佐々木 敏夫(ささき としお、1942年(昭和17年)10月… 佐々木 敏夫(ささき としお、1942年(昭和17年)10月21日 - )は、日本の政治家。大分県豊後高田市長(3期)。元大分県議会議員(8期)、元大分県議会議長。2025年4月17日から全国最高齢市長。 大分県豊後高田市出身。1965年(昭和40年)3月、専修大学経済学部卒業。 1987年(昭和62年)、大分県議会議員選挙に初当選。2003年(平成15年)に県議会議長に就任。また、県議時代は自由民主党県連副会長などを務めた。 2017年(平成29年)2月13日、次期豊後高田市長選挙への出馬を表明。同年4月16日に行われた市長選に、市外在住者向けの土地代無料の分譲団地造成や、中学生までの給食費無料化、高校生までの医療費無料化などを公約に掲げ立候補。
寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 201… 寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 2011年2月4日)は、宮崎県出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)、野球指導者。
大幸 甚(おおさか じん、1941年(昭和16年)12月23… 大幸 甚(おおさか じん、1941年(昭和16年)12月23日 - )は、日本の政治家。石川県議会議長等を経て、加賀市の初代市長を務めた。 石川県江沼郡大聖寺町本町生まれ。石川県立小松高等学校を経て、専修大学法学部卒業。代議士秘書を経て、29歳で加賀市議会議員に初当選。1975年石川県議会議員(自由民主党)に初当選し、爾後6期務め石川県議会議長にも選出された。1999年加賀市長。2003年再選。加賀市・山中町合併協議会会長として平成の大合併にあたり、2005年には合併後の新制加賀市の初代市長に当選した。
岩井宜子(いわい よしこ、1941年12月18日- )は、日… 岩井宜子(いわい よしこ、1941年12月18日- )は、日本の法学者、弁護士、専修大学名誉教授。 神戸市生まれ。1960年兵庫県立神戸高等学校卒業、1964年東京大学法学部卒業、東京大学法学部助手、1967年法務総合研究所研究官補、1972年弁護士登録、1977年神奈川大学短期大学部助教授、1982年金沢大学法学部助教授、1984年教授、1994年専修大学法学部教授、2004年同法務研究科教授。2012年定年退任、名誉教授。
前川 芳男(まえかわ よしお、1941年11月20日 - 2… 前川 芳男(まえかわ よしお、1941年11月20日 - 2024年4月26日)は元プロ野球審判員。2010年まで審判部特命顧問。 横浜市立桜丘高等学校から専修大学、興亜電工、横浜ナショナルサービスを経て1967年パシフィック・リーグ審判部入局。後に審判部副部長となった五十嵐洋一(1998年退職)とは同期生である。審判員袖番号は25(1977年初採用から。ただし、審判員指導員に転じた1998年以降は空き番。当時パ・リーグでは審判は指導員に転じると袖番号を返上するという暗黙のルールがあったため)。 順調にキャリアを積み、1978年から1995年までほぼ毎年、パリーグの審判の代表として日本シリーズの審判を務め、そのうち1979年は江夏の21球で有名となった第7戦の球審を務めたり、1988年の10.19第2試合で球審を務めたりして後年にも語り継がれている。
岡野 圭一(おかの けいいち、1941年7月5日 - 201… 岡野 圭一(おかの けいいち、1941年7月5日 - 2012年10月7日)は、日本の歴史学者。専修大学名誉教授。専門は西洋美術史。ミドルネームはHeinrich(ハインリッヒ)。 長野県松本市生まれ。長野県松本深志高等学校を経て、1965年上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業。1971年ケルン大学哲学部美術史学科卒業、Ph.D.取得。1968年ケルン市美術館勤務、1969年在ケルン日本文化会館勤務を経て帰国し、1976年政府関係特殊法人国際交流基金課長補佐に就任。1978年専修大学文学部専任講師、1986年教授。図書館情報大学、多摩美術大学、明治大学、明治学院大学、東京芸術大学などの兼任講師も務めた。
小出 錞一(こいで じゅんいち、1941年〈昭和16年〉5月… 小出 錞一(こいで じゅんいち、1941年〈昭和16年〉5月22日 - )は、日本の元裁判官・元専修大学教授。愛知県名古屋市出身。 愛知県立旭丘高等学校・東京大学法学部卒業。 司法試験には1964年(昭和39年)9月に合格し、東京大学卒業後の1965年(昭和40年)4月には第19期司法修習生(司法修習地:東京)になる。その後の経歴は以下の通り。 2006年(平成18年)2月28日に依願退官し、同年4月に専修大学法学部教授に就任。専門は刑事訴訟法で、2011年(平成23年)秋に瑞宝重光章を受章した。2012年(平成24年)3月限りで定年退職。
吉住 弘(よしずみ ひろし、1941年〈昭和16年〉5月10… 吉住 弘(よしずみ ひろし、1941年〈昭和16年〉5月10日 - 2015年〈平成27年〉1月7日)は、日本の政治家。位階は従四位。東京都台東区長(3期)、東京都議会議員(1期)、台東区議会議員(7期)などを務めた。 現在の東京都台東区生まれ。専修大学経済学部卒業。 山田久就元衆議院議員の秘書を務める。台東区議会議員7期、区議会議長、東京都議会議員1期を経て、2003年2月の台東区長選挙に自由民主党公認で出馬し、当選を果たした。 2007年3月の区長選では無所属で自民党の推薦を受け再選。 2011年の台東区長選挙に際しては、3選出馬し「長期政権」を目指す吉住に対し、参議院議員や経済産業副大臣を務めた国政経験の豊富な保坂三蔵も立候補の意向を表明。
乙津 宜男(おつ よしお、1941年5月1日 - )は、日本… 乙津 宜男(おつ よしお、1941年5月1日 - )は、日本の経営者。紀伊國屋書店社長、会長を務めた。 東京都出身。1964年に専修大学経済学部を卒業し、同年に紀伊國屋書店に入社。専務を経て、2002年に副社長に就任し、2006年11月には社長に昇格。2008年11月には副会長に就任。
大和田 智子(おおわだ ともこ、1941年3月15日 - )… 大和田 智子(おおわだ ともこ、1941年3月15日 - )は、日本のフェンシング選手、指導者。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。宮城県鼎が浦高等学校、専修大学卒業。鼎が浦高校での指導者は、本吉町(現 気仙沼市)出身で1958年 全日本選手権優勝の千葉卓朗であった。 1964年 全日本選手権女子フルーレ優勝、 同年 第18回オリンピック東京大会フェンシング女子フルーレ個人・団体に出場。専修大学からは小森芳江もフルーレ個人に出場した。 その後は、専修大学フェンシング部 女子監督に就任。後進の指導にあたり、2004年に功労賞(各競技団体主催の公式大会で、各部を団体優勝に導いた部長、監督に贈られる)を受賞。
二瓶 正也(、1940年〈昭和15年〉12月4日 - 202… 二瓶 正也(、1940年〈昭和15年〉12月4日 - 2021年〈令和3年〉8月21日)は、日本の俳優。本名および旧芸名、二瓶 正典()。 東京府東京市麹町区永田町出身。麹町中学校、専修大学附属高等学校卒業。二瓶事務所を経て、メセナに所属していた。 実父はドイツ人。映画が好きであったことから、高校3年生時に俳優を志し東宝芸能学校の夜間部に入る。 1960年に東宝第15期生ニューフェースとなり、しばらくは大部屋生活が続く。1961年、岡本喜八監督作『暗黒街の弾痕』の「殺し屋B」でデビュー。コミカルな役柄を得意とし、東宝の専属俳優として活躍した。特に岡本喜八作品の常連となる。1962年に『妖星ゴラス』で特撮作品に初出演。
金子 正明(かねこ まさあき、1940年7月8日 - )は、… 金子 正明(かねこ まさあき、1940年7月8日 - )は、栃木県足利市出身の元レスリング選手、元陸上自衛官1968年メキシコシティーオリンピックレスリング競技男子63kg級金メダリスト。 足利工業大学附属高等学校でレスリングを始める。専修大学卒業後、自衛隊に入隊、陸上自衛官として自衛隊体育学校に在籍。バンタム級で第18回夏季オリンピック東京大会(1964年)を目指すが、代表選考会の最終予選で上武洋次郎に敗れて出場を逃す。 東京大会の後に階級をフェザー級に上げ、1968年第19回夏季オリンピックメキシコシティ大会に挑むことを決意、その当時には普及されていなかったウェイトトレーニングで体を作る。またその当時の日本レスリングの主流だった八田一朗(日本アマチュアレスリング協会会長)が提唱した攻撃重視スタイルにあえて背を向け、防御と巧みな試合運びで後半に勝負するという自己流カウンター型スタイルを確立、世界選手権を2連覇し、メキシコシティ大会では男子フリースタイルフェザー級において金メダルを獲得した。
ジェリー藤尾( - ふじお、本名:藤尾 薫紀(ふじお しげき… ジェリー藤尾( - ふじお、本名:藤尾 薫紀(ふじお しげき)、1940年6月26日 - 2021年8月14日)は、日本の歌手、俳優、タレント。 オフィスキコ所属。代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。専修大学附属京王高等学校(現・専修大学附属高等学校)中退。娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。元妻は歌手、タレントの渡辺友子。身長172cm。 1940年に、高知県出身で松竹で俳優になったのちに日本放送協会国際部勤務で英語アナウンサーをしていた父・藤尾薫宏とイギリス国籍の母・オリビア・ヒース・ゴンザレスのもと、当時の中華民国上海の日本租界で生まれる。当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、帰国後の藤尾と母は言葉の壁や外見から差別を受ける。
石田 帰山(いしだ きざん、1940年5月10日 - )は、… 石田 帰山(いしだ きざん、1940年5月10日 - )は、日本の書家。本名、紀夫。元毎日書道展会員、元創玄書道会審査員。「唯一神又吉イエス主義を後世に伝える会」の題字を手掛けたことで知られる。石田紀夫名義で、テノール歌手としても活動している。 富山県魚津市生まれ。専修大学卒業、東京音楽大学大学院修士課程修了。文化功労者である書道家大平山濤に50年の間師事する。 19歳の時、書道家吉田帰雲、大平山濤両者から一字ずつもらい、雅号「帰山」を名乗りはじめる。1965年、文化勲章受賞者である金子鷗亭が立ち上げた書道会「創玄書道会」の開催する第1回創玄展に出品し、入選。1968年、鷗亭のもとへ向かう山濤と共に、東京に移り住む。
中村 次郎(なかむら じろう、1940年4月14日 - 、2… 中村 次郎(なかむら じろう、1940年4月14日 - 、2025年12月11日 )は、NHKの気象解説で知られる気象キャスターである。 群馬県高崎市(旧倉渕村)出身。群馬県立榛名高等学校、専修大学法学部中退。鉄道会社勤務を経て、1963年、財団法人日本気象協会に入り、ラジオの気象解説を担当。1975年にNHK総合テレビに初出演、以後2005年3月まで(ラジオは2006年3月まで)約30年間にわたり同局の気象キャスターとして活躍。気象予報士ではなかったが、季節感を大切にした朴訥とした語り口の「天気予報」にはファンが多かった。2000年代には日本気象協会を退職し、有限会社気象環境サービスに移籍。気象情報出演終了後も、NHKの首都圏ローカル枠で情報番組に出演、2006年4月からは「ゆうどきネットワーク」で不定期コーナー「中村次郎の日々是好日」を担当していた。
時崎 雄司(ときざき ゆうじ、1940年1月6日 - 202… 時崎 雄司(ときざき ゆうじ、1940年1月6日 - 2021年11月13日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(1期)。 青森県出身。1962年専修大学法学部卒。茨城県庁に入り、総務部職員課係長、県職員生協常務理事、県労働金庫理事、県職員組合書記長、同委員長、自治労茨城県本部副委員長、社会党茨城県組織局長を経て、1990年の総選挙で旧茨城1区から立候補して初当選、1期務めた。1993年の総選挙で落選。1996年の総選挙では民主党から新設された茨城1区より立候補したが落選した。その後は民進党で茨城県総支部連合会倫理委員長を務める。民進党の分裂後は国民民主党に参加。国民民主党の分裂後は(新)国民民主党茨城県連倫理委員長。
泉 武夫(いずみ たけお、1940年 - )は、日本の経済学… 泉 武夫(いずみ たけお、1940年 - )は、日本の経済学者。専修大学名誉教授。元・専修大学北海道短期大学学長。 1965年専修大学経済学部卒業。1971年同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。 同経済学部助手に就任。1972年専修大学経済学部講師。1976年同経済学部助教授。1984年同経済学部教授。1995年同社会科学研究所長。1996年学校法人専修大学理事。 2003年専修大学北海道短期大学学長に就任。2006年同学長を退任し、専修大学経済学部教授。学校法人専修大学理事。2011年専修大学定年退職。同名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
堀込 基明(ほりごめ もとあき、1939年10月31日 - … 堀込 基明(ほりごめ もとあき、1939年10月31日 - 1997年2月16日)は、長野県小諸市出身のプロ野球選手(外野手)。愛称は「モーやん」。 小諸商業高校から専修大学へ進学。東都大学野球リーグでは1959年春季リーグで優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では、エース坂井勝二を擁し準決勝に進出するが、木次文夫、近藤昭仁らのいた早大に敗退。1960年秋季リーグでも山本兵吾の好投もあって在学中2回目の優勝を飾った。大学の1年上には坂井(3年で中退)、山本の他に、後にプロで同僚となる小池兼司がいた。1961年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算89試合出場、288打数95安打、打率.330、4本塁打、35打点。
若林 豪(わかばやし ごう、1939年(昭和14年)9月5日… 若林 豪(わかばやし ごう、1939年(昭和14年)9月5日 - )は、日本の俳優。 長崎県長崎市茂木町出身。 海星高等学校卒、専修大学経済学部中退。 妻は司葉子のいとこ、三男は俳優の若林久弥である。 専修大学中退後の1965年、劇団新国劇に入団。その後フリーになり、若林プロモーションから2006年11月に東宝芸能へ移籍した。のち、2015年ごろから、エ・ネストに所属。 島田正吾の直弟子としてデビュー。芸名は、新国劇に入るより前に仲間内で演じていた三島由紀夫の『近代能楽集』から「源氏葵若林光(げんじのあおいのわかばやしひかる)」というくだりを気に入って「若林」を是非にと決め、豪の名前は新国劇に入った後、「若く猛々しい」というイメージから劇作家の榎本滋民に名付けられた。
及川 三千代(おいかわ みちよ、本名:及川ウメ子 1939年… 及川 三千代(おいかわ みちよ、本名:及川ウメ子 1939年3月19日 - 2014年4月5日)は日本の歌手である。 岩手県胆沢郡金ケ崎町出身。北上学園北上商業高等学校(現・専修大学北上高等学校)卒業。 高校卒業後、民謡保存協会で民謡の指導を受け、全国民謡大会で浅草に出演中認められて昭和31年(1956年)にテイチク・レコードの専属となる。 デビュー当時は本名の及川ウメ子で活動していたが、1958年に及川三千代に改められた。 1959年日本グラモフォン(ポリドール・レーベル)に移籍。 1962年12月31日、第13回NHK紅白歌合戦に初出場し、「愛と死のかたみ」を歌唱した。紅白での及川の歌唱中の写真が現存する。
小池 兼司(こいけ けんじ、1939年2月5日 - )は、静… 小池 兼司(こいけ けんじ、1939年2月5日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。内野手。
福島 萬治(ふくしま まんじ、1939年または1940年 -… 福島 萬治(ふくしま まんじ、1939年または1940年 - )は、日本の元卓球選手。現役時代は日本代表としてアジア競技大会卓球競技で金メダルを獲得した。 広島県立因島高等学校在学時に全国高等学校卓球選手権で準優勝。 専修大学在学時の1960年度、全日本卓球選手権大会で江頭新生と出場した男子ダブルス決勝で山本義徳 / 石橋征組に0-2で敗れ準優勝。 1961年度、全日本選手権で栗田和代と出場した混合ダブルス決勝で星野展弥 / 伊藤和子組に0-2で敗れ準優勝。 1962年度、全日本学生卓球選手権大会で吉本忠義と出場した男子ダブルス優勝。 全日本選手権で吉本と出場した男子ダブルス決勝で三木圭一 / 瀬川栄次組を2-0で下し優勝。
鈴木 敬夫(すずき けいふ、스즈키 케이후、Keifu SU… 鈴木 敬夫(すずき けいふ、스즈키 케이후、Keifu SUZUKI、1938年11月17日 - 2025年4月6日[要出典])は、日本の法学者。専門は、法哲学・会社犯罪・アジア法。法学博士(高麗大学・1988年)。札幌学院大学名誉教授。日本におけるアジア法の先駆者 1938年、当時日本の統治下にあった、朝鮮元山に生まれる。戦後、両親とともに日本に引き揚げ、高校までを北海道で過ごし、札幌市立東高等学校(現在の北海道札幌東高等学校)卒業。 1957年、 専修大学法学部に入学。 大学院において、G.ラートブルフ門人常盤敏太(元一橋大学教授、専修大学教授)に師事し法哲学を学び、併せて椎津盛一(元大審院判事、専修大学教授)に就き商法を研究する。
山本 兵吾(やまもと ひょうご、1938年8月31日 - 1… 山本 兵吾(やまもと ひょうご、1938年8月31日 - 1999年9月16日)は、広島県出身のプロ野球選手(投手)。 福山誠之館高校、備後通運から専修大学へ進学。東都大学リーグでは在学中4回優勝。同期のエース坂井勝二の陰に隠れがちだったが、坂井は3年で中退しプロ入り。その後はエースの座を引き継ぎ、4年生時は1960年春季リーグで8勝2敗を記録。チームは2位に終わるが最優秀投手、ベストナインに選出される。同年秋季リーグでは8勝3敗を挙げて優勝に貢献、最高殊勲選手とベストナインを受賞。リーグ通算36試合登板し18勝6敗、防御率1.59、141奪三振。坂井以外の大学同期に小池兼司、1年下に堀込基明がいる。
大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、… 大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、日本の元陸上競技選手。千葉県印旛郡酒々井町出身。専修大学商経学部商業学科卒業。 酒々井町立酒々井小学校、酒々井町立酒々井中学校、成田高等学校、専修大学出身。 東京都墨田区向島で生まれたが、1945年3月10日に東京大空襲があり、父の実家のある千葉県酒々井町に移り住んだ。 中学卒業後はパン屋に就職することになっていたが印旛郡の中学生ロードレース大会で優勝し、成田高等学校に進学した。高校時代には全国高校駅伝に出場した。 高校卒業後は佐倉郵便局に就職することになっていたが、長嶋茂雄の兄である長嶋武彦との縁もあり、専修大学の補欠試験を受けて合格した。
松崎 キミ代(まつざき きみよ、1938年6月18日- )は… 松崎 キミ代(まつざき きみよ、1938年6月18日- )は、香川県三豊郡高瀬町(現三豊市)出身の元卓球選手。現姓・栗本。専修大学卒業。戦型はペン表ソフト前陣速攻型。日本卓球界の黄金時代を代表する女子選手のひとりであり、1997年にはその功績をたたえられ世界卓球殿堂入りを果たした。 酒屋の6人姉妹の長女。憧れの卓球選手は江口冨士枝。 小学校5年の時に卓球を始めた。1959年に行われた世界卓球選手権大会の女子シングルスで優勝、その後1963年の大会でも優勝し世界チャンピオンとなった。1961年の世界選手権の際に、周恩来からマオタイ酒をプレゼントされた。2020年、渋谷区名誉区民に顕彰された。 2010年4月17日の渋谷区体育協会のジュニア育成事業の合同開講式で『一番大事なのは気持の持ち方だ。
原 一平(はら いっぺい、本名:日下部 護〈くさかべ まもる… 原 一平(はら いっぺい、本名:日下部 護〈くさかべ まもる〉、1938年〈昭和13年〉3月22日 - 2014年〈平成26年〉12月4日)は、日本のものまねタレント。北海道上川郡当麻町出身。北海道旭川東高等学校、最終学歴は専修大学経済学部卒業。
魚田 勝臣(うおた かつおみ、1938年 - )は、日本の計… 魚田 勝臣(うおた かつおみ、1938年 - )は、日本の計算機科学の研究者、専攻は情報システム、情報システム教育およびソフトウェア工学、専修大学名誉教授。一般社団法人情報システム学会事務局長。
長久保 文雄(ながくぼ ふみお、1937年2月23日 - )… 長久保 文雄(ながくぼ ふみお、1937年2月23日 - )は、日本の元スピードスケート選手。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)出身。冬季オリンピックに2大会連続で出場し、インスブルック大会では妻・初枝(旧姓・高見沢)とともに夫婦で五輪出場を果たして話題になった。 峡北高校から専修大学に進み、1957年の全日本学生選手権500mで当時の日本記録となる42秒9をマーク。 卒業後、三協精機に入社。1年目でスコーバレー五輪に出場し、500m9位・1000m21位を残した。 その後、専大出身で同五輪に出場した高見沢初枝と結婚。 1964年のインスブルック五輪では冬季五輪では史上初となる夫婦日本代表の快挙を果たす。
星野 展弥(ほしの のぶや、1937年2月1日 – 2020… 星野 展弥(ほしの のぶや、1937年2月1日 – 2020年2月22日)は、日本の元卓球選手。現役時代は日本代表として世界卓球選手権で金メダル2個を含む計4個のメダルを獲得し、日本卓球界の黄金期を代表する選手として活躍した。国際卓球連盟世界ランキング最高位は9位タイ。段級位は9段。 1958年度、全日本卓球選手権大会シングルス決勝で成田静司に1-3で敗れ準優勝。 1959年度、ドルトムント (西ドイツ) で行われた世界選手権ではシングルスで16強。成田と出場した男子ダブルスでは準々決勝敗退。難波多慧子と出場した混合ダブルスでも準々決勝敗退。団体で成田、村上輝夫、荻村伊智朗と金メダル。世界ランキング13位タイ。
野平 明雄(のひら あきお、1937年 - 2015年2月4… 野平 明雄(のひら あきお、1937年 - 2015年2月4日)は、日本の卓球選手。 千葉県立佐倉高等学校を経て専修大学出身。 1955年度、全日本卓球選手権大会では津野達雄と出場した男子ダブルスで荻村伊智朗 / 田中利明組を2-0で破り優勝。 1956年、東京で開催された第23回世界卓球選手権シングルス準決勝で田中に1-3で敗れ銅メダル。津野と出場した男子ダブルスで16強。 フォアハンドの豪打を武器に専修大学で活躍。現役引退後は指導者としても活躍し、千葉県の千城台卓球クラブで少年少女の育成に励み、五輪代表、世界代表の選手を育て上げた。平成元年アジアジュニア男子監督。1993年のアジアカップ日本代表男子総監督。
興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、… 興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、静岡県焼津市出身の元プロ野球選手(三塁手)。旧名は「達雄」。
小田 久榮門(小田 久栄門、おだ きゅうえもん、1935年(… 小田 久榮門(小田 久栄門、おだ きゅうえもん、1935年(昭和10年)11月28日 - 2014年(平成26年)10月30日)は、日本のテレビプロデューサー。テレビ朝日取締役編成局長、テレビ朝日映像、ビーエス朝日で社長等を務めた。 当時同局に在籍していた皇達也と共に、テレ朝の天皇の異名で知られた。 新潟県朝日村(現:村上市)で生まれる。故郷で教師になろうと専修大学に入学。ところが叔父がTBSに勤めていた関係で、大学3年のときからTBSでアルバイトするようになり、テレビの仕事が面白くなって、日本教育テレビ(NETテレビ。後のテレビ朝日)開局の前年の11月に契約社員として入社し、翌年3月に正式入社となり、教養部に籍を置いた。
新宮 正志(しんぐう まさし、1935年11月14日 - 2… 新宮 正志(しんぐう まさし、1935年11月14日 - 2020年10月17日)は、日本の政治家。北海道室蘭市長(4期)。 北海道旭川市出身。1958年、専修大学商経学部卒。同年、室蘭市役所に入り、環境衛生、市民福祉、財政、総務の各部長を経て、1990年に収入役となる。1995年、室蘭市長選挙に立候補して初当選、以来、連続4期務める。2011年に室蘭市長を退任。2020年に死去した。
武藤 章生(むとう しょうせい、1935年10月20日 - … 武藤 章生(むとう しょうせい、1935年10月20日 - 1995年11月5日)は、日本の俳優。本名:武藤 章生(むとう あきお)。 愛知県名古屋市熱田区市場町出身。愛知県立瑞陵高等学校、専修大学卒業。石原プロモーションを経て、大鷲プロに所属していた。 1950年代から60年代にかけては日活の専属脇役として数々の映画に出演し、1970年代からはテレビドラマを中心に活躍。 日活時代に共演した石原裕次郎の信任のもと、『大都会』『西部警察』など石原プロモーション制作の刑事ドラマシリーズに準レギュラーとして継続出演した。 1995年11月5日死去。60歳没。 特技は名古屋弁、関西弁。
長久保 初枝(ながくぼ はつえ、1935年7月27日 - )… 長久保 初枝(ながくぼ はつえ、1935年7月27日 - )は、日本の元スピードスケート選手。旧姓・高見沢。長野県南佐久郡南牧村出身。日本女子スピードスケート黎明期の第一人者。冬季オリンピックに2大会連続で出場し、インスブルック大会では夫・文雄とともに夫婦で五輪出場を果たして話題になった。
徳江 京子(とくえ きょうこ、1935年 - )は日本の元フ… 徳江 京子(とくえ きょうこ、1935年 - )は日本の元フィギュアスケート選手。ローラースケート選手。専修大学卒。兄はフィギュアスケート選手の徳江洋。 満洲新京生まれ。スケートは家の庭でリンクを作り練習した。戦後の昭和21年10月に満州より引き揚げてきた。一家は栃木県日光市に住む。 フィギュアスケート競技では、小学生6年の12歳のとき1947年の第15回全日本選手権兼第1回国体に宮城県代表で出場し、3位となる。 1954年(昭和29年)、ローラースケート競技に転向する。1956年の第4回の全日本フィギュア選手権大会から5年連続で1位となる。1956年の全日本選手権では、女子1名の参加であったが、総得点は男子1位を上回った。
丸山 惠也(まるやま よしなり、1934年10月 - )は、… 丸山 惠也(まるやま よしなり、1934年10月 - )は、日本の経営学者。専門は経営学。学位は、博士(経営学)(立教大学・論文博士・1993年)(学位論文「日本的経営-その構造とビヘイビア」)。立教大学名誉教授。元東邦学園大学学長。北海道出身。 このほか、立教大学にて経済学部経営学科学科長や経済学部学部長、大学院経済学研究科研究科長など務める。 専門は経営学、生産システム論や地域経済論、アメリカ自動車産業の経営学史。特に地域再生と産業集積を研究。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 19… 福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 1988年11月29日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て、1956年に南海ホークスへ投手として入団。3年目の1958年には外野手へ転向し、主に左腕対策として起用され、1960年には自己最多の6本塁打をマーク。1961年に27試合、1962年には10試合に先発出場を果たす。長打力と強肩が売りで、巨漢で怪力の福田は打撃練習こそ打球が凄まじく、タイヤを叩く打撃練習では軸のなる支柱を折ってしまったりするが、肝心の試合になると「扇風機」と仇名がつくほどカーブが全く打てなかった。
坂本 盛明(さかもと もりあき、1934年5月5日 - 19… 坂本 盛明(さかもと もりあき、1934年5月5日 - 1987年11月3日)は、熊本県出身のプロ野球選手。
森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 199… 森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 1993年12月7日)は、山口県柳井市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。息子は元俳優の森永健司。 1958年から1962年までの登録名は「森永 勝治」。 柳井商工ではエースとして活躍し、2年次の1951年に秋季中国大会県予選準決勝へ進むが、下関商に敗れる。3年次の1952年には夏の甲子園へ出場し、2回戦(初戦)でエース堀内庄を擁する松商学園に完封勝ち。準々決勝では、この大会に優勝した芦屋高の植村義信と投げ合うが、0-2と完封を喫する。 高校卒業後は1953年に専修大学へ進学し、外野手に転向。東都大学野球リーグでは、1年次の同年春季リーグからレギュラーになり在学中全試合に出場し、2度の優勝を経験。
渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は… 渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 福岡県立戸畑高等学校への在学中は投手で、エースとして活躍するが、甲子園球場での全国大会と縁がなかった。 高校からの卒業後に専修大学へ進学すると、3年生から外野手に転向。在学中には、東都大学野球リーグで4回の優勝を経験した。4年時の1954年、第3回大学選手権の準決勝で明大の「五人衆」(秋山登と土井淳のバッテリー、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利)を擁する明治大学に敗れた。硬式野球部の同期生に岡本健一郎と片山嘉視がいて、1955年に3人揃って阪急ブレーブスへ入団した。 入団1年目の1955年から、レギュラー外野手としてパシフィック・リーグ公式戦132試合に出場するとともに、リーグの最終規定打席へ到達。
阿部 正美(あべ まさみ、1932年(昭和7年)11月23日… 阿部 正美(あべ まさみ、1932年(昭和7年)11月23日 - )は、日本の国文学者。専修大学名誉教授。 東京市麻布区(麻布)出身。東京都立日比谷高等学校卒。麻生磯次に師事。1961年『芭蕉伝記考説』で文部大臣奨励賞受賞。1966年国士舘短期大学講師、1976年助教授、1980年教授、1982年専修大学文学部教授、2003年定年退任、名誉教授。
中田 武志(なかだ たけし、1932年(昭和7年)9月14日… 中田 武志(なかだ たけし、1932年(昭和7年)9月14日 - 2020年(令和2年)3月31日)は、日本の政治家。元岡山県倉敷市長(2期)。 岡山県出身。専修大学商経学部卒。倉敷市役所に入り、助役となる。1996年の倉敷市長選挙に立候補し、当選する。2000年の市長選挙でも再選。2004年の市長選挙で落選した。2020年に死去した。
片山 嘉視(かたやま よしみ、1932年4月22日 - )は… 片山 嘉視(かたやま よしみ、1932年4月22日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。 済々黌高校から専修大学を経て1955年に阪急ブレーブスへ入団。1956年に引退。
佐藤 弘明(さとう ひろあき、1932年2月5日 - 198… 佐藤 弘明(さとう ひろあき、1932年2月5日 - 1988年1月1日)は、兵庫県尼崎市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。長女は元OSK日本歌劇団の緒花朋(オバナトモ)。
和田 弘(わだ ひろし、1931年(昭和6年)2月15日 -… 和田 弘(わだ ひろし、1931年(昭和6年)2月15日 - 2004年(平成16年)1月5日)は、日本の歌手・ギタリスト。スティール・ギター奏者で和田弘とマヒナスターズのリーダー。専修大学卒業。 東京府東京市本郷区(現東京都文京区本郷)出身。父は製本業を営んでいた。 幼い頃からオルガンに親しみ、銀座日本劇場で灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブの演奏を聴いてスティール・ギターに傾倒。兄の同級生である浜口庫之助に弟子入りし、ハワイアンミュージシャンになる。 1949年(昭和24年)4月、専修大学に入学。在学中にリリー・アイランダースを結成し、自らリーダーを務めた。 1950年(昭和25年)4月、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズにギタリストとして加入。
続 訓弘(つづき くにひろ、旧字体: 續 訓弘、1930年〈… 続 訓弘(つづき くにひろ、旧字体: 續 訓弘、1930年〈昭和5年〉9月14日 - )は、日本の政治家。東京都副知事、参議院議員(2期)、総務庁長官(第23・24・25代)を歴任した。 熊本県生まれ。中央大学法学部卒業、専修大学大学院修了。1953年8月、東京都庁に入庁した。東京都財務局主計部長、財務局長などの役職を歴任し、1983年5月に東京都知事鈴木俊一の下で東京都副知事に就任。1991年に副知事を退任した。 1992年、第16回参議院議員通常選挙に公明党公認で比例区から立候補し、初当選を果たした。1994年、新進党結党を控え、公明党が公明新党、公明に分裂した際は公明新党に参加し、その後新進党に参加した。
初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 20… 初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 2015年1月8日)は、茨城県出身の元プロ野球選手(投手・外野手)。 下妻中では1947年に4番・投手として夏の甲子園茨城大会で優勝し、北関東大会に進出するも初戦で敗退。卒業後は東京鉄道局に進み、シュート、ドロップを武器に主戦投手として活躍。 その後は専修大学を中退し、1950年に新球団の国鉄スワローズへ入団。球威はないものの変化球や制球が良かったため高橋輝に次ぐ主戦投手として期待されたが、結果を出せずに2年目の1951年からは外野手に転向。3年目の1952年には規定打席に到達するが、佐藤孝夫の外野転向と安居玉一の入団、町田行彦の成長もありレギュラーから陥落。
奥村 公延(おくむら こうえん、1930年〈昭和5年〉3月3… 奥村 公延(おくむら こうえん、1930年〈昭和5年〉3月31日 - 2009年〈平成21年〉12月24日)は、日本の俳優。本名及び旧芸名は奥村 進。 秋田県出身。専修大学卒業。東京俳優生活協同組合、芳賀事務所、現代制作舎に所属していた。映像制作事業オミプロの主催者の小美濃たつやは彼の弟子にあたる。 もともとは普通に勤め人をしていて、「このまま自分は淡々とした人生を送って行くんだろうなと思っていた」という。1955年、銀座にたまたま行きつけの飲み屋があり、ここの女性従業員が新劇劇団「近代劇場」のプロデューサーと知り合いだったことから、このプロデューサーからテレビ番組の『ダイヤル110番』(日本テレビ)での役探しを頼まれ、奥村を紹介したところ、これが俳優デビューとなった。