藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )… 藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。
愛媛県:157人
藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )… 藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。
薬師神 繁男(やくしじん しげお、1964年5月20日 - … 薬師神 繁男(やくしじん しげお、1964年5月20日 - )は愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。
武田 康(たけだ やすし、1964年4月22日 - )は、愛… 武田 康(たけだ やすし、1964年4月22日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(捕手)。
葛城 弘樹(かつらぎ ひろき、1963年9月21日 - )は… 葛城 弘樹(かつらぎ ひろき、1963年9月21日 - )は日本の野球選手(内野手)。
渡辺 弘(わたなべ ひろむ、1963年7月25日 - )は愛… 渡辺 弘(わたなべ ひろむ、1963年7月25日 - )は愛媛県今治市出身の元プロ野球選手。
上田 和明(うえだ かずあき、1962年8月3日 - )は、… 上田 和明(うえだ かずあき、1962年8月3日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(内野手)。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 愛媛県立八幡浜高等学校を経て慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、4年時の1984年春季リーグ早慶戦で3試合連続を含む4本塁打を放ち注目を集める。同年の日米大学野球選手権大会日本代表となり、さらにロサンゼルス五輪野球日本代表(このときは公開競技)に選ばれた。リーグ戦通算105試合に出場し374打数88安打、12本塁打、39打点、打率.235。ベストナイン(遊撃手)1回。 1984年のドラフト会議で明治大学広沢克己、竹田光訓と共に大学球界ビッグ3と呼ばれ、竹田のクジを外した読売ジャイアンツに1位指名され翌1985年入団。
芝 正(しば ただし、1962年7月29日 - )は、愛媛県… 芝 正(しば ただし、1962年7月29日 - )は、愛媛県北宇和郡広見町(現:鬼北町)出身の元プロ野球選手(投手)。 北宇和高から、1980年オフにドラフト外で日本ハムファイターズに入団。 二軍では1982年5月19日の西武戦にてノーヒットノーラン、1982・1983年にシーズン最多敗戦(14)などを記録している。 1986年に一軍初登板を果たすが、翌1987年限りで現役を引退。 投球フォームは185センチの長身を利かせて真っ向から投げ込み、ダイナミックで迫力充分だった。
成田 幸洋(なりた ゆきひろ、1961年7月16日 - )は… 成田 幸洋(なりた ゆきひろ、1961年7月16日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。 八幡浜高校では3年春の県大会決勝で完投勝利して優勝。社会人野球の丸善石油に進む。1981年の都市対抗には同僚の捕手金田進とともに四国銀行の補強選手として出場。1回戦で大昭和製紙北海道と対戦し、リリーフで好投するが敗退。野球部の休部により1982年東芝に移籍。 1982年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団。 1984年はアメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学。 1985年にはイースタン・リーグで最多勝を記録。しかし一軍では結果を残せなかった。 1989年オフ、高橋一彦との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍した。
沖 泰司(おき やすし、1961年1月5日 - )は、愛媛県… 沖 泰司(おき やすし、1961年1月5日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手、捕手、外野手)、プロ野球コーチ。
丸山 一仁(まるやま かずひと、1960年10月30日 - … 丸山 一仁(まるやま かずひと、1960年10月30日 - )は、愛媛県上浮穴郡久万町(現:久万高原町)出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 愛媛県立上浮穴高等学校から近畿大学へ進み、4年春にはベストナインを受賞。1982年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名を受け入団。大学の1年後輩に西浦敏弘がいた。 プロ1年目の1983年から一軍出場を果たすが、西村徳文が二塁手に定着すると一・二軍の往復が中心になる。1989年は開幕一軍メンバー入りしたが二塁手には堀幸一が台頭、大学の先輩である有藤道世監督から引導を渡されたことで、この年限りで現役を引退。 引退後もロッテ球団に留まり、球界初の金田正一監督付き専属広報担当(1990年)に就任。
田中 富生(たなか とみお、1960年4月12日 - )は、… 田中 富生(たなか とみお、1960年4月12日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。
森 厚三(もり こうぞう、1959年3月19日 - )は、愛… 森 厚三(もり こうぞう、1959年3月19日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。
続木 敏之(つづき としゆき、1958年7月4日 - )は、… 続木 敏之(つづき としゆき、1958年7月4日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・監督・コーチ。 新居浜市立新居浜商業高校では2年の時、捕手、四番打者として1975年の第57回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年生のエース村上博昭とバッテリーを組み決勝に進出するが、小川淳司を擁する習志野高に9回裏4-5xでサヨナラ負け、準優勝にとどまる。直後の全日本高校選抜チームによる米国西海岸・ハワイ遠征にも選出された。同年秋の三重国体では、決勝で習志野高にまたも9回裏逆転サヨナラ負けを喫し準優勝。村上以外のチームメートに片岡大蔵がいた。1976年夏の甲子園愛媛県予選では決勝で今治西高に敗退。
片岡 大蔵(かたおか だいぞう、1957年11月23日 - … 片岡 大蔵(かたおか だいぞう、1957年11月23日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 幼少期から兄2人の影響を受け野球を始める、新居浜市立惣開小学校ではソフトボール、新居浜西中では軟式野球部に加入していた。 1973年に新居浜商業高に入学。1974年に春のセンバツへ出場。 1975年に投手兼一塁手として夏の甲子園に出場。愛媛県大会予選では、3回戦の内子高戦で9回2死までノーヒットノーランに抑えたが最後の打者にライト前のポテンヒットを打たれ快挙を逃す。北四国大会決勝では、当時愛媛県で無敵を誇った西条高戦に3回途中からリリーフ、延長10回まで無失点に抑えた(なお、この試合を当時、愛媛・卯之町で夏のキャンプをしていた国士舘大学野球部の畑俊二監督が偶然テレビ観戦していてスカウトされたと言われている)。
井上 卓也(いのうえ たくや、1957年4月2日 - )は、… 井上 卓也(いのうえ たくや、1957年4月2日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。
澤田 勝彦(さわだ かつひこ ※沢田という表記例もあり、19… 澤田 勝彦(さわだ かつひこ ※沢田という表記例もあり、1957年(昭和32年)2月19日 - )は、高校野球指導者。愛媛県立松山商業高等学校野球部監督として第78回全国高等学校野球選手権大会で全国制覇を成し遂げている。
西本 聖(にしもと たかし、1956年6月27日 - )は、… 西本 聖(にしもと たかし、1956年6月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(投手)・野球解説者、プロ野球指導者。
渡部 一治(わたべ かずはる、1956年1月20日 - )は… 渡部 一治(わたべ かずはる、1956年1月20日 - )は、愛媛県今治市出身の元アマチュア野球選手(内野手、外野手)である。 今治西高等学校では甲子園に4回出場。1971年夏の選手権は右翼手として出場。1年上の徳丸謙一(愛媛相互銀行)、同期の矢野隆司両投手を擁し2回戦に進むが、鹿児島玉龍高に敗退。翌1972年春の選抜は2回戦で倉敷工に敗れる。他の1年上のチームメイトに二塁手の木村富士夫がいた。1973年春の選抜は三塁手、四番打者として準々決勝に進むが、作新学院の江川卓に完封負け。同年夏の選手権は、準決勝で植松精一らを打の主軸とする静岡高に敗退。直後の日韓親善高校野球にも参加した。 駒澤大学に進学。
酒井 増夫(さかい ますお、1955年5月24日 - )は、… 酒井 増夫(さかい ますお、1955年5月24日 - )は、愛媛県西宇和郡保内町出身の元プロ野球選手(投手)。 愛媛県立八幡浜工業高等学校ではエース。速球主体のピッチングでカーブを武器とした。 1973年のドラフト5位で近鉄バファローズに入団。 1軍公式戦の出場がないまま1979年引退した。
河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日 - )… 河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ、解説者。2020年からは社会人野球・カナフレックスゼネラルマネージャー。 ニックネームは「カメ」、「シコ」。 元・巨人遊撃手の河埜和正は実兄である。 河埜家はスポーツ一家であったが、名前の「敬幸」の由来は1500gという超未熟児として生まれて生死の境をさまよったため、両親の「幸せに生きているだけでいい」という願いからであった。兄を追いかけるように八幡浜工高で野球部に入り、3年次の1973年、夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、八幡浜高にコールド負けを喫す。同年のドラフト3位で南海ホークスに入団。
高橋 広(たかはし ひろし、1955年2月4日 - )は、日… 高橋 広(たかはし ひろし、1955年2月4日 - )は、日本の元アマチュア野球選手、野球指導者である。 1955年2月4日、愛媛県新居浜市出身。中学校から本格的に野球を始め、愛媛県立西条高等学校時代は、主将を務め、捕手としてプレーした。高校3年の夏は、北四国大会予選県代表決定戦に進出したが、1年生エース西本聖擁する松山商業に1-5で敗れ、甲子園の夢がついえた。 早稲田大学野球部でも捕手として入学した。 早稲田大学では同期に吉沢俊幸、松本哲(匡史)、八木茂がいた。高橋が在学していた当時の早稲田大学野球部の捕手陣には1学年下に山倉和博(南海ドラフト1位を蹴って入学)、高校時代に江川卓とバッテリ―を組んだ作新学院の小倉偉民(現 亀岡偉民)、熊本二高から広島ドラフト5位を蹴って入学した野村豊(試合に出場経験がない)、2学年下には首位打者にもなった金森栄治(PL学園、プリンスホテル―西武―阪神)などがおり、高橋はこの捕手陣の層の厚さの前に「俺は力不足」と思ったという。
中尾 明生(なかお あきお、1952年11月7日 - )は、… 中尾 明生(なかお あきお、1952年11月7日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(内野手)。
細川 安雄(ほそかわ やすお、1952年8月2日 - )は、… 細川 安雄(ほそかわ やすお、1952年8月2日 - )は、阪急ブレーブスに所属したプロ野球選手。ポジションは捕手、外野手。愛媛県出身。
登記 欣也(とうき きんや、1952年2月12日 - )は、… 登記 欣也(とうき きんや、1952年2月12日 - )は、愛媛県宇和島市出身の元プロ野球選手(投手)。 愛媛・帝京五高では、エースとして1968年秋季四国大会決勝に進出するが、徳島商業高の松村憲章らに抑えられ完封負け、準優勝にとどまる。1969年春の選抜に出場。1回戦で釧路一高に完封負けを喫した。 高校卒業後は、社会人野球の神戸製鋼に入社。1973年のプロ野球ドラフト会議で太平洋クラブライオンズから7位指名を受けたが入団を拒否した。 1976年の日本選手権では1回戦で新日本製鐵室蘭を完封、2回戦で東京ガスの松沼博久と投げ合うが、延長14回サヨナラ負け。 1977年の都市対抗野球に出場、増岡義教(三菱重工神戸から補強)との二本柱で勝ち進む。
井原 慎一朗(いはら しんいちろう、1952年1月2日 - … 井原 慎一朗(いはら しんいちろう、1952年1月2日 - )は、愛媛県川之江市(現:四国中央市)出身の元プロ野球選手(投手)。プロ入り前の名前は「井原 慎一郎」。
矢野 暢生(やの のぶお、1952年 - )は、愛媛県今治市… 矢野 暢生(やの のぶお、1952年 - )は、愛媛県今治市出身の元アマチュア野球選手(投手)である。 今治西高等学校では2年生時、1969年夏の甲子園予選北四国大会準決勝に進むが、高松商の大北敏博に完封負けを喫する。その後も県予選で敗れ甲子園には出場できなかった。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは1972年春季リーグから登板。3年生からエースとなり楠城徹、鈴木治彦、鍛治舎巧ら強力打線の援護もあって、1973年春季リーグで4年ぶりの優勝に貢献。同季のベストナインに選出され、第2回日米大学野球選手権大会日本代表となる。大会では2試合に先発、第5戦では完投勝利を飾った。翌1974年春季リーグで優勝、2度目のベストナインに選出された。
藤沢 公也(ふじさわ きみや、1951年11月29日 - )… 藤沢 公也(ふじさわ きみや、1951年11月29日 - )は、愛媛県西宇和郡伊方町出身(大分県北海部郡佐賀関町〈現:大分市〉生まれ)の元プロ野球選手(投手)。 中学1年の時に陸上競技から野球に転向し、八幡浜高では1968年秋にエース・3番として実質予選である県大会準決勝で河埜和正のいた八幡浜工を完封。決勝では帝京五高の登記欣也に投げ勝って秋季四国大会に進出するが、1回戦で丸亀商の井原慎一朗と投げ合い、延長14回の接戦で惜敗。3年次の1969年には夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、井上明・谷岡潔のいた松山商に敗退。なお、松山商は甲子園で全国制覇を果たしている。 1969年のドラフトでロッテオリオンズから3位指名されるが、入団を拒否。
河埜 和正(こうの かずまさ、1951年11月7日 - )は… 河埜 和正(こうの かずまさ、1951年11月7日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 実弟も元プロ野球選手で、元南海→ダイエー二塁手の河埜敬幸。2023年現在、日本プロ野球で共に1000試合出場、1000安打、4000打数を達成した唯一の日本人兄弟選手である。 ニックネームは「カメ」。これは若手時代、出塁してリードを取った際、自信なさげに首だけ伸ばした姿が亀に似ていたということで当時の首脳陣に命名された。 河埜家はスポーツ一家で、小学校ではソフトボールをやっていた。中学校で野球部に入った時は連帯責任でケツバットを食らって即退部したが、バレーボール部に転じて県大会で優勝。
大森 光生(おおもり みつお、1951年6月24日 - )は… 大森 光生(おおもり みつお、1951年6月24日 - )は、愛媛県松山市生まれのアマチュア野球選手(捕手)。 松山商業高校では2年生時の1968年、投の二本柱であった同期の中村哲(丸善石油)、井上明とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。3回戦で三重高の上西博昭に抑えられ敗退。 翌1969年は俊足を活かし、一番打者として夏の甲子園に連続出場。準々決勝では静岡商の松島英雄を打ち崩し、準決勝でも若狭高を降し決勝に進出した。決勝は井上と三沢高の太田幸司との投手戦となり、延長18回0-0の引き分けで終了。当時の大会規定によって、勝負は翌日の再試合に持ち込まれた。井上、太田とも再試合に先発登板、井上は本調子とは言えず中村の救援を仰ぐが、4-2のスコアで優勝を飾る。
山本 良材(やまもと よしき、1951年5月10日 - )は… 山本 良材(やまもと よしき、1951年5月10日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。
門田 純良(かどた すみよし、1951年4月5日 - )は、… 門田 純良(かどた すみよし、1951年4月5日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。 今治南高から、社会人野球の愛媛相互銀行へと進み、谷山高明とともに主力投手として活躍。 1970年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名される。しかし保留する。 1971年の都市対抗に谷山とともに丸善石油の補強選手として出場。2回戦では盛岡鉄道管理局を相手に先発するが、早々に打ち込まれ真価を発揮できなかった。準々決勝でも先発を任され、日本石油の奥江英幸と投げ合う。この試合は3回からエースの久玉清人に継投して勝利を飾った。決勝に進出し新日鐵広畑と対戦。7回から久玉をリリーフするが白滝政孝、佐々木恭介に適時打を浴び降板、敗退した。
谷岡 潔(たにおか きよし、1951年4月5日 - )は、愛… 谷岡 潔(たにおか きよし、1951年4月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
井上 明(いのうえ あきら、1951年 - )は、日本の元学… 井上 明(いのうえ あきら、1951年 - )は、日本の元学生野球選手(投手)、新聞記者。愛媛県松山市生まれ。
楠橋 高幸(くすばし たかゆき、1950年11月14日 - … 楠橋 高幸(くすばし たかゆき、1950年11月14日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手、ポジションは内野手。
三好 真一(みよし しんいち、1950年6月2日 - 198… 三好 真一(みよし しんいち、1950年6月2日 - 1989年5月22日)は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
玉井 信博(たまい のぶひろ、1949年9月7日 - )は、… 玉井 信博(たまい のぶひろ、1949年9月7日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。読売ジャイアンツ、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズに所属した。
正岡 真二(まさおか しんじ、1949年8月15日 - )は… 正岡 真二(まさおか しんじ、1949年8月15日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(内野手)。1971年までは村上(むらかみ)姓であった。 2014年まで中日ドラゴンズのスカウトを務めていた。 今治南高校では遊撃手、一番打者として1967年夏の甲子園予選北四国大会決勝に進出。玉井信博投手を主戦とする松山商を降し甲子園に出場。準々決勝に進むが、野上俊夫投手を擁する市和歌山商に延長10回の熱戦の末3-4xで敗れた。 高校球界ナンバーワンの遊撃手と評価され、1967年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。打撃に極端に難があり、二軍暮らしが長かった。 1973年に一軍に定着、華麗な守備で徐々に出場機会を増やすが、打撃面での弱さが克服できず、広瀬宰とのレギュラー遊撃手争いが続く。
飯尾 尊雄(いいお たかお、1949年6月22日 - )は、… 飯尾 尊雄(いいお たかお、1949年6月22日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 丹原高等学校から1967年ドラフト12位で読売ジャイアンツに入団。ドラフト指名時伊予銀行へ就職が内定していたが、「入りたくとも誰もが巨人に入団できるとは限らない」と入団を決意。 重いストレートと落差のあるカーブが武器。 1年目はイースタンリーグでも登板がなかったが、秋の教育リーグで1回1/3を3奪三振と好投。2年目は肩を故障し登板機会がなく、秋の教育リーグ大洋戦で先発するも連打され敗戦投手となる。一軍出場なく1969年シーズン終了後解雇され退団。 退団後は燃料・ガス・水道工事販売業。
原 秀樹(はら ひでき、1949年4月5日 - )は、愛媛県… 原 秀樹(はら ひでき、1949年4月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 新居浜商業高校では3年生の時に四番打者、一塁手として1967年の春の選抜に出場。札幌光星高、平安高を降し3回戦に進出するが、報徳学園に延長11回の熱戦の末に敗退。この試合では大会第6号本塁打も放っている。同年夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが、松山商の玉井信博に完封を喫する。 1967年ドラフト会議で阪神タイガースから6位指名を受け入団。右の長距離打者としての将来性を買われたが、出場機会に恵まれず1971年に引退した。
大西 譲治(おおにし じょうじ、1949年2月20日 - )… 大西 譲治(おおにし じょうじ、1949年2月20日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 松山北高3年生の時、1966年のプロ野球第1次ドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名されたが、都合により取消となる。 高校卒業後、社会人野球の河合楽器に進むが、殆ど登板しなかった。 1967年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。 オープン戦では、スタルヒンに似た投手と騒がれ話題となり登板したが、球は速いが制球難なのが致命傷で、1970年に一軍公式戦に出場する事がないまま引退。 父親が米人。上手投げの本格派、直球とカーブ、フォークボールを武器とする。
森貞 周治(もりさだ しゅうじ、1949年 - )は、日本の… 森貞 周治(もりさだ しゅうじ、1949年 - )は、日本の元アマチュア野球選手(内野手)。 松山北高校では、1966年秋季四国大会県予選準々決勝に進むが帝京五高に敗退。法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース横山晴久らを擁し、1969年秋季リーグから4季連続優勝。1970年秋季リーグでベストナイン(遊撃手)に選出される。他の大学同期には古賀正明、中村裕二、依田優一らがいた。 卒業後は熊谷組に入社、都市対抗などの常連として活躍する。1975年の東京スポニチ大会では小林秀一らが好投、決勝で三協精機を降し優勝。この大会の優秀選手賞を獲得、同年の社会人ベストナイン(遊撃手)に選出される。
西本 明和(にしもと あきかず、1948年10月11日 - … 西本 明和(にしもと あきかず、1948年10月11日 - )は、愛媛県松山市興居島出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。
古沢 憲司(古澤 憲司、ふるさわ けんじ、1948年3月31… 古沢 憲司(古澤 憲司、ふるさわ けんじ、1948年3月31日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
金子 準一(かねこ じゅんいち、1947年11月5日 - )… 金子 準一(かねこ じゅんいち、1947年11月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。 元阪神タイガースの金子哲夫の実弟。 今治南高では、エースとして甲子園に2回出場。2年生時の1964年には夏の甲子園北四国大会決勝で高松高を降し、夏の選手権に出場。1回戦で熊谷商工に延長12回敗退。同年秋季四国大会でも準決勝に進み、高知商の江本孟紀と投げ合い敗退。3位決定戦でも徳島商に敗れるが、高知商に野球部内不祥事があり、翌1965年春の選抜への出場を辞退。繰り上がりで春の選抜に出場する。しかし1回戦で大谷高に惜敗。 1965年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから9位指名を受けるも、近鉄が交渉権を放棄。
末永 正昭(すえなが まさあき、1947年9月7日 - )は… 末永 正昭(すえなが まさあき、1947年9月7日 - )は愛媛県出身の元プロ野球選手。
宇佐美 敏晴(うさみ としはる、1947年8月5日 - )は… 宇佐美 敏晴(うさみ としはる、1947年8月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
藤原 満(ふじわら みつる、1946年9月18日 - )は、… 藤原 満(ふじわら みつる、1946年9月18日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者。
二宮 忠士(にのみや ただし、1945年6月5日 - )は、… 二宮 忠士(にのみや ただし、1945年6月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 八幡浜高校では、1963年の春季四国地区高等学校野球大会に初優勝するものの、甲子園には届かなかった。卒業後は東芝へ入社。1966年の都市対抗野球では中心打者として、チームの準々決勝進出に貢献する。 1967年ドラフト2位で東映フライヤーズに入団。100メートル11秒台の俊足、鉄砲肩、ノンプロ通算20本塁打という実績を認められてのプロ入りだった。1968年にはジュニアオールスターに選出され、翌年は16試合に出場するが、打撃面で伸び悩む。病気を患い4年目の1971年限りで引退。 引退後の1979年7月には山田潔団長の下、大友工・大橋勲と共に「日本プロ野球コーチ団」団員として中国で野球指導を行う。
村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )… 村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(捕手)。
高井 保弘(たかい やすひろ、 1945年2月1日 - )は… 高井 保弘(たかい やすひろ、 1945年2月1日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(内野手)。