羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月2… 羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の父。 長野県小県郡和田村(現・長和町)に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学(現・福島県立福島高等学校)、旧制新潟高等学校を経て、1929年に東北帝国大学法文学部卒業。東京朝日新聞社に入社し、政治部に勤務。 政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、1937年に立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。「羽田書店」を創立する。社員には後に独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。 1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。
若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)… 若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し、独学で法政大学経済学部に進学し、在学中から社会主義運動に参加し、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27… 小林 勇(こばやし いさむ、1903年(明治36年)3月27日 - 1981年(昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。 岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。
三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月… 三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月8日 - 1977年(昭和52年)8月14日)は、日本の政治家。第16代鹿児島市長。位階は正四位。 長野県飯山市出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)選科修了、九州帝国大学法文学部卒業。卒業後は長野、山形、福岡の各県の中学教師となる。1938年福岡県庁に入り、社会教育、振興、厚生の各課長を経て、1943年海軍司政官になる。帰国後の1947年福岡県秘書課長から鹿児島県庁に転じ、教育、総務の各部長、副知事を歴任する。 1959年の鹿児島市長選に保守系から立候補したが、元串木野市長で革新系の平瀬實武に敗れて落選した。4年後の1963年の市長選に現職の平瀬に挑戦する形で再び立候補し、前回と同じ保革対決となり、選挙の結果、現職の平瀬を破り当選した。
伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993… 伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993年2月7日)は、日本の作曲家、トロンボーン奏者。伊藤能矛留のペンネームも用いた。次男はレーシングライダーとして知られ,ヤマハに初の世界GP優勝をもたらした伊藤 史朗。 長野県松本市出身。松本商業学校中退、各種学校アテネ・フランセ卒業。1919年から海軍軍楽隊でトロンボーン奏者として活動。除隊後は山田耕筰率いる日本交響楽協会に参加し、山田に作曲と対位法を師事した。その後、近衛秀麿率いる新交響楽団で首席トロンボーン奏者を務め、そのかたわら菅原明朗に作曲を学び、新興作曲家連盟に参加した。作風はダリウス・ミヨーの多調、アルノルト・シェーンベルクの無調、アロイス・ハーバの微分音、ジャズなどを取り入れた前衛的なものであった。
原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本の… 原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本のノンフィクション作家、編集者、翻訳家。本名は堀経道 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、長野師範学校卒業。関西学院英文科卒業。博文館編集部で「少年世界」などの担当を経て、1933年頃に出版社・六人社を発足。1936年頃から原圭二名義で戦争に関する文章の寄稿を始める。その後、民主教育協会勤務。探検記、探偵小説、翻訳多数。 堀経道名義では探偵小説・推理小説の翻訳を多数しており、昭和22年6月刊行の「黄金の書」(まひる書房)の企画を終戦後いち早く立ち上げ、江戸川乱歩の元へ相談を持ちかけた。
太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1… 太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1996年4月1日)は、日本の医学者、東宮侍医。専門は、小児科学。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1926年東京帝国大学医学部医学科卒業。 1926年東大医学部薬理学教室に入り、1927年小児科副手となり、外来診察所医長、1934年医学部附属病院小児科医長兼講師、1937年宮内省侍医寮勤務を経て、1945年東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)講師、のち教授。1949年初代東京医学歯学専門学校附属医院国府台分院長。1956年東京医科歯科大学医学部附属病院長。
潤間 留十(うるま とめじゅう、のち宮沢姓、1902年12月… 潤間 留十(うるま とめじゅう、のち宮沢姓、1902年12月9日 - 1999年1月26日)は日本の元スピードスケート選手である。長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)出身。諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)卒。 1932年のレークプラシッドオリンピックでは、500m、1500m、5000m、10000mの4種目に出場したが、いずれも予選で敗退した。 その後は審判員として長く活躍し、日本スケート連盟名誉審判員にも選ばれた。
水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 197… 水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 1979年2月14日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。 長野県北佐久郡高瀬村(現佐久市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。 東大図書館に勤務しつつ、オノレ・ド・バルザックを主として数多くの翻訳を行った。豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』の翻訳の誤訳や脱漏を指摘し、豊島に喜ばれ、自らの翻訳を刊行した。 明治大学では非常勤講師、中央大学では専任講師としてフランス語を教えた。 没後、旧蔵書の中でバルザックに関係する資料は武蔵大学附属図書館で水野文庫として保存され、目録が刊行された。
高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月… 高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年〈明治35年〉11月3日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の俳優、映画監督、映画プロデューサー。初期には片岡 慶左衛門(かたおか けいざえもん)、片岡 慶三郎(かたおか けいさぶろう)と名乗った。本名は慶吉(-けいきち)。身のこなしの軽さから「鳥人」として知られる。 1902年(明治35年)11月3日、長野県下諏訪町に「高木慶吉」として生まれる。神田英語学校卒業。 1920年(大正9年)、マキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事した。1923年(大正12年)6月、片岡 慶左衛門、片岡 慶三郎の名で映画に出演し始める。1925年(大正14年)の東亜キネマからの牧野の分離独立後も、東亜キネマに残留する。
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 197… 赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 1973年12月4日)は、日本の経営者。長野県出身。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。東邦電力での勤務を経て、1951年6月に九州電力理事に就任し、取締役、常務、副社長を経て、1960年5月に社長に就任。1967年5月には会長に就任。福岡商工会議所会頭、福岡証券取引所理事長、日本放送協会経営委員、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。 1961年10月に藍綬褒章を受章し、1965年12月に紺綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1973年12月4日に急性肺炎のために死去。
町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 19… 町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 1992年1月16日)は、三菱銀行常務取締役、三菱経済研究所長などを務めた、日本の銀行家。 長野県更級郡青木島村(後の長野市更北)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)から、第八高等学校 (旧制)へ進み、東京大学経済学部を卒業した。大学では研究者になることを目指して大内兵衛のゼミに参加していたが、実家が経営に関わっていた更埴銀行(1911年 - 1937年)の経営が困難に陥る状況などがあって研究者への道を断念し、1928年に三菱銀行に入行して、以降はもっぱら調査や貸付関係の業務に従事した。1936年ころには業務として欧米留学を経験し、その後、審査部長を経て常務取締役となり、後には、三菱経済研究所長に転じた。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月… 栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、日本の内務官僚。官選高知県知事。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。 明治35年7月11日長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。 1919年 旧制野沢中学(現長野県野沢北高等学校)卒業。 1922年(大正11年3月31日) 旧制松本高等学校文科乙類卒業。 1925年(大正14年3月31日) 東京帝国大学独文科卒業 1925年(大正14年9月30日)旧制静岡高等学校教授。 1937年 (昭和12年3月31日)文部省在外研究員として独逸語独逸文学及び語学教授法研究のためドイツ出張(昭和13年11月30日まで) 1939年(昭和14年4月1日) 学習院教授 1944年(昭和19年1月10日)学習院高等科独語科主任 1947年(昭和22年3月31日)組織変更により学習院は財団法人学習院となる学習院教授、学習院高等科長 1947年(昭和22年4月1日)日本独文学会理事(46年5月8日まで) 1947年(昭和22年10月7日)学習院理事(26年5月31日まで) 1949年(昭和24年3月31日)法の定めるところにより財団法人学習院は学校法人学習院となる 1951年(昭和26年6月1日)学習院評議員(45年8月31日まで) 1956年(昭和31年4月1日)学習院大学文学部独文学科主任(37年4月30日まで) 1957年(昭和32年7月12日)学習院理事(45年8月31日まで) 1959年(昭和34年4月1日)文部省大学基準等研究協議会委員(35年3月31日まで) 1963年(昭和38年4月1日)学習院大学文学部長(45年5月31日まで) 1964年(昭和39年5月1日)財団法人ドイツ語学文学振興会理事長(52年7月19日まで) 1965年(昭和40年3月22日)ゲーテ・インスティトゥート(西独)からゲーテ牌(銀)受賞 1968年(昭和43年6月23日)私立学校教職員共済組合運営審議会委員(45年6月22日まで) 1968年(昭和43年7月1日)文部省国立高等専門学校ドイツ語教員選考および高等専門学校教員資格認定委員(50年3月31日まで) 1970年(昭和45年9月1日)学習院長(理事長)(56年8月13日まで) 1972年(昭和47年4月1日)私立大学懇話会副会長(52年6月9日まで) 1972年(昭和47年10月1日)文部省私立大学審議会委員(53年10月31日まで)
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。
八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 198… 八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究。
峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1… 峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1991年3月21日)は、日本の経営者、歌人。 長野県小県郡富士山村(現在の上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業。 加島銀行での勤務を経て、野村銀行に入行し、大和銀行専務を経て、1959年に副頭取に就任し、1963年に会長に就任し、1968年から顧問を務めた。積水化学工業取締役なども歴任した。 1923年に太田水穂に師事し、歌人としても活躍し、「峯村英薫歌集」がある。 1965年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年3月21日急性心不全のために死去。
篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月… 篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月21日 - 1965年(昭和40年))は、日本の政治家。長野県飯山市長。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)生まれ。1919年(大正8年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。飯山町議会議員、同町消防団長、同町助役を経て、1953年(昭和28年)9月、飯山町長に当選し、昭和の大合併では1町6村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)飯山市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)9月まで1期務めた。在任中は市庁舎の竣工や照岡ダムの建設、市内有線放送の整備などに力を入れた。
丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月… 丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月27日 - 1992年(平成4年)3月6日)は、日本の医学者、皮膚科医。第6代日本医科大学学長、同大学名誉教授。皮膚結核および癌の治療薬を目指していた丸山ワクチンの開発者である。医学博士(東京大学)。長野県茅野市出身。 1901年、長野県諏訪郡金沢村(現在の茅野市の一部)にて、小学校訓導の父・小三郎と母・はつの五男一女の末っ子として生まれる。 1908年、金沢村金沢尋常小学校(現在の茅野市立金沢小学校)入学。1914年、豊田尋常高等小学校尋常科を卒業、富士見金沢組合立富士見高等小学校に入学。1915年、東京の日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)入学。
荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - … 荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - 1980年10月22日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。 1901年(明治34年)10月22日、長野県上田市に生まれる。 長じて東京に移ったが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、焼け出されて大阪に移る。当時、日活大将軍撮影所の時代劇の原作募集に応募、入選した。これをきっかけに同所の池永浩久の面接を受けて、監督志望である旨を伝えたが、俳優研究生として同社に入社した。記録に残るもっとも早い時期の出演作は、1926年(大正15年)2月28日に公開された楠山律監督の現代劇『愛の貴公子』における「滝川耀子の父・義人」役で、満24歳にして宮部静子の父親役を演じた。
樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - … 樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は、日本の実業家でオンワード樫山の創業者。また、競走馬の生産者や馬主としても知られる。 純三は競走馬のオーナー(馬主)としても有名でありみずからオンワード牧場を創設し、オーナーブリーダーとして数々の名馬を世に送り出した。また、ハードツービートで日本人で初めてフランスダービー(ジョッケクルブ賞)を勝利した国際的ホースマンでもあった。勝負服の服色は日本国内・国外ともに「黒、青袖」を使用。 純三の死後、夫人の樫山ハルが競馬事業を引き継いだ。牧場は2012年まで運営された。 樫山奨学財団30周年記念事業の一環として創設された学術賞。
小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日… 小川 一雄(おがわ かずお、1901年(明治34年)9月2日 - 1971年(昭和46年))は、昭和時代の政治家。長野県諏訪郡ちの町長、茅野市長。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。1919年(大正8年)湖畔学堂を卒業、富士見銀行に入社する。ついで、永明村収入役を経て、1949年(昭和24年)ちの町助役、同町長を歴任し、1955年(昭和30年)に茅野町が成立すると同町長に就任した。この間、諏訪郡町村会長、諏訪耕地協会長を兼任し、1958年(昭和33年)茅野市が発足すると、同市長となり1967年(昭和42年)4月まで3期務めた。 市長在任中には、道路整備、学校施設の整備、市民会館(現在の茅野市民館の前身)着工などの施策を進め、茅野市森林組合長、長野県国民健康保険連合会副理事長、諏訪林業振興会長、諏訪郡市水道研究会会長、茅野市観光連盟会長、茅野市農業共済組合長、諏訪土木振興会長、八ヶ岳中信高原国定公園協議会長などの要職を兼任。
五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。
小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 197… 小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 1979年8月20日)は、日本の生理学者、公衆衛生学者。 長野県岡谷市に生まれる。 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1924年に満洲医科大学(現中国医科大学)を卒業後、同大学の生理学教室に入り、久野寧の発汗研究に従事する。 1929年、ロックフェラー財団のフェローシップをとり、北京協和医学院へ留学、林 可勝(ロバート・リム)(中国語版)の生理学教室へ入る。 1930年、林との協同研究により小腸由来の胃酸分泌抑制作用を発見し、作用を再現する物質をエンテロガストロンと命名する。その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン へ留学し、Sir Charles Arthur Lovatt Evans、 アーチボルド・ヒルの指導を受け、インスリン放出や血糖利用等代謝に関する研究を行う。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 19… 宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 1982年12月17日)は、日本の教育評論家、児童文学作家。男性。 長野県下伊那郡市田村(現高森町)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、慶應義塾大学文学部心理学科卒。同幼稚舎教師を経て、戦後は小原國芳の湘南学園設立に参加し初代園長、杉野女子大学短期大学部教授。 自ら児童読物を多く書いたほか、教育指南書を著し、旧文部省の「幼稚園指導要綱」作成委員なども歴任した。 子に演劇評論家・「朝日ジャーナル」編集長の宮下展夫、ドイツ文学者・慶應義塾大学名誉教授の宮下啓三。
高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月1… 高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月10日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選鳥取県知事。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て第八高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し大分県属となる。 以後、警視庁特別高等警察部第一課長、石川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、企画院書記官などを経て、大阪府警察局長となる。 1945年4月、鳥取県知事に就任。同年10月、厚生省労政局長に転じ、労働組合法の原案作成に関わった。
和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10… 和合 恒男(わごう つねお、1901年(明治34年)5月10日 - 1941年(昭和16年)5月16日)は、日本の農本主義者で、長野県東筑摩郡波多村(現松本市)に農本主義に基づく学校をつくった。
重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月… 重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1997年〈平成9年〉12月14日)は日本の労働運動家。政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(1期)。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)生まれ。大正8年(1919年)旧制蔵前工業専修学校(東京工業大学附属科学技術高等学校)建築学科卒業。昭和9年(1934年)東京市電気局自動車課に入局し、同年の労働争議に参加。同14年(1939年)東京交通労働組合の大会で常任委員に就任し、翌15年(1940年)同組合中央執行委員長に就任。 同20年(1945年)日本社会党に参画し、前記の労働組合を再建し、初代中央執行委員長に就任。同25年(1950年)第2回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から出馬し初当選。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
唐木田 稲治郎(からきだ いねじろう、1901年(明治34年… 唐木田 稲治郎(からきだ いねじろう、1901年(明治34年)2月26日 - 1980年(昭和55年)9月24日)は、日本の政治家、実業家。長野県埴生町長や更埴市長、長野県議会議員を務めた。 長野県埴科郡屋代町(現・千曲市)に唐木田藤左衛門、きい夫妻の4番目の末子として生まれる。家業が傾き、母と二人で親戚の家に間借りをしていたが、1907年(明治40年)、6才の時に母が病気で急逝。その後、親戚に預けられたり、養子に出されるなどを繰り返し、小学校を5度も変わる生活に追込まれた。上の兄姉たちは叔父の鈴木小右衛門(長野市長)の世話となり上級学校に進んでいたが、稲治郎は尋常小学校を卒業後、丁稚奉公に出る。
坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 20… 坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 2002年3月18日)は日本の実業家。日清製油元会長。長野県上高井郡川田村(現長野市)生まれ。 その他、日本油脂協会会長、世界製油協会副会長、日本経済団体連合会常任理事などを歴任した。
小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 199… 小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 1991年3月20日)は、日本の服飾学者、文化女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)色染科卒業。陸軍被服本廠理化学部長、研究部長。戦後は繊維会社に勤務し繊維を研究、1962年文化女子短期大学教授、1964年文化女子大教授兼任。1972年定年退任、名誉教授。 世界各地の民族衣装を研究、1964年ヨーロッパ7か国を回り、57か国で研究、死去の直前まで中国雲南省で研究していた。
望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 -… 望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 - 1991年9月8日)は、ドイツ文学者、信州大学名誉教授。
池上 鎌三(いけがみ けんぞう、1900年11月12日 - … 池上 鎌三(いけがみ けんぞう、1900年11月12日 - 1956年1月29日)は、日本の哲学者、元東京大学文学部教授。新カント派の哲学を学び、文化哲学、現象学、生の哲学を研究、紹介した。 1900年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で生まれた。1918年、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を卒業し、第二高等学校に進学。1921年に同校を卒業し、東京帝国大学哲学科で学んだ。1925年に卒業。 卒業後は、東京外国語学校などで教鞭をとった後、1936年、母校の東京帝国大学助教授に就いた。1945年に同教授昇格。1941年、学位論文『文化哲学基礎論』を東京大学に提出して文学博士号を取得。56歳で在職中に死去。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月… 丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年))は、大正後期から昭和期の教育者、政治家。長野県中野市長。位階は従五位。 長野県下高井郡倭村(現中野市)で、教育者・丸山久保吉の長男として生まれた。長野師範学校卒業後、1921年(大正10年)7月、公立小学校訓導に就任。1922年(大正11年)兵役につく。除隊後、下高井郡高丘小学校長、平穏小学校長、中野小学校長を歴任し、長野県視学などを経て、1947年(昭和22年)下高井郡教育会長を務めた。長野県教職員組合執行委員長を経て1955年(昭和30年)長野県教育委員会教学指導課長に就任した。 1962年(昭和37年)8月、中野市長選挙に当選し、1970年(昭和45年)8月まで2期務めた。
臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月2… 臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉3月8日)は、日本の社会学者。京都大学名誉教授。 長野県南安曇郡三田村田尻(現:安曇野市堀金三田)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1926年京都帝国大学文学部社会学科を卒業した。 1929年、京都帝国大学専任講師に着任。ドイツ、米国、フランスに研究留学した後、1932年に助教授昇進。1944年に教授昇進。1945年、学位論文『社会と民族』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1949年より京都大学文学部教授。1963年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。
清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20… 清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20日 - 1999年〈平成11年〉1月6日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県飯田市長。男性。位階は従六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、清水宗一、あき の長男として生まれた。1916年(大正5年)3月、長野県組合立竜東農学校卒業。1919年(大正8年)公立実業学校教師となる。1939年(昭和14年)長野県技師に転じ、県立農業講習副所長を務め、1952年(昭和27年)長野県経済部農業改良課長、1954年(昭和29年)南佐久地方事務所長を歴任。1955年(昭和30年)飯田市助役に就任し、13年間在任した。 松井卓治市長の後継者として1968年(昭和43年)10月、飯田市長選挙に当選し、1972年(昭和47年)10月まで1期務めた。
今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月1… 今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、日本の郷土史家、歌人である。本名は今井 すみ江(いまい すみえ)。 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市宮川茅野)に生まれ、諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高等学校)へ入学。女学校一年の時に『アララギ』へ入会し島木赤彦と森山汀川に師事。大正7年(1918年)に卒業し小学校の代用教員となり、その翌年(当時19歳)寒天問屋「地紙世(ちがみせ)」(現・地紙世商店)の今井平左衛門に嫁ぐ。池坊華道の教授でもあり、地元の人々が敬意を込めて「地紙世の先生」と呼んでいた。戦後、『旧宮川村誌(史)』の編纂に奮闘する傍ら諏訪大社及び諏訪地域の在地信仰(ミシャグジ、千鹿頭神、天白神 等)の研究を行い、踏査集成を広範囲に渡って行った。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2… 倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2日 - 1986年(昭和61年)11月8日)は、日本の政治家。労働大臣、農林大臣、法務大臣。位階は正三位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年に法政大学法科 を卒業。法大在学中は法政大学弁論部で活動。森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合った。 大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女徳子と結婚、媒酌人は森格が務め、音羽の鳩山一郎邸に一時身を寄せた。
島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 19… 島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 1994年6月30日)は、日本の写真家。 長野県埴科郡松代町(後の長野市松代)に、医師の息子として生まれ、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を卒業する。中学校時代は画家志望であったが、結核にかかり療養を余儀なくされる中で、病床で目にしたシベリア出兵の報道写真をきっかけに、報道カメラマンを志すようになり、1920年に中学校を卒業して上京した。 1920年、朝日新聞東京本社に入社して社会部写真係に所属する報道カメラマンとなり、1923年に『アサヒグラフ』が創刊されるとその写真班員となった。以降、関東大震災(1923年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの取材にあたった。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 198… 椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 1985年1月27日)は、日本の作家。眼科医。本名は藤森 章。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、1925年同大眼科教室助手となった。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任。 1946年に引き揚げ、東京電力病院眼科医長などを歴任した。 「テノン氏嚢の研究」「ミュッレル氏筋の研究」など眼科研究論文を発表。 大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。1949年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場した。1951年に『宝石』に発表した「扉」が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。