穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年… 穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年11月26日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 愛媛県生まれ。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)、長崎高等商業学校(現・長崎大学)卒、1926年京都帝国大学経済学部卒。1927年東亜同文書院教授、1932-1934年ドイツに学ぶ。1939年京都帝大講師、1939年助教授、1945年3月教授、1952-1954年京都大学経済学部長。1957年「英国産業革命史の一断面 ラダイツの研究」で経済学博士。1966年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授。1977年大阪工業大学教授。
青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 … 青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 - 1991年7月16日)は、人文地理学者。東京教育大学名誉教授。 愛媛県越智郡桜井村(現・今治市)出身。1932年、東京文理科大学卒(第1回卒業生)。1947年東京文理大助教授、1949年「本邦鰹釣遠洋漁村の地理学的研究」で東京大学理学博士、東京教育大学教授。1965年定年退官・名誉教授、立正大学教授、1976年退職。日本の漁村・漁業地理学を研究、日本地誌研究所を創設し『日本地誌』全21巻を日本全国から460名を動員して編集。日本地理学会会長(在任:1962年 - 1963年)、名誉会員。 日本における水産地理学の開拓者であり、青野自身、「地誌学的研究の論文が多いのはオリジナルな研究の結果によるものが多いため当然のことではあるが,これらの研究成果から漁村水産地理学の科学的体系を樹立したいという意欲が強められたことも,ここで述べておきたい.」と著書の冒頭で述べている。
細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 197… 細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 1970年10月13日)は、日本の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)生まれ。岡金太郎の長男として生まれる。 旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。 1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7… 山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7月25日 - 1976年12月1日)は、法律家、詩吟家。 本業は弁護士であったが、己の修養のため若いころから培ってきた詩吟が有識者の耳にとまり、ラジオで放送されたりレコード化されたりで著名となる。その声量と独特な高音の節まわしによる「修養のための詩吟」が知られるようになり、本業の弁護士の傍ら「包容会」を創設、会誌発行とともに後進の指導にも当たった。 積善は、詩吟は余興や芸能ではなく “祈りであり行(ぎょう)である” として「吟行(ぎんぎょう)」という言葉を用いて指導した。つまり、詩吟は心ある日本人の祈りであり、己を磨き強固な精神を養う修行として吟ぜよ、ということである。
矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1… 矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。無教会派キリスト教の指導者としても知られる。
魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 19… 魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 1954年12月10日)は、日本のプロテスタント神学者、同志社大学神学部および大学院神学研究科教授、文学博士。 愛媛県松山市三番町生まれ。松山夜学校(現・松山学院高等学校)に5年間通った後同校教師となり、西村清雄校長から人格と学業において大きな影響を受ける。1917年同志社大学神学部に入学。卒業後1922年から米国シカゴ大学、ユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツ・マールブルク大学神学部で学び、特にユニオン神学校ではA・C・マッギファート(英語版)の影響を受けた。帰国後の1927年に同志社大学文学部神学科講師、1930年に教授となる。
越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991… 越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991年4月18日)は愛媛県松山市出身の随筆家、評論家、郷土史家である。俳号は水草。柳号は緋威子、やなぎ丸。 小学校では藤野古白の弟である藤野滋と同級生であった。投書雑誌『文章世界』に「越智水草」「落二郎」という筆名で投稿していた(「サフラン酒」は『文章世界』の優秀作を厳選した田山花袋編『二十二篇』東雲堂1910年にも収録された)。1909年5月に創刊された雑誌『四国文学』では2巻5号まで編集者を務めた。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、海南新聞社(現在の愛媛新聞社)に入社。1913年5月に同紙一面に文芸欄が新設された際、担当者に就く。
薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1… 薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1984年(昭和59年)7月23日)は、日本の民法学者。法政大学名誉教授、元愛知大学・國學院大學教授。 愛媛県吉田町に生まれる。宇和島中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。1915年(大正4年)に東京帝国大学を卒業し、司法官試補をへて、1918年(大正7年)に東京地方裁判所判事に就任する。1920年(大正9年)に退官し、大学時代の恩師である乾政彦の法律事務所に勤務する。同年、法政大学法学部教授に就任する。1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)までドイツ、イギリス、フランスに留学する。1934年(昭和9年)、『留置権論』により法学博士(東京帝国大学)を授与される。
増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1… 増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1933年8月6日)は、日本の心理学者。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学、旧制四高、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。元良勇次郎、松本亦太郎に師事。欧米留学を経て、1922年東京帝大助教授。1933年「心理学ノ研究法-殊ニ数量的研究ニツイテ」で東京帝国大学文学博士。51歳で死去した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月2… 安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日 - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進む。ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9… 佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9年〉9月1日 - 1959年〈昭和34年〉11月29日)は、日本の栄養学者、医師。医学博士。「栄養学の創始者」、「栄養学の父」と称される。世界に先駆けて医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。 栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。自分で料理をすることはほとんどなかった。 佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 1876年9月1日、愛媛県新居郡氷見村(現・西条市)の医師の家に生まれる。
加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 … 加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 - 1960年(昭和35年)8月29日)は日本の工学者。東京帝国大学名誉教授。1929年東京での万国工業会議組織委員長、日本機械学会会長などの要職を歴任、国際的にも知られた。 1876年(明治9年)8月15日、愛媛県松山市榎町に愛媛県士族の加茂寬正の三男として生まれる。幼少の頃より器物玩具の製作に才を発揮し、伊予尋常中学校、第三高等中学校、第二高等学校 (旧制)を経て、1895年に東京帝国大学機械工学科に入学、1896年、1897年は特待生に選出され、在学中より逓信省官船局船舶検査と造船工事の監督補助に携わる。1898年(明治31年)に同校を卒業し、大学院で船用機関学を研究し、東京帝国大学工科大学助教授に就任。
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月1… 景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。 愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。湯殿高等小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。 1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年… 小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年1月26日) - 1930年(昭和5年)7月11日)は、日本の化学者。東北帝国大学総長兼教授。 松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学ぶ。1890年6月から1896年8月にかけて、静岡県尋常中学校で数学・物理・化学の教員を務めた。ロンドン大学のラムゼー研究室に留学。 2年間の留学中、トリウム鉱石のトリアナイト(方トリウム石、ThO2)の中に新元素を探す研究を行った。1906年の帰国後も研究を続け、1908年、「原子量が約100の43番目の元素」を発見し、ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したと発表した。
西園寺 源透(さいおんじ げんとう、1864年(元治元年)3… 西園寺 源透(さいおんじ げんとう、1864年(元治元年)3月 - 1947年(昭和22年)12月6日)は、明治時代から昭和時代前期にかけての愛媛県の郷土史家。旧姓は大野、号は富水、予水など。 伊予国宇和郡川内村(現・愛媛県宇和島市)にて出生し、6歳の時、宇和郡富野川村(現・西予市野村町)にあった西園寺家の養子となる。富野川小学校の教員や東宇和郡の書記を務めた後、27歳で中筋村(現・西予市)初代村長に就任した。その後郡会議員や県会議員などを経て、松山電気軌道や小倉薬館の会社役員に就任し、愛媛県の政財界にて重要な役割を果たした。 その後、多少の隠居生活を挟んで1914年(大正3年)に景浦直孝、曽我部一郎らとともに伊予史談会を設立し、会誌『伊予史談』を創刊したり、古文書や絵図など史料を収集したりするなど郷土史の研究にいそしんだ。
岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864… 岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864年2月10日〉 - 昭和13年〈1938年〉5月30日)は、明治から昭和の日本の医師・医学者。帝国大学耳鼻咽喉科学初代正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。 小学校卒業後、西條町立病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。 明治35年(1902年)森鴎外と荒木茂子との結婚の媒酌人を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1… 穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1856年8月11日〈安政3年7月11日〉 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。獨逸学協会会員。弟子に牧野英一など。 1856年8月11日(安政3年7月11日)、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた。明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている。
石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年… 石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年7月14日)‐ 1892年(明治25年)1月6日) は、幕末の今治藩士・漢学者、明治期の公吏・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治(現愛媛県今治市) で、今治藩士・石原信順の三男として生まれた。藩校・克明館で刻苦精励して同校の助教に就任。嘉永5年(1852年)句読司となり、安政2年5月(1855年)江戸在勤となり学習館の句読司に就任。安政3年7月(1856年8月)帰藩して克明館句読司に復帰。安政4年(1857年)、学識の不足を感じ句読司を辞して京都・摂津に遊学した。安政6年3月(1859年)帰藩して句読司、素読指南、助教を歴任した。 明治元年5月25日(1868年7月14日)甲府警備の参謀に発令され同年12月まで派遣された。
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文… 武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、1827年11月4日(文政10年9月15日)- 1880年(明治13年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげあきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。 緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐。陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。 文政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。
武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3… 武田 敬孝(たけだ ゆきたか、文政3年2月4日〈1820年3月17日〉 - 1886年〈明治19年〉2月7日)は、幕末の儒学者。明治時代の官吏。胆沢県権知事。通称は亀五郎。雅号に韜軒、熟軒、天経、伯佐。 大洲藩儒御旗組小頭武田敬忠、新谷藩医久岡氏の女三保子の長男として、伊予国伊予郡中村(愛媛県伊予郡北山崎村を経て現伊予市)に生まれる。大洲藩校で常磐井厳戈に、経史や詩文を山田東海に学んだ。1839年(天保10年)父に代勤して江戸在番の機会を得、大橋訥庵の教えを受け尊王思想を抱くようになる。 学識を認められ足軽小頭から藩主の侍講に登用され、藩校明倫堂教授となり、執政顧問を兼ねた。幕末は尊王諸藩との連携に尽力した。
巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7… 巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7日 - 1872年10月5日)は、江戸時代幕末から明治時代の尊攘運動家、国学者、歌人。 伊予国(愛媛県)大洲比地町の代々染物屋を営む松井八郎兵衛の子として生まれる。諱は信善。幼名は民三郎。幼くして、書籍と薬種を商っていた巣内(丸屋)久兵衛の養子となった。青年時代に阿蔵村の八幡神社宮司の常盤井厳戈の塾古学堂に入り、国学や漢学、和歌を学んだ。同門の塾生に武田竹塘や青野完治、矢野玄道、大村益次郎の暗殺犯となる神代直人がいた。その後家業を継ぎ、養父と同じ久兵衛を名乗ったが、尊王攘夷思想に傾倒していき、安政の大獄や桜田門外の変が起こると、43歳にして遂に家業を廃して国事に奔走する道を選んだ。
森實 俊充(もりざね としみつ)は、愛媛県出身の日本の電気工… 森實 俊充(もりざね としみつ)は、愛媛県出身の日本の電気工学者。大阪工業大学工学部電気電子システム工学科教授、工学部長・工学研究科長。前国際交流センター長。工学博士(東京大学)。日本学術振興会元特別研究員(DC)。パワーエレクトロニクス学会会長。IEEE IES Japan Joint Chapter 2018/2019 Chair。近畿電力利用合理化委員会審査部会会長。 専門は、パワーエレクトロニクス(直流送電HVDC含む)、メカトロニクス、リニアモーター・磁気浮上(電気鉄道含む)、電気自動車(EV)用電動機制御・充電システム(自動車工学含む)など。 1986年愛媛県立新居浜西高等学校卒業。
永井 泰樹(ながい やすき) は、日本の核物理学者。東京工業… 永井 泰樹(ながい やすき) は、日本の核物理学者。東京工業大学名誉教授、大阪大学名誉教授。元大阪大学核物理研究センター長。仁科記念賞受賞。 京都府生まれ。愛媛県西条市出身。1962年愛媛県立西条高等学校卒業。1966年東京工業大学(のちの東京科学大学)卒業。1971年同大学大学院修了、理学博士、大阪大学核物理研究センター助手。東京工業大学理学部助教授、同教授、大阪大学核物理研究センター長・教授等を経て、東京工業大学名誉教授、大阪大学名誉教授、量子科学技術研究開発機構研究員、大阪大学核物理研究センター協同研究員、日本原子力研究開発機構客員研究員。2002年度仁科記念賞を井頭政之と共同受賞。2015年燕理会会長。
岩倉 洋一郎(いわくら よういちろう)は、日本の免疫学者。東… 岩倉 洋一郎(いわくら よういちろう)は、日本の免疫学者。東京大学名誉教授。東京理科大学生命医科学研究所ヒト疾患モデル研究センター長。
倉田 博基(くらた ひろき) は、日本の化学者。京都大学名誉… 倉田 博基(くらた ひろき) は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本顕微鏡学会学会賞(瀬藤賞)受賞。 愛媛県出身。1976年愛媛県立松山東高等学校卒業。1980年名古屋工業大学工学部繊維高分子工学科卒業。1986年京都大学大学院理学研究科化学専攻博士課程修了。1998年日本電子顕微鏡学会論文賞受賞。2003年日本顕微鏡学会学会賞(瀬藤賞)受賞。京都大学化学研究所助手、日本原子力研究所東海研究所研究員、京都大学化学研究所助教授、同教授を経て、2015年京都大学化学研究所附属先端ビームナノ科学センター長。2023年京都大学名誉教授。
徳田 元(とくだ はじめ)は、日本の生物学者。東京大学名誉教… 徳田 元(とくだ はじめ)は、日本の生物学者。東京大学名誉教授。元盛岡大学学長。日本農芸化学会賞受賞。 愛媛県宇和島市生まれ。愛媛県立宇和島東高等学校を経て、1969年名古屋大学農学部農芸化学科卒業。1974年名古屋大学大学院農学研究科博士課程修了、農学博士、日本学術振興会奨励研究員。1975年ロシュ分子生物学研究所研究員(Howard Ronald Kaback)。1977年イリノイ大学博士研究員。1979年千葉大学生物活性研究所助手。1988年東京大学応用微生物研究所助教授。1995年東京大学分子細胞生物学研究所教授。2004年東京大学総長補佐。2006年日本農芸化学会賞受賞。2007年東京大学アイソトープ総合センター長。
三代木 伸二(みよき しんじ)は、高知県出身の日本の物理学者… 三代木 伸二(みよき しんじ)は、高知県出身の日本の物理学者。東京大学宇宙線研究所教授。博士(理学)。重力波実験物理学を専門とする。 愛光高等学校卒業後、東京大学理学部物理学科、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻修士課程を経て、1996年3月に同物理学専攻博士課程を修了し、博士(理学)を取得した。その後、日本学術振興会特別研究員(PD)、カリフォルニア工科大学Research Associateを経た後、1998年4月に東京大学宇宙線研究所・ミューニュー部・助手に着任した。科学技術振興機構研究員(戦略的創造研究推進事業・個人研究型・光の創成・操作と展開領域〔代表:伊藤弘昌〕)を兼任し、2012年7月より東京大学宇宙線研究所(宇宙基礎物理学研究部門重力波グループ)の准教授を務める。
柏谷 増男(かしわだに ますお)は、日本の土木工学者。愛媛大… 柏谷 増男(かしわだに ますお)は、日本の土木工学者。愛媛大学工学部教授。専攻は、都市計画・交通計画・地域計画・国土計画。工学博士(京都大学・1976年)。都市計画・都市開発に関する国土交通省・愛媛県・松山市等の各種委員等を多数歴任。出身地・今治市の今治新都市開発に構想策定当初から関わる。愛媛県今治市生まれ。 所属学会は、土木学会・日本都市計画学会・日本地域学会・応用地域学会・日本計画行政学会ほか。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
浅海 淳一(あさうみ じゅんいち)は、日本の歯科医師、歯学者… 浅海 淳一(あさうみ じゅんいち)は、日本の歯科医師、歯学者。岡山大学医歯薬学総合研究科副研究科長、歯学部長、医歯薬学総合研究科病態制御科学専攻歯科放射線学分野教授。日本歯科放射線学会理事長。愛媛県今治市出身。 1984年 広島大学卒業。以後、西条中央病院、岡山大学歯学部附属病院]合診療室助手、光輝病院歯科・口腔外科科長、岡山大学歯学部附属病院第一口腔外科助手、岡山大学歯学部口腔外科学第1講座助手、水島第一病院、岡山大学歯学部口腔外科学第1講座助手、国立岡山病院歯科・口腔外科厚生技官、岡山大学歯学部歯科放射線学講座助手、岡山大学歯学部附属病院歯科放射線・口腔診断科講師を経て、2008年に教授に就任。