田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 19… 田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 1993年2月2日)は、神奈川県川崎市出身の元野球選手(内野手)・コーチ・監督。 旧制立正中から法政大学に進学するも、アキレス腱断裂の重傷を負ったため選手を断念。 卒業後は法政二高の監督に就任し、バントとヒットエンドランを多用する戦術で1960年の甲子園大会、1961年の選抜大会を連覇。1961年に母校・法大の監督となった。1964年退任。同年12月22日に東京オリオンズへの入団と同球団の二軍監督への就任が発表された。 本堂保次監督の代理として指揮を執っていた濃人渉の後任に、当初鶴岡一人を招聘しようとしたのが頓挫したことから。1966年の1シーズンだけ一軍の監督を務めた。
力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - … 力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - 2016年1月22日)は、日本の経済学者、社会工学者。法政大学名誉教授。 広島県尾道市生まれ。旧制三高から旧制東京大学経済学部に進み、学生運動に身を投じる。東大共産党細胞において渡邉恒雄らとの路線闘争を繰り広げ勝利。1948年には武井昭夫、沖浦和光らと全学連(全日本学生自治会総連合)を結成。全学連の理論面での指導者とされた。翌年6月3日に東大で学生大量処分に抗議する公聴会が開かれたとき、処分理由を説明する矢内原忠雄経済学部長に「キミはファシストだ」と難詰した(キミ、ボク論争)。 東大卒業後、国民経済研究所研究員を経て、法政大学工学部経営工学科教授(社会工学)。
菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 201… 菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 2011年6月24日)は、北海道二海郡八雲町出身の図書館コンサルタント。「日本初の図書館コンサルタント」であるとされることがある。25年間にわたって日本図書館協会に勤務して『中小レポート』などに関与した後、図書館計画施設研究所を創設して独立した。 1926年(昭和元年)に北海道渡島支庁の二海郡八雲町に生まれ、旧制北海道庁立八雲中学校を卒業後に八雲町役場に就職した。日中戦争時には少年兵として志願し、神奈川県高座郡相模原町淵野辺の陸軍兵器学校で特別幹部候補生となったが、1945年(昭和20年)8月の終戦後には復員して八雲町役場に復職した。 ここでの仕事の一つに進駐軍に様々なレクリエーション(テニス、スクエア・ダンス等)を習い、それを町民に教えるということがあった。
一龍齋 貞鳳(いちりゅうさい ていほう、1926年9月1日 … 一龍齋 貞鳳(いちりゅうさい ていほう、1926年9月1日 - 2016年12月27日)は、日本の講談師、政治家。本名、今泉 正二(いまいずみ しょうじ)。選挙では「一竜斉テイホー」の表記も使用していた。 参議院議員(1期)、環境政務次官(三木改造内閣・福田赳夫内閣)などを歴任した。 福島県出身。旧制法政大学第二中学校卒業。1938年に5代目一龍齋貞丈に入門するが、戦争のため一時中断。1946年に貞鳳を名乗る。1954年、真打昇進。 3代目江戸家猫八、三遊亭小金馬(現:2代目三遊亭金翁)とともに、NHKのバラエティコメディ番組『お笑い三人組』で人気を得る。今泉良夫の名で司会活動もしていた。1965年、芸術祭賞奨励賞受賞。
鷲見 友好(すみ ともよし、1926年8月12日 - 199… 鷲見 友好(すみ ともよし、1926年8月12日 - 1997年6月25日)は、日本の政治経済学者。法政大学名誉教授。軍事費、日米関係などを研究した。 岐阜県美濃市出身。1960年法政大学大学院博士課程単位取得、1961年法政大学短期大学部講師、法政大学社会学部助教授、教授、法政大学短期大学部学長、1996年定年退任、名誉教授。
安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24… 安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - 2015年(平成27年)12月16日)は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下(現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。 サラリーマンの三男一女の長男として大久保天神下で生まれる。小学3年時に6年の番長を刺し学校を制圧。神奈川県川崎市立川崎中学校に進学するも喧嘩に明け暮れ、濡れ衣を着せられ、15歳で調布市の感化院に入れられる。旧制中学校時代は転校を繰り返し、父の満州転勤に伴い16歳のとき満州に渡り、奉天第一中学校に進学。同校退学後内地へ戻り、京王商業転入。不良学生を束ねて加納貢と意気投合し兄弟分になる。
鈴木 理生(すずき まさお、1926年5月9日 - 2015… 鈴木 理生(すずき まさお、1926年5月9日 - 2015年3月4日)は、日本の歴史学研究者・歴史学者である。本名は鈴木昌雄。江戸を対象にした歴史研究をすすめ、地質学や考古学の知見をも活かした実証的な都市史研究をおこなった。とくに、徳川家康が幕府を開く以前の江戸について、あらたな歴史像を提示した。 法政大学高等師範部を卒業、東京都職員となる。 千代田図書館に1986年まで勤務したのち、東京都市史研究所理事、東京地縁社会史研究所理事などを歴任した。 編纂に携わった東京都中央区立京橋図書館編『中央区沿革図集-月島篇』(東京都中央区立京橋図書館・東京都中央区教育委員会、1994年3月)、同編『中央区沿革図集-日本橋篇』(東京都中央区立京橋図書館・東京都中央区教育委員会、1995年3月)、同編『中央区沿革図集-京橋編』(東京都中央区立京橋図書館・東京都中央区教育委員会、1996年3月)で、地名文化賞を受賞。
酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年… 酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年4月20日)は、日本の司会者、アナウンサーである。NHKを経てフリーアナウンサーとなり『酒井広のうわさのスタジオ』では、ほのぼのトークと親しみのある人柄で人気を集め一時代を築いた。 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)出身。1950年、法政大学卒業。法大在学中は法政大学弁論部に所属。卒業後、NHKに入局。新潟・福岡[疑問点 – ノート]の各局を経て東京アナウンスへ。特に、社会・家庭教養番組で一時代を築いた[要出典]。 1982年にNHK退職後、フリーとなり、日本テレビ(局契約)・テレビ朝日などで活躍した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では比例区から友部達夫らが結成した年金党公認候補として立候補するが、落選。
山下 武(やました たけし、1926年4月3日 - 2009… 山下 武(やました たけし、1926年4月3日 - 2009年6月13日)は東京生まれの文芸評論家、演出家。古本関係の著述活動で著名であった。 法政大学文学部卒業。日劇の舞台監督やNET(現・テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』のプロデューサーとディレクターを務めた。 椎名麟三に師事し、作家活動を行う。また近代文学研究者でも活動。工学院大学を経て、芝浦工業大学に勤務。 父は落語家の柳家金語楼、異母弟はロカビリー歌手として一世を風靡した山下敬二郎、異母妹は女優・声優の有崎由見子。祖父は三遊亭金勝。叔父は先代昔々亭桃太郎。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
久保田 二郎(くぼた じろう、1926年 - 1995年4月… 久保田 二郎(くぼた じろう、1926年 - 1995年4月)は、日本のエッセイスト、ジャズ評論家、雑誌編集者。東京都渋谷区千駄ヶ谷生まれ。香川県出身。日本にモダン・ジャズを初めて紹介した一人。 千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の裏の屋敷街で育つ。幼少からアメリカ文化の影響を強く受ける。青山師範付属小学校卒業。法政大学卒業。戦後、ジャズ・ドラマーを経て、博学なジャズ評論家として活躍し、キング・ジャズ・シリーズの監修者を担う。『スイングジャーナル』誌の編集長となり、ジャズについて書き始めていた植草甚一を起用した。 日本初のステレオLPレコードや、今のテレビ音楽番組のスタイルを確立するなど、日本の音楽界に大きく貢献。
渡辺 武(わたなべ たけし、1926年 - )は、日本の言語… 渡辺 武(わたなべ たけし、1926年 - )は、日本の言語学者、図書館短期大学名誉教授。 東京市神田区(現千代田区)生まれ。法政大学卒。コトバの会会員。日本ジャーナリスト専門学校講師をへて、図書館短期大学教授、1980年定年退官、名誉教授。主に話し方について教えた。
岩崎 武夫(いわさき たけお、1925年(大正14年)11月… 岩崎 武夫(いわさき たけお、1925年(大正14年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月19日)は、国文学者。元東京医科歯科大学教授。 東京生まれ。法政大学文学部日本文学科を卒業し、法政大学大学院修士課程を修了する。専攻は日本中世・近世文学。法政大学講師を経て東京医科歯科大学教授、千葉経済大学教授を務めた。特に説経節の研究で知られる。著書に『さんせう太夫考-中世の説経語り』(平凡社、1973年)、『続さんせう太夫考-説経浄瑠璃の世界』(平凡社、1978年)がある。 2012年2月19日、前立腺がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去。86歳であった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 20… 近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 2006年1月2日)は、プロ野球選手(投手)・指導者・監督、野球解説者。
大塚 芳満(おおつか よしみつ、1925年(大正13年)9月… 大塚 芳満(おおつか よしみつ、1925年(大正13年)9月20日 - 1999年(平成11年)8月4日)は日本の実業家。大塚製薬・大塚製薬工場元会長。 1925年(大正13年)9月20日に大塚武三郎の次男として生まれる。1947年(昭和22年)に法政大学経済学部を卒業し、大塚製薬工場に入社する。 1964年(昭和39年)に大塚製薬専務取締役、1987年(昭和62年)に代表取締役会長、1998年(平成10年)に当時の社長・大塚明彦が贈収賄事件で逮捕されたことを受け社長を兼任、1999年(平成11年)1月に会長に就任する。 1999年(平成11年)8月4日に死去、74歳。 国際ゾンタ26地区ガバナーの真鍋洋子は長女で、香川日産自動車元社長の真鍋康彦は娘婿。
高崎 隆治(たかさき りゅうじ、1925年7月25日 - 2… 高崎 隆治(たかさき りゅうじ、1925年7月25日 - 2013年6月)は、日本の戦争研究家。 神奈川県横浜市生まれ。法政大学文学部国文科卒。在学中に学徒兵として召集。主に戦時下の雑誌ジャーナリズム及び戦争文学をテーマとした執筆・講演活動を続けている。講談社『昭和萬葉集』では編纂部顧問をつとめた。1996年、里村欣三研究その他で、人文科学研究協会研究奨励賞を受賞。2008年、第14回横浜文学賞受賞。創価学会系の人物である[要出典]。
一柳 豊勝(いちやなぎ とよかつ、1925年(大正14年)5… 一柳 豊勝(いちやなぎ とよかつ、1925年(大正14年)5月16日 - 1993年(平成5年)7月20日)は、日本の学者。専門は社会保障、福祉行政。元龍谷大学社会学部教授。 1925年(大正14年)5月16日に愛知県名古屋市に生まれる。 法政大学法学部政治学科を卒業し、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校大学院でPolitical Science専攻博士課程を修了する。 中部圏都市問題研究所長、同朋大学文学部講師、同大学社会福祉学部助教授・教授を経て、龍谷大学社会学部教授に就任する。 1993年(平成5年)7月20日に脳内出血により死去、68歳。
丸山 吉五郎(まるやま きちごろう、1925年3月25日 -… 丸山 吉五郎(まるやま きちごろう、1925年3月25日 - 2020年8月9日)は、日本の体育学者。法政大学名誉教授、元関東学生陸上競技連盟会長。 1925年3月25日、埼玉県大里郡に生まれる。1943年に法政大学予科第二部に入学。大学では陸上競技部に属した。1944年10月、学徒出陣で前橋陸軍予備士官学校に配属され、終戦は宇都宮で迎えた。 復員後は法政大学に復学。1947年、復活した日本学生陸上競技対校選手権大会に出場し、110mハードルと走り幅跳で優勝した。 1948年に法政大学経済学部を卒業。体育教員として母校に務めた。1964年東京オリンピックでは強化コーチを務める。陸上競技に関する指導書・解説書を多く著し、NHKの陸上競技中継のテレビ解説も知られた。
松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年… 松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年8月13日)は、東京出身の俳人。東京府滝野川町(現北区)生。父は「雲母」同人の松澤鍬江。少年時代より萩原朔太郎、三好達治に憧れて詩作を試み、また10代の頃より松澤家の常連来客である松村蒼石らを知り俳句に興味を持つ。1944年、学徒動員時代に句作を開始。1946年、法政大学経済学部を卒業。この年に飯田蛇笏に会い師事する。1953年、「雲母」同人。1956年より現代俳句協会会員。1961年、石原八束、文挾夫佐恵、柴田白葉女らとともに「秋」を創刊。主宰を務める。1962年、「秋」主宰を辞し、1964年「四季」を創刊・主宰。2000年、現代俳句協会会長に就任。
佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月… 佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月2日 - 2005年(平成17年)7月19日)は、日本の歴史学者。 1925年、東京市赤坂区で生まれた。法政大学第二高校を卒業し、名古屋大学文学部国史学科に進学。1952年に卒業し、1957年に東京大学大学院国史学専攻を修了。 1952年より母校の法政大学第二高校に勤務。後に同校校長となった。1962年、学位論文『新撰姓氏録の基礎的研究』を名古屋大学に提出し、文学博士号を取得。1971年、北海道大学教授に就いた。1983年、成城大学教授に転じた。1995年に成城大学を退任。 専門は日本史で、日本古代史。その研究内容は大きく下記の3つに分けられる。
宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - … 宍戸 善次郎(ししど ぜんじろう、1925年1月10日 - 没年不明)は、福島県出身のプロ野球選手。 旧制福島中学、全福島日東紡、法政大学を経て1950年に創設された近鉄パールスへ入団。同年9月17日に大阪球場で初めて開催されたプロ野球公式戦(対阪急戦)で球場第1号となるホームランを打っている。 1951年は開幕戦(対南海戦)に9番ショートで先発出場した。同年に退団し、日石カルテックスでプレー。その後は日本石油仙台支店で総務部長を務めていた。 現役時代はメガネがトレードマークの選手だった。
杉山 茂雄(すぎやま しげお、1925年(大正14年)- )… 杉山 茂雄(すぎやま しげお、1925年(大正14年)- )は、日本の法学者。国際法専攻。法政大学名誉教授。財団法人国際法学会評議員、財団法人防衛学会及び防衛法学会理事、特殊法人北方領土問題対策協会研究委員。 1925年(大正14年)静岡市に生まれる。1943年(昭和18年)陸軍予科士官学校入校、翌年に予科士官学校卒業、同年に陸軍士官学校入校(59期)、在校中に終戦を迎えた。 1949年(昭和24年)法政大学法学部を卒業し、同助手(国際法専攻)。1952年(昭和27年)国立国会図書館調査立法考査局員(国際法担当)を務めながら、法政大学講師も兼任する。1968年(昭和43年)国立国会図書館調査立法考査局外務課長を辞任し、同年に法政大学教授に就任(国際法・法学担当)。
土井 輝夫(どい てるお、1925年 - )は、日本の法学者… 土井 輝夫(どい てるお、1925年 - )は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、Ph.D(ハーバード大学留学の際、取得)。早稲田大学名誉教授。 1925年生まれ。中央大学専門部を中退。1951年、法政大学法学部卒業。1957年、早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了。修了後、ハーバード大学留学をし、博士号取得。帰国後、早稲田大学教授。早稲田大学法学部長なども務めた。1926年、早稲田大学名誉教授。著書は多数に上るが、共著で下記のものは最高水準のものである。 学部は法政だが大学院は早稲田であり、しかも当時の法学の世界でハーバードで学位を得るものはよほど優秀でないと無理であった。早稲田から帰国後すぐに就任要請がありすぐに引き受けた。
青江 忠一(あおえ ちゅういち、1924年(大正13年)12… 青江 忠一(あおえ ちゅういち、1924年(大正13年)12月5日- 没年不明)は、日本の飲食店の経営者。ゲイバー「青江」の経営者、通称・青江のママ。 東京府神田東松下町の呉服屋に生まれる。千桜小学校、大成中学校を卒業し、1942年(昭和17年)に法政大学予科に入学する。戦中は学徒出陣し、千葉県習志野の騎兵部隊に配属される。その後、戦車部隊に配属され、終戦時に少尉に任官する。1949年(昭和24年)に法政大学経済学部を卒業し、貿易会社に入社する、在学中は馬術部や応援団で活動する。1952年(昭和27年)頃に島田正雄に誘われ、島田の経営する「やなぎ」に勤めはじめる。1956年(昭和31年)に銀座二丁目の並木通りにゲイバー「青江」を開店し、1957年(昭和32年)に鎌倉に支店を出す。
木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 -… 木村 利三郎(きむら りさぶろう、1924年10月13日 - 2014年5月17日)は、日本の画家、版画家。ニューヨークで活動し、都市を主題とした作品群を多く手掛けた。 神奈川県横須賀市出身。1947年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。国語教師を経て法政大学文学部哲学科に学び、谷川徹三に師事。美術評論家を志して久保貞次郎の創造美育運動に関わり、靉嘔、池田満寿夫らと知り合う。 その後は画家に転じて、1964年に渡米。マンハッタンにアトリエを構え、シルクスクリーンの作品を発表した。
野坂 浩賢(のさか こうけん、1924年(大正13年)9月1… 野坂 浩賢(のさか こうけん、1924年(大正13年)9月17日 - 2004年(平成16年)4月18日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(7期)、建設大臣(第61代)、内閣官房長官(第59代)、日本社会党国会対策委員長、社会民主党副党首・国会対策委員長、鳥取県議会議員等を歴任した。 労働運動に入り、鳥取県総評議長、同事務局長、西部地評議長を歴任。1955年(昭和30年)から鳥取県議会議員4期。1969年(昭和44年)から社会党鳥取県本部委員長を2期務めた後、1972年(昭和47年)衆議院議員に当選。1994年(平成6年)村山内閣の建設相に就任。 1995年(平成7年)の改造内閣では内閣官房長官となる。
榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年… 榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年5月27日)は、プロ野球選手(投手)・野球解説者。左投両打。
猪股 静弥(いのまた しずや、1924年(大正13年)8月1… 猪股 静弥(いのまた しずや、1924年(大正13年)8月12日 - 2009年(平成21年)9月8日)は日本の文学研究者、歌人。帝塚山短期大学名誉教授、専門は上代文学(万葉集)、寧楽短歌会代表。 1924年(大正13年)8月12日、大分県香々地町に生まれる。18歳の頃にアララギに入会し、土屋文明に師事する。1951年(昭和26年)に法政大学文学部国文学科を卒業し、奈良市立一条高校に勤務する。その後、愛知女子短期大学講師を経て、帝塚山短期大学教授に就任し、退職後、名誉教授となる。2009年(平成21年)9月8日に死去、85歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1… 田名網 英二(たなあみ えいじ、1924年7月30日 ‐ 1988年10月13日)は、栃木県出身のプロ野球選手、高校野球指導者。 1924年に小山市で生まれる。栃木県立栃木商業高等学校、法政大学、いすゞ自動車でプレーし、1950年に西日本パイレーツに入団。二塁手または遊撃手としてプレーし、26盗塁を記録するも、同年チームが解散し、田名網も肋骨骨折の影響で僅か1年で現役を引退した。 引退後の1953年に山梨県立甲府工業高等学校の監督に就任。25年間で春2回、夏3回本大会に出場。特に1966年の第48回全国高等学校野球選手権大会では深沢修一や西村公一らを率いて県勢初のベスト8に進出した。1985年に教え子でもある原初也に同校の監督業を譲り、勇退。
吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 200… 吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 2006年8月31日)は、日本の法学者。法政大学名誉教授(刑法)。京都府京都市出身。長男の純は弁護士。弟の進三は同志社大学教授。 刑法学説の位置づけとしては、自由主義的でありながら、法律の権威を守ることも重視する、大場茂馬以来の後期旧派(後期古典派)の系譜に属する。 2006年8月31日19時、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去。82歳没。
清家 豊雄(せいけ とよお、1924年〈大正13年〉2月21… 清家 豊雄(せいけ とよお、1924年〈大正13年〉2月21日 - 2024年〈令和6年〉8月12日)は日本の実業家。平和紙業の創業者の1人で、平和紙業の社長・会長・相談役を歴任した。 1924年に愛媛県北宇和郡吉田町で生まれる。1941年に法政大学高等商学部に入学するも、太平洋戦争の最中であったため1943年10月に繰り上げで卒業することとなった。同年富士写真フイルムに入社すると、海軍技術研究所で軍事用のカメラやフィルムの開発に携わった。1944年10月に前橋陸軍予備士官学校入校し、航空特攻隊に志願するが特攻前に終戦を迎えた。 1945年10月に復員すると、1946年3月に平和紙業の創業に参画した。
内田 良平(うちだ りょうへい、1924年2月5日 - 19… 内田 良平(うちだ りょうへい、1924年2月5日 - 1984年6月15日)は、日本の俳優、詩人。千葉県銚子市出身。 法政大学予科在学中の内田は、戦況が悪化すると「いずれ自分も特攻隊員に採られて死ぬのだから、学校に居ても仕方が無い」と思い、帰郷後にブラブラしていると家のすぐ近くにある銚子市立飯沼小学校から「教師が不足しているのでどうだ?」と声が掛かり、1945年夏から1946年の夏までの1年間代用教員を務めた。法政大学経済学部在学中の1951年、新協劇団に入って演劇を始める。1951年に杉浦直樹・小松方正らと劇団「新演劇研究所」を結成して活動するが、ほどなく解散した。東映での映画出演を経て1953年に友人から小林正樹を紹介され、その伝手で松竹映画にも出演。
後藤 次男(ごとう つぐお、1924年1月15日 - 201… 後藤 次男(ごとう つぐお、1924年1月15日 - 2016年5月30日)は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
深沢 督(ふかざわ ただし、1923年12月22日 - 20… 深沢 督(ふかざわ ただし、1923年12月22日 - 2019年1月6日)は、群馬県出身の元プロ野球選手(捕手)。 主な出場ポジションは捕手。
根岸 重一(ねぎし しげいち、1923年11月29日 - 2… 根岸 重一(ねぎし しげいち、1923年11月29日 - 2024年1月26日)は、日本の発明家。カラオケの発明者の一人とされる。 1923年11月29日、現在の東京都板橋区に生まれる。法政大学経済学部で学び、太平洋戦争で陸軍に徴兵され、敗戦により捕虜となり、シンガポールで抑留された。1947年に復員。復員後はオリンパス光学工業や電気部品メーカーに勤めた後、1956年にラジオやカーステレオの組み立てを手掛ける日電工業を設立した。 1967年夏頃、8トラックのカーステレオにマイクのミキシング回路を組み込んだ装置を考案し、試作品を社内で製作した。「世界初のカラオケ機」といえるこの試作機で根岸が最初に歌ったのは、児玉好雄の「無情の夢」であった。
沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10… 沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10日 - 1976年(昭和51年)7月6日)は、日本の政治家。参議院議員(1期、公明党)。 岐阜県出身。法政大学修了。川崎航空機、昭和電工などに勤めた後、岐阜市で繊維製品卸業を営む。その後、岐阜県議会議員を経て、1968年の第8回参議院議員通常選挙において公明党公認で全国区から立候補して当選する。1974年の第12回参議院議員通常選挙には出馬しなかった。この他、公明党中央委員、公明党岐阜県本部長などを歴任した。1976年死去。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正五位に叙される。
青木 宗也(あおき そうや、1923年11月2日 - 199… 青木 宗也(あおき そうや、1923年11月2日 - 1995年11月18日)は、日本の法学者(労働法)。法学博士(法政大学・論文博士・1960年)(学位論文「労働条件の労働法学的研究」)。法政大学名誉教授。法政大学元総長。正四位勲二等旭日重光章。 1923年11月2日、愛知県生まれ。1947年、法政大学法学部法律学科を卒業。法政大学大学院社会科学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学。1960年、「労働条件の労働法学的研究」で法政大学より法学博士の学位を取得。同法学部助教授、教授を務めた。 1979年4月の東京都知事選挙では、社会党・共産党推薦の太田薫の確認母体「明るい革新都政をつくる会」の代表を務めた。
尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-… 尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-2017年(平成29年)1月21日)は、日本の経済学者、平和運動家。法政大学名誉教授。専門は教育経済論。 1923年(大正12年)9月27日、宮城県にて生まれる。宮城県立第一中学校、陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校(56期)を卒業し、陸軍中尉で終戦をむかえる。戦後、法政大学経済学部(通信制)に入学し、卒業後、同大学大学院に進み、教育経済学を専攻する。1982年(昭和57年)の全学集会で非核大学宣言をまとめ、翌年から公開講座『法政平和大学』をひらく。また、テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟の会の世話人代表を務めた。 1995年の第17回参議院議員通常選挙に、環境政党「憲法みどり農の連帯」公認で東京都選挙区から出馬、落選。
根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005… 根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005年10月24日)は、日本の俳優。本名は森 不二雄(もり ふじお)。 身長171cm。1950年代より大映で菅原謙次と人気を二分し、活躍した二枚目スター。後年は活動の場をテレビ中心に移し、渋い脇役として存在感を示した。 東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)出身。父方の祖父はオーストリアの音楽家ルドルフ・ディトリッヒ、日本名=日土理非)、祖母は森菊。父はヴァイオリニストの森乙。甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。杉並商業学校を経て1941年に法政大学経済学部に進む。1943年、学徒出陣で東部六二部隊に入隊。
高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年… 高野 よしてる(たかの よしてる、本名:高野義輝、1923年8月22日 - 2008年11月15日)は、日本の雑誌編集者・漫画家である。九州生まれ。関東商業学校(現・関東第一高等学校)、法政大学出身。漫画家としては1950 - 1970年(昭和25 - 45年)頃まで月刊・週刊の漫画雑誌で活躍した。代表作は『赤ん坊帝国』『黒帯くん』『13号発進せよ』など。 1923年(大正12年)、九州に生まれる。4歳の頃に家族ともども東京に移り、以後東京で育つ。 中学の頃から漫画家を目指し、志を同じくする友人たちと共に「新世紀漫画集団」という名のグループを結成。日曜日になっては漫画について討論や研究、デッサンをしていた。
益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6… 益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6月29日 - 2010年〈平成22年〉2月6日)は、日本の国文学者。古代文学専攻。元・法政大学文学部教授。 山口県下関市で、父繁蔵、母コフジの次男として生まれる。兄1人、姉3人の末っ子であった。 家の学問として漢文を教わるチャンスがあって、小学校の終わりごろから 『十八史略』や『日本外史』を読まされていた。旧制山口県立下関中学校時代には、西洋哲学を専攻したい夢があり3年の時から下関バプテスト教会の末崎富彌牧師にギリシャ語を習い始める。 1941年3月に下関中学校を卒業して、4月から下関市立養治国民学校助教として勤めながら、中等教員検定試験合格を目指す。
後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002… 後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002年11月27日)は、日本の実業家で、安田火災海上保険(現・損害保険ジャパン)元会長。 愛媛県松山市出身。1949年安田火災海上保険株式会社に入社。働きながら法政大学に通った。1951年法政大学経済学部卒業。 福岡支店長、社長室長などを経て1983年から取締役社長に。社長時代に、ゴッホの名画「ひまわり」を購入したことは有名。1992年から経団連自然保護基金運営協議会会長となった。環境派の経済人としてさまざまな活動を行ったことでも評価が高い。1988年藍綬褒章を受章。 「ひまわり」について、購入者(漠然と後藤康男を指すと思われる)が「死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてくれ」という旨の発言をしたとの都市伝説があるが、そのような発言があったのはゴッホ作「医師ガシェの肖像」を購入した当時大昭和製紙名誉会長の齊藤了英であり、高額購入されたゴッホ作ということで勘違いされているものと思われる。
小柳 輝一(こやなぎ てるいち、1923年2月24日 - 1… 小柳 輝一(こやなぎ てるいち、1923年2月24日 - 1996年8月1日)は、食物社会史家。ジャーナリスト。 愛知県名古屋市出身。法政大学専門部法律学科卒。 中日新聞、時事新報の記者をへて、食物社会史を研究し、著作をなした。
本田 耕一(ほんだ こういち 1923年 - 1945年5月… 本田 耕一(ほんだ こういち 1923年 - 1945年5月14日)は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国海軍軍人。兵庫県出身。 旧制日本大学第三中学校(現・日本大学第三中学校・高等学校)在学中に、甲子園に3回出場(春2回〔1938年、1939年〕,夏1回〔1938年〕)。当時のチームメイトに、鬼頭政一(のち名古屋,西鉄などでプレー。元太平洋監督),坂本茂(のち巨人などでプレー)がいた。卒業後は法政大学に進学。大学時代は一塁手として活躍した。 大学に在学していたが、1944年春の学徒出陣によって召集される。本田は海軍飛行科を希望し、第14期飛行専修予備学生として筑波海軍航空隊に配属され、1945年に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となる。
常見 茂(つねみ しげる、1922年12月 - 1991年8… 常見 茂(つねみ しげる、1922年12月 - 1991年8月12日)は、群馬県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 桐生中学時代に3度甲子園出場(第16回選抜中等学校野球大会、第25回全国中等学校優勝野球大会、第17回選抜中等学校野球大会)。 桐生中学を卒業後は法政大学野球部へと進んだ。法政大学卒業後は全桐生でプレーした。 1950年に東急フライヤーズに入団。同年5月11日の対大映スターズでは、チームメイトの塩瀬盛道がプロ初登板してホームランを放ち、その後降板。以後塩瀬は試合に出場しなかったため、塩瀬は通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000を記録することとなるが、この塩瀬の後を継いで登板したのが常見である。
安田 武(やすだ たけし、1922年11月14日 - 198… 安田 武(やすだ たけし、1922年11月14日 - 1986年10月15日)は、日本の評論家。 東京都出身。1943年法政大学国文科在学中に学徒出陣。朝鮮の羅南で敗戦を迎え、ソ連軍捕虜となる。復員後、大学を中退。出版社勤務の後、1959年から評論家として独立文筆生活に入る。 思想の科学研究会に属し鶴見俊輔、藤田省三らと「共同研究・転向」(1959年~1967年)に最初の業績を発表。1964年から1966年まで思想の科学研究会長。また1960年の日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建に尽力し、常任理事を務めた。 そのほか、日本文化に関する著作が多く、特に多田道太郎との対談『『「いき」の構造』を読む』などが有名である。
山田 豊三郎(やまだ とよさぶろう、1922年(大正11年)… 山田 豊三郎(やまだ とよさぶろう、1922年(大正11年)10月13日 - 2009年(平成21年)7月18日)は、日本の政治家。第21代大津市長(1980年 - 2004年)。 市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。「豊さん」、「山豊さん」のあだ名で親しまれた。元全国市長会相談役。大津市名誉市民。旭日中綬章。趣味は映画、歌謡、ダンス。 滋賀県野洲郡玉津村赤野井(現・守山市)の農家、堀出家に出生。のち、大津市出身の山田美惠子と結婚し、山田姓に改める。 1943年11月に満州国立新京法政大学特修科経済学部卒業。1944年、学徒出陣で遼陽の第33連隊に配属、第120師団輕重隊に配属される。
井原 弥一郎(井原 彌一郎、いはら やいちろう、1922年〈… 井原 弥一郎(井原 彌一郎、いはら やいちろう、1922年〈大正11年〉8月29日 - 1972年〈昭和47年〉10月13日)は、日本の政治家・実業家。埼玉県与野市議会議員・埼玉県議会議員・与野フードセンター初代社長を歴任した。元与野市長・さいたま市長職務執行者の井原勇は実弟、衆議院議員の井原隆は孫である。 埼玉県北足立郡与野町(現:さいたま市中央区)出身。貿易商に勤めていた井原和一(旧姓:網野)の長男として生まれる。井原家は与野でも有数の名家で、弥一郎の曾祖父である弥四郎・祖父である貞亮(ていすけ)はともに与野町長を務め、貞亮の娘婿となった和一ものちに与野町会議員・与野町長・埼玉県議会議員を務めることになる名望家であった。
松田 九郎(まつだ くろう、1922年8月1日 - 2015… 松田 九郎(まつだ くろう、1922年8月1日 - 2015年2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。長崎県議会議長、自民党国対副委員長、宗教政治研究会事務局長などを務めた。長男は元長崎県議会議員の松田正民。 長崎県北松浦郡佐々町出身。1943年法政大学専門部法科卒業。長崎県議会議員、同議長を経て、1983年12月の第37回衆議院議員総選挙で当選。河本派に所属。自治政務次官となった。2期連続当選したが、1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で落選した。 1993年の第40回衆議院議員総選挙にも出馬したが落選。 1995年の第17回参議院議員通常選挙では、無所属で一人区の長崎県選挙区に出馬して自民党公認の新人宮島大典と共倒れとなり、落選後は新進党に移籍。
松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 19… 松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已。 長崎県南松浦郡三井楽町(現:五島市)出身。法政大学工業学校を卒業し、法政大学専門部を中退。その後は海産物やビワなどの行商で生計を立てながら起業資金を蓄えていった。 そうした折、1954年に福岡で乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売をしていた従兄弟の山下嘉一から、全国のヤクルトの販売会社を統合した本社組織を立ち上げると聞いた松園は、ヤクルトの創業者永松昇を訪ねて事業参入の許可をもらい、学生時代に住んでいた八王子を拠点にヤクルトの販売業務を始め、1956年6月に関東ヤクルト製造を設立した。
西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 20… 西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 2019年10月11日)は、日本の美術監督・映画プロデューサー。 奈良県明日香村出身。法政大学文学部卒業。大学在学中に徴兵され、朝鮮半島で終戦を迎えた。1947年までソ連に抑留され、帰国後の1948年、大映京都撮影所に入社。美術部に配属された。 1952年、『天保水滸伝 利根の火祭』(安達伸生監督)で初めて美術監督を務め、以降大映が製作した約180本の映画で美術監督を務めた。1952年に市川崑の監督映画『あの手この手』で美術監督を務めたのをきっかけに、大映京都製作の市川監督作品の全てで美術監督を務めた。 大映倒産の後1972年、旧大映社員とともに「映像京都」を設立し、代表取締役社長を務める傍ら、美術監督、プロデューサーとして活躍。