もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月2… もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月29日)は、日本の女性史研究家。本名は兩澤葉子。一般財団法人「志縁の苑」代表理事。 1925年、長野県北佐久郡本牧村(現・佐久市)生まれ。 生家が没落し、女中奉公をしながら小学校を卒業。旧制専門学校入学者検定合格。戦中、疎開してきた陸軍士官学校・生徒隊本部に勤める。戦後、北信毎日新聞の記者(1946年)、鐘淵紡績丸子工場にあった鐘紡丸子高等文化学院の教員(1947年)を経て、1949年に上京した。 1946年には、初めて選挙で一票を投じた。 1951年、日本婦人有権者同盟(会長:市川房枝)の本部事務局に入り、機関紙『婦人有権者』を編集。また、財団法人婦選会館が発行する『月刊婦人展望』の編集者をつとめた。
成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月… 成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月29日 - 2021年(令和3年)2月13日)は、日本の脚本家、映画監督。 長野県上田市原町出身。上田市長をつとめた成沢伍一郎の二男。旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、1941年に松竹京都に入社、溝口健二に師事する。1944年、日本大学芸術学部卒業。 学徒出陣し捕虜生活を経て1945年に復員。1946年、松竹を退社。1952年に溝口にならって大映と契約、溝口の『噂の女』『新・平家物語』『赤線地帯』など、次々と巨匠と組んで名脚本を書き続けた。1962年、『裸体』で監督に転身、5作品を残す。1970年以降は映画から離れ、1975年から1977年にかけてNHK連続人形劇『真田十勇士』(柴田錬三郎原作)を担当。
金井 格(かない ただし、1925年1月28日 - 没年不詳… 金井 格(かない ただし、1925年1月28日 - 没年不詳)は東京農業大学名誉教授。専門は造園学の工学分野。 長野県長野市出身。生まれは外地で母方の祖父は片倉製紙の重役。本籍長野の他は埼玉で長く暮らす。 1945年9月 東京農業大学専門部緑地土木科を卒業し、1946年9月から1954年まで東京農業大学専門部緑地科助手、1954年からは埼玉県行田市役所技術嘱託土木課公園掛、1956年から1962年3月までは行田市役所技術吏員で、その間の1957年から1961年まで東京農業大学造園学科造園工学専攻で年度講師として測量などを担当し、1962年4月から東京農業大学造園学科講師、1965年に同大学助教授、1978年から同大学教授就任、1995年に退職し名誉教授。
北沢 正啓(きたざわ まさひろ、1925年(大正14年)1月… 北沢 正啓(きたざわ まさひろ、1925年(大正14年)1月1日 - 2007年(平成19年)9月21日)は、日本の法学者。専門は会社法。学位は法学博士(東京大学)。名古屋大学名誉教授、中京大学名誉教授。中京大学元学長。叙正四位・授勲勲二等瑞宝章。弁護士。鈴木竹雄門下。弟子に浜田道代など。 著書などでは、略字も使われているが、「北澤正啓」が正しい[要出典]。 鈴木竹雄門下で、平出慶道によれば鈴木の最初の弟子にあたる(ジュリストの『座談会 鈴木竹雄先生の人間と学問』(有斐閣、1996)による)。 戦後まもなく商法に導入された株主代表訴訟制度につき、いち早くアメリカの制度を紹介する論文「アメリカ会社法における株主代表訴訟」を発表し、日本の株主代表訴訟制度研究における先駆的な論文と位置づけられている。
宮坂 博文(みやさか ひろふみ、1925年 - 2013年)… 宮坂 博文(みやさか ひろふみ、1925年 - 2013年)は、日本のテキスタイルデザイナー。 1981年 信州紬伝統工芸士認定。 ふるさと産業だより『岡谷絹工房-専門家育成と岡谷の織を再発見-』 講演会記録"信州の紬作家展"1999.10.23『紬の魅力と岡谷の絹織物の歴史』講師:宮坂博文氏 『絁に夢を託して-ふるさと岡谷に絹の痕跡を残す-』 『染め織り人の視点19 紬織博士 宮坂博文さんの直言』著:富山弘基
浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10… 浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10日)は、現在の長野県茅野市出身の教育者、植物研究家、公立高等学校教諭である。日本産スミレの研究者として知られる。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1947年、東京高等師範学校理科第三部卒業。東京第二師範学校男子部教官、長野県永明高等学校教諭、東京都立小松川高等学校教諭、長野県諏訪二葉高等学校教諭、長野県阿南高等学校教頭、長野県岡谷東高等学校教頭、長野県屋代南高等学校校長、長野県富士見高等学校校長、長野県長野西高等学校校長などを歴任し、1985年退任。長野県諏訪二葉高等学校教諭は1955年から1966年まで務めるが、その間スケート部の監督としてインターハイで女子総合優勝を導く。
小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2… 小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2005年11月3日)は日本の物理学者。東京大学名誉教授。宇宙科学研究所名誉教授。理学博士(1970年、東京大学)。専門は流体力学、気体力学。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、昭和21年(1946年)東京帝国大学物理工学科卒業。同理工学部研究所助手、同30年(1955年)助教授、同37年(1962年)教授に就任。また昭和35年(1960年)ブラウン大学客員准教授、同36年(1961年)コーネル大学客員研究員、同56年(1981年)宇宙科学研究所宇宙輸送研究系教授を務めた。
篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月2… 篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月26日 - 2010年(平成22年)1月26日)は、日本の陶芸家。長野県下伊那郡川路村(現在の飯田市大字川路)出身。 家は祖父の代より篆刻家で、表札や旅館の看板、寺社の扁額などを手掛けていた。生地は川路村だったが、父の篠田弼は松本市浅間温泉に移って土産物の陶芸を営み、篠田もその下で育つ。これにより旧制中学校在学中に陶芸家を志望した。 開智尋常小学校、1942年(昭和17年)に松本第二中学を卒業後、京都の陶芸家伊東陶山の門を叩くが断られ、代わりに紹介された近藤悠三に師事した。1944年(昭和19年)、福知山の陸軍に召集され、幹部候補生試験を経て沖縄派遣を控える中で軍曹で終戦を迎えた。
小平 祐(こだいら たすく、1924年12月19日 - 20… 小平 祐(こだいら たすく、1924年12月19日 - 2017年11月26日)は、日本の実業家。旭電化工業(現・ADEKA)常務取締役、日本農薬代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京大学経済学部卒業。旭電化工業(現・ADEKA)常務取締役を経て、1983年日本農薬代表取締役社長。同社代表取締役会長。農薬工業会会長を務めた。
高木 久雄(たかぎ ひさお、1924年10月14日 - 20… 高木 久雄(たかぎ ひさお、1924年10月14日 - 2014年8月31日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都大学名誉教授、京都外国語大学元学長。近代ドイツ文学専攻。 長野県岡谷市生まれ。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、一高を経て、1951年京都大学文学部卒、西京大学助教授、京都大学教養部助教授、1971年教授、1988年定年退官、名誉教授、京都外国語大学教授、1992年から1998年まで同大学及び短期大学学長、2000年に定年退職、名誉教授。 2014年8月31日、肺炎により京都市内の病院で死去。
関 恒義(せき つねよし、1924年(大正13年)9月27日… 関 恒義(せき つねよし、1924年(大正13年)9月27日 - 2013年(平成25年)10月23日)は、日本のマルクス経済学者。一橋大学名誉教授。日教組大学部執行委員長、行財政総合研究所副理事長、日本科学者会議『日本の科学者』編集委員長等を歴任した。 1924年、長野県長野市生まれ。長野師範学校附属小学校(現信州大学教育学部附属長野小学校)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、東京府立第十中学校(現東京都立西高等学校)を経て、1942年に旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学。同期の川勝堅二(元三和銀行頭取)や本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)とともに小平市の一橋寮に入寮したが、ストームで小便を飲まされ退寮する。
岩崎 宏(いわさき ひろし、1924年9月24日 - 201… 岩崎 宏(いわさき ひろし、1924年9月24日 - 2018年6月4日)は、日本の実業家。東洋ラジエーター(現・ティラド)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡辰野町出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京大学法学部卒業。第一勧業銀行(現・みずほ銀行)取締役を経て、東洋ラジエーター(現・ティラド)代表取締役社長。2018年6月4日、老衰のため死去。
道田 信一郎(みちだ しんいちろう、1924年8月7日 - … 道田 信一郎(みちだ しんいちろう、1924年8月7日 - 1988年6月10日)は、日本の法学者。専門は、英米法(特にアメリカ商取引法)、国際取引法。 長野県長野市出身。1945年8月陸軍士官学校第59期在学中に終戦。1949年京都大学法学部卒。 1953年京都大学法学部助教授、1962年「対米貿易売買法」で法学博士の学位を取得、教授に昇任。1980-1982年法学部長。1988年定年退官、名誉教授、姫路獨協大学法学部教授に就任。この間ミシガン大学、ハーバード大学などのロースクールで客員教授として国際取引法などを講義。1968年より国際連合国際商取引法委員会(UNCITRAL)の日本代表として「国際物品売買契約に関する国際連合条約」(CISG)の起草に尽力し、この条約を採択した1980年のウィーン外交会議では実質規定ラポルトゥールを務めた。
若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不… 若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不明)は、長野県北佐久郡岩村田町(現・同県佐久市)大字長土呂出身で西岩部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は東城 武(とうじょう たけし)。現役時代は、最高位は西前頭18枚目(1951年1月場所)。現役当時の体格は180cm、84kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げ。 16歳の時に上京し、若松部屋(後、西岩部屋に改称)へ入門。1941年1月場所で初土俵(前相撲)翌5月場所で新序・翌1942年1月場所で序ノ口に昇進した。 生まれついての近視であり、それ故に相手から離れての取り口が困難であった。長身の割に細身で、右四つからの吊りや投げを得意とした。
竹内 清(たけうち きよし、1924年4月1日 - 2000… 竹内 清(たけうち きよし、1924年4月1日 - 2000年5月22日)は、日本の統計学者。専門は統計学、理論経済学、行政計画など。東北大学名誉教授。元日本統計学会会長。 長野県埴科郡坂城町出身。旧制長野県立上田中学校(現長野県上田高等学校)を経て、1952年東京商科大学(現一橋大学)卒業、同年一橋大学大学院特別研究生。山田雄三ゼミ出身。1955年小樽商科大学専任講師。1959年同助教授。1964年文部省在外研究員及びテキサスA&M大学リサーチ・アシスタント。1986年小樽商科大学教授。1971年東北大学経済学部教授。1973年東北大学評議員。1977年ポーランド科学アカデミー客員教授。1980年東北大学経済学部長・大学院経済学研究科長。
河西 計介(かさい けいすけ、1924年3月19日 - )は… 河西 計介(かさい けいすけ、1924年3月19日 - )は、日本の実業家。阪神百貨店(現:エイチ・ツー・オー リテイリング)代表取締役社長・代表取締役会長を務めた。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1947年に京都大学法学部卒業し、同年に阪神電気鉄道入社。1983年阪神百貨店(現:エイチ・ツー・オー リテイリング)代表取締役社長。1989年阪神電気鉄道非常勤取締役を兼務。1995年阪神百貨店代表取締役会長。名誉顧問。大阪商工会議所名誉議員を務めた。
溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野… 溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(外野手)。
近藤 正三(こんどう しょうぞう、1924年2月24日 - … 近藤 正三(こんどう しょうぞう、1924年2月24日 - 没年不詳)は、日本の法学者。島根大学名誉教授、岡山商科大学名誉教授。 長野県東筑摩郡塩尻町(現塩尻市)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校を経て、1947年(昭和22年)京都大学法学部卒業。専門は労働法。 島根大学法文学部助教授、教授を務めた後、1987年(昭和62年)定年退官。島根大学名誉教授、岡山商科大学名誉教授。島根県労働委員会会長を務めた。
浦野 りせ子(うらの りせこ、1924年〈大正13年〉2月1… 浦野 りせ子(うらの りせこ、1924年〈大正13年〉2月19日 - 2025年〈令和7年〉)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。元武蔵野音楽大学教授。 長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)出身。長野県須坂高等女学校(現: 長野県須坂東高等学校)卒業。しばらく音楽講師として教壇に立ったが、27歳の時、恩師の勧めで東京藝術大学声楽科に入学した。1956年(昭和31年)卒業。岡部多喜子に師事。平井康三郎、信時潔、松本民之助にも指導を受けた。1961年(昭和36年) - 1965年(昭和40年)ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院に留学。ジョルジョ・ファヴァレット、イルデブランド・ピツェッティ、ジャン・フランチェスコ・マリピエロ、ダンジェロ、A・レオーネ、V・マリーニに師事。
吉田 亮(よしだ りょう、1924年1月25日 - 2004… 吉田 亮(よしだ りょう、1924年1月25日 - 2004年7月27日)は日本の医学者。専門は公衆衛生学。第9代千葉大学学長。
倉嶋 厚(くらしま あつし、1924年1月25日 - 201… 倉嶋 厚(くらしま あつし、1924年1月25日 - 2017年8月3日)は、日本の気象エッセイスト、気象学者。理学博士(東京教育大学(現・筑波大学))。かつてテレビで気象キャスターとして活躍した。 長野県長野市生まれ。父は仏教関係の新聞を出版していた倉島元弥。兄は長野市長を務めた倉島至。 旧制・長野縣長野中學校(現・長野県長野高等学校)を経て、中央気象台付属気象技術官養成所研究科(現・気象大学校)を卒業後、1949年に気象庁入庁。気象庁主任予報官、札幌管区気象台予報課長、鹿児島地方気象台長を歴任。 1984年気象庁を定年退職。業務で付き合いがあったNHKに招聘され外部解説委員となり、『ニュースセンター9時』『にっぽん列島ただいま6時』『NHKおはようサンデー』『NHKモーニングワイドサンデー』で気象情報、気象キャスターを担当。
木村 筆之助(きむら ふでのすけ、1924年(大正13年)1… 木村 筆之助(きむら ふでのすけ、1924年(大正13年)1月17日 - 1984年(昭和59年)4月26日)は大相撲の元幕内格行司。伊勢ノ海部屋所属。師匠は初代木村今朝三。長野県伊那市出身。本名は田畑 啓。生家は伊那市の映画館「伊那旭座」。 1936年1月、12歳で相撲界へ入門。兵役で一時相撲界を離れたが、1946年11月場所から三段目格で復帰した。 1958年7月場所に幕内格行司に昇格。1967年7月場所より2代木村今朝三を襲名したが、1970年9月場所より今朝三の名跡を返上し筆之助に戻した。今朝三の名跡はこれ以降襲名する者が現れていない。 1966年11月場所より幕内格の筆頭行司であったが、上位の行司が急に廃業したり、病気休場したこともあり、行司の成績考課制度が導入された1972年~1973年頃の一時期は三役の取組を裁いたことがある。
佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、… 佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 長野中から1942年に大洋軍へ入団し、同年退団。戦後は国民野球連盟の大塚アスレチックスでプレーした。
望月 公子(もちづき こうし、1924年 - )は、日本の獣… 望月 公子(もちづき こうし、1924年 - )は、日本の獣医学者。東京大学名誉教授。元東京大学農学部長。 長野県松本市生まれ。長野県松本県ヶ丘高等学校を経て、東京大学農学部卒業。 東京大学農学部助教授、東京大学農学部教授を経て東京大学農学部学部長。退官後は日本大学農獣医学部教授を務める。 1980年(昭和55年)に「国公立大学における獣医学教育の改善を図ること」を目的に国公立大学獣医学協議会が設立されると、望月は第8回1983年(昭和58年)から第16回1985年(昭和60年)の協議会会長を務た。この間主として「新学部教育制度に対応した大学院制度」、「獣医学教育の改善に向け、国立大学の再編整備を行なう」ことなどについての討議が行われた。
齋藤雪彦『むらづくり入門』世界思想社、2022年。 青木 志… 齋藤雪彦『むらづくり入門』世界思想社、2022年。 青木 志郎(あおき しろう、1923年12月24日 - 2017年12月)は、日本の農村建築学者。農村計画学者。東京工業大学名誉教授。日本建築学会副会長、農村計画学会会長を歴任。内閣農政審議会専門委員、農林水産省「豊かなむらづくり」審査委員等を歴任。 長野県東筑摩郡筑摩地村(現塩尻市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制弘前高等学校を経て、1948年に東京工業大学を卒業。同年に東京工業大学工学部建築学科の助手を務めた。1949年、東北大学農学部に新設された家政学科、のち生活科学科に講師として赴任。建築計画学に生活科学の視点を組み込む農村計画学の基礎を構築。
山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月… 山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月9日 )は、昭和期の政治家。長野県中野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野県下高井郡平野村(現中野市)生まれ。1941年(昭和16年)3月、下高井農学校(のち長野県中野実業高等学校)卒業後、農業に従事した後、海軍水路部修技所普通科を経て、1945年(昭和20年)6月、仙台陸軍飛行学校を卒業し、終戦時には陸軍中尉。 戦後は中野市農業委員会委員から1966年(昭和41年)11月に同市議会議員に選出され、副議長を経て、1977年(昭和52年)8月、中野市長選挙に当選した。北信地域広域行政事務組合長も兼任し、在任中は工業団地や住宅団地の造成、公共下水道終末処理場の建設、商店街近代化整備事業などに尽力した。
宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 20… 宮崎 明(みやざき あきら、1923年10月19日 - 2003年9月20日)は日本の建設官僚。鹿島建設元社長。 長野県長野市出身。昭和21年(1946年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。同年内務省に入省。同47年(1972年)建設省技術参事官、同49年(1974年)国際水資源局長。 退官後、昭和51年(1976年)鹿島建設に入社。同63年(1988年)副社長、平成2年(1990年)社長に就任したが、ゼネコン汚職問題で引責辞任して同8年(1996年)会長、のち名誉相談役となる。同9年(1997年)土木学会第85代会長に就任した。
藤岡改造(ふじおか かいぞう、1923年10月11日- )は… 藤岡改造(ふじおか かいぞう、1923年10月11日- )は、日本の作家、俳人。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て旧制二松學舍専門学校卒。新制高等学校移行後の母校国語教師となった。号は筑邨(ちくそん)。学校で飼っていた犬クロの世話役をしていた体験から、『職員会議に出た犬クロ』を執筆。ベストセラーとなり、2003年「さよなら、クロ」として映画化された。「信毎俳壇」「俳句四季」の選者。俳人協会評議員。
土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002… 土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002年10月15日)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)、スポーツジャーナリスト(スポーツライター)、野球解説者。
南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2… 南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2003年9月25日)は、日本の倫理学者。 長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1950年京都工芸繊維大学講師、1967年同教授、のち名誉教授。佛教大学教授。2000年春、勲三等旭日中綬章受勲。
芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年〈大正12年〉9月1… 芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年〈大正12年〉9月17日 - 1999年〈平成11年〉6月12日)は、日本の法学者。専門は憲法学。学位は法学博士(東京大学・1962年)。憲法学の権威とされる。宮澤俊義門下。弟子に横田耕一、高橋和之、戸松秀典、戸波江二、野坂泰司、日比野勤、長谷部恭男など。 1990年日本学士院会員、1993年文化功労者。1986年から1992年まで日本公法学会理事長。護憲派憲法学者団体の全国憲法研究会代表、国際人権法学会理事長等も歴任。著書『憲法』(岩波書店)は代表的な著作であり、累計100万部を超えるロングセラーとなっている。称号は東京大学名誉教授。軍在籍時の階級は陸軍少尉。
有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 … 有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 - 2013年(平成25年)1月2日)は日本の洋画家である。 風景、人物、静物など画材は広範。1970年頃から日本の伝統家屋(藁葺屋根)を取材した農村風景画の創作に力を注ぎ、日本列島全域を探訪した。現在では消失した伝統家屋を写実的手法で描かれた作品群は、日本人の心の故郷そのもであり、同時に民俗学史料としても国内外で高く評価されている。 長野県上田市出身。旧制小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業。太平洋戦争に従軍し、復員後の1945年から東京在住。1948年東京育英高等学校教諭、1950年東京美術学校卒業後、数年間、阿佐ヶ谷美術専門学校にて教師を務める。
北沢 郁子(きたざわ いくこ、1923年8月22日- )は、… 北沢 郁子(きたざわ いくこ、1923年8月22日- )は、歌人。
平澤 彌一郎(ひらさわ やいちろう、1923年(大正12年)… 平澤 彌一郎(ひらさわ やいちろう、1923年(大正12年)8月5日 - 2002年(平成14年)6月28日)は、日本の運動生理学者(医学博士)。専門は、神経生理学。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ、同県飯田市出身。長野師範学校、旧制東京体育専門学校を経て、東京大学で解剖学、名古屋大学で生理学を学び、1961年に三重県立大学で医学博士の学位を取得。学位論文名は 「接地足蹠面積と直立姿勢の安定についての研究 」。 1949年青山学院大学講師、1956年静岡大学教授、1977年東京工業大学教授/名誉教授、1984年放送大学教授を歴任。 50年間の長きに渡り足の裏について研究を行い、人間のすべての動作基本である直立能力を足の裏から解析する装置・ピドスコープ(「ピド」はラテン語で「足」の意)を開発、スタシオロジー(身体静止学)理論を確立し「足の裏博士」(あしのうらはかせ)として知られる人物である。
茅野 弘(ちの ひろし、1923年7月22日 - 2002年… 茅野 弘(ちの ひろし、1923年7月22日 - 2002年3月28日)は、日本の実業家。カメラメーカーのチノン株式会社創業者。 長野県諏訪郡宮川村(現:茅野市宮川)出身。宮川尋常高等小学校を卒業後、上京し鉄工所で10年間働き、光学機器製作技術を習得して独立。 1948年に守屋精治、木村正浩とともにチノン株式会社の前身「三信製作所」を創業した。業績悪化で150人の希望退職を募った1993年、代表取締役から名誉相談役に退く。経営再建のため1997年のコダック傘下入り決定を伝えた石城祐吉社長(当時)に対し、「チノンという名前を残してくれたことは良かったと思っている」と語ったという。 チノン元常務で諏訪護国神社元宮司の茅野光英(ちの みつふさ、2006年4月9日没)は実兄。
久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月… 久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月26日 - 2004年(平成16年)8月31日)は、日本の薬学者。専門は薬品合成化学。 長野県上田市出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1946年京都帝国大学医学部薬学科卒業。1947年母校助手。1951年徳島大学薬学部助教授、1957年教授、1972年薬学部長を経て、1988年に徳島大学学長に就任し1991年に学長を退任。退任後の1992年に大阪薬科大学学長に就任、1995年に同大学学長を退任。1997年、勲二等旭日重光章受章。 1953年、京都大学薬学博士。論文名は「アセチレンとアンモニアの縮合に関する研究」。 2004年に急性呼吸不全のため徳島県小松島市の病院で死去。
宮城 弘(みやぎ ひろし、1923年6月11日 - 1989… 宮城 弘(みやぎ ひろし、1923年6月11日 - 1989年9月26日)は、日本の工学者。日本大学名誉教授。 長野県生まれ。1941年(昭和16年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1955年(昭和30年)日本大学大学院旧工学研究科(現理工学研究科)課程修了。1977年(昭和52年)~1985年(昭和60年)、1987年(昭和62年)~1989年(平成元年)の間、日本大学理工学部電気工学科主任を務めた。 1983年(昭和58年)8月、当時の宮城弘教授、木方靖二専任講師(後に理工学部教授)、鈴木勝行助手(後に理工学部教授)らにより、愛媛県来島海峡沖に設置された海上設置型潮流発電装置により、世界初の潮流発電(850w)に成功した。
中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2… 中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2002年9月10日)は、日本の解放運動家・教育家。 長野県塩尻市出身。1943年長野師範学校卒業。長野県、奈良県、京都府で小中学校の教諭として勤務した後、解放教育研究所事務局長をへて、近畿大学人権問題研究所助教授、教授。1993年定年退職。部落解放運動に挺身し「解放の学力」を提唱した。
宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21… 宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21日 - 2011年7月18日)は、日本の気象解説者。 長野県長野市出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1942年気象技術官養成所(現在の気象大学校)本科卒業。長野地方気象台、新潟地方気象台を経て福岡管区気象台予報課長。1968年運輸大臣表彰(豪雪機構の解明)。1969年「豪雪に関する中気候学的研究」で東京教育大学理学博士。1972年気象庁天気相談所長。1980年広島地方気象台長。1982年神戸海洋気象台長。1983年気象庁を退官。1983年から2010年6月まで、NHKテレビ・ラジオの「気象情報」の解説を担当した。1993年日本気象学会評議員。
小高 登貫(こだか のりつら、1923年2月 - 1992年… 小高 登貫(こだか のりつら、1923年2月 - 1992年3月)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争における撃墜王。第三四三海軍航空隊に所属し、紫電改を乗機とした。 1923年2月長野県東筑摩郡島内村(現:松本市)に生まれる。1938年、島内尋常高等小学校卒業後、名古屋市千種区陸軍工廠に勤務。1941年5月、横須賀海兵団に入り、新兵として二か月間の教育を受けた。第12海軍航空隊に勤務。海軍航空兵を志願し、1942年、第10期普通科海軍操縦練習生卒業。飛行訓練を受け、戦闘機搭乗員となる。同年、第25期高等科海軍操縦練習生卒業。九六式艦戦で実用機訓練を受ける。練習生時代の射撃で一番の成績だった。富高空に配属。
前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、… 前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、日本の教育者、教育学者。 長野県飯田市出身。1944年旧制第一高等学校卒。戦後中学校教師を務めた。1977年退職後、長野県下伊那郡上郷町(現飯田市)に転居。1961年より全国生活指導研究協議会(全生研)中央常任委員を務める。
毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
伊藤 正一(いとう しょういち、1923年 - 2016年6… 伊藤 正一(いとう しょういち、1923年 - 2016年6月17日)は日本の山小屋経営者、著作家。 長野県松本市出身で、町一番の料亭の長男。飛行機のエンジンなどに携わるエンジニアだったが、第二次大戦後はその資産を山に注ぎ込んだ。1945年に三俣蓮華小屋を買取ったのを皮切りに続いて水晶小屋も得ると、その後湯俣山荘、雲ノ平山荘を建設した。湯俣温泉から湯俣川沿いに三俣山荘に至る伊藤新道(1956年開通)の開削を主導。日本勤労者山岳連盟を創設。 2016年6月17日、多臓器不全のため死去。 新道は1983年に通行困難となり廃道となるも、再整備され2023年8月に復活。現在は長男・圭が三俣山荘と水晶小屋を、次男・二郎が雲ノ平山荘の経営を引き継いでおり、伊藤新道の廃道とともに40年間閉まっていた湯俣山荘も長男によって改装され2023年再オープン。
飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - … 飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - 2004年3月1日)は、日本の医学者(病理学者)である。医学博士。広島大学第4代学長、名古屋大学第8代総長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高校理科乙類を経て、1946年名古屋帝国大学医学部卒業。1955年西ドイツのフライブルク大学に留学。1958年名古屋大助教授を経て、1961年から広島大学医学部で原爆症を研究。同大学教授を歴任、大学紛争の中、46歳で広島大学学長となり、紛争収束後の大学再建を指揮した。広大学長を辞した後、1978年に母校の名古屋大学に移り、同大学医学部病理学科教授、同大学学長を歴任した。
今井 光也(いまい みつや、1922年11月1日 - 201… 今井 光也(いまい みつや、1922年11月1日 - 2014年5月6日)は、日本の作曲家、指揮者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。諏訪交響楽団員の父・今井久雄から音楽の薫陶を受けて育つ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)卒業。三協精機製作所(現ニデックインスツルメンツ)に勤務する傍ら、1961年に諏訪交響楽団に入団し、フルート、ホルン奏者のほか指揮者を務めた。1962年11月に、オリンピック組織委員会とNHKが行ったオリンピック東京大会ファンファーレの公募に応募し、当選した。 他には数曲の校歌、社歌などの作曲を行っている。1990年に諏訪交響楽団会長に就任し、晩年は名誉会長を務めていた。
上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1… 上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍特別攻撃隊第56振武隊員。 「自由主義者」を標榜する遺書の内容で有名。上原が書き残した遺書や手記などは、近代日本史上の軍人が書き残した遺稿の中で、最もよく知られているものの一つであり、『きけ わだつみのこえ』などの多くの書籍に掲載され、映画やドキュメンタリー番組で度々取り上げられている。 長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の父・上原寅太郎、母・よ志江の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。 遠縁にあたる「有明医院」を継いだ上原家は裕福で子供らに文化的な生活を送らせており、近くの乳房川で家族みんなで写真の撮影会をしたり、家の離れに近所の子供たちを集めて肝試し大会を開催したり、広い裏庭ではテニスをやったり、またスキーや登山といった遠出も頻繁に行っていた。
小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 20… 小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督、脚本家、占い師、山伏。 戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し、職人監督と評されている。長野県東筑摩郡四賀村出身。 易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)。 少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた。1930年に旧制松本中学に入学。日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎・マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける。
小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不… 小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不詳)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)。 長野商業では、1939年の夏の甲子園に出場し、ベスト4まで進むが準決勝で下関商業に敗れた。 1941年に東京巨人軍に入団するが、同年はわずか4試合の出場に留まった。1942年に主将の水原茂が9月初旬に応召を受け離脱したため、正三塁手がいない状況となる。1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。この年は50試合に出場するが、5月半ばから10月半ばの5ヶ月に亘って43打席連続無安打に抑えられるなど、シーズンでわずか7安打しか打てず.077の低打率に終わった。
金井 清光(かない きよみつ、1922年〈大正11年〉7月2… 金井 清光(かない きよみつ、1922年〈大正11年〉7月28日 - 2009年〈平成21年〉4月7日)は、日本の国文学者、時衆研究者。鳥取大学名誉教授。 長野県松本市に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、姫路高等学校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学するも、学徒出陣する。シベリア抑留をへて帰国。1952年、東京大学国文学科卒業、同大学院に進学。この間、通学をしながら武蔵野女子学院高等部にて教鞭を執り、教頭であった雲藤義道の引見により、後年時宗法主となる河野憲善と出会う。1957年、大学院在学期限満了となり、鳥取大学学芸学部(のち教育学部)に奉職。やがて教授となるも、授業中の発言を巡って休職・退官に追い込まれる。
牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2… 牛山 善政(うしやま よしまさ、1922年7月18日 - 2000年11月5日)は、日本の実業家。カメラメーカーの株式会社ヤシカ創業者。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。高等小学校卒業後、朝鮮総督府所管の京城高等工業学校(現・ソウル大学校工科大学)を卒業。北澤工業株式会社(現・東洋バルヴ株式会社)に勤務し非凡な才能ぶりを発揮。戦後独立して1949年12月、従業員8人でヤシカの前身「八洲(やしま)精機株式会社」を創業し、高度成長期の日本を代表するカメラメーカーの一つに育てた。1971年にヤシカの経理部長による横領事件が起き、責任をとる形で社長から会長に退く。1974年に会長を解任され同社の経営から離れた。