永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月… 永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月23日)は、日本の国文学者。新潟大学名誉教授。 新潟県南蒲原郡長沢村大字中野原新田(現 三条市中野原)の教育者・永井長祥の三男として出生。 1926年(大正15年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。池田亀鑑のもとで『神皇正統記』の研究や『校異源氏物語』の作成に従事。 1933年(昭和8年)1月に岩波書店から出版の『岩波講座 日本文學』の付録の雑誌『文學』第19号に「神皇正統記阿刀氏本に就いて」という題名の論文を発表し、その中で『神皇正統記』の阿刀本を紹介して草稿もしくは初稿本と推定した。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐197… 関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐1977年12月16日)は、日本の映画監督。 1908年12月1日、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)の地主の家の四男に生まれる。旧制佐渡中学在学中は画家に憧れていた。卒業後、旧制新潟高校に入学して中退。 劇映画『ひろしま』(日教組プロ、1953年)でベルリン映画祭長編劇映画賞受賞。記録映画『鉄路に生きる』(1951年)が1952年ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門第2位。また、児童向け劇映画『トランペット少年』(東映教育映画部、1955年)が第9回エディンバラ国際映画祭で受賞。 戦争孤児を描いた『第二の人生』、学徒兵を描いた反戦映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた『爆音と大地』など社会意識の強い作品が多い一方、刑事ドラマ、少年探偵団シリーズなどの映画もつくり、娯楽作品でも腕を振るった。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 19… 末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 1997年4月28日)は、日本の洋画家。多摩美術大学名誉教授。 1908年、新潟県新発田市に生まれた。1930年、旧制山口高等学校卒業。1933年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわらでレニ・リーフェンシュタール出演の映画『聖山』(1927年、アーノルト・ファンク監督)に感銘をうけ、ドイツの前衛舞踏「ノイエ・タンツ」に関心をもつ。この時期、舞踊家の執行正俊が主宰するスタジオに通い始める。 1939年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。第二次世界大戦開戦後もパリに留まるが、ドイツの進駐をうけてマルセイユに逃れ、現地の領事館に勤務する。
玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月1… 玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月14日 - 1982年(昭和57年)7月23日)は、昭和期に活動した日本の洋画家、表紙画家。 1928年(昭和3年)より「太平洋画会研究所」で中村不折に師事する。その後は「太平洋美術学校」講師、「新京美術院」助教授を歴任するとともに、多くの洋画作品を制作した。 戦後は、洋画団体「示現会」の会員として活動しつつ、雑誌や絵本の表紙画家としても活動した。特に複数の出版社から発行された学年別学習雑誌、いわゆる「学年誌」における表紙画を長年担当し、少年少女の表情を大きく豊かに描いた作品を多く制作した。小学館の学年誌(『小学一年生』他)で20年以上にわたって表紙画を担当したほか、講談社、学習研究社など、学年誌市場で競合する各社の表紙画を同時期に担当したこともある。
今泉 隆平(いまいずみ りゅうへい、1908年8月 - 19… 今泉 隆平(いまいずみ りゅうへい、1908年8月 - 1997年3月)は、日本の政治家。新潟県南魚沼郡石打村長。塩沢町名誉町民第1号。 1908年8月、(明治41年)新潟県南魚沼郡石打村(現 南魚沼市)君沢で長男として生まれる。1924年塩沢町立尋常高等小学校高等科を卒業。1927年石打村役場勤務。1945年8月27日、薬照寺でバー・モウを匿う仲間になる 。1947年石打村議会議員・副議長。1952年薬照寺檀家総代(1975年5月迄の23年間)。1955年石打村長となり、町村合併を推進。1955年埼玉県所沢市に転住、有限会社今泉牧場を経営。1957年塩沢町参与。 1986年3月、紺綬褒章を受章。
小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月… 小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月15日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)、長岡市長(5期18年)。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校、旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学農学部卒業。農林省官僚となるが、同省の先輩に当たる和田博雄の勧めにより辞職。1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で立候補し初当選を果たした。議員在職中は安保条約やベトナム賠償問題などで、政府の姿勢を厳しく質したことから「マムシの孝平」と渾名される。1956年、再選。 その後社会党を離党し、革新系無所属として1961年の新潟県知事選挙に挑み落選(当選は自民党推薦の塚田十一郎)。
関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月… 関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月 - 1990年(平成2年)8月7日)は、日本の外交官。外務省経済局長、駐スペイン特命全権大使、駐メキシコ特命全権大使、アジア生産性機構事務総長、外務省顧問。 新潟県長岡市出身。1926年第四高等学校理科乙類入学許可取消。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1932年同大学本科卒業。山岳部出身。 在英国大使館外務書記生、在ドイツ大使館外交官補、外務省通商局事務官、在中華民国大使館三等書記官、上海領事兼支那派遣軍渉外審判所検察官、徐州総領事等を経て、1945年中華民国三級同光勲章受章。同年外務省政務局第三課長。1946年終戦連絡中央事務局第二部第二課長。
稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 … 稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。
赤塚 藤七(あかつか とうしち、1908年4月22日 - 1… 赤塚 藤七(あかつか とうしち、1908年4月22日 - 1979年5月17日)は、関東軍憲兵、満州国警察古北口国境警察隊保安局特務警察官、奉天市鉄西消防分署長、フジオ・プロダクション初代経理担当。 漫画家・赤塚不二夫(本名:赤塚 藤雄)の実父であり、漫画『天才バカボン』に登場する「バカボンのパパ」のモデルとしても知られる。フジオ・プロダクション現社長・赤塚りえ子の祖父。 1908年(明治41年)4月22日、新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(現・新潟市西蒲区潟東地区井随)で小作農家を営む厳格な水呑百姓の父親と穏和な母親の間に七人兄姉の末っ子として生まれる、藤七という名前は七人目の子供であることから命名された。
倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15… 倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15日 - 1998年(平成10年)2月1日)は「競輪の生みの親」とも称される人物。通称は倉茂 貞助(くらしげ ていすけ)。 父の赴任地宮城県仙台市生まれ、新潟県中頸城郡吉川町(現上越市)出身。倉茂家は新田義貞の一統が落武者となり、その子孫と伝えられる。父は陸軍中将倉茂三蔵、叔父(父の弟)倉茂周蔵は陸軍少将。福岡太刀洗近郊の旧制中学4年を修了し、陸軍士官学校に入る。市ヶ谷台の大きな池を泳ぐ奇行で教官に呆れられ、禁煙の場所で煙草を吸っていたことで営倉に入れられた。1928年(昭和3年)、陸軍士官学校第四十期生として卒業、近衛騎兵連隊に配属。同年の昭和天皇の大礼で東京への還幸で東京停車場-宮城間の鹵簿に列する。
竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月… 竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月22日 - 1994年〈平成6年〉6月27日)は、日本の化学者、化学史家。理学博士。大阪大学名誉教授。専門は有機化学。 新潟県新潟市礎町通一ノ町(現 新潟市中央区礎町通一ノ町)の製材業・竹林松次郎の次男として出生。 1925年(大正14年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学理学部化学科を卒業、4月に資生堂研究部に入社。 1933年(昭和8年)2月に資生堂を退職、東京帝国大学理学部大学院に入学、有機化学を研究、1935年(昭和10年)3月に大学院を退学、4月に東京開成中学校講師に就任、教壇に立つ傍ら、東京帝国大学理学部化学教室で研究に従事。
上石 巌(あげいし いわお、1908年1月11日 - 199… 上石 巌(あげいし いわお、1908年1月11日 - 1991年6月12日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のクロスカントリースキー選手。 高田師範学校(現上越教育大学) → 高田フラタナル 1929年の第7回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人40kmで優勝。1931年の同大会でもクロスカントリースキー個人50kmを制し、1932年レークプラシッドオリンピックの代表に選出される。同オリンピックでは、クロスカントリースキー個人耐久(50km)に出場し、ストックを破損するトラブルに遭いながらも、17位の成績を残した。 引退後は樺太で指導者として活躍。戦後は全日本スキー連盟理事・評議員、新潟県スキー連盟会長などを歴任した。
田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - … 田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の大蔵技官、酒類鑑定官、酒造技術指導者。元関東信越国税局鑑定官。「新潟銘酒の父」と呼ばれる。 新潟県新潟市出身。1924年(大正13年)3月に新潟中学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に長岡高等工業学校応用化学科を卒業、長岡市の加藤製油所に勤務したのち、新井町の田中酒造場(現 君の井酒造)で、2年間、酒造りを修行。 1930年(昭和5年)に新潟県商工技手に任官、新潟県醸造試験場に着任、1938年(昭和13年)に名古屋税務監督局技手に任官、1941年(昭和16年)に名古屋財務局技手に任官、1943年(昭和18年)に新潟財務局技手に任官。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 20… 渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 2000年7月21日)は、日本の写真家である。 戦前はライカなどの小型写真機を駆使したスナップ写真で著名となった。フリーランスとなってからは、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』に参加。また国際文化振興財団や木村伊兵衛らの中央工房に関係した国際報道写真協会で活躍。報道写真家の草分けとなる。戦後には大型カメラを使用する建築写真界の第一人者、そして優れた写真教育者となった。写真家としては日本で最初の文化功労者。三条市名誉市民。 新潟県南蒲原郡三条町(現在の三条市)に呉服商の家に生まれる。1925年小西写真専門学校(のちの東京写真専門学校)に入学。在学中より『写真月報』に作品を発表。
高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月… 高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家。東邦自動車、弥栄化学工業創業者。大和郷会元理事。 本名は高橋 繁正(たかはし しげまさ)。正六位・勲五等受章。紺綬褒章受章。長男は弥栄化学工業元社長の高橋一永。 高橋叶五郎・コンの四男として新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれる。戦前は自動車業を営み、1939年(昭和14年)10月に東邦自動車を設立した。 その後企業合同により化学業界に進み、1941年(昭和16年)11月に弥栄化学工業を設立。 タクシー業界に明るく、事故防止対策又会社給与明細等のパンフレットを関係諸官庁等に配布し、現在の交通運輸行政の陰の力となった。
渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5… 渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5日 - 2020年〈令和2年〉2月23日)は、日本のスーパーセンテナリアン、政治家、地方公務員。新潟県上越市浦川原区に在住していた長寿の男性。日本国内並びに世界最高齢男性であった野中正造が2019年1月20日に死去した時点では、日本国内及び世界最高齢男性となっていた(詳細は後述)。ただし、トーマス・ピナレス・フィゲレオ(1906年3月31日 - 2020年9月24日)が世界最高齢男性に認定された為、世界最高齢の男性では無くなっている。 1907年(明治40年)、新潟県東頸城郡浦川原村(現・上越市浦川原区)の農家に生まれる。新潟県立高田農学校(現・新潟県立高田農業高等学校)卒業後、大日本製糖(現・DM三井製糖ホールディングス)に入社し、終戦まで台湾で働いた。
小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉… 小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉2月11日 - 1997年〈平成9年〉10月26日)は、日本の解剖学者、医師。医学博士。新潟医科大学解剖学第二教室第2代教授。新潟大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員。 新潟県新潟市上大川前通8番町(現 新潟市中央区上大川前通8番町)の富商・小池上春五郎の四男として出生。 1923年(大正12年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1926年(大正15年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に新潟医科大学を卒業。 1930年(昭和5年)4月に新潟医科大学解剖学教室(担任:平澤興教授)助手に就任、1934年(昭和9年)3月に新潟医科大学解剖学教室助教授に就任、1935年(昭和10年)1月に新潟医科大学から医学博士の学位を取得。
岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994… 岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994年2月21日)は、日本の地理学者。専門は地政学。 新潟市出身。本籍は埼玉県浦和市。1930年東京高等師範学校文科第一部卒業、1933年東京文理科大学地理学科卒業。1934年同大学院退学、第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)教諭、1936年陸軍経理学校教授、1937年陸軍教授。1945年敗戦により解雇、1951年東京学芸大学教授。1952年「わが国、国界、藩界についての政治地理学的研究」で東北大学理学博士(主査 富田芳郎教授)。1970年東京学芸大学定年退官、名誉教授、国士舘大学文学部地理学専攻教授。
山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月… 山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月11日 - 1978年(昭和53年)9月30日)は、日本の小説家。位階は従四位。 歴史小説を中心に活躍。本名は藤野庄蔵(ふじの しょうぞう)。『徳川家康』により第2回吉川英治文学賞を受賞。日本を守る会の代表委員を務めた。 自由党元衆議院議員の山岡賢次は養子。立憲民主党衆議院議員の山岡達丸は孫。 新潟県北魚沼郡小出町大字佐梨(現:魚沼市佐梨)の山内家に生まれる。1920年11月3日、高等小学校2年次に中退し上京。神田区中猿楽町(現・千代田区神田猿楽町)の平賀印刷所で働き始める。その後、母方の親戚である博文館印刷所に移り、文選工として働きつつ逓信省の研修所に学ぶ。
竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)1… 竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)11月6日 - 1997年(平成9年)12月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県柏崎市出身。早稲田大学文学部ドイツ文学科卒業。都新聞社の記者を経て、1936年2月から朝日新聞社記者。社会部、学芸部、雑誌編集室で美術関係の記事を担当した。近代日本の日本画家を対象として評論活動をおこなった。1961年朝日新聞社を定年退社。定年後は女子美術大学教授、武蔵野美術大学教授を務めた。
松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1… 松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1日 - 2014年(平成26年)9月19日)は、日本の弁護士、裁判官、政治家。緑風会所属参議院議員。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
保科 武雄(ほしな たけお、1906年10月12日 - 19… 保科 武雄(ほしな たけお、1906年10月12日 - 1983年10月7日)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。旧名は、矢沢 武雄(やざわ たけお)。 旧制新潟県立高田中学校 → 早稲田大学商学部 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmで優勝。卒業後は早大に進み、1926年の同大会ではクロスカントリースキー個人10kmと24kmリレーで優勝し、高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)にエントリーし26位だった。1930年の全日本スキー選手権大会ではクロスカントリースキーのリレーで優勝、同大会では早大に4年ぶりのタイトルをもたらした。
石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 19… 石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 1986年2月8日)は、日本の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。 新潟県北蒲原郡笹岡村(現阿賀野市)生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。 横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。1932年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。
越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 … 越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月24日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。
矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2… 矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2001年2月22日)は、日本の社会政策学者。中央大学名誉教授。中央大学経済学部長や、社会政策学会代表幹事を務めた。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。井藤半彌ゼミ出身。1958年から1960年まで第5期社会政策学会代表幹事。1963年から1967年まで中央大学経済学部長。1970年から1972年まで第11期社会政策学会代表幹事。中央大学バドミントン部部長なども務めた。中央大学定年後、1986年まで亜細亜大学教授。2001年2月22日、急性肺炎のため死去。
佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 -… 佐藤 保三郎(さとう やすさぶろう、1906年2月28日 - 1998年8月6日)は、日本の経営者。キリンビール社長、会長を務めた。新潟県長岡市出身。 1926年に福島高等商業学校を卒業し、明治屋での勤務を経て、1927年にキリンビールに入社した。1965年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年に社長に就任した。1978年に会長に就任し、1981年から相談役を務めた。 1978年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1998年8月6日肺炎のために死去。92歳没。
三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日… 三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉7月18日)は、日本の俳優。本名・長岡 正雄(ながおか まさお)。 東京都で生まれ、新潟県三島郡与板町(現・長岡市)に育つ。本名は長岡 正雄(ながおか まさお)。元与板藩士で、陸軍軍人となり三條中学校の助教諭や、帝国生命保険の書記などを務めた父・茂雄と母・マツの間に6人兄弟(男4人・女2人)の長子、長男として生まれた。1924年(大正13年)に獨協中学校(旧制中学校)を卒業し、茂雄がのめりこんでいた影響で演劇(新劇)の世界に足を踏み入れる(茂雄も演者として舞台に立っていたようである)。同年に『ヴェニスの商人』で初舞台を踏んだ。
永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高… 永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制高田中学校 → 早稲田大学 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人4kmで、中学の後輩の矢沢武雄に次いで2位となる。卒業後早大に進み、1926年の同大会では、クロスカントリースキー個人10kmで5位となるなど、永田・高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。 1928年のサンモリッツオリンピックの代表選考では、当初は補欠だったが、代表の一人だった岡村源太郎(北海道大)が1927年10月に急逝したため、急遽永田が代表に選出された。
高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12… 高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12月14日 - 1981年〈昭和56年〉1月31日)は、日本の外科医、内科医、小児科医。紫野診療所元所長、京都民医連第2代会長、ミノファーゲン製薬本舗元顧問。 新潟県出身。新潟師範学校附属小学校を経て、1922年(大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1929年(昭和4年)4月に京都帝国大学医学部外科学教室副手に就任、1930年(昭和5年)9月15日に京都府宇治市の花屋敷浮舟園で結婚。 1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館に診療所を開設。
佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1… 佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1日 - 1997年〈平成9年〉4月15日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(3期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)出身。東京高等師範学校臨時教員養成所卒。1925年(大正14年)北海道立室蘭中学校に赴任した。その後、旧制新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)の教諭と教頭を務める。戦後、新制直江津町立直江津中学校(のち直江津市立直江津中学校、現上越市立直江津中学校)校長となる。1962年(昭和37年)直江津市長に当選。同年7月に就任した。高田市と合併するまで市長を3期務めた。在職中、高田市との合併が起こり、合併の方向で話を進め、1971年(昭和46年)に上越市が発足した。
今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1… 今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1978年12月14日)は、日本の歴史家。 新潟県長岡市生まれ。1929年、明治大学政治経済科専門部卒業。長岡市役所に勤務し、厚生課長、秘書課長等を務める傍ら、長岡地方の郷土史研究を行い、『長岡の歴史』の執筆や資料集『越佐叢書』の編纂を行う。1955年には長岡市立互尊文庫館長となり、1965年退職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2… 小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2005年11月6日)は、記録映画カメラマン、映画プロデューサー。 十字屋映画部から日本映画社、戦後は東京シネマで科学映画の撮影を担当。顕微鏡を使用した撮影を得意とし、自ら、プロダクションを立ち上げ、多くの科学映画を製作した。その間、国際賞・国内賞含め、数々の賞を受賞した。長男の小林武史と、次男の小林健次はヴァイオリニスト。
前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 19… 前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 1986年6月26日)は日本の建築家である。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1… 古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1985年4月30日)は、日本の経営学者。学位は、商学博士(一橋大学・論文博士・1954年)。一橋大学名誉教授。増地庸治郎門下、増地の経営財務論を継承。一橋大学商学部教授を経て、同門の招きで青山学院大学教授に就任。郵政省顧問等も歴任。藍綬褒章受章。 新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)出身。現在の長岡商業高校を経て、1929年に東京商科大学(現:一橋大学)経営学科卒業。1954年「財務管理の本質と組織に関する研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。学生時代に受洗。大学では上田貞次郎教授のゼミを希望していたが、人気のため果たせず、増地庸治郎助教授のゼミに参加。
福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日… 福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授。岡山大学名誉教授、日本生理学会特別会員。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)出身。1921年(大正10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1924年(大正13年)3月に新潟高等学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に新潟医科大学を卒業。 1928年(昭和3年)4月に新潟医科大学生理学教室(担任:横田武三教授)助手に就任、1930年(昭和5年)4月に講師に就任、1932年(昭和7年)2月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1933年(昭和8年)4月に新潟医科大学生理学教室助教授に就任、1938年(昭和13年)11月に永井潜の推薦で北京大学医学院生理学教室初代教授に就任、太平洋戦争後、1945年(昭和20年)12月に日本に帰国、1946年(昭和21年)6月に新潟医科大学薬理学教室(担任:木原玉汝教授)助教授に就任、1948年(昭和23年)7月に米子医科大学生理学教室初代教授に就任、1949年(昭和24年)5月に鳥取大学医学部生理学教室初代教授に就任、1954年(昭和29年)7月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授に就任、1956年(昭和31年)5月に岡山で第33回日本生理学会総会を主催、1966年(昭和41年)7月に岡山で第8回日本平滑筋学会総会を主催、1970年(昭和45年)3月に岡山大学を定年退官、6月に川崎医科大学生理学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)3月に同大学を退任、同大学客員教授に就任。
森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991… 森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991年7月26日)は、新潟県出身の詩人、小説家である。 旧制中学校教師の父の転任に伴い、富山県高岡市に移り少年期を過ごす。1912年、福井市に移住。1916年、福井中学に入学。同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。1920年中学を4年修了で第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。1941年、石川県小松市へ疎開。1942年、『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞する。
杉 捷夫(すぎ としお、1904年2月27日 - 1990年… 杉 捷夫(すぎ としお、1904年2月27日 - 1990年12月10日)は、日本のフランス文学者。東京大学名誉教授。 新潟県柏崎市出身。旧制柏崎中学・旧制三高を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)、立教大学、東北帝国大学で教えた後、1949年から東京大学教養学部教授、56年文学部教授。1964年に定年退官後は立教大学教授、1968年、東京都立日比谷図書館長となり、土岐善麿以来13年ぶりの文化人館長として話題になった。1976年日本学士院会員。 プロスペル・メリメやギ・ド・モーパッサンの翻訳で知られ、その多くが岩波文庫等に入って読み継がれた。研究者としては『フランス文芸批評史』などの著書がある。
渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)… 渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)2月17日 - 1994年(平成6年)11月28日)は、日本の政治家。新潟市長、全国市長会会長。
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年… 塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年〉2月9日 - 1997年〈平成9年〉5月23日)は、日本の弁護士、税理士、政治家。位階は正三位。 参議院議員(3期)、衆議院議員(8期)、郵政大臣(第5代)、新潟県知事(公選第5・6代)などを歴任。 新潟県中頸城郡春日村(現在の新潟県上越市)出身。農業・塚田亀之助の六男。旧制新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)、大連中学校を経て1928年(昭和3年)、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業。高等文官試験行政科、司法科に各合格。 昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。
駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 197… 駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 1970年7月11日)は、昭和の電気工学研究者、半導体研究者。原子力研究者。 逓信省電気試験所所長。通商産業省工業技術院長。日本原子力研究所理事長。原子力委員。三菱原子力工業顧問。 界面動電現象や東北帝国大学渡辺寧とともに日本で最初に半導体(トランジスタ)の研究を行いその後、原子力開発に携わった。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校卒業(旧制)。旧制新潟高校卒業。東京帝国大学電気工学科卒。1937年(昭和12年)工学博士。 1927年(昭和2年)逓信省電気試験所に入所。1952年(昭和27年)通商産業省工業技術院長となる。1948年アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、GHQからもたらされたトランジスタの論文を翻訳し「トランジスタ勉強会」を発足させる。
市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1… 市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1990年〈平成2年〉2月16日)は、日本の洋画家、プロレタリア画家。 新潟県中蒲原郡横越村大字横越(現 新潟市江南区横越中央)の素封家・市村俊蔵の三男として出生。 1922年(大正11年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に横浜高等工業学校応用化学科を卒業、画家を志して川端画学校で学ぶ。 兄・彦馬の友人で新潟新聞社東京支局長の坂口献吉(坂口安吾の兄)に洋画家の矢部友衛を紹介され、1928年(昭和3年)9月に造型美術家協会に入会、1929年(昭和4年)4月に日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加。 1930年(昭和5年)3月に日本プロレタリア美術家同盟中央委員・組織部長・青年婦人部長に就任、1932年(昭和7年)2月に京都で結婚、東京に戻って日本プロレタリア美術家同盟本部組織部長に就任。
伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 19… 伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、海軍軍人、海軍大佐。 新潟県村上市出身。海軍兵学校第52期。 1944年、戦艦「金剛」に乗り組み、台湾沖にて戦死をとげた。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1… 後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1日 - 2017年〈平成29年〉5月15日)は、日本の画家。 1903年(明治36年)、新潟県中頸城郡名香山村の赤倉温泉で出生。14歳の時に上京し、20歳で結婚。2人の子供を育てた。 73歳の時に孫からの一言をきっかけにカルチャースクールで絵を習い始め、99歳までに19枚の絵を描いた。82歳で現代童画展新人賞を受賞し、96歳で同文部大臣奨励賞を受賞した。100歳を超えてからはかるたにも挑戦し、112歳の時に全国かるた協会より初段を授与された。生前は東京都墨田区在住で且つ同区の最高齢だった。 2017年5月15日午前1時36分、自宅で誤嚥性肺炎のため死去。
柴野 安三郎 (しばの やすさぶろう、1903年 <明治36… 柴野 安三郎 (しばの やすさぶろう、1903年 <明治36年> 8月12日 - 1995年 <平成7年> 1月5日)は、北海道の実業家。北海道交通株式会社代表取締役社長。位階は正五位。 1903年、新潟県刈羽郡荒浜村(現・柏崎市)の漁民安二郎の三男として生まれる。荒浜尋常高等小学校を卒業後、1917年に柏崎の西川鉄工所に就職する。1923年、舞鶴海兵団に徴兵となる。その後、横須賀の海軍機関学校に学び、戦艦「長門」の乗組員となる。1926年、北海道の小樽の佐藤鉄工所に旋盤工として就職する。そこでは工場長に抜擢されるが労働争議に参加し、拘留される経験も持つ。1929年、阿部自動車の運転手となる。 1931年、小樽でタクシー会社の「稲穂タクシー」を自ら創業する。
水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1… 水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1990年12月31日)は、新潟県六日町(現南魚沼市)出身の著述家。日本初の女流映画脚本家で後に児童文学作家となった。