井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- … 井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- 1982年(昭和57年)12月11日)は、昭和時代の鉄道官僚・実業家。陸軍司政官。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)第4代代表取締役社長。同社の事実上の創業者である井上篤太郎の孫にあたる。 神奈川県出身。旧制・姫路高等学校を経て東北帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験合格により、鉄道省に入省。仙台鉄道局副参事、同総務部人事課長、本省鉄道調査部事務官、東京鉄道局上野運輸事務所長等を歴任し、戦時中の1943年、陸軍司政官として占領地行政に従事した。 戦後は、運輸省を経て、日本国有鉄道常務理事西部支社長をつとめ、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。
古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 194… 古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 1946年5月3日) は、日本の小説家。本名は古沢 玉次郎(ふるさわ たまじろう)、別筆名・秦 巳三雄(はた みさお) 岩手県沢内村(現・西和賀町)出身。岩手県盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。「戦旗」編集部で秦巳三雄のペンネームで評論、翻訳を発表。その後古沢元のペンネームで「日暦」同人、武田麟太郎主宰の「人民文庫」同人となり小説、評論を発表した。1940年同人雑誌「麦」に発表した「紀文抄」(きぶんしょう)が、第12回直木賞候補作品となる。 第二高等学校では非合法政治活動に身を投じ、学業半ばで放校となったが、上京して新風を巻き起こしていたプロレタリア文学運動に加わり、「日暦」では高見順の「故旧忘れ得べき」に続いて「びしゃもんだて夜話」を三回にわたって連載、郷里の沢内村を題材にした小説を書いた。
實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)1… 實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)11月18日 - 2003年(平成15年)3月16日)は、日本の工学者。 電気工学、音響学を専門とした。音響学については、父祖の海軍経験を意識したものであり、戦前には海軍技術研究所音響研究員を大学教授と兼任していた。戦後は、東京工業大学学長や千葉工業大学、玉川大学、東北帝国大学の教授、日本音響学会会長などを務めた。 水中での気泡の挙動と気泡群による水中超音波の減衰、などの研究を行なった。またキリスト教徒でもあった。 松本清張は『砂の器』の執筆に際し、實吉の著書『電気音響工学』(1957年)を参考にし、實吉が当時勤務していた東京工大を取材で訪問している。
今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 -… 今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 - 2001年9月18日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。元日本金属学会会長。文化功労者。日本学士院賞受賞。工学博士(東北帝国大学、1947年)。長野県上水内郡柳原村(現・長野市)生まれ。 鉄鋼材料に関する研究を進めた。鋼の微量成分の研究で、窒素が極めて有用な合金成分になることを発見した。1992年文化功労者。村上武次郎は岳父にあたる。
有賀 美智子(ありが みちこ、1907年 <明治40年> 1… 有賀 美智子(ありが みちこ、1907年 <明治40年> 10月10日 - 1999年 <平成11年> 4月22日)は、昭和期の官僚・法学者。専門は独占禁止法・国際経済法・知的財産法。元・国民生活センター会長、元・公正取引委員会委員。位階は正四位。 東京出生後、間もなく北海道小樽市に移住。1928年日本女子大学校英文学部卒業後、1932年東北帝国大学法文学部法科卒業。東北帝国大学法文学部助手を務め、のち結婚するが夫は戦死。1946年疎開先の小樽から引き揚げ大蔵省理財局嘱託職員となる。1947年公正取引委員会事務局に移り、同事務局参事官を経て、1967年女性初の公正取引委員会委員となる。経済法の国際会議に数多く出席し、1972年に退官。
斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日… 斎藤 信治(齋藤 信治さいとう しんじ、1907年9月29日 - 1977年1月1日)は、西洋哲学研究者。山形県酒田市出身。 1925年酒田市甲種商業学校卒、山口銀行東京支店勤務、1931年早稲田大学文学部西洋哲学科卒、1934年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1935年同副手、1936年同法学部助手、1939年大東協会調査員嘱託、1940-1942年イスラム研究のためエジプト大学に学ぶ。1947年北海道帝国大学法文学部助教授、1951年7月北海道大学文学部教授、12月神戸大学文理学部教授、1954年中央大学文学部教授。 1957年「イロニーの研究」で北海道大学文学博士。1961-1962年渡欧しマルティン・ハイデッガーに面会している。
小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)… 小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)は、日本の哲学研究者。 仙台第一中学校、第二高等学校、1933年東北帝国大学哲学科卒業、同副手、高橋里美に師事、1938年仙台陸軍幼年学校教授、1942年二高教授、戦後1947年公職追放、1953年明治大学講師、助教授、1959年教授、1974年定年退職、城西大学教授。1982年定年退職。同11月勲四等旭日小綬章叙勲。 ドイツ哲学・文学を専門とし、日本美術、文学も論じた。
津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 198… 津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 1985年8月12日)は、日本の映画評論家。弟は詩人の津村信夫、息子は俳優の津村鷹志。
内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月… 内藤 政恒(ないとう まさつね、1907年〈明治40年〉7月17日 - 1970年〈昭和45年〉10月21日)は、昭和期の考古学者、日向延岡藩の元藩主内藤政挙の六男。旧三河挙母藩内藤家の14代当主で、13代当主内藤政光の養子。日本歴史考古学会会長、侍従兼常陸宮傳育官、皇后宮事務官、式部官、玉川大学文学部教授、東京薬科大学教授。正五位。 宮崎県東臼杵郡岡富村(現延岡市)本小路の内藤政挙、英子の自邸で六男として生まれた。1914年(大正3年)岡富尋常高等小学校(現延岡市立岡富小学校)に入学し、1920年(大正9年)に卒業。小学校3年の頃、内藤家の使用人が東臼杵郡南方村(現:延岡市)雨下(あもり)で考古資料を収集していた有馬七蔵の娘だったので、その地を訪れて考古資料を見学したり資料採集を経験した。
実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993… 実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993年8月16日)は、日本の国文学者、関西学院大学名誉教授。 千葉県東金町出身。東北帝国大学卒業。岡崎義恵に師事。1941年関西学院大学法文学部講師、42年助教授、46年教授。50年文学部長。56年図書館長。60年関西学院理事。日本文芸理論、中世和歌や歌論を研究した。63年日本文芸学会を設立、会長となる。76年大学を定年退任、名誉教授。八幡大学教授、山梨英和短期大学教授。著作集全十巻がある。
渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978… 渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978年5月17日)は、日本の物理学者。宇宙線研究の草分けとして著名で、大阪市立大学学長を務めた。大阪市北区出身。 実家は、大阪・梅田の阪神百貨店の西側にあった木造3階建て旅館「国有館」。 天王寺師範学校附属小学校、大阪府立生野中学校、姫路高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に進学。河上肇の弟子となり、唯物弁証法を学んだ。1930年に卒業後、唯物弁証法を実践するため東北帝国大学理学部に入り直し、物理学を学んだ。1933年の卒業前に東芝に就職が内定していたが、採用を取り消されたため、学究の道に進路変更し、1933年に新設された大阪帝国大学理学部の助手になった。
木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4… 木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4月28日 - 1999年 <平成11年> 9月20日)は、日本の哲学者。ドイツ哲学を専攻。東北大学名誉教授。位階は正四位。 富山県小矢部市出身。1932年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1962年「ヘーゲル宗教哲学の研究 特に宗教的意識と哲学的思惟との関係について」で東北大学文学博士。東北大学文学部教授。1971年定年退官、名誉教授、大谷大学教授を務めた。 1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 父・木場了本は第四高等学校で西田幾多郎の教えを受けた後、1911年東京帝国大学文学部哲学科卒、京都で大谷大学の教授を勤め、後郷里金沢に帰って第四高等学校の教授となった。
金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日… 金 起林(キム・ギリム、朝鮮語: 김기림、1907年4月5日 - 没年不詳)は、大韓民国の詩人、文学評論家。 本名は金 仁孫(キム・インソン、김인손)。幼名は金 寅孫(読み、ハングル同じ)。号は片石村(ピョンソクチョン、편석촌)。 咸鏡北道鶴城郡生まれ。普成高等普通学校(現・普成高等学校)を経て日本大学英文学科中退、東北帝国大学(現・東北大学)英文学科卒業。帰国後朝鮮日報学芸部記者を務め、朝鮮日報に『行け新しい生活で』を発表し、文壇に登場した。同紙には評論『詩の技術認識の現実など諸問題』を発表し、文学評論も行なった。 1933年、李箱、李孝石、趙容万、朴泰遠らとともに九人会を結成し、この頃より本格的に詩作を始め、1936年に詩集『気象図』を発表した。
今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2… 今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2009年12月29日)は、日本の眼科医、医学博士。岩手医科大学名誉教授。福島県郡山市出身。 旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)、旧東北帝国大学(現東北大学)医学部卒。東北大学助教授を経て岩手医科大学に教授として赴任。1949年11月、日本で最初の事例として角膜移植の手術を行った。その後1956年3月、日本最初のアイバンクとなる『目の銀行』を岩手医科大学内に設立した。
林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 198… 林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。 栃木県矢板市の生まれ。東北学院に学び、のち1934年旧制の東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。 東北学院では山川丙三郎に師事した。東北帝国大学では阿部次郎に親炙し全集の編集に携わった。またA.E.テイラーの『ソクラテス』の注釈つき翻訳を出版したために、バーネット・テイラー説の信奉者として知られた。 第二次世界大戦の敗戦後、東北大学教育学部で教育史を担当。森有礼について研究した。またソクラテスの問答法を下敷きにした人間形成論を構想した。
石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 198… 石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 1980年7月19日)は日本の地質学者、古生物学者である。石灰藻の研究者。 東京出身。1931年東北帝国大学理学部地質古生物学科卒。1942年 - 1945年台北帝国大学地質学科、1945年立教大学助教授、教授。1975年定年、名誉教授。1954年「Cenozoic coralline algae from the western pacific(西部太平洋地域の新生代珊瑚藻)」 で東北大学理学博士。 総計で139タクサの化石石灰藻類の記載を行っており (Iryu, 2004)、この中には少なくとも114種のサンゴモ目(Corallinales)の種が含まれ、45報以上の石灰藻の分類に関する論文を発表している。
岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12… 岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12月6日 - 1954年(昭和29年)11月23日)は、日本の物理学者である。 岡村輝彦の七男として東京に生まれる。1930年(昭和5年)に東北帝国大学(現在の東北大学)卒業後、同大学の金属材料研究所に勤務する。同研究所の所長だった本多光太郎に師事し、主に磁気研究に携わり1937年(昭和12年)に理学博士を取得した。1938年(昭和13年)には助教授となり同大学で教鞭を執り、5年後の1943年(昭和18年)には教授に昇格する。 1948年(昭和23年)から1954年に死去するまで東北大学の教授の傍ら同大学の科学計測研究所の所長を務め、磁気のよって熱による変化を主とした強磁性体を研究し「岡村・エルウーフ効果」と呼ばれる磁気効果を発見した。
有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 19… 有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 1992年4月8日)は、日本のフランス文学者。東北大学名誉教授、文学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県築上郡千束村(後の豊前市)野田出身。1924年3月、旧制福岡県立築上中学校(福岡県立築上中部高等学校および福岡県立青豊高等学校の前身)卒業。1927年3月、旧制福岡高等学校(九州大学教養部の前身)文科丙類卒業。1930年3月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。1931年4月から1932年3月まで東京帝国大学大学院に在籍。1932年4月から1933年8月まで広島文理科大学・広島高等師範学校(現広島大学)講師。1933年9月、東京帝国大学文学部副手となる。
太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 198… 太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 1984年11月26日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史、特にドイツの宗教改革史。 東北帝国大学法文学部で大類伸に師事し、1933年に卒業。東京文理科大学の嘱託、助手となった。一方で、東京高等師範学校書記、助教授を兼務し、1939に東京高等師範学校助教授専任となる。 1942年、台北高等学校教授に着任したが、1946年に辞職。その後、鉄道教習所講師、実践女子専門学校講師などを経て、1949年に発足間もない新潟大学人文学部の助教授となり、1952年には教授に昇任した。 1972年に新潟大学を定年退職し、名誉教授。1973年には城西大学経済学部教授に就任し、1981年に退職した。
柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 -… 柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 - 1984年6月24日)は、俳人。本名は初子。 兵庫県出身、東北帝国大学文学部国文科卒。父井上白嶺の指導を受け、1932年より飯田蛇笏に師事。蛇笏の「雲母」同人となり、高橋淡路女と並んで同誌の代表的女性俳人として活躍。1954年、加藤知世子などとともに「女性俳句」創刊。1962年、「俳句女園」を創刊、主宰。1983年、第七句集『月の笛』により第17回蛇笏賞を受賞。他の句集に『冬椿』『遠い橋』など、また評論集に『女流の俳句』がある。代表的な句に「水鳥のしづかに己が身を流す」「春の星ひとつ潤めばみなうるむ」など。 1984年、千葉県市川市の自宅に一人でいた際に強盗に襲われ殺害された。
明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月1… 明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月19日 - 1949年(昭和24年)7月2日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で陸軍将校・明石元二郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)父が台湾総督に就任すると、家族の中でただ一人台湾に渡ったが、1919年(大正8年)10月、父が病のため死去し、同年11月29日、男爵を襲爵、小学校卒業まで台湾に留まった。明石家に資産がなく遺族の今後のため下村宏総督府総務長官ら有志が「明石財団」を設立した。また、当時の台湾総督府専売局長・賀来佐賀太郎が元長の教育を援助し、賀来の子息たちとともに学習院で学んだ。1931年(昭和6年)東北帝国大学法文学部を卒業した。
日野 勝次郎(ひの かつじろう、1906年9月10日 - 1… 日野 勝次郎(ひの かつじろう、1906年9月10日 - 1995年5月7日)は、日本の経営者。河北新報社代表取締役を務めた。宮城県出身。 1930年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年10月に河北新報社に入社。1946年1月に監査役に就任し、1947年8月に取締役、1949年7月に常務、1962年4月に専務を経て、1963年10月には代表取締役(現在の社長の地位に相当)に就任。1970年1月に副会長に就任し、1972年8月に取締役相談役を経て、1978年3月には相談役に退いた。河北ビル社長、東北放送取締役も務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年5月7日肺炎のために死去。
高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日… 高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉5月27日)は、日本の外交官。第14代拓殖大学総長。正四位勲二等旭日重光章。群馬県出身。 日独伊三国同盟を推進した責任から、終戦とともに外務省を辞職。戦後は東京都外務室長として勤務。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1… 坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1989年1月25日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。東京都出身。 1931年(昭和6年)11月に東北帝国大学在学中に高等文官試験司法科に合格し、翌1932年3月に同大学法文学部を卒業。同年10月に弁護士を登録して、第二東京弁護士会に所属。 戦時中は軍に召集されるも、終戦により復員。その後、閉鎖期間生理委員会法律室長や司法研修所民事教官を務めた。 1971年(昭和46年)12月7日に最高裁判事となる。就任の際には「大きな勉強をしたとか、積み重ねがあるわけではないので、懸命に微力を尽くすのみです」と話した。 1976年(昭和51年)3月に定年退官した。
亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 … 亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の美術史学者。 宮城県伊具郡角田町(現・角田市)出身。吉野臥城(甫)の三男として生まれ、1922年(大正11年)亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類、東北帝国大学文学部卒、奈良国立博物館学芸員、1950年(昭和25年)東北大学文学部助教授、1952年(昭和27年)教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「白鳳後期美術の諸形相」で東北大学文学博士。
懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 199… 懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 1996年3月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は、精神分析学・脳波学。学校法人順天堂第七代堂主、第四代理事長、順天堂大学学長など歴任。順天堂大学名誉教授。学位は、医学博士。 日本における精神分析学・臨床脳波学の基礎を築いた人物である。フロイト精神分析を研究した。また、エリッヒ・フロム『愛するということ』の翻訳はロングセラーになった。学校法人順天堂において、初の創立者一族以外から理事長に就任した。
植松 正(うえまつ ただし、1906年(明治39年)1月21… 植松 正(うえまつ ただし、1906年(明治39年)1月21日 - 1999年(平成11年)2月3日)は、日本の刑法学者・裁判官・検察官・弁護士。一橋大学名誉教授。 千葉県出身。台北帝国大学教授を経て、一橋大学刑法講座初代専任教授を務めた。NHK放送文化賞受賞。紫綬褒章受章。司法試験考査委員、日本尊厳死協会長等を歴任。死刑存置を主張するなど、保守的な立場を取る。1989年には大喪の礼に出席。位階は正四位。 安楽死に違法性がない場合もあるとし、1986年から1996年にかけて日本尊厳死協会会長を務めた。 弟子に福田雅章(一橋大学名誉教授)、日高義博(元専修大学学長)、齊藤誠二(筑波大学名誉教授)、村井敏邦(一橋大学名誉教授)、神山敏雄(岡山大学名誉教授)、庭山英雄(元専修大学教授、弁護士)、野村幸雄(元国連アジア極東犯罪防止研修所教官)等。
坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) … 坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) は、日本の機械工学者。東北大学名誉教授。元日本機械学会副会長。元日本伝熱研究会会長。 静岡県三島市生まれ。第一高等学校在学中の1923年に日本メソジスト教会牛込教会で洗礼を受ける。1932年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、東北帝国大学工学部助手。1936年東北帝国大学助教授。1945年東北帝国大学教授。1959年東北大学工学博士、日本機械学会賞受賞。1969年定年退官、東北大学名誉教授、東北学院大学教授、日本伝熱研究会会長、日本機械学会副会長。1971年日本機械学会名誉員。1976年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
廣根 徳太郎(ひろね とくたろう、1906年 - 1995年… 廣根 徳太郎(ひろね とくたろう、1906年 - 1995年)は、日本の物理学者。東北大学名誉教授。元山形大学学長。元日本金属学会会長。紫綬褒章受章。 1928年(昭和3年)東北帝国大学理学部物理学科卒業。茅誠司(実験)、増本量(応用)らとともに本多光太郎の下で研究を行い、磁性理論を担当し、広根―彦坂理論を提唱。1931年(昭和6年)理化学研究所助手。1938年(昭和13年)理学博士。1939年(昭和14年)理化学研究所研究員。1940年(昭和15年)東北帝国大学助教授。1944年(昭和19年)同教授。1946年(昭和21年)日本金属学会功績賞受賞。1960年(昭和35年)大河内記念技術賞受賞。
村岡 勇(むらおか いさむ、1906年 - 1993年)は、… 村岡 勇(むらおか いさむ、1906年 - 1993年)は、英文学者。東北大学名誉教授。
近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月1… 近藤基吉(こんどう もときち、1906年-1980年12月14日)は、日本の数学者。東京都立大学 (1949-2011)・東海大学名誉教授。 高知県生まれ。1930年東北帝国大学理学部数学科卒、1940年北海道帝国大学理学部助教授、「射影集合に関する研究」で北海道帝大理学博士。1943年九州帝国大学理学部教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)理学部教授。1969年定年退官、名誉教授、東海大学理学部教授。のち名誉教授。 「現代数学」著者紹介
深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1… 深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1965年1月28日)は、日本の政治家。岩手県沢内村(現・西和賀町)の村長(2代目)を務めた。 明治38年(1905年)12月11日、岩手県沢内村の小地主の家に一人っ子として生を受ける。小学校は村立新町小学校太田分教場に入学した。性格は明るく、人一倍賢いが、心根は常に優しい子だったという。学業が優秀だったことから、後に一関中学校から第二高等学校を経て東北帝国大学に進む。かつて深沢の祖父が政治家をして家財を傾けた経験から、両親からは医者になるよう望まれたが、本人は早くに医学部に愛想を尽かし、後にこっそりと法文学部へと移籍しそのまま卒業した。
加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 19… 加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 1992年1月28日)は、日本の地球物理学者。東北大学名誉教授。理学博士。専門は地球電磁気学。 化学者の加藤多喜雄は兄。生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄は弟。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 千葉県夷隅郡大多喜町生まれ。旧制宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学理学部物理学科卒業。同年より同大学副手、翌年助手、1938年助教授、1945年地球物理学教室を創設、教授となる。 短周期の地球磁場変動を観測するため、東北大学金属材料研究所で発見された高誘導磁率合金センダストを磁芯に用いた誘導型磁力計(フラックスゲート磁力計)を開発、地磁気3成分の微細変動を長期間広範囲にわたって観測し、正弦波形定常脈動を各周波数ごとにPc1からPc5までの5つに分類した。
李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日… 李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日 - 1984年9月24日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の官僚、政治家、実業家。創氏名は和永 博光。京畿道知事や、大韓民国農林部長官を務めた。 本貫は全州李氏。漢城府の現在の西大門区出身。京城第一公立高等普通学校を経て、1930年松山高等学校理科甲類卒業。1933年文官高等試験行政科合格。1934年東北帝国大学法文学部法科卒業。 朝鮮総督府に入庁し、黄海道新渓郡守を経て、1937年黄海道黄州郡守。1939年黄海道農村振興課長。1941年江原道地方課長。1943年開城府尹。1945年米軍政期の京畿道内務部長。 1947年自由新聞社専務。
柘植 秀臣(つげ ひでおみ、1905年9月10日 - 198… 柘植 秀臣(つげ ひでおみ、1905年9月10日 - 1983年5月4日)は、日本の大脳生理学者。 東京府(現・東京都)出身。1929年東北帝国大学理学部生物学科卒。1937-38年新城新蔵が所長を務めていた上海自然科学研究所に嘱託として招かれ、以後中国問題に関心を持つようになり、38年、友人である尾崎秀実の勧めにより、設立されたばかりの国策研究機関・東亜研究所(東研)に入所した。第二次世界大戦開始後にはジャワに派遣され、軍政監部の下で行われた占領地調査の中心となった。戦後は民主主義科学者協会(民科)の幹事を務めた。また、ソヴエト条件反射選書の翻訳刊行に携わった。 1938年、東北大学理学博士。
福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月… 福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は、日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。 山口県萩町(現在の萩市)生まれ。父は陸軍中将の福田彦助、母は「ホトトギス」の俳人であった福田無声女。 東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。山口青邨の「夏草」にも所属し、1940年には「ホトトギス」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、川端茅舎、松本たかし、中村草田男らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。
柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 19… 柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 1989年5月20日)は、日本の経営者。青森県出身。 1929年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1947年に取締役に就任し、1955年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1968年6月には社長に昇格した。1976年8月から相談役を務めた。 1989年5月20日心不全のために死去。84歳没。
小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969… 小山 貞雄(こやま さだお、1905年3月3日 - 1969年8月22日)は日本の政治家。下谷区議(2期)、東京都議(5期)、第20代都議会議長。 1905年3月3日、東京都に生まれる。東北帝国大学(現東北大学)卒業。1937年から下谷区議会議員を2期5年。1943年9月13日の第1回東京都議会議員選挙で当時の下谷区選挙区から初当選、5年在任。1951年都議に再選後は交通委員会委員長(1952−53年)、都議会自民党幹事長(1956−57年)、交通水道委員会委員長(1958−59年)を歴任。1965年3月、第20代東京都議会議長選挙で当選、全国都道府県議会議長会会長にも就任するが、この選挙でいわゆる東京都議会黒い霧事件に関与した15名の現職議員が一斉摘発、自身も同年3月16日に贈賄容疑で家宅捜査を受け、同年4月16日に現職議長として逮捕。
大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 199… 大森 志郎(おおもり しろう、1905年2月4日 - 1992年9月9日)は、日本史・民俗学者。 福島県生まれ。1928年東北帝国大学史学科卒。同大学院、南満州鉄道撫順図書館長、建国大学教授。戦後、東京女子大学教授、1956年「魏志倭人伝の研究」で東北大学文学博士。創価大学教授。
滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月… 滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月10日 - 1993年(平成5年)11月2日)は日本の裁判官、弁護士。 北海道余市郡余市町出身。小樽商業学校卒業、東北帝国大学の聴講生となり、試験を経て本科編入、在学中の1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)3月、同法文学部法科卒業、翌4月に司法官試補として東京地方裁判所所属、それから予備判事、1929年(昭和4年)11月判事任官、1931年(昭和6年)5月山形地方裁判所判事転任、1932年(昭和7年)9月札幌地方裁判所判事転任。 滝内は東京地裁時代の1930年(昭和5年)、日本共産党員を講師に同じく判事の為成養之助らと研究会を結成、共産主義思想に共鳴、同党が国体変革して私有財産を否定していることを知った上で同年10月から1932年8月まで東京で他の同志とともに党資金として毎月5円から7円を支出、山形転任後は同志獲得のために動き同年3月から指導者として同地裁書記中心に主義宣誓も行い、同僚判事の福田力之助も引き込み、同年5月6月に現地の婦人十数名を集めて研究会を開催して主義宣伝を行ったり同地方責任者として左翼グループを結成、山形高等学校など上層階級対象に党員獲得活動をした。
平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 199… 平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 1998年6月22日)は、日本の数学者、和算史研究家。 千葉県成田生まれ。第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。1950年「和算に関する研究」で理学博士(理学)の学位を取得。林鶴一、藤原松三郎に師事。中学校教師をへて、1941年東北帝大講師。1968年退任。息子は天文学者の平山智啓(東京天文台)。
長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37… 長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県会議長、岐阜県恵那市長。旧名・俊一。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 岐阜県恵那郡東野村(現恵那市東野)で、長谷川藤藏、ひろ の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東北帝国大学法文学部法律科を卒業。さらに同大大学院で学んだ。 1932年(昭和7年)11月、岐阜県会議員に選出され、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で岐阜県全県区から日本進歩党公認で立候補(俊一名義)したが落選。
青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17… 青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17日 - 1961年〈昭和36年〉6月8日)は、昭和期の実業家、農林業経営者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・栃木県。農業経営者・青木梅三郎(杉孫七郎三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1941年(昭和16年)10月15日、子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東北帝国大学法文学部を卒業。1932年(昭和7年)、日本生命保険に入社し、その後、常磐簡易火災保険副支配人、日本火災保険副支配人、日本火災海上保険支配人を務めた。その他、栃木県那須郡高林村(現:那須塩原市)で農林業の経営を行う。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 198… 鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 1980年12月16日)は、日本の官僚、国会職員。法学博士。第二次世界大戦後、55年体制の成立期において衆議院事務総長を務めた。その退職後は、第2代国立国会図書館長となり、また、味の素株式会社の経営に携わった。 宮城県伊具郡角田町(角田市の前身)の医師の家に生まれる。宮城県立白石中学校、旧制弘前高等学校を経て、東北帝国大学法文学部卒業。在学中、高等文官試験司法科(1929年)・行政科(1930年:首席と伝えられる)に合格した。1931年、内務省に入省して警視庁に配属されたが、同年、守衛副長として衆議院事務局に転じ、守衛(後の衛視)の教育に当たる。
前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙… 前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙古聯合自治政府の日本人官僚。 宮城県仙台市出身。家は仙台藩の儒学者の出であるという。第二高校に進学、独文科3年生の時に水泳部設置運動に関わる。東北帝国大学法文科に進学し、在学中は応援団長を務めた。1928年卒業後は長野県庁職員で、社会課社会事業主事補、農林主事であったが、満洲国に渡り、実業部農務司となる。間もなく吉林省磐石県参事官として宣撫工作に功を上げる。この際、匪賊との接触を断つべく、農民を一か所に強制移住させる「集団部落」構想を立案したとされ、500ページにわたる提言書を提出。阿城県副参事を経て、大同学院教授。 1937年10月15日、晋北自治政府が成立すると軍の依頼で最高顧問に就任。
今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 197… 今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 1971年3月18日) は、日本の水産学者。東北大学名誉教授。カキの養殖を研究し、紫綬褒章受章。 山形県出身。1927年東北帝国大学理学部卒業。副手、助教授を経て、1944年教授。1962年東北大学水産実験所所長。カキの養殖法を開発するなどし、1967年、紫綬褒章を受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10… 錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1969年(昭和44年)6月17日)は日本の金属工学者。 島根県出雲市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学工学部金属工学科を卒業する。1934年(昭和9年)に東北帝大工学部助教授に就任。 1935年(昭和10年)に大同製鋼に入社する。その間に、特殊水処理薬剤による鉄鋼防食、均質鋳造法(HOC法)、取鍋レンガの侵蝕、熔鋼に及ぼす耐火物の影響、高アルミナ質電気炉炉蓋煉瓦、低ニッケル高マンガンステンレス鋼、熱処理用連続炉、バルブ鋼、不消化石灰の実用試験などについての研究に従事する。 大同製鋼取締役、研究所長などを経て、1962年には大同工業短期大学、1964年(昭和39年)には大同工業大学(現・大同大学)の初代学長に就任した。
木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982… 木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982年3月28日)は、日本の経済学者。 和歌山県出身。1929年東北帝国大学法文学部経済科卒。1951年「商業的農業論 典型的商業的農業としての柑橘業の分析的研究」で東北大学経済学博士。1930年東北帝大助手、1933年講師、1935年助教授、1942年教授、東北大学経済学部教授、1956年経済学部長、1967年定年退官、名誉教授、長野経済短期大学学長、長野中央学園理事長、東北福祉大学教授。1973年勲二等瑞宝章受勲。1981年「名子遺制の構造とその崩壊」で日本学士院賞受賞。経済政策,農業経済学を専攻。
羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月2… 羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の父。 長野県小県郡和田村(現・長和町)に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学(現・福島県立福島高等学校)、旧制新潟高等学校を経て、1929年に東北帝国大学法文学部卒業。東京朝日新聞社に入社し、政治部に勤務。 政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、1937年に立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。「羽田書店」を創立する。社員には後に独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。 1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。