期)。熊谷市名誉市民。1953年3月熊谷商工信用組合を設立し、初代理事長に就任。その後、自由民主党より国政へ進出し、商工部会長、中小企業調査会長、政調審議委員、副幹事長、池田内閣建設省政務次官、佐藤内閣経済企画政務次官、衆議院大蔵委員長などを歴任。専門は中小企業問題、経済企画。地元、熊谷駅への新幹線開通を実現した。衆議院議員の鴨田利太郎は息子。
須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年… 須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年7月14日)は、日本の洋画家。埼玉県出身。浦和画家。 当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。
内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000… 内田 静馬(うちだ しずま、1906年4月1日 - 2000年4月29日)は、日本の版画家。 埼玉県生まれ。1924年埼玉県立川越中学校を卒業し、東京高等工芸学校木材工藝科に進学。1927年に同校を卒業。1928年、第6回春陽会展で作品が入選し、版画家としてデビューする。1930年には新潟県立高田商工学校に木工教諭として赴任し、教師をしながら創作活動を続け、1932年には日本版画協会会員となる。1939年8月には下関市立下関商工学校教諭に転任するが、戦況が厳しくなると1945年1月には郷里に戻り、埼玉県工芸指導所長に任じられ、1948年まで埼玉県庁職員として勤めた。その後、1968年から1976年まで郷里の桶川町の川田谷地区の公民館長を勤めながら、1970年代には版画教室を催したり、木版画の制作方法を表した著作を公刊するなど、版画普及活動も行った。
ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 197… ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 1971年〈昭和46年〉5月27日)は、日本の俳優。埼玉県草加市出身。本名・旧芸名は大川 平八郎()。娘婿に俳優の小松英三郎がいる。 1905年、草加宿開拓者のひとりである大川図書の子孫、大川家13代頭首である大川十三代の三男として産まれる。 草加尋常小学校を卒業後、郁文館中学5年進級の際に「操行丙」で落第してしまったため[要出典]、アメリカで実業家になるために1923年に渡米。ペンパル・クラブで知り合ったフロリダ大学の教授を頼って行ったゲインズヴィルで1年過ごす。翌年アトランタへ移り住んで中華料理店で1年5ヶ月間働いた後、さらにニューヨークへ移ってクラブの皿洗いのアルバイトを始める。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1… 鳥羽 陽之助(とば ようのすけ、1905年3月16日 - 1958年10月10日)は、日本の俳優である。本名は鳥羽 輝雄(とば てるお)、高勢実乗との「極楽コンビ」で知られる。 1905年(明治38年)3月16日、東京府東京市(現在の東京都区部)に「鳥羽輝雄」として生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)を3年次で中途退学し、満17歳になる1922年(大正11年)、新劇の東京自由劇場俳優養成所の研修生となる。1923年(大正12年)に伊川八郎の「国精劇」、1926年(大正15年)には明石潮の一座に参加する。 同年、京都・御室のマキノ・プロダクションで、二川文太郎らが監督した月形龍之介主演作『修羅八荒』に出演して映画界にデビューした。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月31日 - 没年不明)は、日本の実業家。高岳製作所元取締役。三井銀行(現・三井住友銀行)元常任監査役。東京光学機械(現・トプコン)元監査役。 埼玉県大里郡寄居町の吉田正治の次男として生まれた。早くに父を亡くし、義兄の医師・幾瀬量(娘は幾瀬マサ)の世話になる。幾瀬の先輩の伊藤新作(日本煉瓦製造営業部長)を紹介され懇意になり、望まれて伊藤の末期養子及びその妻伊藤乃ふの養子となる。 旧制熊谷中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部を卒業。大学卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。同行にて監査役・常任監査役を歴任。
松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11… 松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11月12日 - 1988年〈昭和63年〉2月18日)は、日本の大蔵官僚。造幣庁長官。 埼玉県熊谷市に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高校(現埼玉大学)を経て、1929年に東京帝国大学法学部を卒業。 大学卒業後、大蔵省に入り熊本税務署長となる。1933年に満州国に転じ、財政部銀行科長、駐日財務官総務庁人事処規画科長、主計処一般会計科長を歴任。対満事務局監理課長、満鉄管理官預金部運用課長、理財局国庫課長、印刷局理事兼業務部長、名古屋財務局長を経て、1949年、造幣庁長官となる。 1951年に造幣庁長官を退官。
梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11… 梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11日 - 1994年〈平成6年〉5月13日)は、日本の産婦人科医。横浜市立大学学長。 埼玉県比企郡小川町出身。1923年に旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業。旧制浦和高校を経て、1930年東京帝国大学医学科を卒業。東京大学医学部付属病院産婦人科教室に入り医学博士を取得。 1939年に新潟医科大学助教授に新任。前橋医科大学教授を経て、1950年、群馬大学医学部産婦人科教室教授。1951年、群馬大学医学部附属病院長となる。1957年、附属病院長を辞任。 1958年、群馬大学教授を退官後、横浜市立大学医学部教授となる。1970年退官し、横浜市立大学学長を1974年まで務めた。
宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年… 宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎狂言作者。 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。新作落語をいくつか創作したが、サゲは噺家に一任した。
金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日… 金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日 - 1990年(平成2年)12月19日)は、埼玉県蕨市の第四代目市長(1967年~1975年)。 1904年、北足立郡蕨町に生まれる。1930年、蕨第一小学校(現:北小学校)、旧制浦和中学、旧制松本高校を経て東京帝国大学経済学部卒[要出典]。1931年、東京市に奉職し、麻布区長(現在の港区)、文京区助役、東京都立養育院院長、監査事務局長を歴任。1961年、東京都住宅公団理事を務め、1966年退職。1967年、蕨市長に就任し、2期8年務める。1971年から郷土史研究会会長として活動した。多数の郷土資料を収集しており、東京市の戦前戦後の文献資料は東京都公文書館に、蕨の郷土史に関する資料・著作は蕨市立図書館・歴史民俗資料館別館に保管されている。
井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月1… 井形 卓三(いがた たくぞう、1904年(明治37年)3月13日 - 1991年(平成3年)3月13日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。東京都本郷区長、文京区長。文京区名誉区民。 埼玉県に生まれる。旧制熊谷中学、第八高校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。1945年(昭和20年)12月、本郷区長に就任。1947年(昭和22年)4月、文京区初代区長に就任し、1967年(昭和42年)9月16日の任期満了まで5期20年にわたり区長を務めた。在任中は文京区庁舎と公会堂を建設し、第2庁舎を設置する。1958年には日本国際連合協会を代表して東京都議会副議長の浦部武夫と共にブラッセル(ベルギー)を視察。1965年に東京都の区長会会長に選ばれた。
堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2… 堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2日 - 1995年〈平成7年〉)は、日本の書道家。堀野書道学校初代校長。日本書法芸術院名誉会長。本名は 幸(こう)。祖先の堀川家祐筆だった松島幸右衛門の頭字「幸」の一字に由来する。 明治37年2月2日に生まれる。体の弱かった母から未熟児として生まれたので長生きはできないだろうと判断され、幸の後にもう一字付ける予定だったが、そのまま名を「幸」として役場に届けられる。その後命を落とすことはなかったが、栄養失調のため明治39年から明治42年まで、一時的に視力を失う。虚弱体質で体が小さかったことから、学校でいじめを受け続け、ついに小学校4年生の時に落第させられた。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年>… 三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年> - 1983年 <昭和58年> 3月1日)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。位階は正四位。 埼玉県大里郡久下村(現・熊谷市)に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。 卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる。当地では北九州郷土史研究会に参加した。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった。 1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任、1940年に旧制平壌第一中学校に移る。
佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - … 佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - 1979年(昭和54年))は、日本の実業家。粕壁宿で慶長年間創業15代400年の老舗伊勢屋当主。 佐野喜智平は1904年(明治37年)、埼玉縣南埼玉郡粕壁町に生まれる。旧制縣立粕壁中學校を1922年(大正11年)に卒業後、老舗伊勢屋に勤務。1934年(昭和9年)に伊勢屋代表取締役社長を継承した。 戦後の高度成長時代には、スーパーマーケット・プラスを立ち上げた。1968年(昭和43年)に伊勢屋代表取締役会長に就任した。 氏は、1970年代に将来移転予定の春日部薬草園の跡地に、文化施設を提案。および、粕壁三枚橋の薬草園の隣接地に商業施設を誘致した。
松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月1… 松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月10日 - 1964年〈昭和39年〉3月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で生まれる。旧制熊谷中学を経て、1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後、松崎製糸社長、埼玉繊維工業社長、丸佐生糸取締役、日本輸出生糸保管監査役、日本製糸協会常任幹事、ジャパン・シルク・アソシエーション理事などを務めた。 1933年(昭和8年)5月、1937年(昭和12年)5月、1942年(昭和17年)7月の3回、熊谷市会議員に選出されている。またこの間、1939年(昭和14年)5月15日から1942年(昭和17年)7月20日まで第3代同副議長を、1944年(昭和19年)6月1日から1945年(昭和20年)4月25日まで第5代同議長を務めた。
佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14… 佐久間 寿美(さくま すみ、1903年(明治36年)7月14日 - 1982年(昭和57年)2月1日)は、埼玉県川越の馬車旅館として創業された「佐久間旅館」の女将として勤め著名人との親交も多かった。川越の女傑とも呼ばれた。
金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月… 金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月28日 - 1948年(昭和23年)1月17日)は、日本の法学者。早稲田大学教授。専門は日本法制史、西洋法制史、英国法。 1903年3月28日、埼玉県北葛飾郡吉田村(現・幸手町)において、金澤理三郎・あゑの長男として生まれる。吉田小学校尋常科、粕壁中学校、第一早稲田高等学院文科を経て、1926年3月に早稲田大学法学部英法科を卒業する。 1926年4月から早稲田大学法学部大学院に進学して法制史を専攻し、早稲田大学法学部の助手となる。論文『明治初期に於ける消費貸借法の変遷』により学会デビューを果たす。同年、文官高等試験司法科に合格する。 1931年5月から早稲田大学在学研究員として、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、フンボルト大学ベルリン、ロストック大学に留学し、西洋法制史を研究する。
齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 19… 齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 1969年11月25日)は、日本の刑法学者。従四位勲三等旭日中綬章。埼玉県出身。
秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 -… 秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 - 1943年7月15日)は、日本の戦前の政治運動家。日本共産党中央委員、「赤旗」編集長。 埼玉県北足立郡田間宮村(現鴻巣市)出身。本名は正之輔。埼玉県立熊谷中学校を経て早稲田大学附属第二高等学院に進む。同学院在学中に関東学生連合会に加盟、組織部長・常任委員。1926年3月、京都学連事件に連座、軍事教練反対などの運動を指導、退学処分になる。 1927年1月、産業労働調査所に入り機関誌『インターナショナル』の編集発行人。1927年10月、労働農民党に入党、本部書記。1928年7月、日本共産党に入党。1929年4月、四・一六事件で逮捕、懲役5年の判決を受けたが病気を理由に1931年2月に保釈出所。
金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) … 金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) - 1983年(昭和58年))は、日本の医学者、解剖学者。日本医科大学名誉教授、埼玉医科大学教授。解剖学の権威として知られた。1977年、勲三等瑞宝章受賞、松伏町初代名誉町民。 埼玉県北葛飾郡金杉村(現・松伏町)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)を大正10年に卒業した後、日本医科大学に入学。1928年 日本医科大学専門部卒業。東京帝国大学解剖学教室に入室。1929年から1931年日本歯科医専教授。1929年昭和医専教授。1930年日本医科大学講師、1936年助教授。1944年教授。1971年定年退職。その後1975年-1978年に埼玉医科大学の教授も務めた。
吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5… 吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5月19日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県会議員。 埼玉県北埼玉郡南河原村(現・行田市)出身。吉野貞蔵の長男。1921年に熊谷中学校を卒業する。農業を営んだ。 1926年に南河原村青年団長に就任、同村長、北埼玉郡町村会理事を歴任して、1947年に埼玉県議に当選、総務常任委員長に就任する。 傍ら1946年に元荒川支派川普通水利組合会議員に選ばれ、1950年に羽生地区署管内西部交通安全協会長に推された。 趣味は剣道、庭球、読書。宗教は真宗。住所は埼玉県北埼玉郡南河原村。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)… 四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。 高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。 1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。
長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月… 長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月17日 - 1992年(平成4年)9月22日)は、日本の銀行家、社会福祉活動家、古美術品愛好家。さいたま市名誉市民。 埼玉県大里郡吉見村(のちの大里村、現・熊谷市)小八ッ林の豪農で、のちに吉見村長を務めた長島甚助、せい夫妻の長男として生まれる。 吉見尋常小学校(現・熊谷市立吉見小学校)、吹上尋常小学校高等科、旧制熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、山口高等商業学校(現・山口大学)を経て、1923年(大正12年)に渋沢栄一が設立に深く関与し、その甥が頭取を務める武州銀行に入行。 1943年(昭和18年)7月の八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行との合併による埼玉銀行の発足と同時に本店営業部長に就任した。
馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 … 馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 - 1979年(昭和54年)6月4日)は、日本の政治家・日本社会党衆議院議員(1期)。行田市長。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1922年東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科卒。卒業後は東京日日新聞の記者となり、モスクワ特派員、外国通信部副部長、ロシア課長、出版局編集部長、毎日新聞社出版局長などを歴任した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で埼玉県から日本社会党公認で立候補するが、次点となった。同年5月に鴻巣町長に就任する。翌1947年町長を辞任し、4月の第1回埼玉県知事選挙に社会党公認で立候補したが落選。同月末の第23回衆議院議員総選挙で埼玉4区から社会党公認で立候補して当選した。
岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日… 岡本 潤(おかもと じゅん、1901年〈明治34年〉7月5日 - 1978年〈昭和53年〉2月16日)は、日本の詩人、脚本家である。本名-保太郎。 1901年(明治34年)7月5日、埼玉県児玉郡本庄町(現在の同県本庄市)に岡本保太郎として生まれる。 1906年(明治39年)ごろ両親が離婚し、母とともに、京都に住む母方の祖父に引き取られる。旧制・深草尋常高等小学校(現在の京都市立深草小学校)に入学するが、4年を終了した時点で本庄に帰る。1年後に京都に戻り、旧制・平安中学校(現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校)に入学した。卒業後上京し、中央大学、東洋大学にそれぞれ入学し、いずれも中途退学した。 大杉栄、クロポトキンらのアナキズムに共鳴、19歳になる1920年(大正9年)、同年に結成された日本社会主義同盟に参加した。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
西角井 正慶(にしつのい まさよし、1900年(明治33年)… 西角井 正慶(にしつのい まさよし、1900年(明治33年)5月22日 - 1971年(昭和46年)1月22日)は、埼玉県生まれの国文学者、民俗学者。歌人としても著名で、見沼 冬男(みぬま ふゆお)のペンネームを持つ。折口信夫に師事し、折口信夫の五博士のうちの一人である。國學院大學教授。文学博士。 1900年、埼玉県北足立郡大宮町大字高鼻(現・さいたま市大宮区高鼻町)に生まれる。1918年、私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)卒業。1922年、國學院大學国文科を卒業。 卒業後、埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)教諭となる。1926年、國學院大學神職養成部講師。1928年、國學院大學講師となり、1935年同大学教授。
小宮 義孝(こみや よしたか、1900年2月18日 - 19… 小宮 義孝(こみや よしたか、1900年2月18日 - 1976年2月4日)は、日本の寄生虫学者。 埼玉県出身。旧制熊谷中学校、第一高等学校をへて、1925年東京帝国大学医学部卒、同衛生学教室助手。国崎定洞の影響を受けて社会医学を志す。1931年上海自然科学研究所に入所、寄生虫を研究。1932年「鐵筋コンクリート建病室に於ける換気に関する研究」で医学博士(東京帝国大学)。 戦後は、1949年群馬大学医学部教授、1952年目黒寄生虫館評議員、1966年国立予防衛生研究所長、1967年日本寄生虫学会名誉会員。1964年第8回野口英世記念医学賞を受賞。 戦前はマルクス主義者で、戦後も早くから中華人民共和国をたびたび訪れた。
栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16… 栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16日 - 1978年〈昭和53年〉8月24日)は、日本の政治家。埼玉県知事などを歴任した。 埼玉県北埼玉郡原道村(現・加須市)出身。私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)を卒業。早稲田大学高等師範部(現・早稲田大学教育学部)を中途退学。 知事引退後、埼玉医科大学理事長、校外教育協会会長、社会福祉協議会会長、共同募金会会長を歴任。県知事の職に4期16年間あり、長期政権であった。県知事であった時期と高度経済成長期が重なったこともあり、任期中には住宅・工業団地や鉄道・道路の整備に努めたほか、1963年には「総合開発計画」を決定した。また、1972年に勲一等瑞宝章を授与された。
武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日… 武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日 - 1992年〈平成4年〉3月12日)は、電気化学者。東京工業大学名誉教授、慶應義塾大学名誉教授。元電気化学協会会長。理学博士(東北帝国大学、1932年)。埼玉県北足立郡与野町(現・さいたま市中央区)生まれ。 妻の万寿は大幸勇吉の娘。
磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月1… 磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月15日 - 1983年(昭和58年)1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡大滝村長。位階は従五位。 埼玉県秩父郡大滝村(現:秩父市)で生まれる。秩父郡立農林学校を中退した。 1929年、大滝村会議員に就任。1934年、大滝村長となり、その後、埼玉県会議員を兼務した。戦時中は、大政翼賛会埼玉支部参与、同秩父郡支部理事、同大滝村支部長に就任したが、大政翼賛会の官権主義に反発して全ての役職の辞任を申し出て物議を醸した。 戦後、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選し、その後、国民協同党に所属して衆議院議員を一期務めた。
佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 19… 佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 1994年10月12日)は、日本の国語学者。
田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月… 田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月15日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 埼玉県北足立郡安行村(現在の川口市・草加市)出身。衆議院議員・田中左司馬の長男として生まれる。埼玉県立浦和中学校、第一高等学校を卒業。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年6月、北海道庁属となり拓殖部に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 1923年4月、北海道庁警視・警察部勤務となる。以後、道庁事務官、地方事務官・静岡県勤務、福岡県警察部特別高等警察課長、内務事務官・警保局勤務、ドイツ駐在(1931年7月~1934年12月)、兼内務書記官・大臣官房文書課長、内閣調査局調査官、内務書記官・地方局庶務課長、警保局警務課長を歴任し、文部省社会教育局長に就任。
青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966… 青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966年4月12日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。自治庁長官(第10・12代)、国家公安委員会委員長(第9代)、衆議院議員(7期)。 環境庁長官の青木正久は息子。 埼玉県北埼玉郡共和村(後の川里村、現鴻巣市)の旧家の生まれ。旧制不動岡中学校、東京農業大学卒業。 大卒後に実家へ戻り、農村の若者の育成指導にあたっていたが、各地で発生する小作争議の遠因に政治があると考え、農民のための政治家を目指してまずは政治記者になるため中外商業新報に入社、整理部長や論説委員となる。父が亡くなったことで1937年に16年勤めた中外商業新報を退社、家業を継ぐために帰郷。
萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -… 萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -1969年7月13日 )は、日本の言語学者。ロンドン大学客員教授、早稲田大学教育学部英語英文学科教授等を歴任した。稲村松雄、竹沢啓一郎との共著『Jack and Betty』は発行部数4,000万部を超えるベストセラーとなり、戦後日本の中・高等教育課程における代表的な英語教科書となった。埼玉県上里町出身。墓所は寛永寺第3霊園。 埼玉県児玉郡賀美村(現:上里町)大字黛にて出生。旧制高崎中学校を経て早稲田大学高等師範部卒業。千葉県立大多喜中学校教諭、東京府立第五中学校教諭、早大高師部講師等を経て1935年に早大教授に就任。同校を1969年に定年退職するまでの間に、1938年に渡英しロンドン大学で客員教授を務め、1960年代に跡見学園女子大学で客員教授を務めた際には同大学英文科開設に尽力した。
三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年… 三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年)- 1998年6月3日(平成10年))は日本の元船員、元海軍軍人(予備将校)、元海上保安官。最終階級は、海軍では海軍中佐。海上保安庁では警備救難監(海上保安官の最高位)、海上保安庁次長。日本海事検定協会会長、日本海洋会副会長を歴任。又、戦後、海上自衛隊復活を討議した「Y委員会」の主要メンバー。一貫して再軍備には反対の立場を取った。埼玉県羽生市出身。埼玉県立不動岡中学校(後の埼玉県立不動岡高等学校卒業)。 1922年(大正11年)に東京高等商船学校航海科74期生(後の東京商船大学、現東京海洋大学)を首席で卒業し、御前講義した卒業論文は、東京海洋大学の越中島会館の中に保存されている。
清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日… 清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日 - 1951年(昭和26年)7月4日)は男性詩人。本名は、清水桂。特に童謡詩人として知られる。
浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月2… 浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月28日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。 浅見竹三郎の三男として埼玉県深谷市に生まれる。1931年(昭和6年)分家する。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所研究員となる。1925年(大正14年)北海道帝国大学教授となり、12余年に渡り欧米各地に駐在し、帰国後の1936年(昭和11年)10月、工学博士となる。同年9月、北海道に行幸した昭和天皇に帯広市にて「高周波電気現象と其の応用」と題する進講を行った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)9月、同大学応用電気研究所長、のち1960年(昭和35年)同大工学部長を経て、1962年(昭和37年)退官し、成蹊大学主任教授、1969年(昭和44年)同大工学部長となる。
田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982… 田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982年9月20日)は、昭和の地理学、経済地理学者。神戸大学名誉教授。子爵。
松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7… 松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7日 - 1944年〈昭和19年〉9月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、星河村長、忍町長。 埼玉県北埼玉郡星河村(現行田市)で、醤油醸造業・松岡三五郎の長男として生まれる。1915年、埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)。1920年、東京帝国大学農学部農学実科を卒業した。1923年から1931年まで忍高等女学校で理科・実業科嘱託教師を務めた。 また、星河村農会長、蚕業組合長、忍貯蓄銀行取締役頭取、忍商業銀行(現・りそな銀行・埼玉りそな銀行)取締役頭取、星河村会議員、同村長、忍町会議員、同議長、同町長、埼玉県会議員、帝国在郷軍人会北埼玉郡連合分会長などを歴任。
福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - … 福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - 1990年11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年 1月11日 埼玉県深谷市血洗島 出生 1920年 5月26日 陸軍士官学校32期 卒業 1929年11月29日 陸軍大学校41期 卒業 1940年 3月 9日 第8師団参謀長 1941年 3月 1日 歩兵第4連隊長 陸軍大佐 1942年 4月 1日 西部軍高級参謀 1945年 1月29日 第16方面軍 兼 西部軍参謀副長 1945年 3月 1日 陸軍少将 大東亜戦争で西部軍高級参謀から第16方面軍兼西部軍参謀副長(第2総軍)に転じ、本土決戦に備えていた。