内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1… 内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業した。国史科の同期に、喜田貞吉・黒板勝美・笹川種郎・原勝郎・幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した。
蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 -… 蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 - 1904年(明治37年)6月19日)は、日本の哲学者。 1972年、富山県富山市鹿島町に蟹江晟の子として生まれる。祖父の蟹江基徳は富山藩の重臣で、家老を務めた。1890年(明治23年)、第四高等中学校に入学し、翌年第一高等中学校に移った。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学したが、1年間の休学を経て哲学科に転じ、1897年(明治30年)に卒業した。その後体調を崩し、京都で静養の傍ら、真宗大学(現在の大谷大学)で講師を務めた。1年ばかりの後、東京帝国大学大学院に入り、カント及び以後のドイツ哲学を専攻し、さらに倫理学・東洋倫理学を専攻した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2… 坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和3年(1928年)1月28日)は、西洋史学者。 1872年、兵庫県有馬郡日西原村(現・神戸市)生まれ。1894年、帝国大学を卒業した。 1907年、京都帝国大学文学部助教授に就任。原勝郎とともに西洋史学講座を創設し、後進の育成にあたった。ドイツ、フランスに留学ののち、1912年に教授昇進。1924年からは文学部長をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年… 平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年1月14日) - 1935年(昭和10年)4月26日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。兵庫県神戸市生まれ。 1898年東京帝国大学理科大学地質学科卒業。工学博士。農商務省技師を経て1918年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科教授に就任。農商務省技師の時代から、日本全国の鉱床、特に黒鉱鉱床の調査を綿密に行い、多くの知見を明らかにしている。平林は当時黒物と呼ばれていた鉱石の鉱床学的特徴を明らかにし,学術用語としての「黒鉱」を定義し、今日一般に使われ、定着している「黒鉱鉱床」なるものの成因解明に端緒を開いた。 平林武の遺族から東京大学総合研究博物館に寄贈された資料は、フィールドノート50余冊、調査した鉱山やダムなどの調査資料・地質図など約1万点、その他講義資料、執筆原稿・別刷り・古写真などからなり、いずれも明治末から昭和初期にかけて、平林が日本の数多くの鉱山やダム工事現場を調査して収集した極めて貴重な資料群である。
諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年… 諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年1月9日) - 1940年(昭和15年)5月6日)は、児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の明治期から大正期の外交官、郷土史家。従三位勲二等。兄の諸井恒平は秩父セメント会社の創設者。 中山道で最大の宿場町である本庄宿(1889年(明治22年)に児玉郡本庄町となる)に生まれた。ちょうど本庄宿では飛脚制度から近代郵便制度が始まり、六郎の父である諸井泉衛(東諸井家10代目当主、元は南諸井家の生まれ)が郵便取扱人に任命される。ここから東諸井家は「郵便諸井」と称されるようになる。泉衛の妻である佐久は渋沢栄一のおばに当たるので、栄一と泉衛の息子たちは従兄弟に当たる。
鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2… 鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2月9日) - 昭和6年(1931年)9月16日)は、日本の工学者。東京帝国大学工学部教授。電気学会第8代会長。専門は電気工学で、電気回路に関するテブナンの定理をレオン・シャルル・テブナンとは関係なく独自に発見した。このためこの定理は別称「鳳-テブナンの定理」と呼ばれている。 堺県堺区(現在の大阪府堺市堺区)生まれ。与謝野晶子(旧姓名:鳳志よう)の実兄である。また三男の鳳誠三郎、孫の鳳紘一郎も東京大学教授を務めた。墓所は染井霊園。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年1… 数藤 五城(すどう ごじょう、1872年2月2日(明治4年12月24日) - 1915年(大正4年)8月21日)は、日本の俳人、教育者。第一高等学校教授、正岡子規の門人。本名は斧三郎、短歌での筆名は小野三郎。 1872年2月2日(明治4年12月24日)、島根県に生まれる。10歳の頃、数藤家の養子となり、島根県尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)、東京大学理科大学講習科を卒業する。第一高等学校の数学教授として勤務し、俳句を正岡子規に学び、短歌を斎藤茂吉に師事する。子規から『著き進歩を現したる者』として『東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり』とし、『五城亦昨年始めて之を見る。錬磨不撓、一日一日より進む。
伴 宜(ばん よろし、1872年2月2日〈明治4年12月24… 伴 宜(ばん よろし、1872年2月2日〈明治4年12月24日〉- 1935年〈昭和10年〉12月14日)は、日本の陸軍技師、福井県士族。日本国及び日本領青島・済南・福州の水道事業に捧げ、東京湾の第二海堡・第三海堡の設計・施工、日本鋼管株式会社の水道顧問を務めた。 福井藩儒・伴閑山の三男として生まれる。1895年7月、第一高等学校第二部工科を卒業し東京帝国大学工科大学土木工学科に進学する。学生時代所属していた漕艇部では艇尾で戦略統率役の整調を務めており、三年間連勝に導くなどこの頃からリーダーとしての頭角を現していた。1898年7月に東京帝国大学を卒業後、陸軍省に入省し、陸軍築城部佐世保支部へ配属され、佐世保要塞の砲台整備建造に従事した。
豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872… 豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872年1月27日) - 昭和5年(1930年)10月14日)は、日本の司法官僚。判事。検事。法学博士。 東京府出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、東京地方裁判所検事・東京控訴院検事、司法省参事官、同法務局長、同刑事局長、東京控訴院検事長を歴任した。1923年(大正12年)、判事に転じ大審院部長となった。在職のまま死去した。
亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治… 亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治4年12月17日〉 - 1915年3月4日)は、日本の内務官僚。官選徳島県知事。地方行政官である。族籍は岡山県平民。 岡山県御野郡今村に生まれる。岡山平民・亀山吉郎の三男。1898年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、法学士の称号を受く。同年12月、文官高等試験に合格。土木監督署書記となり、内務省に出仕し更に土木局に勤務する。山形県警部長を経て、1903年6月、長崎県警部長に就任。 1905年2月、統監府警視となり、次に釜山理事庁理事官を務める。1910年9月、台湾総督府に転じ民政部内務局長に就任。1911年10月、警視総長に転じ民政部地方部長を兼務した。
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1… 上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。 三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する。
会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年… 会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年1月1日) - 昭和32年(1957年)12月16日)は、日本の生物学者、遺伝学者。 1903年 - 1941年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授。1932年、帝国学士院賞受賞。 京都市出身。1872年、有栖川宮家に剣客として仕えた勤王派の父(福島県、矢吹出身)と外科医の娘である母(京都市出身)のあいだに長男として生まれる。銅駝校(小学校)、京都府尋常中学校、第三高等学校を経て、帝国大学理科大学動物学教室に入学、飯島魁に師事。同教室を1896年卒業後、1898年、第五高等学校(熊本)教授。この時同僚に夏目漱石がいた。1903年実家のある京都に戻り、京都高等工芸学校教授。
島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長… 島 重治(しま しげはる、1872年 - 1959年)は、長崎県出身の日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。内務省土木局第一技術課長、大阪市土木部長・理事、土木学会関西支部長・名誉員。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。 1897年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。大阪市に入り、のちの大阪府知事で農務次官の西村捨三大阪築港事務所長の下に大阪築港に従事する。 1905年に退職。韓国政府に招請され、韓国灯台局長などを務める。 1911年、内務省に入り、新潟土木出張所で信濃川の大河津分水工事、千曲川改修工事に従事した。 1922年、大阪市土木課長に転じた後、関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者となる。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2… 廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2日〈明治4年10月20日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月25日)は、日本の教育者。工学博士。私立電機学校(現・東京電機大学)、神戸高等工業学校(現・神戸大学大学院工学研究科・工学部)設立者。出版事業者、オーム社設立者。廣田理太郎の弟。広島県福山市字桜町出身。 廣田家は代々、備後福山藩の勘定係を務めた家系。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学を卒業。高田商会に入社し同社在籍のままドイツシーメンス・ハルスケに入社。帰国後の1907年(明治40年)、まだ工業後進国だった日本の工業の発展を願い 「後世、科学技術の総本山たらん」と電気技術者育成に扇本眞吉と東京神田に夜間学校・私立電機学校(現・東京電機大学)を設立した。
山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明… 山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明治4年10月10日) - 1942年(昭和17年)7月12日)は、日本の倫理学者、教育者。号は「晁水」。 1871年、石川県金沢市鶴間谷で生まれた。石川県専門学校および後身の第四高等中学校に学ぶも中退。中学校では鈴木大拙・西田幾多郎・藤岡作太郎と同窓であった。帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、1895年に修了。 同1895年に京都府立尋常中学校教諭に就いた。1897年に静岡県尋常中学校教諭となり、修身ならびに英語を担当 1900年に京都府立第二中学校教頭となった。1908年に京都帝国大学学生監。1909年に第三高等学校教授を兼任し、倫理学を講じた。
吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 19… 吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 1940年2月3日)は、千葉県出身の日本の実業家。 東武鉄道の支配人を経て取締役となり、東武鉄道に関連する様々な企業の社長を歴任し最後は東武鉄道の第2代社長となったが、就任15日で死去した。 明治4年10月10日(グレゴリオ暦1871年11月22日)、千葉県長生郡土睦村(現在の睦沢町)の粒良市郎右衛門の次男として生まれた。1887年(明治20年)、千葉中学校を卒業した後、第一高等中学校に進学。同年、夷隅郡東村(大原町を経て、現在のいすみ市)の名士であった吉野忠吾の養嗣子となった。1893年(明治26年)7月の第一高等中学校卒業者一覧には「粒良伝治(吉野伝治)」の記載がある。
太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4… 太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4年10月4日〉- 1951年〈昭和26年〉1月24日)は、日本の内務官僚、政治家。正三位。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。 山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。 1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。
不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年1… 不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年11月)- 1955年7月4日)は、日本の実業家。 福岡藩士不破國雄の二男として福岡県に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1895年三井工業部に入社し、芝浦製作所に勤務した後、第五高等学校工科教授を数年務め、三井鉱山技師に転じる。1911年欧米各国の鉱山界を視察し、帰国後山野炭鉱所長、田川炭鉱所長を経て、取締役となる。三井窒素工業社長・会長、東洋高圧工業(現・三井化学)取締役も兼任している。 退任後は三井合名会社重役待遇となる。墓所は多磨霊園
岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明… 岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明治4年9月20日〉 - 1953年〈昭和28年〉5月16日)は、日本の農商務官僚。位階は従三位、勲等は勲二等瑞宝章。 農商務次官(第25代)、産業組合中央金庫理事長(初代)、特許局長官(第20代)、国際労働総会日本政府代表。錦鶏間祗候。 大阪府三島郡山田村(現在の吹田市)出身。 岡本家は雄略天皇の御宇、伊射奈岐神社(吹田市山田東)の初代神主・岡本豊足彦を始祖とする1000年以上連綿と続く素封家である。 1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年12月文官高等試験に合格した。農商務省に入り、林務官、山林局事務官・書記官、鉱山監督局事務官・書記官、官営八幡製鉄所理事、山林局長、商工局長・戦時保険局長、商務局長、農務局長、農商務次官、兼特許局長官を歴任し、1923年(大正12年)12月8日、農商務次官を依願免本官となり退官した。
鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年… 鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年9月11日) - 1961年(昭和36年)8月29日)は、日本の化学者・教育者。愛媛県出身。号は煙洲。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)の初代校長として「三無主義教育」を実践したことで知られる。 現在の愛媛県四国中央市下柏町に5人きょうだい(4男1女)の長男(上に姉あり)として生まれる。鈴木家は農家であったが、家族の他に下人が3人いる自作地主であった。 今の四国中央市立松柏小学校と漢学塾に通い、小学校卒業後は母校で教員の手伝いを務めていたところ、校長に同志社で英語を学ぶよう勧められる。1885年8月に京都に移り、8月の入学試験を受けたが不合格となる。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(… 添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 小浜県遠敷郡西津村(後の雲浜村西津、現・福井県小浜市)に、旧小浜藩士、福井県大飯郡長[要出典]、滋賀県神崎郡長[要出典]を務めた添田良平の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ[要出典]。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動。
境 長三郎(さかい ちょうざぶろう、明治4年(1871年)1… 境 長三郎(さかい ちょうざぶろう、明治4年(1871年)10月 - 没年不詳)は、日本の検事。 佐賀県出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。名古屋区裁判所判事、岡崎区裁判所判事、福岡地方裁判所判事を歴任。1908年(明治41年)、統監府判事に転じ、京城地方裁判所部長となり、1910年(明治43年)からは朝鮮総督府検事となり、京城地方法院検事、高等法院検事、京城地方法院検事正、大邱覆審法院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1932年(昭和7年)に高等法院検事長に就任した。
大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月… 杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月26日〉 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は、日本の逓信官僚、内閣印刷局長。錦鶏間祗候。 現在の山口県防府市に蔵田恂一の長男として生まれ、母方の杉家を継いだ。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官、青森郵便局長、高松郵便局長、広島郵便局長、京都郵便局長、名古屋逓信管理局長、航路標識管理局長、西部逓信局長・大阪地方海員審判所長、逓信省経理局長、内閣印刷局長を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、電信協会に入り、理事を経て、会計部長を務めた。
岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明… 岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明治4年8月9日) - 1921年(大正10年)12月15日)は、日本の法学者。専門は民法学。学位は、法学博士(1901年)。京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部)教授。儒学者の岡松甕谷の三男。弟子に末川博など。 宮崎県延岡市出身。東京府尋常中学(のちの東京府立第一中学校)、第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に帝国大学法科大学英法科卒業。ただちに助教授に就任し、明治29年(1896年) - 32年(1899年)の間、民法研究のため欧州留学し、民族法学者ヨーゼフ・コーラーらと交流する機会を得た。 明治32年(1899年)、京都帝国大学法科大学教授に就任。
安藤 広太郎(あんどう ひろたろう、旧字体: 安藤 廣太郎、… 安藤 広太郎(あんどう ひろたろう、旧字体: 安藤 廣太郎、1871年9月15日(明治4年8月1日) - 1958年(昭和33年)10月14日)は、明治から昭和期における農政家、農学者。農学博士。 加藤茂苞との共同研究で、世界で初めてイネの人為交配による新種の作成に成功したことで知られる。九州帝国大学、東京帝国大学農学部教授を併任、農商務省農事試験場長、内閣顧問。文化勲章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
新島 善直(にいじま よしなお、1871年9月7日(明治4年… 新島 善直(にいじま よしなお、1871年9月7日(明治4年7月23日) - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の林学者。北海道帝国大学教授。 幕府直参の新島善之の長男として東京府小石川に生まれた。中村正直の同人社に学び、1888年に駒場の農科大学予科に入学し、1889年赤坂日本基督教会でヒュー・ワデルから洗礼を受ける。帝国大学農科大学では林学を専攻し、1896年に卒業した後も助手として残る。 1899年札幌農学校に森林科が設置されると教授として招聘される。1905年からドイツのギーセン大学で造林学、森林学を学び学位を取得する。1908年エルネスチーネ・エーメル(日本名:栄子)と結婚し帰国する。
中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(18… 中原 徳太郎(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(1871年9月4日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、整形外科医。日本医科大学学長。憲政会幹事長を歴任。 京都出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学助手に任命されたが、楽山堂病院副院長に転じた。日露戦争中は陸軍篤志医員として活動した。1907年(明治40年)、ドイツに留学し、医学博士の学位を得た。1914年(大正3年)、楽山堂病院を辞職して、中原病院を開いた。 同年、日本医学専門学校教授に就任し、1918年(大正7年)に校長になった。1926年(大正15年)に日本医学専門学校が日本医科大学に昇格すると、引き続き学長を務めた。
牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月2… 牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月20日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者、実業家、教育者。 1871年(明治4年)、大阪府北桃谷町に大坂城詰めの幕臣である士族の牧田虎之丞の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている。1913年(大正2年)工学博士を取得。 1924年(大正13年)には田中鉱山より経営移譲された釜石鉱山株式会社の会長に就任。
川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7… 川村 竹治(かわむら たけじ、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉- 1955年〈昭和30年〉9月8日)は、大正から昭和にかけて活躍した官僚・政治家。南満洲鉄道(満鉄)社長、台湾総督、司法大臣等を歴任。 江刺県鹿角郡花輪村(現:秋田県鹿角市花輪)出身。日本中学などから一高を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業。同年、内務省に入省した後、逓信省書記官、内務省書記官、内務参事官、台湾総督府内務局長などを歴任し、1911年(明治44年)より和歌山県知事を務めた。1914年(大正3年)、香川県知事。1917年(大正6年)、青森県知事。1918年(大正7年)、内務省警保局長。
松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月… 松村 伝(まつむら つたえ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1942年(昭和17年)10月7日)は、日本の教育者。 高知県出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。高知県第一中学校教諭、愛媛県立宇和島中学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、三重県立第一中学校校長、台湾総督府台北中学校校長、台湾総督府立商業学校校長、台北高等学校校長、東亜高等予備学校学監を歴任し、1926年(大正15年)から水戸高等学校校長を務めた。
梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8… 梶原 仲治(かじわら なかじ、明治4年7月6日(1871年8月21日) - 昭和14年(1939年)1月6日)は日本の銀行家。東京府平民。外孫に作家で元暴力団員の安部譲二がいる。 山形県吹浦村生まれ、北海道出身。梶原兵吉の弟。 1897年に東京帝国大学法科大学卒業。日本銀行入行。 1918年3月日本銀行辞職。同年横浜正金銀行取締役就任、副頭取就任。1919年、横浜正金銀行頭取就任。1922年10月、日本勧業銀行総裁。以後東京株式取引所理事長、日本産業協会理事、日本陶磁器工業組合連合会理事長、工業組合中央会理事長を歴任。昭和14年1月6日没。墓所は東京都港区の青松寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月… 藤平 純三(ふじひら じゅんぞう、旧姓・丹羽、1871年8月17日〈明治4年7月3日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家。村井銀行常務取締役。族籍は東京府士族。 旧名古屋藩士・丹羽與三郎の四男であり、退役海軍少将・丹羽教忠の弟、大井田瑞足の兄である。1901年、先代いしの入夫となり家督を相続した。藤平家は其の祖遠く日蓮上人の末弟貫名藤平重友に出た。 1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。横浜正金銀行に入り、同行桑港支店支配人、羅府分店支配人となり、長崎支店支配人となる。1918年、村井吉兵衛の懇望により村井銀行に転じ取締役兼総支配人に挙げられ、のち常務取締役となり調査部長を兼任。
藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月1… 藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月15日〈明治4年6月29日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月21日)は、日本の実業家、工学博士。帝国海事協会理事長。専門は造船学。族籍は三重県平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 三重県三重郡菰野村(現・菰野町)生まれ。三重県士族・山内俊徳の二男。山内静吾の兄。藤島萬治郎の養子となり、家督を相続した。三重県立尋常中学校、第三高等中学校を経て1894年、帝国大学工科大学造船学科卒業。 日本郵船に入り、保船課長、参事、船舶調査主任を経て1918年、取締役に挙げられ、後工務部長を兼ね1923年、これを辞し、横浜船渠社長となり、次いで横浜新港倉庫社長、東京回漕会社取締役、横浜商工会議所常議員に挙げられ後退任し、1936年、帝国海事協会理事長に就任した。
三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7… 三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7月21日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月6日)は、日本の歴史学者・法制史の研究者。京都帝国大学名誉教授。 明治4年(1871年)、出雲国島根郡内中原町(現:島根県松江市)に於いて、松江藩で18石4人扶持を知行した下級武士の三浦正祐の長男として生まれた。父は維新後島根県の役人を務めた。幼名は禄之助。元服し、周行と称した。1890年に東京英和学校を修業し、東京帝国大学文科大学選科に入学。1893年に国史科を修業。同年父が没したため家督を継ぐ。 卒業後は、史料編纂助員となった。のち史料編纂官に昇進。東京帝国大学法科大学より法制類聚編纂を嘱託され、歴史学と法学双方の研究を行う過程で日本に「法制史」という新しい学問分野を打ち立てた。
中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明… 中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。 本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。 中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。
白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
畔柳 芥舟(くろやなぎ かいしゅう、1871年7月4日(明治… 畔柳 芥舟(くろやなぎ かいしゅう、1871年7月4日(明治4年5月17日) - 1923年(大正12年)2月12日)は、日本の英語学者。 山形県生まれ、本名・都太郎(くにたろう)。東京帝国大学英文科卒。1898年第一高等学校教授。戯号は牛涎子(ぎゅうせんし)。芥川龍之介、久米正雄らを教えた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
戸田 海市(とだ かいいち、1871年6月25日(明治4年5… 戸田 海市(とだ かいいち、1871年6月25日(明治4年5月8日) - 1924年(大正13年)3月5日)は、日本の経済学者。法学博士。京都帝国大学教授。臨時国民経済調査会委員。専門は経済学、工業経済。族籍は広島県平民。 広島県豊田郡豊田村生まれ。戸田嘉吉の三男。1892年、私立専修学校理財学科を卒業。青森県有余学館にて経済学、英語等を教授。1897年、東京帝国大学法科大学選科を卒業。第四高等学校教授を経て1901年、京都帝国大学講師。1906年、同教授。河上肇を同大学に招く一方、関一(東京高等商業学校教授)を大阪市助役に推す。商業経済学、工業経済学を担当し、社会政策も講義。社会政策学会の有力会員であった。
高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年… 高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年5月7日) - 1944年(昭和19年)10月10日)は、日本の法医学者。 1871年(明治4年)、伊那県信濃国筑摩郡長畝村(旧天領、現塩尻市)に出生。医学博士、法医学の先駆者として、裏指紋の研究・立証等で活躍。長崎医科大学の学長(4代目)や九州帝国大学総長(5代目)等を歴任。1944年(昭和19年)10月10日、福岡県福岡市にて死去、享年74。墓所は染井霊園。位階として正三位が、叙勲として勲二等旭日重光章授与。
久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4… 久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年… 鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1945年(昭和20年)11月30日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事。旧姓・石井、旧名・兼次郎。 三重県出身。石井四郎兵衛の二男として生まれ、鈴木九郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、佐賀県参事官、長崎県参事官、東京府参事官、岐阜県書記官、千葉県事務官・第一部長兼第三部長、滋賀県事務官、宮城県事務官、神奈川県港務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1916年5月、沖縄県知事に就任。織物業などの産業振興に尽力。
木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4… 木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4年4月14日) - 1959年(昭和34年)3月15日)は明治時代から昭和時代の人物。地質学者。木戸孝允の養子。実父は松本順造。母は木戸夫人・松子の妹・信。 京都生まれ。1876年(明治9年)、木戸孝允の養子となり、生咲忠太郎から木戸忠太郎となる。1886年(明治19年)4月、養母で伯母の松子が死去。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。 1903年(明治36年)8月23日、小野田元熈の娘・千子と結婚。1907年(明治40年)3月、製鉄所技師兼農商務技師のまま満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。
井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871… 井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) - 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。 救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。