河村 和茂(かわむら かずしげ、1950年7月13日 - )… 河村 和茂(かわむら かずしげ、1950年7月13日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(捕手)。 向上高時代、神奈川県では評判の大型捕手と言われていた。1968年の神奈川県予選では4回戦で横浜商に負けたが、4番を打ち、3試合で13打数6安打の.462をマークしている。 大洋ホエールズのテストに合格し、1968年にドラフト外で入団。 1972年に、一軍公式戦に出場がないまま引退。
島野 修(しまの おさむ、1950年6月2日 - 2010年… 島野 修(しまの おさむ、1950年6月2日 - 2010年5月8日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)、スーツアクター。 1981年から1998年の18年間に渡り、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ球団マスコット「ブレービー」→「ネッピー」のスーツアクターとして活躍した。1976年から1978年の登録名は島野 修一。 実弟である島野直幸は東芝小向(現・川崎ブレイブサンダース)の元バスケットボール選手。 中学から野球を始める。この頃すでに、前任校で柴田勲を育てた実績のある教師が素質を認めていた。島野は家が裕福ではなかったため新聞配達のアルバイトをしており、特待生なら授業料が免除されるという理由で神奈川の強豪、武相高校に進学した。
加藤 譲司(かとう じょうじ、1950年4月11日-)は、神… 加藤 譲司(かとう じょうじ、1950年4月11日-)は、神奈川県出身の元プロ野球選手。
中沢 邦男(なかざわ くにお、1950年 - )は、神奈川県… 中沢 邦男(なかざわ くにお、1950年 - )は、神奈川県出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手。 日本大学高校では2年生時に、右翼手、五番打者として1967年夏の甲子園県予選決勝に進むが、武相高の島野修に抑えられ、延長11回の末に0-1でサヨナラ負け。 日本大学に進学。東都大学野球リーグでは捕手として活躍、同期の鈴木博識(当時は鈴木博、三菱自動車川崎-日大監督)、1年下の小山良春(三協精機)らとバッテリーを組む。1971年秋季リーグでは最上級生の畑野実らと打線の主軸となり優勝、最高殊勲選手に選出される。同年の明治神宮野球大会でも、決勝でエース山本和行を擁する亜大を降し初優勝を飾った。強肩で知られ、1971年秋季リーグから3季連続でベストナイン(捕手)に選出される。
高木 由一(たかぎ よしかず、1949年3月13日 - )は… 高木 由一(たかぎ よしかず、1949年3月13日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ・監督、野球解説者。 本名は高木 好一。1977年から1982年までの登録名は高木 嘉一(いずれも読みは同じ)。 愛称は沖山光利がつけた「とっつぁん(略して「とつ」とも呼ばれる)」。 プロ野球界では珍しい地方公務員出身である。 早逝した次姉を含め女の子が3人続いた後に生まれ、尼僧から「女系の血だから男の子が育ちにくい。名前に『女』の字を入れたほうがいい」と助言を受けた両親に「好一」と命名される。実家は繊維工場を営んでおり、両親は仕事で忙しく、自身は放任されて育つ。 入学した渕野辺高には当初野球部が無く、2年次の1966年に自身が校内で参加者を募り野球部を創設したが、部員は10人ほどしか集まらず監督もいないチームであった。
山口 富夫(やまぐち とみお、1948年7月30日 - )は… 山口 富夫(やまぐち とみお、1948年7月30日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手/右投げ右打ち)である。プロ入り前の名前は山口 富雄(読みは、上記と同じ)だった。 横浜高校、神奈川大学を経て三協精機に入社、1971年の都市対抗ではチームの準決勝進出に貢献。1972年のドラフト会議で、太平洋クラブライオンズの2位指名を受けてプロ入り。新人の年にオープン戦で開幕投手を務めたが公式戦での登板機会に恵まれないまま、1975年オフに金銭トレードで読売ジャイアンツに移った。ジャイアンツでは打撃投手を兼務しつつ一軍入りを目指したが、活躍できず引退後もジャイアンツに残り、1992年まで打撃投手としてチームを陰から支えた。
陽田 浅吉(ようだ あさきち、1948年7月29日 - )は… 陽田 浅吉(ようだ あさきち、1948年7月29日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
米山 哲夫(よねやま てつお、1948年4月27日 - )は… 米山 哲夫(よねやま てつお、1948年4月27日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 横浜高校では、1965年秋季関東大会準決勝に進むが大宮高に敗退。翌1966年夏の甲子園県予選は準々決勝で慶應高に敗れ、甲子園には届かなかった。卒業後は専修大学に進むが1年で中退。浜田産業を経て東芝に入社、1970年の産別大会に日立製作所の補強選手として出場。 同年のドラフト5位で西鉄ライオンズへ入団。1年目から一軍に上がり、6月からは二塁手、三塁手として31試合に先発出場。1972年にはジュニアオールスターにも選出された。その後も内野の準レギュラーとして起用されるが、1975年に西沢正次、松林茂とのトレードで三輪悟と共に広島東洋カープへ移籍。
鎌野 裕(かまの ひろし、1947年8月12日 - )は、神… 鎌野 裕(かまの ひろし、1947年8月12日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
林 千代作(はやし ちよさく、1947年5月4日 - )は、… 林 千代作(はやし ちよさく、1947年5月4日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。
岸 勝之(きし かつゆき、1947年5月2日 - )は、神奈… 岸 勝之(きし かつゆき、1947年5月2日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 横浜高校でエースとして活躍。1964年秋季関東大会県予選決勝に進むが、日大藤沢高に惜敗。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、鶴見工に敗れ甲子園には出場できなかった。高校同期に遊撃手の飯田幸夫がいる。 1965年ドラフト会議で大洋ホエールズから4位指名を受け入団。入団当初は右上手投げで、カーブやスライダーが武器の本格派だったが、投手コーチの鈴木隆の指導により横手投げに変更。1969年に一軍初登板を果たすが、あまり活躍の場はなく1970年限りで引退した。
飯田 幸夫(いいだ ゆきお、1947年4月9日 - )は、神… 飯田 幸夫(いいだ ゆきお、1947年4月9日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
片岡 建(かたおか けん、1947年1月23日 - )は、神… 片岡 建(かたおか けん、1947年1月23日 - )は、神奈川県横浜市神奈川区釜利谷町出身の元プロ野球選手(投手)。 横浜商業高校では、エースとして1964年の夏の甲子園神奈川県予選の準決勝に進出するが、鎌倉学園の林千代作中堅手に本塁打を喫し敗退。 高校卒業後は、神奈川大学へ進学。神奈川五大学野球リーグでは3度の優勝に貢献。1966年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが、延長11回、日大に敗れた。大学同期に村越稔捕手がいる。1968年には秋季にリーグ最優秀選手となり、明治維新百年記念明治神宮野球大会に神奈川五大学選抜チームの一員として出場。1回戦で久玉清人をリリーフし、村越とバッテリーを組んで登板するが、関西六大学選抜に敗退した。
野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈… 野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈川県平塚市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、解説者。NPBで史上初めて全12球団から勝利を挙げた。 中学から本格的に野球を始めた。打撃投手を務めていた際に肘に違和感を覚えると、三塁手で出場した際に一塁手への送球で肘を故障、医師からは投手は難しいと言われたが風呂で温めてから肘を伸ばす日課を続けていると肘が伸びて投げられるようにまで回復。家庭の事情で私立の強豪校は諦め、1962年に平塚農業高校へ進学。入学当初のシートノックでは三塁手を指示されたが外野手を希望して強肩をアピールし、狙い通り投手の座を掴んだ。県大会1回戦負けの常連であったが、3年次の1964年春に強豪の鎌倉学園に2-1で勝利して評価を高めた。
椎 正年(しい まさとし、1946年2月21日 - )は、神… 椎 正年(しい まさとし、1946年2月21日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 日大高から神奈川大学へ進学するも中退して、1968年にドラフト外で東映フライヤーズへテスト入団。下手投げから、シュート、カーブを武器とした。 1970年に一軍登板を果たすが、1971年に現役を引退した。
木本 芳雄 / 奇本 芳雄(きもと よしお、1946年 ‐ … 木本 芳雄 / 奇本 芳雄(きもと よしお、1946年 ‐ )は、山形県出身の高校野球指導者、高校野球解説者、社会科教諭。旧姓・奇本。 神奈川県の武相高等学校野球部では5番・一塁手、副主将として、1964年の第46回全国高等学校野球選手権大会に出場している。駒澤大学進学後は、足の怪我を理由に指導者への転身を勧められ、母校・武相高のコーチを頼まれる。熱心に有望な中学生のスカウトにあたっていた。更に大学3年の時に武相高の監督が辞めた際には、奇本(当時)が実質的な監督状態となっていた。武相高からは大学の学費まで出してもらえており、教員になれるよう支援され、あとは正式な打診を待つばかりであった。しかし、学内の事情により、別の指導者が正式な監督に就任、はしごを外された状態となってしまう。
五十嵐 英夫(いがらし ひでお、1945年11月25日 - … 五十嵐 英夫(いがらし ひでお、1945年11月25日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 武相高校では1963年の夏の甲子園神奈川県予選の準々決勝に進出するが、法政二高に敗れる。卒業後は神奈川大学へ進学。神奈川五大学野球リーグでは4度の優勝に貢献。1学年下の片岡建との二本柱で活躍した。1年秋に防衛大学校戦で完全試合を達成。1966年の全日本大学野球選手権大会では、1回戦で立大を4安打1点に抑えて勝利。準決勝に進出するが日大に延長11回1-2で敗退。最優秀選手4回、ベストナイン3回。大学同期に雨宮捷年外野手がいる。 1967年ドラフト会議で近鉄バファローズから7位指名を受け入団。
平岡 一郎(ひらおか いちろう、1945年8月14日 - 1… 平岡 一郎(ひらおか いちろう、1945年8月14日 - 1995年11月17日)は、日本の元プロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。 神奈川県小田原市出身。横浜高校では2年生時の1963年、1年上のエース井上健仁(東映)の控え投手として夏の甲子園に初出場。準決勝に進出するが、この大会に優勝した明星高に敗退する。平岡は3回戦、準決勝でリリーフに立った。この時のチームメートに二塁手の佐野勝稔がいる。 1964年はエースとして春季関東大会に進むが準々決勝で大宮高に敗退。夏の甲子園県予選も準々決勝で武相高に敗れた。高校同期に外野手の灰山公章(芝工大-三菱重工川崎-日本楽器)がいた。 1965年に大洋ホエールズに入団。
佐野 勝稔(さの かつとし、1945年6月25日 - 202… 佐野 勝稔(さの かつとし、1945年6月25日 - 2024年8月31日)は、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手。ポジションは主に二塁手。 横浜高校では、三番打者、二塁手として1963年夏の甲子園に初出場。準決勝に進むが、和田徹のいた明星高に敗れる。明星高はこの大会で優勝。高校同期にエースの井上健仁(東映)、1年下に控え投手の平岡一郎がいた。 駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは1964年春季リーグで優勝を経験。1967年秋季リーグでは首位打者を獲得し、同季のベストナイン(二塁手)に選出される。大学同期に当銀秀崇、後原富がいた。 卒業後に河合楽器へ入社。1968年の都市対抗に出場。決勝に進むが富士製鐵広畑の神部年男に抑えられ0-1で完封負け、準優勝にとどまる。
半沢 士郎(はんざわ しろう、 1945年6月19日 - )… 半沢 士郎(はんざわ しろう、 1945年6月19日 - )は元プロ野球選手。右投げ右打ち。
竹之内 雅史(たけのうち まさし、1945年3月15日 - … 竹之内 雅史(たけのうち まさし、1945年3月15日 - )は、神奈川県横須賀市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・野球指導者。現在は、羽衣国際大学野球部総監督を務めている。
宇賀山 徹(うがやま とおる、1945年 - )は、神奈川県… 宇賀山 徹(うがやま とおる、1945年 - )は、神奈川県出身のアマチュア野球選手(一塁手)。 慶應義塾高等学校では左翼手として1963年夏の甲子園県予選決勝に進む。エース井上健仁(東映)を擁する横浜高と対戦。接戦となるが佐野勝稔に適時打を喫するなど3-5で敗退、甲子園出場はならなかった。 卒業後は慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは一塁手として活躍。同期のエース藤原真を擁し1967年春季リーグで優勝、直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で中大の宮本幸信に抑えられ準優勝にとどまる。同年秋季リーグでは打率.424で首位打者を獲得した。ベストナインに2回選出される。 大学卒業後は日本鋼管に入社。
柳沢 泰典(やなぎさわ やすのり、1945年 - 1999年… 柳沢 泰典(やなぎさわ やすのり、1945年 - 1999年8月22日)は、神奈川県横浜市出身の元アマチュア野球選手、高校野球指導者。 1945年、横浜市に生まれた。日本大学高等学校(高校時代は甲子園出場なし)、日本大学時代は外野手。日大時代の1966年には、春季1部リーグ優勝、第15回全日本大学野球選手権大会に貢献したが、怪我のために選手生活を断念。学生コーチに転身した。 1967年3月、日本大学経済学部を卒業。そして翌4月に学校法人石川高等学校へ社会科教諭として赴任した。これには柳沢の恩師が学法石川出身でもあり、日大野球部での柳沢の活躍に注目したからだと言われている。社会科教諭とは名目であり、実際は野球部の監督着任が本当の目的だった。
渡辺 元智(わたなべ もとのり、1944年11月3日 - )… 渡辺 元智(わたなべ もとのり、1944年11月3日 - )は、神奈川県足柄上郡松田町出身の日本の高校野球指導者。横浜高等学校硬式野球部で部長と監督を長年務め、同校を強豪校に育て上げた。孫に東北楽天ゴールデンイーグルス所属の渡邊佳明がいる。 1997年までは渡辺 元(わたなべ はじめ)名義で活動していた。 田中家の次男として生まれる。中学校卒業までは実の母の「田中」姓であったが、その後叔母の家系に養子縁組したため「渡辺」姓となった。 その当時神奈川県を代表する野球強豪校であった法政二高進学を目指し入学試験に合格し入学するも、高額な学費を捻出できずに横浜高等学校に入学。同校を初の夏の甲子園に導きベスト4進出を果たした「鬼の笹尾」こと監督の笹尾晃平の計らいで硬式野球部に入部。
小倉 清一郎(おぐら きよいちろう、1944年6月16日 -… 小倉 清一郎(おぐら きよいちろう、1944年6月16日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元社会人野球選手(捕手)で日本の高校野球指導者。 小学4年生から野球を始める。ポジションは当初、内野手や投手など色々してきたが、最終的に捕手となった。横浜市立大鳥中学校を経て法政二高の進学を目指したが、同校硬式野球部監督の田丸仁からユニフォームは着ることは出来るがレギュラーは難しいと言われた事から中学時代の監督に勧められて、横浜高校(以降:横浜)に進学し、硬式野球部に入部した。横浜の同期には渡辺元(現:渡辺元智)がいる。現役時代は甲子園の出場は叶わなかったものの県大会で準優勝を果たした。 高校卒業後、東京農業大学を経て、三菱自動車に入社。
柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日 - )は、神… 柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)、野球解説者。日本プロ野球名球会副理事長。リードオフマンとして読売ジャイアンツのV9に貢献した。血液型はA型。
政山 恵一(まさやま けいいち、1943年9月30日 - )… 政山 恵一(まさやま けいいち、1943年9月30日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。 藤沢商業高から神奈川大学に進学するも中退。社会人野球のリッカーミシンに入団し、その後林建設へ移籍。 1967年オフ、サンケイアトムズの入団テストを受け合格しドラフト外で入団する。しかし、わずか1年間で退団した。
是久 幸彦(これひさ ゆきひこ、1943年9月2日 - )は… 是久 幸彦(これひさ ゆきひこ、1943年9月2日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは内野手。
嵯峨野 昇(さがの のぼる、1942年3月29日 - 201… 嵯峨野 昇(さがの のぼる、1942年3月29日 - 2010年1月31日)は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。
日根 紘三(ひね こうぞう、1940年6月25日 - )は、… 日根 紘三(ひね こうぞう、1940年6月25日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 息子は、ヴィジュアル系ロックバンドSHAZNAのボーカリスト・IZAM。 引退後は東京都で印刷所を経営している。
須崎 正明(すざき まさあき、1939年8月29日 - )は… 須崎 正明(すざき まさあき、1939年8月29日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 神奈川県立多摩高等学校から信越電電を経て関根潤三の紹介でテストを受け1963年に近鉄バファローズへ入団。長打力はないがシャープなバッティングと走力の高さを見込まれた。 1963年は新人研修制度(成人者は開幕から50試合、未成年者は開幕から100試合一軍出場は不可であった)のためデビューは6月に入ってからであったが、南海ホークス戦で杉浦忠から本塁打を打つなど存在感をアピールした。同年は第1回ジュニアオールスターにも選出される。 しかし翌年は一軍での出場がなく解雇され、1965年からはテストを受け合格した国鉄スワローズへ移籍した。
桑田 武(くわた たけし、 1937年1月5日 - 1991… 桑田 武(くわた たけし、 1937年1月5日 - 1991年1月21日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、主に内野手(三塁手、遊撃手)。右投げ右打ち。
黒田 勉(くろだ つとむ、1936年8月28日 - 2017… 黒田 勉(くろだ つとむ、1936年8月28日 - 2017年10月15日 )は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 中学時代は陸上と野球を掛け持ちでやっており両方の部活で活躍した。湘南高校に進学するも陸上と野球の掛け持ちが認められずここでは陸上部に所属した。1年夏のインターハイ終わりに鶴見工業高校へ転校。鶴見工業では陸上と野球を掛け持ちし、2年夏もインターハイに出場した。 1954年、エースとして第36回全国高等学校野球選手権大会に出場、鶴見工は夏の選手権初出場であった。1回戦で黒木基康のいた高鍋高に大勝するが、2回戦で高知商の片田謙二に抑えられ敗退。 社会人野球の日本鋼管に進み、1955年の都市対抗に日本石油の補強選手として出場。
青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神… 青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神奈川県足柄下郡真鶴町出身 の元プロ野球選手(捕手)。 小学校の頃から野球を始めるが、母子家庭であり経済的な事情でグラブを買ってもらえなかったため、学校の備品にあったキャッチャーミットを使っている内に、捕手を務めるようになった。 相洋高校在学中に同校野球部部長に勧められて、1954年8月に川崎球場で行われた高橋ユニオンズの入団テストを受ける。500人近い参加者の中で、走塁・遠投はトップを記録して一次試験に合格。9月に千葉で合宿をしながら行われた二次試験にも合格し、契約金なし、月給15,000円で高橋に入団した。1955年は新人ながら33試合に捕手として出場すると、1956年には筒井敬三に次ぐ第二捕手となって86試合にマスクを被った。
金彦 任重(かねひこ たかしげ、韓国名:김영덕、金 永徳(キ… 金彦 任重(かねひこ たかしげ、韓国名:김영덕、金 永徳(キム・ヨンドク)、1936年1月27日 - 2023年1月21日)は、在日韓国人(京都府生まれ)のプロ野球選手(投手)・監督。 現役時代は南海ホークスでプレーし、大韓民国に帰国後はアマチュア球団やKBOリーグ球団で監督を務めた。 また、日本在住時、1958年に金彦任重とする前の名前として金彦 永徳を名乗っていた。 神奈川県の逗子開成高校では甲子園大会の出場経験こそないものの、「県下随一の剛球投手」と評判であった。その評判は南海監督であった鶴岡一人の個人後援会にも伝わり、1956年に南海ホークスに入団。背番号1を与えられるなど期待されて入ったが、黄金時代の南海にあって、後に入団する杉浦忠、ジョー・スタンカといった大物投手の陰に隠れ、一軍と二軍を往復する日々が続いた。
稲垣 正夫(いながき まさお、1935年8月19日 - 20… 稲垣 正夫(いながき まさお、1935年8月19日 - 2015年4月6日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手。 鶴見高校では1年生から右翼手、三番打者として活躍。1951年夏の甲子園県予選決勝に進むが、希望ヶ丘高に完封を喫し、甲子園出場を逸する。同年秋季関東大会県予選では準々決勝で小田原高に敗退。卒業後は千葉大学に進学。千葉県大学野球リーグでは1954年秋季リーグから5季連続優勝。 1957年に東映フライヤーズに入団。浜田義雄、松岡雅俊らと二塁手の定位置を争う。3年目の1959年にレギュラーポジションを獲得、同年は主に七番打者として71試合に先発出場。翌1960年は102試合に出場し、規定打席には届かなかったが自己最高となる打率.269を記録した。
秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2… 秋本 祐作(あきもと ゆうさく、1935年6月30日 - 2016年5月9日)は、神奈川県中郡大磯町出身のプロ野球選手(投手)、プロゴルファー。 横須賀工業高校では1952年の秋季関東大会県予選準決勝に進むが、慶應高に敗退。1953年秋に知人の紹介で巨人の入団テストを受けるが、身長が基準に満たなかったため不合格となった。 卒業後は京都大丸を経て、1956年に阪急ブレーブスへ入団。3年目の1958年には48試合に登板して13連勝を含む14勝4敗、リーグ3位の防御率1.89を記録し、最優秀勝率のタイトルを獲得。同年に記録した200投球回以上で被本塁打3本は、半世紀後の2008年に岩隈久志が記録している。
鈴木 三好(すずき みよし、1935年 - 2019年9月2… 鈴木 三好(すずき みよし、1935年 - 2019年9月27日)は、神奈川県藤沢市出身の元アマチュア野球選手、監督である。ポジションは投手。 藤嶺藤沢高等学校、法政大学を経て、神奈川大学に転校する。大学卒業後は、社会人野球のリッカーに入団する。現役時代は下手投げの投手として活躍した。 1959年から1998年までに神奈川大学の監督を務め、神奈川大学野球リーグでは40回のリーグ優勝を遂げ、日米大学野球日本代表のコーチも務めた。
衆樹 資宏(もろき すけひろ、1934年4月19日 - 19… 衆樹 資宏(もろき すけひろ、1934年4月19日 - 1999年6月25日)は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手(外野手)。 湘南高校では2年生の時、エースとして1951年春の選抜に出場したが、1回戦で長崎西高に0-1で敗れた。1年上のチームメートには、遊撃手の佐々木信也がいた。翌1952年春季関東大会では準々決勝から3試合連続延長戦でサヨナラ勝ち、決勝で宇都宮高を下し優勝を飾った。同年夏の甲子園県予選でもエース、4番打者として決勝に進出するが小坂佳隆らのいた法政二高に敗れた。 卒業後は慶應義塾大学に入学し、野手に転向する。東京六大学野球リーグでは1955年春季リーグで戦後初の三冠王となり、同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)に選出された。
佐々木 信也(ささき しんや、1933年10月12日 - )… 佐々木 信也(ささき しんや、1933年10月12日 - )は、東京府東京市(現:東京都)世田谷区生まれ、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者、スポーツキャスター。株式会社佐々木信也事務所の代表。 慶應義塾大学から高橋ユニオンズへ入団した1956年に、新人ながらパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の公式戦154試合に出場。通算671打席で622打数を記録したほか、180安打を放った。安打のうちは141本は単打で、いずれも日本プロ野球の新人選手によるシーズン最多記録(2022年のNPBシーズン終了時点)。公式戦へのシーズン154試合出場は、この年の飯田徳治・杉山光平と並んで、日本プロ野球全体でのシーズン最多記録にも当たる。
加藤 太郎(かとう たろう、1933年7月7日 - )は、神… 加藤 太郎(かとう たろう、1933年7月7日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手。 日本大学高校から1952年に阪急ブレーブスへ入団。 1954年に東映フライヤーズへ移籍。1955年に引退。
枝村 勉(えだむら つとむ、1933年2月28日 - )は、… 枝村 勉(えだむら つとむ、1933年2月28日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
宮崎 一夫(みやざき かずお、1932年12月10日 - 2… 宮崎 一夫(みやざき かずお、1932年12月10日 - 2016年3月24日)は、神奈川県逗子市出身のプロ野球選手(投手)・監督。 逗子開成高卒業後はコロムビアを経て、1952年に毎日オリオンズへ入団。 毎日ではオーバースローから投げるカーブ・シュートを武器とし、4年間で21勝をマーク。先発・リリーフ両面で活躍した一方で別当薫監督とは反りが合わず、エースの荒巻淳を優遇する投手起用方針に対して意見するなど言い争うことがあったため、1955年も4勝1敗・防御率2.19と好成績を挙げながら、シーズンオフに解雇通告を受ける。 毎日球団からは大洋への移籍を勧められるが、宮崎はパ・リーグに残って毎日を倒したい気持ちから断り、解雇通知を受けた有楽町の毎日球団事務所からその足で銀座の高橋ユニオンズ球団事務所に行き、すぐに入団交渉を行い、そのまま仮契約を結んだ 1956年3月25日の毎日戦に志願先発するが、3回3失点と打ち込まれて敗戦投手になる。
荒岡 昭(あらおか あきら、1931年1月6日 - )は、神… 荒岡 昭(あらおか あきら、1931年1月6日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)。 逗子開成中学校から横浜専門学校を経て、1950年に大映スターズへ入団。1952年に退団。 1954年に西鉄ライオンズで復帰し、同年引退。
相沢 進(あいざわ すすむ、1930年6月9日 - 2006… 相沢 進(あいざわ すすむ、1930年6月9日 - 2006年5月18日)は、ミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)トール島出身のプロ野球選手(投手)、政治家。 父の庄太郎は1918年に日本からトラック諸島トール島(当時は日本の委任統治領)に移住し、ミクロネシア人である現地の酋長の娘ノツムール(洗礼名リサ)リサと結婚した。 1930年6月9日に相沢は父・庄太郎と母・リサとの次男として生まれる。幼少期の友人の中には、後にミクロネシア連邦の初代大統領となるトシオ・ナカヤマがいた。ミクロネシアでは日本人が持ち込んだ野球が大人気で、幼い頃から運動神経に優れた相沢は自然と野球に興味を持ち、これに夢中になった。
久保寺 昭(くぼでら あきら、1930年6月 - )は、神奈… 久保寺 昭(くぼでら あきら、1930年6月 - )は、神奈川県出身のプロ野球選手。 逗子開成中学から1950年に東急フライヤーズへ入団。同年退団。
田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 19… 田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 1993年2月2日)は、神奈川県川崎市出身の元野球選手(内野手)・コーチ・監督。 旧制立正中から法政大学に進学するも、アキレス腱断裂の重傷を負ったため選手を断念。 卒業後は法政二高の監督に就任し、バントとヒットエンドランを多用する戦術で1960年の甲子園大会、1961年の選抜大会を連覇。1961年に母校・法大の監督となった。1964年退任。同年12月22日に東京オリオンズへの入団と同球団の二軍監督への就任が発表された。 本堂保次監督の代理として指揮を執っていた濃人渉の後任に、当初鶴岡一人を招聘しようとしたのが頓挫したことから。1966年の1シーズンだけ一軍の監督を務めた。
大沢 紀三男(おおさわ きみお、1926年2月16日 - 2… 大沢 紀三男(おおさわ きみお、1926年2月16日 - 2003年11月4日)は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手。本名は君夫。ポジションは投手・外野手。
八木 進(やぎ すすむ、1924年9月17日 -不明は、カロ… 八木 進(やぎ すすむ、1924年9月17日 -不明は、カロリン諸島ポナペ島出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 カロリン諸島ポナペ島出身(当時は日本の委任統治領だった)。島で働く父親を残し、日本(横浜)で生活した。関東学院中(現・関東学院中学校高等学校)在学中は、甲子園出場こそ無いものの、飯田徳治(浅野綜合中),小松原博喜(横浜商業)と並んで、横浜中等球界の三羽烏と呼ばれていた。身長は五尺八寸五分(177cm)と当時としては大柄だったと伝わる。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、正捕手としてチームを支えた(南海ホークス戦前最後の正捕手と呼ばれている)。別所昭が1943年5月26日の大和軍戦(神戸市民運動場野球場)でノーヒットノーランを達成した時、マスクを被っていたのが八木だった。
小松原 博喜(こまつばら ひろき、1924年5月24日 - … 小松原 博喜(こまつばら ひろき、1924年5月24日 - 1965年4月23日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手。ポジションは、主に内野手・外野手としてプレーし、1949年まで投手も兼任した。 横浜商業では第15回選抜中等学校野球大会に出場。 卒業後の1942年に大和軍へ入団する。同年4月22日の対東京巨人軍戦に初先発するが、この試合で14与四球を記録、これは野茂英雄に1992年に並ばれ、1994年に16個で抜かれるまで日本プロ野球記録であった。なお、この試合では押し出しは与えず完投し4失点(3自責点)で切り抜けている。この年の投手としての登板は5試合に留まるが、左翼手や一塁手を務めて82試合に出場。