黒川 敦彦(くろかわ あつひこ、1978年〈昭和53年〉9月… 黒川 敦彦(くろかわ あつひこ、1978年〈昭和53年〉9月6日 - )は、日本の実業家、政治活動家。政治団体つばさの党代表、市民団体今治加計獣医学部問題を考える会共同代表。元政治家女子48党幹事長。反ワクチン活動家。 愛媛県今治市で生まれる。愛媛県立今治西高等学校、大阪大学工学部卒業。新卒で国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)に研究員として勤める。2001年4月、学生時代から関わりのあった大阪大学ベンチャー・ビジネス・ラボラトリー(VBL、現:大阪大学産学共創本部)の研究員にも就任し、2004年3月まで在籍した。また同時期、大阪TLOのコーディネーターを兼任した。 2003年、独立し会社を立ち上げる。
永易 至文(ながやす しぶん、1966年 - )は、日本の著… 永易 至文(ながやす しぶん、1966年 - )は、日本の著述家、人権活動家、行政書士、編集者。本名は「至文」を「ゆきふみ」と読む。1988年に「動くゲイとレズビアンの会」(現・アカー)に参加し、東京都青年の家事件において東京都と戦った。NPO法人「パープル・ハンズ」事務局長。2000年代から性的少数者の老後問題に取り組み、様々なサポートを行っている。 愛媛県新居浜市出身。海沿いの農村地帯に生まれた。祖父は豆腐屋を営んでいた。四国にいたときの楽しみはラジオで北京放送を傍受することであった。一時期、毛沢東に傾倒する。高校卒業後、大阪の予備校に1年間通い、1986年4月に東京大学に入学した。 1988年5月、大学で行われた「動くゲイとレズビアンの会」(現・アカー)の講演会に出席。
高見 知佳(たかみ ちか、本名:高橋 房代〈たかはし ふさよ… 高見 知佳(たかみ ちか、本名:高橋 房代〈たかはし ふさよ〉、1962年〈昭和37年〉7月9日 - 2022年〈令和4年〉12月21日)は、日本の女優、歌手、タレント、政治活動家。愛媛県新居浜市出身。 新居浜市立泉川小学校、新居浜市立泉川中学校卒業。小学校高学年から中学時代にかけて、新居浜少年少女合唱団に所属。1978年、中学生の時、松山市で行われたテレビ愛媛のど自慢番組に参加し、25人に勝ち抜きスカウトされる。 中学卒業とともに上京。田辺エージェンシーに所属し、1978年にコロムビアからアイドル歌手としてデビュー。本名ではその響きが“何となくおばさんくさい”ということから芸名を付けることになり、姓名判断で選んだいくつかの候補の中から本人が選んで決定した。
山田 悦子(やまだ えつこ、旧姓:沢崎、1951年(昭和26… 山田 悦子(やまだ えつこ、旧姓:沢崎、1951年(昭和26年) - )は、日本の社会運動家。徳島女子短期大学卒業。富山県出身。 1974年(昭和49年)の甲山事件の冤罪被害者として知られる。 富山県出身。愛媛県新居浜市育ち。新居浜市立泉川小学校、新居浜市立泉川中学校を経て新居浜市立商業高等学校(現:愛媛県立新居浜商業高等学校)を卒業。1972年(昭和47年)に徳島女子短期大学保育科(現:徳島文理大学短期大学部)を卒業し、同年に兵庫県西宮市の甲山福祉センター甲山学園に保母として就職する。 1974年(昭和49年)3月17日に甲山学園の園児である女児2人が殺害された甲山事件の犯人として同年4月7日に逮捕され、その後、証拠不十分で不起訴となり釈放。
神津 陽(こうづ あきら、1944年 - 2025年4月14… 神津 陽(こうづ あきら、1944年 - 2025年4月14日)は、日本の社会評論家・運動家。元駿台予備学校講師。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立宇和島南高等学校、中央大学法学部一部法律学科卒業。 三上治(味岡修)とともに新左翼の党派である共産主義者同盟(ブント)叛旗派の理論的指導者として、中大闘争、三多摩闘争、三里塚闘争等を主導する。著書『蒼氓の叛旗』はベストセラーとなった。70年代以降ブント内でも赤軍派に見られるような急進的軍事革命路線と、その他穏健派閥の中で対立が生まれ、新左翼グループ内で内ゲバが横行するようになると、これに嫌気をさした神津は1976年叛旗派を解散。以後在野の社会評論家として活動した。
高田 がん(たかだ がん、1930年〈昭和5年〉5月23日 … 高田 がん(たかだ がん、1930年〈昭和5年〉5月23日 - 2021年〈令和3年〉12月25日)は、日本の政治運動家、特殊株主。「反共全国遊説隊」隊長、元自称「参議院比例代表研究家」。広義の街宣右翼に該当するが任侠系人士ではない。愛媛県八幡浜市出身。 17歳で中学校代用教員に採用される。敗戦直後の動乱期に新聞配達から日雇労働まで多彩な職業を変転し、その中でアプレゲール的信念としての反共主義に基づく「赤狩り」志向が醸成された模様[要出典]。 1960年前後の安保闘争期に翼賛院外団活動を本格化させ、1963年4月の統一地方選挙で注目された東京都知事選挙に、「(誇り高き)選挙屋」と嘯き無差別大量立候補で社会的批判を浴びていた、肥後亨グループの公認(この時は団体名が『肥後亨』)で初立候補。
中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )… 中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )は、日本の眼科医・キリスト教活動家。 愛媛県松山市生まれ。1942年9月東京慈恵会医科大学卒業。12月北京同仁医院(眼科)勤務。45年8月北京仁民医院(眼科)に留用。同時に日本人戦犯拘置所に一日おきに往診。1947年11月帰国。1948年3月衣笠病院眼科勤務。1953年2月白十字会村山療養園(現∶東京白十字病院・結核科)勤務。1972年7月特別養護老人ホーム白十字ホーム園長就任。89年3月園長退任。引き続き専任医師として勤務。93年7月白十字ホーム退職。キリスト者平和の会委員、安保反対キリスト者平和会議事務局長、日本友和会理事長及び理事、白十字会理事、アルヴィン学院理事、友愛の灯協会会長、全国老人福祉問題研究会会長などを歴任。
星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989… 星加 要(ほしか かなめ、1909年7月11日 - 1989年5月28日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)書記長、副委員長。 愛媛県新居浜市生まれ。高等小学校卒業後、鉄道教習所を経て、四国鉄道局の運転局総務課に勤務。1946年四国鉄道従業員連合組合(のち国鉄労働組合四国地方本部)の結成を主導。1947年10月の国労第2回臨時大会で右派系執行部の提案(片山内閣の1800円ベース受諾)が否決され、執行部が総辞職、右派系代議員が退場して斉藤鉄郎議長が流会を宣言。11月に斉藤らと中心になって国鉄労組反共連盟(1948年3月国鉄労組民主化同盟に改称)を結成し、民同運動の口火を切った。民同派のリーダーとして共産党グループと国労の主導権を争い、1948年3月から4月、1948年9月から1949年4月(第5回臨時大会から第6回臨時大会)に書記長を務めた。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年… 上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年)4月16日 - 1987年(昭和62年)3月21日)は、大正・昭和期の朝鮮における公立普通学校教員、社会活動家。 慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校に勤務して朝鮮人の生活の苦しさをみるうち日本による朝鮮の植民地支配に疑問をもち朝鮮の独立を支持する考えになっていった。朝鮮人の苦しさを解消するための方法を考え、教え子と教育労働者組合の勉強会を自発的に行うなどしていたところ、1930年12月5日、教育労働者組合の結成を画策したとして治安維持法違反で逮捕された。 愛媛県西宇和郡千丈大村川之内(現在の愛媛県八幡浜市川之内)で、父・景吉(けいきち)、母・淑(きよ)の長男として誕生した。
白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7… 白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7月28日)は、昭和時代の労働運動家。日本共産党中央委員。 愛媛県温泉郡和気村(現松山市)生まれ。愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高校)在学時に重松鶴之助(画家)、伊丹万作(映画監督)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)らと同人雑誌『楽天』を発行。5年生のとき中退し、重松と京都・東京を放浪後、東京の感化院で働く。1923年の関東大震災直前に結核のため帰郷、左翼運動に関わる。回復後に再び上京するが、1926年に画業に行き詰った伊丹を援けるため、重松と3人で松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開業。この時期に同郷の岩田義道と出会い、その影響で労働運動の世界に入る。
松本 慎一(まつもと しんいち、1901年11月8日 - 1… 松本 慎一(まつもと しんいち、1901年11月8日 - 1947年11月26日)は、日本の著述家・社会運動家。岩波文庫版『フランクリン自伝』の翻訳、尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』の編集で知られる。政治学者・松本礼二の父。 愛媛県出身。愛媛県宇和島中学校を卒業し、1919年に(旧制)第一高等学校に入学、寮で同室だった尾崎秀実や同期の古在由重らと親交を結ぶ。1922年に卒業し、東京帝国大学法学部に入学。 1926年に東京帝大法学部法律学科を卒業し、三省堂に勤務し英和辞典の編纂に従事。この時期にマルクス主義・共産主義への思想的傾斜を強め、1931年6月にコミンテルンの東アジア方面連絡員が上海で検挙されたヌーラン事件に関連して検挙されるも、嫌疑不十分としてほどなくして釈放された。
菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 195… 菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 1954年9月26日)は、日本の労働運動家・政治家。全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事・衆議院議員(3期)を歴任した。 愛媛県越智郡波方村(現・今治市)に、魚問屋の長男として生まれる。旧制愛媛県立今治中学校を卒業後、商社勤務を経て、1920年、旧制第一高等学校に進学。一高在学中に、社会主義思想に触れ、社会主義運動に身をささげる決意をした。1923年に東京帝国大学経済学部に進学。学内で、学生自治権拡大運動や関東大震災の被災者救援運動などを組織した。新人会会員。 1926年、東大卒業後、日本労働総同盟(総同盟)に就職。以後、労働運動の指導に従事し、1934年の第18回国際労働会議・第1回アジア労働組合会議には日本労働代表として参加した。
林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月… 林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月6日 ‐ 1958年(昭和33年)2月14日) は、大正から昭和期の農民運動家・政治家。衆議院議員。 愛媛県周桑郡小松村新屋敷(小松町新屋敷を経て現西条市小松町新屋敷)で、明勝寺住職・林田孝純の二男として生まれた。幼くして父が死去し母に養育された。小松小学校、西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て大谷大学に進学。1922年(大正11年)全国水平社創立大会に参加し、大学を中退して帰郷し水平運動を起こした。 1922年設立の日本農民組合に1923年(大正12年)に加わり農民運動を推進し、1925年(大正14年)別子銅山大争議を支援した。
青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年… 青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年)9月7日 - 1959年(昭和34年)12月9日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。位階は正五位。 衆議院議員(4期)。配偶者は青野 喜代子。長男は青野 宏、次男は青野 徹、孫は青野 義弘、青野 光俊[要出典]。 愛媛県新居郡、のちの西条市で生まれる。高等小学校を卒業後、八幡製鐵所に入り職工として勤務。日本労友会に加わり、1920年(大正9年)同製鐵所の大争議に参加した。日本労友会が解散した後、1925年(大正14年)九州民権党が結成され執行委員に就任。その後、日本大衆党、労農大衆党、社会大衆党、日本無産党などの八幡支部書記長を務めた。
中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)… 中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)3月20日 ‐ 1964年(昭和39年)7月19日) は、明治末から昭和期の醸造家、社会事業家、政治家。参議院議員(1期)、愛媛県宇和島市長。 愛媛県西宇和郡伊方浦(伊方村を経て現伊方町)で生まれた。 1911年(明治44年)9月、北宇和郡会議員に就任。1914年(大正3年)宇和島で醤油醸造業を営む。1915年(大正4年)宇和島町会議員に選出され、1925年(大正14年)12月から1934年(昭和9年)まで宇和島市会議員に在任し、副議長も務めた。また愛媛県方面委員として社会事業に取り組み、1927年(昭和2年)10月、宇和島市民共済会を設立して救貧事業などを進め、授産場での団扇製造販売を手掛けるなどの活動で注目された。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7… 巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7日 - 1872年10月5日)は、江戸時代幕末から明治時代の尊攘運動家、国学者、歌人。 伊予国(愛媛県)大洲比地町の代々染物屋を営む松井八郎兵衛の子として生まれる。諱は信善。幼名は民三郎。幼くして、書籍と薬種を商っていた巣内(丸屋)久兵衛の養子となった。青年時代に阿蔵村の八幡神社宮司の常盤井厳戈の塾古学堂に入り、国学や漢学、和歌を学んだ。同門の塾生に武田竹塘や青野完治、矢野玄道、大村益次郎の暗殺犯となる神代直人がいた。その後家業を継ぎ、養父と同じ久兵衛を名乗ったが、尊王攘夷思想に傾倒していき、安政の大獄や桜田門外の変が起こると、43歳にして遂に家業を廃して国事に奔走する道を選んだ。
原田 謙介 は、日本の政治活動家、市民活動家、NPO法人Yo… 原田 謙介 は、日本の政治活動家、市民活動家、NPO法人YouthCreate元代表理事、元参議院議員秘書、ラジオパーソナリティ。岡山大学非常勤講師、中野区社会福祉協議会評議員、グリーンバード中野チームリーダーなどを務めた。「若者と政治をつなぐ」活動を10年以上続けている。
吉良 愛(きら あい)は、日本の市民活動家。松山大学経営学部… 吉良 愛(きら あい)は、日本の市民活動家。松山大学経営学部中退。NPO法人いよココロザシ大学講師。2023年度松山商工会議所青年部副会長。 愛媛県立八幡浜高等学校普通科卒業、松山大学経営学部中退。2023年度松山商工会議所青年部副会長。 テレビ愛媛主催100人女子会の婚活セミナー、社団法人法皇青年会議所主催100人婚活イベント、四国中央市倫理法人会主催婚活イベントなど多数セミナーやイベントを開催している[出典無効]。 2012年10月には「いよココロザシ大学」にて、自身のアパレルや飲食業での接客経験を元に講義した。どんな男性がタイプかという話から始まる型破りな授業を展開し受講者の関心を引く手法は流石だ。
宇都宮 とみ子(うつのみや とみこ)は、日本のジオガイド、市… 宇都宮 とみ子(うつのみや とみこ)は、日本のジオガイド、市民活動家。愛媛県西予市出身。三瓶町の須崎海岸などでジオパークのガイドを行っている。四国西予ジオガイドネットワーク・ガイド部会長。いよココロザシ大学講師。 愛媛県西予市三瓶町出身。 生まれ育った三瓶町の須崎海岸の食べ物や暮らしをテーマにイベントを開催している。 2012年7月にジオパーク解説会に参加したことをきっかけに「ジオパーク」という言葉を知った。そこで、知名度が低く観光資源が少ないと考えていた西予市をジオパークとして売ることを考えついた。翌年からジオパーク現地研修会へ参加。須崎海岸を歩き、4億年かけてできた地層を目の当たりにした。その後記事には、「歴史は好きですが、ジオという地球の歴史は理系の苦手な私には「難しい」科目でした。