三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年… 三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年1月18日)- 1936年(昭和11年)11月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。 愛知県碧海郡刈谷町大字熊字元屋敷(現在の刈谷市)出身。材木商の三浦桂助の長男。いったんは三浦家の家業を継ぎ、1887年(明治20年)頃に家業を整理して上京。日本橋にある株屋の社員となり、株式仲買店を経営して財を成した。1909年(明治42年)9月5日には第10回衆議院議員総選挙の補欠選挙に出馬して当選。1913年(大正2年)1月には第11回衆議院議員総選挙に出馬して2選。三浦は豊田自動織機の工場を刈谷町に誘致するなどした。 1910年(明治43年)には三浦と才賀藤吉が主たる発起者となり、碧海軽便鉄道会社(軌間762mmで動力蒸気による鉄道)を設立。
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年1… 牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。ジャポニズムブームに乗り、1910年代にロンドン社交界の寵児となった。挙母藩(現:愛知県豊田市)出身。「霧の画家」と評される。 挙母藩士・牧野利幹と葛(西尾藩士・遠山内記の娘)の次男として誕生する。宣教師が設立した名古屋英和学校に学び、1890年に東京職工学校機械科を卒業した。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航でアメリカを訪れた。渡米した当初は画家か文筆家かで迷っていたが、アメリカ総領事の珍田捨巳の助言でサンフランシスコの美術学校に通った。
都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明… 都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明治2年11月19日) - 1933年(昭和8年)3月12日)は、明治から昭和前期にかけての軍医、脚気が栄養欠乏でおこり、米糠により予防・治療ができることを動物実験で確認した。愛知県出身。 1869年12月21日((旧暦)明治2年11月19日)、三河碧海郡刈谷藩領(現愛知県刈谷市)の農家、都築甚六・つう夫妻の長男として都築甚之助は誕生した。1883年(明治16年)元刈谷小学校を卒業し郡立高等学校に入学、同校卒業後1885年(明治18年)愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学し、1887年(明治20年)千葉第一高等中学校医学部(現千葉大学医学部)に転じ、1890年(明治23年)4月卒業した。
石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治… 石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治2年6月26日)- 1935年(昭和10年)1月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡呼続村(呼続町を経て現名古屋市)出身。麩製造業を営む。名古屋市会議員、愛知県会議員、同市部会議長となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において愛知1区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明… 大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明治2年2月22日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月27日)は、大相撲の大関。身長170cm、体重105kg。最高位は横綱(五条家免許)。 出生地は尾張国知多郡(現在の愛知県半田市乙川殿町)出身。生年月日は1869年(明治2年)2月22日説と1871年(明治4年)3月20日説があり、苗字も「吉田」と「竹内」の2説あったが、大碇の生年月日は1869年(明治2年)2月22日で苗字は「竹内」であることが外国旅券下付表や除籍謄本などで確認された。その後、「吉田嘉平」に一旦、養子縁組し、1871年(明治4年)3月20日に愛知県知多郡南知多町内海の「日比長三郎」の養嗣子となり同家に入籍した。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治… 大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治元年12月26日)- 1959年(昭和34年)5月1日)は、明治から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国丹羽郡古知野村(愛知県丹羽郡古知野町を経て現江南市古知野町)で、代々酒造業を営む大池家当主・大池與平の息子として生まれる。 愛知県生糸製造同業組合組長、興益銀行取締役、愛知製絹社長、丹羽郡酒造家組合盛昌組組長、古知野銀行取締役などを務めた。1916年(大正5年)10月、名古屋株式取引所一般取引員となり力商店を開設した。 1893年(明治26年)以降、古知野町会議員、学務委員、学校組合議員、勧業諮問会員、丹羽郡会議員、同参事会員、同徴兵参事員、道路組合会議員などを務めた。
一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(… 一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(明治元年10月20日) - 1939年(昭和14年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国知多郡成岩村(現愛知県半田市)で、名主・一柳浅右衛門の二男として生まれる。苦学して三井物産社員を経て、1897年に北海道に渡る。 ニシン漁で失敗し、1900年、札幌に移り、リンゴ、タマネギの販売を手掛け、海外への輸出なども行った。札幌区会議員、北海道会議員、同議長、日露貿易商組合長、札幌果実蔬菜輸出商同業組合長、札幌果実商組合長、札幌商業会議所副会頭、北海道拓殖倉庫取締役、北海道信託社長、一柳物産社長、合資会社一柳商会代表社員などを務めた。
原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治… 原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治元年10月10日)- 1938年(昭和13年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。名前は十吉とも表記される。 三河国加茂郡日明村(のち愛知県東加茂郡豊栄村、松平村、松平町を経て現・豊田市)に原田幸吉の次男に生まれる。家業の農業に従事し、1888年、徴兵検査に合格し、豊橋歩兵第18連隊に入隊する。3年後に除隊、除隊後は帰郷し、農業に従事した。 1894年、日清戦争が勃発し、召集された重吉は平壌の戦いに参加した。9月15日に平壌総攻撃の命令が下り、部隊は玄武門に近づいた。
鈴木 菊次郎(すずき きくじろう、1868年9月30日(慶応… 鈴木 菊次郎(すずき きくじろう、1868年9月30日(慶応4年8月15日) - 1935年(昭和10年)2月6日)は、三河国渥美郡田原村(現愛知県田原市)出身の実業家。 1868年9月30日(慶応4年8月15日)、三河国渥美郡田原村325番屋敷において、大工幸左衛門の長男としてこの世に生を受けた。父の幸左衛門は、大工ではあったが、茶の湯や華道、短歌も嗜む教養人でもあった。 成人すると父の家業を継いで、大工の棟梁となり、30歳ごろ同郡赤羽根村の宮田たねを娶った。たねは小物問屋を自ら商い、飴細工を製造販売した。当地においては農家の副業として、自作の大麦により麦芽糖を精製し、引き飴やタン切り飴を売ることが行われていたという。
滝 信四郎(瀧 信四郎、たき のぶしろう、1868年9月1日… 滝 信四郎(瀧 信四郎、たき のぶしろう、1868年9月1日(慶応4年7月15日) - 1938年(昭和13年)11月26日)は、江戸時代から昭和時代の実業家。株式会社滝兵商店(現在のタキヒヨー)代表取締役。滝実業学校(現在の滝中学校・高等学校)創設者。滝兵右衛門の四男。蒲郡市の観光開発に多大なる貢献をした人物でもある。 1868年(慶応4年)7月15日、尾張国丹羽郡東野村(現在の愛知県江南市)に生まれた。名古屋で呉服商を営んでいた滝家の五代目当主であり、父は同じく実業家の滝兵右衛門。 先代から受け継いだ滝兵右衛門商店を、1912年(大正元年)に資本金50万円で株式会社滝兵商店(現在のタキヒヨー)に改め、伝統だった丁稚奉公や番頭の派手な羽織りなどを見直して、店員の生活改善に努めた。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - … 花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和20年(1945年)4月2日)は、明治から昭和初期にかけてヨーロッパで活躍した日本人女優、ダンサー。本名、太田ひさ。 1900年代初頭、単身でヨーロッパに渡り舞台女優として活躍し、日本文化の紹介者としての役割を担った。また、彫刻家オーギュスト・ロダンに認められ、モデルとなっている。森鷗外の短編小説『花子』のモデルである。 尾張国中島郡上祖父江村(現・愛知県一宮市上祖父江)出身。2歳の時に親元を離れて名古屋に移り住み、4歳の時に養子に出され、酒井ひさとなる。 家の没落の影響もあり、旅芸人一座に入れられる。その後、1880年に舞子になり、1884年に芸者となる。
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3… 市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者。女子産業教育の先鞭者。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者。 備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業。 尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた。 1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。
田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3… 田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3年12月12日) - 1935年(昭和10年)3月30日)は、三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・実業家・政治家。第8代豊橋市長(1926年-1930年)。教育者の田部井鉚太郎は兄。 出生地は江戸赤坂の刈谷藩藩邸。刈谷藩士である田部井清蔵の二男である。出身地は三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)であるとされる。兄の田部井鉚太郎は教育者となり、愛知県内の学校の訓導や校長、富山県視学などを務めている。 兄と同じように愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、1891年(明治24年)に愛知県師範学校の訓導となった。その後愛知県師範学校の助教諭となり、1898年(明治31年)4月には額田郡視学となった。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年1… 二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。 後の愛知県半田市にて、小栗富一(初代・富治郎)の長男として生まれる。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造を始め財を成した。 1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。
岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月… 岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月1日(慶応3年10月6日) - 1930年(昭和5年)1月3日)は、日本の実業家・慈善家。幼名は吉太郎。西尾鉄道初代社長を務めたほか、私財を投じて岩瀬文庫をも創設した。 三河国西尾城下の須田町(現・愛知県西尾市)にて、肥料商を営む岩瀬弥蔵の長男として生まれる。小学校を卒業すると家業を継いだ。1887年(明治20年)20歳の時に本家の猪代治が亡くなったため、本家の山本屋へ養子に入る。その際、猪代治の長女と結婚し、祖父の名を襲名して四代目弥助を名乗る。同年、旧西尾藩士・矢島貞廉(やじま ていれん)が中心となって結成した、法律、経済、社会問題について学ぶ「談話会」に入会し幹事となる。
森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3… 三輪 市太郎(みわ いちたろう、1867年5月21日(慶応3年4月18日)- 1930年(昭和5年)2月8日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国海西郡、のちの愛知県海部郡八開村(現愛西市)で、三輪伊三郎の四男として生れ、1884年(明治17年)兄・伊兵衛の後を承けて家督を相続した。普通学、漢文学を修めた。農業を営む。 土木会社勤務を経て、独立して鉄道工事の土木請負業を営む。資金を工面するため必要最小限の財産以外の全てを売却した。次第に工事施工の内容に信用を獲得して事業を拡大した。その後、中央土木社長、愛知鉄道社長、海島銀行取締役、日光川倉庫銀行監査役、愛知開墾社長などを務めた。
岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応… 岡田 菊次郎(おかだ きくじろう、1867年5月19日(慶応3年4月16日) - 1962年(昭和37年)9月3日)は、三河碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)出身の政治家。 安城村長、安城町長。安城村会議員、安城町会議員、碧海郡会議員、愛知県会議員。安城町に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高校)や愛知県農事試験場などの施設を誘致し、町内の道路整備を進めた。明治用水などの水利事業にも関わり、「用水の神様」と呼ばれた。安城市名誉市民。 1867年(慶応3年)、三河国碧海郡安城村戸崎(現・愛知県安城市安城町)の米穀商である岡田覚兵衛の長男として生まれた。19歳の時に家業を弟に譲って百姓となり、約1町歩の田畑をもらって新家に出た。
鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(18… 鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(1867年4月19日) - 大正15年(1926年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。 尾張国知多郡北崎村(現在の愛知県大府市)出身。知多郡大府村初代村長の鈴置善平は実兄にあたる。1883年(明治16年)、愛知県中学校を卒業。1886年(明治19年)に大学予備門を終え、1890年(明治23年)に東京帝国大学法科大学政治理財科を卒業した。卒業後は会計検査院の検査官となった。1898年(明治31年)に退官し、小栗銀行の理事に就任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年… 中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)1月16日)は、日本の篤農家。明治期の豊橋地域において温室栽培を始めた人物。 三河国渥美郡野田村の農家中島市兵衛の次男として生を受ける。当時の義務教育である小学校4年を修業したのち、1880年(明治13年)からは夜学に5年間通いつつ、家業である農業を手伝う。稲作や麦作にかわる現金収入となる作物の研究を行い、1887年(明治20年)ごろにはタマネギや桃といった園芸作物の栽培、さらには温室栽培を試みるようになった。 1901年(明治34年)には自宅の風呂場横に5坪のガラス温室を新設し、山椒の栽培を始める。
岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1… 岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1月13日(慶応2年12月8日) - 1923年(大正12年)3月29日)は、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)出身の酒造家・刈谷町長。 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)に生まれた。父は岡本瀧三郎。岡本家は庄屋を務めていた家であり、酒造業を生業としていた。 1911年(明治44年)9月から1912年(大正元年)7月まで刈谷町会議員を務めた。1915年(大正4年)6月には刈谷町長に推されて就任した。1919年(大正8年)9月には5代目藤井清七が岡本の後任の刈谷町長に就任したが、1921年(大正10年)7月には岡本が再び刈谷町長に就任した。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月… 村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1921年(大正11年)5月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 尾張国丹羽郡小折村(のち愛知県丹羽郡布袋町、現・江南市)出身。漢学を学ぶ。実業界に身を投じ、愛北物産(資)社長、名古屋米商会所肝煎、(株)鉄道車両製造所取締役、(株)名古屋商品取引所理事長、(株)丹葉銀行副頭取、丹羽郡所得税調査委員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知4区から無所属で立候補して当選する。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉俱楽部公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙で落選した。
宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年… 宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年5月12日〉- 1925年〈大正14年〉5月19日)は、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)出身の医師。 慶応2年5月12日、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)の旧家である宇都宮家に生まれ、後に刈谷藩の藩医の家系である宍戸家の養子となった。1882年(明治15年)12月に東京大学予備門に入学し、1889年(明治22年)6月に第一高等中学校(予備門の改称後の名称)を卒業すると、1893年(明治26年)11月に東京帝国大学医学部を卒業した。 その後東京帝国大学の大学院で病理学を学び、恩師に病理学者の三浦守治などがいる。1895年(明治28年)7月に養父の宍戸隆一が死去したことで郷土に戻り、宍戸家を継いで宍戸療院を開業させた。
木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9… 木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9月30日) - 大正11年(1922年)7月22日、本名:上田秋次郎(のち柳川正直と称す))は大坂相撲を代表する行司。現在の愛知県清須市出身。 実父は地元の相撲集団・愛知組の頭取・一力利三郎で、1871年に親の勧めで同郷の大坂相撲頭取・三保ヶ関喜八郎の部屋に入門。初名は木村秋次郎で1873年7月初土俵。しかし兄弟子の厳しい指導に耐えきれず、一時郷里に帰った。当時、東京相撲を脱退した初代高砂浦五郎が名古屋で改正組を結成、1875年にその一員となり、木村庄治郎とも名乗っていた。1878年5月、4年半余り対立していた高砂改正組は仲裁者の仲立ちで東京相撲と和解、復帰することになり、木村秋二郎(秋治郎)で同場所の別番付に記載された。
中村 直吉(なかむら なおきち、慶応元年6月25日〈1865… 中村 直吉(なかむら なおきち、慶応元年6月25日〈1865年8月16日〉 - 昭和7年〈1932年〉7月27日)は、明治時代の冒険家。生来の旅好きで「旅行狂」「風船玉」を自称した。 三河国吉田呉服町(現・愛知県豊橋市呉服町)に生まれる。 明治20年(1887年)、福沢諭吉が横浜正金銀行初代頭取だった中村道太とともに、アメリカに「日本村」建設を計画すると、これに共鳴し参加を志す。しかし、計画の責任者だった井上角五郎が甲申政変に関与した嫌疑で逮捕されたため、渡航直前に計画が頓挫してしまう。 アメリカ行きの志を諦めきれない直吉は、翌21年(1888年)に結婚後間もない妻を残し単身渡米した。以後、同26年(1893年)の一時帰国を挟んで、明治31年(1898年)までの前後10年間に及ぶ海外放浪を続け見聞を広める。
五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年… 五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1910年〈明治43年〉9月10日)は、日本の歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌。 元治元年12月14日(1865年1月11日)、三河国の東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉の次男として生まれた。本名は鉄三郎。母は碧海郡東境村の泉正寺の生まれである。 理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった。 1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた。
高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元… 高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日) - 1914年(大正3年)6月24日)は、真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人である。 尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)生まれ。尾張小教校(のちの旧制尾張中学、現在の名古屋大谷高等学校)修了。和歌山県新宮市浄泉寺12代住職。旧姓は山田、幼名は妻二郎。 日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。 1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したことから幸徳事件(大逆事件)の関与を疑われ逮捕される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役に減刑された。
柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 -… 柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 - 1909年9月27日)は、明治時代の貿易商。日本における活動写真(映画)の導入に貢献した人物である。 愛知県豊田市出身。父は挙母藩の郡奉行を務めた柴田順平。弟に柴田鏡三郎。 東京・京橋の貿易商、新居商会に勤め、興行師の櫛引弓人や新居三郎と関わりを持つ。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に日本庭園を出品するため渡米。その後もアメリカ各地の催しに参加した。 1896年(明治29年)、友人の勧めで「ヴァイタスコープ」の上映を観賞。日本での上映を思い立ち、直ちに映写装置と16本のフィルムを3,500円で購入したが、代金が不足していたため、残額を日本で支払うこととなった。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。
志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年… 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文… 青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文久3年8月2日) - 1944年(昭和19年)12月21日)は、日本の牧師である。 岡崎藩士青山昇三郎(後の日本基督教会牧師)の長男として岡崎に生まれる。明治維新になり、1875年(明治8年)8月に父と共に東京に転居。東京市築地の新栄教会でデイヴィッド・タムソンと小川義綏の薫陶を受け、1877年(明治10年)1月に受洗する。 1880年(明治13年)に築地大学校に入学する。ジェームス・ハミルトン・バラらに薫陶を受ける。後に東京一致英和学校に移る。1885年(明治18年)に明治学院の最初の卒業生となる。卒業と同時に、神学部に入学する。 しばらく四国の大洲で伝道をしたのち、1888年(明治21年)に渡米し、マコーミック神学校で学ぶ。
丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8… 丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8月11日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月5日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者である。日本で5番目に開業した電力会社名古屋電灯で初代技師長を務めたほか嘱託技師として大阪市電の開業に携わった。愛知県名古屋市出身。 文久3年6月27日(新暦:1863年8月11日)、丹羽氏任の長男として名古屋城下・広小路御園の屋敷で生まれた。父・氏任は尾張藩に仕える儒学者(藩儒)。また丹羽家は一色公深を祖とするという。正道は幼少期から聡明であったといい、東京に出て大学予備門で学んだのち工部大学校へ進学。工部大学校では成績優秀のため官費生であった。
上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年… 上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年〉5月10日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)出身の実業家。東三河地方では指折りの事業家であるとされる。渥美半島における様々な企業の創業に関与し、海運業、電気事業、陸運業、金融業などで半島の発展に寄与した。衆議院議員の上村千一郎は孫。 1863年(文久3年)5月10日、三河国渥美郡畠村614番地(現在の愛知県田原市福江町)に生まれた。上村家は畠村の庄屋を務めていた家である。父は上村杢八、母はもとであり、母は知多郡師崎村(現在の南知多町)出身だった。杢左衛門は長男である。1867年(慶応3年)には父の杢八が死去し、4歳にして杢左衛門が上村家を相続した。
長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4… 長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4月14日(文久3年2月27日)- 1927年(昭和2年)3月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国丹羽郡、のちの愛知県丹羽郡穂波村(西成村を経て現一宮市)で、尾張藩士・長谷川甚左衛門の二男として生まれた。鷲津私立学校で漢学を修めた。製糸業、石炭販売業を営む。日清戦争に従軍。 木曽川三川四百七箇村土功会議員、愛知県会議員、丹羽郡会議員、同参事会員、愛知県税賦課額調査委員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第4区、無所属)で当選し、その後、新自由党に所属し衆議院議員に1期在任した。 その後、愛知県湯屋連合組合組長、愛知県会議員、同市部会議長、名古屋市会議員、名古屋商業会議所特別議員、日本赤十字社終身社員などを務めた。
太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久… 太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久3年2月8日)- 1886年(明治19年)2月19日)は、明治時代の自由民権運動家である。 三河の幡豆郡一色村(現在の愛知県西尾市)に豪商の家系の子として生まれる。若くして自由民権運動に参加し、内藤魯一らと共に国会の開設に携わった。その後は自由党に入党し同党の本部で様々な活動の補佐に携わり、1880年(明治13年)には政治活動をまとめた著書である『政法論』を執筆する。 翌1881年(明治14年)には『自由権理論』の出版にも携わり、後に東京や横浜を中心に日本各地で演説活動や新聞および雑誌といったマスメディアに論説を発表することにも力を入れた。
林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年… 林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年1月20日)- 1921年(大正10年)11月21日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・小原。 尾張国春日井郡上条村(愛知県春日井郡和爾良村、東春日井郡和爾良村、鳥居松村を経て現春日井市上条町)で、小原藤三郎の長男として生まれ、皇漢学、英学、撃剣、柔術を学んだ。1881年(明治14年)先々代林金兵衛の養子となり、先代・亡養兄国太郎の家督を相続し農業を営む。 学務委員、勧業委員、東春日井郡書記、和爾良村会議員、連合村会議員、愛知県教育会商議員、愛知県育児院幹事、東春日井郡徴兵参事員、同郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、大日本武徳会支部常置委員などを務めた。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。
高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年… 高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年) - 明治45年(1912年)2月22日)は、日本の実業家。読売新聞社社長などを務めた。 肥前国佐賀生まれ。佐賀藩士で、1885年に商法講習所(現一橋大学)を卒業し、三井物産入社。同期に藤瀬政次郎がいた。 1890年三井物産を退社。1892年兵庫県立神戸商業学校校長。同年愛知県名古屋商業学校校長。1897年依願退官。 日本郵船入社後、春日丸事務長などを経て、1909年日就社社長。1910年読売新聞社社長。1912年死去。社葬が行われた。 読売新聞社創業者の本野盛亨の甥にあたる。
田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年… 田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年4月) - 1918年(大正7年)9月9日)は、三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・文筆家。号は竹香。豊橋市長の田部井勝蔵は弟。 文久2年(1862年)4月、江戸・赤坂にある刈谷藩の江戸藩邸に生まれた。父は刈谷藩士の田部井清蔵であり、鉚太郎は長男だった。田部井家は三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)にある。 明治維新後には愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、21年間にわたって愛知県内の学校の訓導や校長を務めた。また、南画家の牧野敏太郎(挙母藩藩士の子であり牧野義雄の兄)の南画の師だった。1901年(明治34年)には富山県視学となった。
伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 -… 伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 - 1926年〈大正15年〉6月11日)は、尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)出身の実業家。伊奈製陶所(伊奈製陶株式会社、INAXを経て、現在のLIXIL)を経営した。 初代伊奈長三郎(号は長三)は、常滑焼で知られる尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)の陶芸界で名を残し、4代まで伊奈長三郎を襲名した。文久2年(1862年)に生まれた伊奈初之烝は、それまでの伊奈家の家業だった陶芸には興味を向けず、近代的な窯業工場の経営を志向した。5代目伊奈長三郎は伊奈初之烝ではなく弟の伊奈伍助が襲名している。 設立年は定かでないが、伊奈初之烝は個人経営の伊奈製陶所を設立し、商号を「マルハ」として陶管の製造を開始した。
板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年)… 板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年) - 1924年(大正13年))は、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身の教育者。第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)校長(1887年-1900年、1906年-1921年)。板倉は当時の碧海郡の教育界の中心的な存在であった。1919年(大正8年)に勲八等瑞宝章受章。 文久2年(1862年)、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身。1880年(明治13年)7月19日に愛知県師範学校を卒業し、第五十五番小学棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)の教員となった。1886年(明治20年)に新川に架かる無名橋が現在地に移設された際には、板倉や岡本八右衛門らが元禄橋と命名している。
堀尾 茂助(ほりお もすけ、1861年10月4日(文久元年9… 堀尾 茂助(ほりお もすけ、1861年10月4日(文久元年9月1日) - 1940年(昭和15年)12月28日 )は、日本の政治家、衆議院議員。名は恭、後に茂助と改名。号は楽斎、庭柏居士。 堀尾吉晴の子孫とされる堀尾義康の息子として尾張国東春日井郡小木田村大字関田(現在の春日井市)で生まれる。剣法、漢学、書法、詩作を学んだ。 東春日井郡書記、小木田村会議員、愛知県会議員、東春日井郡会議員、愛知県農会長などを歴任。自由民権運動に加わり地租増徴案に反対し地価修正運動を推進した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙に愛知県第三区から出馬し当選。以後、第6回、第13回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年… 浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年12月23日)- 1909年(明治42年)3月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 1861年(万延元年)、三河国加茂郡四郷村(のち愛知県西加茂郡上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市)に生まれた。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 普通学を修得し、農業と酒造業を営む。学務委員、上郷村会議員、同村長、西加茂郡会議員、愛知県会議員、県税賦課額調査委員、県道改修委員、勧業諮問会員となった。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知9区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。
名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政… 名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政7年1月14日) - 1930年6月20日もしくは6月22日)は日本の植物研究家である。三河地方の植物調査を行った。 三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に福島藩(のち重原藩)の貝吹陣屋代官家に生まれた。はじめは医者を志して東京の慶應義塾や京都で学ぶが兄をなくし家を継ぐために西尾に戻った。愛知県水産試験場の嘱託となり、岡村金太郎の指導を受けて、「尾三沿海植物調査」などを発表した。牧野富太郎の指導も受け、愛知県の陸上植物の研究を行い、『愛知県植物志料』を発表した。 ミカワタヌキモなどを発見し、ミカワタヌキモは、牧野によってUtricularia nagurai Makino(Utricularia gibba L. = イトタヌキモのシノニム)と命名された。
加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1… 加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。