秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2… 秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、日本の医学者・精神科医。 長野県長野市出身。一家は旧諏訪藩士の家系。3歳時に一家で上京。旧制京華中学、1925年旧制松本高等学校理科甲類を卒業、1929年東京帝国大学(後の東京大学)医学部卒業。その後北海道帝国大学(後の北海道大学)医学部助手に就任。その後、東京帝国大学医学部副手、同学部講師、旧制金沢医科大学(後の金沢大学医学部)教授を経て1958年に東京大学医学部教授に就任した。1936年医学博士(北海道大学)。論文の題は「失行症本質論 」。 長く日本の精神医学界の権威として活躍。帝銀事件に関して、平沢貞通の有罪の証拠とされた精神鑑定の結果を誤りであると指摘し注目を集めた。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月… 池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月15日 - 1986年(昭和61年)4月3日)は、日本の民俗学者、政治家。衆議院議員、信濃木崎夏期大学理事長。 1906年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で、商家・池上良三の五男として生まれた。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学で学んだ。学生時代は柳田国男に師事し、赤羽一雄ら信州白樺派の教員とも交流を持った。 卒業後は農林省研究所に勤務。義兄の有賀喜左衛門とともに民俗学雑誌『郷土』の編集と発行にあたり、菅江真澄遊覧紀の刊行にあたっては信濃の部を担当した。長野県をたびたび訪れた折口信夫らとも交誼を深めた。
古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973… 古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。
川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不… 川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 赤穂実業から八王子実業団を経て1937年に名古屋金鯱軍へ入団。開幕戦となる3月28日の東京巨人軍戦では8番サードでスタメン出場した。 同年の秋季リーグ終了後に退団した。
芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年 - 没年不詳)は、日… 芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名佐々木 美長(ささき よしなが)名義で脚本家としてデビュー、マキノ・プロダクションで監督になり、のちに神田 金太郎(かんだ きんたろう)と改名した。 1906年(明治39年)ころ、長野県松本市に生まれる。 大学卒業後、映画監督の鈴木謙作を頼って日活大将軍撮影所に入社、19歳になる1925年(大正14年)、鈴木監督にオリジナル脚本を採用され、『血の人形』として同年11月13日に公開される(「佐々木美長」名義)。当時鈴木は同作の主演でもある女優の宮部静子との恋愛問題で撮影所内で評判がよくなかったこともあり、芝蘇呂門をつれてマキノ・プロダクションに移籍する。
赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 19… 赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 1991年5月22日)は、日本の医学者。専門は内分泌学。 長野県駒ヶ根市出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、昭和4年(1929年)東京帝国大学医学部卒業。同9年(1934年)医学博士。同10年(1935年)帝国女子医学専門学校(現東邦大学)教授、同33年(1968年)金沢大学医学部教授。同35年(1970年)金沢大学附属病院長、同46年(1971年)退官。私立金沢医科大学客員教授、国保松戸市立病院事業管理者を務めた。 また昭和35年(1970年)日本内分泌学会会長、同43年(1968年)日本産婦人科学会会長、同46年(1971年)日本輸血学会会長などを歴任した。
小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 198… 小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 1988年12月20日)は、日本の歴史家。専門は、東洋史・仏教史。 1905年、長野県上伊那郡小野村(現:辰野町)で生まれた。長野県松本中学校、松本高等学校文科乙類を経て、1927年に京都帝国大学文学部史学科に入学。在学中に2年間病気療養のために休学したが、1933年に卒業論文『両税制度の一考察を提出して卒業。京都帝国大学大学院へ進んだ。 同じく1933年、京都帝国大学文学部副手に採用(-1943年5月)。1937年より外務省在支特別研究員として中華民国北平市(現:北京市)に留学。華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進めた。
平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年〈明治38年〉1… 平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年〈明治38年〉10月3日 - 1972年〈昭和47年〉2月17日)は、日本の小説家。本名タイ。 職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。プロレタリア作家として出発した。戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。 現在の長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)出身。平林家はもともと土地の名家であったが、祖父の事業失敗で貧しい農家に落ちていた。 1915年(大正4年)1月、父と弟と朝鮮へ出稼ぎに行く。
瀬戸 團治(せと だんじ、1905年9月13日 - 1991… 瀬戸 團治(せと だんじ、1905年9月13日 - 1991年7月1日)は、日本の彫刻家。 長野県上伊那郡朝日村(後の辰野町の一部)に生まれる。伊北農商学校(後の長野県辰野高等学校の前身)を卒業後、地元で酒屋へ奉公に出たが程なくして辞め、1924年に上京し、鶴田吾郎や中川紀元、曽宮一念の下で画家を目指したが、1929年に小学校教員となるため帰郷し、郷里の小学校の教員として11年間勤めた。 この頃から斎藤素巌の下で、彫刻にを学び、1936年から日展に出品を始め、毎年出品し続けた。1933年、構造社展で初入選し、第二次世界大戦後には1949年から1951年にかけて、日展で3回連続特選となり、後には日展の審査員、評議員などを歴任した。
小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月1… 小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月18日 - 1978年(昭和53年)10月2日)は、日本の実業家、政治家。男性。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、上田蚕糸専門学校製糸科卒業。山十製糸に入社し、中央蚕糸会、全国産業組合製糸組合連合会、全国共営蚕糸組合などの蚕糸団体の役職を歴任し、昭和4年(1929年)ニューヨークで開かれた第2回国際生糸技術会議に出席した。また日本紡毛会長、東邦製糸取締役、帝国製糸専務などを歴任した。 同22年(1947年)第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から出馬し、初当選した。改進党中央常任委員や、国会対策委員を務めた。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月2… 小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月28日 - 1997年9月9日)は、日本の教育者、野鳥研究家。日本野鳥の会理事を務めた。雅号は倉塩(そうえん)。 長野県茅野市出身。名古屋逓信講習所卒業。1926年小学校教員となり、1948年に諏訪探鳥会を設立する。日本野鳥の会諏訪支部を発足させた1954年には、塩嶺地区で野鳥を楽しむ「小鳥バス」を地元の岡谷市に提案して実現し、バスでは自ら解説をおこなった。 1975年に、「野鳥愛護の啓蒙を広めた功績」により、勲六等単光旭日章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17… 臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17日 - 1987年(昭和62年)7月12日)は、日本の編集者、評論家、小説家、日本藝術院会員。息子は映像作家の臼井高瀬。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校(現・信州大学)文科甲類を経て、1929年東京帝国大学文学部卒業。松本中学での同級生に筑摩書房の創業者となる古田晁、俳優・演劇評論家の松本克平がいる。 旧制伊那中学(現・長野県伊那北高等学校)、松本女子師範学校などで教員を務めた後、上京して東京女子大学でも教え、さらに1946年に創刊した筑摩書房の総合雑誌『展望』編集長を務め、文芸評論家としても活躍した。
太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 19… 太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 1984年7月5日)は、日本の文部官僚、図書館情報学者。図書館短期大学(現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長を務めた。 長野県飯田市出身。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科卒業。文部省(現・文部科学省)入省。教科書調査官を務めた。 旧制浪速高等学校教授、群馬大学教授、獨協大学文学部教授を歴任し、1969年図書館短期大学(のちの図書館情報大学を経て、現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長に就任。時代に即した文献情報学科の新設、筑波移転に伴う四年制大学昇格(図書館情報大学)の基礎固めに尽力した。
吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1… 吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1978年6月20日)は農業協同組合運動の推進者、衆議院議員。 長野県上伊那郡飯島村生まれ。赤穂村立公民実業学校(長野県赤穂高等学校)を経て、1932年に明治大学法学部英法学科卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入省し大臣官房吏員、興農合作社中央会科長、中央農業会課長、戦時農業団秘書役などを歴任した。戦時中は満洲に5年間派遣された。 1947年の第23回衆議院議員総選挙を皮切りに長野県第3区から出馬し、断続的に計8回当選した。 衆議院では農林政務次官(第2次鳩山一郎内閣)、農林水産・決算・地方行政の各常任委員長などを歴任し、農業基本法・農業管理法の制定、農協共済制度・農林年金制度の確立などに功績があった。
長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日… 長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、岩波書店の元専務、竹久夢二研究者。 1919年(大正8年)に岩波書店に入店以来1972年(昭和47年)に退職するまで、『漱石全集』をはじめとする岩波書店の主要出版物にかかわり、編集・経営の両面において長く同書店の中心的存在であり続けた。「岩波新書」の命名者でもある。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。成人する前に父をなくしたため、高等小学校を14歳で卒業すると上京し、岩波書店に入る。 いわゆる『決定版漱石全集』(1935年 - 1937年刊行)においては、企画から出版まで、小宮豊隆を補佐し、完成に最後まで責任を持った。
山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1… 山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1997年1月15日)は、日本の中国哲学者。兄に山室次郎(中部日本新聞社社長)、弟に作家の山室静がいる。 長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、九州帝国大学法文学部選科支那哲学科修了。1933年九州帝大副手を経て、1934年外務省留学生として北京に赴き、1936年北京近代科学図書館初代館長、銭稲孫に委嘱して日本文学の中国語訳をさせる。帰国し、1947年九州帝大法文学部助教授、1960年九州大学文学部教授、1968年定年退官、名誉教授、1970年から1977年まで福岡大学教授、福岡県文化財専門委員、九州管区警察学校講師を務め、1980年から1983年まで東海大学教授。
椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 198… 椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。本名は久保田 彦穂(くぼた ひこほ)。日本における動物文学の代表的人物である。 1947年から19年間務めた鹿児島県立図書館長時代には、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、市町村図書館と共同運営を行い、市町村図書館を設置できない市町村には図書館を設置して県立図書館が支援するという、のちの図書館ネットワークの原型となる、図書館学において「鹿児島方式」と呼ばれるものを構築した。 1905年1月長野県下伊那郡喬木村阿島北にて、父(金太郎)、母(たき)の次男として誕生。
松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治3… 松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治38年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月30日)は、日本の政治家。長野県長野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野市生まれ。家業は鋼材商「鍋久」で、代々「松橋久左衛門」を襲名する。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制松本高等学校文科を経て、1929年東京帝国大学経済学部卒業。家業の鋼材商「鍋久」を承継し、長野市連合青年会長、長野市会議員を経て、昭和14年(1939年)長野県会議員となる。 同21年(1946年)長野市長臨時代理者となり、翌年に施行された初の公選による長野市長選挙で当選。また戦後の特例で長野県議会議員を兼務し、議長として「分県論」を収束させた。
木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月2… 木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月22日)は、日本の登山家、山岳ガイド、山小屋経営者。北アルプス山中の上高地に永く定住し、山小屋の経営などにあたるかたわら、第二次世界大戦の前後を通して千数百件におよぶ山岳遭難救助活動を行なった。 1905年当時の長野県南安曇郡三田村田多井(現在の安曇野市堀金三田田多井)に生まれる。 1925年、志願兵として陸軍第19師団歩兵第75連隊に入り、会寧の国境守備大隊に配置された。入営後1年半ほどしてから、選抜されて陸軍歩兵学校に学んだ。 兵役を終えた後、外交官を志し、普通文官試験の受験勉強に取り組むべく、1927年に父親が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに住み込む。
小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - … 小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - 1977年10月26日)は、日本の生物学者。理学博士(1935年)。信州大学教授などを歴任。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1928年京都帝国大学農学部農林生物学科卒業。翌年、母校講師。理学博士(1935年)。 1930年台北帝国大学助教授、1944年熱帯医学研究所所長、1949年岐阜師範学校(学制改革により岐阜大学教育学部)教授、1958年信州大学教授、1960年同繊維学部長などを歴任し、1969年定年退官。 日本生態学会環境問題専門委員会委員長、長野県水質審議会委員、日本学術会議自然保護研究連絡委員会委員なども務める。
新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978… 新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978年5月14日)は、小説家。本名・半田 祐一。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京帝国大学英文科卒。1936年に高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア・リアリズムの作家として活動した。1943年から海軍報道班員として徴用され、復員後は風俗小説を書いた。1968年から東京電機大学講師。 1978年5月14日、肝硬変の末期症状である食道静脈瘤破裂のため東京都杉並区高円寺北の自宅で死去。戒名は無得豊潤居士。
宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 19… 宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 1994年7月5日)は、日本の児童文学作家。 長野県小諸市生まれ。松本女子師範学校卒業。1927年から1934年まで木曽・馬籠の神坂小学校教師を務め、その後は臨時教員となる。戦後は島崎藤村全集の編纂を行う。1955年から童話を執筆し、1957年に信州児童文学会の前身である「とうげの旗の会」に入会。同人誌「とうげの旗」に作品を発表する傍ら、同会の整備と拡大に尽力し、1971年には発展組織である信州児童文学会の会長に就任、同年、少年少女向け雑誌である文学誌「とうげの旗」を創刊した。 1957年に『ミノスケのスキー帽』で児童文学者協会新人賞、1958年『ゲンと不動明王』で未明文学賞、1974年『箱火ばちのおじいさん』で野間児童文芸推奨作品賞、1980年「宮口しづえ童話全集」全8巻で赤い鳥文学賞受賞。
梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1… 梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1984年1月18日)は、日本の仏教学者。 長野県松本市生まれ。1929年東京帝国大学文学部卒。1949年「原始般若経の研究」で文学博士(東京大学)。東京水産大学助教授、大正大学助教授、教授、1974年定年退任、名誉教授。
河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972… 河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972年12月12日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授を歴任。 長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部地震学科卒業。同年東京帝国大学地震研究所嘱託となる。1944年教授となり1963年所長に就任。退官後は東京都防災会議地震部会会長などを歴任した。 日本各地の地震危険度と最高震度の期待値を示す「河角マップ」は耐震基準における地震地域係数の根拠となった。また鎌倉や江戸などの古地震を調査し、相模トラフ巨大地震の69年周期説を唱えた(なお当該地震は1923年を最後に発生していない)。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 19… 江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。 1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ、画家を志して15歳の時に東京に出た。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬に大和絵を学んだ。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選。 1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた。
市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989… 市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989年11月10日)は、日本の国文学者、歌人。文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)。東洋大学名誉教授。雅号は「迯水居」。 長野県上高井郡小布施町生まれ。旧制大分高等商業学校、1941年東洋大学文学部国文学科卒業。1926年から出版社の辞書部に勤務、1948年から新村出の委嘱により岩波書店で「広辞苑」の編集主任を務めた。1953年東洋大学国文学科講師、1956年同教授、1973年退任、名誉教授。1961年「萬葉集考」で文学博士(東洋大学)の学位を取得。1973年から迯水短歌会を主宰し、機関誌を発行した。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。
栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月2… 栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月20日 - 1961年(昭和36年)1月17日)は、日本の俳人、小林一茶研究家。本名は神林 新治(かんばやし しんじ)。須坂市名誉市民。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市東横町)の農業・繭糸商の家に生まれる。小諸市出身の臼田亜浪に師事。実作者の立場から小林一茶を研究し、軍隊入営中に『一茶新考』を出版するなど、書物を数多く発表。1946年(昭和21年)、郷里の長野県須坂町で俳誌『科野』(しなの)を創刊し、『信濃毎日新聞』俳壇選者を長く担当するなど、信濃俳壇の中心となって活躍した。一茶研究により日本俳文学会会員に推挙される。1961年死去。
永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947… 永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947年9月7日)は日本の哲学者である。マルクス主義の立場から活動した。 長野県東筑摩郡山形村に生まれる。県立松本中学(後の長野県松本深志高等学校)に学び、小岩井源一(後の詩人、高橋玄一郎)と知り合う。中学時代から哲学に興味を持ち始める。卒業後、1921年に東京外国語学校露語部に入学。クロポトキンら、当時のソ連の哲学動向に関心を持つ。卒業後は一時朝鮮に渡り、国境近い新義州で流入するソ連文献を検閲する任務に当たる。 1927年、パーヴェル・アクセリロード『ブルジョア社会学の批判』を翻訳して刊行、海外文献の紹介、翻訳につとめる。1930年、川内唯彦のすすめでプロレタリア科学研究所に参加し、唯物弁証法の研究につとめる。
小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - … 小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - 1978年1月31日)は、長野県浅間温泉の旅館「香蘭荘」の経営者で、当時の東筑摩郡本郷村の初代公選村長となり、後には助役も務めた。他方では、筆名の高橋 玄一郎(たかはし げんいちろう)として詩人、文学者としても知られた。 浅間温泉で温泉旅館「香蘭荘」を経営していた小岩井家から、石川県輪島の高橋家に養子に出ていた父・孝八のひとり息子として輪島で生まれた。その後、父が浅間温泉の家業を継ぐこととなり、輪島で母方の高橋家の祖父母によって育てられた。中学に上がることになり、父に呼び寄せられ、浅間温泉に戻り、松本中学校(後の長野県松本深志高等学校)に学ぶ。
小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 19… 小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 1995年9月20日)は、日本の小児科医師。 長野県諏訪郡富士見村(現・富士見町)出身。実業家の小川金治の二男として生まれる。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1930年に慶應義塾大学医学部を卒業した。 同大助手、慶應義塾大学病院小児精神衛生相談員を務めた後、1939年に東京市日本橋小児保健所長となる。1940年、国際聖母病院(現・聖母病院)小児科部長兼副院長に就任する。 1945年、慶應堂病院院長となる。1965年より青山学院大学教授兼保健管理センター所長を務め、1970年に小川医学研究所を開設した。 いとこの三村二も医師であった。
唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月… 唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月13日 - 1980年(昭和55年)5月27日)は、日本の文芸評論家・哲学者・思想家。 京大で西田幾多郎に師事。『現代日本文学序説』(1962年)を書き、『鷗外の精神』(1943年)、『中世の文学』(1955年)と研究を進めた。反近代の思想を貫き『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)を遺して死去した。 1904年(明治37年)、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。旧制松本中学(現:長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校(現:信州大学)文科甲類を卒業後、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。西田幾多郎や田邊元から多大な影響を受けた。
青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944… 青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944年7月30日)は日本の詩人、文芸評論家。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)に医師の三男として生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)では同級に唐木順三がいた。早稲田大学英文科在学中からアナーキズム文学雑誌『世紀文学』を創刊する。その後、文芸雑誌『黒色戦線』を創刊し、「丹沢明」の筆名で、同人誌にダダイズム的な評論や詩を発表した。1930年(昭和5年)『黒色戦線』を廃刊し、『黒戦』1932年『アナーキズム文学』を創刊する。1931年(昭和6年)京都帝国大学の青柳栄司の世話で、四条畷女子学校の英語教師となるが、2ヶ月ほどで退職し、千住税務署に勤務しながら文芸評論を続ける。
羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、… 淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、英文学者。翻訳家。 長野県長野市生まれ。1925年女子英学塾(現津田塾大学)卒業。長野県立女学校に勤め、工藤好美と知り合い、妹が工藤と結婚する。昭和のはじめに結婚するが、1951年夫が死去し、長野女子短期大学教授を十年間務め、その間工藤との共訳を出し、89歳でジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』を完訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 -… 小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 - 1984年〈昭和59年〉)は、昭和時代の鉄道実業家。 長野県上伊那郡小野村(現・辰野町小野)に生まれる。松本教育実業学校を卒業し、三菱日東生糸に入社し、横浜日東製糸原料部次長となる。兵役を経て、1947年(昭和22年)郷里に丸善石灰を創業。ついで塩尻陸運常務、信州急送社長を経て、名鉄運輸の提案を受け、1962年(昭和37年)信州急送と南信定期を名鉄運輸に合併して信州名鉄運輸を創立し、同社社長に就任した。ほか、信州名鉄タクシー社長を兼務し、1976年(昭和51年)信州名鉄運輸の会長に就任した。この間、日本トラック協会理事、長野県トラック協会長を務めた。
村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27… 村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27日)は日本の政治家。初代東京都千代田区長。
筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月… 筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月12日 - 2002年(平成14年)11月10日)は、日本の公吏、政治家、実業家。松本市長。 長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で、筒井浜十郎、きん の五男として生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部卒業。 1932年(昭和7年)東京府公吏となり、東京市社会局、麻布区総務課長などを務めた後、1945年(昭和20年)退職し帰郷。1946年(昭和21年)8月から1947年(昭和22年)3月まで松本市助役・市長代理に就任した。 同年4月に施行された、初の公選による松本市長選挙に当選。
矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - … 矢口 孝次郎(やぐち たかじろう、1903年10月4日 - 1978年11月12日)は、日本の経済学者。関西大学教授、第22代関西大学学長、第4期・6期・7期・8期日本学術会議会員、文部省の学術奨励審議会専門委員等を歴任。 長野県松本市出身。旧制松本商業学校を経て、1927年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。1928年関西大学専任講師、助教授を経て1934年関西大学教授となった。1959年に関西大学第22代学長、1974年より大阪商業大学教授。神戸商業大学の宮下孝吉、大阪商科大学の五島茂とともに関西におけるイギリス経済史研究をリードした。学外においては、1937年社会経済史学会の評議員に選ばれ、 理事、 常務理事を歴任。 戦後、1950年には日本西洋史学会評議員を務めるなど学会の発展に尽くした。
倉沢 剛(くらさわ たかし、1903年9月22日 - 198… 倉沢 剛(くらさわ たかし、1903年9月22日 - 1986年9月4日)は、日本の教育学・教育史学者。 長野県小県郡川辺村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を出て小学校の代用教員を務めたあと、1927年東京高等師範学校文科卒業。 同年、長野県上田高等女学校教諭。1933年東京文理科大学教育学部卒業、埼玉県女子師範学校教諭。1937年東京女子高等師範学校教諭ならびに同助教授。1944年東京女子高等師範学校教授ならびに同教諭。1952年東京学芸大学教授。1954年から1957年まで、東京学芸大学附属世田谷小学校校長。1957年「米国におけるカリキュラム研究の歴史的考察」で東京文理科大学文学博士。
花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月… 花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月22日 - 1978年(昭和53年)8月20日)は、日本の農業技術者、政治家。長野県東筑摩郡宗賀村長(3期)、長野県塩尻市議会議員、長野県塩尻市長(第3代、2期)を歴任した。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県東筑摩郡宗賀村本山(現・塩尻市)生まれ。1920年(大正9年)3月、東筑摩郡立農学校を卒業。小学校代用教員、村立宗賀実業補習学校助教諭を務めた後、1932年(昭和7年)に穀物検査員として長野県庁に勤務し、同県農産物検査技術補、農産物検査監督員、食糧検査所支所長などを務め、後に食糧事務所長となる。1945年(昭和20年)の終戦後は、GHQ軍政部と折衝して、長野県内の窮迫した食糧事情の好転に一役買った。
神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年… 神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年11月8日)は、日本の実業家。竹中工務店副社長などを務めた。 長野県木曽郡大桑村生まれ。松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)から、早稲田大学へ進み、建築科に学ぶ。1928年、竹中工務店大阪本社に入り、もっぱら現場管理関係に従事する。満洲竹中工務店常務取締役、竹中工務店専務取締役、大阪支店長、副社長などを歴任し、竹中工務店顧問となった。 現場監督として関わった建物には、1937年竣工の平安中学校(龍谷大学付属平安中学校・高等学校の前身)講堂・教室や、1936年から 1937年にかけて現地に住み込んで担当した、ヴォーリズ建築事務所の設計による豊郷尋常高等小学校(豊郷町立豊郷小学校の前身)などがある。
春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24… 春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、昭和期戦後の政治家。長野県飯山市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県下水内郡外様村(現飯山市)で、春日寿平、とも の四男として生まれた。1921年(大正10年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。同年、外様村小学校教諭を勤め、1931年(昭和6年)に退職。 1947年(昭和22年)4月、外様村長に就任し1期在任。1954年(昭和29年)12月には合併後の飯山市議会議員となり、1956年(昭和31年)に議長となる。1961年(昭和36)飯山市教育委員に就任し翌年まで在任した。
原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3… 原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。
印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。