鈴木 敏通(すずき としみち、1923年〈大正12年〉7月5… 鈴木 敏通(すずき としみち、1923年〈大正12年〉7月5日 - 2008年〈平成20年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士57期。第16代陸上幕僚長。 中学2年から仙台陸軍幼年学校に入校し陸軍士官学校へ進む。旧軍では歩兵。満州勤務の後、終戦直前は高知で陣地作りに従事した。復員し福井に帰郷後は旧制福井工専で電気を学び、エンジニアとして川崎の自動車会社に就職したが、1951年(昭和26年)12月に旧軍人組採用と同時に警察予備隊に1等警察士で入隊。以後、職種は通信科へ進むが、北部方面通信群長の他は、防衛や人事畑が主だった。 第13師団長、中部方面総監等を歴任し、第16代陸上幕僚長に就任。
緩詰 修二(ゆるづめ しゅうじ、1920年 – 没年不明)は… 緩詰 修二(ゆるづめ しゅうじ、1920年 – 没年不明)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。実業家。日本繊維新聞代表取締役社長を務めた。 福井県遠敷郡口名田村(現・小浜市)に生まれる。明治大学専門部を経て、1941年3月、歩兵第119連隊に入営して兵科甲種幹部候補生に採用され、豊橋予備士官学校を経て見習士官となる。1942年12月に陸軍歩兵少尉に任官した。[要出典] 1943年12月に歩兵第119連隊の第3歩兵砲小隊長に任命される。1944年1月にシンガポールに上陸した後、2月にマレーへ移駐。同月28日、事故の責任を取って自殺した前任者に代わり機動砲小隊長に任じられた。[要出典]5月にビルマに入る。
安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年… 安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年)6月5日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争で潜水艦輸送を23回成功させた伊38潜水艦長である。最終階級は海軍少将。 安久は福井県出身の海兵50期生である。海軍兵学校時代の校長は鈴木貫太郎、千坂智次郎で、安久は272名中95番で卒業した。練習艦隊は谷口尚真司令官に率いられ、片桐英吉、岸本鹿子治、田中頼三らの幹部に指導を受けた。術科学校で初級士官教育を受け、中尉進級後に呂59(駒沢克己艦長)に乗組んだのが潜水艦歴のはじまりである。水雷学校高等科、潜水学校乙種を履修し、安久は潜水艦専攻士官となる。 潜水学校乙種は潜水艦水雷長を養成する課程である。
松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10… 松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月2… 寺田 雅雄(てらだ まさお、1895年(明治28年)11月23日 - 1988年(昭和63年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小浜中学校(現福井県立若狭高等学校)卒業を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1921年(大正10年)4月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を首席で卒業し歩兵第36連隊中隊長に就任した。 陸軍省軍務局付勤務、同局課員、イギリス駐在、参謀本部員などを務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵中佐に昇進。1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀に発令され日中戦争に出征。
長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日… 長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日 - 1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。 最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。 東京府立第四中学校を経て、1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。卒業席次は89名中5位(首席は皇族の名誉席次であり、実質上の4位)で、優等生として恩賜品を下賜されている。1918年(大正7年)8月1日、海軍少尉に任官。
伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月3… 伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月30日 - 1985年(昭和60年)10月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に福井県福井市にて伊藤恒右エ門の四男として生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)5月30日に高射砲第16連隊長に就任し、7月15日に陸軍砲兵大佐に進級した。1940年(昭和15年)8月に陸軍防空学校幹事に転じ、1941年(昭和16年)7月に第2高射砲隊長に着任。 1942年(昭和17年)8月1日に陸軍少将に進級し、11月9日に中部防空旅団長(中部軍)に着任。1944年(昭和19年)4月27日に砲兵監部附となり、8月22日に千葉陸軍高射学校長を経て、1945年(昭和20年)4月1日に西部高射砲集団長に着任。
清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月1… 清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月10日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。小学校教員・清水武兵衛の三男として生れる。武生中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍兵器本廠付兼軍務局課員などを経て、1923年(大正12年)9月、リガ(ロシア)駐在となり、次いでドイツに駐在。
渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - … 渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - 1973年4月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の海軍艦政本部長を勤める。杉政人、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。 福井県出身。渋谷徳蔵の長男として生まれる。1910年4月、海軍機関学校(18期)を卒業。同年12月、海軍機関少尉任官。1916年12月、海軍大学校機関学生となり、1918年12月、戦艦「比叡」分隊長に着任。1919年12月から海軍大学校選科学生として学び、翌年12月、海軍艦政本部部員(第5部)となる。 1925年8月、横須賀海軍工廠造機部員となり、造兵監督官(米国出張)、舞鶴要港部部員などを経て、1930年12月、機関大佐に昇進し海軍艦政本部第4部部員となった。
儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日… 儀峨 徹二(ぎが てつじ、1885年(明治18年)4月29日 - 1965年(昭和40年)1月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。儀峨秀霊の二男として生まれる。小浜中学卒業を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。歩兵第67連隊付などを経て、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。 1915年(大正4年)8月、参謀本部付勤務となり、1917年(大正6年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校専修科(英語)を修了。その後、参謀本部付、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、陸軍航空部員を歴任。
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966… 井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。1902年(明治35年)東京府立尋常中学校卒業。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに「浅間」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。1909年(明治42年)10月、「磐手」分隊長となり、「千代田」水雷長、「千歳」・舞鶴海兵団の各分隊長などを歴任。海軍大学校乙種学生となり、さらに海軍砲術学校高等科で学び、1911年(明治44年)12月、第15艇隊艇長に就任。
津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日… 津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日 - 1964年〈昭和39年〉9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。 旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 191… 佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された。滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)出身。 1879年9月13日に滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)で、前川神社神官で小学校教諭だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校、攻玉社を経て、海軍省入省(海軍兵学校29期入校)。 1901年12月、海軍兵学校卒業。同期に米内光政大将(のちに内閣総理大臣)、高橋三吉大将(連合艦隊司令長官)、藤田尚徳大将(のちに明治神宮宮司を経て昭和天皇侍従長)など。
松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年… 松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年8月16日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士6期。最終階級は陸軍歩兵大佐。位階および勲等は従四位・勲三等。 福井藩の槍術師範であった松尾新太郎の長男として福井県福井市(現)に生まれた。福井市旭小学校(現)を経て、福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)2月に陸軍士官学校(第6期)を卒業。同年5月に陸軍歩兵少尉に任官し金沢の歩兵第7連隊附となった。 1897年(明治30年)9月に台湾守備歩兵第3連隊付、さらに歩兵第35連隊付を経て、1900年(明治33年)3月から7月まで陸軍戸山学校で学んだ。
加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年1… 加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。
河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年… 河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年8月1日) - 1936年(昭和11年)6月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領、越前国丹生郡国見村(現・福井県福井市国見町)出身。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 任官後、日清戦争・日露戦争に従軍。さらに、1914年(大正3年)8月に盛岡連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第35連隊長(第9師団 歩兵第31旅団)に任官しシベリア出兵に出征した。 その後、1921年(大正10年)7月に陸軍少将・歩兵第36旅団長を経て、1924年(大正13年)2月4日に待命、同月26日に予備役に編入した。
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年… 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。 総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。
渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日… 渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日(安政7年1月1日) - 1940年(昭和15年)3月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領南条郡府中町(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)出身。渡辺等の三男、渡辺洪基の弟としてのちの福井県に生まれる。1874年(明治7年)陸軍幼年学校に入ったのち、1877年(明治10年)陸軍士官学校に入学し(旧3期)、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する。日清戦争では大総督府兵站総監部附として従軍した。 1901年(明治34年)5月、駐米公使館附を経て、同年11月、大佐に進み、陸軍砲工学校教官に転じるが、日露戦争の勃発を受け1904年(明治37年)2月、大本営幕僚部勤務を拝命する。
大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2… 大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2年12月28日〉- 1923年〈大正12年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。 教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。 小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。1875年(明治8年)12月から陸軍士官学校に入校し、同11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第2期の同期には第4師団長大迫尚道大将、朝鮮駐剳軍司令官井口省吾大将や、第11師団長の伊地知幸介中将、第13師団長の長岡外史中将がいる。
福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22… 福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22日(1839年8月20日) - 明治29年(1896年)12月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称は弥太六。越前国敦賀藩出身。 天保10年(1839年)、越前国敦賀藩士・福島忠右衛門の第十一子として生まれる。 戊辰戦争では新政府軍の摂津艦に乗り組み、越後および箱館方面の戦いに転戦して軍功を挙げた。明治元年(1868年)1月には藩船「富有丸」により石炭を積載して敦賀へ回航し、同年10月に軍務局の命を受けて摂津艦に乗船、翌2年正月の函館戦争に参加した。同年8月には大阪丸艦長、11月には蝦夷地の流賊追討に従事し戦功を立てた。 明治維新後は海軍大尉となり、明治4年(1871年)11月20日に海軍少佐心得を命じられる。
武内 徹(たけうち とおる、慶応3年5月4日(1867年6月… 武内 徹(たけうち とおる、慶応3年5月4日(1867年6月6日) - 昭和4年(1929年)11月25日) は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。福井市長。 越前国足羽郡木田村(現在の福井県福井市)出身。陸軍士官学校を卒業後、1887年(明治20年)に工兵少尉に任官し、日清戦争には工兵大尉として出征した。1896年(明治29年)、陸軍大学校を卒業し、参謀本部に勤務するとともに陸軍大学校教官を兼務した。1899年(明治32年)に工兵少佐に昇進し、翌年には軍事研究のためオーストリア=ハンガリー帝国に派遣された。帰国後は参謀本部員となり、工兵中佐に昇進した。 1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争では線区司令官、大本営幕僚、野戦鉄道提理を歴任し、遼東半島で敵が破壊した線路の補修や物資輸送など鉄道の運営を行い、工兵大佐に昇進。