森田 雄蔵(もりた ゆうぞう、1910年(明治43年)11月… 森田 雄蔵(もりた ゆうぞう、1910年(明治43年)11月23日 - 1990年(平成2年)1月29日)は日本の小説家。 1910年(明治43年)11月23日に東京府京橋で生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学文学部英文学科を卒業する。 戦後、本格的な作家活動に入り、1953年(昭和28年)に『はがゆい男』で第30回芥川賞候補になる。 『法政文学』『一座』『小説と詩と評論』などに小説を発表し、1958年(昭和33年)に『岳父書簡撰』を発表、1967年(昭和42年)に代表作『料亭の息子』を発表する。 また、丹羽文雄の後を受けて、全国同人雑誌作家協会会長を務めたほか、木々高太郎主宰の同人誌『小説と詩と評論』を継承し、新人作家の発掘に貢献した。
倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945… 倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945年)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
中畑 義愛(なかはた よしちか、1910年(明治43年)8月… 中畑 義愛(なかはた よしちか、1910年(明治43年)8月15日 - 1991年(平成3年)7月14日)は日本の実業家。元電通代表取締役社長、元日本広告業協会会長。奈良県吉野郡十津川村出身。
潮 寒二(うしお かんじ、1910年8月15日 - 1981… 潮 寒二(うしお かんじ、1910年8月15日 - 1981年)は、日本の小説家、推理作家。 本名:飯田実。東京市西新宿十二社生まれ。父は西新宿の大地主であった。法政大学法文学部文学科英文学主攻中退。戦前には逓信省に勤めていたが、戦時中に横浜の高射砲部隊(高射砲第117連隊)に一兵卒として入隊。これを機に以降、軍需産業に勤使し、30代で課長となり名古屋に転勤している。 作家としては、1932年に「逃亡した死体」を『漫談』誌に発表。これがデビュー作となる。デビュー後5年間は少年小説などを執筆するが、戦時中には筆を折る。戦後、「猿人の血型」(1949年)で復活。1952年、『富士』誌に掲載された「義賊の春」が、「流転」のタイトルでラジオ・ドラマ化され、ニッポン放送系から4夜連続で放送された。
三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-… 三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-2008年(平成20年)8月4日)は日本の実業家。元王子製紙会長。 1910年(明治43年)7月6日、島根県に生まれる。1936年(昭和11年)に法政大学経済学部を卒業後、旧王子製紙に入社する。1946年(昭和21年)に日本パルプ工業に移り、資材部長に就任する。 1949年(昭和24年)に米子工場長、1960年(昭和35年)に取締役、1964年(昭和39年)に常務、1969年(昭和44年)に専務、1971年(昭和46年)に副社長、1973年(昭和48年)に社長に就任する。1979年(昭和54年)、旧王子製紙との合併により王子製紙会長に就任する。
結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7… 結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7月5日-2003年(平成15年)12月17日)は日本の政治家。山形県村山市長、引揚者団体全国連合会副理事長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1910年(明治43年)7月5日、山形県に生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業し、鏡泊学園に第一期生として入学する。2年目からは鏡泊学園の教官に任命されるが、応召され、咸興歩兵第74連隊で兵役を務める。 なお、鏡泊学園は、創立者山田悌一を含む学園関係者等15名が匪賊により殺害され、また、学園の財政難もあいまって、創立3年で学園は解散する。 除隊後、満州国の官吏となり、吉林省懐徳県街村指導官、1938年(昭和13年)に伊通県地方課長、1940年(昭和15年)に樺甸県総務部長、1942年(昭和17年)から満州国協和会に出向し、鶏寧県本部事務長、協和会副参事に就任する。
川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3… 川口 敏男(かわぐち としお、1910年(明治43年)5月3日 - 1989年(平成元年)7月16日)は日本の詩人。 1910年(明治43年)5月3日に兵庫県で生まれる。1942年(昭和17年)に法政大学文学部英文学科を卒業する。 17歳ごろから詩作を始め、百田宗治に師事して『椎の木』の同人となる。1935年(昭和10年)に『木欒』を主宰し、1937年(昭和12年)に阪本越郎らと『純粋詩』を創刊する。 1989年(平成元年)7月16日に死去、79歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 199… 三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 1996年1月8日)は、宮城県志田郡古川町(現・大崎市古川)生まれ、旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)、法政大学出身、日本の政治家。元・宮城県議会議員、日本社会党宮城県本部委員長、日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)宮城連合会長、河北新報社厚生部部長などを歴任。第46代内閣総理大臣の片山哲は義理の叔父にあたる。 仙台市博物館にある「魯迅の碑」設置にも尽力をした。
西垣 徳雄(にしがき とくお、1910年1月22日 - 19… 西垣 徳雄(にしがき とくお、1910年1月22日 - 1989年5月13日)は、兵庫県出身の野球選手。1950年発足の国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)初代監督。
苅田 久徳(かりた ひさのり〈きゅうとく〉、1910年1月1… 苅田 久徳(かりた ひさのり〈きゅうとく〉、1910年1月19日 - 2001年8月3日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督・審判員、解説者・評論家。 長女はSKD戦後8期生を経て大映の女優として活動した苅田とよみ、三女は映画『妻の日の愛のかたみに』主題歌等で知られる歌手の苅田千賀子。 少年時代から横浜で有名な野球少年であったが、旧制本牧中学校から進んだ旧制法政大学の1年目は失策が多かった。チームの低迷もあって、応援団が「あんな下手くそを使うな」と藤田信男監督に怒鳴り込む騒ぎもあったが、藤田は「野球をやるのはワシらだ。帰れ!」と追い返している。その後のハワイ遠征で受けた藤田の猛ノックが守備開眼の転機となり、2年目からは東京六大学一の堅守の遊撃手として名を馳せ、初優勝に貢献。
伊藤 次郎(いとう じろう、1910年 - 没年不詳)は、台… 伊藤 次郎(いとう じろう、1910年 - 没年不詳)は、台湾出身のプロ野球選手(投手)。
須山 卓(すやま たく、1910年 - 1981年)は、日本… 須山 卓(すやま たく、1910年 - 1981年)は、日本の経済学者、長崎大学名誉教授。 熊本県生まれ。1934年、法政大学法文学部卒。1958年、「華僑社会経済史研究」で拓殖大学経済学博士。満鉄東亜経済調査局副参事。大東文化大学教授、奥州大学教授。クアラルンプールJETRO事務局長、長崎大学経済学部教授、1977年、定年退官、九州産業大学教授。
中尾 明(なかお あきら、男性、1909年10月14日 - … 中尾 明(なかお あきら、男性、1909年10月14日 - 没年不明)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。 1931年、全日本アマチュア拳闘連盟主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会にフェザー級で優勝を収めた。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにバンタム級の日本代表として出場したが、1回戦でこの大会の銅メダリストとなるホセ・ルイス・ビジャヌエバ(英語版)(フィリピン)と対戦し、ポイント負けを喫した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
月田 一郎(つきた いちろう、1909年10月11日 - 1… 月田 一郎(つきた いちろう、1909年10月11日 - 1945年9月27日)は、日本の俳優である。 本名は築田 智二郎(つきた ともじろう)だが、本名同じとの説や月田 一郎(つきだ いちろう)説などもある。戦前に松竹蒲田撮影所、新興キネマ、東宝などで多数の作品に出演したバイプレーヤーである。身長は5尺4寸(約163.6センチメートル)、体重は14貫200匁(約53.3キログラム)。 1909年(明治42年)10月11日、山口県岩国町(現在の同県岩国市)に生まれる。幼児期に東京府東京市(現在の東京都)へ移り、早稲田小学校(現在の新宿区立早稲田小学校)、東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して、法政大学に進学する。
金久保 通雄(かなくぼ みちお、1909年10月3日 - 1… 金久保 通雄(かなくぼ みちお、1909年10月3日 - 1971年6月7日)は、昭和時代に活躍した新聞記者である。 東京出身。法政大学卒。国民新聞社、東京日日新聞を経て1936年に読売新聞入社。読売新聞時代には満州国新京支局長、論説委員、社会部長、出版局長を歴任した。つづり方コンクール、全日本学生キャンプ、読売教育賞などを企画する。また、日刊新聞を小中学校の教材にした新聞学習を提唱、実験教育を試みた。 1968年に定年により読売新聞社を退職、翌1969年、報知新聞社に転じて常務取締役・編集局長を務め、1970年に報知新聞を退職した。
太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 19… 太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 1996年11月15日)は、昭和・平成期の歌人、漢文学者、法政大学名誉教授。専門は中国詩学。文学博士。歌誌『潮音』主宰。妻(後妻)は歌人の太田絢子。青丘の娘は京都大学国語国文科卒の木村雅子(生母は満喜子)で『潮音』現主宰。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)生まれ。本名・兵三郎(ひょうざぶろう)。太田水穂の兄・嘉曾次の三男で、父の没後に水穂・四賀光子夫妻の養子となる。当初は漢詩の創作から始まり、1928年(昭和3年)水穂の歌誌『潮音』に入会。旧制武蔵高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部中国文学科卒。東大大学院をへて文部省国民精神文化研究所所員。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003… 小山 武夫(こやま たけお、1909年7月3日 - 2003年1月1日)は、日本の新聞記者・実業家。中日新聞社相談役および中日ドラゴンズのオーナー兼球団社長を歴任した。静岡県出身。 1909年(明治42年)7月3日、静岡県駿東郡楊原村(現在の沼津市)で芹沢常晴の五男として出生。旧制沼津中学校を経て、1934年(昭和9年)に法政大学経済学部を卒業。 満州国通信社、同盟通信社で記者として勤務し、1944年(昭和19年)5月に応召、陸軍に入隊し歩兵第19連隊に配属される。1946年(昭和21年)5月に中部日本新聞社(現在の中日新聞社)へ入社し、東京総局政治部長などを経て、1952年(昭和27年)に『中国国民政府との講和締結会談の報道』でボーン国際記者賞を受賞する。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1987年〈昭和62年〉4月19日)は、日本の小説家、翻訳家。 北海道函館市出身。函館中学卒業。1926年に上京、松本泰のもとに寄宿する。1933年、立教大学予科を経て、法政大学文学部独文科に入学する。関口存男・片山敏彦にドイツ語・ドイツ文学を学び、豊島与志雄からフランス文学を学ぶ。 同学科を卒業後、1936年、南満州鉄道株式会社に入社。1942年、満鉄を退社し、満洲国協和会調査部に入る。1945年、ソ連侵攻により捕虜収容所に収容され、5年に及ぶシベリア抑留となった。 1951年、抑留経験をもとに雑誌『近代文学』に「シベリヤ物語」を発表した。
申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4… 申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4日 - 1975年3月8日)は、大韓民国の詩人、ジャーナリスト、ソラボル芸術大学校(現・中央大学校)の教授。 本名は申 応植(シン・ウンシク、신응식/申應植)。本貫は高霊申氏。 大韓帝国忠清南道舒川で下級郷班の家に1男3女の中の末子として生まれた。1929年に京城府で詩人として文壇に登場し、1931年には渡日し留学生として法政大学哲学科で学んだが、1935年に病気により中退し帰国した。鄭寅普の紹介で李陸史と知り合い、『翡翠断章』、『パラチュム序詞』、『ヘビ』、『剣舞娘』、『芭蕉』などの詩を李陸史を通して子午線、詩学、文章などに発表した。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - … 岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - 2010年11月15日)は、日本の出版人。岡本綺堂の養子。青蛙堂書房創業者。 岡山県勝田郡勝間田町出身、旧姓は森部。 13歳で上京。1924年に額田六福の紹介で作家・岡本綺堂の書生となり、専検(専門学校入学資格検定試験)をとって法政大学の夜学に通う。1930年、法政大学高等師範科(国漢)卒業。 就職できず、綺堂監修の戯曲誌『舞台』の編集手伝いののち、三上於菟吉と改造社の編集者・塩谷晴如が興した出版社「サイレン社」に入り、三上の妻である長谷川時雨の編集担当として時雨の『草魚』や『近代美人伝』を手掛けた。同社は三上が経営から退いたことから経営難となり、塩谷が大衆本出版に手を出したが失敗、健一はその後始末に追われた。
栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月… 栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月25日 - 1989年(平成元年)11月10日)は元日本放送協会(以後NHK)専務理事。 1909年(明治42年)3月25日富山県黒部市で生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業する。 逓信省の勤務を経て、NHKに入局する。NHK名古屋中央放送局長、NHK経理局長などを経て、1963年(昭和38年)からNHK専務理事に就任する( - 1965年(昭和40年))。 1989年(平成元年)11月10日に死去、80歳。 1975年(昭和50年)に藍綬褒章を受章し、1980年(昭和55年)に勲三等瑞宝章を受章する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月… 河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月2日 - 1992年(平成4年)8月12日)は、日本の演劇評論家。 1909年(明治42年)3月2日に東京府京橋で生まれる。1934年(昭和9年)、法政大学法文学部を卒業する。 1937年(昭和12年)に読売新聞に入社し、レビュー担当記者になる。読売新聞娯楽部長を経て、演劇評論家になる。 読売新聞夕刊娯楽面に毎週「月曜ジャーナル」を掲載した。 また、芸術選奨文部科学大臣賞の演劇部門の選考委員を務めた。 1992年(平成4年)8月12日に死去、83歳。
小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 199… 小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 1990年10月17日)は日本の版画家。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもある。 1932年から藤牧義夫らとともに「新版画集団」(その後、造形版画協会に名称変更)を結成。失踪した藤牧が最後に会った人物としても知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)の向島小梅一丁目の酒屋の子として生まれる。 1924年、蒼原会に加入、白日会第2回展に出品。 1927年、早稲田実業学校卒業。在学中から卒業まで本郷絵画研究所に学ぶ。卒業後は絵描きになりたいと思いつつも、建築資材の商店で働いたり、小説家、俳優、代用教員の道を模索したりもするも叶わず、家業の酒屋を手伝う。
金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月1… 金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月19日 - 1970年3月9日)は、満州国および大韓民国の陸軍軍人、警察官僚、政治家。陸軍准将、第3代韓国国会議員。 1909年1月19日、全羅南道光陽郡(現・光陽市)出身。 普成中学校(朝鮮語版)、法政大学卒業。満州国中央陸軍訓練処(奉天軍官学校)3期卒業。 国立警察専門学校(現・警察人材開発院)校長、慶北警察庁長、慶北鉄道警察庁長、忠南鉄道警察庁長、公安局長、陸軍護国軍第105旅団長、全南地区兵事区司令官、全北戒厳民事部長、全北地区兵事区司令官、陸軍106師団長、陸軍本部兵務監、国防部第3局長、合同参謀本部第1部長・第3部長、韓米合経国防部代表を務めた後、陸軍准将として予備役に編入。
相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4… 相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4日)は日本の雑誌編集者、記者。雑誌「改造」の編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、山口県に生まれる。広島高等学校理科を病気で中退後、上京し、法政大学予科に入学、1932年に同大学法文学部独文科に進学する。在学中、大学内の左翼読書会グループに参加し、『戦旗』やマルクスの『賃労働と資本』などを読む。1934年に卒業し、神保町の尚文堂書店に勤務し、月刊『独逸語』の編集・校正に携わる。1937年に改造社に入社し、編集部に所属、記者として勤務する。雑誌『大陸』の記者などをし、1940年に編集主任、1941年10月頃に雑誌『改造』の編集次長となる。
小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5… 小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5日)は日本の雑誌編集者。『改造』編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、東京に生まれる。東京神田の大成中学を卒業し、1928年に法政大学予科に入学する。1931年に大学予科を卒業し、実兄が経営する出版業を手伝い、そのかたわらプロレタリア作家同盟東京支部に関係し活動する。1935年に法政大学法文学部英文科に入学し、1938年3月に卒業、同年4月に改造社に入社する。編集部に所属し、『大陸』『改造時局版』『改造』などの諸雑誌の編集業務に携わる。 1942年7月、細川嘉六の『植民史』の出版記念を兼ねた招待旅行・「泊旅行」に参加する。1943年5月26日、西尾忠四郎、相川博、木村亨、加藤政治らとともに治安維持法違反容疑で神奈川県特別高等警察に検挙される。
森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 200… 森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 2001年(平成13年)12月26日)は、日本の社会学者。大阪大学名誉教授、追手門学院大学名誉教授。専門は理論社会学、宗教社会学。 1909年(明治42年)、神奈川県に生まれる。1932年(昭和7年)に法政大学法文学部哲学科を卒業し、文部省に入省する。 文部省社会教育局、岡崎高等師範学校教員を経て、大阪大学助教授に就任する、のち教授。大阪大学を退官後、追手門学院大学教授に就任する。 2001年(平成13年)12月26日に死去、92歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月… 安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年〈明治41年〉11月16日 - 1969年〈昭和44年〉9月9日)は、日本の小説家(直木賞受賞)、随筆家。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。国際演劇協会理事。日本演劇協会常任理事。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。1934年(昭和9年)の法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。子供のころから親しんだ都新聞社へ途中入社したのは1939年(昭和14年)。都新聞は花柳界の広告を載せている文芸演芸の紙面に特色のある新聞で社長の福田英助の金言は「とかく人間は色と欲だ。
倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1… 倉光 俊夫(くらみつ としお、1908年11月12日 - 1985年4月16日)は、日本の小説家。 東京市浅草生まれ。法政大学文学部国文科を卒業。朝日新聞社会部記者、松竹演劇部・映画部勤務を経て作家活動に入る。武田麟太郎の『人民文庫』に参加の後、1941年に池田源尚・古沢元らと同人誌『麦』を創刊。1943年に『連絡員』で第16回芥川賞を受賞。 怪奇小説を数々ものす傍ら、高橋竹山を取り上げた『津軽三味線』も著している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 -… 島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 - 1997年(平成9年)5月15日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、うるま新報(現琉球新報)社長。 沖縄県糸満町に生まれる。1938年(昭和13年)、法政大学法文学部を卒業する。戦前は、社会運動家として、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党などで活動する。 1945年(昭和20年)、ウルマ新報(後にうるま新報に社名変更)の初代社長に就任する。 1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に日本社会党候補として東京都選挙区より出馬し、当選する。また、全国戦災者事業団副理事長に就任する。1954年(昭和29年)、日本社会党(社会党右派)中央執行委員に就任。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
宝生 弥一(ほうしょう やいち、1908年(明治41年)7月… 宝生 弥一(ほうしょう やいち、1908年(明治41年)7月2日 - 1985年(昭和60年)3月11日)は、ワキ方宝生流(下掛宝生流)の能楽師。元の名は光本弥一郎。 愛媛県松山市のワキ方下掛宝生流能楽師・光本敬一の長男として生まれる。1918年に上京し、下掛宝生流家元宝生新に入門する。翌年、「小鍛冶」の大臣役で初舞台を踏む。1923年、関東大震災に遭い、松山に帰郷する。1931年、法政大学専門部商業科を卒業する。1933年、宝生新の次女と結婚する。その後、宝生家に入籍し、宝生姓を名乗る。1944年、宝生新の死に伴い、宝生彰彦の家元後見となる。 1970年以降、芸術祭優秀賞・紫綬褒章・芸術選奨文部大臣賞、1980年には日本芸術院賞を受賞。
島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 19… 島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 1995年12月26日)は、兵庫県神戸市生まれのプロ野球選手・監督・審判員。
木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985… 木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985年)は、昭和時代日本の作曲家、音楽研究者。 青森県出身。兄は作曲家・民俗音楽収集家の木村弦三。 1908年(明治41年)、弘前市に生まれる。東奥義塾再興後の1回生であり、1933年(昭和8年)に法政大学英文科を卒業した後は小松耕輔、近衛秀麿らの師事を仰ぐ。 1947年(昭和22年)から1969年(昭和44年)まで県立弘前高校の音楽教諭を務める傍ら津軽地方の民謡を採譜・収集し、その成果を合唱曲「津軽の旋律」として1958年(昭和33年)に陸奥新報社より刊行した。作曲家としては元青森県副知事の横山武夫が作詞したものが多く、2代目「青森市民歌」をはじめ県内各地の校歌を数多く手掛けている。
小早川 泰士(こばやかわ やすし、1908年(明治41年)5… 小早川 泰士(こばやかわ やすし、1908年(明治41年)5月27日 - 1991年(平成3年)3月11日)は、観世流のシテ方能楽師。本名は小早川清士。 東京府に能楽師・小早川精太郎の子として生まれる。小早川家は熊本県の北岡神社に奉仕する座の狂言太夫の家柄である。1930年(昭和5年)に法政大学専門部商業学科を卒業する。父・小早川精太郎に師事して狂言方の修業をするが、1941年(昭和16年)にシテ方に転向し坂井音次郎に師事して、1947年(昭和22年)に「経正」で初シテを演じる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18… 田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18日-2000年(平成12年)7月8日)は日本の書家。全日本書芸文化院名誉代表。本名は田上重利。 1908年(明治41年)4月18日、熊本県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業する。1933年(昭和8年)に田代秋鶴に師事し、書を始める。教職の傍ら、書学に励み、1938年(昭和13年)に文部省検定(文検習字科)に合格する。 共立女子専門学校、白百合女子大学で書道の指導にあたり、1950年(昭和25年)に日本書道美術院審査員、1951年(昭和26年)に全日本書芸文化院副会長、1965年(昭和40年)に日本書道美術院理事、1971年(昭和46年)に全日本書芸文化院代表を歴任する。
原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年… 原 四郎(はら しろう、1908年2月15日 - 1989年2月15日)は、日本のジャーナリスト。読売新聞元副社長、日本記者クラブ初代理事長。 岐阜県高山市に生まれる。1932年、法政大学文学部仏文学科を卒業し、新聞学院に学び、1933年に国民新聞入社、社会部に配属される。1936年、読売新聞社社会部に移り、日中戦争の従軍記者として活躍し、戦時中はマニラ支局長などを歴任する。 戦後、文化部長を経て、1949年に社会部長に就任する。新宿暗黒街の粛正、繁華街における第三国人の暗躍を暴露した「東京租界」、東京中央魚市場の明朗化など数々のキャンペーンを実施する。1953年、読売新聞社会部による暗黒面摘発活動の記事により、第一回菊池寛賞を受賞する。
佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 199… 佐々木 康(ささき やすし、1908年1月25日 - 1993年9月13日)は、日本の映画監督。法政大学本科国文科中退後、松竹、東映、東映テレビプロダクションに属した。早撮りの名人として知られ、松竹時代は歌謡映画、東映時代は時代劇映画、東映テレビ時代はテレビ時代劇のヒット作を連発する。映画作品168本、テレビ作品500本弱を撮った、典型的なプログラムピクチャーの監督である。 1908年、秋田県平鹿郡沼館村(のち雄物川町、現・横手市)沼館の大地主の家に生まれる。山形県立新荘中学校時代に映画に興味を持ち、1929年法政大学在学中に清水宏の助監督として松竹に入社。清水の盟友の小津安二郎組に移り、1931年助監督の身分のまま『受難の青春』で監督デビュー。
冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1… 冨士原 清一(ふじわら せいいち、1908年〈明治41年〉1月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月18日)は、日本の詩人・翻訳家・編集者。戦前期日本のシュルレアリスムを代表する詩人。 1908年(明治41年)1月10日、大阪府に生まれる。1926年(大正15年)、大阪府立北野中学校を卒業、法政大学予科に入学。1934年(昭和9年)に法政大学法文学部文学科(仏文専攻)を卒業。卒業後は一時大阪に帰るが、1937年(昭和12年)に友人である春山行夫が編輯長を務める第一書房編輯部に勤務。1942年(昭和17年)11月に日本放送協会に転職、かけもちで太平洋協会調査局に勤務する。太平洋戦争で召集され、1944年(昭和19年)9月18日、朝鮮木浦沖にて戦没。
寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - … 寒川 光太郎(さむかわ こうたろう、1908年1月1日 - 1977年1月25日)は、日本の小説家。本名は菅原憲光(すがわら のりみつ)。北海道羽幌町出身。1940年、『密猟者』で第10回芥川龍之介賞を受賞した。 小学校教員だった父に伴い、8歳から樺太大泊に住む。1926年に北海中学校を卒業後、法政大学英文科に進むが中退。樺太と満州で新聞記者を務めた後に帰国し、喫茶店経営、日本共産党員、樺太庁博物館館員、雑誌編集などの職に就く。 1937年に上京。高円寺で経営していた古書店を家人に委ねて創作活動を続け(その古書店には埴谷雄高が通っていた)、同人誌「創作」創刊号に発表した『密猟者』で、1940年に芥川賞を受賞。
竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1… 竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1984年5月5日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡に生まれる。1931年に法政大学経済学部を卒業する。1932年に渡欧し、ベルリンに半年滞在した後、翌年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。1935年に帰国し、1936年に第23回二科展で「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。1937年に第24回二科展で「夏」が特待賞、1940年に第27回二科展で「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙される。しかし、1941年に師の藤田嗣治の二科会退会に従い同じく二科を退会する。新制作派協会に転じ、1942年に第7回展「休む男」等3点、1943年に第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。
高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1… 高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1日 - 1989年(平成元年)9月25日)は、日本の政治家、第4、5期魚津市長(1964年 - 1972年)、新川信用金庫理事、新開発公社理事長を歴任。 1907年(明治40年)12月1日、富山県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業し、東京建物に入社する。1954年(昭和29年)魚津市監査委員、1960年(昭和35年)同教育委員委員を経て、1964年(昭和39年)4月に魚津市長選挙に出馬し、当選する( - 1972年(昭和47年)5月)。 在任中は白倉小学校組合管理者、家事・民事調停委員、衛生処理組合管理者、魚津市開発公社理事長、新川育成牧場組合管理者、新川広域圏事務組合理事長、市体育協会会長などを兼任した。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)1… 平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)11月12日 - 1990年(平成2年)3月19日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)などを務めた。 那覇市出身。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を卒業後上京し、近衛師団兵器部にて働きながら法政大学専門部法律科に通っていたが、赤色救援会の活動への関与が発覚したことや病気療養により、一旦帰郷する。 だが、警察の監視つきで就職さえままならなかったため、1934年、ペルー・リマ市に渡り現地の日本人学校で8年間教鞭を執る。終戦後の1946年に沖縄へ戻り、村会議員や農協会長などを経て、1954年から4期にわたり立法院議員となる。
鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1… 鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1984年11月24日)は、日本の元ラグビー選手。 世田谷学園中学から法政大学へと進学。法大では主将を務めた。 卒業後は富士箱根自動車(後の小田急箱根。現・箱根登山バス)に進む。1930年のカナダ戦で日本代表初キャップを獲得。法大初の日本代表選手である。 1949年に法大ラグビー部監督に就任。1964年度の第1回全国大学ラグビー選手権大会で法大を優勝に導いた。
河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月1… 河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月15日 - 1993年(平成5年)8月29日)は日本の政治家。元東京都議会議長。位階は従四位。 1907年(明治40年)9月15日に東京で生まれる。1934年(昭和9年)に法政大学法学部を卒業する。 1947年(昭和22年)に世田谷区議会議員(2期)に当選し、1952年(昭和27年)に世田谷区議会議長に就任する。 1955年(昭和30年)に東京都議会議員(8期)に当選し、1977年(昭和52年)に東京都議会議長に就任する。 1993年(平成5年)8月29日、心不全により死去、85歳。死没日付をもって従四位に叙された。 1969年(昭和44年)に藍綬褒章を、1978年(昭和53年)に勲三等瑞宝章を受章する。