臼井 良介(うすい りょうすけ、1980年11月22日 - … 臼井 良介(うすい りょうすけ、1980年11月22日 - )は、日本の教育者。 愛知県知多市に生まれる。 島根大学法文学部言語文化学科を卒業後、2005年より島根県立隠岐島前高等学校常勤講師に就任した。 2006年に愛知県立常滑高等学校非常勤講師に転任。
愛知県:41人
臼井 良介(うすい りょうすけ、1980年11月22日 - … 臼井 良介(うすい りょうすけ、1980年11月22日 - )は、日本の教育者。 愛知県知多市に生まれる。 島根大学法文学部言語文化学科を卒業後、2005年より島根県立隠岐島前高等学校常勤講師に就任した。 2006年に愛知県立常滑高等学校非常勤講師に転任。
越智 久美子(おち くみこ、1976年11月17日 - )は… 越智 久美子(おち くみこ、1976年11月17日 - )は、日本の教育者。至学館大学健康科学部健康スポーツ科学科准教授。 愛知県名古屋市出身。旧姓は平野。 中京女子大学付属高等学校(現・至学館高等学校)卒業。中京女子大学(現・至学館大学)人文学部アジア文化学科卒業。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士後期課程満期退学。至学館大学健康科学部健康スポーツ科学科准教授。
宮本 延春(みやもと まさはる(旧姓:山元)、1969年1月… 宮本 延春(みやもと まさはる(旧姓:山元)、1969年1月4日 - )は、日本の教育者、元高等学校教員。元豊川高等学校教諭、教育再生会議委員、エッセイスト。 名古屋大学理学部物理学科を経て同大学院理学研究科修士課程修了(修士(理学))。通称「オール1先生」。 自身の体験を綴ったエッセイの出版や講演活動を行っている。初エッセイ『オール1の落ちこぼれ、教師になる』は10万部突破のベストセラーとなった。 1969年 愛知県半田市生まれ。 幼稚園時代には、父は土木関係の仕事、母は旅館の仲居をしていたが、小学校入学と時を同じくして両親はラーメン屋を開業する。 小学校3年生頃から「勉強嫌い」と「いじめ」に悩むが、両親の仕事が忙しかったため誰にも相談できなかった。
青山 浩之(あおやま ひろゆき、1968年 - )は、日本の… 青山 浩之(あおやま ひろゆき、1968年 - )は、日本の書写書道の教育者、書家。「美文字王子」の愛称で知られ、メディアなどでは「美文字研究家」として紹介されることが多い。横浜国立大学教育人間科学部教授。 愛知県岡崎市出身。小学校1年生のとき近所の書道教室に通い始める。この頃から文字を意識するようになったという。岡崎市立山中小学校、岡崎市立東海中学校卒業。中学高校時代は野球部に専念。6年間書道から離れる。 1990年3月、東京学芸大学教育学部特別教科教員養成課程卒業。1992年3月、同大学大学院教育学研究科美術教育専攻書道講座修了。同年4月、学習院高等科と東京学芸大学附属竹早中学校の非常勤講師となる。
深谷 圭助(ふかや けいすけ、1965年9月9日 - )は、… 深谷 圭助(ふかや けいすけ、1965年9月9日 - )は、日本の教育者、教育学者、博士(教育学)。中部大学教授。 「辞書引き学習法」の提唱者。ベネッセコーポレーション辞典企画アドバイザー。小学館国語辞典編集委員。非営利活動法人こども・ことば研究所理事長。 愛知県刈谷市出身。愛知教育大学教育学部小学校課程社会科卒業、名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。 愛知県刈谷市立亀城小学校教諭時代、学び方研究に取り組み、付箋を活用した「辞書引き学習法」を勧める。 刈谷市立刈谷南中学校教諭を経て、2005年4月、立命館小学校設置準備室に赴任し、2006年4月に立命館小学校教頭。2008年4月より2010年3月まで立命館小学校校長。
林 知宏 (はやし ともひろ、1961年 - ) は、日本の… 林 知宏 (はやし ともひろ、1961年 - ) は、日本の教育者・研究者。博士(学術)(東京大学・2000年)。 専攻は数学史。専門分野は17世紀ヨーロッパを中心とする数学史・科学史。 学習院高等科数学科教諭。日本ライプニッツ協会理事(2021年時点)。 1961年名古屋市に生まれる。東京都立富士高等学校卒業。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了。1985年学習院高等科非常勤講師、1986年から学習院高等科教諭(現職)。1995年学習院高等科での教職を続けながら東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻に入学し、2000年同大学院博士課程修了。2001年から早稲田大学大学院理工学研究科・理工学部非常勤講師を務めていた。
水野 次郎(みずの じろう、1957年 - )は、日本の編集… 水野 次郎(みずの じろう、1957年 - )は、日本の編集者、教育者。 愛知県で生まれる。愛知県立時習館高等学校から慶應義塾大学文学部卒業後、福武書店(後のベネッセコーポレーション)に入社して、10年間にわたり幼児雑誌『こどもちゃれんじ』の初代編集長を務め、「「しまじろう」の生みの親」として知られるようになる。ベネッセでは、幼児通信教育部長、大阪支社長などを歴任した。 2003年にベネッセを退社して、伊東市でプチホテル経営に転じた。 2007年、第11回伊豆文学賞に応募した「海師(うみし)の子」が優秀賞に入賞した。 2008年、千葉県教育委員会が行なった県立高校の民間人校長採用選考に応募し、全国から27人の応募があった中からただひとり採用された。
横井 茂樹(よこい しげき、1949年2月12日 - )は、… 横井 茂樹(よこい しげき、1949年2月12日 - )は、日本の教育者。名古屋大学名誉教授。 インターネット、携帯電話、デジタル放送の電子的メディアは発達は社会に大きなインパクトを与えているとして、電子メディアがもたらす未来社会について考察するとともに、これからの人間社会にとって電子的な環境やライフスタイルを、ビジュアルな表現を用いてデザインしていくことを目的として活動をしている。
中島 恒雄(なかじま つねお、1947年(昭和22年)6月2… 中島 恒雄(なかじま つねお、1947年(昭和22年)6月26日- )は、日本の教育者、福祉活動家。尾州茶屋家17代当主。学位は教育学博士(フォーダム大学・1989年)。学校法人茶屋四郎次郎記念学園創立者・理事長、東京福祉大学・大学院総長・学長、学校法人たちばな学園創立者・理事長、理学・作業名古屋専門学校名誉校長、保育・介護・ビジネス名古屋専門学校校長、社会福祉法人茶屋福祉記念会茶屋とくしげ保育園理事長、社会福祉法人茶屋の園特別養護老人ホームたちばなの園白糸台創立者、特定非営利活動法人(NPO)日本・留学生交流援護会創設者、茶屋四郎次郎記念学術学会創設者(日本学術会議登録学術研究団体)、上海師範大学名誉教授、海南師範大学名誉教授、前ハーバード大学教育学大学院招聘学者、講道館柔道5段。
八木 幸二(やぎ こうじ、1944年4月12日 - )は、日… 八木 幸二(やぎ こうじ、1944年4月12日 - )は、日本の建築家、教育者、研究者。東京工業大学名誉教授、京都女子大学名誉教授、工学博士。 愛知県一宮市生まれ。1969年, 東京工業大学工学部建築学科卒業。1969年から1970年まで, 東京工業大学清家清研究室で大阪万博スイス館現場担当。1970年同大学助手。1971年から1974年にかけて、シリアの都市計画援助OTCA派遣。シリアの農村計画に従事。1975年から1976年まで、オーストラリアのクインズランド大学研究員。風土建築を研究。1980年オクラホマ大学客員助教授。1987年マサチューセッツ工科大学客員研究員、1987年東京工業大学助教授、1995年東京工業大学教授、2010年3月東京工業大学を定年退職、2010年9月-11月上海同済大学客座教授。
村瀬 幸浩(むらせ ゆきひろ、1941年11月2日 - )は… 村瀬 幸浩(むらせ ゆきひろ、1941年11月2日 - )は、日本の教育者。ジェンダーフリー、性の自己決定権や女性学、男性学といったテーマで活動している。 愛知県名古屋市生まれ。東海中学校・高等学校ではバスケットボールに打ち込み、1960年に東京教育大学体育学部に入学。在学中は丹下保夫に師事した他、デューイ、マカレンコ、ペスタロッチらの教育思想を学ぶ。1964年に同大学を卒業後、和光高等学校の保健体育教諭として1989年まで25年間勤める。退職後は一橋大学、津田塾大学でセクソロジーの講師を2015年までつとめる。他に東京女子大学講師。 1982年、"人間と性"教育研究協議会の設立に参画し、幹事をつとめ『季刊SEXUALITY』誌(エイデル研究所刊)の編集に携わる。
沢井 鈴一(さわい すずいち、1939年 - 2015年7月… 沢井 鈴一(さわい すずいち、1939年 - 2015年7月21日)は、愛知県春日井市出身の教育者・郷土史家。 明治大学文学部卒業 後、市邨学園高等学校において国語の教員として勤務するかたわら、郷土史を研究した。また、在職中より生徒とともに堀川再生運動にもかかわった。退職後も精力的に活動し、市民団体「堀川文化探索隊」代表も務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
荒 道子(あら みちこ、本名:田中 道子(たなか みちこ)、… 荒 道子(あら みちこ、本名:田中 道子(たなか みちこ)、1934年(昭和9年)11月20日 - )は、日本の声楽家(メゾソプラノ・アルト)、音楽教育者。海外経験が豊富であり、欧州の歌劇場と専属契約する日本人歌手の草分けとして、オペラの重要な役柄を務めた。また、数多くのコンサートでも活躍している。現在は音楽教育者として後進の育成に注力している。 愛知県豊橋市出身。愛知県立時習館高等学校卒業。1961年(昭和36年)東京藝術大学声楽科卒。 藝大在学中にモーツァルト『フィガロの結婚』マルチェリーナでデビュー。1964年(昭和39年)には2月16,18日 日生劇場 ストラヴィンスキー『放蕩者のなりゆき』(指揮:森正)トルコ女ババ、続いて3月20日 NHK歌劇の夕べ・東京文化会館大ホール 石井歓『役の行者』(指揮:若杉弘)葛城の魔女を演じた後、留学に出発する。
佐藤 昭夫(さとう あきお、1927年8月15日 - 200… 佐藤 昭夫(さとう あきお、1927年8月15日 - 2007年10月23日)は日本の教育者、政治家。元参議院議員(日本共産党公認、2期)。 愛知県名古屋市出身。京都大学理学部を卒業後、京都市立日吉ヶ丘高等学校教諭を務める傍ら、1958年京都教職員組合役員に就任。 1977年の参院選に京都府選挙区から立候補し初当選。1983年の参院選でも再選を果たすが、1989年の参院選で次点に終わる。 2007年10月23日、肺炎のため京都府宇治市の病院で死去。80歳。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 19… 近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 1978年8月16日)は、愛知県豊橋市中柴町出身の教育者・郷土史家。文学博士(東洋大学、1972年)。 1910年に豊橋市中柴町に生まれた。建具商である近藤宇一の長男であり、生家は大手通りから諏訪神社に曲がる角にあった。松山尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)、愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。教員志望だったため、1928年(昭和3年)には東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学し、1931年(昭和6年)に卒業した。 1934年(昭和9年)に花田尋常小学校(現・豊橋市立花田小学校)代用教員となったのが教職の始まりである。豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、豊橋市立工業学校(現・愛知県立豊橋工業高等学校)、愛知県立時習館高等学校の教員を務め、1971年(昭和46年)に時習館高校で定年を迎えた。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1… 梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1995年7月14日)は、日本の体育学者、教育者。 中京商業学校創立者の梅村淸光の子息として茨城県水戸市において生まれた。旧制愛知第一中学校(現 愛知県立旭丘高等学校)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)、神戸商業大学(現神戸大学)をそれぞれ卒業する。 神戸商業大学卒業後に父が興した中京商業学校の教諭となる が、1933年に父の逝去により中京商業学校校長(梅村学園2代目校主)となる。1935年には1932年ロサンゼルスオリンピック陸上競技日本代表で、日本陸上競技選手権大会女子100mを3連覇した渡辺すみ子と婚姻する。 1942年に日本軍に召集されて出征。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)… 芥子川 律治(けしかわ りつじ、1906年 - 1986年)は、日本の教育者。 愛知県碧海郡明治村(安城市根崎町)に生まれる。名古屋市立城山中学校など、名古屋市内の小中学校長を歴任する。また、その後、中京女子大学において教授を務める。作文教育の実践、名古屋方言の研究において成果を残す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 19… 鈴木 修学(すずき しゅうがく、1902年1月5日 - 1962年6月7日)は、日本の社会福祉の実践家で教育者、日蓮宗僧侶。日本福祉大学の創立者で初代学長。学校法人法音寺学園、昭徳会理事長。日蓮宗大僧正。 1902年(明治35年)愛知県江南市寄木町の菓子の卸売りを兼ねる農家に生まれる。父は熱心な法華経信者であった。布袋尋常高等小学校高等科卒業後に家業を継ぎ、菓子の他にパンの製造と卸売を始めて成功する。やがて法華経の教えによる社会の救済を実践していた仏教感化救済会の杉山辰子と出会い、家業や蓄財を精算したお金を携えて救済会に入会する。1928年、辰子の養女みつと結婚。同年、辰子の指示により、夫婦で福岡県福岡市のハンセン病療養所を運営する。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1… 長谷部 広子(廣子 / ひろ / ひろ子、はせべ ひろこ、1898年(明治31年)7月22日 - 1977年(昭和52年)6月18日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県名古屋市で親弘の長女として生まれる。愛知県第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1921年、東京女子高等師範学校家事科を卒業。三重県立飯南高等女学校(現三重県立松阪高等学校)教諭に就任。名古屋市立第一高等女学校(現名古屋市立菊里高等学校)教諭に転じ、1939年、椙山女子専門学校教授に就任した。 1950年、愛知県教育委員に就任。 1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙に、革新統一候補として名古屋市の著名女性の支援などを受けて愛知県選挙区から無所属で出馬して初当選した。
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月2… 長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 愛知県名古屋市出身。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3… 市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者。女子産業教育の先鞭者。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者。 備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業。 尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた。 1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。
田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3… 田部井 勝蔵(ためがい かつぞう、1868年1月6日(慶応3年12月12日) - 1935年(昭和10年)3月30日)は、三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・実業家・政治家。第8代豊橋市長(1926年-1930年)。教育者の田部井鉚太郎は兄。 出生地は江戸赤坂の刈谷藩藩邸。刈谷藩士である田部井清蔵の二男である。出身地は三河碧海郡逢妻村(現・愛知県刈谷市)であるとされる。兄の田部井鉚太郎は教育者となり、愛知県内の学校の訓導や校長、富山県視学などを務めている。 兄と同じように愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、1891年(明治24年)に愛知県師範学校の訓導となった。その後愛知県師範学校の助教諭となり、1898年(明治31年)4月には額田郡視学となった。
志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年… 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年… 田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年4月) - 1918年(大正7年)9月9日)は、三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・文筆家。号は竹香。豊橋市長の田部井勝蔵は弟。 文久2年(1862年)4月、江戸・赤坂にある刈谷藩の江戸藩邸に生まれた。父は刈谷藩士の田部井清蔵であり、鉚太郎は長男だった。田部井家は三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)にある。 明治維新後には愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、21年間にわたって愛知県内の学校の訓導や校長を務めた。また、南画家の牧野敏太郎(挙母藩藩士の子であり牧野義雄の兄)の南画の師だった。1901年(明治34年)には富山県視学となった。
板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年)… 板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年) - 1924年(大正13年))は、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身の教育者。第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)校長(1887年-1900年、1906年-1921年)。板倉は当時の碧海郡の教育界の中心的な存在であった。1919年(大正8年)に勲八等瑞宝章受章。 文久2年(1862年)、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身。1880年(明治13年)7月19日に愛知県師範学校を卒業し、第五十五番小学棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)の教員となった。1886年(明治20年)に新川に架かる無名橋が現在地に移設された際には、板倉や岡本八右衛門らが元禄橋と命名している。
関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 189… 関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 1896年〈明治29年〉1月1日)は、明治時代の日本の教育者。日本統治下の台湾において初期の日本語教育に尽力し、芝山巌学堂の教師として赴任中に殉職した。台湾教育史において「六士先生」の一人として記憶されている。 関口長太郎は、三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市)出身。地元では西尾小学校の初代校長を務めた人物として知られている。1895年、日本が下関条約により台湾を領有したのち、文部省の伊沢修二の指導のもと、台湾初の日本語教育機関「芝山巌学堂」が設立され、関口はその教師として赴任した。 1896年1月1日、芝山巌学堂の教師6名と用務員1名は、元旦の拝賀式に向かう途中、抗日ゲリラに襲撃され全員が殺害された。
後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年1… 後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年10月5日) - 1930年(昭和5年)3月25日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。理科教育の先駆者で、「手工教育の開拓者」と呼ばれる。 三河国宝飯郡出身。1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。翌年、下谷医学校に勤めたが、ほどなく慶應義塾に戻って勉学を続け、後には義塾の教員も務めた。1872年(明治5年)生徒として通っていた英語塾のクリストファー・カロザースを慶応義塾の講師として紹介している。1877年(明治10年)に東京師範学校雇教師、次いで同校訓導となった。1881年(明治14年)には教諭に就任。物理学の著書を多く執筆しており、1885年(明治18年)には、弟子であり当時群馬県師範学校の教諭であった滝沢菊太郎、篠田利英、柳生寧生とともに、簡易器械を用いた実験を中心とする教科書『小学校生徒用物理書』を出版した。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
関 信三(せき しんぞう、天保14年(1843年) - 明治… 関 信三(せき しんぞう、天保14年(1843年) - 明治13年(1880年)4月12日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶である。真宗大谷派安休寺の末子として生まれる。法名は猶龍。 三河国幡豆郡一色村(現西尾市)生まれ。明治5年(1872年)明治政府の命を受けキリスト教の内情を探るべくキリスト教徒の中に長期にわたり潜入。これは、破邪顕清正運動と呼ばれた活動で、キリスト教が日本に良からぬ影響を与えるのではという危惧から信者たちの監視をしていたもの。彼は長崎、横浜で日本最初のキリスト者たちのグループの中にいたのち横浜弾正台(警察機構)のスパイという扱いになり、これが1872年まで続いた本人は、この初期の活動について自ら語ったり、書き残したものはない。