北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1… 北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1963年(昭和38年))は、女義太夫の太夫(語り手)。ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。 1873年9月、徳島城下の通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。 折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。 大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2… 坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2月22日 - 1942年(昭和17年)12月18日)は、日本の政治家。徳島市長。徳島県三好市出身。 旧三好郡池田町三縄中西(現在の三好市)生まれ。 1913年(大正2年)、三縄村長に選ばれ1920年(大正9年)まで2期を務めた。その後、三好郡会議員を経て1919年(大正8年)に徳島県会議員に当選、5期連続で県会議員に当選し徳島県会議長も務めた。 1931年(昭和6年)、立憲民政党所属で徳島市長に就任し、1933年(昭和8年)まで務めた。市長退任後は又美馬水力電気会社社長となった。 1942年(昭和17年)12月18日、70歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6… 井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6月8日) - 1921年(大正10年)5月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 阿波国名東郡西新町(現徳島県徳島市西新町)で織物卸商・井内孝七の長男として生まれる。徳島県尋常中学校を卒業後、法律学を学んだが実業界に転身。1897年11月、北海道旭川に来住し織物煙草卸売業を開業。翌年6月、味噌醤油製造業を始め、後に酒類卸売業を兼ねた。また、旭川区会議員、旭川商業会議所会頭、上川倉庫社長、旭川商事取締役、北海道銀行(旧)取締役、旭川木工取締役、東洋酒精取締役、大北火災保険取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第四区から出馬し当選したが、在任中に病のため死去した。
喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年… 高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年)は、日本の教育者。 徳島県板野郡三俣村にて、長尾惣五郎の次男として誕生。東京高等工業学校建築科卒。 旧徳島藩士・高井幸雄の娘・シウ子と結婚し、同家の婿養子となる。明治37年に徳島県立工業学校教諭となったのを皮切りに、明治39年に香川県立工芸学校長、大正3年に広島県立職工学校長、大正13年に台北州立台北工業学校長(第4代)に就任した。昭和4年現職のまま死去(59歳)。 台北工業学校時代の綽名は「トマト」であった。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治… 椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治2年8月5日) - 1950年(昭和25年)1月16日)は、真言宗泉涌寺の第148世長老(真言宗泉涌寺派管長)。徳島県阿南市椿泊町(旧徳島県那賀郡椿村)出身。 樫野吉六(天保3年6月6日 - 1909年(明治42年)8月27日)とミナ夫妻の間に誕生(龍海は二男三女の次男)。父は徳島藩中老で阿波水軍を率いた森甚五兵衛の家臣(家禄の石高は五石七斗)であった。 1879年(明治12年)徳島県那賀郡椿村(現在の阿南市椿泊町)の福蔵寺で得度する。高野山大学で学び、藤村密翁和尚に師事。ついで東京に出て哲学館(現在の東洋大学)に入った。この間、縁あって泉涌寺事務長釈玄猷師の弟子となる。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
小角 彌三次(こすみ やそうじ、1868年〈明治元年〉8月 … 小角 彌三次(こすみ やそうじ、1868年〈明治元年〉8月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の柔術家である。小角弥三次とも書かれる。 明治元年に阿波国撫養町(現在の徳島県鳴門市)に生まれる。 1877年(明治10年)に撫養町林崎の亀井吉太郎(亀井吉衛)の門に入り天神真楊流を修行した。 1884年(明治17年)に目録、1888年(明治21年)に免許、1890年(明治23年)に免許皆伝を受けて撫養町で子弟を育てた。 その後兵庫県神戸市に移り住み、神戸市の小野柄通に眞武館道場を設け柔術の普及発展に努力した。この道場は門下生数千人を数えた。 1902年(明治35年)、兵庫県警察部に奉職し柔道教師となった。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7… 美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7日(慶応3年3月3日)- 1939年(昭和14年)8月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・神原、旧名・亀吉。 阿波国那賀郡富岡町(現徳島県阿南市富岡町)で、酒造業・神原五郎右衛門の二男として生まれた。少年時代は叔母の三木与吉郎家で奉公し東京支店で働いた。1885年2月、徳島佐古町918番屋敷の大地主・先代美馬儀一郎の養子となった。養父の死去により、1898年3月に家督を相続し儀一郎を襲名した。 家業の綿織物商に加えて、染織工場の設置、石炭販売業を開業するなど多角経営を計った。また、阿波染織同業組合長、阿波商業銀行頭取、徳島商業会議所会頭などを務め、徳島県立工業学校の設立、徳島高等工業学校の設備充実に尽力した。
高島 兵吉(たかしま ひょうきち、1865年8月6日〈慶応元… 高島 兵吉(たかしま ひょうきち、1865年8月6日〈慶応元年6月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月20日)は、日本の政治家。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。後に那賀郡答島で石灰製造業を営んだ。 その後、1903年(明治36年)10月1日から1918年(大正7年)4月8日まで徳島県会議員を務めた。同日、衆議院選挙のため県会議員を辞職し、同月15日の衆議院議員補欠選挙で当選した。1936年(昭和11年)まで通算5回当選した。当初は立憲改進党に所属し、犬養毅に私淑し、行動を共にした。その後、憲政本党、立憲国民党、革新倶楽部、立憲民政党に属した。1937年(昭和12年)の第20回総選挙に当時の徳島県第2区から立候補したが、中立候補で新人の三木武夫らに敗れ落選した。
樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月… 樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月27日 - 昭和23年(1948年)5月1日)は江戸時代末期(幕末)生まれで、明治・大正・昭和時代の実業家。 元治元年(1864年)8月27日、徳島県阿南市中林町に、徳島藩中老・海上方奉行で通称阿波水軍の長であった森甚五兵衛16代目村晟の家臣であった父・樫野藤蔵と母・ミツの間に生まれる。明治維新後、父が創業した石灰製造所を継ぎ、神戸・徳島など京阪神を始め、国内の石灰業界で活躍し事業を拡大した(第二次世界大戦前、徳島県南部は大理石及び石灰石の代表的産地であり、大正9年(1920年)着工、昭和11年(1936年)完成の現在の国会議事堂の3階天皇御休憩所の出入口や内部の内装及び彫刻その他の議事堂各所に使われている石材である時鳥(ほととぎす)答島(こたじま)加茂更紗(かもさらさ)などは徳島県産であり、山口県産と並んで国会議事堂の石材の主要な部分を占めている)。
浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年… 浅石 恵八(あさいし えはち、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1941年(昭和16年)2月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 阿波国那賀郡坂野村(現在の徳島県小松島市)に、浅石卯太郎の長男として生まれる。坂野村会議員、坂野村長、那賀郡会議員、那賀郡参事会員、那賀郡会議長、徳島県会議員などを歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。その他、阿波木炭株式会社社長を務めた。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(18… 井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日(1862年12月19日) - 昭和4年(1929年)4月7日)は、明治期の英語学者、和英辞典編纂者、官吏。ヘボンの影響を脱した最初の和英辞典である『新訳和英辞典』を完成させた。 阿波国徳島藩に井上高格の次男として生まれ、藩主の命により江戸に出て明治4年(1871年)慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳」第一巻487頁)。同塾卒業後の明治6年(1873年)、旧藩主蜂須賀茂韶に選抜された7人の留学生の1人として随行し、イギリスに渡る。一行のうち最年少だった。 1873年にロンドンの小学校に入り、1878年卒業、ラグビー校初の日本人生徒として進学し、成績優秀のため賞と年金を獲得。
阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2… 阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2月28日〉 - 1924年〈大正13年〉11月14日)は、大正期の札幌区長、ジャーナリスト。 阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)に、名主阿部猪蔵の次男(三男とも)滝本五郎の長男として生まれ、叔父阿部興人の養子となった。旧制徳島中学(現在の徳島県立城南高等学校)卒業後、1877年(明治10年)に東京に出て、三菱商業学校と慶應義塾で学んだ。1881年(明治14年)帰郷し、阿部興人の娘の恒と結婚する(いとこ婚)。 1882年(明治15年)、『大阪新報』の記者となり、のち『大阪毎朝新聞』に転じ、『大阪毎朝新聞』は『郵便報知新聞』に吸収された。
坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万… 坂東 勘五郎(ばんどう かんごろう、1861年2月24日(万延2年1月15日) - 1918年(大正7年)3月23日)は、日本の政治家。実業家。徳島県東みよし町出身。 阿波国三好郡中庄村(現在の徳島県東みよし町)の郷士・坂東恒五郎の長男として生まれた。 徳島師範学校を卒業後、小学校教員、郡書記、県会議員、県会副議長を経て、1894年(明治27年)の第4回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し衆議院議員として初当選し、以来25年間に渡り国政に参与した。 在任中は、北海道縦貫自動車道の完成、全国の鉄道敷設に力を注いだ。また、地元である徳島県においても徳島鉄道を設立して社長に就任した。 1917年(大正7年)3月23日に急逝。
川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(… 川真田 徳三郎(かわまた とくさぶろう、1860年3月5日(安政7年2月13日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 阿波国麻植郡(ごおり)鴨島字上下島(現在の徳島県吉野川市鴨島町上下島)出身。初名は国三郎。 麻植郡会議員、徳島県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員などを務める。阿波商業会議所会頭などを経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以降、第2回、第7回から第13回総選挙で立憲政友会より9回当選を果たす。 また阿波国共同汽船専務、阿波藍社長、徳島鉄道社長、阿波藍同業組合組長などを歴任。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
新開 貢(しんがい みつき / しんかい みつぐ、1859年… 新開 貢(しんがい みつき / しんかい みつぐ、1859年8月27日(安政6年7月29日)- 1924年(大正13年)8月10日)は、日本の政治家。徳島県小松島市出身。 勝浦郡芝生村(現在の小松島市芝生町)で生まれる。徳島市佐古町の岡久塾で漢字を修めた。 1889年(明治22年)、勝浦郡選出の徳島県会議員となり、後に参事会員を兼ねた。1897年(明治30年)には徳島県会副議長に就任した。 1898年(明治31年)、憲政本党より衆議院議員総選挙に出馬し当選、2期を務めた。 1905年(明治38年)頃に満州に出向き、大連市で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安… 一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日) - 1922年(大正11年)2月4日)は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。 阿波国名東郡徳島(現徳島県徳島市)で、徳島藩士・一坂周作の長男として生まれた。新居水竹の塾で漢学を学ぶ。 1874年(明治7年)初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。 この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。 その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。
鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)… 鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)- 1931年1月15日)は、阿波国名東郡徳島寺町出身の大相撲力士。本名は末長 清七。年寄7代中川。 兄は大坂相撲で立浪と名乗る力士であり、本人も草相撲で小立浪と名乗り活躍していた。素人相撲の壽組合に入り鬼鹿毛と名乗っていた。この四股名は贔屓が化粧回しを贈ろうとしたとき、質屋に鬼鹿毛という力士の質流れの化粧回しがあり、名前を直そうとしたが無駄になるので四股名を変えたとのことである。その後大坂相撲の竹縄部屋に入り、1881年7月見習格番付外で出場。1882年9月三段目に出て鬼鹿毛清介。その後京都相撲に移り、華ノ峰善吉の弟子となる。1885年には東京相撲の梅ヶ谷の門下に入り、1885年5月幕下十枚目格番付外となる。
井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(18… 井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(1854年5月6日) - 昭和9年(1934年)3月9日)は、明治時代から大正時代の官吏。徳島県阿波市出身。 嘉永7年4月10日(1854年5月6日)、阿波国阿波郡大俣村(現在の徳島県阿波市)で生まれる。徳島県庁に入り、海部郡長・麻植郡長・美馬郡長を歴任。1902年(明治35年)より名西郡長を務め、吉野川から水をひく麻名用水、板名用水の建設・整備に力を注いだ。 1934年(昭和9年)3月9日、79歳で亡くなる。没後、名西郡石井町の麻名用水土地改良区に銅像が建つ。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(… 劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(嘉永5年1月20日) - 1910年(明治43年)11月21日)は、阿波国麻植郡鴨島村(現・徳島県吉野川市)出身の大相撲力士。本名は吉原 熊十郎。最高位は大関。所属部屋は猪名川部屋(大阪)→梅ヶ谷のち雷部屋(東京)。身長177cm、体重120kg。 1870年(明治3年)、大坂相撲で鶴ヶ濱という力士であった父の縁での猪名川の門に入り響矢 熊吉で初土俵。1875年(明治8年)6月入幕(西前頭12)。翌1876年(明治9年)大坂相撲で脱走事件が起き、脱走組は「開化組」を名乗った。響矢も開化組に加わり大関を務めた。1878年(明治11年)9月帰参。
坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) -… 坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) - 1917年(大正6年)7月16日)は、日本の政治家。徳島市長。 徳島藩の中老である坂部功崇の息子として名東郡助任町(現在の徳島市助任本町)で生まれる。 後に名東勝浦郡役所書記を経て徳島市助役となり、初代徳島市長である井上高格の右腕として、徳島市創設当時の市政に妥配を振るった。 1890年(明治23年)に2代目となる徳島市長に就任、1896年(明治29年)まで6年間務めた。 1917年(大正6年)7月16日、66歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)… 桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)- 1925年(大正14年)7月6日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県徳島市佐古出身。 1851年(嘉永4年)、阿波国・佐古台所町(現在の徳島市佐古)に生まれた。 1876年(明治9年)、第一大区(後の名東郡)二等副戸長に就任。1878年(明治11年)に佐古村戸長兼学区取締に就任。1889年(明治22年)、徳島市収入役に就任。1890年(明治23年)、同市助役となる。1902年(明治35年)に徳島市長に就任し1906年(明治39年)まで務めた。 1925年(大正14年)7月6日、没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年… 井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年9月15日) - 1928年(昭和3年)10月22日)は、日本の翻訳家。徳島県徳島市出身。父は医師の井上不鳴。甥に英文学者・堀正人。親戚に評論家の内田魯庵。明治10年代の翻訳全盛期に科学冒険小説の翻訳を多数手がけた。 徳島藩医・井上不鳴の長男・永吉として徳島城下前川の中洲で生まれた。兄弟は8人で(うち3人は早世)、3人の姉と弟が一人いた。7歳で江戸でオランダ人のヤン・ドンケル・クルティウスに英語を学んだ。その後、芳川顕正に同道して鹿児島に行ったが、1年ほどで徳島に戻り、小学校教師となる。1871年に教師を辞めて神戸の海岸四番館の通訳となり、ドイツ領事館に転じて、領事・ドクトル・フォケの通訳となった。
湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日… 湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日(嘉永3年2月17日)- 1911年(明治44年)8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、徳島県勝浦郡小松島町長。 阿波国勝浦郡田野村(現徳島県小松島市田野町)で、庄屋湯浅家・4代佐平次の長男として生まれる。私塾で学び、漢学、剣術、馬術を修めた。 徳島藩主蜂須賀家の家債整理について尽力した。1870年4月(明治3年3月)勝浦郡四番里長に就任し、以後、同郡第二小区用係、学校世話係、地租改正委員総代を歴任。徳島県が高知県に属していた1879年(明治12年)1月から名東郡、勝浦郡各書記を務めた。 1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に参加。
椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永… 椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永2年2月25日) - 1909年(明治42年)8月3日)は、日本の政治家。徳島県徳島市出身。 椎野庄左衛門の四男として名東郡八万村(現在の徳島市八万町)で生まれる。岡本塾に入り、晤室に漢学を学んだ。 その後、名東県・徳島県の役人となり、1882年(明治15年)に徳島県会議員となり、後に徳島県会議長を長く務めた。1889年(明治22年)、憲法発布に際し、徳島県民を代表して式典に参列した。 1892年(明治25年)には第2回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 1909年(明治42年)8月3日、61歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月… 泉 智等(いずみ ちとう、嘉永2年1月11日〈1849年2月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月26日)は、真言宗の僧。書家。徳島県吉野川市出身。花桝伊兵衛の五男。幼名は直蔵。号は物外(ぶつがい)。 1860年(万延元年)、12歳で出家する。1864年(元治元年)の頃より、徳島の芝「秋邨塾」で柴秋邨に漢籍を学ぶ。その後、1868年(明治元年)から1872年(明治5年)まで高野山で、1873年(明治6年)から1877年(明治10年)まで京都で仏教学を学ぶ。 1879年(明治12年)より真言宗布教師として全国を巡錫し、1900年(明治33年)に京都仁和寺の第35世門跡に就任、1908年(明治41年)に京都泉涌寺の第147代長老となる。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。
伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7… 伊月 一郎(いづき いちろう、1848年(嘉永元年)11月7日 – 1891年(明治24年)6月3日)は、徳島藩出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。日本海軍が組織的に外国へ派遣した最初の留学生として知られ、イギリス海軍式の教育を導入し、のちの海軍兵学校創立にも貢献した人物である。 伊月一郎は嘉永元年11月、藩医・伊月柳安の長男として、江戸三田四国町の徳島藩中屋敷に生まれ、その後八丁堀の藩邸に移った。文久2年、江戸在勤の藩士全員が引き上げることになり帰郷した。 慶応元年、徳島巽浜に洋学校が開設されると、伊月は同校で蘭学を学んだ。さらに慶応2年には藩命により芳川顕正らとともに長崎へ国内留学したが、維新の動乱により全員が帰藩した。
須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3… 須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3年12月10日) - 1927年(昭和2年)4月12日)は、日本の政治家。実業家。徳島県美馬市出身。 住友恵市の次男として美馬郡穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町三島)で生まれる。後に麻植郡鴨島町敷地(現在の吉野川市鴨島町敷地)の素封家・須見徳平の養子となった。 その後、徳島県会議員を経て1902年(明治35年)に第7回衆議院議員総選挙に当選、1917年(大正6年)まで4回の当選を果たす。1926年(大正15年)、憲政会徳島県支部長に就任。他にも阿波紡績、徳島毎日新聞社監査役、第八十九銀行取締役会長を歴任。 1927年(昭和2年)4月12日、82歳で没する。
宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化… 宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化2年9月15日)- 1932年(昭和7年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 阿波国勝浦郡中郷村(現徳島県小松島市中郷町)で、素封家・宮本本右衛門の長男として生まれ、その後、家督を相続した。 1897年7月3日、徳島市前川町に徳島県初の紡績工場を経営する阿波紡績株式会社が設立され、宮本が初代社長に就任した。次の社長に板東倹吉が就任したが、赤字経営のため再び宮本が社長に就任して整理に当り、会社は堺紡績に合併した。 1904年6月10日に執行された、徳島県下15名の互選による貴族院多額納税者議員選挙で当選し、同年9月29日に就任し、1911年9月28日まで1期在任した。
阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈… 阿部 興人(あべ おきと〈おきんど〉、1845年10月5日〈弘化2年9月5日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の政治家・実業家。阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)出身。幼名は金兵衛。 阿波国木津村(現在の鳴門市撫養町木津)の名主・阿部猪蔵の5男として生まれる。その後、徳島藩士である阿部岸蔵の養嗣子となる。柴秋邨の思済塾に学び、後に塾頭となる。同じ塾生だった近藤廉平とは終生にわたる親友であった。1869年(明治2年)、益田武衛、南堅夫とともに外交御用となり上京。藩の給付を受けて慶應義塾に学んだが、すぐに帰郷した。 1870年(明治3年)、長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、益田・南と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842… 樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842年7月14日) - 1917年(大正6年)11月11日)は、幕末、明治時代の徳島県の教育者。名は健三。元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。 天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた。 嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町の湯浅道輔に漢学を学び、岡本斯文に経史学を学んだ。
芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保1… 芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保12年12月10日〉- 1920年〈大正9年〉1月10日)は、日本の官僚・政治家。旧姓は原田、高橋、幼名は賢吉。号は越山。栄典は従一位勲一等伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。東京府知事では市区改正や築港に尽力し、第1次山県内閣の文部大臣では教育勅語の制定に関与した。 阿波国麻植郡山川町(現:徳島県吉野川市)で医師であった原田民部の5人兄弟の末子として生まれる。
川真田 市太郎(かわまた いちたろう、1842年(天保13年… 川真田 市太郎(かわまた いちたろう、1842年(天保13年2月) - 1919年(大正8年)5月30日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。別名は市兵衛。 麻植郡鴨島町(現在の吉野川市)で生まれる。実家は藍商を営む。藍の粗悪を戒め、製品の声価を高めることに努めた。また、吉野川の氾濫を防ぐため、堤防を修築する等の功績を上げた。 1887年(明治20年)、阿波国共同汽船を起し、同社の社長に就任。1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。徳島鉄道の敷設、吉野川改修工事に功労があった。 1919年(大正8年)5月30日、78歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) … 高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) - 1909年(明治42年)11月26日)は、日本の政治家。徳島市長。現徳島県徳島市出身。 嫡男は広島県立職工学校や台北州立台北工業学校で校長を務めた高井利五郎。 徳島城下の富田浦町車富田(現在の徳島市東富田地区)の徳島藩士の家に生まれた。 井上高格や一坂俊太郎等がつくった自助社の運動に加わり、自助社が出版した過激な言葉で日本政府を批判した「通諭書」の事件後は、1882年(明治15年)に那賀部長を勤めた。 徳島県会議員となった後の1898年(明治31年)から1902年(明治35年)は徳島市長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)… 岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)は、徳島県出身の漢学者であり教育者、箱館府権判事。邦人として初めて樺太最北端に到達し一周探検を成し遂げた。蝦夷地防衛の重要性を提言し、そのための拓殖実現に向け尽力。また窮北日誌ほか多くの本を著し、韋庵(いあん)と號した。 阿波国美馬郡三谷村(後の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)で農業の傍ら医業に携わる家に生まれる。父は周平、母は須藤氏。幼名は文平で字を子博とし、幼い頃より読書を好んだ。1853年(嘉永6年)15歳の時父に連れられ徳島へ行くと、藩の儒学者・岩本贅庵の門下に入り同門の有井進斎と親しく交わる。讃岐国高松藩の藤川三渓の塾で食客となっていた1855年(安政2年)に薩哈隣(サガレン、樺太)の話を聞き、深く感じる所あって後の遠征の発端となる。
仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4… 仁木 竹吉(にき たけよし、天保5年3月17日(1834年4月25日) - 大正4年(1915年)8月31日)は、日本の北海道開拓者。特に現在の北海道余市郡仁木町の開拓に従事し、その町名の由来となった。 天保5年(1834年)阿波国麻植郡児島村(徳島藩。現・徳島県吉野川市)にて、大島源左衛門の七男として生まれる。天保11年(1840年)より剣術を阿波郡香美村の佐藤丈左衛門に、漢学を麻植郡宮島村の青山賢之進と香美村の佐藤健吉に習った。大島家は徳島藩士・赤川三郎左衛門の配下であった。嘉永6年(1853年)美馬郡拝原村(現・徳島県美馬市)仁木伊兵衛の養子となる。仁木家は徳島藩筆頭家老・稲田氏の配下である郷士で、藩の特産である藍製造を家業としていた。
岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4… 岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4年12月16日)- 1913年(大正2年)11月21日)は、幕末の徳島藩士、明治期の政治家(衆議院議員)。通称は才二郎。 阿波国名東郡徳島城下富田浦町(現徳島県徳島市)で徳島藩士・香川周満の子として生まれ、のち岩本品蔵の養子となる。学問を新居水竹に学ぶ。明治維新後は徴士、三河県(現・愛知県)判事、白川県(現・熊本県)大参事、民政局検事助役、徳島藩権大属、名東県権大属、同大属、中属を経て、司法省に入り、少解部、権中解部、大区長兼学区取締となる。1875年(明治8年)に徳島に戻り自由民権運動に参加。その後、阿波郡長・麻植郡長・名東郡長、日本赤十字社徳島県委員長などを歴任する。
青江 秀(あおえ ひいず、1834年(天保5年) - 189… 青江 秀(あおえ ひいず、1834年(天保5年) - 1890年(明治23年))は、日本の官僚。阿波国(現在の徳島県阿南市)出身。 1834年(天保5年)に阿波国那賀郡西方村(現在の徳島県阿南市長生町)に生まれる。幼名は慎一。 1864年(元治元年)に何礼之が長崎の自邸で英語の私塾を開くと、巻退蔵(のち前島密)、林謙三(のち安保清康)、瓜生雷吉(のち瓜生震)らその他数十名とともに塾生として学ぶ。 1871年(明治4年)に友人で当時紙幣頭の芳川顕正の紹介で、紙幣寮へ就職。1873年(明治6年)の紙幣頭代理のときに「郵便葉書」の名称を発案した。また鹿児島県・大蔵省・内務省・海軍省・北海道庁で勤務した。
小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11… 小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11月9日) - 大正10年(1921年)1月29日)は、江戸時代から明治・大正時代にかけての将棋指し・将棋棋士、十二世名人。通説では天野宗歩門下とされるが十一代大橋宗桂門下とすることもある。日本将棋連盟ではウェブサイト上の小野の紹介記事において通説は天野門下説であるとした上で大橋門下説を採っていたが、現在該当ページは削除されており、棋士系統図においても小野の師匠の欄は空欄としている。 1831年(天保2年)、阿波国美馬郡脇町(現在の徳島県美馬市)の旅籠の長男として生まれる。青年時代までは「土井喜太郎」を名乗っていた。 1846年(弘化3年)、皮膚病の治療のため有馬の温泉に滞在中、天野宗歩の門下とされる長崎出身の三段格の棋士(氏名不詳)に見いだされる。
海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月… 海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月11日) - 1919年(大正8年)6月30日)は、日本の染織家。阿波しじら織の創始者。 阿波国那賀郡平易村(現徳島県阿南市横見町)出身。幼い頃から機織りを得意とし、25歳のときに名東郡安宅村(徳島市安宅)の差し物大工・海部勝蔵に嫁いだ。嫁いでからも農業の傍ら内職として機織りをして家計を助けていた。その後、1866年(慶応2年)に阿波しじら織を創案し、各地で開かれる供進会、博覧会などに出品し、数多くの表彰を受けた。 しじら織は安部重兵衛らの宣伝と販売により有力な地場産業に発展した。また徳島市眉山町大滝山(眉山)には阿波しじら創製紀功碑が建てられている。
井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19… 井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19日(天保2年6月11日) - 1893年(明治26年)4月24日)は、日本の政治家。初代徳島市長。徳島藩士。阿波国名東郡徳島(現・徳島県徳島市大岡本町・渭北地区)出身。次男は英語学者の井上十吉。玄孫は歌手の井上真紀。 1831年に徳島藩士である井上高超の嫡子として生まれる。その後、家督を相続、徳島藩の目付を務める。そのすぐ後に京都にて長州藩士らと交わり、尊王攘夷運動に参加。徳島に戻り、14代藩主である蜂須賀茂韶の下で力を発揮する。 1871年に徳島県の大参事に抜擢。1874年に後の徳島市長である一坂俊太郎らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成し代表となる。