北 政清(きた まさきよ、1891年〈明治24年〉10月11… 北 政清(きた まさきよ、1891年〈明治24年〉10月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月1日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。 石川県能美郡今江村(現小松市)で北小太郎の三男として生まれる。1895年、父と共に北海道空知郡奈井江に入植。公立砂川小学校を経て、1910年、北海道庁立空知農業学校農科を卒業し農業に従事。 1915年、札幌郡江別村付属員となる。以後、雨竜郡秩父別村農会技術員、兼同役場付属員、北海道庁農業技手、板谷農場管理人、北竜村土功組合長、板谷農場産業組合長理事、北竜村農会副会長、北竜村会議員、在郷軍人会分会長、板谷商船 (株) 農場支配人、北連販売部長、産業組合中央会空知部会理事、日本通運 (株) 滝川支店長などを務めた。
新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月2… 新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月24日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、大正から戦後昭和に活躍した日本の銀行家。日本銀行総裁を2度にわたって務めたほか、戦後初の駐米大使も務めた。 石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。 日本銀行では国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年および1935年-1937年の二度)などを経たのち、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。1945年(昭和20年)10月に渋沢敬三総裁が幣原内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、その後任の日銀総裁に就任した。
山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月… 山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月1日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の政治家、実業家。北海道会議員、衆議院議員、北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。 石川県出身。空知農学校卒。1915年(大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業。小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた。その後、小樽商業会議所総務課長に就任。1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1932年の第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年の第19回から1942年の第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。
江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 19… 江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 1969年10月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、石川県議会議員(5期)、石川県農業会長。 1890年、石川県石川郡額村に生まれる。野々市小学校を卒業。1927年県議選に当選し、1944年に辞職するまでつとめる。その間、石川県名誉職参事会員に5回も選出され、政友会石川支部の幹事長にもなった。また、多年に渡って農政に尽くし、1935年に石川郡農会長に、1943年から1947年までは石川県農業会長も歴任した。
田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 19… 田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 1945年4月16日)は、日本の美術史家。 石川県金沢市生まれ。息子は美術史家の田辺徹。室生犀星とは幼馴染。1913年東京美術学校彫刻科を卒業、18年同校美術史研究室の助手、19年教授となり、工芸史を講じた。1924年から25年工芸史研究のため欧米諸国に学び、1927年東京高等工芸学校講師を兼ねた。1937年再び欧洲各国に出張して38年帰国、1939年には石川県立工業学校長となり42年退職した。
相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12… 相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12月24日 - 1940年(昭和15年)11月18日)は、大正から昭和前期の日本の詩人。 金沢大学の前身となった旧制第四高等学校を中退。室生犀星の影響を受け詩作をはじめ、1916年(大正5年)室生犀星・萩原朔太郎創刊の『感情』に同人として参加する。1920年(大正9年)には『感情同人詩集』に「懲罰」などの詩を発表。1922年(大正11年)『詩聖』に「凝視」などを発表し、1924年(大正13年)には佐藤春夫の序文を得て『万物昇天』を刊行、ほか詩誌『壺』も主宰した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 -… 尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 - 1963年6月23日)は、大正期から昭和期にかけての日本の国文学者・歌人。学位は、文学博士(東京大学)。 石川県金沢市出身。金沢市立商業学校(現:石川県立金沢商業高等学校)に入学するが、1903年に結核に感染し、右足の切断を余儀なくされる。金沢商業学校は中退した。窪田空穂を慕い、のちには空穂の主宰する『國民文學』の同人にもなっている。 1909年上京、前田夕暮、若山牧水らを知る。1911年に夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、1912年には自らが金沢において『樹蔭』を創刊、さらに1917年には牧水が主宰雑誌『創作』を復刊した際に加わっている。
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10… 藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1932年〈昭和7年〉1月29日)は、日本の小説家、劇作家、演劇評論家である。 石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の七尾市馬出町)に、藤澤庄三郎・古への次男として出生。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に勤め、印刷所が新聞取次を兼業していたことから新聞配達を担当していたが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。以降、生涯にわたり骨髄炎の後遺症に苦しめられた。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤めた。
北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月1… 北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)・参議院議員(1期)。奈井江村初代村長。 石川県能美郡御幸村(現・小松市)出身。1894年、一家で砂川町奈井江に入植。1911年、空知農業学校卒業。卒業後は、家業の農業に従事。1915年大日本帝国陸軍に入営。少尉任官。砂川農村会長・奈井江産業組合長・奈井江水利組合長を兼任。1919年砂川町議会議員に当選。1920年保証責任北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、のちのホクレン)理事および砂川農会会長。1924年大日本帝国陸軍中尉任官、同年北海道議会議員に当選し、以後連続3期務めた。
小柏 丑二(おがしわ ちゅうに、1889年(明治22年)6月… 小柏 丑二(おがしわ ちゅうに、1889年(明治22年)6月3日 - 没年不明)は、東京市区長。教育者。 石川県金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学国文科を卒業。広陵中学校教諭を務めた後、1919年(大正8年)に島根県立杵築中学校教諭となった。1922年(大正11年)、福岡高等学校教授に就任。1923年(大正12年)、群馬県立沼田中学校校長に転じ、1930年(昭和5年)からは岐阜県岐阜中学校校長を務めた。 1934年(昭和9年)、東京市に入り、教育局視学課長、同学務課長を歴任した。1939年(昭和14年)から本所区長に転じ、東京市本所高等実践女学校の校長事務取扱などを務めた。
前野 与三吉(まえの よそきち、1889年(明治22年)5月… 前野 与三吉(まえの よそきち、1889年(明治22年)5月31日 - 1975年(昭和50年)8月12日)は、日本の政治家。北海道旭川市長(3期)。 石川県石川郡松任町(のち松任市、現在の白山市)に生まれる。4歳の時に家族とともに北海道に渡る。20代で旭川で運送業を始める。その後、業界の中心人物となり、政治の道に進むことになる。1926年(大正15年)旭川市会議員に当選し、5期務める。また、北海道会議員に当選し、2期務める。 戦後の1947年(昭和22年)旭川市長の大塚守穂が公職追放により、辞職。同年6月旭川市長に就任する。4年後の1951年(昭和26年)の市長選挙では再選を目指したが、元衆議院議員の坂東幸太郎に敗れた。
和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 19… 和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 1977年12月13日)は、日本の建築家。横浜郵船ビルなどの作品で知られる。 石川県金沢市生まれ。石川県立金沢第一中学校を経て、東京美術学校図案科に進み、小島憲之、大澤三之助、古宇田実、岡田信一郎らの指導を受ける。1912年(明治45年)に卒業後、古宇田実設計の松屋呉服店、鶴屋呉服店の工事監督に従事する。1914年から松屋呉服店建築顧問(1921年まで)。1915(大正4年)年に独立した。1921年にアメリカ各地の建築を視察した。1923年(大正12年)、丸ビルに建築事務所を開いた。 1930年代後半から日本精工川崎工場など工場を多く設計した。
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 19… 田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男として生まれる。松山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第49連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、第16師団参謀、参謀本部員、陸大教官、フランス出張、歩兵第61連隊大隊長、参謀本部員、陸軍省整備局課員、陸軍歩兵学校教官、整備局動員課長、歩兵第34連隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍少将に進級し陸士幹事となる。
蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1… 蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1974年12月8日)は、日本の実業家。石川県動橋村(現・加賀市)出身。東日本フェリーをはじめとした蔦井グループの創始者として、海運・陸運・倉庫・不動産業等多方面で活躍した。家族は息子に蔦井政信(東日本フェリー2代目社長)、孫に蔦井孝典(ハートランドフェリー、アイビー・システム社長)。 1889年(明治22年)、石川県動橋で宿屋を営む蔦井庄五郎の、12人兄弟の5男として生まれる。6歳で北海道へ移り、函館で生花店を営むおじ・勝次郎の家へ養子に出され、行商や新聞配達で家計を支えるも、函館の養父母の死去に伴い1900年(明治33年)に歌志内村赤平の弟夫婦の養子となり、先に団体移住していた親や兄弟とともに開拓作業を手伝う。
伊藤勝典(いとう しょうてん、明治32年(1889年) - … 伊藤勝典(いとう しょうてん、明治32年(1889年) - 昭和18年(1943年))は、石川県金沢市出身の加賀象嵌の名工として知られる彫金家。 明治32年に石川県金沢市に生まれる。本名、勝治。家業であった彫金を修得し、象嵌を得意としていた。 大正15年に第13回商工省展で褒状を受ける。昭和3年には「御大典奉祝石川県献上御手筥(ごたいてんほうしゅくいしかわけんけんじょうおてばこ)」を制作。昭和4年に第10回帝展に入選する。 後年は大阪の造幣局に勤務し、戦中に逝去。息子は陶による作品で知られる美術家の伊藤公象。 石川県立美術館に彫金で制作された「銅透彫唐獅子牡丹図手筥(どうすかしぼりからじしぼたんずてばこ)」(大正14年制作)が所蔵されている。
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月… 菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月8日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍静岡県。熊本区(現熊本市)で陸軍砲兵中佐・菰田安節の長男として生まれる。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を7番/418名の成績で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を優等で卒業した。 1919年(大正8年)4月、砲兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となり、参謀本部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)などを経て、1924年(大正13年)4月、砲兵少佐に進級。
佐藤 実(實、さとう みのる、1888年10月1日 - 19… 佐藤 実(實、さとう みのる、1888年10月1日 - 1933年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 石川県出身。1909年、石川県立七尾中学校(現・石川県立七尾高等学校)卒。農業を営む。穴水町助役、同町長、鳳至銀行取締役、同監査役、七尾商工銀行、能登産業銀行各取締役、能登新聞社社長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において石川5区から憲政会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では石川2区から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には次点で落選した。1933年死去。
益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1… 益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本の政治家。位階は従二位。 衆議院議員(14期)、衆議院議長(第46代)、副総理、建設大臣、行政管理庁長官などを歴任した。 1888年1月17日、石川県鳳至郡宇出津町(現在の鳳珠郡能登町)に生まれる。旧制海城中学校から神田神保町にあった大成中学に4年編入後、専検から東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士となった。 1920年、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で石川5区から立候補し初当選。1924年に床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を発足したあたりから政友会で鳩山一郎派に所属していた。
三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月… 犬丸 徹三(いぬまる てつぞう、1887年〈明治20年〉6月8日 - 1981年〈昭和56年〉4月9日)は、日本の実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。 元帝国ホテル社長犬丸一郎の父。 石川県能美郡根上村字福島(現能美市)に生まれた。父・犬丸六右衛門、母・いその長男。 小松の芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・小松高校)を経て東京高商(現・一橋大学)に入学。 1908年文部省が専門部廃止の方針を明らかにしたため、全学生がこれに猛反対し商科大学昇進を叫んで同盟休校敢行にまで発展した事件が起きた。犬丸は級友に選出され、ストライキ指導者の一人として校長に直接談判したり、文部省へ押しかけ大臣に面会を要請してひかなかった。
赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 197… 赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 1974年2月26日)は、日本の教育者。 石川県金沢市出身。広島高等師範学校(現・広島大学)卒。旧姓は山本。ヘレン・パーカーストによるドルトン・プランを紹介。1924年に明星学園、1946年金沢女子専門学園(現・学校法人金沢学院大学)を創立した。 1974年2月26日、消化管出血のため東京都武蔵野市の森本病院にて死去。86歳。 1887年(明治20年)、石川県石川郡野村字法島(現在の金沢市)で三男として生まれる。 1893年(明治26年)、野南尋常小学校に入学。1897年(明治30年)、同校卒。同時に石川県尋常師範学校付属小学校高等科に入学。
伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 19… 伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 1954年4月17日)は、日本の実業家、登山家、映画監督もしくはドキュメンタリー映像作家。 人生の前半は、豊富な私財を背景に多彩な趣味を昇華させた一方、実績は素封家の道楽として見做されることが多く、生前に業績に見合った評価を受けることは少なかった。 長野県大町市に拠点を構えていた百瀬慎太郎(歌人、大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋(燕山荘経営者)らと親交を深め、1923年(大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画を撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイルが主流であった当時、複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備の段階で3軒の山小屋を多額の費用で建設し、多くの有名案内人を雇用して登山隊を編成していたことなど当時の登山の常識を覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地は多分にあった。
林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は… 林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は、日本の第33代内閣総理大臣である林銑十郎の妻(内閣総理大臣夫人)。石川県金沢市出身。 1887年(明治20年)、加賀藩士である林孝儀の三女として生まれる。金沢第一高等女学校(現在の石川県立金沢二水高等学校)を卒業後、林銑十郎と結婚。四男四女を儲ける。 長男の練策は陸軍の山浦弘三の娘・道子と結婚し、次男の謙輔は初治の実家を継ぎ、三男の砺三は陸軍の小泉恭次の娘・展子と結婚。長女の純子は中田薬品の中田清兵衛の子・勇吉と、次女の倫子は加藤豪と、四女の禌子は官僚である斎藤樹の子の吉彦とそれぞれ結婚している。
平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日… 平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。平野大豆工業元社長。大日本紡績(現:ユニチカ)元取締役。日本製粉(現:ニップン)元取締役。 石川県金沢市出身。大聖寺藩士であった上杉寛二の四男(または三男)として生まれる。兄は憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学英法科を優等の成績で卒業し、同年高等文官試験に合格。神奈川県に奉職し、理事官を務める。1910年(明治43年)辞職。 その頃、たまたま縁戚にあたるユアサコーポレーション創業者の湯浅七左衛門(早川千吉郎の弟)の紹介で、摂津紡績(現:ユニチカ)取締役を務めた平野平兵衛(金沢仁作の弟)の長女・いちと結婚。
林屋 亀次郎(はやしや かめじろう、1886年〈明治19年〉… 林屋 亀次郎(はやしや かめじろう、1886年〈明治19年〉6月1日 - 1980年〈昭和55年〉5月4日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(3期)。 現在の石川県金沢市出身。製茶業を営む父新兵衛の8男として生まれる。金沢商業学校卒業。 1930年(昭和5年)金沢市内に当時としては数少ない鉄筋コンクリートの商業ビルを建設、テナントとして三越金沢店を入居させる。1935年(昭和10年)三越との契約切れを待って同年9月に丸越百貨店を開業するが、1943年(昭和18年)12月21日に戦時統合により宮市大丸百貨店と合併し大和百貨店となり会長に就任。このとき社長に就任したのが後に第3回参議院議員通常選挙では現職閣僚ながら落選した際の相手候補となった井村徳二であった。
阿部 ミツ(あべ ミツ、1886年〈明治19年〉5月12日 … 阿部 ミツ(あべ ミツ、1886年〈明治19年〉5月12日 - 没年不詳)は、日本の第36代内閣総理大臣である阿部信行の妻(内閣総理大臣夫人)。石川県金沢市出身。 1886年(明治19年)、陸軍主計中佐の原知信の長女として生まれる。 その後、金沢で父・知信の後輩にあたる阿部信行と結婚。2男4女を儲ける。長男の信男は軍人ではなく住友金属のエンジニアとなり、次男の信弘は陸軍士官学校から陸軍人となった。また4人の娘は良家へ嫁がせている。 1945年8月15日、敗戦を朝鮮の京城で迎えたが、翌日には朝鮮総督府釜山地方交通局長に命じ、逸早く民間人に先んじて、釜山港から日本へ脱出を図った。しかし悪天候と多くの荷物の過積載によって老朽船が釜山付近の木島で沈没しかけたため、やむを得ず汽車で釜山駅から京城駅に戻った。
大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月2… 大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月20日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の政治家、興行師。衆議院議員(6期)、石川県議会議員。 石川県鹿島郡七尾町(現在の七尾市)生まれ。西湊村尋常小学校卒業。 当初は大相撲に入り、雷部屋に入門したが、間もなく廃業。その後は帰郷し、草相撲で活動。四股名は最初は「玉椿」と名乗り、その後「唐戸山」と改め、大関まで上がった。のちに興行師として活躍。1930年(昭和5年)、浅草公園六区で安来節を上演していた御園座を改築し、玉木座を開業。チェロ奏者だった佐々木千里を支配人として経営を任せる一方、劇団プペ・ダンサントを発足させて榎本健一などが活躍した。
八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年… 八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年〈明治19年〉2月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日本の水利技術者。 1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義・台南・高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。
飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - … 飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物と希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学のフレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、日本では未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている。太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストン、メタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている。
西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10… 西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10月6日 - 1943年〈昭和18年〉3月14日)は、口語歌人。本名:西出一(つかさ)。 大聖寺耳聞山(現・石川県加賀市)出身。父の孫一は橋立(現加賀市)で代々北前船業を営む西出家の9代西出孫左衛門の長男であったが、家督相続を許されず、大聖寺に分家した。 朝風は石川県立金沢第一中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)から慶應義塾(普通部)に進学し、後に中退した。 明治30年代から口語歌を発表。1910年(明治43年)には同じ詩人の西出うつ木と結婚し、1914年(大正3年)「新短歌と新俳句」を創刊。1915年(大正4年)、金沢の北国新聞社に入社し、紙上で、若い歌人に口語短歌への影響を与えた。
清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、18… 清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、1885年〈明治18年〉7月12日 - 1983年〈昭和58年〉9月11日)は日本の実業家、技術者。日本テレビ放送網第2代代表取締役社長。現在の富山県高岡市福岡町出身。岳父に高嶺秀夫、義弟に土田誠一。 金沢第一中学校、第四高等学校二部工科を卒業。1908年(明治41年)、東京帝国大学電気工学科卒業。逓信省に入省し技師を務めた後、1919年(大正8年)に東京芝浦電気(現在の東芝)に入社。1931年(昭和6年)に同社の副社長に就任する。1934年(昭和9年)、読売ジャイアンツの設立に参加する。また、東京電気無線(現在の東芝テリー)の社長も務めた。
米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)… 米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1976年(昭和51年)10月26日)は、日本で最初の無線通信士。関東大震災の際、被害状況を速やかに無線通信により海外に発信し、国際的な救援活動が行われるきっかけを作った。 石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。
河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月3… 河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月31日 - 1946年〈昭和21年〉1月12日)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)出身のアマチュア野球選手(投手)。日本初のプロ野球チーム創設者。 父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田穂洲(忠順)の妹。 1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校在学中は野球に熱中しすぎたためか中退した。転校した明治学院には4年に編入し、わずか半年ほど在籍しただけだが、この時期に安部磯雄と出会い、彼のキリスト教精神に共鳴した。東京高等商業学校を目指していたが、1903年(明治36年)に早稲田大学商科入学。早大入学後、創設して3年目の野球部に入部し、ここでまたも野球部部長の安部に偶々出会う。
清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6… 清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6日 - 1971年(昭和46年)8月31日)は、日本の小児科医師。1910年(明治43年)東京帝国大学医科大学を卒業し、1920年(大正9年)、医学博士となった。1952年(昭和27年)には東京医科大学学長となる。1966年(昭和41年)に勲三等旭日中綬章を受章した。 石川県金沢市出身。旧加賀前田藩家老村井家典医家に生まれる。明治44年、母校の小児科学教室に入る。小児の栄養に関する研究が学会で注目された。大正4年、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となる。後の東京医科大学ならびに東京医学専門学校の前身である東京医学講習所開設以来、小児科学を講義、東京医学専門学校の創立に貢献した。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 … 松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 - 1991年4月3日)は男性長寿日本一であった石川県の男性。 寺子屋で学んだ後、家業の農業に従事。長男ら家族8人で暮らし、子7人、孫16人、ひ孫29人、やしゃご4人がいた。妻は1949年に亡くなった。耳が少し遠く、足腰は弱っていたが、103歳頃までは自宅から500メートル離れた畑にまで出かけ、毎日農作業に精を出していた。106歳頃から横になっていることが多くなった。 1990年3月6日、藤原喜一が109歳で亡くなったことにより、松山が108歳で長寿日本一の男性となる。 男性長寿日本一となった際「おかげさまで。みんなにかわいがられて」と何度もお礼を述べた。
角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915… 角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。1915年3月1日極秘任務遂行中に千葉県沖で汽艇の沈没事故により死亡。 石川県出身。1881年9月金沢市 金石味噌屋町の医師角田元伯の長男として生まれる。石川県尋常中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を188人中13番の成績で卒業。翌年9月、海軍少尉任官を待って金田ケン子と結婚。妻は(一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストと言われる)時事新報社の令嬢美人コンクールで全国2位の経歴を持つ。 日露戦争では軍艦「鎮遠」乗組み殊勲を挙げ、1905年には中尉となる。
武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月2… 武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日 - 1955年(昭和30年)8月2日)は、日本の文部官僚。教育者。 金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた。 その後、日本青年館理事、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事、東京帝国大学講師、慶應義塾大学講師を務めた。
畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4… 畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4月20日 - 1971年(昭和46年)11月17日)は、日本の実業家・機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者。石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した。 1881年(明治14年)、金沢で能登の守護大名・能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。 畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉… 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)。 石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。 新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年… 村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年)2月28日 - 1945年(昭和20年)11月9日)は、大正・昭和期の農林技官、華族(男爵)。加賀八家村井家第12代当主。 加賀藩重臣村井長在の嫡男村井又六の子として金沢に生まれる。1900年、父の隠居により家督を継ぎ、同年5月9日に祖父長在の明治維新における功績により男爵に叙爵された。 金沢第一中学校、盛岡高等農林学校を卒業。1909年、農商務省に入り福島・長野・水戸各営林署長等を歴任した。1935年、退官し前田侯爵家嘱託に就いた。
杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943… 杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943年2月21日)は、20世紀前半に活動した日本の作曲家。名前は「しゅう」と音読みされることが多い。石川県金沢市出身。 1881年(明治14年)、金沢市の名家に生まれる。尋常小学校を卒業後に大阪へ移り、大阪府第一中学校(現在の大阪府立北野高等学校)13期卒業の後、東京音楽学校へ入学し甲種師範科で同じ旧制中学の先輩に当たる多梅稚に師事する。 1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業し、富山県師範学校の教諭となる。1907年(明治40年)に『越中唱歌』を作曲、清明堂から刊行した。1922年(大正11年)に大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)音楽教諭となり、1928年(昭和3年)に「祝日大祭日唱歌」として作詞・作曲が公募された「明治節」の作曲部門で入選する。
大ノ川 甚太郎(おおのかわ じんたろう、1880年10月25… 大ノ川 甚太郎(おおのかわ じんたろう、1880年10月25日 - 1917年1月20日)は、石川県河北郡(現:金沢市)出身の大相撲力士。本名は木越 甚太郎(きごし じんたろう)。 1880年10月25日に石川県で生まれる。 1901年5月に君ヶ濱部屋から初土俵を踏む。1905年5月場所で新十両昇進を果たし、2年後には新入幕を果たした。1912年1月場所、梅ヶ谷と引き分ける大健闘を果たし、好成績を収めて1912年5月場所では小結へ昇進し、上位陣との対戦で力を発揮していく。腕力が強く、両肩が力瘤で隆起していたことから「コブさん」の異名で親しまれた。1916年に師匠・君ヶ濱(志子ヶ嶽市五郎)が死去したことで、出羽海部屋へ転籍する。
逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 … 逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 1880年(明治13年)、石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、父 平塚鎌吉、母 きしのの五男として生まれた。後に、逢坂家の養子となる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に西田幾多郎の感化を受けて、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。上京後の1904年(明治37年)、植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年(明治41年)に渡米。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 19… 三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 1921年2月2日)は、日本の昆虫学者、理学博士。
泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治… 泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治13年)1月31日 - 1933年(昭和8年)3月30日)は、日本の小説家。泉鏡花の弟。作家の泉名月は実子。 石川県金沢市出身。下町小説、狭斜小説を多く発表し、代表作に『木遣くづし』(「新小説」明三五・二)『松葉家の娘』(大三・六 鳳鳴社)『離縁状』(「新小説」明三六・一一)『深川染』前、後編(明四〇・五 春陽堂)がある。墓所は雑司ヶ谷霊園にあったが2024年新宿区圓福寺に移転された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 -… 淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 - 1937年1月13日)は、日本の実業家、運搬業者、請負業者。昭和期の地下鉄御堂筋線建設などに従事した。 1880年1月16日、石川県江沼郡我谷村(のち西谷村、現加賀市)の淺山金四郎の三男として生まれる。三男であったため、本家の家督は継がず(長男千太郎が家督を継ぐ)他の兄弟とともに大阪へ出て運送業を始める。『人事興信録』には1923年(大正12年)に三男金五郎が分家したと記載されている。これ以後の淺山家兄弟の動向に関しては、二男仁太郎は西野田今開町を拠点に土佐堀で回漕業(運搬船業)を起業し、五男定吉とともに海上運送業務に携わっていたが、東区北久宝寺の合資会社山口運送店設立の際に四百圓出資している。