石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月2… 石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月22日 - 昭和35年(1960年)6月6日)は、日本の教育者。國學院大學名誉学長。 1875年(明治8年)広島県広島市出身。元広島藩士・石川完治の二男に生まれ、1886年(明治19年)に一家で東京の霞が関に移住。翌年、平河小学校(現・麹町小学校)初等一級に入るが、1887年(明治20年)、本郷区への一家転居に伴い、当地の小学校に転入し卒業。1888年(明治21年)に東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)に入学。のち國學院大學本科に入学し、1895年(明治28年)に第3期生として國學院大學を卒業した。 卒業後は3年間の兵役を経て1898年(明治31年)に、國學院で師事した湯本武比古が社長を務める開発社に入職し、雑誌『教育時論』の記者となった。
重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14… 重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。広島県出身。
登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 … 木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計科に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 広島県福山市に生まれる。尋常中学福山誠之館を経て、1891年(明治24年)志願兵として入営、1892年(明治25年)から陸軍士官学校(5期)に入校、1894年(明治27年)7月27日に卒業する。同年9月18日、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵将校として大尉迄進むが、1902年(明治35年)から経理将校を目指し陸軍経理学校に入校する。 1904年(明治37年)に卒業し改めて陸軍二等主計に任官され騎兵第1連隊附を命ぜられる。
橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5… 橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5年6月10日)- 1933年(昭和8年)8月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、衆議院議員。 広島県御調郡尾道町(現尾道市)で、醸造業・橋本長三の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続。1891年(明治24年)12月、慶應義塾を卒業した。 帰郷後、尾道市会議員に就任。また、尾道電灯社長、尾道米塩肥料取引所理事を務めた。1900年(明治33年)4月、横浜の原合名会社(原富太郎)輸出部支配人に就任し1904年(明治37年)6月まで在任した。その後、家業の醸造業、さらにアルミニウム工業を営み、中外石油アスファルト取締役、日本リンネット取締役、東海化学工業取締役、日本夏帽取締役、日本軽銀製造監査役などを務めた。
住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年… 住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年2月28日)- 1928年(昭和3年)10月8日)は、広島県出身の実業家。日本統治時代の台湾で土木建築請負業の住吉組を興したほか、当時の自治組織だった台南市協議会員を務めた。また、民間の消防団「台南消防組」で市内の防災に貢献したことから、現地では「台南消防の父」として知られている。 1872年、広島県賀茂郡広村(現在の呉市広地区)で出生。1900年(明治33)に台湾へ移り、鹿島組(現在の鹿島建設)で鉄道などのインフラ建設に従事、後年独立し、台南で住吉組を設立する。 1920年(大正9)、有限責任信用組合台南興信社(台南市白金町(中国語版))理事に就任するとともに、「台南土木建築請負業組合」の相談役(建設業公会顧問)となった。
岸田 光太郎(きしだ こうたろう、1872年〈明治5年〉4月… 岸田 光太郎(きしだ こうたろう、1872年〈明治5年〉4月 - 没年不明)は、台湾基隆に居住した日本人で、材木商人。岸田材木店創業者。 政治家の岸田文雄や宮澤洋一の曽祖叔父。岸田幾太郎は兄、岸田正記、岸田正次郎は甥にあたる。 岸田忠次郎の三男として広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれる。岸田家は代々農業を営んでいた。郷里の小学校に入って普通学を修め、父業を助けて郷里に暮らす。 日清戦争が終結し台湾が日本の領土に属すると、1897年(明治30年)3月に兄と共に台湾へ渡り、基隆市にて材木商を開業した。同商店の開業当時は微々たる一商舗に過ぎなかったが、後に基隆屈指の材木商となった。
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年… 正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)の豪農正木富次と長谷川シモの次男として生まれる。正木家は伊予松前城発祥の家系で、関ヶ原の戦い後福島正則の家臣となったが、改易されたため帰農した。父の富次は、同町の正則後裔という福島家から正木庄蔵の養子となっている。 (明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。 1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。
沢原 精一(澤原 精一、さわはら せいいち、1871年9月1… 沢原 精一(澤原 精一、さわはら せいいち、1871年9月18日〈明治4年8月4日〉 - 1953年〈昭和28年〉7月1日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家、銀行家、広島県多額納税者、地主・家主。貴族院多額納税者議員。勲四等。呉商工会議所顧問。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。戸谷次助の二男。幼少の頃に賀茂郡荘野村の叔父岡崎鼎の養子となる。1896年(明治29年)7月に先代ウタの入夫となり1902年(明治35年)9月に家督を相続した。 1896年(明治29年)以降、呉貯蓄銀行取締役、呉陽倉庫、瀬戸内海横断電力、呉製氷各社長、沢原銀行取締役のほか、呉商業会議所会頭、呉市会議長、日本放送協会理事、広島県商工団体連合会顧問、呉信用組合長などを歴任した。
川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年… 川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年1月18日〉- 1936年〈昭和11年〉3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現:呉市広町)生まれ。 医師の二男として生まれる。旧制広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも4年で中退し、千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)に編入。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み、修了後に内務省入りした。 1916年(大正5年)、福島県知事。1919年(大正8年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。1922年(大正11年)、名古屋市長。
久保田 権四郎(くぼた ごんしろう、久保田 權四郎、明治3年… 久保田 権四郎(くぼた ごんしろう、久保田 權四郎、明治3年10月3日(1870年10月27日) - 昭和34年(1959年)11月11日)は、広島県尾道市出身の実業家。発明家。久保田鉄工所(現クボタ)創業者。前名・大出權四郎。 備後国御調郡大浜村(因島、現尾道市)の貧しい農家の末子として生まれる。学校へはあまり行かず瀬戸内海を通る蒸気船に憧れ「いつかはあんな大きな船をつくる鍛冶屋に」と願った。早く出世して両親に楽をさせてあげたいと15才の時、大阪市へ出て鋳物屋に丁稚奉公。利発にして誠実、また器用で根気よく、節約して資金を貯め1890年、19歳の時早くも大阪市南区(現中央区)に「大出鋳物」を創業し、秤の分胴などを製造した。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869… 小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869年9月21日〉 - 1920年〈大正9年〉10月27日)は戦前日本の洋画家。備後福山藩出身。本多錦吉郎・小山正太郎門下。神奈川県尋常師範学校、宮城県立仙台第二中学校、私立東北学院等で絵画を教えた。 明治2年(1869年)8月16日備後福山藩士小泉卯一郎の長男として備後国深津郡福山に生まれた。本籍は西町。明治4年(1871年)旧知藩事阿部正桓が上京を命じられると、9月一家で神戸港から海路上京し、東京府駒込西片町9番地(現在の文京区西片一丁目)丸山屋敷内に移り住んだ。 1882年(明治15年)10月2日彰技堂に入学して本多錦吉郎に洋画・英学を学び、1883年(明治16年)4月5日から1885年(明治18年)12月まで東京英語学校、1886年(明治19年)3月1日から12月まで東京仏語学校にも通った。
大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年… 大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年4月12日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、「大和花」醸造元、広島県酒造組合賀茂郡支部長、広島県多額納税者、政治家(広島県賀茂郡西志和村長)、名望家。 広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれた。大山源之助の長男。1897年、家督を相続した。酒造業を営んだ。 1909年、村会議員に当選。1921年8月より1933年5月まで3期にわたり西志和村長在職。村長退職に際し村より影徳碑を建設された。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 大山家は醤油醸造業を営んでいたが、正樹の父・源之助は明治初年に酒造業にあらため「大和花」と命名し斯業を経営した。
早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年… 早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。 安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。 中山源蔵の二男として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。 1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明… 手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明治元年9月7日) - 1918年(大正7年))は、日本の検察官、官僚。台湾総督府法務部長、覆審法院検察官長を歴任した。また台湾法制起草委員なども務め、台湾の法制度整備に尽くした。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶… 岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶応3年10月24日〉 - 1908年〈明治41年〉9月14日)は、日本の実業家。 第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄と元経済産業大臣の宮澤洋一は曽孫である。 1867年11月19日(慶応3年10月14日)、安芸国賀茂郡奥屋村(現:広島県東広島市志和町奥屋)に岸田忠次郎・さみ夫妻の長男として生まれる。岸田家は、幾太郎の曽祖父である岸田直五郎の代に「新出屋(あたらしや)」を屋号にして分家し、以来奥屋村で農業を営んだ。 1891年(明治24年)頃に農機具、種苗、呉服などを輸出し、輸出先の北海道から仕入れた海産物の販売業を始める。1894年(明治27年)に三宅直之助の四女・スミと結婚。
望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年… 望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年2月27日) - 1941年(昭和16年)1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身。
山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3… 山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3年2月26日)- 1936年(昭和11年)1月21日)は、日本の裁判官、検察官。大審院(現最高裁判所)判事などを務めた。
二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年… 二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年1月28日(慶応2年12月23日) - 1944年(昭和19年)4月16日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は熊七郎。 安芸広島藩領佐伯郡大竹村(現・大竹市)出身。望戸清四郎の長男として生まれ、先代二階堂三郎左衛門寿光の養嗣子となり、襲名する。1890年(明治23年)25歳にして大竹郵便局長となる。ついで大竹町油見村組合会議員、大竹貯蓄銀行頭取、芸防抄紙社長、広島県農工銀行、日本紙業各取締役などを経て、広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1918年(大正7年)5月3日から1925年(大正14年)9月28日まで務めた。
井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年… 井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年11月3日) - 1935年(昭和10年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 備後国沼隈郡水呑村(広島県沼隈郡水呑町を経て現福山市)出身。鉄道院技手、広島県会議員、同議長となる。鉄道工事請負業に従事、鞆軽便鉄道(株)専務取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島4区から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、次の1928年の第16回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月… 松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。族籍は東京士族。 1866年11月(慶応2年9月)、広島県広島市猿楽町(のち広島市中区大手町)生まれ。有隣の長男。広島尋常中学(広島国泰寺高等学校の前身)で、柴野登一(中村是公)、玉井喜作らと同級。1880年父親の転勤で丸亀に移り、翌1881年上京。獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京大学予備門(第一高等学校)を経て1893年東京帝国大学法科大学独法科卒業、引き続き法科大学研究科で警察法を研究。 日清戦争直前の1893年内務省入省。警視庁四谷警察署長を振り出しに香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任消防署長(のちの消防総監)などを経て1905年、警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧指揮にあたった。
玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6… 富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6月4日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月6日)は、日本の医学者・医学史家。旧姓は藤川、幼名は充人。安芸国沼田郡長楽寺村(後に安佐郡に編入、現:広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。 医師・藤川雪の子に生まれる。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名している。 1879年、藩校浅野学校(現:修道中学校・高等学校)から広島県立中学(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現:広島大学医学部)卒業。同級に尼子四郎らがいた。上京し明治生命保険の保険医となる。
沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日… 沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日〈慶應元年4月14日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月29日)は、日本の政治家、実業家、資産家、広島県多額納税者、広島県の大地主。呉商工会議所顧問。広島県呉市長。広島合同貯蓄銀行、沢原銀行各頭取。呉私立教育会長。勲四等。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡荘山田村(現・呉市)に生まれる。沢原為綱の長男。広島英語学校に入学し、後に退学する。1889年、東京に在住し学校に入学、1890年、中途退学し帰郷する。 1896年、呉貯蓄銀行創立発起人となり、同行取締役、同行頭取となる。1902年、家督を相続する。商業、農業、貸地貸金業を営み、広島県多額納税者に列する。
友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治… 友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治2年4月6日) - 1932年(昭和7年)9月17日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる。広島で漢学を、大阪で法律学を学んだ。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた。 父の事業で財産を失ったことから、1891年に北海道移住を計画。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した。
天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元… 天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元治元年6月16日〉 - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科。広島市医師会会長。族籍は広島県平民。 広島県・天野環の長男。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ。広島中学校卒業。のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し、監獄医を兼ねた。 1894年、家督を相続した。同年広島市西魚屋町で医院を開業した。天野医院長として名声を馳せたという。広島市医師会長を務めた。 『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている。
青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元… 青盛 常太郎(あおもり つねたろう、1864年3月27日〈元治元年2月20日〉 - 没年不明)は、日本の商人、銀行家、広島県多額納税者、家主。呉銀行取締役。族籍は広島県平民。 広島県呉市出身。青盛喜一郎の弟。高等小学校を出て、若いときはタバコの行商をしたり、商売をしていた。また借家を建て、借家の収入で生活をした。分家して一家を創立する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は建築。住所は呉市元町。本籍は呉市和庄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山科 礼蔵(やましな れいぞう、1864年2月21日(元治元… 山科 礼蔵(やましな れいぞう、1864年2月21日(元治元年1月14日) - 1930年(昭和5年)8月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 広島県出身。御調郡三原町(現三原市)生まれ。和学、漢学、英語、経済学及び工学を学ぶ。英語は土井百穀(善右衛門)の私塾・遷喬舎で、漢学は長谷川桜南の桜南舎で学んだ。 日本輔仁会を創立し、会長となる。1884年に上京し、郷産物販売の吉備商会と海事工業の山科海事工業所を設立し、築港、架橋、船渠、岩礁破砕、難破船の引揚及び埋立等の事業に従事する。また、海事工業(株)取締役、山科汽船(株)監査役、東京商業会議所議員、同副会頭となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において広島県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863… 横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863年2月4日) - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。 広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。
串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2… 串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2年9月14日) - 1919年(大正8年)1月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。勲等は勲四等。 広島県安芸郡奥海田村(現・海田町)出身。奥海田村会議員、広島市会議員、広島県会議員となる。また、広島汽船、関西皮革各(株)取締役、広島電気軌道(株)監査役を務めた。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙において広島1区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙で落選。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙において立憲政友会公認で立候補して復帰した。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で落選。
熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1… 熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1862年)6月 - 1940年2月12日)は、日本の歴史学者、文筆家。本名は熊田宗次郎。 福山藩藩士・熊田臨蔵の次男として、備後国福山(現在の広島県福山市)に生まれる。誠之館にて学を修めたほか、江木鰐水に漢籍を、五弓雪窓に漢作文を、藤井葦川に漢詩を学ぶ。 二十歳のころ大阪に出て大阪新報社に就職、同社で編集長をつとめたのち新潟日日新聞、北海道毎日新聞、北海新聞などを経て報知新聞に招かれた。同紙編集長の傍ら日清戦争の戦時記事を執筆して大いにその名を知られるようになる。一時同社を退いたが、日露戦争を機に再び報知の編集長に就任。自著『日本史蹟』が賞讃の的となり、のち鎌倉に居住して著述業に専念した。
尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元… 尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元年3月7日) - 没年不明)は、日本の政治家(広島市会議員)、商人(醤油商)、醤油醸造家、実業家。第六十六銀行、尾道貯蓄銀行各取締役。(旧)広島銀行、中国紡績各監査役。広島桟橋監査役、同取締役。族籍は広島県平民。 広島県平民・尼子英次郎の長男。家は代々醤油醸造を業とし、「茶屋」と称する。漢学を学び、後に普通教育を受けた。商業に従事した。1881年、家督を相続した。銀行、会社の重役であった。第六十六銀行取締役兼広島支店長を務めた。 広島市胡町・恵美須神社の境内は、もと32坪2合9勺だったが、1909年6月、忠蔵が付近の地積42坪6合2勺を寄付したので74坪9合1勺となった。
加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久… 加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久元年2月22日) - 1923年(大正12年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第20-24代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万… 青盛 喜一郎(あおもり きいちろう、1860年2月29日〈万延元年2月8日〉 - 没年不明)は、日本の商人(石油和洋紙卸商)、銀行役員、広島県多額納税者、地主・家主、政治家。呉市会議員。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛万次の二男。1884年、家督を相続する。石油和洋紙卸商を営み、広島県多額納税者に列する。呉銀行、呉倉庫各専務取締役をつとめる。1939年、退隠する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。呉市に於ける名望家である。 住所は呉市本通、同市岩方通4丁目(現・中央)、同市和庄町。 青盛家は古くより呉市にて商業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860… 下瀬 雅允(しもせ まさちか、安政6年12月16日〈1860年1月8日〉 - 明治44年〈1911年〉9月6日)は、日本の海軍技師(海軍高等文官、高等官二等〈少将相当〉)。従四位勲二等工学博士。下瀬火薬の発明による日露戦争への貢献で知られる。帝国学士院会員。帝国学士院賞受賞。広島県出身。 1859年(安政6年)12月16日、広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町(現中区鉄砲町)に生まれる。 1884年(明治17年)、広島英語学校(広島一中の前身、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、帝国大学工科大学(現・東大工学部)応用化学科卒業。内閣印刷局に就職。鎬青(こうせい、光の青染料)及び版面洗浄液の改良、紙幣の真贋識別に有効な黒色インキ他を発明。
永井 頴雄(ながい ひずお、1860年(万延元年3月) - … 永井 頴雄(ながい ひずお、1860年(万延元年3月) - 1908年(明治41年)5月29日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 備後国甲奴郡本郷村(のち広島県双三郡甲奴村を経て甲奴町、現・三次市)生まれ。広島県会議員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において広島9区から自由党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙に再び立候補したが次点で落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で当選した。衆議院議員を1期務め、1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
山蔭 静夫(やまかげ しずお、1860年(万延元年3月) -… 山蔭 静夫(やまかげ しずお、1860年(万延元年3月) - 1948年(昭和23年)2月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 備後国三谿郡矢井村(のち広島県双三郡吉舎村→吉舎町、現・三次市)の米田家に生まれる。のち、安芸国豊田郡竹仁村の山蔭家を継ぐ。農業を営み、竹仁村長、豊田郡農会長、広島県会議員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において広島6区から立憲改進党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で立候補したが落選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では進歩党から立候補して当選した。衆議院議員を3期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補したが落選した。
和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859… 和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859年6月10日) - 昭和14年(1939年)7月12日)は、日本の衆議院議員、農商務官僚、貴族院勅選議員。正三位、勲一等。墓所は永平寺東京別院長谷寺。旧姓・世良。 備後国双三郡三良坂村(現在の広島県三次市)で、世良都平の二男として生まれた。明治3年(1870年)、和田村の豪農・和田良二郎の養子となった。広島の遷喬舎という英語学校で学んだ後、神戸に出て英米人について学んだ。明治13年(1880年)、大阪で中島信行・古沢滋・河津祐之・草間時福らとともに国会期成同盟結成に参加し、『日本立憲政党新聞』の発行にあたった。 明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙に国民協会から出馬し、当選。
勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1… 勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の獣医学者。漢詩人。仙之介とも書く。号は仙坡。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)に駒場農学校に入学した。1882年(明治15年)、駒場農学校獣医学科を卒業。農商務省嘱託、助教授心得を経て、1887年(明治20年)に東京農林学校教授となった。1889年(明治22年)よりドイツに留学し、ベルリン高等獣医学校で学んだ。1891年(明治24年)に帰国し、帝国大学農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授となった。1899年(明治32年)には獣医学博士の学位を受けた。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月… 阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいずれも忠海生まれ。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる。
内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857… 内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857年3月8日) - 昭和21年(1946年)2月22日)は、実業家、政治家。国勢調査創設者。安芸国賀茂郡板城村馬木(現在の広島県東広島市)出身。幼名・太郎一。 若くして庄屋をつとめ、戸長にもなる。竹原の学館で漢学を修め1870年上京、東京開成学校で英語、法律、国勢学(統計学)を、皇典講究所で国学を学ぶ。卒業後黒瀬川の浚渫事業に携わった後、実業家となり1888年呉市に呉土工会社を設立。呉海軍工廠の誘致・山陽鉄道の国有化等に尽力、また呉市二河公園の建設など同地の市街地整備にあたった。1892年には高性能爆弾の研究を進めていた下瀬雅允に資金を提供し、日露戦争で威力を発揮した下瀬火薬の開発に協力した。