武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
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笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3… 笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3日 - 1974年(昭和49年)11月15日)は、日本の歴史家・郷土史家。徳島県の郷土史研究や各市町村史編纂の基盤確立に大きな役割を果たした。本名は笠井(吉田) 高三郎(かさい(よしだ) たかさぶろう)。 1891年1月3日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平の三男として生まれる。 1909年、早稲田中学校を卒業する。卒業後、水彩画講習所でデッサンの勉強をしていたが、家族の要請により、1910年に脇町に帰郷する。 1913年8月23日、脇町収入役に就任し、『美馬郡郷土誌』編纂のために美馬郡教育会嘱託を兼任する。1915年10月19日、辞任する。
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森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 -… 森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 - 1967年〈昭和42年〉12月21日)は、日本の医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。 1890年9月13日に東京府で、森鷗外と最初の妻・登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・文京区本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鷗外と同じように熱心な教育を受けた。1900年に生き別れた実母が病死、1902年に父鷗外が再婚し、新しい母ができたことを喜んだが、義母の志げは於菟に冷たかった。
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木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 198… 木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 1989年5月26日)は、日本の教育学者。儒教風道徳教育を是とし、日教組と対立した。
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湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月2… 湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月29日 - 1981年(昭和56年)8月15日)は、日本の昆虫学者・教育者・キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の五男。 1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。 1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。
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菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
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榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月… 榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月16日 - 昭和54年〈1979年〉11月30日)は、大日本帝国海軍の海軍書記官(海軍高等文官)、日本の弁護士・国際法学者。 東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学英法科に進み、大正2年(1913年)11月に高等文官試験行政科に合格し、大正3年(1914年)7月に東京帝大を卒業した。 鉄道院書記を経て、大正4年(1915年)10月、大日本帝国海軍の高等文官たる海軍書記官(当時の官名は海軍省参事官)に任官し、高等官七等(奏任官、中尉相当)に叙された。 昭和13年(1938年)10月、高等官一等(勅任官、海軍高等文官の最高位、各省次官〈高等文官〉や陸海軍中将〈高等武官〉に相当)に叙された。
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高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月2… 高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月25日 - 1984年(昭和59年)4月28日)は、日本の政治学者、アメリカ研究者、政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。東京大学名誉教授、日本学士院会員。 東京帝国大学教授、太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。 英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。外戚の佐賀藩士の高木家の養子となる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受ける。1918年(大正7年)、母校でアロンゾ・バートン・ヘボンの寄付で設置された米国憲法・歴史及び外交講座(通称「ヘボン講座」)の初代担当者となる。
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根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19… 根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19日 - 1980年(昭和55年)3月24日)は、日本の泌尿器科学者である。 東京府(現在の東京都)に医師だった根岸三郎の長男として生まれる。その後埼玉県北埼玉郡埼玉村(現在行田市)に住し、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する。卒業後も大学に残り、同大学内の伝染病研究所の所員として活動した。その後は同大学教授であった土肥慶蔵の元、同大学の助教授となる。その後は大学を離れ、1931年(昭和6年)からは岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は岡山大学病院の院長を3期務め、以後6年間評議員と兼任して活動する。
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中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月1… 中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月14日 - 1942年(昭和17年)8月3日)は、大正・昭和期の中国学者。 中江兆民の長男として大阪に生まれた。小石川竹早小学校、旧制早稲田中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1913年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌年8月に袁世凱の憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京に赴く。これは当時官界にあった曹汝霖・章宗祥が日本留学中に中江家に寄寓していたという機縁によるものである。その期限が満了した1915年夏に日本に帰国。しかし、数ヶ月後に再び中国に渡り、以降30年にわたる北京での生活を始める。1919年、五四運動の際には曹汝霖・章宗祥を救出し、その前後から中国思想の研究に励む。
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鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - … 鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - 1959年2月1日)は日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」と呼ばれた。
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柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21… 柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21日 - 1961年〈昭和36年〉5月3日)は、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。民藝運動の主唱者である。名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。 宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。 1889年(明治22年)3月21日、東京府東京市麻布区市兵衛町二丁目(現在の東京都港区六本木)に(父の元海軍少将・柳楢悦と母・勝子の三男として生まれる。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた。
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田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
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高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
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野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月… 野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)。
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末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
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小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 19… 小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 1973年6月18日)は、日本基督教団牧師、神学者。エキュメニカル運動の指導者。
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細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月2… 細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月27日 - 1962年〈昭和37年〉12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。日本共産党参議院議員。 ※以下、第一高等学校時代までの記述は、1953年に服部之総が細川からの聞き取りにより作成したが未刊となっていた「河童自伝」(2019年刊行の『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』に収録)および『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』巻末年譜に基づく。 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。生家があったのは、東三浦町と呼ばれる一角だった。後年の回想によると、父の実家は町方で晒問屋を営んでいたが、近代的紡績産業の発展で仕事を失い、実家の次男だった父は季節によって様々な仕事に就く「稼ぎ人」と呼ばれる職業だった。
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佐藤 忠勇(さとう ただお、1887年〈明治20年〉11月 … 佐藤 忠勇(さとう ただお、1887年〈明治20年〉11月 - 1984年〈昭和59年〉4月1日)は日本の水産学者。カキの浄化法を確立した人物であり、的矢かきの生みの親である。 1887年(明治20年)11月、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)に生まれる。旧制早稲田中学校に入学し、当時教師をしていた浮田和民から「自分の一番得意なものを専攻し、それを社会に役立てよ」と言われたことから水産学を志すことを決心した。卒業後、東北帝国大学水産大学(現在の北海道大学水産学部)に入学。プランクトンの研究を行い1908年(明治41年)卒業。1913年(大正2年)には北海道庁技手に就任、北海道水産試験場に勤務する。
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権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5… 権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5月17日 - 1951年(昭和26年)1月5日)は、日本の社会学者。 東京生まれ。明治32年、早稲田中学に入学。東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1921年大原社会問題研究所に入る。1924年にヨーロッパに渡る。のちに日本大学講師、文部省の委託を受けて各地の都市研究に従事する。 1919年(大正8年)に実施した、小額俸給生活者の家計調査は有名。また同時期、京都の映画監督で、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男(保篠龍緒)とともに協力する。
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北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
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額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
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颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
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岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962… 岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962年4月28日)は、日本の大正・昭和期における歯科医、大学教授。滋賀県出身者の歯科医として、初の医学博士。 1886年(明治19年)4月19日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の3番目の妻・義子。八男七女の七男として誕生したが、長男と四男が夭折しており対外的には五男と称す。 1898年(明治31年)早稲田中学入学に伴い上京し、長兄岡田国太郎宅より通う。1908年(明治41年)7月20日、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)第14回生(本科6名の一人)として卒業する。
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小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971… 小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971年9月10日)は、日本の昆虫学者、遺伝学者(農学博士)。 東京府出身。中学時代に松村松年に刺激を受け、1903年、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)から札幌農学校に進学。1911年、東北帝国大学農科大学農学科(現・北海道大学農学部)を卒業し、農業生物学教室教員となる。1922年から2年間、イギリス・ドイツ・ベルギーへと留学。1929年、八田三郎教授の定年退職に伴い、北海道帝国大学農学部動物学昆虫学養蚕学第一講座教授となる。翌1930年、同大学に新設された理学部動物学科教授に移動し、第一講座の後任には犬飼哲夫が就任した。トンボの研究の権威として知られた。
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田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 … 田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体での表記では田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学校の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助である。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至である。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥である。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。
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西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8… 西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8月17日)は、日本の解剖学者、エスペラント運動家。東京帝国大学名誉教授。医学博士。西成度の孫。 東京出身。早稲田中学、第一高等学校、東京帝国大学医学部卒。大沢岳太郎に師事。1911年ハイデルベルク大学へ留学し、M. Furbringer, H. Brausに師事。1915年東北帝国大学教授、1922年東京帝国大学教授、1945年定年退官、名誉教授、49年群馬大学学長。1945-1966年日本エスペラント学会理事長。弟子には浦良治など。祖父は裁判官で第6代大審院長を務めた西成度。 1978年8月17日、心不全のため神奈川県横浜市の国立横浜病院にて死去。
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西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1… 西川 正治(にしかわ しょうじ、1884年12月5日 - 1952年1月5日)は、東京都八王子市出身の結晶学者である。
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高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
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鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
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穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
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牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
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鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 194… 鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 1946年1月29日)は、日本の法学者、元衆議院議員。専門は民法。東京都出身。
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呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。
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中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。
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穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 19… 穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 1951年7月29日)は、東京府出身の法学者。専門は民法。東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」といわれる。東宮大夫兼東宮侍従長。男爵。勲一等旭日大綬章。
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橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
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朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
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武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 197… 武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 1972年6月7日)は、日本の植物学者、登山家。
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箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28… 箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28日 – 1964年〈昭和39年〉12月15日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。工学博士。最終階級は海軍造兵中将。 兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した。
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岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
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柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
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井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月… 井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士。勲二等旭日重光章。 東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で、官僚・井上廉の息子として生まれた。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻。1908年(明治41年)7月に卒業して大学院に進み、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学。
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石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 196… 石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 1963年1月3日)は、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)出身の医学者・眼科医・陸軍軍人(最終階級は軍医少将)。東京帝国大学教授。文化功労者。 石原式色覚異常検査表と呼ばれる色覚検査表(石原表と略される)の考案者として有名である。石原表は1933年の第14回国際眼科学会で認定されたことなどから国際的にも高い評価を得ており、色覚検査表といえば石原表と同義語と解されるほど日本では普及している。 その他、石原は視力・色覚・屈折異常など、機能検査表の研究を行ったり、1色覚(先天性全色盲)を発見するなどし、眼科分野の先駆者となった。 1879年(明治12年)9月25日、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)に生まれた。
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海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 195… 海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 1955年1月25日)は、日本の社会事業理論家、優生学者。 東京・九段に、数学者・海野幸明の子として生まれる。東京若松専門学校政治経済科卒業。1903年、ドイツ系の貿易会社・横浜セールに入社。1907年、古屋寿会に移り、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1912年にアメリカ合衆国に1年間留学し、スタンフォード大学・シカゴ大学で社会学、社会事業について研究する。1917年に古屋寿会を退職。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。
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上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - … 上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - 1940年5月8日)は日本の経営学者、経済学者。経営学という概念を命名・提唱した。1937年、帝国学士院会員。1932年、勲二等瑞宝章。1940年、正三位勲二等旭日重光章。 上田家は祖父の代まで町人であったが、父上田章が漢学をやったために、士族に引き上げられた。 旧制正則中学校(現正則高等学校)を経て、1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやシドニー・ウェッブ夫妻等の下で学ぶ。1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。 1902年、高等商業学校嘱託講師となり、1905年に同教授。
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島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 -… 島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 - 1915年〈大正4年〉7月28日)は、日本の漢学者・書誌学者。若くして校勘学で名をあげ、日中の文人と広く交流した一方で、書籍の窃盗などの事件を起こし、37歳のとき自殺した。 字は彦禎または彦楨。号は双桂后人。 1879年(明治12年)1月2日、東京府小石川区(現在の東京都文京区)にて、島田篁村を父とする学者の家系に生まれる。幼少から漢籍を愛し神童と評されたが、吃音を患い会話が苦手だった。 1891年(明治24年)、東京高等師範学校付属尋常中学校に入学、幼馴染の永井荷風や井上唖々と親交する。荷風の回想によれば、彼らはともに軟派で文弱だったため、しばしば同級生の鉄拳制裁の対象になったという。
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矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 196… 矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 1969年6月23日)は、日本の地球科学者。東京生まれ。東北大学名誉教授。東京大学卒業。
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山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - … 山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - 1957年3月21日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第13代駒澤大学学長、駒澤学園創立者。号は霊岳。別名、天川(てんせん)。 佐賀県藤津郡能古見村(現・鹿島市)大野生まれ。1889年嬉野市永寿寺で出家得度。曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園)、1906年(明治39年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。同年11月曹洞宗海外研究生としてインド、セイロン(スリランカ)に留学。1907年よりインド・カルカッタ大学大学院で梵語(サンスクリット)、インド宗教、インド哲学、インド文学を研究。1910年同大学で仏教思想系統論を講じる。1913年(大正2年)帰国。
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池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 195… 池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。 1878年、東京府で生まれた。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に入学。東洋史を専攻した。1904年に東京帝国大学を卒業。 その後は、独協中学と早稲田中学教員を経て、1908年に南満洲鉄道歴史研究部の研究員に就いた。1913年に東京帝国大学講師に就いた。1916年に助教授昇格。1922年、学位論文『鮮初の東北境と女真との関係』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1925年に教授昇格。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。
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