飛鳥部 勝則(あすかべ かつのり、本名:阿部 勝則〈あべ か… 飛鳥部 勝則(あすかべ かつのり、本名:阿部 勝則〈あべ かつのり〉、1964年〈昭和39年〉10月18日 - )は、日本の小説家、推理作家、洋画家。新潟県南魚沼郡塩沢町生まれ。 新潟県立六日町高等学校、新潟大学教育学部卒業、新潟大学大学院教育学研究科修了。 県立高校の美術教師として働くかたわら、洋画家として独立展、西脇市サムホール大賞展、県展、県芸展などに入選する。 1998年、『殉教カテリナ車輪』で第9回鮎川哲也賞を受賞し、同年9月に作家デビュー。同作は「このミステリーがすごい!」で第12位、「本格ミステリ・ベスト10」で第3位と高く評価される。2002年、銀座にある画廊宮坂で個展を開く。 2026年、『抹殺ゴスゴッズ』で第79回日本推理作家協会賞 長編および連作短編集部門の候補となる。
池田 美弥子(1963年 - )は新潟県出身の日本画家。 新… 池田 美弥子(1963年 - )は新潟県出身の日本画家。 新潟市出身。武蔵野美術大学卒業。日本美術家連盟会員。 ’98神奈川県美術展特選 ’96三渓日本画大賞展 佳作賞 ’99上野の森美術大賞展 入選 ’00ちがさきアートNow「10人の日本画」展:茅ヶ崎市美術館 ’04「新潟の作家100人」展 新潟県立万代島美術館 ’05第3回トリエンナーレ豊橋 入選 ’13 挿絵「名曲の旅」:新潟日報紙~14年まで連載 ’15 個展藤沢さいか屋 個展―ぐるぐるハウス高柳(新潟県柏崎市)・柴田悦子画廊 ’16 個展「湘南・沖縄の空から」東急リバブル茅ヶ崎センター(茅ヶ崎市) 菅楯彦大賞展出品(京都市;鳥取県倉吉市倉吉博物館 TOKYO派・涼風献上団扇展(柴田悦子画廊) Tシャツ展 (アートシー・茅ヶ崎市)
山田 修市(やまだ しゅういち、1948年 - )は、日本の… 山田 修市(やまだ しゅういち、1948年 - )は、日本の洋画家。東北芸術工科大学教授、京都造形芸術大学客員教授。独立美術協会会員。 新潟県新潟市生まれ。1973年東京芸術大学大学院修了。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
新井 満(あらい まん、1946年〈昭和21年〉5月7日 -… 新井 満(あらい まん、1946年〈昭和21年〉5月7日 - 2021年〈令和3年〉12月3日)は、日本の男性著作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家。新潟県新潟市生まれ。本名:滿(みつる)。母は助産婦。 新潟市立寄居中学校、新潟明訓高等学校、上智大学法学部卒業。子供時代に新潟地方を襲った大地震で危うく命を落としかけた。また、幼少時から病弱だった。上智大学グリークラブ(男声合唱団)に所属するも、重病を患い生死の境目を彷徨ったため入院退部。何とか治癒して生きる喜びを強く実感する。以降、美しいものを発見して伝えることをライフワークとして生きていきたいと誓う。 卒業後、電通に入社し環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動に入る。
大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長… 大矢十四彦(おおや としひこ、 1940年- )は、新潟県長岡市出身の日本画家。富貴蘭、芙蓉、花菖蒲、牡丹など花をモチーフとした作品を発表している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。
佐善 明(さぜん あきら、1936年〈昭和11年〉4月3日 … 佐善 明(さぜん あきら、1936年〈昭和11年〉4月3日 - 1991年〈平成3年〉3月23日)は、日本の洋画家。千葉大学工学部工業意匠学科教授。 新潟県新潟市東大畑通(現 新潟市中央区東大畑通)出身。1955年(昭和30年)3月に新潟高等学校を卒業、1960年(昭和35年)3月に新潟大学教育学部芸能科絵画科を卒業、4月から千葉大学工業短期大学部工業意匠科で教務員として勤務。 1976年(昭和51年)10月に文化庁芸術家在外研修員としてアメリカに渡り、1年間、カリフォルニア大学ロサンゼルス校とマサチューセッツ工科大学で客員研究員として研修。 1985年(昭和60年)10月に文部省在外研究員として再びアメリカに渡り、1年間、カリフォルニア大学ロサンゼルス校芸術学部デザイン科で客員教授として勤務。
大矢 紀(おおや のり、1936年2月11日 - )は、日本… 大矢 紀(おおや のり、1936年2月11日 - )は、日本画家。「生命の胎動」をテーマに、山、樹木、花鳥静物を描く。雪山や火山など壮大な自然、山岳風景また花を得意とする、日本画家である。 日本橋三越本店を始め、個展、グループ展多数。現在日本美術院評議員、NHK文化センター講師、川崎市文化財団理事、長岡市名誉市民、川崎市市民文化大使、五泉市観光大使。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 -… 富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 - 1994年5月31日)は、日本の洋画家。 新潟県高田市南本町出身。新潟県立高田商工学校卒業。黄変や亀裂、剥落などのない白い絵の具を自ら開発して作品を手がけ、「トミオカホワイト」と呼ばれた。著名な作品に「白の世界シリーズ」など。 現在[いつ?]、新潟県南魚沼市の八海山山麓には、1990年(平成2年)11月に開館した「トミオカホワイト美術館」があり、富岡惣一郎の作品が多数収蔵・展示されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月… 横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 - 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典] 横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 … 村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 - 1987年(昭和62年)1月23日)は、新潟県柏崎市出身の日本の日本画家。本名は勲。風景画、山岳を主題にした作品が多い。 1917年(大正6年)1月21日、新潟県柏崎市北条荒町に農家の長男として生まれる。 新潟市生まれの尾竹国観に師事。上京し京華中学に進むが、3年時にカリエスに罹患し帰郷。1935年(昭和10年)再上京し川端画学校の日本画科へ進み、のちに太平洋画学校へ。在学中に各種展覧会で入賞を繰り返した。 1943年(昭和18年)、26歳のとき第6回新文展に出品した「子等」が初入選。 戦時中は従軍画家として南方戦線に1945年敗戦まで応召。
倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日… 倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日 - 平成10年(1998年)11月19日)は、新潟県高田市(現上越市)に生まれた洋画家。 太平洋美術学校で学び、自由美術協会を経て昭和39年(1964年)、主体美術協会の創立会員となる。人物油彩画を中心に制作した。書籍や新聞雑誌の挿絵も多く手がけた。 昭和62年(1987年)、脳梗塞で倒れて右半身と言語機能を失うも左手で制作を続け「左手のデッサン帳」の出展を重ねた。平成10年(1998年)に82歳で死去。 上越市の樹下美術館に常設展示されている。 平成7年(1995年)9月から10月にかけて新潟市美術館で倉石隆展が開催された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 19… 佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 1954年6月25日)は、日本の洋画家。新潟県長岡市に生まれ、新発田市で生涯を過ごす。蒲原平野や農民などを主なモチーフとし、郷土に根ざした作品を制作した。1954年、白血病で死去。 1910年(明治43年)1月26日、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に新発田藩士の末裔である父、佐藤英雄、母、菊乃との間に五人兄弟姉妹の三男として生まれる。父親は哲三の出生後まもなく台湾へ渡る。その翌年、母親は哲三とその兄姉を連れて新発田市に移転。1914年、哲三は脊椎カリエスを患い、背骨に障害を負う。1916年に父親が帰国、一家は新発田上町に移転し、書画骨董店『十万堂』を開業する。
末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 19… 末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 1997年4月28日)は、日本の洋画家。多摩美術大学名誉教授。 1908年、新潟県新発田市に生まれた。1930年、旧制山口高等学校卒業。1933年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわらでレニ・リーフェンシュタール出演の映画『聖山』(1927年、アーノルト・ファンク監督)に感銘をうけ、ドイツの前衛舞踏「ノイエ・タンツ」に関心をもつ。この時期、舞踊家の執行正俊が主宰するスタジオに通い始める。 1939年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。第二次世界大戦開戦後もパリに留まるが、ドイツの進駐をうけてマルセイユに逃れ、現地の領事館に勤務する。
玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月1… 玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月14日 - 1982年(昭和57年)7月23日)は、昭和期に活動した日本の洋画家、表紙画家。 1928年(昭和3年)より「太平洋画会研究所」で中村不折に師事する。その後は「太平洋美術学校」講師、「新京美術院」助教授を歴任するとともに、多くの洋画作品を制作した。 戦後は、洋画団体「示現会」の会員として活動しつつ、雑誌や絵本の表紙画家としても活動した。特に複数の出版社から発行された学年別学習雑誌、いわゆる「学年誌」における表紙画を長年担当し、少年少女の表情を大きく豊かに描いた作品を多く制作した。小学館の学年誌(『小学一年生』他)で20年以上にわたって表紙画を担当したほか、講談社、学習研究社など、学年誌市場で競合する各社の表紙画を同時期に担当したこともある。
市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1… 市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1990年〈平成2年〉2月16日)は、日本の洋画家、プロレタリア画家。 新潟県中蒲原郡横越村大字横越(現 新潟市江南区横越中央)の素封家・市村俊蔵の三男として出生。 1922年(大正11年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に横浜高等工業学校応用化学科を卒業、画家を志して川端画学校で学ぶ。 兄・彦馬の友人で新潟新聞社東京支局長の坂口献吉(坂口安吾の兄)に洋画家の矢部友衛を紹介され、1928年(昭和3年)9月に造型美術家協会に入会、1929年(昭和4年)4月に日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加。 1930年(昭和5年)3月に日本プロレタリア美術家同盟中央委員・組織部長・青年婦人部長に就任、1932年(昭和7年)2月に京都で結婚、東京に戻って日本プロレタリア美術家同盟本部組織部長に就任。
後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1… 後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1日 - 2017年〈平成29年〉5月15日)は、日本の画家。 1903年(明治36年)、新潟県中頸城郡名香山村の赤倉温泉で出生。14歳の時に上京し、20歳で結婚。2人の子供を育てた。 73歳の時に孫からの一言をきっかけにカルチャースクールで絵を習い始め、99歳までに19枚の絵を描いた。82歳で現代童画展新人賞を受賞し、96歳で同文部大臣奨励賞を受賞した。100歳を超えてからはかるたにも挑戦し、112歳の時に全国かるた協会より初段を授与された。生前は東京都墨田区在住で且つ同区の最高齢だった。 2017年5月15日午前1時36分、自宅で誤嚥性肺炎のため死去。
安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31… 安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1989年〈平成元年〉11月12日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市東堀通9番町(現 新潟市中央区東堀通9番町)の資産家・安宅安太郎の次男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)に独学で画家を志す。 1926年(大正15年)の第7回帝展で『風景』が初入選、1928年(昭和3年)に義兄(姉の夫)の大久保賢治郎の支援によりヨーロッパに渡って各国の美術を研究、1931年(昭和6年)に帰国。 1936年(昭和11年)に二科会会友になるが、1939年(昭和14年)に二科会を退会、1940年(昭和15年)に一水会会員になり、1946年(昭和21年)に一水会委員に就任、1949年(昭和24年)に一水会運営委員に就任。
蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31… 蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31年〉12月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月6日)は、挿絵画家、詩人、アニメーション監督。 抒情画という言葉の考案者。童謡・抒情歌「花嫁人形」の作詞者。 1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。 蕗谷の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 198… 中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11… 岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11日 - 1988年〈昭和63年〉3月9日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 新潟県三条市出身。1918年(大正7年)東京美術学校日本画科卒業、東京美術学校日本画研究科入学。松岡映丘に師事する。1921年(大正10年)新興大和絵会を結成し、新興大和絵運動に参加する。1924年(大正13年)第5回帝展に「手向の花」が初入選、1930年(昭和5年)第11回帝展で「高野創世」が特選。1937年(昭和12年)国画院に参加し、新文展にも複数回出品する。1939年(昭和14年)川﨑小虎らと日本画院を設立する。1952年(昭和27年)第8回日展運営会参事、1958年(昭和33年)同評議員を務める。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉… 佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉5月5日 - 1958年〈昭和33年〉12月31日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の教育者・佐藤荘松の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1912年(明治45年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(大正元年)10月の第6回文展で『化粧』により三等賞を受賞、1913年(大正2年)4月の第3回東京勧業展覧会で『紅き燈』により二等賞を受賞。 二科会の創立会員となるが、文展、帝展にも出品し続けた。 1920年(大正9年)3月に東京美術学校の同期の萬鉄五郎、神津港人、熊岡美彦、片多徳郎、斎藤素巌らと14人で美術団体の四十年社を結成、1929年(昭和4年)2月に青山熊治らと第一美術協会を創立。
富田 温一郎(とみた おんいちろう、1887年〈明治20年〉… 富田 温一郎(とみた おんいちろう、1887年〈明治20年〉10月21日 - 1954年〈昭和29年〉7月15日)は、日本の洋画家。雅号は温信。 石川県金沢区中主馬町(現 金沢市菊川)の旧加賀藩藩士・富田信貫の長男として出生。 5、6歳の頃、父の富田信貫が石油事業を行うため新潟県に移住、中蒲原郡金津村・新津町(現 新潟市秋葉区)や新潟市下大川前通2ノ町(現 新潟市中央区)などに居住。 1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 帝国劇場の背景を描く仕事の傍ら油彩画の制作を続け、1912年(明治45年)の第1回光風会展で『顏』と『藥』により最高賞の今村奨励賞を受賞、1914年(大正3年)の第8回文展で『大學校庭の初夏』が初入選、1920年(大正9年)の第2回帝展で『母の肖像』が特選、1922年(大正11年)の平和記念東京博覧会で『河口』により二等賞を受賞、1928年(昭和3年)の第9回帝展で『子供とその母』が特選。
鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月2… 鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月20日 - 1931年〈昭和6年〉8月9日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡亀田町大字稲葉(現 新潟市江南区稲葉)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(明治45年)に東京美術学校の同期の大野隆徳、小寺健吉、富田温一郎、山口亮一、横井礼一らと12人で赤甕会を結成、時事新報社に勤務する傍ら油彩画の制作を続け、1914年(大正3年)の第8回文展で『靜物』が初入選、以後、文展、帝展、光風会展、新光洋画会展などに作品を発表し続け、1918年(大正7年)の第6回光風会展で『手袋の女』および『靜物』により最高賞である今村奨励賞を受賞。
相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、… 相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、新潟県出身の洋画家。浦和画家。 新潟県新発田市に生まれる。1905年(昭和38年)に上京し、白馬会研究所に入り黒田清輝に師事した。1919年(大正8年)、帝展に「信濃路」出品し特選を受賞。光風会会員。埼玉県の浦和転居後は高田誠を指導した。
小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治1… 小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治16年〉2月11日 - 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。半古から古径の雅号を授かる。1914年(大正3年)第1回再興日本美術院展で入選、同人に推挙される。1922年(大正11年)から日本美術院留学生として、前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。
尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治… 尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治13年(1880年)4月21日 - 昭和20年(1945年)5月20日)は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。尾竹越堂、尾竹竹坡の弟で、いわゆる尾竹三兄弟の末弟。 明治13年(1880年)4月21日、現在の新潟市の紺屋に生まれる。本名亀吉。父は尾竹倉松。「尾竹」の読みを「おだけ」とする資料が多いが、これは誤りで、正しくは「おたけ」である[要出典]。幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。8歳頃から絵を描いて家計を助けており、東京学齢館の『小国民』の全国児童画コンクールに応募して一等をとり、学齢館主人の斡旋で上京、小堀鞆音に入門。漢学を高橋太華に学ぶ。
尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年… 尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。
小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(18… 小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(1857年2月15日) - 大正5年(1916年)1月7日)は、明治時代の日本の武士、洋画家。実作者としてよりも教育者として名高い。小山善元の長男であり、小山觀翁の大伯父にあたる。 越後国長岡藩・藩医の惣領。明治2年(1869年)家督相続をして、長岡藩士として出仕(高100石)。廃藩後に地元の長岡洋学校で学ぶ。明治4年(1871年)政治家を志して上京するが、翌年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。同6年、陸軍兵学寮に入り,翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。
笠原 軔(かさはら じん) は新潟県の洋画家、漢詩人、郷土史… 笠原 軔(かさはら じん) は新潟県の洋画家、漢詩人、郷土史家。号は屠竜山人、揚峡酔樵。故郷新潟や津川の風景画を多く残した。 1885年(明治18年)4月24日新潟県官吏渡辺漁村の次男として新潟に生まれた。1887年(明治20年)母を失い、後妻キエと伯父碇浦の未亡人キクに養育された。当初白山浦に住み、学校町二番町に移り、白山浦に戻った。 1898年(明治31年)新潟高等小学校4年を卒業し、4月新潟県立中学校に進学した。同期には小柳篤二・佐藤荘一郎・小山九一・薄田白天郎・古川北華・諸橋宏・山岸(草野)宏次郎・三浦卓爾・五十嵐昌平・村山真雄、1級下には平田笛人等がいた。3年次に父が中学校に赴任し、軔の「つぁま」(中越方言で「父」の意)として「ジンツァマ」と呼ばれた。