前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - … 前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - 1955年(昭和30年))は、日本の河川技術者。建築家前川國男と、日本銀行総裁を務めた前川春雄の父。 滋賀県士族・前川勇夫の長男。1897年(明治30年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省土木局に入り、大阪の第五区土木監督署勤務。1898年、新潟の第三区に転じ、信濃川改修の調査と府県の土木の監督係に従事する。1909年、内務省東京土木出張所に転じ、利根川第三期改修の計画にあたる。1911年、欧米各国へ視察出張。1914年に江戸川、1919年に中川の各改修事務所主任などをつとめる。 1919年、当時の技監である神野忠雄の勧めで内務省を休職、日本水力に入り、建設課長として真名川水力工事にあたったが、翌年、経済不況により会社が解散となる。
牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日… 牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日本の道路技術者。都市計画家。 1873年、大分県に生まれる。1898年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後台湾の台北県、台南県の技師として赴任。総督府民政長官後藤新平の下で土木課長として淡水渓の改皐、道路建設、都市改良、河川改修など工事を1901年までの3年間担当したが、廃県とともに退官する。 1902年、埼玉県技師となり土木課長就任。その後秋田県に異動。この時期耕地整理に関して用水路の設計に新しい方法を求めるため、東北大学農学部に通って研究、これを解決して県在職中に学位論文を起草。 道路技術者などとして著名だが、この時期までは水理、河川関係の仕事に従事し、埼玉県沈床や秋田県の法枠の改良などに力を尽くしている。
湯浅 廉孫(ゆあさ おさひこ、1873年 - 1942年)は… 湯浅 廉孫(ゆあさ おさひこ、1873年 - 1942年)は、日本の漢学者。本名:孫三郎、空斎と号す。夏目漱石の門下生としても知られる。 1873年(明治6年)、岡山県上道郡冨山村海吉(現・岡山市中区海吉)に生まれる。第一高等中学校予科三級に入学するも、在学中、四国の松山で遊んだ時、友人から「五高が面白い」と言われ、1895年(明治28年)に熊本の第五高等学校へ転学。翌年、五高に赴任してきた夏目漱石と出会う。湯浅は生活に困っていたため、漱石の勧めで1899年(明治32年)より漱石宅に書生として住み込んだ。漱石宅に寄宿した書生としては他に俣野義郎(実業家、『吾輩は猫である』の多々良三平のモデルとされる)・土屋忠治(裁判官)がおり、前の年に卒業している。
筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年… 筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年11月28日〉 - 1961年〈昭和36年〉2月27日)は、日本の法学者、神道思想家。東京帝国大学法学部教授、國學院大學教授。従三位勲二等法学博士。長野県諏訪出身。 諏訪大社のある筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、帝国大学法科大学入学。1897年(明治30年)、帝国大学法科大学法律学科首席卒業、法科大学卒業生総代。同期生には美濃部達吉(政治学科)など。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケ、アドルフ・フォン・ハルナック、ヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年… 武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年11月15日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月5日)は、日本の建築家・建築学者。京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる。アメリカの著名建築家フランク・ロイド・ライトを日本に紹介した人物でもある。 小田県福山(現・広島県福山市)出身。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家。ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われる。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎・瀧本義一など多くの後進を育成した。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年… 塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年11月5日〉- 1945年〈昭和20年〉7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。 兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。 初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。
横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5… 横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5年11月5日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の評論家。 山口県出身。本名は達三。東京帝国大学卒。明治41年(1908年)から黒頭巾の名で『読売新聞』に「新人国記」を連載した。維新史などの評論を書き、のち駒澤大学教授。子は俳人・医師の横山白虹。孫は俳人の寺井谷子。 長州藩に伝わる専當流を学んでいた。
大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(… 大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(明治5年10月4日) - 1928年(昭和3年)3月26日)は、明治から大正時代の実業家、銀行家。 大谷秋蔵の長男として飾磨県佐用郡平福村(兵庫県佐用郡平福町を経て現佐用町平福)に生まれ、1901年(明治34年)3月に家督を相続する。1899年(明治32年)東京帝国大学法科を卒業し、大阪商船に入社し、釜山支店長を経て運輸助役となる。1902年(明治35年)兵庫県農工銀行支配人となり、1910年(明治43年)専務取締役に就任。1917年(大正6年)には同行頭取となった。ほか、神戸信託、神栄、播美鉄道各監査役のほか、神戸瓦斯、ベルベット石鹸などの役員も務めた。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日… 石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日(明治5年9月25日)- 1944年(昭和19年)6月12日)は、日本の衛生学者、細菌学者である。 1872年10月27日(明治5年旧暦9月25日)、島根県意宇郡二子村(現在の松江市八束町二子)で石原庄太郎の次男として生まれた。父庄太郎は士族で、警察官を務めていたが裕福ではなかった。 1887年(明治20年)、旧制松江中学校に入学。同期に大谷繞石(正信)がいた。ラフカディオ・ハーンに英語を学び、生徒の中でも大谷とともに特にハーンとの親交が深かった。『知られぬ日本の面影』でハーンは石原を称賛し、また石原との問答を収録している。1892年(明治25年)7月に松江中学校を卒業。
田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年… 田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年10月27日)/ 明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和7年(1932年)9月22日)は、日本の物理学者、ローマ字論者。岩手県盛岡市出身。化学者の田丸節郎は弟。 盛岡大清水小路にて旧盛岡藩士・田丸十郎とセンの次男として生まれた。1879年(明治12年)には伯父である中原雅郎一家とともに暮らし、宮城県師範学校附属小学校、東京師範学校附属小学校へ通った。 1895年(明治28年)、(東京)帝国大学理科大学物理学科卒業。第五高等学校教授、京都帝国大学助教授、1901〜1905年ドイツのハイデルベルク大学留学を経て、1900年(明治33年)に東京帝国大学理科大学助教授。
保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年… 保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年10月22日) - 昭和30年(1955年)7月2日)は、日本の国語学者、文部官僚。 1872年、置賜県米沢(現・山形県米沢市)に米沢藩士の保科忠次郎の子として生まれた。第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に帝国大学国文科を卒業。卒業後は、上田萬年の創設した国語研究室の助手となった。 1898年(明治31年)に文部省図書課嘱託となり、国語国字問題の研究調査に当たる。以来1947年(昭和22年)まで50年にわたって国語政策に関わった。1901年(明治34年)に国語調査委員会設置にあたり補助委員。1902年(明治35年)に東京帝国大学助教授。
木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5… 木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5年9月15日) - 1940年(昭和15年)10月1日)は、日本の検察官、宮内・台湾総督府官僚。高雄州知事、官選函館市長。 福島県出身。木村宗順の長男として生まれる。1899年7月10日、東京帝国大学法科大学を卒業。同年7月29日、司法官試補となり検事代理として神戸区裁判所詰を命ぜられた。 以後、神戸地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、徳島地方裁判所検事を歴任。1914年7月、宮内省に転じ同事務官に就任。以後、調度寮勤務、大礼準備委員、大礼使事務官、調度部勤務、大礼記録編纂委員会委員、久邇宮附、帝室林野管理局事務官などを務めた。 1923年6月、台湾総督府に転じ参事官に就任し、同年8月13日、同府税関長に任じられた。
山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。
塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5… 塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5年9月14日) - 1946年(昭和21年)10月24日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育心理学者。文学博士。 兵庫県出身。1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1901年(明治34年)からドイツ・アメリカ合衆国に留学し心理学を研究した。帰国後、広島高等師範学校教授、文部省督学官、静岡高等学校長、東京高等学校校長を歴任した。1934年(昭和9年)より広島文理科大学学長・広島高等師範学校校長を務めた。
藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明… 藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明治5年9月10日) - 1931年(昭和6年)1月15日)は、日本の倫理学者。 1872年、山形県東田川郡狩川村出身。旧姓は石川。号は館山。東京帝国大学を卒業。卒業後は早稲田大学教授を経て、1913年より京都帝国大学教授となった。丁酉倫理会会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年… 池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月9日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。位階勲等は正三位勲二等。 元岡山藩主・池田慶政の四男として生まれる。その後、旧備中生坂藩主・池田政礼の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)10月25日に子爵を襲爵した。 1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、その後、東京帝国大学法科大学を修了。1903年(明治35年)友隣生命保険に入社し、その後、十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)などで勤めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年… 佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年9月30日) - 昭和29年(1954年)4月16日)は、日本の医師。陸軍軍医総監(中将相当官)。宮中顧問官。医学博士。 愛知県出身。1896年(明治29年)、帝国大学医科大学を卒業。翌年、陸軍三等軍医となり、1922年(大正11年)に軍医総監に至った。1902年(明治35年)9月、陸軍一等軍医で陸軍軍医学校教官の時、福島安正陸軍少将が英領インドのアンバラ(Ambala)で病気にかかっていたので、英領インドまで差し遣わされた。その後、京城衛戍病院院長、朝鮮駐箚軍軍医部長などを歴任した。1907年(明治40年)からドイツに留学し、1911年(明治44年)に医学博士号を受けた。
田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日… 田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日(明治5年8月20日) - 1938年(昭和13年)2月11日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 石川県出身。田中信吾の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し茨城県属となる。 以後、茨城県警視・保安課長兼衛生課長、同庶務課長、青森県事務官・教育社寺兵事課長、長野県事務官・警察部長、広島県警察部長、神奈川県警察部長、千葉県内務部長、大阪府警察部長などを歴任。 1921年5月、大分県知事に就任。
遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5… 遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟。 宮城県栗原郡、後の白幡村(現栗原市)で、遠藤佐源治の三男として生まれる。第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し同大学院に進む。 1900年8月、海軍省に入省し主理試補・東京軍法会議附に就任。同年11月、文官高等試験に合格。以後、海軍省参事官、兼同司法局、兼海軍大学校教官、大本営附、佐世保捕獲審検所評定官、兼海軍経理学校教官などを歴任。この間、明治大学講師を務め、1908年1月15日に法学博士号を取得した。
宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明… 宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明治5年8月12日(1872年9月14日) - 昭和19年(1944年)12月11日)は、日本の寄生虫学者。 山形県米沢出身。父は宮島家久。1893年、宮島酉蔵の養子となった。第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て、1898年東京帝国大学理科大学動物学科卒(理学士)。大学院に入学。日本産無脊椎動物、特に腔腸動物を専攻した。1900年、尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都帝国大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。
青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9… 青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月17日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)で、学生野球の指導者。 日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした。 栃木県(当時は宇都宮県)河内郡宇都宮市出身。父は元宇都宮藩藩士の青井雅造。栃木県中学校(その後の宇都宮中学校、現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1892年(明治25年)に旧制一高へ進学。一高ベースボール部で主戦投手として活躍した。「千本素振り」は鉞男の練習方法の真骨頂であった。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治… 黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治5年7月29日)- 1930年(昭和5年)10月27日)は、明治から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍省出仕・黒川通軌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)3月28日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)東京帝国大学農科大学林学科実科を卒業した。1902年(明治35年)営林技手に就任。その後、帝室林野管理局技師、同東京支局東京出張所長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した。
安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872… 安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。位階勲等は正五位勲三等旭日中綬章。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。 安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。 陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。 1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。 1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年… 原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年8月21日) - 1913年(大正2年)3月2日)は明治時代の歴史地理学者。帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。 明治5年(1872年)7月18日愛媛県越智郡波止浜町(現今治市)の塩問屋来島屋原武一郎の七男五女の長男として生まれた。 愛媛県第一中学校、第三高等中学校予科を経て、1892年(明治25年)9月本科二部(工科・理科・農科)に進んだが、1893年(明治26年)本科一部(法科・文科)に転部し、1893年(明治27年)6月本科廃止により第一高等学校本科一部に移り、1895年(明治28年)7月卒業した。
松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872… 松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872年8月15日) - 昭和10年(1935年)3月9日)は、日本の検事、台湾総督府官僚。 石川県出身。旧名は豊松。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。函館区裁判所判事、函館地方裁判所判事、福岡地方裁判所判事を経て、台湾総督府判官となった。さらに台南地方法院検察官長、台北地方法院検察官長を歴任し、台南州知事に就任した。 1924年(大正13年)に退官した後は、公証人となった。
後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4… 後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4日(明治5年7月1日) - 1940年(昭和15年)2月26日)は、日本の検察官、台湾総督府・内務官僚。官選県知事、公証人。 佐賀県出身。後藤保明の長男として生まれた。1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり、千葉地方裁判所検事局に配属された。 以後、千葉区裁判所検事局、長野区裁判所検事局で勤務。1909年9月、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事に就任。1910年2月、台湾総督府に転じ警視となる。以後、民政部蕃務本署勤務、理蕃課長、保安課長、司獄官練習所教官などを歴任。1917年5月、島根県警察部長に転じた。
石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治… 石川 成章(いしかわ せいしょう、1872年7月26日(明治5年6月21日)- 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の地質学者。晩年は真宗大谷派参事を務めた。 愛知県碧海郡下中嶋村(現:岡崎市中島町字本町)の浄光寺で石川嶺観の四男として生まれる。浄土真宗三河教校に学ぶ。1896年(明治29年)7月に東京帝国大学理科大学地質学科に入学。1899年(明治32年)7月、同大学を卒業。 同年9月、東京真宗中学校講師に就任。それからのち東京高等師範学校、陸軍中央幼年学校、早稲田大学などで教鞭を執った。 1907年(明治40年)6月、鉱務技師として福岡県鉱山監督局に赴く。1917年(大正6年)12月、京都帝国大学工学部ならびに理学部の講師を嘱託される。
中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(18… 中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(1872年7月21日) - 昭和20年(1945年)1月11日)は、日本の電気工学者。 宮城県仙台市出身。第二高等学校を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、大学院に進んだ。1899年(明治32年)、東京工業学校教授となり、翌年から欧米諸国に留学した。1902年(明治35年)に帰国後は、東京高等工業学校教授に特許局審査官、東京高等工業学校附設工業教員養成所主事、特許局技師などを兼ねた。1919年(大正8年)、工学博士の学位を得た。1926年(大正15年)、東京高等工業学校校長に就任し、翌年には財団法人協調会東京工業専修学校校長も兼ねた。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月2… 杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月26日) - 1960年7月2日)は、日本の教育者。第一高等学校、国文教授 - 校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。
飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、187… 飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、1872年6月21日(明治5年5月16日) - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山口県玖珂郡、現在の岩国市で旧岩国藩士・飯田文輔の長男として生まれた。1896年、東京帝国大学独法科卒。卒業後は郵便事業研究のためドイツに留学する。通信事務官、逓信書記官、一等郵便局長を歴任する。日本製樽、讃岐電気軌道、加富登麦酒、高野登山鉄道、電気信託、宮島瓦斯、小野田セメント各(株)取締役を務め、大阪商業会議所議員、大阪株式取引所理事となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。
嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年… 嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年5月13日) - 1940年(昭和15年)5月7日)は、明治から昭和時代前期の司法官。大審院判事。 嘉山昆篤の長男としてのちの静岡県に生まれ、1904年(明治37年)5月、家督を相続する。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学を卒業し、1897年(明治30年)5月、高崎区裁判所判事に任じる。ついで高崎地方裁判所、東京区裁判所、同地方裁判所各判事、同裁判所部長、同控訴院判事を経て、1912年(明治45年)2月、大審院判事に進んだ。1913年(大正2年)2月、会計検査官懲戒裁判所予備裁判官を兼任した。のち大審院部長や万国海法会委員を務めた。
矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6… 矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6月18日〉 - 1970年〈昭和45年〉1月2日)は、日本の東洋史研究者。京都帝国大学名誉教授。 1872年、現在の山形県米沢市生まれ。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科史学科で学ぶ。1899年に同大学を卒業。 卒業後は東京帝国大学文科助教授となり、1905年に清朝の招聘により北京の法政学堂(進士館教習)に勤務。1912年、京都帝国大学助教授、1920年より教授。1932年に定年退官し、名誉教授となる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872… 山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872年6月16日) - 昭和25年(1950年)5月29日)は日本の医師(産婦人科医)。私立熊本医学校教授、愛知県立医学専門学校校長、熊本医科大学学長(1925-1932)。60歳の定年後は好きな旅行、歴史に没頭。『横井小楠』『肥後医育史』を著す。1932年と1933年に沖縄を旅行した写真が発見され、写真集ができた。貝や沖縄の古瓦も蒐集した。 字は子勉、号は黙堂。 1872年5月11日 現在の高知県高岡郡佐川町に生まれる。1890年 第三高等学校に入学。1892年 第一高等学校に転学。1900年 東京帝国大学卒業。1901年 私立熊本医学校教授。
加納 友之介(かのう とものすけ、1872年6月13日(明治… 加納 友之介(かのう とものすけ、1872年6月13日(明治5年5月8日) - 1936年(昭和11年)8月14日)は、明治期の官僚、住友銀行理事。 茨城県生まれ。生家の立川家は里正を務める家柄であった。第百四国立銀行の取締役を務めた立川直行の五男として生まれる。兄に衆議院議員を務めた立川興がいる。妹のヒロは陸軍中将の浄法寺五郎の妻。 1893年叔父で、常陸太田の太田銀行取締役を務めた加納甚三郎の養子となった。12歳で慶應義塾幼稚舎に入るも、病気退学。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。1897年(明治30年)農商務省に入り参事官として商工局に勤務。1902年(明治35年)に政府委員として欧州各国を巡視。
金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1… 金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1872年6月12日) - 昭和42年(1967年)6月2日)は、日本の言語学者、国語学者。本来の名前は金澤 庄三郎である。雅号は濯足(たくそく)で、その出典は屈原の詩集『楚辞』の中の「漁夫」である。 大阪生まれ、東京帝国大学卒。アジアの各言語の比較研究を行った。北海道(アイヌ語)、大韓帝国(朝鮮語)、琉球、シベリア(ロシア語)、満洲(満洲語、蒙古語)などでフィールドワークを行い、さらに中国語も修めた。また、國學院大學教授を務め、東京帝国大学、東京外国語学校、駒澤大学にも出講した。 日本語と朝鮮語を対象とした、「日韓両国語同系論」(1910年(明治43年))や「日鮮同祖論」(1929年(昭和4年))は、朝鮮半島併合を理論的に正当化するため、併合推進者が頻繁に引用した。
佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6… 佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)は、日本国文学者・俳人である。本名は佐々政一(さっさ まさかず/せいいち)。 京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。 明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬… 市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬申4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。大蔵次官、大蔵大臣(加藤友三郎内閣)、日本銀行総裁、東京市長、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。 旧薩摩藩士の三男として、鹿児島県鹿児島市春日小路町に生まれる。地元の中学造士館を卒えて、1888年(明治21年)鹿児島高等中学造士館予科に進むが、家計の都合で中退。1889年(明治22年)に上京し、田尻稲次郎の書生となって苦学する。1890年(明治23年)10月に第一高等中学校予科へ編入学し、翌年本科へ進む。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年… 青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。 東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿。 小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた。
佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治… 佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治5年3月19日) - 1942年8月13日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 山形県山形市五日町出身。1889年、第二高等学校医学部、1893年、東京帝国大学卒。陸軍に入り、三等軍医から一等軍医に進み、日清戦争、日露戦争に参加。山形市会員、山形県会議員、同参事会員、山形市医師会長、山形県産婆試験委員、帝国在郷軍人会山形市連合分会長、専売局顧問医、鉄道嘱託医となる。 1898年、山形市八日町に佐々木病院を開業、院長となる。山形市内のはり師・きゅう師・あんま師らによって1913年に設立された私立山形盲学校の初代校長を勤め、1921年まで任に当たった(のち県立に移管され、山形県立山形盲学校となる)。
香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4… 香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和15年(1940年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、医師。 富山県中新川郡西加積村(現在の滑川市)出身。1894年(明治27年)に第四高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学選科で学んだ。新潟県の小出病院で副院長を務めた後、帰郷して開業した。中新川郡医師会長、同衛生会副会長、富山県医師会長を歴任。さらに西加積村会議員、富山県会議員、同参事会員、同副議長に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立山鉄道専務取締役、立山製紙株式会社取締役、加積水力電気株式会社取締役、大岩電気株式会社監査役、滑川銀行監査役などを務めた。
斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(187… 斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(1872年4月15日) – 1934年(昭和9年)10月3日)は、日本の船舶工学者、東京帝国大学教授。貴族院男爵議員。 男爵斯波蕃の長男として生まれ、1907年(明治40年)3月18日に男爵を襲爵した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進み、1896年(明治29年)に同大学助教授となった。1899年(明治32年)からイギリス・フランス・ドイツに留学し、1901年(明治34年)に帰国。直ちに教授に任命され、後に3度にわたって評議員を務めた。1902年(明治35年)には工学博士号を取得。1906年(明治39年)から海軍大学校教授も兼ね、機関将校の育成に当たった。
俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月… 俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月28日) - 1958年(昭和33年)7月30日)は、日本の冶金学者。工学博士。東京帝国大学名誉教授。島根県平民。 島根県浜田市出身。上京後、共立学校などを経て、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業。同大助教授、教授を経て、昭和7年(1932年)定年退官後は名誉教授となる。電気製鋼法にも通じた鉄鋼冶金学の権威で、金属顕微鏡を用いた金属組織研究で成果を残した。研究の一環としてたたら製鉄の科学的分析を行い『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼(たたら製鉄により生成される特殊鋼)と日本刀研究の第一人者であった。1940年(昭和10年)には、「治金学上ヨリ見タル日本刀ノ特色」と題して昭和天皇に進講を行った。
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年… 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年1月29日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。 後の宮崎県東諸県郡高岡村(現宮崎市)で、士族堀口貞由の長男として生まれる。1897年(明治30年)7月、第五高等学校を卒業。1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁属兼同警部となる。1901年(明治34年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・板橋警察署長、四谷警察署長、岡山県事務官、富山県事務官・第四部長、埼玉県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、福岡県港務長、栃木県事務官・内務部長、福岡県内務部長などを経て、1914年(大正3年)4月、熊本県内務部長に就任。