長崎 源之助(ながさき げんのすけ、1924年2月19日 -… 長崎 源之助(ながさき げんのすけ、1924年2月19日 - 2011年4月3日)は、日本の児童文学作家。 神奈川県横浜市出身。少年時代はよく遊び、よく本を読んで過ごしたと言う。淺野總合中學校(現在の浅野中学校・高等学校)入学後は、夏目漱石『吾輩は猫である』などを岩波文庫で読んだことで読書の楽しみを知り、坪田譲治『子供の四季』に感動して文学を行う上での目標と考える。しかし、中学5年の時に腹膜炎にかかったため、1年休学をした後に退学。1942年頃から、近所の子供たちを集めた「子ども隣組」を始め、読み聞かせを行う。同じころに、俳句に興味を持ち、句誌に投稿を始める。 1944年に応召し、陸軍に入営。華北で終戦を迎え、1946年に復員。
石井 隆匡(いしい たかまさ、本名: 石井 進(いしい すす… 石井 隆匡(いしい たかまさ、本名: 石井 進(いしい すすむ)、1924年1月3日 - 1991年9月3日)は、ヤクザ、暴力団・稲川会二代目会長、横須賀一家五代目総長。 石井 唯博とも。 神奈川県横須賀市出身。経済ヤクザと呼ばれた。
原田 八洲生(はらだ やすお、1924年 - )は、神奈川県… 原田 八洲生(はらだ やすお、1924年 - )は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 逗子開成中学校(現・逗子開成中学校・高等学校)卒業後、1943年に大和軍に入団。しかし、鈴木秀雄の壁は厚く、一軍出場を果たすことができないまま同年末に退団した。
戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年(大正12年)12月… 戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年(大正12年)12月16日 - 1983年(昭和58年)3月19日)は、日本の政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で平塚市市長を務めた戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。 旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学するが、赤紙が来て陸軍へ召集される。しかし、徴兵検査で病気が分かり延期となる。 回復後に再び召集されるが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業する。 1947年(昭和22年)、読売新聞に入社。政治部記者として、数多くの政治家に取材して顔を知られるようになる。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。1955年に河野謙三から、父・貞雄の平塚市長選挙への出馬説得を依頼されたことから、仲介役を務め、父親を当選させることに成功している。
臼淵 磐(うすぶち いわお、1923年(大正12年)8月22… 臼淵 磐(うすぶち いわお、1923年(大正12年)8月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。 海兵71期。太平洋戦争末期の天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加して戦死。個人的に親交があり、同作戦に参加して生還した作家の吉田満(当時・海軍少尉)の著書『戦艦大和ノ最期』や、その列伝作品『臼淵大尉の場合――進歩への願い』で取り上げられたことによって、戦後、広く知られるようになった。 なお、吉田満『戦艦大和ノ最期』を出典として広く知られている臼淵の発言 は、吉田満の創作である(→人物/エピソード/戦艦大和出撃時の挿話〈吉田満の創作〉)。 1923年(大正12年)8月22日、臼淵清忠・海軍機関中佐の長男として東京府東京市青山(現:東京都青山)に生まれる。
北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月1… 北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月11日 - 1981年〈昭和56年〉7月18日)は、日本の海軍軍人、政治家、宗教家。公明党所属の参議院議員(1期、1965年 - 1971年)、第4代創価学会会長。 前任会長の池田大作が執筆した小説『人間革命』の登場人物「十条潔」のモデルとなる。 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。北条釐三郎の長男として生まれる。先祖は、後北条氏河内狭山藩初代藩主の北条氏盛(後北条氏第3代北条氏康の孫の一人)であり、その嫡流にあたる。ただし、祖父・北条氏恭が伊達政宗の子孫(伊達氏→堀田氏→狭山藩北条氏と養子入りした家系)であるため、男系の血筋上は伊達氏の末裔である。
牟田口 義郎(むたぐち よしろう、1923年5月11日 - … 牟田口 義郎(むたぐち よしろう、1923年5月11日 - 2011年1月22日)は、日本の歴史家、中東地域研究者、翻訳家。朝日新聞特派員・支局長を歴任した。 神奈川県生まれ。1948年東京大学仏文科卒、1949年に朝日新聞社に入社。報道記者として外報畑を主に歩み、カイロ(エジプト)支局長、パリ(フランス)支局長を務め、また論説委員を務めた。1982年退社、その後成蹊大学教授、東洋英和女学院大学教授、中近東文化センター理事長を歴任。 中東・アラブ地域の現代史に詳しく、地中海世界を軸に多くの著書・翻訳書を刊行した。 2011年1月22日、腎不全のため死去。87歳没。
松崎 仁(まつざき ひとし、1923年〈大正12年〉3月14… 松崎 仁(まつざき ひとし、1923年〈大正12年〉3月14日 - 2013年〈平成25年〉2月26日)は、日本の日本近世演劇研究者。立教大学・梅光女学院大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。父は長野県士族で官僚の松崎謙二郎。母は横浜の貿易商中村房次郎の長女。 1949年、東京帝国大学文学部国文学科卒業。学習院中・高等科教諭。1957年、清泉女子大学助教授。1959年、立教大学文学部助教授、教授。1989年、定年退任、名誉教授、梅光女学院大学教授。1998年、梅光女学院大学を退職、名誉教授。 1995年、「歌舞伎・浄瑠璃・ことば」で九州大学博士(文学)、日本演劇学会河竹賞受賞。
桃井 真(ももい まこと、1923年2月4日 - 2004年… 桃井 真(ももい まこと、1923年2月4日 - 2004年4月18日)は、日本の陸軍軍人、国際政治学者、軍事アナリスト。 翻訳家・編集者としても活躍した。女優の桃井かおりの父。位階は従四位。 神奈川県鎌倉市生まれ。長野県佐久市出身。陸軍委託学生として東京外国語学校英語科を卒業、陸軍中野学校へ送られ参謀本部第二部に属した後、陸軍予備士官学校を卒業し、任官と同時に参謀本部第二部第六課で放送傍聴に従事。 終戦後は、経歴を偽り進駐米軍属として一時勤務。のち、北日本貿易、エイジアン・エコノミックレビュー、ブリティッシュ・インポート、日本商工会議所アジア経済研究会などを経て、1954年に防衛庁防衛研修所(のち防衛研究所)に入所、ハーバード大学に派遣された。
白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 20… 白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 2005年12月26日)は、日本の喜劇俳優。本名:勝俣定彦(かつまた さだひこ)。神奈川県足柄下郡箱根町出身。 明治大学卒業後、上宮高校教諭の傍ら、アルバイトで歌謡ショウの司会などしていた。 うめだ花月が開場した1959年、吉本興業に入社し吉本新喜劇の旗揚げに参加、一時は座長も務めた。 1965年、吉本首脳陣との対立から千土地興行に集団移籍。ルーキー新一、森信とのトリオを中心にルーキー爆笑劇団を結成しルーキーと漫才を組んだこともある、その後、マスコミを賑わせるような事件を起こし、人気低迷、千日劇場閉鎖などが重なり、劇団活動は頓挫、解散。 映画の端役、脇役を経て、1974年以降は松竹新喜劇に移り、主に脇役として活躍。
横山 亨(よこやま とおる、1923年1月9日 - 1998… 横山 亨(よこやま とおる、1923年1月9日 - 1998年11月17日)は、日本の金属工学者。第9代横浜国立大学学長。工学博士(東京大学)。 長野県東筑摩郡片丘村北内田(現松本市)生まれ。神奈川県横浜市育ち。旧制横浜第一中学校、旧制第一高等学校を経て、1945年東北帝国大学工学部航空学科卒業。横浜高等工業学校航空工学科助教授となる。1961年横浜国立大学工学部機械工学科教授。1962年西ドイツ・フンボルト研究員として理工学研究所客員研究員となる。1977年 横浜国立大学工学部長。1985年同学長。1988年退官。1996年勲二等旭日重光章受章。 父の横山盛彰は金沢高等工業学校校長を務めた。
林 邦雄(はやし くにお、1923年-2000年)は、ファッ… 林 邦雄(はやし くにお、1923年-2000年)は、ファッション評論家。 京都生まれ。浅野中学校、青山学院高商部卒業、1947年日米通信社入社、54年独立。日本ユニホームセンター相談役。
福の守 尚(ふくのもり ひさし、1922年12月6日 -19… 福の守 尚(ふくのもり ひさし、1922年12月6日 -1997年 )は、荒汐部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元力士。本名は福守 尚(ふくもり ひさし)。現在の神奈川県小田原市出身。179cm、98kg。最高位は東十両15枚目。得意技は右四つ、押し。 1940年5月場所に初土俵。1952年1月場所に十両昇進。連続4場所務めたのち、1954年5月場所に廃業した。
河合 幸男(かわい ゆきお、1922年12月2日 - 201… 河合 幸男(かわい ゆきお、1922年12月2日 - 2016年9月21日)は、日本の詩人。河合紗良(さら)および河合紗己(さき)名義でも活動を行った。 神奈川県横浜市生まれ。横浜市立横浜商業高等学校卒業。堀口大學に学ぶ。詩誌「誌苑」主宰。1967年、詩集『愛と別れ』(河合沙良名義)にて第7回室生犀星詩人賞受賞。2016年、肺炎のため、東京都世田谷区の自宅にて死去。 妻は声楽家の河合敏子。
朝雲 照代(あさぐも てるよ、1922年〈大正11年〉10月… 朝雲 照代(あさぐも てるよ、1922年〈大正11年〉10月6日 - )は日本の女優。本名、玉木愛子。 1922年、神奈川県横浜市に生まれる。宝塚音楽歌劇学校を卒業後、1936年に宝塚少女歌劇団(25期生)の初舞台を踏む。1940年に退団。 杉狂児と共演した大映映画「青空交響楽」(1943年)や「赤胴鈴之助」シリーズなどに出演したことで知られる。 「青空交響楽」の主題歌「青い牧場」は当初、杉狂児とのデュエットでレコーディングしたが、杉狂児の歌い方が「ふざけている」と当局から指摘を受け、発売禁止処分となった。代理で歌ったのは藤山一郎と奈良光枝。 1949年に東横映画に移籍し、1951年の合併により東映に所属。
野元菊雄(のもと きくお、1922年9月10日 - 2006… 野元菊雄(のもと きくお、1922年9月10日 - 2006年7月31日)は、日本の言語学者。
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003… 吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校を経て、1944年、東京帝国大学法学部を卒業。武山海兵団に入団後、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、第31海軍航空廠付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年4月、東京監督官事務所横浜支部に転じ、造船関係を担当。同年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年に大蔵省へ入省し大臣官房文書課に配属。
内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 20… 内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 2019年9月12日)は、日本の貼り絵画家。神奈川県横須賀市出身。 洋紙の特性を最大限に活かし、100色以上もの色彩を駆使して、日本の四季折々の風景や郷愁を誘う情景を作り出す。スケッチをせず、心に刻み込まれた風景を直接キャンバスに表現するスタイルで貼り絵を作成した。 作品は永谷園の「あさげ」のパッケージや、「青雲(日本香堂)」のCM、そして坂本冬美『ふるさとの空へ』(2018年)や、南佳孝&杉山清貴『愛を歌おう』(2020年)のアルバムジャケットなどに採用されている。南は「たまたま見つけた夏の田舎の風景画の、はり絵とは思えない繊細さに心を奪われた」と作品から受けた印象を述べている。
小高 敏郎(おだか としお、1922年6月3日 - 1966… 小高 敏郎(おだか としお、1922年6月3日 - 1966年10月27日)は、日本の国文学者。 横浜市生まれ。第一高等学校を経て、1943年に東京帝国大学国文科入学。学徒出陣で伊豆大島で陸軍少尉。1948年、東京大学国文科卒。養徳社勤務を経て、1952年、学習院教授。1956年に東京大学国語国文学会賞受賞(久松賞)を受賞。1956年、共立女子大学短期大学部助教授。1960年、学習院大学助教授。1964年、教授。貞門俳諧を専門とした。44歳で死去。
高橋 壽常(たかはし としつね、1922年5月28日 - 1… 高橋 壽常(たかはし としつね、1922年5月28日 - 1996年2月8日)は、日本の実業家。日本生命保険元副社長。関西経済同友会元代表幹事。 神奈川県横浜市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学卒業後、日本生命保険に入社したのちも、経済学の勉強を続けた。日本生命保険副社長や、日本生命財団理事長を歴任し、1985年から1987年にかけては弘世現に続き日本生命保険出身者としては歴代2人目となる関西経済同友会代表幹事を務め、太平洋経済協力会議バンクーバー総会に参加するなどした。1994年企業メセナ協議会メセナアワードを日本生命財団が受賞し理事長として登壇した。 1996年2月8日、呼吸不全のため死去。
川口 陸男(かわぐち むつお、1922年5月8日 - 197… 川口 陸男(かわぐち むつお、1922年5月8日 - 1979年1月13日)は、日本の経営者。日清製油(現在の日清オイリオグループ)社長を務めた。 神奈川県横浜市出身。1948年に横浜工業専門学校電気工学科を卒業し、同年に[[]]に入社。1971年5月に取締役に就任し、1973年に常務、1974年に専務を経て、1977年2月に社長に就任。 1979年1月13日、肝硬変のために在任中に死去。56歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤川 正信(ふじかわ まさのぶ、1922年4月13日 - 2… 藤川 正信(ふじかわ まさのぶ、1922年4月13日 - 2005年3月10日)は、日本の図書館情報学者、翻訳家。 横浜市生まれ。愛媛県出身。東京大学文学部哲学科、慶應義塾大学文学部図書館学科で学ぶ。ジョージ・ピーボディ大学大学院図書館学修了。慶應義塾大学文学部助教授、教授、大東文化大学経済学部教授、図書館情報大学教授、1987年同大学学長。1991年退任。愛知淑徳大学教授。 1981年「オーデュボンソサイエテイブック」で日本翻訳出版文化賞受賞。
二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没… 二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没年不明)は、日本の元映画監督。神奈川県鎌倉市出身。出生地は福島県。 松竹が製作した唯一の怪獣映画『宇宙大怪獣ギララ』の監督として知られる。 早稲田大学商学部卒業後、同大学文学部演劇科在籍のまま、1948年に松竹大船撮影所に入社。木下惠介、黒澤明などの助監督を担当した。松竹入社前、早稲田中学校の社会科教師で永六輔を受け持っていた。 1951年の『少年期』では助監督として参加するほか、倉木先生役で出演。これは木下惠介の指名によるもので、木下は脚本の執筆段階から倉木先生役に二本松を起用することを考えていたのだとされる 1960年に渡米し、ハリウッドで合成特殊技術を学ぶ。
飯塚 信雄(いいづか のぶお、1922年2月1日 - 200… 飯塚 信雄(いいづか のぶお、1922年2月1日 - 2004年10月15日)は、日本のドイツ文学者、明治大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。上智大学文学部卒業。國學院大學助教授、明治大学教授、1991年定年退任、名誉教授。 はじめドイツ文学を専攻したが、のち西洋生活文化史専攻。服飾史、手工芸史、インテリアデザイン史に造詣が深く、特にロココ文化の研究で名高い。 2004年10月15日、心不全のため死去。
石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県… 石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から1946年にセネタースへ入団。同年退団。
春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日… 春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日本の精神科医、病跡学者。 横浜市生まれ。1947年北海道帝国大学医学部卒。1947年東京帝国大学医学部精神医学教室に入局。1956年「狂犬病予防注射による脳炎の精神神経障害について」で東京大学医学博士。同大助手、順天堂大学講師、1959年中央鉄道病院精神神経科主任医長。82年退職、高円寺クリニック医師。1992年将棋世界誌上での「将棋を愛した文豪たち」の連載で将棋ペンクラブ大賞特別賞受賞。将棋ペンクラブ監査役。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は、日本の歴史学者。専門は自由民権運動。横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業。東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は日本近代史。 松岡正剛は『博徒と自由民権』を「名古屋事件を詳細に再現した一書。目を洗われた。」と評している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
数原 洋二(すはら ようじ、1921年12月3日 - 202… 数原 洋二(すはら ようじ、1921年12月3日 - 2020年1月11日)は、日本の実業家、工学博士。三菱鉛筆相談役。 数原三郎の次男(長男が夭折したため人名事典等では長男と表記されているものもある)として現在の東京都品川区(当時は東京府)に生まれる。旧制神奈川県立川崎中学校、旧制静岡高等学校理科甲類を経て、1944年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業、同年10月より同大学院にて工業化学の研究に従事し、1946年京大文部省特別研究生前期課程修了。1948年4月三菱鉛筆に入社、1958年2月常務となり、1960年2月社長に就任。1981年11月藍綬褒章を受章。1987年3月に社長の座を長男・数原英一郎に譲り会長に退き、1993年3月に名誉会長、その後相談役となる。
徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月… 徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月25日 - 2000年〈平成12年〉9月20日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。日本映画テレビプロデューサー協会、日本雑誌協会、各会員。 株式会社徳間書店社長(初代)、徳間ジャパンコミュニケーションズ社長、大映株式会社社長、徳間プレスセンター社長、学校法人逗子開成学園理事長(第5代)、逗子開成高等学校校長(第12代)、株式会社スタジオジブリ社長(初・3代)、東京都写真美術館館長(第3代)などを歴任した。他に社団法人日本映画製作者連盟理事、社団法人日本レコード協会理事、東京国際映画祭ゼネラルプロデューサーなど。 神奈川県横須賀市生まれ。
島津 一郎(しまづ いちろう、1921年5月 - 2007年… 島津 一郎(しまづ いちろう、1921年5月 - 2007年1月29日)は、日本の法学者。専門は民法、家族法。学位は法学博士(東北大学・1962年)。一橋大学名誉教授。中川善之助門下。弟子に奥山恭子(横浜国立大学名誉教授)、許末恵(青山学院大学教授)など。 横浜市生まれ。1934年3月埼玉県立師範学校附属小学校(埼玉大学教育学部附属小学校の前身)卒業、1941年武蔵高等学校(旧制)(武蔵中学校・高等学校の前身)卒業、1943年東北帝国大学法文学部法科第1類卒業。1962年東北大学より法学博士の学位を取得。 1943年東北大学法文学部助手。1945年召集により富山連隊入隊。1949年助手論文「社会家族と自然家族」を書き、新設の金沢大学法文学部の法科の助教授に就任。
岡本 三男(おかもと みつお、1921年3月15日 - 没年… 岡本 三男(おかもと みつお、1921年3月15日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 1950年に創設された西日本パイレーツへ入団。 球団消滅に伴って1951年に大洋ホエールズへ移籍。1952年引退。
小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、… 小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、日本の労働運動家、日本福祉大学名誉教授。 横浜市生まれ。1943年日本大学経済学部卒業。44年荏原製作所入社。労働組合活動に参加し、49年総評調査副部長、1953年書記。60年同調査部長。1968年日本福祉大学教授。2002年定年退任、名誉教授。専攻は賃金論、日本産業史。時計産業史に関心をよせた。
足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉… 足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉2月12日 - 2002年〈平成14年〉3月16日)は、昭和から平成時代の政治家。神奈川県厚木市長。位階は従五位。 厚木市出身。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)第32回卒業。1949年(昭和24年)東京文理科大学文学部東洋史学科を卒業し、母校の厚木高等学校教諭となる。その後、青少年センター館長、県教育副参事、社会教育課長などを歴任し、1973年(昭和48年)厚木市助役に就任。 1979年(昭和54年)以来、厚木市長に4選した。1992年(平成4年)厚木テレコムタウンの推進母体である厚木テレコムパークの初代社長に就任。1995年(平成7年)引退した。
内田 正男(うちだ まさお、1921年 - 2020年)は、… 内田 正男(うちだ まさお、1921年 - 2020年)は、日本の暦学者。 神奈川県小田原市に生まれる。1943年、専検合格。1944年、東京天文台に入る。1967年、東京大学講師となり引続き東京天文台に勤務し、1982年に定年退官。日本の暦学史とこよみの研究で優れた功績を残した。2020年12月13日死去、99歳没。
小泉富太郎(こいずみ とみたろう、1920年12月25日 -… 小泉富太郎(こいずみ とみたろう、1920年12月25日 - 2008年5月1日)は日本の地方公務員、刀剣研究家。横浜市助役、神奈川県公安委員会委員などを務めた。1992年には勲三等瑞宝章を受章。 1938年に神奈川県立横浜第三中学校を卒業後、1943年に國學院大學文学部国史科卒業。その後大日本帝国海軍に入隊した。 1949年に横浜市に入庁。主に清掃局の畑一本で過ごしてきた。清掃局清掃施設課長、清掃局管理部長などを経て、1971年9月1日に清掃局長、1972年8月3日に総務局長、1975年5月26日には横浜市助役に就任した。1979年5月25日に辞職。 1982年10月21日 神奈川県公安委員会委員。
藤井 澄二(ふじい すみじ、1920年(大正9年)12月14… 藤井 澄二(ふじい すみじ、1920年(大正9年)12月14日 - 2004年(平成16年)1月30日)は、機械工学を専門とする日本の研究者、教育者。工学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、東京電機大学名誉教授。振動工学、車両工学、人間工学、安全工学、制御工学、ロボット工学など、多岐にわたる実績があり、富山県立大学では初代学長を務めた。紫綬褒章、従三位勲二等瑞宝章。 東京帝国大学助教授、東京大学教授、工学部長、東京電機大学教授、理事、理工学部長、富山県立大学学長を務めると共に、日本機械学会会長、日本ロボット学会会長、日本IFToMM会議実行委員長も歴任した。1960年代半ばから1970年代の東京大学藤井研究室におけるロボット研究は、その後のロボット制御のほとんどの基がここにあるとも言われている。
浅沼 清太郎(あさぬま せいたろう、1920年〈大正9年〉1… 浅沼 清太郎(あさぬま せいたろう、1920年〈大正9年〉12月2日 - 2011年〈平成23年〉11月30日)は、日本の内務・警察官僚。警察庁長官。神奈川県出身。 旧制一高を経て東京帝大法学部を卒業後、内務省に入省し東京府属となる。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年(昭和17年)9月、海軍経理学校に入学、1943年(昭和18年)1月に卒業し、海軍主計中尉に任官。1944年(昭和19年)5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 内閣総理大臣秘書官、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、警察庁警務局長、警察庁次長を経て、1974年(昭和49年)警察庁長官に就任。 1978年(昭和53年)に退官し、1979年(昭和54年)から1987年(昭和62年)まで阪神高速道路公団理事長。
横山 桂次(よこやま けいじ、1920年11月30日-200… 横山 桂次(よこやま けいじ、1920年11月30日-2008年12月19日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。高岡法科大学学長。神奈川県横浜市出身。
尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月1… 尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月11日 - 1962年〈昭和37年〉)は、日本の食肉業者、会社役員。グリコ相模ハム常務取締役兼屠畜場長。 神奈川県藤沢市出身。2代目尾島正吉の嗣子。日本大学商科卒業。藤沢屠場主となる。1947年、神奈川県屠場協会専務理事、同県食肉商業協同組合専務理事。1951年、日本食肉協会理事。 1954年、神奈川県屠場協会長。1956年、日本食肉協会理事、神奈川県食肉組合連合会専務理事各辞任。1957年、グリコ相模ハム常務に就任。 尾島家は父祖3代にわたる屠畜・食肉業者で、尾島隆利は近代感覚と教養を身につけた紳士として知られた。住所は神奈川県藤沢市藤沢。
伊東 孝一(いとう こういち、1920年(大正9年)9月28… 伊東 孝一(いとう こういち、1920年(大正9年)9月28日 - 2020年(令和2年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。 最終階級は陸軍大尉。 宮城県大崎市で出生、生後間もなく一家が神奈川県横須賀市へ転居し当地で育った。横須賀中学校を経て陸軍予科士官学校に進み、1938年(昭和13年)末、同校を卒業。歩兵第32連隊付となる。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校に進み、1940年(昭和15年)9月、同校(第54期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官。 1941年(昭和16年)10月、陸軍中尉に昇進。歩兵団司令部、第5軍司令部における勤務を経て、原隊である歩兵第32連隊へ復帰し、第2大隊第8中隊長に就任。
栗本 正(くりもと ただし、1920年(大正9年)9月19日… 栗本 正(くりもと ただし、1920年(大正9年)9月19日 - 1986年(昭和61年)10月28日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、合唱指揮者。元名古屋芸術大学学長。妻も声楽家(メゾソプラノ)の栗本尊子。 台湾出身。父は三輪神社(石川県)等の社掌であったが、台湾基隆神社社掌補任により移住したため、現地にて出生。父の任期満了により帰国、神奈川県立川崎中学校(旧制)卒業。1937年(昭和12年)東京音楽学校入学。同期に中山悌一がいる。1941年(昭和16年)東京音楽学校声楽科卒業。1943年(昭和18年)東京音楽学校研究科修了。宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。
柳田 盈文(やなぎた つねふみ、1920年9月18日 - 1… 柳田 盈文(やなぎた つねふみ、1920年9月18日 - 1991年2月10日)は、日本の経営者。東急建設社長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1937年に東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)に入社し、1940年には攻玉社高等工学校土木科を卒業。 1970年に取締役に就任し、1973年に常務、1985年に専務を経て、1985年12月には東急建設社長に就任。1990年6月には副会長に退いた。 1991年2月10日肺炎のために死去。70歳没。
江尻 宏一郎(えじり こういちろう 1920年9月1日 - … 江尻 宏一郎(えじり こういちろう 1920年9月1日 - 2015年4月21日)は、日本の実業家。三井物産第6代社長。神奈川県横浜市生まれ。位階は従三位。 父は三井物産勤務の商社マンだった。東京府立一中卒業後、柔道の力量を見込まれ第六高等学校に入学した。六高を経て、東京帝国大学法学部入学。中学時代から柔道部に所属し、六高、東大と通じてキャプテンを務めた。六高柔道部先輩に永野重雄、同部同期に亀長友義(参議院議員、農林事務次官)らがいた。同じクラスの石井多加三(国際電電社長、郵政事務次官)とは親友だった。1943年(昭和18年)9月、戦時中の折、東京帝大法学部を繰り上げ卒業し、父と同様三井物産入社。
東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日… 東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月8日)は、日本の小説家。本名は東徤(あずま・たかし=行人偏に建)。23歳で夭折した。学習院時代の三島由紀夫と親交を持った。 父・東季彦は奈良県十津川村出身の法学者で、九州帝国大学法文学部教授や日本大学学長などを歴任。母・菊枝は軍人・石光眞清の次女。 「文彦」という筆名は、季彦が息子の名前にと一時考えていたものである。本名の「徤」は、祖父の東武の命名による。「徤」の字は『易経』にあり、天の運行の壮んさを表す。 神奈川県鎌倉市生まれ。幼時を父の赴任先の福岡で過ごした。小学校を福岡県男子師範学校付属小学校で過ごしたことは、文彦にとって重要なものであった。
北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30… 北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30日 - 1995年〈平成7年〉10月23日)は、日本の俳優、演劇研究家。本名同じ。 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学国文科卒業。六月劇場に所属していた。 大学在学中に劇団「若い仲間」を結成して演劇活動を行う一方、同人誌「演技研究」を発刊する。 1943年より兵役のためフィリピン・レイテ沖海戦に加わる。 1949年、女優の杉村春子の紹介で文学座に参加し、1950年の舞台『わが心の高原』(ユージン・オニール)ので、杉村の相手役を演じる。 岩田豊雄を師と仰ぎ、中村伸郎らと親しかった。1963年、三島由紀夫の『喜びの琴』事件で脱退し、1964年の劇団NLT結成に参加する。
林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7… 林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7月17日 - 1945年(昭和20年)4月21日)は、日本の海軍軍人。海兵69期。大東亜戦争末期、戦闘機「紫電改」搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1920年(大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校、神奈川県立湘南中学校を卒業。1938年(昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊の重巡「那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。
原 節子(はら せつこ、1920年〈大正9年〉6月17日 -… 原 節子(はら せつこ、1920年〈大正9年〉6月17日 - 2015年〈平成27年〉9月5日)は、日本の女優。神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)出身。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。 戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督作品の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演した。 1963年に女優業を引退し、2015年9月5日に死去するまで隠遁生活を送った。 神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で、尾上町で生糸商を営む父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として生まれた。
江橋 慎四郎(えばし しんしろう、1920年(大正9年)6月… 江橋 慎四郎(えばし しんしろう、1920年(大正9年)6月14日 - 2018年(平成30年)4月8日)は、日本の体育学者。専門は社会体育学・レクリエーション学。東京大学名誉教授。 神奈川県鎌倉市生まれ。旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)から、旧制二高を経て東京帝国大学文学部に入学した。学生時代には体育会系の水泳部マネジャーと体育会の総務を務めていた。当時の大学生は徴兵が猶予されていたが、兵力不足を補うため、江橋ら文系の学生の学徒出陣が決定した。 戦後、文部省体育局勤務などをへて、東京大学教授。その後鹿児島大学教授や中京大学教授を歴任した。さらに、日本初の国立体育系単科大学である鹿屋体育大学の創立に尽力し初代学長となる。
庄司 隆雄(しょうじ たかお、1920年(大正9年)4月17… 庄司 隆雄(しょうじ たかお、1920年(大正9年)4月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。巽興行代表社長。 横浜市出身。田辺家の三男として生まれ、庄司家を継ぐ。慶應義塾大学経済学部卒業。その後、巽興行代表社長を務め、熊谷観光開発代表取締役社長、高根カントリー倶楽部総支配人を兼任。 義弟の原田利彦も同じく後に高根カントリー倶楽部理事長を務めている。 娘の希実子の夫(娘婿)は十二代目市川團十郎。孫に十三代目市川團十郎、四代目市川翠扇。曾孫(ともに十三代目團十郎の子)に四代目市川ぼたん、八代目市川新之助。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
永山 光幹(ながやま こうかん、本名:茂、1920年3月21… 永山 光幹(ながやま こうかん、本名:茂、1920年3月21日 - 2010年3月22日)は、日本の刀剣研師。人間国宝(重要無形文化財保持者)。 神奈川県中郡相川村(現・厚木市)出身。1934年(昭和9年)、刀剣研磨、鑑定家の大家である本阿彌光遜に入門。1941年(昭和16年)に招集され、歩兵第49連隊に入営、中国へ出征する。現地でも軍刀研磨に従事。1946年(昭和21年)に復員し、本阿彌に再入門。 1955年(昭和30年)に本阿彌家免許皆伝。財団法人日本美術刀剣保存協会主催研磨技術等発表会において無鑑査、同審査員。翌年、神奈川県平塚市で研磨業を開業。1961年(昭和36年)6月、日本美術刀剣保存協会貴重刀剣審査員、同研磨技術等講習会講師。