滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7… 片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7日 - 1953年(昭和28年)12月27日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・河本。 岡山県久米北条郡大井西村坪井下(久米郡大井西村、大井町、久米町を経て現津山市坪井下)で、素封家・河本芳太郎の長男として生れ、同村の親族、医師・片山恒四郎の養子となる。三宮電信局通信書記補を経て、実業家を目ざして同郷の西山和三郎の秘書となり、久米銀行千代支店長、山陽銀行千代支店長、同落合支店長、津山土地支配人、東京小松川土地建物常務取締役などを務めて成功をおさめ、岡山土地倉庫常務取締役、東京平井三業社長、宇部燃料工業社長、津山土地取締役、中国住宅取締役などを務めた。
笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)1… 笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)11月12日- 1955年(昭和30年) )は、日本の鉱山技師であり実業家でもある。日窒鉱業(現:ニッチツ)取締役。日窒コンツェルン首脳陣の一人。野口遵の鉱山業における片腕となり活躍した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の笹田三太郎の次男として誕生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1911年(明治44年)同校を卒業、第一期生として秋田鉱山専門学校(現:秋田大学鉱山学部)冶金学科へ入学する。 同校では、夏期に1・2年生は、教官同伴で4~5週間の実習、3年生では、各自実習と称して企業で働く、今のインターンシップの様な制度があった。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> … 谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> 12月1日 - 1968年 <昭和43年> 11月2日)は、日本の経営者。中国銀行副頭取、山陽新聞社長、山陽放送社長を歴任。位階は正五位。 岡山県津山市出身。1908年に泰西学館中学部を卒業。1946年に中国銀行副頭取、1947年に山陽新聞社社長を経て、1953年4月には山陽放送社長に就任し、1965年5月には会長に退いた。 1961年に岡山県文化賞を授賞し、1962年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1968年11月2日、心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1… 久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1968年〈昭和43年〉2月3日)は、日本の政治家、実業家、著述業。衆議院議員(岡山県第一区選出、当選6回)。岡山県会議員。 岡山県久米郡大井西村(現・津山市)に生まれた。久山茂樹の長男。1909年、家督を相続した。早稲田大学に学び、中退した。中国民報社に勤務し、記者となった。岡山県交通互助会長、高信銀行支店長、同支配人、久山工業所長、西美鉄道、美作電化工業各会社重役を務めた。 1919年、岡山県会議員に当選。1928年、衆議院議員に当選(6期連続当選)。立憲政友会に所属した。立憲政友会総務を務めた。1937年6月、第1次近衛内閣で司法政務次官に任ぜられ、1939年1月、退任した。
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1… 土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1日 - 1968年〈昭和43年〉7月8日)は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された。 岡山県阿賀郡実村(千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる。1908年(明治41年)岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる。 阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた。
山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)… 山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)5月1日 - 1951年(昭和26年)9月30日)は、日本の実業家であり、美術蒐集家でもある。本記事に記載するのは2代目發次郎である。 山発商店第2代社長、日本絹綿紡織(現:日本毛織)取締役。発次郎の美術コレクションがきっかけとなり、大阪中之島美術館建設計画が発足。2022年に開館となった。如水会会員。 岡山県上房郡北房町(現:真庭市)に生まれる。 戸田嘉平の三男で出生名は清、生家は水田村の庄屋の家柄だった。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、総合商社兼松の社長になる林荘太郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 … 井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 - 不明 )は、日本の実業家である。朝鮮商業銀行取締役。岡山県総社市出身。 1886年(明治19年)、岡山県吉備郡岡田村(現:総社市)の井上徳之助の長男として出生。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、後に台湾銀行本店支配人代理や岡山県議会議員をつとめる小山美登四がいる。1906年(明治39年)に同校を卒業し、東京高等商業学校予科を経て、翌年、正式に東京高等商業学校(現:一橋大学)へ入学する。1910年(明治43年)に同校の本科を卒業。 卒業後、直ぐに1年志願兵として第17師団へ入隊し、陸軍経理部三等主計となる。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12… 星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12月17日 - 1968年(昭和43年)7月25日)は、日本の実業家。元岡山県農工銀行頭取。岡山商工会議所設立者・初代会頭。 岡山県児島郡藤戸村生まれ。1905年岡山県立岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業。1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部銀行科卒業。 星島銀行入行後、1925年岡山県農工銀行取締役。1928年岡山県農工銀行頭取。1934年初代岡山ロータリークラブ会長。1936年日本赤十字社評議員。 1943年岡山県商工経済会会頭。1944年日本勧業銀行顧問。1946年岡山商工会議所発起人総代・初代会頭。
堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治… 堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治18年)11月6日 - 1975年(昭和50年)12月20日)は、日本の鉄道官僚であり、実業家でもある。鉄道省建設局長を務めた後、建設会社である間組(現:安藤・間)の社長代行となる。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の高田浦吉の四男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1904年(明治37年)、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1908年(明治41年)6月、同校を卒業し、同年、東京帝国大学工科大学へ進学する。1911年(明治44年)同大学土木工学科を卒業する。
林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6… 林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6月16日 - 1947年(昭和22年)3月26日 )は、日本の実業家である。総合商社である兼松第4代(兼松社長としては初代)取締役統括を務め、海洋化学研究所設立に出資した。この他にも、東邦金属製線、日本絹共販の各取締役、商工省諮問委員、神戸商工会議所顧問も務めた。岡山県倉敷市出身。 1885年(明治18年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の父・林廣三郎と母よしの長男として出生する。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月2… 田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月23日 - 1945年(昭和20年)2月14日 )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。日本電信電話工事の社長も務めた。岡山県倉敷市出身。 1884年(明治17年)岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1902年(明治35年)に同校を卒業、東京にある第一高等学校の文科イギリス法学科へ進学した。
木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち… 木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち、1883年(明治16年)8月22日 - 不明 )は、日本の実業家である。軍需工場でもあった日本加工織布の取締役。岡山県総社市出身。 1883年(明治16年)8月、岡山県吉備郡久代村(現:総社市)で父・木口豊三郎、母・仲の長男として出生。1901年に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、早稲田大学政治経済学科へ入学し、1904年(明治37年)、20歳で卒業した。1928年(昭和3年)父の死去と共に、45歳で木口家の家督を相続し、名前を九一から重彦へ改名している。 大学卒業後、実業界に実を投じ、貿易会社であった第一洋行の取締役となり、その後、1918年(大正7年)35歳のときに太陽製帽の支配人を務めている。
万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 … 万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 - 1959年3月28日)は、日本の実業家、明治から昭和期の銀行家である。全国銀行協会連合会元会長、三井銀行元会長、帝国銀行元頭取・会長を歴任した。 岡山県勝央町出身。作東義塾(現・岡山県立勝間田高等学校)を経て、1907年(明治40年)、青山学院高等科(現・青山学院大学)を卒業。同年、米山梅吉の誘いで三井銀行に入社し、1937年(昭和12年)に同銀行会長に就任する。1943年(昭和18年)に帝国銀行を設立して取締役頭取となる。その2年後に同銀行の会長、全国銀行協会連合会会長に就任。1953年(昭和28年)には、東京通信工業(現・ソニー)会長などを歴任。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1… 神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月6日 - 1966年(昭和41年)3月24日)は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身。 岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった。 その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった。その後、第六高等学校へ入学、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 … 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家・社会事業家・慈善家。倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。 早稲田大学推薦校友。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。
関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日… 関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日 - 1964年8月2日)は、岡山県笠岡市出身の実業家。元井笠鉄道代表取締役社長。 1875年9月1日、笠岡市西浜で生まれる。 1908年、井原笠岡軽便鉄道(後の井笠鉄道)の設立に尽力し、1934年、井笠鉄道取締役、1935年、専務取締役を経て、1941年、代表取締役社長となり、地方交通の発展に尽力した。 また、笠岡湾の浚渫、防波堤の築造、富岡湾の干拓などの事業に協力し、井笠地域の発展に尽力した。 1964年8月2日死去。享年88。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治… 和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治2年8月15日) - 1939年(昭和14年)6月11日)は、日本の実業家。大日本製氷社長。製氷業のパイオニアといわれる。また今日言うM&Aの先駆け的経営者でもあった。族籍は東京府士族。 広島市土手町出身。広島藩士・和合善男と梅子の長男。岡山中学校卒業。1890年、渋沢栄一や浅野総一郎などが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社する。この時代は寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであった。 1897年、気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機(機械製氷)を導入した機械製氷株式会社が設立された。
朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年… 朝倉 菊衛(あさくら きくえ、1867年8月18日(慶応3年7月19日) - 1922年7月1日)は、岡山県小田郡矢掛町出身の実業家、ジャーナリスト。 小田郡矢掛町で生まれる。若い頃は教員をしていた。 1888年、上京し、山縣内閣の機関として設立された時事通信社へ入社する。 1893年、独立して帝国通信社を設立し、常務取締役として経営に携わった。 また、池田寅治郎らと中央生命保険会社を設立した。 1922年7月1日死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866… 守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866年3月11日) - 昭和5年(1930年)12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太。父は、彌作。 備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ。1883年、東京に欧亜学館を設立する。 1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する。その後台湾総督府の後藤新平、児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる。
藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶… 藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶應2年1月10日)- 1933年(昭和8年)3月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県児島郡八浜村長、同郡八浜町長。 備前国児島郡八浜村(岡山県小島郡玉井村、八浜村、八浜町を経て現玉野市)で、藤原久三郎の長男として生れ、1890年(明治23年)7月に家督を相続した。旧制岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)で学んだ。 玉井村(のち八浜村に改称)助役を経て、1892年(明治25年)10月、玉野村長に就任し、1925年(大正14年)2月まで連続して八浜村長、八浜町長を務めた。また、1898年(明治31年)岡山県会議員に選出され1915年(大正4年)3月まで在任し、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで県会議長を務めた。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。
池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(186… 米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日) - 1919年(大正8年)7月20日)は、日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。米井商店(現・ヨネイ)、明治護謨製造所(現・明治ゴム化成)の創業者。 文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫田郡高倉村(現・岡山県津山市)で平民米井仲平、ツルマツの次男として生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。1887年大学卒業とともに同社に入社し、1897年(明治30年)1月には匿名組合磯野商会(創始者:磯野計、共同事業者:米井源治郎)を創立し、機械や鉱物、雑貨の輸入業を始める。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永… 日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)- 1895年(明治28年)8月4日)は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 備前国和気郡奥吉原村(岡山県和気郡熊山村、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた。閑谷校で学び漢学を修めた。農業を営む。 1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され、3期12年間在任し、この間、常置委員を2期務めた。 1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力。
大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1… 大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1910年(明治43年)7月26日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、岡山県磐梨郡可真村長。 備前国磐梨郡弥上村(岡山県磐梨郡可真村、赤磐郡可真村、熊山町を経て現赤磐市弥上)で、誠太の二男として生れた。漢学、仏式兵学を修めた。岡山藩第3兵団予備隊機械弾薬掛、同藩第3大隊2番小隊半隊長心得、同第3大隊長を務めた。その後、里正に就任。 1877年(明治10年)第3区務所戸長に就任。以後、磐梨郡書記、同郡第7部戸長を務めた。1889年(明治22年)初代可真村長に就任し1895年(明治28年)まで在任した。1892年(明治25年)岡山県会議員に当選。
柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月… 柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月)- 1940年(昭和15年)4月25日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。製塩家。衆議院議員(1期)。 志賀源作の三男として備前岡山藩領和気郡(のちの岡山県和気郡片上町、備前町を経て現備前市)に生まれ、1870年(明治3年)9月、赤穂郡塩屋村(兵庫県赤穂郡赤穂町を経て現赤穂市)の柴原政右衛門の死跡を相続する。漢学を修める。製塩業を営む。1871年(明治4年)赤穂郡の塩田取締となり、1874年(明治7年)戸長に就任する。郡内7箇村戸長に挙げられるが、1883年(明治16年)5月に脳充血により職を辞した。ほか、赤穂鉄道社長、同相談役を歴任した。