濱野 賢一朗(はまの けんいちろう、1980年6月 - )は… 濱野 賢一朗(はまの けんいちろう、1980年6月 - )は、日本のコンピュータエンジニア。Linuxやオープンソースを中心とした著作活動や講演活動を行っている。 福岡県福岡市出身。泰星中学校・高等学校を卒業した後、東京工業大学理学部に進み、在学中から活動を行う。宮原徹とともに株式会社びぎねっとを設立。その後、リナックスアカデミーの学校長に就任。2015年10月現在、株式会社NTTデータに所属。 独立行政法人情報処理推進機構や日本OSS推進フォーラムが主催する日本OSS貢献者賞の実行委員長を長年にわたり務める。 Linuxの技術者認定であるLinux Professional Institute Certification (LPIC) に関して情報発信を行うことで日本国内での認知に努めたことやオープンソースソフトウェアのユーザーコミュニティの立ち上げなどに関与した。
大場 洋士(おおば ひろし、1974年10月2日 - )は、… 大場 洋士(おおば ひろし、1974年10月2日 - )は、日本の実業家、放送技術者。TVer代表取締役社長。 1993年福岡県立修猷館高等学校を経て、1999年早稲田大学大学院先進理工学研究科を修了。 1999年テレビ朝日入社。技術局制作技術センターにてスタジオ・中継ビデオエンジニアに従事し、現本社の設備設計にも携わる。2003年メディア戦略室(後の経営戦略部)において地上波テレビ放送のデジタル化に従事。また、KDDIとのEZニュースEXの提携に携わる。2011年KDDI出向。auスマートパス(Pontaパスの前身)のコンテンツアグリゲーション、auかんたん決済のセールスに従事。2013年コンテンツビジネス局コンテンツビジネス戦略部において新規事業の企画立案に従事。
長木 哲朗(ちょうき てつろう、1963年 - )は、日本の… 長木 哲朗(ちょうき てつろう、1963年 - )は、日本の自動車技術者、実業家。トヨタ自動車九州株式会社代表取締役社長、一般社団法人九州経済連合会北九州地域委員長。元公益財団法人飯塚研究開発機構理事長。 福岡県福岡市出身。1986年に九州工業大学工学部を卒業後、同年トヨタ自動車入社。主にパワートレイン技術分野でキャリアを積み、ユニット生技部担当員(ユニット担当)を経て、2001年ユニット生技部主担当員(ユニット担当)。2006年エンジン設計部室長。 エンジン生技部エンジン企画SE室室長を経て、2010年ユニット生技部ユニットSE統括室主査。2011年第2技術開発本部BRエンジン開発・生準推進室室長。
田島 誠司(たしま せいじ、1958年4月5日 - )は、日… 田島 誠司(たしま せいじ、1958年4月5日 - )は、日本のエンジニア。 福岡県立三池高等学校、九州大学工学部を卒業。1982年、東洋工業(現マツダ)に入社、第5エンジン設計課(ロータリーエンジン設計)に配属される。ロータリーエンジン設計課、RE設計Grサイド排気開発に参画。RE先行開発Gr 280ps 13B-REW開発に参画。RE先行開発Gr RENESIS開発に参画。 趣味はコンピューターゲーム、映画鑑賞、ガーデニング。 2005年12月13日・第186回放送のプロジェクトX〜挑戦者たち〜にて田島のエンジン開発の人生が取り上げられる。
益田 譲司(ますだ じょうじ、1956年4月22日 - )は… 益田 譲司(ますだ じょうじ、1956年4月22日 - )は、福岡県北九州市出身の金属加工技術者、実業家である。神鋼ファブテック株式会社の元代表取締役社長、KMアルミニウム株式会社の取締役を務める。 九州工業大学大学院金属工学専攻を卒業後、81年株式会社神戸製鋼所に入社。93年1月同社アルミ・銅事業本部生産本部長府製造所製造部溶解室長、2005年1月同社アルミ・銅カンパニー長府製造所アルミ押出工場長、11年1月同社アルミ・銅カンパニー長府製造所副所長、同年11月KMアルミニウム株式会社入社、素材事業部長付理事、12年4月から素材事業部副事業部長兼素材技術部長を務めていた。 趣味はゴルフ、読書。 この項目は、企業に関連した書きかけの項目です。
久芳 徹夫(くば てつお、1954年2月2日 - )は日本の… 久芳 徹夫(くば てつお、1954年2月2日 - )は日本の技術者、実業家。京セラ代表取締役社長や、同社代表取締役会長、京都パープルサンガ代表取締役会長等を務めた。 福岡県出身。福岡県立嘉穂高等学校を経て、1979年九州大学工学部卒業。1982年京都セラミツク(現京セラ)入社。自動車部品事業部長、ファインセラミック統括事業部長を経て、2003年執行役員に昇格。2005年執行役員常務。2007年執行役員専務。2008年取締役兼執行役員専務。 2009年から京セラ代表取締役社長を務め、太陽電池事業の黒字化などを実現した。2013年代表取締役会長、京都パープルサンガ代表取締役会長、京セラサーキットソリューションズ代表取締役会長、京セラドキュメントソリューションズ代表取締役会長。
井上 友二(いのうえ ゆうじ、1948年10月19日 - )… 井上 友二(いのうえ ゆうじ、1948年10月19日 - ) は、日本の技術者。NTT取締役最高技術責任者や、トヨタIT開発センター代表取締役会長、情報通信技術委員会理事長、電子情報通信学会会長などを歴任した。 福岡県福岡市出身。1967年福岡県立修猷館高等学校卒業。1971年九州大学工学部電子工学科卒業。1973年九州大学大学院工学研究科修士課程電子工学専攻修了、日本電信電話公社入社。1986年九州大学工学博士。1997年日本電信電話国際本部担当部長。1998年日本電信電話マルチメディアネットワーク研究所所長。1999年NTTデータ技術開発本部副本部長、モンゴル科学技術大学名誉教授。2000年NTTデータ取締役技術開発本部副本部長兼ビジネス企画本部副本部長。
平井 雅英(ひらい まさひで、1936年11月27日 - 2… 平井 雅英(ひらい まさひで、1936年11月27日 - 2005年1月14日)は、日本の技術者、実業家。元ユニチカ代表取締役社長。高分子学会賞受賞。 福岡県福岡市出身。1961年九州大学工学部卒業、大日本紡績(のちのユニチカ)入社。新規キレート樹脂の開発とその利用技術に関する研究で昭和52年度高分子学会賞受賞。 1983年中央研究所第6研究室長。1986年スパンボンド生産開発部長。1991年取締役スパンボンド事業本部副本部長。1994年取締役中央研究所長。1996年常務取締役スパンボンド事業本部長。1999年常務取締役繊維事業本部長兼ユニチカファイバー代表取締役社長。 2000年から代表取締役社長を務め、建設部門からの撤退を行うなどした。
重渕 雅敏(しげふち まさとし、1935年7月4日 - 20… 重渕 雅敏(しげふち まさとし、1935年7月4日 - 2017年5月3日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)代表取締役社長や、同社代表取締役会長、日本セラミックス協会会長、北九州商工会議所会頭などを務めた。正四位旭日重光章。 福岡県田川郡添田町生まれ。福岡県立田川高等学校を経て、1958年九州大学工学部卒業、東洋陶器(現TOTO)入社。1983年取締役。1987年常務取締役。1992年専務取締役。1994年代表取締役副社長。 1998年から東陶機器代表取締役社長を務め、人員削減などの経営改革にあたり、また、大建工業やYKK APと業務提携しリフォーム事業の確立を行った。2003年代表取締役会長。
三井 信雄(みい のぶお、1931年7月4日 - 2015年… 三井 信雄(みい のぶお、1931年7月4日 - 2015年7月14日)は日本出身の技術者、技術系管理者を経て、実業家。NHKで番組編成補助・自動送出などのコンピュータ化を行い、IBMで技術系部門の高級管理者として活躍し、IBM退社後には技術系投資ファンドを管理。
前田 勝之助(まえだ かつのすけ、1931年2月5日 - 2… 前田 勝之助(まえだ かつのすけ、1931年2月5日 - 2013年4月7日)は、日本の技術者・経営者。東レ名誉会長。 福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈(現:福岡県飯塚市)に生まれる。父・繁師(しげのり)は住友鉱山忠隈炭鉱の病院の薬局長、母・道枝は山鹿(熊本県)の御殿医の流れを汲む竹下病院の長女。住友鉱山の庭付きの社宅で育った。姉・上野栄子、兄・慶之助。 菰田小学校時代、約50人の学級の中に朝鮮人が5、6人おり、彼らは1、2歳年上だった。日本人と朝鮮人の生徒間の喧嘩が始まると、級長の前田は間に割って入った。 嘉穂中学校時代は勤労動員に遭遇し、炭鉱で採炭の仕事に明け暮れた。男たちは戦争に駆り出され人手不足だった。
楠 兼敬(くすのき かねよし、1923年7月12日 - 20… 楠 兼敬(くすのき かねよし、1923年7月12日 - 2020年9月16日 )は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車取締役副社長や、日野自動車工業取締役会長、中部インダストリアル・エンジニアリング協会会長等を歴任した。 福岡県福岡市生まれ。1946年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、トヨタ自動車工業入社。大野耐一に師事し、1972年トヨタ自動車工業取締役特殊部品製造企画室長に昇格。1975年トヨタ自動車工業取締役生産管理部長。1978年トヨタ自動車工業常務取締役衣浦工場長、生産管理部、安全環境部担当。1982年トヨタ自動車工業専務取締役生産関係部門統括。 1984年からトヨタ自動車取締役副社長として、生技生産部門を統括し、好川純一を生産調査室トップに起用するなどし、工場でのトヨタ生産方式の徹底を推し進めた。
中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 -… 中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 - 2017年12月9日)は、デジタルオーディオ技術の草分け的人物とされる日本の技術者である。コンパクトディスク メディア(CD-DA規格) 開発においてソニー側の責任者で、「CDの父」とも呼ばれる。福岡県久留米市生まれ。任意団体CDs21ソリューションズ会長。ビフレステック株式会社代表取締役会長。 CD-DAはソニーとフィリップスの共同開発だが、中島はそのソニー側の責任者だった。規格制定の貢献度は両社50%ずつと公式に発表されているが、技術コンペを経てソニー側が主張した技術が多く採用されている。 デジタル録音可能メディアであるDATとCD-Rにおいて音楽著作権の在り方に関し、日本レコード協会としばしば対立した。
緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月… 緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月21日 - 2009年 <平成21年> 10月31日) は、日本の技術者。日本電気 (NEC)副社長や、NECエンジニアリング社長、テレビジョン学会会長、電子通信学会会長などを歴任した。従四位、勲二等瑞宝章受章。父は緒方竹虎元副総理。岳父に名和武。 福岡県福岡市出身。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、伊藤庸二の勧めで、1941年東北帝国大学工学部電気工学科を卒業した。在学中大日本帝国海軍委託生となり、1942年海軍技術士官に任官して、横須賀海軍工廠に配属され、横須賀砲術学校に入校した。 タラワ島や、マキン島でレーダーサイトの整備にあたったのち、海軍技術研究所に転属する。
足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月… 足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月30日)は、日本の気象技術者。海軍技術中佐。 福岡県柳川市出身。1923年福岡県立中学修猷館、1927年第五高等学校理科甲類を経て、1930年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業。 1931年神戸高等商船学校教授に就任するが、1939年海軍水路部に転じ、気象予報を担当する。1943年海軍の要請により、海軍気象部において、特殊兵器「風船爆弾」の気球の開発に従事した。最終階級は海軍技術中佐。 1954年日本電建に入社。1964年に退職し、戦史の研究に従事。1976年渡米し、アメリカ本土の風船爆弾の攻撃の跡を訪ねている。
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1… 荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1994年8月8日)は、日本の自動車技術者、実業家。いすゞ自動車社長や、同社会長、自動車技術会会長、日本兵器工業会会長などを務めた、正四位勲二等瑞宝章。 福岡県田川郡糸田町出身。1926年横浜高等工業学校(現横浜国立大学理工学部)機械工学科卒業、東京帝国大学工学部助手。1928年東京石川島造船所入社、自動車部。1937年東京自動車工業鶴見製造所設計課長。1944年ヂーゼル自動車工業技術部次長。1946年同社取締役。1952年いすゞ自動車常務取締役。1962年同社専務取締役、自動車技術会会長。1966年藍綬褒章受章。同年からいすゞ自動車取締役副社長を務め、1970年からは代表取締役社長としてゼネラルモーターズとの提携を行った。
成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)… 成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)9月23日 - 1980年(昭和55年)10月4日)は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員、小倉市会議長。 大分県西国東郡、のちの真玉村(真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる。実家が破産し一家で小倉市に移った。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した。 大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した。鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された。現業委員会小倉支部長に3期在任。
今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、… 今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、日本の林業技術者、実業家。 士族前田実穂の二男として福岡県に生まれ、1897年今見義勇の養子となる。1907年福岡県立中学修猷館を経て、1916年東北帝国大学農科大学林学科を卒業。 1916年朝鮮総督府営林廠技手となるが、フィリピンのマニラ麻会社の支配人に迎えられる。ここで、後に南洋興発を設立する松江春次が南洋視察に訪れ、今見が南洋諸島を案内したことで親交を深めた。その後、このマニラ麻会社が倒産したため、南洋庁産業試験場技師を経て、1930年樺太庁技師となり、農林部林業課長を務めた。 1937年7月退官し、松江に迎えられ南洋興発技師となり、1941年12月取締役に就任。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3… 堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日)- 1925年(大正14年)1月20日)は、明治から大正期の農業技術者・公吏・政治家。衆議院議員。通称・荘蔵。 豊前国京都郡行事村(福岡県京都郡行橋町を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ、堤兵蔵の養嗣子となる。文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した。 1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力。