東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉1… 東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉10月8日 - 1982年〈昭和57年〉5月29日)は、第40代内閣総理大臣・東條英機の妻。夫の英機との間に7人の子供を儲けた。 生涯に渡って本人が用いた署名は「かつ子」。戸籍名はカツ。通称は勝子。 国防婦人会副会長を務めた。 かつ子は福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘として生まれる。幼少時から向学心が強かった。小倉高等女学校(現:福岡県立小倉西高等学校)在学中は、小倉の萬徳寺(英機の母・千歳の実家。伊藤家の遠縁でもあった。)に下宿していた。小倉高女を卒業すると、明治時代の女性にとっての最高レベルの教育を受けるべく、1906年(明治39年)に、日本女子大学校(現:日本女子大学)国文科に入学のため上京。
木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日… 木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日 – 1956年(昭和31年)7月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県宗像郡上西郷村(現:福津市)出身。1909年、私立技芸裁縫女学校卒。卒業後上京し政治経済研究所に勤める。結婚後は京都府相楽郡上狛町(現木津川市)に住む。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選した。当選後、「福岡県立女学校卒業」という経歴が詐称であることが発覚した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において京都2区から民主党公認で立候補したが落選した。1956年の第4回参議院議員通常選挙で京都府から無所属で立候補したが選挙中の7月2日に狭心症で死去した。
熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月1… 熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月10日 - 1968年(昭和43年)8月16日)は、福岡県大牟田市出身の男子テニス選手。旧漢字表記では 熊谷 一彌 と書く。 熊谷は日本テニス界の黎明期を築き、清水善造と共に日本人テニス選手の世界挑戦への道を開拓した選手のひとりである。1918年(大正7年)の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出した。 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人初のオリンピックメダリストとなった。 英語文献では“Ichiya Kumagae”(イチヤ・クマガエ)と表記されることが多い。
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月2… 古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市有明町)で、古賀健蔵の息子として生まれる。1909年(明治42年)久留米市立商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)を卒業した。 1919年(大正8年)12月、円仏古賀商店取締役に就任。1932年(昭和7年)大牟田商工会議所議員、1934年(昭和9年)同副会頭に就任した。その他、大牟田信用組合(現大牟田柳川信用金庫)監事、福岡県陸上小運搬業組合大牟田支部長、旭セメント取締役、三池製氷取締役などを務めた。 1921年(大正10年)大牟田市会議員に選出され、同副議長、大牟田市所得調査委員などを務め、福岡県会議員にも在任した。
伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月2… 伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。 1890年(明治23年)7月26日、福岡県三池郡高田町(現・みやま市)に父・梅太郎の長男として生まれる。1911年(明治44年)7月海軍兵学校39期を15番で卒業。海軍兵学校同期に遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1927年(昭和2年)5月、少佐でアメリカに派遣。アメリカに滞在していた時、レイモンド・スプルーアンスと深い親交を結んだ。伊藤が戦死した坊ノ岬沖海戦の際、米指揮官として攻撃命令を下したのはスプルーアンスであった。
石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不… 石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官、弁護士。 白石儀七の四男として大阪府に生まれる。1909年福岡県立中学修猷館を経て、1917年東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1923年石井家の養子となる。 1917年司法官試補となり、大阪地方裁判所、和歌山地方裁判所、高知地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任。その後、1934年12月大阪地方裁判所部長判事、再び大阪控訴院判事を経て、1940年12月京都地方裁判所部長判事となる。退官後に弁護士となった。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2… 瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2月11日 - 没年不詳)は、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身の大相撲力士。本名は安永 要藏。身長176cm、体重105kg。大阪相撲では関脇を務めたが東西合併で十両に編入されその後は入幕できなかった。 当初は東京相撲の雷(元初代梅ヶ谷)の門に入り1910年(明治43年)6月序ノ口についた。その後大阪相撲に移り藤嶋部屋から陣幕部屋の所属となった。1919年(大正8年)1月新入幕、その場所8勝2預で優勝を飾った。1920年(大正9年)1月には関脇に進むが大きく負け越しその後は平幕に低迷した。1923年(大正12年)1月関脇に返り咲き勝ち越し。
橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月… 橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月28日 – 1944年(昭和19年)1月27日)は、衆議院議員(立憲民政党)、内務官僚。 福岡県福岡市出身。1908年福岡県立中学修猷館を経て、東京帝国大学文科大学哲学科で社会学を専攻し、1918年(大正7年)に卒業した。警視庁属となり、警部、警視と昇進した。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任し、監察官に昇った。1927年(昭和2年)に退官した後は、東京市会議員に選ばれ、市参事会員も務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役を、大久保留次郎同市長のもとで第一助役を務めた。
井原 美岐雄(いはら みきお、1890年1月26日 - 19… 井原 美岐雄(いはら みきお、1890年1月26日 - 1942年11月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 駆逐艦を4隻単位の隊として運用する試みは、日露戦争中に進められており、戦後も継続して駆逐隊編制を推進することになった。 佐世保所属。駆逐艦『皐月』『水無月』『文月』『長月』によって編成。昭和19年(1944年) 解隊。 佐世保所属。駆逐艦『樅』『榧』『梨』『竹』によって編成。昭和14年(1939年) 解隊。 佐世保所属。駆逐艦『朝凪』『夕凪』によって編成。昭和14年(1939年) に第29駆逐隊へ統合。 呉鎮守府に属し、駆潜艇を中心に豊後水道の警備を担当。佐伯海軍航空隊は航空機による豊後水道の警備を担当。
新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - … 新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 古流柔術を経て講道館に学び鹿児島県や島根県を中心に後進の柔道指導を行ったほか、自身も戦前の全日本選士権等で活躍。アムステルダム五輪にはレスリングの日本代表として出場した。 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して1907年5月付で講道館に入門。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し、1910年4月に2段位を取得した。
江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)… 江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)は、日本、朝鮮の検察官。 江上末吉の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1917年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 長崎地方裁判所などの検事を務めた後、朝鮮に渡り、釜山地方法院、晋州支庁、咸興覆審法院、平壌覆審法院、京城地方法院の各検事を経て、1940年清津地方法院検事正、1943年3月大田地方法院検事正に就任する。
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8… 石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。 福岡県久留米市出身。石井百次の四男として生まれ、1897年(明治30年)家督を相続。久留米商業学校(現・久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。
加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - … 加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - 1946年1月23日)は、日本のパトロン、美術品収集家。 「金盛」という酒を醸造販売する、造り酒屋「萬屋」を営む加野熊次郎の長男として、福岡市中奥堂町(現・博多区)に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館を経て、1911年大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。 家業の酒造業を営む傍ら、美術や文芸に関心を向け、多くの美術家や詩人・俳人らと交友を持つ。所有する別邸「柳北亭」や「環水荘」は、来福の文人墨客のたまり場となった。交友のあった美術家には、青木繁、青山熊治(ドイツ語版)、津田青楓、森田恒友、正宗得三郎、村上華岳、榊原紫峰、冨田溪仙、小野竹喬、山崎朝雲、冨永朝堂、恩地孝四郎などがあり、文筆家では与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、高浜虚子といった人たちがいた。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 -… 橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員。 福岡県京都郡椿市村(現行橋市)で、橋上弥五郎、モトの二男として生まれ、1914年(大正3年)に家督を相続した。1904(明治37年)高等小学校を卒業した。 1923年(大正12年)6月、上山田炭鉱(現嘉麻市上山田)を開鉱。1931年(昭和6年)1月、橋上鉱業 (株) を設立し社長に、弟・俊崇が常務取締役に就任。1937年(昭和12年)5月、新山野炭鉱(現嘉麻市山野)を開鉱。同年6月、日本炭業 (株) を設立し社長に就任。1938年(昭和13年)宝珠山鉱業 (株) を設立し代表となり、1940年(昭和15年)同社長に就任。
後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 196… 後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 1969年11月29日)は、日本の農芸化学者。東京大学農学部教授。日本学士院会員。
石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年… 石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1976年〈昭和51年〉9月11日)は、日本の実業家。ブリヂストン創業者。 ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもあり、プリンス・ロイヤル、プリンス・スカイラインの名付け親である。また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。 企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年(平成14年)には日本自動車殿堂入り、2006年(平成18年)には米国自動車殿堂入りを果たしている。
牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)… 牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)1月25日 - 1941年(昭和16年)5月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 1889年(明治22年)に福岡県八女郡上妻村で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)3月に近衛歩兵第1連隊長に就任した。翁英作戦に参加。1940年(昭和15年)3月9日に陸軍少将進級と同時に東京陸軍幼年学校長に着任したが、在任中に生徒訓練中の事故により自宅で療養していたが1941年(昭和16年)5月22日に世田谷区阿佐ヶ谷の自宅で死去。同日任陸軍中将。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳… 青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 青木輪之輔の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月京都帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、司法官試補、予備検事となるが、1918年判事に転じ、徳島地方裁判所、和歌山地方裁判所、大阪地方裁判所、高知地方裁判所、神戸地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、1927年大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任する。その後、奈良地方裁判所部長判事、神戸地方裁判所部長判事を歴任し、1940年2月若松区裁判所監督判事兼福島地方裁判所若松支部部長となる。
石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - … 石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - 1974年4月23日)は、日本の盲目の牧師。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)… 松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)1月11日 - 1948年(昭和23年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県上妻郡川崎村(八女郡川崎村を経て現八女市)で、土木請負業・松尾藤蔵の二男として生まれる。 三菱合資会社に勤務。1917年(大正6年)嘉穂郡碓井村(現嘉麻市)に松尾鉱業所を設立。その後、稲築村山野(現嘉麻市)の中西炭鉱 (株) の坑長に転じた。1926年(大正15年)田川郡に糸飛炭鉱 (株) を設立。1934年(昭和9年)直方市郊外に新高紅炭鉱を開鉱し、後に小林鉱業 (株) に譲渡した。その他、石炭鉱業互助会相談役、金丸鉱業取締役、久恒鉱業顧問、田籠鉱業顧問、藤井鉱業顧問、三崎鉱業顧問、九州曹達顧問などを務めた。
安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 195… 安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 1957年8月11日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 福岡県宗像郡河東村(現在の宗像市)出身。1907年に東筑中学校を卒業。吉田組、(出光商会)、内国通運での勤務を経て、1937年に日本通運理事および台湾支社長に就任し、1946年に副社長に就任した。1954年には社長に昇格した。それまでの社長はいずれも鉄道出身者であったが安座上は初の社員出身の社長となった。 日本経営者団体連盟常任理事も務めた。
徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 19… 徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 1965年3月20日)は、日本の建築家。福岡県出身で、九州地方を中心に数多くの設計監理を手掛けるとともに、早稲田大学や関東学院大学の教授として製図の指導に当たった。 1887年(明治20年)12月18日、福岡県糟屋郡青柳村(現 古賀市)に生まれる。1907年4月より1年間、辰野金吾・葛西萬司建築事務所に入所。1908年3月、福岡県立福岡工業学校建築科卒業。1909年3月、早稲田大学高等予科理工科卒業。1913年(大正2年)7月、早稲田大学理工科建築学科を卒業し、同年10月から1917年8月まで辰野金吾・片岡安建築事務所に勤める1917年より、早稲田大学で助教授、教授、講師を務める。
大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月… 大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月16日 - 1947年12月20日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞副主筆。 福岡市鳥飼の大西百之の子として、福岡県柳川に生まれる。母方の叔父には、京都帝国大学総長を務めた松井元興、鐘紡社長、日本合成化学工業社長、民生産業(現・UDトラックス(旧:日産ディーゼル))社長を務めた城戸季吉がいる。1908年、福岡県立中学修猷館を卒業。修猷館在学中には、玄洋社の柔道道場「明道館」で柔道を学んでいる。1911年、東亜同文書院を卒業し(第8期生)、同年大阪朝日新聞に入社する。同期入社には、修猷館の2年上級である緒方竹虎がいる。 1917年、上海特派員、1919年、北京特派員となり、1924年に帰国後、東京朝日新聞に転じる。
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12… 松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。 以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2… 芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2日 - 1948年(昭和23年)5月18日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧制専門学校経営者。前名は茂。 芳賀善一郎の二男として福岡県遠賀郡(現北九州市)に生まれ、芳賀善次郎の養子となり、1927年(昭和2年)前名を改め翌年家督を相続する。福岡県立東筑中学校を卒業し、1909年(明治42年)八幡市役所に奉職する。同市農会副会長、福岡県消防協会理事、九州土地相談役などを歴任する。 のち、福岡県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)3月8日から同年9月28日まで在任した。この間、同年ジュネーブで行われた第28回列国議会同盟会議やベルギーのオーステンデで行われた万国議院商事会議評議員会に出席した。
黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月… 黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月25日 - 1954年(昭和29年)4月30日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。功三級。 太平洋戦争時の第14方面軍司令官。戦後A級戦犯容疑者として逮捕された。 福岡県柳川市の福岡県立中学伝習館を卒業し、1909年、陸軍士官学校卒(21期)。同年12月歩兵少尉、1913年、歩兵中尉となる。1916年、陸軍大学校を卒業(28期)し歩兵第47連隊中隊長となる。1917年から1918年にかけてシベリア出兵に従軍し、大尉となる。1922年、イギリス駐在、1923年、歩兵少佐となり、翌年帰国。 1928年3月、歩兵第57連隊大隊長となり、歩兵中佐となる。
林 繁蔵(はやし しげぞう、1887年(明治20年)9月5日… 林 繁蔵(はやし しげぞう、1887年(明治20年)9月5日 - 1945年(昭和20年)10月3日)は、朝鮮総督府官僚。朝鮮殖産銀行頭取。
北原 鉄雄(きたはら てつお、1887年〈明治20年〉9月5… 北原 鉄雄(きたはら てつお、1887年〈明治20年〉9月5日 - 1957年〈昭和32年〉3月28日)は出版人。写真や文学を専門とする出版社・アルスを設立し、代表を務めた。北原白秋の実弟(三男)にあたる。 1887年(明治20年)9月、福岡県柳川市生まれ。1915年(大正4年)に慶應義塾大学部理財科を中退すると、アルスの前身となる阿蘭陀書房を設立、芸術雑誌『ARS(アルス)』を発行した。1918年(大正6年)に社名をアルスに改称した。アルスは北原白秋の作品も出版した。小唄研究家の湯朝竹山人『小唄選』をアルスの前身・阿蘭陀書房で出版したところ、非常によく売れた因縁から、竹山人が亡くなるまで生活費を出し続けたという美談が残っている。
麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日… 麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日 - 1919年〈大正8年〉3月4日)は日本の実業家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の祖父。 麻生太吉の三男として生まれる。長兄の太右衛門は病弱で、次兄の鶴十郎も若くして他界したため、麻生家の後継となる。しかし本人も病弱であり31歳で死去した。生前は麻生商店取締役を務めていた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月2… 安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月24日 - 1959年(昭和34年)3月21日)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。 福岡県の田崎家に生まれ、長じて後に安武一(はじめ)の婿養子となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入省し、山形県理事官、警保局事務官、朝鮮総督府事務官を歴任。さらに社会局書記官・庶務課長となり、臨時震災救護事務局書記官、資源局事務官を兼ねた。1932年(昭和7年)、台湾総督府文教局長に就任し、1935年(昭和10年)には平安南道知事に転じた。台湾総督府文教局長時代には、伝習館中学(現在の福岡県柳川市にある伝習館高等学校)の先輩でもあり親交のあった北原白秋を台湾に招聘している。
梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 195… 梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 1958年12月14日)は、日本の洋画家である。 福岡市出身。福岡県立中学修猷館を中退。1910年上京して東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝や藤島武二に師事する。在学中の1914年には東京大正博覧会に「化粧の後」を出品し受賞。同年の第3回光風会展に「女」を出品、1916年第4回光風会展では初入選を果たす。1916年3月東京美術学校を卒業。 1917年光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、1928年光風会々友、1931年第18回展で光風会会員となる。 官展には、1916年第10回文部省美術展覧会(文展)に「縁陰」「窓際」が初入選となり、第11回文展「想韻」、文展の後身である帝国美術院展覧会(帝展)は、1922年第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品し、第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などが主な作品である。
今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、… 今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、日本の林業技術者、実業家。 士族前田実穂の二男として福岡県に生まれ、1897年今見義勇の養子となる。1907年福岡県立中学修猷館を経て、1916年東北帝国大学農科大学林学科を卒業。 1916年朝鮮総督府営林廠技手となるが、フィリピンのマニラ麻会社の支配人に迎えられる。ここで、後に南洋興発を設立する松江春次が南洋視察に訪れ、今見が南洋諸島を案内したことで親交を深めた。その後、このマニラ麻会社が倒産したため、南洋庁産業試験場技師を経て、1930年樺太庁技師となり、農林部林業課長を務めた。 1937年7月退官し、松江に迎えられ南洋興発技師となり、1941年12月取締役に就任。
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本… 藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。 1887(明治20)年、福岡県行橋市の生まれ。 中学卒業後、大陸へ密航し、馬賊になろうとした。 日本に帰国後、新聞『日本』の記者となり、東京毎日新聞や報知新聞の記者を経る。 1919(大正8)年から東京毎日新聞社社長。就任当時、「いさぎよく、正義と弱者と善に味方する」という意味の「厳正非中立」という標語を新聞の一面に掲げ、また銀座の社屋の屋上から垂れ幕を下げていた[要検証 – ノート]。
田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月… 田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月5日 - 1960年(昭和35年)11月11日)は、日本の物理学者。学校法人名城大学創設者。福岡県山門郡柳河町(現・福岡県柳川市)出身。 柳河尋常小学校、柳河高等小学校、福岡県立中学伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科電気機械分科を卒業(明治42年)。卒業後逓信省(現総務省)に入り、電気事業者届出落成電気工作物の検査・監査に当たった。その当時の部下が後に東海大学を創立した松前重義である。明治45年(1912年)4月、明治専門学校(現九州工業大学)助教授となったが、大正4年(1915年)8月東北帝国大学理科大学物理学科(現東北大学理学部)に入学して勉学に励んだ。
三浦 豕(みうら いのこ、1886年(明治19年)9月7日 … 三浦 豕(みうら いのこ、1886年(明治19年)9月7日 - 1964年(昭和39年)7月9日)は、日本のルーテル教会の牧師である。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)… 安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日)は、日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。
大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 195… 大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 1950年9月15日)は、日本の建築家。熊本県天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)出身。 福岡県立工業学校建築科(現・福岡県立福岡工業高校)卒業。愛知県刈谷市を中心とする西三河地方で活躍し、建築学者の瀬口哲夫は大中を「タウンアーキテクト」と称している。代表作として亀城尋常高等小学校本館(現・刈谷市郷土資料館、登録有形文化財)がある。 1886年(明治19年)3月28日、熊本県の天草諸島にある天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)に生まれた。父親は大中清八、母親はキヨであり、肇は長男だった。大中家は肇の教育面を考えて、八代海の対岸にある鹿児島県出水郡中出水村下鯖渕(現・出水市下鯖町)に移住した。
倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969… 倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969年12月25日)は、日本の実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送元取締役。 弟には俳人の神崎縷々、三井鉱山社長を務めた倉田興人がいる。 福岡県宗像郡神興村(現・福津市)出身。小倉工業を経て仙台高等工業学校(現東北大学工学部)卒業。久原鉱業所日立製作所に入社し、日立鉱山より産出される銅を用いての電線自主製造確立に成功。電線事業確立後は電線工場の工場長に就任し、以降20年に渡り電線製造に携わる。 その後着任した笠戸工場工場長時に、公職追放された初代社長小平浪平以下16名の後を継いで、1947年に日立製作所二代目社長に就任。
2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治1… 2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治19年)2月23日 - 1958年(昭和33年)8月19日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。福岡県久留米市長。前名は重太郎。 先代・石橋徳次郎の長男として久留米城下荘島町に生まれる。家業の仕立て屋「しまや」をつぎ、弟正二郎とともに業容を拡大。1912年(大正元年)には「しまや足袋」の宣伝に九州初の自動車を使用して知名度を高めた。1918年(大正7年)「日本足袋株式会社」を発足、1922年(大正11年)貼付式ゴム底足袋、即ち、地下足袋を発明(1923年10月 実用新案登録番号第80594号)し発売。1936年(昭和11年)デパート旭屋(現.久留米井筒屋)を創立。
川瀬 徳太郎(かわせ とくたろう、1886年(明治19年)2… 川瀬 徳太郎(かわせ とくたろう、1886年(明治19年)2月20日 - 1964年(昭和39年)1月22日)は、日本福音ルーテル八幡教会創始者・名誉牧師。廃娼運動家。前名は入江徳太郎。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月1… 中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。