根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)… 根岸 栄三郎(ねぎし えいざぶろう、1903年(明治36年)3月11日 - 1994年(平成6年)9月8日)は日本の発明家・実業家。繊維機械および各種回転方法の発明や改良を行い、日本の産業発展に大きく貢献した。桐生高等工業学校(現・群馬大学理工学部桐生キャンパス)助教授、興亜紡機(株)社長、埼玉県発明協会副支部長を歴任。 ノンタッチ管巻機、自動管巻機、ポット(空気)精紡機を発明。藍綬褒章、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受賞。 1903年(明治36年)、埼玉県北埼玉郡飯泉村(現・埼玉県羽生市)生まれ。農業を営む父・根岸重次郎と妻・いわの四男(末子)として生まれる。長兄から家業を手伝うように言われていたが、進学して学業を積み社会貢献できる人になりたいと、横浜の親戚の家に行き、1915年(大正4年)10月に幼くして横浜の富士瓦斯紡績(株)で働きながら夜間中学に通った。
里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日… 里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1972年〈昭和47年〉12月27日)は、日本の俳優である。サイレント映画時代の映画スターである。本名は松本 米三(まつもと よねぞう)。「浅草オペラ」のスターから映画俳優に転向した。旧芸名小松 明(こまつ あきら)。 1901年(明治34年)5月16日、東京府東京市本所区向島須崎町(現在の東京都墨田区向島4-5丁目のあたり)に生まれる。兄はのちの映画監督の松本英一である。築地工手学校(現在の工学院大学)予科を修了後、太平洋画会(現在の太平洋画会研究所)で洋画を学んだが、兄同様に芝居に転向していく。 佐藤紅緑の劇団「日本座」に入団し函館で初舞台を踏み、浅草公園六区の「観音劇場」、新日本劇団を経て、「浅草オペラ」の根岸大歌劇団に入団、「小松明」名で一躍人気を集めた。
向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 1… 向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 12月15日 - 1992年 <平成4年> 5月29日)は、日本の実業家。フォトレジストメーカーの東京応化工業の創業者。位階は従五位。 1898年(明治31年)12月15日、福岡県に生まれる。1919年(大正8年)6月、築地工手学校(工学院大学の前身)を卒業。同月、農商務省東京工業試験所入所。1934年より、炭鉱用キャップライト向けの蓄電池材料の開発を手掛ける。1936年4月、東京応化研究所創業。1940年10月に法人化し、東京応化工業株式会社の初代社長となる。1976年4月に神奈川県工業技術研修センター副理事長に就任。1982年2月より東京応化工業会長。
麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 … 麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 - 1961年(昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は麻生 豊(あそう みのる)。 大分県宇佐郡横山村(のちの宇佐市)出身(同郡麻生村、あるいは大野郡三重村=のちの豊後大野市とする資料もある)。絵を描くことに加えて機械いじりが好きだったため、高等小学校卒業後に上京し、築地工手学校(のちの工学院大学)機械科へ進学。卒業後はパイロットを志願して千葉県の津田沼にある専門の学校に進学を決めるが、練習機の事故を目前にしたことで恐怖を覚えて夢を諦め(病気のために一時帰郷したとする資料もある)、東京の本郷にあった美術研究所で洋画を学ぶ。 1920年(大正9年)、北澤楽天が主宰する漫画家養成塾「漫画好楽会」に入会。
蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 19… 蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 1966年3月7日)は日本の建築家。分離派建築会に参加し、表現主義からモダニズムの作品を手掛けた。海外の建築作品を精力的に紹介し、建築史関係の著作も多い。また、東京高等工芸学校、武蔵工業大学で後進を指導した。 1895年(明治28年)、山口県萩に濱岡某の子として生まれる。1913年(大正2年)、工手学校(新制工学院大学の前身)を卒業。同年、三橋四郎の設計事務所に入所。三橋の逝去後、曽禰達蔵・中條精一郎らの曽禰中條建築事務所に移る。ここで海上ビルの建設に関わり、所員の高松政雄から美学の話を聞いたという。1920年、早稲田大学に選科生として入学。
渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12… 渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12月3日 - 1975年(昭和50年)2月27日)は、日本の実業家・慈善家。宮城県出身。故郷の登米の地域へ様々な形での寄付や支援を行い続けた。 宮城県登米郡登米町(現登米市)日根牛五郎峯地区の農家である渡辺徳兵衛・かの夫妻の次男(5人兄弟の末子)として出生する。15歳の時には兄がいた台湾へ渡って働いたり、工手学校(現・工学院大学)で建築を学んだりした後、1918年(大正7年)3月に明治大学商科を卒業。同年4月より台湾銀行東京支店で働き始めるも、その5か月後に『中外商業新報』の白石元治郎の特集記事を読んだことをきっかけに、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)へ入社する。
久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月… 久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月7日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、昭和初期の宗教家。霊友会の創設者。『法華経』に基づく在家による菩薩行を実践した。 普遍的な菩薩行の実践は、古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自分で読む事など不可能だった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。そのため在家出家を問わない全ての人々による菩薩行の実践という理想は、長い仏教史上において一度も実現される事はなかった。 時代は下り、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。
伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1… 伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1971年12月26日)は日本の民間航空のパイオニアである。伊藤飛行機研究所を設立し、多くの飛行家を育てるとともに、国産機の開発にも努めた。 大阪市南区(後の浪速区)恵美須町に住む伊藤岩吉の二男として1891年(明治24年)6月に生まれる。家は今宮戎を南に行った辺りで駕屋を営んでいた。1904年(明治37年)に大阪市立恵美尋常高等小学校(後の恵美小学校)を卒業し、安堂寺橋にあった銅鉄地金商の佐渡島商店に勤める。 17歳であった1908年(明治41年)11月23日、道頓堀の朝日座でライト兄弟の飛行を写した活動写真を観て飛行機に興味を持ち、1909年9月の萬朝報の「奈良原式飛行機発明」の記事に感動して奈良原三次に乗員としての採用を求める手紙を書き送った。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1… 梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1890年〈明治23年〉12月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月29日)は、石川県出身の建築家。位階は正五位。 日本統治時代の台湾で数々の公共建築物の設計を手がけ、多くは文化資産として現在も活用されている。2000年代以降にアニメーション作家、アニメ監督として活躍している吉浦康裕の曾祖父にあたる。 1890年(明治23年)12月1日、石川県石川郡鶴来町(現・白山市)の士族のもとで出生。元は秋田姓だった。本籍は同県金沢市広阪通。 1907年(明治40年)、測量人員として県に就職するが、翌年東京の私立工手学校(現・工学院大学)建築科入学のため離職。
菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月… 菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月29日 - 1966年〈昭和41年〉11月17日)は、東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名は菊池武治。 1890年10月29日、東京府府中駅字新宿(現在の東京都府中市宮町)に生まれる。父・菊池金之丞、母・サタの四男。 1904年、府中町立高等小学校を首席で卒業。1906年1月まで私塾至誠学舎と原田塾に通い、数学と漢学を修める。2月に工手学校(現在の工学院大学)の土木予科に入学する。 1908年、東京府雇の技手判任官となる。1912年、東京府を退官し、東京市役所河港課に転じる。同年、東京人類学会と歴史地理学会と考古学会に入会する。
松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)… 小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)は、明治末期から昭和初期にかけて官庁営繕で活躍した建築家。聖徳記念絵画館(原案)の設計者として知られる。 1890年(明治23年)、東京市麹町区紀尾井町に生まれる。1909年(明治42年)に工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業。 在学中から大蔵省臨時建築部に勤務。その後、内務省、文部省と生涯の大半を官庁営繕に捧げた建築家である。副業として、堀商店のほか、若槻礼次郎邸や円地文子邸なども手がけている。 1980年(昭和55年)に死去。
竹田 米吉(たけだ よねきち、1889年 - 1976年)は… 竹田 米吉(たけだ よねきち、1889年 - 1976年)は、日本の建築家、実業家、著作家。 東京市神田区で生まれる。父親は棟梁。大工職人として修行し、築地の工手学校(現工学院大学)を卒業。横河工務所(現横河建築設計事務所)に勤務し、横河民輔に師事。同所では鐘紡東京工場、王子製紙苫小牧工場などの建設を担当。 その後、横河民輔の学費援助により早稲田大学建築学科で近代建築学を学ぶ。1947年竹田建設工業を設立。56年著書『職人』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 -… 矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 - 1941年(昭和16年)3月24日)は、明治末期から昭和初期にかけて横浜で活躍した建築家。川崎銀行をはじめとした銀行建築を多く手がけたことで知られる。 1888年建築請負人の矢部国太郎の子として横浜市元町に生まれる。立教中学、工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業後、妻木頼黄のもとで設計に携わる。その後、1906年にドイツに渡り、シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)建築科で学びながら、日本でも活躍したドイツ人建築家ゼールに師事した。 1911年(明治44年)に帰国し、父・国太郎の跡を継ぎ、横浜市内に建築設計事務所(日本庭園会社)を開設した。
長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本… 長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本の土木技術者、都市計画家。 福井県に生まれる。1898年、工手学校土木科卒業後、福井県、つづいて千葉県に勤務した。1906年、東京市に移籍。月島や芝浦などの埋立事業と河川の改修工事に従事。また、工手学校の教授を務める。 1918年、内務省に都市計画課が設置された際、招請されて六大都市の都市計画に参画。1919年、都市計画実行に移すため、名古屋市土木課長に転出、第一期街路築造事業として六大幹線の計画を樹立し実施する。これは同市の新都市としての計画の噂失となった。 その後、呉市土木課長に転じ、呉港海陸連絡工事などにあたる。1923年には、豊橋市土木課長に招かれ、その後技師長、工務課長、水道部長を兼任、同市の土木、都市計画、営繕事業の推進に尽くした。
稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1… 稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1日 - 1937年(昭和12年)2月12日)は、日本の建築家。内務省造神宮使庁に勤務した後独立して稲垣建築事務所を設立し、数多くの神社建築等を手掛けた。 東京出身。郁文館中学校を卒業したのち、工学院建築科を卒業。 1910年(明治43年)東京税務監督局新築工事現場監督拝命(1913年(大正2年)まで)。 以後横浜電気工業株式会社、株式会社東陽銀行、同保土ケ谷支店、横浜市開港記念館、茂木佐平次東京別邸、金光教青生会、キッコーマン宮内省御用醸造場など工事設計や監督に携わる。 1916年(大正5年)10月、内務省造神宮使庁に入省し、翌年4月明治神宮造営局に勤務。
木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 194… 木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 1940年4月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家、建設業者。木田組(後の木田建業)の創始者。深礎工法の発明者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)… 二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)3月26日 - 1972年(昭和47年)9月9日)は、日本の建築家、文化財修理技師。多数の社寺の保存修理や新築設計を手掛けた。 福島県出身。1908年(明治41年)工手学校(現工学院大学)卒業。1911年(明治44年)、国宝建造物修理工事主任。延命寺地蔵堂修理などを手掛ける。1917年(大正6年)に造神宮技手兼明治神宮造営技手となったのち、1927年(昭和2年)国粋建築研究所を開設。1925年(大正14年)大正大震災記念建造物競技設計佳作。角南隆を中心とした神祇院造営課と連動し、神社では11府県社の護国神社や官国幣社の社務所、齋館などの設計のほか、寺院でも比叡山修理、身延山祖廟設営など社寺ともに多くの設計を手掛けた。
小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)… 小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)11月 - 1938年(昭和13年)3月26日)は、日本の修理大工、建築家。社寺を中心に和風建築作品を多数設計した。 東京出身。工手学校(現工学院大学)を卒業。もともとは内務省に奉職したのち、宮内省内匠寮に入り、特別保護建造物の修繕に従事。 1913年(大正2年)、御料車内部装飾設計を鉄道院から嘱託され両陛下御同乗車(皇室用客車 § 7号御料車)、賢所奉安御車(賢所乗御車)を担当する。 1919年(大正8年)、日光廟大修理工事の主任技師となる。 1925年(大正14年)には小林建築設計事務所を設立。没後は息子の小林謙一が継ぎ、大物忌神社吹浦宮や浅草寺雷門などを設計している。
石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 196… 石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 1966年2月16日)は、日本の発明家、実業家。旧姓は内田。 神奈川県横浜市出身。内田峰吉の長男として生まれる。その後、石井長吉の養子となる。 1900年(明治33年)に東京・月島に石井鐵工所を創業した。1902年に工手学校(現・工学院大学)を卒業。1908年に石井家の家督を相続した。 1919年(大正8年)に株式会社石井鐵工所を設立した。 起重機製造株式会社取締役、高岡瓦斯株式会社社長、東洋酸素(現・日本酸素ホールディングス)取締役、箱根水田取締役、月島衛生取締役、伊東瓦斯取締役などを務めた。 1936年に紺綬褒章、1944年に緑綬褒章、1958年に紫綬褒章を受章。
橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)… 橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)4月11日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。内国通運(現:日本通運)社長、極東煉乳(現:明治)創業者及び専務。東京市会議員。 橋本忠次郎の長男で、熊本県熊本市出身。工手学校卒業。1916年(大正5年)家督相続。父が創業した土木鉱山業の橋本店を受け継ぎ、北海道倶知安の鉄山売却で手腕を発揮する。1917年(大正6年)極東煉乳創業者の1人として取締役となる。1921年(大正10年)千原伊之吉を利用して河村寛裕一派の工作によるお家騒動で内国通運を乗っとる形で社長就任。1923年(大正12年)同社長辞任。 1929年(昭和4年)3月、東京市会議員となり、関東大震災からの復興に携わる。
古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - … 古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - 1946年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1896年、東京築地工手学校卒。渡米し、サクラメントにおいて建築学を研究する。その後帰国し、土木建築請負業に従事する。深川区会議員、東京市会議員、市政調査会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において東京4区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選した。1946年死去。
田中 譲(たなか ゆずる、1874年〈明治7年〉8月26日 … 田中 譲(たなか ゆずる、1874年〈明治7年〉8月26日 - 1934年〈昭和9年〉5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 和歌山県牟婁郡、のちの西牟婁郡周参見村(周参見町を経て現すさみ町)出身。1895年(明治28年)工手学校(現工学院大学)を卒業した。 福井、島根の各県の土木工手、農商務省営林技手となる。1905年(明治38年)松村組に入社。その後、大阪市議、大阪地方裁判所借地借家調停委員、(株)松村組社長、日本土木建築請負業者連合会本部理事、高木銀行、山本絹紡績各(株)取締役となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において大阪2区から実業同志会公認で立候補して当選した。
鵜飼 長三郎(うかい ちょうざぶろう、1874年(明治7年)… 鵜飼 長三郎(うかい ちょうざぶろう、1874年(明治7年)7月 - 没年不明)は、日本の建築家である。本願寺技師として、伊東忠太とともに旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)および二楽荘の建設に携わり、東京府内務部営繕局長を務めた。旧姓は越本。 1874年(明治7年)7月、奈良県奈良市転害門内東入ル雑司町に生まれる。東京府市政通信社編 (1926)によれば、鵜飼家は「父祖十二代連綿として建設業を受け継ぎ、代々斯界に名声を馳せていた」家系であり、先代の鵜飼源三郎は東大寺大仏殿の大修繕や築地本願寺・西本願寺の建立にも携わった。工手学校卒業後、明治神宮神楽殿建築監督などを務める。 1898年(明治31年)から1901年(明治34年)にかけて渡米し、「ハムボルド・ドローイング・スクール」を卒業する。
前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25… 前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25日 - 1965年〈昭和40年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党(のち立憲政友会)衆議院議員、佐賀県藤津郡塩田町(現・嬉野市)長。 佐賀県藤津郡塩田村で生まれる。代々武士の家系で、先祖には塩田津出身で治水の神様と評される前田伸右衛門がいる。1898年3月、東京の工手学校土木科を卒業し、さらに達英舎で英学を修める。 1900年5月、北海道庁技手に任じられ室蘭支庁に勤務。その後、道庁属・札幌支庁第二課長に転じ、1908年に退職。その後、札幌区外五郡産牛馬組合副組長、前田一歩園管理人を経て、前田倉庫、材木商を経営。釧路木材商組合長、北海道会議員、釧路区会議員、釧路市会議員、同議長、釧路商業会議所議員、賓江木材倉庫社長(満州国哈爾賓市)などを務めた。
飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 19… 飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 1913年(大正2年)6月10日)は静岡県出身の鉄道技術者。日本統治時代の台湾総督府鉄道部所属の技師(1897年 - 1913年)。 静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた。
新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 -… 新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 - 不明)は、明治から昭和初期にかけて文部省技師として活躍した建築家。明治期の新設された学校建築を多く手がけた。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応… 松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応3年8月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本の実業家、土木技術者。大倉土木(現・大成建設)常務取締役を勤めた。 塩飽諸島の讃岐国那珂郡廣島(現・香川県丸亀市)に生まれる。工手学校建築科(現・工学院大学)を首席で卒業後、当時の大倉組に入社する。入社後は設計や工事監督を歴任した。日本最初の地下鉄となった東京地下鉄道上野駅 - 浅草駅間(現・東京メトロ銀座線)の起工式では、東京地下鉄道社長の早川徳次らとともに杭を打ち込んだ。次女は彫刻家の高村光雲の三男高村豊周と結婚している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月… 設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月3日) - 1943年(昭和18年)12月15日)は、明治時代から昭和初期にかけて関西で活躍した民間建築家。工手学校(現・工学院大学)造家学科の第1期生である。 1912年(明治45年)、大阪市の「新世界」開発において、そのシンボルとなる初代通天閣および隣接する遊園地ルナパークの設計を一手に担ったことで知られる。民間建築家の先駆けとして、山陽鉄道の建築部門の確立や住友関連のプロジェクト、さらに聚楽館や神戸タワー、伏見桃山乃木神社の造営など、近代日本の都市形成とインフラ構築に多大な足跡を残した。 設楽建築工務所は、意匠設計から施工管理までを高度に分業化した近代的な組織体制を有していた。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
中村 悟 は、日本の実業家。M&Aキャピタルパートナーズ株式… 中村 悟 は、日本の実業家。M&Aキャピタルパートナーズ株式会社創業者・代表取締役社長、株式会社レコフデータ取締役、一般社団法人M&A仲介協会理事。
笹本 祐一 は、日本のSF作家、シナリオライター。工学院大学… 笹本 祐一 は、日本のSF作家、シナリオライター。工学院大学中退。主にSF作品を中心に執筆。東京都出身。現在は札幌市在住。
はいじぃ は、吉本興業東京本社(東京吉本)所属の日本のピン芸… はいじぃ は、吉本興業東京本社(東京吉本)所属の日本のピン芸人、YouTuber。本名は蓜島 朋岳。あごをなでると幸運が舞い込むという伝説あり。
市石 英三郎(いちいし えいざぶろう)は、日本の建築家。長野… 市石 英三郎(いちいし えいざぶろう)は、日本の建築家。長野市信州新町名誉町民第5号。 1911年(明治44年)にヤン・レツル・アンド・ホラ合資会社に入所する。1912年(明治45年)、工手学校建築科(現・工学院大学建築学部)を卒業した。1913年(大正2年)から1914年(大正3年)にかけて、レツルの元で広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設計を担当した。 1915年(大正4年)から宮内省内匠寮督役に就任。1916年(大正5年)、内匠寮生となる。 1921年(大正10年)には宮内技手となり、1931年(昭和6年)より内匠寮臨時帝室博物館造営課兼工務課に勤務した。 この間、1924年(大正13年)に千葉県君津郡金田村立金田尋常高等小学校(現・木更津市立金田小学校)の木造校舎設計図を手がけたが、鉄筋コンクリート製の校舎に変更されたため、日の目を見なかった。
小阪 裕司(こさか ゆうじ)は、日本の経営者。作家。経営学の… 小阪 裕司(こさか ゆうじ)は、日本の経営者。作家。経営学の研究者。博士(情報学)(2011年、工学院大学にて取得)。「オラクルひと・しくみ研究所」代表。
小島 光晴(こじま みつはる、1973年(昭和48年 - )… 小島 光晴(こじま みつはる、1973年(昭和48年 - )は、日本の建築家。一級建築士。工学院大学非常勤講師。
小林 キュウテン(こばやし きゅうてん)は、日本のジムカーナ… 小林 キュウテン(こばやし きゅうてん)は、日本のジムカーナレーシングドライバー、地方公務員(静岡市職員)。静岡県静岡市葵区出身。工学院大学出身で一級建築士の資格を持つ。 7歳上の姉が自動車教習をする為に父親と広場に行き練習している時に、教習所に通う姉より上手く運転してみせたのが自動車運転の初体験。この時小学5年生。本人は「英才教育」であると語る。 1988年にジムカーナ静岡県シリーズに参戦開始。1990年・1991年にはシリーズ2位の成績を収める。 当時は学生の時にアルバイトで資金を貯めて購入したMR2(AW11)でジムカーナに参戦していたが、ライバル達が新型のMR2(SW20)に乗り換える中、思い出の多いマシンを手放す事ができず、1993年には全日本ジムカーナ選手権参戦に伴いナンバー付き車両をナンバー取得が義務でないCIIクラスマシンに改良。