八木 米次(やぎ よねじ、1913年(大正2年)5月17日 … 八木 米次(やぎ よねじ、1913年(大正2年)5月17日 - 1992年(平成4年)12月5日)は、日本の政治家である。兵庫県西宮市長。兵庫県西宮市出身。息子は西宮市議・紙すき職人の八木米太朗。 昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒業。1951年から8期にわたり西宮市議会議員を務め、議長も歴任。 1980年11月の西宮市長選挙に立候補し当選。3期12年にわたり市長を務め、全国初となる24時間ドクターカー制度の設置や、兵庫イアーバンクに整備など多くの業績を残した。 また、JR宝塚線西宮名塩駅設置にも貢献し、同駅の駅前広場には、記念碑がある。 従四位、勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 19… 中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 1998年8月11日)はトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)の元技術者で、初代トヨペット・クラウン、及び初代トヨペット・コロナの開発責任者(トヨタ自動車での呼称は車両開発主査〔後にチーフエンジニアに名称変更〕)。また、日本の自動車開発に於けるチーフエンジニア制を築いた人物でもある。 兵庫県西宮市出身。1934年3月に長岡高等工業学校(現在の新潟大学工学部電気工学科)を卒業。共立自動車製作所勤務を経て、1938年9月にトヨタ自動車工業に入社、志望として設計、実験の分野を希望していたが、出身校や溶接の知識に詳しい事が注目され挙母工場(後の本社工場)車体生産課工機係に配属され、自社での大型2000tプレス機の開発、溶接機の改良等、工場の生産能力の向上に尽力する。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1999年11月1日)は、日本の経営者。日本触媒化学工業社長を務めた。兵庫県神戸市出身。位階は正五位。 1936年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、後に日本触媒化学工業に入社。 取締役、常務、専務を経て、1979年2月に副社長に就任し、1981年2月には社長に昇格。1986年2月に会長を経て、1990年2月から相談役を務めた。 1960年に大河内記念賞を受賞し、1969年11月に紫綬褒章を受章し、1977年4月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年11月1日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
青山 光二(あおやま こうじ、1913年2月23日 - 20… 青山 光二(あおやま こうじ、1913年2月23日 - 2008年10月29日)は、日本の小説家。 神戸市生まれ。第三高等学校を経て東京帝国大学文学部美術史学科卒業。在学中の1935年(22歳)、織田作之助らと同人雑誌『海風』を創刊する。 大村謙太郎の仲介により映画『東京ノ回敎徒』を制作することとなり脚本を担当、1944年6月「室町一郎」名義で脚本完成、9月末に映画完成。 戦後、『旅への誘ひ』(1948)などの私小説風連作を発表。1956年、『法の外へ』で直木賞候補。 その後、任侠ヤクザ路線に移行し、『修羅の人』で1966年再度直木賞候補、1966年(53歳)小説新潮賞を受賞。1977年、『竹生島心中』で三たび直木賞候補、及び泉鏡花文学賞・平林たい子文学賞候補。
渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死… 渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手)。
葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月1… 葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1997年〈平成9年〉3月13日)は、兵庫県武庫郡本庄村字深江(現・兵庫県神戸市東灘区深江)出身の女優。元宝塚歌劇団星組トップスター。本名は中原 英子(なかはら えいこ)、旧姓は岡本。夫に画家の中原淳一、長男に画家の中原洲一、孫に声優・俳優の加古臨王がいる。 尼崎市立高等女学校(現・尼崎市立尼崎高等学校)卒業後、1928年に宝塚音楽学校に入学する。翌1929年、「春のをどり」で初舞台。宝塚歌劇団18期生で宝塚歌劇団のトップスターとして活躍し、同期生に春日野八千代、冨士野高嶺らがいた。 宝塚歌劇団在団中は「アニキ」の愛称で上級生の小夜福子や同期生の春日野と共に男役として人気を争い、宝塚歌劇団を背負って立っていった。
河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1… 河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1998年10月7日)は、日本の言語学者。文学博士(東京大学、1962年)。東京教育大学名誉教授。専門は朝鮮語・中国語。 1912年、兵庫県神戸市生まれ。第一高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学言語学科卒業。 1940年(昭和15年)小倉進平の推薦を受け京城帝国大学助手に就任。1941年(昭和16年)同大講師。1942年(昭和17年)同大助教授。 第二次世界大戦後、1958年より東京教育大学言語学教室教授。1962年、「朝鮮漢字音の研究」を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年、東京教育大学定年退官後に大東文化大学教授に就いた(1983年まで)。
岡庭 博(おかにわ ひろし、1912年11月30日 - 20… 岡庭 博(おかにわ ひろし、1912年11月30日 - 2004年2月20日)は、日本の実業家、経営学者。日本興業銀行勤務を経て、三光汽船の代表取締役、会長を務めた。大阪産業大学名誉教授、経済学博士。 長男は評論家の岡庭昇。 兵庫県神戸市出身。姫路高等学校を経て、1935年に九州帝国大学法文学部に入学。在学中に高等文官試験に合格したが、官僚への道には進まず、卒業後、日本興業銀行に入行。調査部に配置され、大阪支店に勤務した。 1943年、姫路高校の先輩である河本敏夫に乞われて、三光汽船に取締役として入社。三光汽船の番頭格として河本を補佐し、財務担当役員として活躍した。 1949年、河本が第24回衆議院議員総選挙に兵庫県第4区から出馬し当選。
柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 19… 柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 1994年12月7日)は、日本の作曲家、音楽理論家。東京学芸大学名誉教授。 兵庫県洲本市出身。『和声 理論と実習』の共著者として知られる。東京学芸大学教授、東京芸術大学講師、千葉経済大学教授を歴任。 旧制洲本中学校卒業、東京音楽学校(東京藝術大学の前身)作曲科第1期生卒業。同校で信時潔、クラウス・プリングスハイムらに師事した。 1950年、イタリアのジェノヴァでの作曲コンクールにおいてピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」で入賞した。他には声楽曲が多い。1985年、勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月7日、心不全のため死去。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。
片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 19… 片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 1944年1月21日)は、兵庫県出身の俳人。本名・隆雄。 黒井村(現・丹波市春日町)生まれ。酒屋の次男。旧制柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業後、鴻池銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)に入行。俳句は旧制中学在学中よりはじめ、「鬼灯」誌で西山泊雲に師事、「ホトトギス」を経て、1935年に日野草城の「旗艦」創刊に同人参加。1937年8月応召、中国大陸にて従軍しながら戦地で詠んだ前線俳句を本国に送り「旗艦」に発表した。1940年帰国、句集『北方兵団』(三省堂 俳苑叢刊)を刊行。1941年に再度応召し、東部ニューギニアで戦死した。戦後、宇多喜代子が遺稿などを集め、1984年に『片山桃史集』を編集刊行している。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日… 秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 兵庫県揖保郡に生まれる。明石中学校、第三高等学校を経て、1933年(昭和8年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科に合格。1936年(昭和11年)3月、同大を卒業し、台湾総督府警務局保安課に奉職する。1939年(昭和14年)7月、台南州新営郡守となり、府事務官警務局保安課勤務を経て、陸軍司政官に転出した。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。
中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1… 中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1995年3月30日)は日本の写真家である。本名は中村立行(なかむらたつゆき)。 神戸市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後小学校の図画の先生をしていて、「毎晩1升近く飲んでいた酒を減らせれば」と夜できる道楽を探していて、飲み屋で誰かが借金の支払いとして置いて行った六櫻社(コニカを経て現コニカミノルタ)製のパーレットオプターF6.3付きを安価に入手したのが写真を始めたきっかけになった。ただ押し入れで現像をするようになっても押し入れにコップを持ち込み酒量は減らなかったという。 パーレットはヴェスト・ポケット・コダックのコピー品で撮影範囲を見当で決めなければならず構図を考えるのが難しかったため、厳密に構図を決められる二眼レフカメラのローライが欲しくなったが、月給が60円の時代に数百円したため高価で到底購入できず、1943年末にミノルタ(現コニカミノルタ)製のミノルタフレックスI型プロマーF3.5付きを購入した。
小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2… 小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2004年7月23日)は、日本の経済学者。第10代学校法人関西学院院長、元関西学院大学学長および経済学部教授。専門は金融論、国際金融論。日本金融学会第5代会長。 大日本紡績(後のユニチカ)社長・小寺源吾の四男。実弟はユニチカ社長を務めた小寺新六郎。元関西学院高等商業学部教授・小寺敬一は叔父。
森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月2… 森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月24日 - 1998年〈平成10年〉12月1日)は、日本の書家。兵庫県豊岡市出身。本名は「森田 清」。蒼龍社主宰・墨美社主宰。豊岡中卒。上田桑鳩に師事。1952年に「墨人会」を創立し、抽象画としての墨象の地位を確立する。主な作品に『龍知龍』などがある。
野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991… 野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991年12月4日)は、日本の地理学者。兄は国文学者の野間光辰。 兵庫県神戸市生まれ。1930年に旧制大阪府立高津中学校卒業。1933年に旧制大阪高等学校卒業。1936年に京都帝国大学文学部史学科地理学専攻卒業。1941年に京都帝国大学講師。大東亜戦争中、室賀信夫、小牧実繁らと関係していたため、公職追放された。1946年に同大学を退職。 その後、第三高等学校講師、京都新聞社出版部、毎日新聞社調査部を経て、1952年に立命館大学教授。1959年、金沢大学教授。1962年に「近代地理学の潮流 十九世紀地理学史研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。
西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 20… 前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 2010年3月16日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)・アマチュア指導者。
尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 199… 尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 1994年1月18日)は、日本の英語学・アメリカ文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。 兵庫県姫路市生まれ。尾上作兵衛の六男。姫路高等学校を経て、1934年東京帝国大学英文科卒。1939年まで大学院に在籍し、大阪高等学校教授、武蔵大学教授、戦後1951年中央大学経済学部助教授、1953年文学部助教授、教授、1982年定年となり名誉教授。はじめアメリカ英語を研究し、のち文学研究、翻訳をおこなった。 1994年1月18日、急性心不全のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 19… 石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 1996年1月19日)は、日本の大蔵官僚、実業家。第8代大蔵事務次官、さくら銀行名誉会長。文芸評論家の村上一郎は従兄弟。 神戸三中、大阪高校を経て、1935年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。主計局配属。理財局総務課長、大臣官房調査部長、理財局次長の後、1957年6月11日に俗に「森 - 石 ライン」と呼ばれることとなった森永貞一郎の下で官房長を務め、1959年に銀行局長、1961年に主計局長を経て、1963年に大蔵事務次官に就任、池田勇人首相の高度経済成長政策のブレーンとして活躍した。熟慮断行タイプとして知られ、大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当)だった1954年度予算編成では緊縮型予算を主張し貫徹した話は伝説になっている。
山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月1… 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、日本の女優・実業家・社会事業家・慈善家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。映画人の育成、功績のあった人の賞賛、教育・文化・福祉事業への支援活動に、私財を投げ打った。 1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった。
加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 20… 加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 2012年5月10日)は、日本画家。兵庫県豊岡市生まれ。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。中村大三郎に師事。日展に出品を続ける現役最高齢の日本画家として有名。朴土グループメンバー。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は… 岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は、兵庫県出身の野球選手。
田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日… 田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日)は、日本の歴史家。 1912年奈良県に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校文科に進む。その後、1930年に京都帝国大学文学部史学科に進み、日本中世史を専攻する。卒業論文「王朝時代に於ける荘園の発展過程」をまとめ、1933年に卒業。治安維持法違反容疑で検挙され、釈放後に「封建社会ノ研究」のため京都帝国大学大学院に進学する。1941年から京都府社寺課に嘱託として勤務し、赤松俊秀のもとで京都府内の寺社の宝物の調査に従事する。戦時中に病気になり、出雲町へ移り、療養のため入院していたが、その間にも、歴史学研究会の京都支部を発足させようと西岡虎之助に相談するなどしたことが、日本史研究会の設立につながり、創立委員の一人となった。
鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30… 鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30日 - 1992年(平成4年)8月20日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院、関西棋院に所属、九段。関西棋院早碁名人戦、関西棋院選手権戦優勝など。じっくりした棋風。 神戸市に生まれる。旧制神戸一中卒業。1927年に久保松勝喜代に入門。1929年初段。1942年五段。1946年六段。1950年の関西棋院設立に参加。以後関西棋院では橋本宇太郎八段に次ぐ六段として重鎮として活躍し、同年の日本棋院との東西対抗戦では杉内雅男に勝ち。続く勝ち抜き戦では副将として出場したが梶原武雄に敗れた。 1951年七段、第7期本因坊戦リーグ入りし、4勝2敗となって5人による同率決戦に進むが、1回戦で高川格に敗退。
塩見 力(しおみ つとむ、1911年11月21日 - )は、… 塩見 力(しおみ つとむ、1911年11月21日 - )は、戦前期の社会人野球の選手
志田 重男(しだ しげお、1911年<明治44年>11月21… 志田 重男(しだ しげお、1911年<明治44年>11月21日 - 1971年<昭和46年>7月3日)は、日本の労働運動家、社会主義活動家。日本共産党幹部を務めたが、除名された。 兵庫県津名郡浅野村(現・淡路市)生まれ。小学校を卒業後、1923年堺市で旋盤工となり、労働運動に入る。1932年日本労働組合全国協議会(全協)中央常任委員。1931年、日本共産党に入党し、1933年に検挙、投獄される。 第二次世界大戦後、政治犯釈放で出獄。党本部に入り、中央委員・政治局員・書記局員となり、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙で大阪5区から、第1回大阪府知事選挙に共産党公認で立候補したがいずれも落選した。
高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 19… 高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名:梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母である(寺田の娘が大浦と結婚したため)。 1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。 1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1… 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日本の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に6人兄弟の長男として生まれる。父親の花森恒三郎は裕福な薬種商であったが、競馬や株などで財を無くし、安治が8歳のときには火事で家が全焼したため長屋暮らしとなった。安治は幼い頃より画才に優れ、神戸市立雲中小学校の同級には田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校では活動写真部と弁論部に入り、1年浪人して旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、田所太郎らと校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 19… 椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。本名は大坪 昇(おおつぼ のぼる)。
小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9… 小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9月2日 - 1977年 <昭和52年> 7月24日)は、日本の経営者。日動火災海上保険社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に同志社大学予科を中退し、1939年に日動火災海上保険に入社。 1959年に取締役に就任し、1960年に常務、1962年に専務を経て、1964年に社長に就任。1966年2月までに社長を務め、同年6月には相談役に就任した。 1968年12月に日本サラリーマンユニオンを設立し、代表にも就任した。 1977年7月24日、出血性脳梗塞のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7… 門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7日 - 2010年(平成22年)2月19日)は、兵庫県出身の政治家。位階は正五位。「敬老の日」の提唱者として知られる。 多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町)で染色業を営み、1942年5月、30歳で野間谷村会議員に当選。同村収入役を経て、戦後の1947年4月、野間谷村の村長に35歳で当選した。同年9月15日、村主催の敬老会を初めて開催した。55歳以上の住民を公会堂に招いて食事と余興(播州歌舞伎)でもてなした。「長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、その知識や人生経験を次の世代に伝授してもらう場を設ける」という趣旨であった。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1998年5月7日)は、日本の近世文学研究者。博士(京都大学・1962年)(学位論文『戯作論』)。 兵庫県津名郡由良町(現:洲本市由良3丁目)に父・中村安郎、母・しげの次男として生まれる。旧制洲本中学校、1935年、京都帝国大学文学部国文科卒業。1940年、天理図書館司書となり、京都帝国大学大学院を退学。1949年、天理大学教授、1958年、九州大学文学部教授となる。1962年『戯作論』で京都大学の博士号を取得。1971年、九州大学を退職、関西大学教授に就任。 1981年、『此ほとり一夜四歌仙評釈』で第32回読売文学賞受賞。1982年から『中村幸彦著述集』の刊行開始(1989年7月まで)。
河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月2… 河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 2001年〈平成13年〉5月24日)は、日本の政治家、実業家。 衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官(第15代)、対外経済問題・民間活力導入担当大臣(第2次中曽根第1次改造内閣)、経済企画庁長官(第32・34代)、通商産業大臣(第34・36代)、郵政大臣(第28代)、衆議院議員(17期)、自由民主党政務調査会長などを歴任し、一時は「三角大福」に次ぐ自民党の実力者としても知られた。また、政界入り前は海運大手の1社だった三光汽船社長を務めており、政界入りに当たって辞任した後も事実上のオーナーであった。 正三位勲一等旭日大綬章受章。
嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 19… 嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 1989年9月21日)は、日本の経営者。白鶴酒造社長、会長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西学院大学高等商学部を卒業。1947年に白鶴酒造社長に就任し、1983年6月には会長に就任した。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年9月21日、心不全のために死去。78歳没。 妻の宏子は星島義兵衛の三女。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8… 池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8日 - 2001年(平成13年)8月13日)は、日本の実業家。兵庫県出身。大英帝国勲章KBE。 三井物産の社長・会長、日本放送協会(NHK)の会長を歴任した。 神戸二中、旧制第三高等学校を経て1936年に東京帝国大学経済学部卒業。中学から大学まで野球部に所属。 1936年に三井物産に入社し、食料部門を歩む。穀物油脂部長、1954年-1958年ニューヨーク支店次長、1961年-1963年台北支店長、1963年-1965年ロンドン支店長、1965年-1967年取締役ロンドン支店長、1967年業務部長、1968年常務取締役、1971年副社長を経て、1973年社長、1979年会長に就任し、1982年退任。
吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月3… 吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月30日 - 1984年(昭和59年)7月21日)は、日本の政治家。兵庫県姫路市長(4期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 兵庫県飾磨郡白浜村(現・姫路市)生まれ。旧制姫路中学校卒業後、東京帝国大学法学部に進み、高等試験並びに内務省幹部採用試験に合格した。1934年(昭和9年)、内務省に入省、大阪府、岩手県で勤務ののち、1938年(昭和13年)、陸軍に召集され姫路の第10師団歩兵第39連隊に入隊した。その後、甲種幹部候補生採用試験に合格、東京の陸軍経理学校への入校を経て、陸軍主計少尉に任官し、第10師団経理部で物資統制主任将校を務めた。1942年(昭和17年)2月、召集解除により内務省に復帰し、福岡県、愛知県で勤務、終戦後は厚生省佐世保引揚援護局総務部長、愛知県教育部長を務める。
川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1… 川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1944年)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。妻は宝塚歌劇団18期生の秦都美子。
水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997… 水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997年8月19日)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学、特に山東京伝。 兵庫県姫路市生まれ。1920年に急逝した兄の影響を受けて、近世文学研究を志す。姫路高等学校文科甲類を経て、1933年東京大学文学部国文学科を卒業。1935年、同大学大学院を修了。1939年仙台陸軍幼年学校教授。1940年姫路高校時代の恩師だった原田虎男の長女と結婚。1942年陸軍予科士官学校教授。1946年兵庫県立姫路商業学校教諭、1949年兵庫県立姫路工業大学付属高等学校教諭と兵庫県立姫路工業大学講師を兼任。1955年、明治大学文学部助教授、1960年同教授。1982年同大学を定年退職。
竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月… 竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月1日 - 1996年(平成8年)12月31日)は、日本の実業家。竹中家第15代当主。竹中工務店社長、会長、関西経済同友会代表幹事等を歴任した。 兵庫県神戸市出身。旧制甲南高等学校を経て、1933年(昭和8年)早稲田大学理工学部建築学科卒業、早稲田大学大学院修了。 1975年(昭和50年)には無公害、省エネルギー空調システムの開発で毎日工業技術奨励賞受賞。
鳥井 博郎(とりい ひろお/はくろう、1911年2月25日 … 鳥井 博郎(とりい ひろお/はくろう、1911年2月25日 - 1953年11月20日)は、日本の思想史家。 兵庫県神戸市出身。1934年東京帝国大学文学部哲学科卒。1933年唯物論研究会に参加。1934年三枝博音の「日本哲学全書」「日本科学古典全書」編集に協力。治安維持法違反で検挙され、拘留中の39年応召、病気で除隊となる。戦後は鎌倉アカデミア教授を務め、唯物論の立場から日本宗教史、明治思想史などを研究したが41歳で死去した。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 200… 淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 2005年2月14日)は、日本の彫刻家。文化勲章受章者。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。 兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 … 杉浦 正一郎(すぎうら しょういちろう、1911年2月9日 - 1957年2月23日)は、日本の俳諧研究者。 兵庫県神戸市生まれ。1934年東京帝国大学文学部卒。大阪高等学校の友人と『コギト』を創刊。志田義秀、潁原退蔵に師事して俳諧を研究。天理図書館、千代田女子専門学校、佐賀高等学校、戦後北海道大学助教授、九州大学助教授、同教授。在職中に46歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
北野 精一(きたの せいいち、1911年1月2日 - 200… 北野 精一(きたの せいいち、1911年1月2日 - 2000年9月1日)は、日本の経営者。日本触媒化学工業社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1932年に神戸高等商業学校を卒業。 商工省、大阪工業試験所での勤務を経て、後にヲサメ合成化學工業(後の日本触媒)に転じ、1948年1月に取締役に就任し、1963年1月に常務、1965年7月に専務を経て、1970年4月には社長に就任。1981年2月に会長、1986年2月に取締役相談役を経て、1987年2月から相談役を務めた。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年9月1日肺炎のために死去。89歳没。
河合 徹(かわい とおる、1911年(明治44年) - 19… 河合 徹(かわい とおる、1911年(明治44年) - 1992年(平成4年))は、日本の政策研究者、地方政治家。 神戸市生まれ、東北帝国大学法文学部出身。在学中から社会問題に関心を持つようになり、1937年、全国農民組合関東出張所書記になる。当時は共産主義は危険思想として治安維持法の取り締まり対象となっていたため、1938年、人民戦線事件に連座して逮捕される。 1939年4月に転向を宣言(偽装転向)することにより、起訴猶予処分で釈放される。その後、友人の紹介で昭和研究会に事務職員として参画する。昭和研究会は近衛文麿のブレーン組織として各界の有識者を集めていたが、一方では革新官僚に代表される社会主義者が多数所属し、国家社会主義的な政策を提唱していた。
海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)1… 海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)11月20日 - 1992年(平成4年)1月3日)は、日本の歴史学者。専門は、キリスト教・キリシタン史。文学博士(東京大学)。元立教大学文学部史学科教授。窪田幸夫の別名もある。 兵庫県尼崎市生まれ。1934年(昭和9年)立教大学文学部史学科卒業。卒業論文は、「京都南蛮寺建立考」。同志社高等女学部で教員を務める。1943年(昭和18年)応召入隊し、1946年(昭和21年)に復員する。 1949年(昭和24年)聖心女子大学教授、1960年(昭和35年)立教大学文学部史学科教授、立教大学ラテンアメリカ研究所・所長。キリシタン音楽史の研究を始めた、同僚の皆川達夫の指導も行った。
大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11… 大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月24日)はドイツ文学者、外交官。兵庫県西宮市の甲陽中学校出身(七回卒)。妻はヴァイオリニストの諏訪根自子。 1934年京都帝国大学文学部独文科卒。1937年からドイツのライプツィヒ大学に学ぶ。1939年に、帰国し外務省に入り、結婚するも、その後、外交官補としてベルリンに赴任。ドイツ留学中は朝永振一郎とも交流があった。 1945年、ドイツの敗戦とともに、アメリカ軍に捕らえられて、アメリカに拘留。この一連の出来事では、前田陽一、諏訪根自子が一緒だった。 帰国後、1949年、一高教授を経て、東京大学教養学部助教授、教授を1969年まで歴任した。