木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 19… 木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 1973年12月7日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
東京大学:5,428人
木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 19… 木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 1973年12月7日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治4… 飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治42年> 2月21日 - 2000年 <平成12年> 7月17日)は、日本の地震学者・地球科学者。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1944年)。名古屋大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 1939年(昭和14年)6月に石本巳四雄と共同で、「ある観測点で記録された地震動の最大振幅と出現頻度との関係についての式」(石本・飯田の式)を発表した。 津波研究の世界的権威として知られる。今村明恒とともに設定した津波等級は現在でも広く使われている。また、過去に起こった地震の調査を多数行った。とくに濃尾地震の研究は有名。 そのほか、公害、都市計画、物理探査、温泉など、幅広い分野で活躍した。
沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 19… 沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 1995年2月1日)は、日本の心理学者。東京大学名誉教授。生徒指導や学生相談の研究と普及に尽力した。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1931年東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1933年から1939年、岩波書店嘱託として『教育学辞典』(全5巻)の編集にあたる。1938年から東京府大泉師範学校・東京第三師範学校に勤務。学制改革により、1949年東京学芸大学教授。 1950年東京大学教育学部助教授に転任し、1952年東京大学教育学部教授に昇任。東京大学学生相談所初代所長も務めた。
富士川 英郎(ふじかわ ひでお、1909年2月16日 - 2… 富士川 英郎(ふじかわ ひでお、1909年2月16日 - 2003年2月10日)は、日本のドイツ文学者・比較文学者、東京大学名誉教授。 1909年、東京で生まれた。父・富士川游は医師で医学史家。神奈川県立湘南中学校、旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1932年に卒業。戦前、戦中は雑誌『四季』、『批評』などに寄稿。 1936年、第六高等学校講師となり岡山に住んだ。1938年、長男富士川義之が誕生。1943年、佐賀高等学校教授を命じられた。 1946年、九州帝国大学講師に就いた。1949年に新制発足した東京大学教養学部助教授となり、1956年に教授昇格。大学ではドイツ文学、比較文学を講じ、1961年からは比較文学比較文化研究室主任教授を務めた。
関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001… 関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001年1月25日)は、日本の建築史学者、東京大学名誉教授。文化功労者。 東京生まれ。1929年、旧制浦和高等学校理科甲類卒業。1933年、東京帝国大学工学部建築学科卒。1945年、東京大学工学博士。1946年、母校(のち東京大学)教授。1965年、東京国立文化財研究所所長を歴任。1979年~1991年、博物館明治村館長。1990年、文化功労者。墓所は多磨霊園。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
前川 忠夫(まえかわ ただお、1909年〈明治42年〉2月1… 前川 忠夫(まえかわ ただお、1909年〈明治42年〉2月1日 - 1988年〈昭和63年〉6月25日)は日本の政治家、農学者。香川大学学長や香川県知事を務めた。位階は従三位。 1909年、香川県三豊郡上高瀬村(現・三豊市)で生まれる。旧制山形高校(現・山形大学)を経て、1935年に東京帝國大学(現・東京大学)農学部を卒業。専門は農業工学で、岩手大学教授などを務めている。1955年に香川大学農学部教授となり、農学部長を経て1964年に学長に就任。 1961年 東京大学農学博士。論文の題は「かんがい用貯水池の貯水能に関する研究」。 1974年に社会党、共産党、民社党、公明党などの推薦を得て香川県知事選挙に出馬。
川喜田 愛郎(かわきた よしお、1909年1月29日 - 1… 川喜田 愛郎(かわきた よしお、1909年1月29日 - 1996年12月6日)は、日本の細菌学者、医学史学者。専門はウイルス学、医学史。 東京府生まれ。1932年、東京帝国大学医学部卒業、同年4月東京帝国大学附属伝染病研究所に助教授として入所。主に日本脳炎などのウイルス学を研究した。1949年、千葉大学医学部教授。1952年、WHO技術専門職としてエジプトのカイロに1年半ほど駐在する。1968年、千葉大学学長として、学生運動の対処にあたる。1969年、千葉大学を退職。『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977年)により、日本学士院賞を受賞した。
高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月1… 高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の外国法学者、東京大学社会科学研究所名誉教授。 高知県出身。旧制高知県立城北中学校、旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業。北京大学教授、敗戦で法政大学教授、1947年東京大学社会科学研究所助教授、1952年教授、1969年定年退官、名誉教授。千葉大学教授、1974年定年。没後正四位叙勲。中国憲法が専門で、戦後は中華人民共和国、北朝鮮の支持者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 197… 伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 1976年6月9日)は、日本の薬学者(臓器薬品化学・生理化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1945年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京帝国大学医学部助教授、岐阜薬学専門学校教授、東京大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学薬学部学部長、東京大学附属図書館館長、東京大学総長代理、静岡薬科大学学長(第3代)などを歴任した。 兵庫県出身の薬学者である。唾液腺ホルモンに関する研究で知られるとともに、ヒト胎盤性ラクトゲンを世界で初めて発見したことで知られている。日本の生理化学が発展する基礎を作った一人とされており、生物系薬学を確立したことで知られている。
梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)… 梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)は、昭和前期の経済社会学者。ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳で知られる。旧姓・田中。 岡山県出身(福山市生れ、まもなく岡山市に移転)。第一高等学校を経て、1929年に東京帝国大学経済学部に入学。一高以来の恩師本位田祥男のもと、ドイツ宗教改革史、ドイツ農民戦争史の研究を進める。1933年4月、大学卒業。 1934年4月に丸の内の経済問題研究所研究員、この年、山崎朝子と結婚。1935年4月、松山高等商業学校講師となり経済史を講じるが、病気のため12月に辞任。 療養のため辻堂に移転。妻とキリスト教伝道誌「葡萄園」を刊行。
橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は… 橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は、日本のドイツ語学者、中央大学名誉教授。 1934年、東京帝国大学文学部独文科卒業。戦後、中央大学教授、1980年定年退任、名誉教授。娘婿に松原秀一。
宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月1… 宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月15日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 山形県生まれ。1930年山形県師範学校卒、山形県内の小学校教諭、35年山形高等学校入学、38年卒業、41年東京帝国大学文学部教育学科卒、42年同大学院中退、新潟県長岡女子師範学校教授、福島師範学校教授、文部省勤務、東京学芸大学助教授、55年お茶の水女子大学助教授、教授。1958年、細谷俊夫、大嶋三男、上滝孝治郎、宮坂哲文らと教育経営学会を設立。73年定年退官、名誉教授。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2… 吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2002年12月5日)は、日本の美術史学者。西洋美術史専攻。東京大学名誉教授。従兄は中国文学者の吉川幸次郎。 神奈川県横浜市生まれ。旧制神奈川県立横浜第一中学校、旧制浦和高等学校、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。矢代幸雄に師事。1933年から1939年までフランスに留学、アンリ・フォシヨンに師事。「サン・サヴァン教会堂のヨハネ黙示録画の研究」でパリ大学より博士号取得。ロマネスク建築・壁画研究を専門とした。 1947年東京芸術大学教授を経て1953年東京大学文学部助教授、1955年教授、1969年定年退官後、大和文華館館長。後に名古屋大学教授、東海大学教授。
木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970… 木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970年2月12日)は、日本の医学者・小児科医。 岡山県出身。東京帝国大学医学部卒。1937年パリ大学に学び、北京大学教授、41年「数種薬物に対する感受性の年齢的差異に関する実験的研究」で東大医学博士。熊本医科大学教授、49年日本医科大学教授。69年同付属病院長。 一般向けの著書でも知られ、「ながら神経症」と言ったことから「ながら族」という流行語が生まれたという。
平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 19… 平井 昌夫(ひらい まさお、1908年11月24日 - 1996年2月11日)は、日本の国語教育学者・日本語学者。 筆名に「頼阿佐夫」(平井昌夫 Hirai Masao から Hi と M をとって Rai Asao とした)。 東京府東京市(現・東京都大田区千束)生まれ。本籍地は愛知県名古屋市。 旧制第八高等学校文科甲類を経て、1933年3月に東京帝国大学文学部哲学科を卒業。1933年4月より1929年12月まで日本のローマ字社に勤務。1926年4月から1937年2月まで東京高等商工学校高等科教授。1927年6月から1928年12月まで東京帝国大学図書館嘱託。1929年から東亜研究所嘱託、春陽堂などの嘱託をつとめる。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月… 吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者、東京大学教授。専門は近代文学。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。 1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また、1983年(昭和58年)に近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立した。芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東京大学の教授だった時期は短く、名誉教授にはなっていない。
旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994… 旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、旧・東京都立大学名誉教授。 1908年、慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。 戦後は旧・東京都立大学助教授、教授を務め、1972年に定年退官、名誉教授となる。その後は専修大学教授として教鞭をとり、1979年に退職。 戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究を目指し、朝鮮史研究で中心的役割を果たした。 戦後、中国東北部の満洲と朝鮮半島をつながった地域ととらえる歴史観である満鮮史を批判したことで知られる。第2回日韓歴史共同研究委員会委員幹事を務めた古田博司によると、韓国の委員が戦前の日本の満鮮史研究者を批判した旗田巍を見習うべきだと発言したという。
阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 19… 蔡 章麟(さい しょうりん、1908年10月31日 - 1988年11月1日)は日本統治時代の台湾及び中華民国の法律家、法学者。 蔡章麟は旧制台北州立台北二中、旧制台北高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し同年に高等試験行政科に及第した。34年に高等試験司法科に及第すると、35年には判事に任官、青森地裁、神戸地裁、大阪地裁各判事を歴任し終戦時には大阪地裁所長だった。 台湾が日本領から中華民国領になると、蔡は日本の裁判所を退官し台湾に帰国、47年には台湾省行政長官公署法制委員会委員、台湾省政府法制室参事、台湾大学民事訴訟法教授に任命された。48年には台湾大学法学院学生部長に任命された。
馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-19… 馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-1984年9月18日)は、刑法学者。東京出身。東京帝国大学法学部独法科卒。刑事法学専攻。弁護士となり、その後東京高等検察庁検事。1964年駒澤大学法学部教授、79年定年退任。 江戸時代のわいせつ文書の研究もおこないわいせつ罪についても論文がある。墓所は多磨霊園。
尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 19… 尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 1993年9月11日)は、日本の社会学者。東京大学文学部名誉教授。子爵・渋沢栄一の孫にあたる。 1908年、実業家・尾高次郎の五男として東京市根岸に生まれた。1926年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、勝田守一、宗像誠也(共に「東大教育の3M」)らがいた。第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部社会学科に入学。次第にマックス・ウェーバーに関心を持つようになった。1932年に卒業論文『社会学における了解的方法』を提出して卒業。 卒業した同1932年に、母校・東京帝国大学文学部副手に採用された。
野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 199… 野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 1994年2月4日)は、日本の音楽学者、キリスト教学者。音楽美学のほか、キリスト教の典礼などを研究、音楽学会会長。カトリック教徒。 東京出身。東京帝国大学文学部美学科を卒業。上智大学教授、慶應義塾大学教授、東京藝術大学教授、1984-93年東邦音楽大学学長。
下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)… 下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)は、日本の哲学者、武蔵工業大学名誉教授。 1908年、女子教育者の先導者であった下田次郎の四男として東京に生まれる。1932年、東京帝国大学哲学科を卒業。 1939年より第一高等学校教授となるが、1944年に病気のため退職。戦後1950年より清泉女子大学教授、1956年より武蔵工業大学教授となり、1959年から1967年まで図書館長も務めた。1979年に退職し、名誉教授となった。 1981年勲三等瑞宝章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 19… 鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 1969年9月9日)は、日本の哲学者。 愛知県名古屋市出身。1930年東京帝国大学文学部哲学科卒。立教大学教授、武蔵高等学校教授、1951年金沢大学教授を経て、1965年九州大学文学部教授となる。昭和初期から実存主義哲学に着目し、ハイデッガー、ヤスパースらを紹介した。70年安保にむけての学園闘争のさなかの1969年9月9日、福岡市の博多東急ホテル浴室で、シャワー取り付け口にかけた布で首吊り自殺した。のち著作集全8巻が刊行された。
渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 197… 渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 1973年1月26日)は、日本史学者。 1929年に児玉幸多、岡田章雄、斎藤忠、豊田武らとともに東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1932年に卒業。卒業論文は「中世武家の檢斷制に就いて」。新潟県高田師範学校教諭、神奈川県師範学校教諭を経て、1940年、明治大学予科教授となり、1949年に新制大学発足にあたり、同大学文学部教授となる」。源平抗争史を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005… 高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005年5月28日)は、日本の電子工学者。東京大学名誉教授。東京工科大学名誉学長。工学博士(東京帝国大学、1942年)。理事(財団法人電子文化研究所、1964年)。東京大学宇宙航空研究所初代所長(1964年-1969年)。科学技術庁宇宙開発推進本部長(1965年-1967年)。東京神田生まれ。 東京大学の宇宙空間観測観測グループのリーダーとして、観測ロケットの打ち上げ、科学衛星の開発や打ち上げ等、宇宙電子工学の分野で貢献した。1994年文化功労者。
高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日… 高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1986年〈昭和61年〉5月12日)は、日本の経営学者。東京帝国大学教授・一橋大学教授・上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。 千葉県山武郡豊岡村(松尾町を経て現山武市)で、高宮昇の長男として生まれた。1933年東京帝国大学経済学部卒、1939年東京帝国大学助教授、1941年日本銀行調査局参与、1945年東京帝国大学教授、1946年運輸省調査局経済調査部長、1952年経営研究所所長、1954年一橋大学教授、1962年「経営組織に関する経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。1963年上智大学経済学部教授、1968年経済学部長、のち名誉教授。
戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月… 戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月30日 - 1975年(昭和50年)3月22日)は、日本の法学者。専門は民法。早稲田大学教授、旧東京都立大学教授などを歴任。弁護士。 1908年、長野県飯田市生まれ。本籍は愛媛県。父は旧制飯田中学教師として飯田に赴任した。1927年、第五高等学校卒、1930年、東京帝国大学卒。法学博士。 師は穂積重遠、末弘厳太郎。在学中セツルメント法律相談部に参加。 満鉄調査部の宮崎正義が率いる日満財政研究会に、当時、東京帝国大学経済学部助手だった古賀英正(後の作家南條範夫)らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明… 萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1999年 <平成11年> 11月14日)は、日本の地震学者。理学博士(1942年、東京帝国大学・論文博士)。東京大学名誉教授。従三位。 イタリアやイラン大地震、福井地震や松代群発地震を調査し、萩原式電磁型地震計 (HES) を考案した[リンク切れ]。 東京府出身。開成中学、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地震学科を卒業。1933年東京帝国大学地震研究所に所属し、助手から助教授・地震研究所員(1941年)を経て教授に就任(1944年)。戦後、1965年から1967年まで東京大学地震研究所所長を務め、1969年定年退官、名誉教授。
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 197… 宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 1970年6月22日)は日本の教育学者、東京大学名誉教授。同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。
斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 … 斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 - 1988年(昭和63年)5月25日)は、昭和時代の日本の化学者。 東京府出身。東京帝国大学理学部卒業。1953年(昭和28年)東京工業大学教授、1968年(昭和43年)同大学長となる。翌年の1969年(昭和44年)5月、長期学生ストなどの責任を取り辞任。触媒の研究で1964年(昭和39年)石油学会賞を受賞。ほか、石油学会理事・同会長、学術奨励審議会専門委員、触媒学会会長、有機合成化学協会会長などを歴任した。
塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 197… 塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 1971年6月4日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は植物栄養化学。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学理学部化学科卒業。台湾総督府工業研究所技師、第一高等学校教授、東京大学教授を経て、東邦大学教授在職中の1971年(昭和46年)逝去。
金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7… 金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7月20日)は、大韓民国の応用化学者。号は石泉(석천)。 1908年3月9日、平安南道江西郡に生まれる。教育熱心な父親の意向で幼い頃から漢文を学び、私立鳳儀学校、平壌上儒公立普通学校、平壌公立高等普通学校を経て、1926年に旧制佐賀高等学校理科甲類へ入学し、1929年卒業。翌年には東京帝国大学へ進み、1933年工学部応用化学科を卒業。当時、応用化学科の唯一の朝鮮人卒業生であった。 1年間指導教授のもとで助手を務めたのち、1934年に岩城硝子へ入社。同社では1939年まで研究科長を務め、酢酸セルロース関連技術により7つの特許を取得した。その後、鐘淵紡績に引き抜かれたが、1942年にはさらに京城紡織へ転じた。
山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003… 山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003年10月12日)は、日本の法学者(ドイツ法)。東京大学名誉教授、成蹊大学名誉教授、元愛知学院大学客員教授。岩手県一関市出身。三潴信吾と三潴信邦は義弟(妻の弟)。 三潴信三の創めた日本におけるドイツ法研究をさらに発展させた。比較法学会理事長、日独法学会理事長、法制審議会民法部会委員、学術奨励審議会委員、最高裁判所図書館委員会委員、民事行政審議会委員、矯正審議会委員などを歴任。
三宅 仁(みやけ まさし 1908年2月9日 - 1969年… 三宅 仁(みやけ まさし 1908年2月9日 - 1969年11月25日)は、日本の病理学者。東京大学医学部名誉教授。父は三宅鉱一、祖父に三宅秀。 東京都出身。1932年に東京帝国大学医学部卒業後、同大学病理学教室に所属して長与又郎、緒方知三郎、三田村篤四郎教授に師事した。1947年から1968年まで医学部教授を務め、教授として活動中に日本病理学会、日本血液学会、日本肝臓学会の会長、役員などを歴任したほか、原爆症の研究では世界初の病理学的業績を残した。1969年11月25日、脳血栓により東京都文京区の自宅にて死去。
中野 猿人(なかの ましと、1908年2月6日 - 2005… 中野 猿人(なかの ましと、1908年2月6日 - 2005年3月26日)は、日本の海洋学者。元気象庁職員。潮汐や風浪の研究を行う。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石田 寿老(いしだ じゅろう、1908年(明治41年)2月 … 石田 寿老(いしだ じゅろう、1908年(明治41年)2月 - 1994年(平成6年)7月22日)は、日本の生物学者。 島根県出身。1932年東京帝国大学理学部動物学科卒、1945年「淡水魚(メダカ)の孵化酵素に関する研究」で理学博士。三井海洋生物学研究所、東京帝国大学理学部動物学科助教授、名古屋帝国大学理学部助教授、東京大学教養学部・理学部生物学教授。1969年定年退官、名誉教授、埼玉大学教授、1972年東邦大学教授。1994年7月22日、多臓器不全のため死去。 弟子に毛利秀雄(東大名誉教授)がいる。
今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、… 今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、1908年1月20日 - 1984年4月17日)は、北海道・根室市出身の英文学者、南山大学名誉教授。 第八高等学校教授等を経て、南山大学で教鞭をとる。 中世英文学とカトリック系文学の解明をライフワークとした。 言語時評を中心とした軽妙洒脱なエッセイの書き手として活躍。 妻・蕁子(かずこ)は文化学院女学部の教師時代に、与謝野晶子の助手として師事。 同僚に、西村伊作、戸川秋骨、与謝野鉄幹、西脇マジョリーがいた。 今川の文学研究のありように関して、遠藤周作は他の欧米文学研究者と基本的にちがう点をあげ、「文学研究をとおして御自分の基督教を練磨」したことにあると、最高の賛辞をもって評した。
吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 199… 吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 1993年6月27日)は、日本の船舶工学者、東京大学名誉教授。兵庫県福崎町名誉町民。理学博士(1945年・東京帝国大学、論文タイトルは『圧縮ヲ受ケル船体構造部分ノ挫屈並ニ圧壊強度ノ研究』) 長崎県対馬生まれ、兵庫県福崎町出身。旧制一高、東京帝国大学工学部卒業。東京理科大学学長、学士会理事長(第5代、1988年から没時まで)などを務めた。 船体構造の強度や振動に対する研究で功績を上げる。東京大学在住中は、船舶の構造力学に関する研究並びに教鞭に従事した。特に船の大型化および溶接に関する研究に専念し、日本造船業を当時「世界一の造船王国」に導くことに大きく寄与する。
吉岡 力(よしおか つとむ、1908年(明治41年)1月19… 吉岡 力(よしおか つとむ、1908年(明治41年)1月19日 - 1975年(昭和50年)10月25日)は、日本のオリエント史学者。 1908年、山口県生まれ。東京帝国大学で学び、卒業した。 卒業後は旧制浦和高等学校教授に就いた。戦後、東京大学教養学部助教授となった。1951年に教授に昇進。1968年に東京大学を定年退官した。その後は東海大学教授として教鞭をとった。また、歴史教育研究所を設立し、所長を務めた。 専門は古代オリエント史。一般には世界史に関する受験参考書を多く書いたことで知られている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、19… 桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、1908年(明治41年)1月17日 - 2002年(平成14年)1月21日)は、日本の実業家、薬学者、華族。貴族院公爵議員、薬学博士。 東京市で桂与一(桂太郎長男)、てい(新田忠純二女)夫妻の長男として生まれる。祖父・桂太郎の死去に伴い1913年11月28日、公爵を襲爵。1938年1月16日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任。火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1931年、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年、同薬学科副手となる。その後、国民体力審議会委員、内閣委員、厚生省委員、国土計画審議会委員などを務めた。 1948年、桂化学研究所を設立し社長に就任。
川崎 庸之(かわさき つねゆき、1908年1月16日 - 1… 川崎 庸之(かわさき つねゆき、1908年1月16日 - 1996年11月3日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授、和光大学名誉教授。 1908年東京生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に進んで、辻善之助に師事した。1930年に卒業。 1936年に東京帝国大学史料編纂所に入り、1954年に教授昇進。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授として教鞭をとった。 仏教を中心とした古代史、日本思想史、日本文化史の研究を続けた。
福井 伸二(ふくい しんじ、明治41年(1908年)1月4日… 福井 伸二(ふくい しんじ、明治41年(1908年)1月4日 - 平成2年(1990年)7月16日)は日本の機械工学者、金属工学者(冶金学者)。 日本における塑性加工研究の第一人者で、文化勲章受章者。日本学士院会員。宇宙開発新議員会委員。航空技術審議委員会委員。千葉工業大学第10代目理事長、理化学研究所第4代理事長を経て、千葉工業大学第2代会長に就任、芝園・茜浜両校舎の取得並びに同大大学院設置などに尽力。平成2年7月16日に没した。同年9月18日に芝園キャンパス体育館で大学葬が行われ、大学関係者、学界・教育関係者1500人が参列した。
川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1… 川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1日 - 2004年(平成16年)12月15日)は、日本の海洋生物学者。理学博士。岡山大学名誉教授。 愛知県生まれ。1930年(昭和5年)、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、台北帝国大学副手、同大学講師、同大学助教授、岡山大学講師を経て、岡山大学教授に在任した(1949年 - 1973年)。岡山大学付属玉野臨海実験所(現牛窓臨海実験所)所長を併任。1957年(昭和32年)には、各大学の臨海実験所長が集まる会議に参加した後、皇居に招かれ、昭和天皇に対して座談会形式の合同進講を行った。 岡山大学を退職後、同大学名誉教授を経て、川崎学院教授に在任した(1973年 - 1978年)。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
石井 良助(いしい りょうすけ、1907年(明治40年)12… 石井 良助(いしい りょうすけ、1907年(明治40年)12月14日 - 1993年(平成5年)1月12日)は、日本の法制史学者。専門は日本法制史。学位は、法学博士(東京帝国大学・1937年)。東京大学名誉教授。勲二等旭日重光章、文化功労者、文化勲章。贈・従三位 勲一等瑞宝章(没時陞叙)。 東京府(現在の東京都大田区)生まれ。東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業後の1930年(昭和5年)に東大助手に採用される。2年後に助教授。1937年(昭和12年)には 論文「中世武家不動産訴訟法の研究」で東京帝国大学から法学博士を受ける。 1942年(昭和17年)に教授就任。1968年(昭和43年)に退官後は名誉教授となり、新潟大学人文学部教授、1970年(昭和45年)専修大学法学部教授、1979年(昭和54年)創価大学法学部教授として教鞭を執る。
小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月1… 小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月16日 - 1974年(昭和49年)1月31日)は、日本の教育学者。 1907年、台湾生まれ。言語学者である父の小川尚義は、台湾総督府に勤務し、台湾語ならびに台湾原住民諸語について研究していた。東京帝国大学を卒業。卒業後は台北第一師範学校、愛媛師範学校に勤務した。 戦後、愛媛県教育研究所長。神戸大学教授となった。1971年に定年退官し、その後は日本福祉大学教授として教鞭をとった。大学外では、全国部落問題研究協議会長をつとめ、作文教育、同和教育に尽力した。1974年1月31日、肝臓がんのため神戸大学医学部附属病院で死去。66歳。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- )は、日本の船舶工学者、歴史家。 1928年旧制第七高等学校造士館理科甲類卒業。1931年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。逓信局管船局に入る。東京高等商船学校教授(兼)、海務院船舶部、海軍艦政本部(商船班)、運輸省船舶局(検査制度課長)、東京大学工学部(船舶工学科)講師、川崎重工業株式会社技術顧問、日本船舶振興会及び日本海事科学振興財団(船の科学館)勤務。1977年度交通文化賞受賞。