西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月1… 西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月17日 - 1995年(平成7年)10月17日)は、日本の解剖学者。 西村秀雄は1955年から1976年まで、京都大学医学部の解剖学教授として、《ヒトにおける奇形の発生率は初期胎児集団において高い》ことを報告した。この発見が《重度の奇形を持った胎児は自然流産につながりやすい》ことの根拠となった。 1948年、敗戦後の人口増加による窮乏を緩和するため、国会は社会的・経済的理由による妊娠中絶を合法化した。当時日本は米軍占領下にあり、GHQ公衆衛生福祉局は「避妊・家族計画」を推奨して中絶に反対したが、やがて賛同した。1960年から西村は22府県の1400人をこえる産科医の協力をとりつけ、妊娠初期に中絶のため医院を訪れる母親たちの同意を得て、摘出された胎児を研究標本として収集し、調査した。
蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 200… 蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 2001年2月14日)は、日本の農学者、農芸化学者。鹿児島大学第5代学長・名誉教授。農学博士。専門は発酵学(醸造学)、農産製造学。特に鹿児島の焼酎について長年研究した。 愛知県名古屋市出身。1930年、旧制愛知県立熱田中学校(愛知県立瑞陵高等学校の前身)卒業。1933年、旧制第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)理科乙類卒業。1940年に京都帝国大学農学部(現京都大学農学部)農林化学科を卒業し、同年4月から京都帝国大学副手。1941年4月、黒田製薬株式会社に入社。 1946年6月、旧制鹿児島農林専門学校教授に就任。鹿児島赴任以来、焼酎に関心を抱き、研究の一つの柱とする。
古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月1… 古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1989年〈平成元年〉5月11日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。毎日新聞社論説委員、JNNニュースコープメインキャスター。 東京出身。旧制成城高等学校卒業。同校の尋常科(旧制成城第二中学校)時代から非行に走り、喫煙に始まり学校をサボって映画館に入り浸るなどの行為を繰り返し、尋常科4年の際には落第一歩手前の状況となるが、同校のダルトン・プランなどのシステムをフル活用してなんとか落第を免れた。高等科では左翼運動に走り警察に検挙され、事実上停学処分となり3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない状態だったが、どういうわけか落第にもならず卒業できた。
藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年… 藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年5月3日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 1912年、熊本県熊本市で生まれた。愛媛県出身。京都帝国大学文学部哲学科で学び、1935年に卒業。 戦後、名古屋大学文学部助教授に就いた。後に教授昇格。1976年に名古屋大学を定年退官し、名誉教授となった。マルクス主義を主として研究した。
野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳… 野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳)は、日本の社会学者、広島大学名誉教授。京都帝国大学文学部史学科卒。1962年、「ギュルヴィッチ社会学の研究」で九州大学文学博士。広島大学教授。1976年、定年退官、名誉教授、佛教大学教授、広島修道大学教授。
加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月2… 加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月29日 - 1999年〈平成11年〉4月2日)は、日本の法学者(法理学・法哲学)。京都大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。1971年から1975年まで日本法哲学会理事長。沢内村名誉村民第一号。 1912年、岩手県和賀郡沢内村生まれ。1927年、宮城県白石中学校(宮城県白石高等学校の前身)4年修了、同年第一高等学校(一高)文科甲類入学。1930年11月、思想事件により一高を中途退学、1932年、第二高等学校文科甲類卒業検定合格。同年4月、京都帝国大学文学部哲学科入学、1933年、同大学法学部入学。1935年、高等試験行政科合格、1936年、同大学法学部卒業、直ちに同法学部助手に任用。
高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000… 高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000年4月1日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1936年に日立製作所に入社。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年11月に日立化成工業副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1981年6月に会長、1985年6月に相談役を経て、1995年6月には名誉相談役に就任。 1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年4月1日、死去。88歳没。
大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1… 大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1996年8月4日)は、日本の国文学者。 大阪市生まれ。1935年京都帝国大学文学部国文科卒。大学院で潁原退蔵に師事し近世文学、俳諧を専攻。出征したのち抑留され、1948年7月復員。1949年天理図書館司書研究員。1953年佐賀大学助教授、1958年大阪女子大学教授。75年定年退官、名誉教授、松蔭女子学院大学教授。89年退任、名誉教授。俳文学会代表。
勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 19… 勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。 東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。 東京府青山師範学校附属小学校、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創部され、キャプテンになる。1930年、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。
田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 199… 田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 1997年1月16日)は、日本の歌人、国文学者。 東京深川区生まれ。京都帝国大学国文科に入学し、「短歌草原」「香蘭」(村野次郎主宰)を経て、1933年(昭和8年)より吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画。なお吉澤没後、1962年より『ハハキギ』を引き継いで主宰した。 1936年(昭和11年)京都帝国大学国文科卒。卒業後、不況のため就職難先の確保に苦労したが、滋賀県立膳所中学校で教員を4年間務めた後、京都府立第一中学校で教員を務めた。この際、『ハハキギ』で交流があった日本文学研究者、里井陸郎に借家を用意してもらっている。その後、同志社女子大学教授、1982年(昭和57年)定年、奈良大学教授。
愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004… 愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月17日)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 1912年、京都府生まれ。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。1951年より東北大学文学部教授。1959年に『キタイ部族制社会の研究』を京都大学に提出して文学博士。1974年に定年退官し名誉教授。 退官後は京都女子大学教授となった。2004年6月17日、肺炎のため死去。子息の愛宕元も東洋史学者(京都大学名誉教授)だった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 19… 藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 1980年3月13日)は、人文地理学者。 和歌山県生まれ。1935年京都帝国大学文学部地理学科卒。和歌山師範学校教授、和歌山大学教育学部助教授、金沢大学法文学部助教授、教授、大阪市立大学教授。1976年定年退官、名誉教授、関西大学教授。ポリネシアの島嶼などを研究した。 1962年京都大学で文学博士。論文の題は「漁村の生態 : 人物地理学的研究」。
飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 201… 飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 2012年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期、公明党)、参議院議員(1期)、神戸学院大学教授。俳人。 愛知県名古屋市出身。1939年京都帝国大学法学部卒。同年満洲に渡り、総務庁協和会に勤める。1946年帰国し、翌年運輸省に入る。内閣調査室に出向、海上保安庁に戻ってからは、海上保安大学校の首席教授を最後に1969年に退職し神戸学院大学教授に就任した。 1974年の兵庫県知事選に公明党推薦で立候補するが落選、1976年の総選挙において兵庫3区から公明党公認で立候補して当選し2期務める。この間1977年4月18日の衆院法務委でロッキード事件の灰色高官を擁護する質問をした。
大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - … 大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - 1983年3月11日)は、日本の統計学者・僧侶。京都大学名誉教授。 新潟県加茂市生まれ。旧名・栄俊。1935年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1940年京都帝国大学経済学部卒、同助手、1942年日本鋼管入社、1949年京都大学経済学部助教授、1965年教授。1963年 経済学博士の学位を取得。1966-1967年経済学部長、1975年定年退官、名誉教授となり、日本福祉大学教授、1982年花園大学教授を務めた。
酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 19… 酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 1996年11月22日)は、日本の仏教学者。駒澤大学名誉教授。学位は、文学博士。 愛知県名古屋市生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒業。1936年、京都紫竹林学堂に入り京都大学文学部哲学科専科に3年間在学。1939年春、大本山總持寺に安居。後堂であった沢木興道老師に遭う。同年秋、大本山永平寺に安居。1941年、沢木老師の天暁禅苑(栃木県・大中寺。1944年10月解散)に入り、以後沢木老師に師事。1949年より駒澤大学に奉職。1957年、金沢市・大乗寺に宗立僧堂が開かれ、沢木老師と共に雲水を指導(1962年閉単)。 1969年『禅の実相』で文学博士(昭和44年2月26日)。
日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう… 日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう、1912年(明治45年)1月6日 - 没年不明)は、日本の平和運動家、元世界連邦建設同盟理事長。元日本ラッセル協会常任理事。山形県鶴岡市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - … 塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - 2005年3月12日)は、日本の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は花卉園芸学。草花・花木・その他の観賞植物の研究を通じて花卉園芸学を学問的に体系化した。 朝鮮の大邱生まれ。本籍は福岡県北九州市八幡西区。 大阪府立豊中中学校(現:大阪府立豊中高等学校)から第五高等学校(現:熊本大学)を経て、京都帝国大学農学部農学科に入学。 大学では園芸学を専攻。1937年(昭和12年)京都帝国大学農学部農学科卒業後、助手として4年間園芸学第一研究室に勤務。大阪府立園芸学校に転出。この時期、第2次大戦中の園芸の荒廃を見て将来の花卉園芸学への道を決意する。戦後いち早く輸出用球根類の研究を開始。
住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 200… 住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 2005年7月28日)は、日本の実業家。学位は、工学博士(東京大学)。第16代当主住友吉左衛門友成男爵の弟。父は住友友純。長男芳夫は住友家第17代当主。住友金属工業専務、住友精密工業会長などを歴任した。 1912年1月1日生まれ。1936年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1946年に住友金属工業に入社する。1962年11月取締役中央技術研究所所長となり、常務を経て、1970年11月専務に就任、1972年11月に相談役、住友精密工業会長となる。後に両社の監査役を務めた。この間、1953年(昭和28年)3月27日には「復元現象の研究」により東京大学から工学博士の学位を受け、さらに「ガスタービン並びにジェットエンジン用翼材の生産技術の確立」によって大河内記念賞を受賞している。
勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は… 勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第4代校長。 兵庫県出身。旧制兵庫県立姫路中学校、旧制姫路高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1936年、旧制灘中学校に着任。1971年から1987年まで校長を務めた。
谷口 隆之助(たにぐち りゅうのすけ、1912年 - 198… 谷口 隆之助(たにぐち りゅうのすけ、1912年 - 1982年3月)は、日本の宗教哲学者、宮城学院大学名誉教授。東京生まれ。青山学院中等部、神学部卒、京都帝国大学哲学科選科卒。1943年、京都大学宗教学研究室嘱託。1947年、東北学院専門学校(東北学院大学の前身)教授。東北学院大学助教授、宮城学院女子大学教授。1969年から1970年まで、大阪産業大学学長。のち、八代学院大学学長、1976年退職。
牧田 諦亮(まきた たいりょう、1912年(明治45年) -… 牧田 諦亮(まきた たいりょう、1912年(明治45年) - 2011年(平成23年))は、日本の僧侶、中国仏教史研究者。 1912年、滋賀県岩根村(現・湖南市)で生まれた。生家は野洲市の浄土宗念仏寺。小学1年の時、京都の寺町乗願寺・岩井真亮の弟子となった。 佛教専門学校(現佛教大学)を卒業後、大谷大学文学部東洋史学科に進学し、1936年に卒業。京都帝国大学文学部東洋史選科に進み、1939年に修了した。 1942年、中国に渡り、上海東亜同文書院大学助手に就いた。戦後の1946年、東方文化学院京都研究所助手に採用された。同研究所が1949年に改組された後は後継の京都大学人文科学研究所教授となった。
笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正… 笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正元年〉 - 1998年〈平成10年〉9月28日)は、日本のジャーナリスト、評論家。第二次世界大戦前後のヨーロッパに特派員として滞在し、多くの知見を得た。 1912年台湾基隆生まれ。1935年京都帝国大学文学部を卒業後、外務省に入省。1938年に渡欧。通算五十年近くにわたってチューリヒ、ブダペスト、イスタンブール、ベルリン、パリ、ボンなどに住み、文筆活動を続けた。この間朝日新聞、東京新聞、静岡新聞などの特派員、NHK解説委員等も務め、晩年はボンとチューリヒを拠点に静岡新聞などに執筆していた。 中でも第二次世界大戦前後の生の欧州情勢の報道は貴重な記録として残り、後に『第二次世界大戦前夜』などにまとめられた。
池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 197… 池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 1976年10月25日)は、日本の教育学者。 三重県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒、1936年同教育学科卒。大阪女子大学助教授、1955年京都大学教育学部助教授、教授。1971年「比較教育学研究序説」で京大教育学博士。 与党自由民主党推薦で教育法案について意見を具申したことがある。 1976年10月25日、脳内出血のため京都市東山区の官舎にて死去。64歳。喪主は長男の池田善郎(当時京都大学農学部助教授)が務めた。
大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月… 大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月14日 - 1991年〈平成3年〉10月25日)は日本の作曲家。 東京市小石川区新諏訪町(現:東京都文京区後楽)出身。父は麹町女学校を創立した大築佛郎。祖父は陸軍中将の大築尚志。 東京高等学校 (旧制)理科在学中から作曲を始め、1935年、第4回音楽コンクールに「管絃楽のためのトッカータ」で入選。1936年、宮内省雅楽部募集の雅楽に基づく管弦楽曲のコンクールに「舞」(ダンス・ラント)が入選。1940年京都帝国大学文学部卒。大学在学中、1937年、管弦楽曲「行列」でワインガルトナー賞に2等入選。京都帝大卒業後は同大学院に進み、音楽理論史や日本音楽を研究。
深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1… 深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1985年9月25日)は、日本の実業家、元官僚、元俳優である。終戦後の一時期、牧 壮吉(まき そうきち)を名乗り、東宝の専属俳優として活動していた。 1911年(明治44年)12月7日、北海道函館市に生まれる。 函館市立弥生小学校、旧制奈良県立奈良中学校(現在の奈良県立奈良高等学校)、旧制第四高等学校文科(乙類)をそれぞれ卒業後、京都帝国大学法学部(現在の京都大学)に進学する。旧制高校時代は時習寮委員長を務め、また、大学時代まで陸上競技部の投擲選手としてもならした。 1934年(昭和9年)、京都帝国大学卒業と同時に満洲国へ渡り、南満州鉄道株式会社に入社。
四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - … 四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - 2009年11月26日)は、日本の森林生態学者。京都大学名誉教授。京都府立大学名誉教授。京都府生まれ。 里山概念の普及に大きな影響を与えた人物であり、関連する数多くの著書を出している。また、京大山岳部出身で、京都大学学士山岳会での京大ヒマラヤ遠征隊の裏方を長らく務めた。また、京大教授時代は「探検部」の顧問も務めた。
西川 英夫(にしかわ ひでお、1911年11月22日- 20… 西川 英夫(にしかわ ひでお、1911年11月22日- 2000年11月12日 )は、日本の経営者、不動産鑑定士。東京建物社長、会長を務めた。 大阪府出身。1934年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京建物に入社した。1957年8月に取締役に就任し、1961年1月に常務、1972年8月に専務を経て、1975年6月に社長に就任。1979年3月に会長に就任し、1989年3月には取締役相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2000年11月12日、脳梗塞のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月1… 津田 松苗(つだ まつなえ、1911年(明治44年)11月15日 - 1975年10月9日)は、兵庫県出身の昆虫学者。男性。とりわけ水生昆虫学、汚水生物学の日本への導入とその研究で知られる。日本陸水学会元会長。 主な著書に『水生昆虫学』『水質汚濁の生態学』、『汚水生物学』がある。 1911年、兵庫県尼崎市に生まれた。京都に移り住み、旧制第三高等学校に進学、ドイツ語を専攻した。当初医学を志望していたが、健康を損ねて断念し、1932年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に進学、動物学を専攻した。動物学教室で川村多実二に師事し、水生昆虫の研究を行った。 1935年に同大を卒業し、大学院に進学した。1937年、交換留学生としてドイツのミュンヘン大学に留学、デモル教授(1882-1960)に師事した。
伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉… 伊藤 龍太郎(いとう りゅうたろう、1911年〈明治44年〉10月19日 - 没年不明)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。兵庫県川西市長(6期)。 三重県出身。1935年(昭和10年)京都帝国大学工学部機械学科卒業。大日本紡績に入り、1939年(昭和14年)入隊、1945年(昭和20年)除隊とともに退社。 1951年(昭和26年)日本精密機械工作社長、1960年(昭和35年)川西市商工会専務理事などを経て、1966年(昭和41年)の市長選で当時の小笠原新三郎市長を破って初当選。このとき、選挙ポスターで二連で並べて掲示すると公職選挙法の規定よりも上回るサイズのポスターになるのを使用し、陣営関係者が有罪判決を受けている。
大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月… 大谷長(おおたに まさる、1911年 <明治44年> 10月19日-1999年 <平成11年> 12月1日)は、日本のキェルケゴール研究者。位階は正四位。 京都市出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒、1940年京都帝国大学大学院修了。1962年「キエルケゴールに於ける授受の弁証法」で京都大学文学博士。大阪外国語大学助教授、61年教授(デンマーク語)。77年定年退官、名誉教授、大阪樟蔭女子大学教授。1964年第一回田辺賞受賞。デンマーク・ダンネプロ・ナイト勲爵士。初期には西辺利仙の名で小説も書いた。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月… 武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月2日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、日本の理論物理学者。理学博士。三段階論、技術論で知られる。 福岡県生まれ。台北高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。その一方、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって検挙された。戦時下には理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)にも関わっていた。1943年にロシア人医師ピニロピ(バルチック艦隊艦長の孫。後に武谷病院を開設)と結婚。 終戦後は、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊。
小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 19… 小西 秀次(こにし しゅうじ、1911年10月1日 - 1990年7月17日)は、日本の実業家。キリンビール社長、会長を務めた。三重県出身。 1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年にキリンビールに入社。 1966年に横浜支店長に就任し、営業部長、取締役、常務、専務を経て、1978年4月から1984年4月までに社長を務め、1984年4月から1988年までに会長を務めた。1988年から顧問を務めた。 専務在任時から1976年にはビール販売シェア63.8%と史上最高を達成し、シェア60%台を維持するなどキリンの黄金時代を築き上げた。 1990年7月17日、急性心筋梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 琢治(かとう たくじ、1911年9月30日 - 199… 加藤 琢治(かとう たくじ、1911年9月30日 - 1999年7月2日)は、日本の経営者。ニチロ社長を務めた。新潟県出身。 1939年に京都帝国大学法学部を卒業し、1943年にニチロに入社。1966年1月に取締役に就任し。1970年1月に常務、1973年1月に専務、1974年1月に副社長を経て、1975年1月に社長に就任。1981年2月に取締役相談役を経て、1982年2月に相談役に就任。 1996年に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年7月2日肺炎のために死去。87歳没。
高田 弘(たかだ ひろし、1911年9月22日 - 1997… 高田 弘(たかだ ひろし、1911年9月22日 - 1997年7月31日)は、日本の経営者。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 愛知県出身。1935年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、東洋紡績、東亜化学、協和産業での勤務を経て、1949年に協和醗酵工業に入社。1958年に取締役に就任し、1962年に常務、1964年8月に専務を経て、1971年7月に副社長に就任し、1972年7月には社長に昇格。1978年3月に取締役相談役に就任し、1980年3月に相談役を経て、1990年4月には特別顧問に就任。 1997年7月31日肺癌のために死去。85歳没。
山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日… 山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日 - 1990年(平成2年)1月19日)は、日本の医学者、整形外科医。新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)出身。京都帝国大学医学部医学科卒業。徳島大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月1… 舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月14日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の政治家。3期10年にわたり京都市長を務める。全国革新市長会副会長。 岡山県岡山市出身。旧制第二岡山中学校(現;岡山県立岡山操山中学校・高等学校)、1934年京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。その後は住宅局、民生局、水道局(現:上下水道局)の各局長などを経て、1967年助役に就任。1971年の京都市長選に日本社会党と日本共産党の推薦を得て出馬し、前民社党代議士の永末英一らを破り初当選を果たす。 当選時は、同じく革新系の京都府知事蜷川虎三も「府市協調を歓迎する」と発言したものの、1975年の市長選では社会党の妨害によりこれまでの社共共闘が崩壊。
稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 199… 稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 1990年4月7日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1938年に京都帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に三菱鉱業に入社。1963年5月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1971年に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1990年4月7日心不全のために死去。78歳没。
藤枝 晃(ふじえだ あきら、1911年〈明治44年〉8月3日… 藤枝 晃(ふじえだ あきら、1911年〈明治44年〉8月3日 - 1998年〈平成10年〉7月23日)は、日本の東洋学者。敦煌学および西域出土の古写本研究の第一人者である。 1911年、大阪府西成郡粉浜村(大阪市住之江区)生まれ。旧制大阪高校を経て、1934年(昭和9年)、京都帝国大学文学部史学科を卒業。 卒業後は同文学部の副手に着任。1937年(昭和12年)、東方文化研究所の図書係、のちに同副研究員となった。太平洋戦争末期には中国・内蒙古の西北研究所に派遣され、現地調査に従事した。 戦後の1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所助教授となった。1951年(昭和26年)、研究所の森鹿三を班長とする居延漢簡共同研究班に所属し、木簡の研究を行った。
武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 198… 武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 1987年1月5日)は、日本の経営者、工学博士。大同特殊鋼社長、会長を務めた。 京都府出身。1935年に京都帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鐵八幡製鉄所に入社。1961年に取締役に就任し、1963年に常務、1968年3月に専務、1970年3月に新日本製鐵専務を経て、1973年に大同製鋼社長に就任し、1976年9月には大同特殊鋼社長に就任。1982年9月に取締役相談役を経て、1984年9月に相談役に就任。 1965年4月に事業功労賞を受賞し、1975年4月に製鉄功労賞を受賞した。1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章した。
安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1… 安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1984年5月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。岡山大学名誉教授。 1911年、愛知県西春日井郡豊山村(現:豊山町)生まれ。1929年、旧制・明倫中学校を出て、第八高等学校(文科甲類)に進学。1933年、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。大学では、田辺元らの指導を受ける。1936年に同大学を卒業し、大学院に進んだ。 1941年、第四高等学校教授に着任。太平洋戦争を経て、1949年に金沢大学助教授に就任。1951年、教授に昇格。1953年より立命館大学文学部教授。1958年からは文学部長を務めた。1956年、東京大学にて文学博士号を取得。1967年、岡山大学教授に転じた。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1998年5月7日)は、日本の近世文学研究者。博士(京都大学・1962年)(学位論文『戯作論』)。 兵庫県津名郡由良町(現:洲本市由良3丁目)に父・中村安郎、母・しげの次男として生まれる。旧制洲本中学校、1935年、京都帝国大学文学部国文科卒業。1940年、天理図書館司書となり、京都帝国大学大学院を退学。1949年、天理大学教授、1958年、九州大学文学部教授となる。1962年『戯作論』で京都大学の博士号を取得。1971年、九州大学を退職、関西大学教授に就任。 1981年、『此ほとり一夜四歌仙評釈』で第32回読売文学賞受賞。1982年から『中村幸彦著述集』の刊行開始(1989年7月まで)。
佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2… 佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2006年3月26日)は、日本の経営者。富士重工業社長を務めた。鳥取県出身。 1937年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日産自動車に入社。 1960年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年11月に副社長に就任。1978年10月に富士重工業社長に就任し、1985年6月に会長を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年3月26日肺炎のために死去。94歳没。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994年3月8日)は、日本の法学者。専門は民法。第8代目八幡大学(現・九州国際大学)学長。 1911年、関東州大連生まれ。兵庫県出身の実父は幼少時に漢学を学んだ後に満州に渡った人物で、豪商として財を成していた。旧制大連一中より旧制山口高等学校に入学。1931年(昭和6年)、京都帝国大学法学部に入学。末川博教授の薫陶を受け民法・労働法を学んだ。1933年に京都帝国大学で滝川事件が起こった際には、時の文部大臣鳩山一郎に面会を強要し上京。強烈な抗議文をつきつけた法学部数名の中に吉田五郎の名があった。この抗議文は当時の新聞にも掲載された。1934年、京都帝国大学法学部を卒業。
前川 貞次郎(まえかわ ていじろう、1911年6月28日 -… 前川 貞次郎(まえかわ ていじろう、1911年6月28日 - 2004年3月9日)は、日本の歴史学者(西洋史)。京都大学名誉教授。 1911年、京都府京都市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1935年に卒業。 1949年、京都大学人文科学研究所助教授に就いた。1952年に文学部西洋史学科助教授に配置換え。1957年、学位論文『フランス革命史研究:史学史的考察』を京都大学に提出して文学博士号を取得。に教授昇格。1975年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、甲南大学教授、帝塚山大学教授を務めた。2004年に死去。 フランス革命を中心にフランス史を研究した。
川田 周雄(かわた かねお、1911年6月13日 - 198… 川田 周雄(かわた かねお、1911年6月13日 - 1984年7月3日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京出身。漢学者で貴族院議員を歴任した川田甕江の孫。熱帯産業社長・川田鷹の四男で、叔父で歌人・住友総本社理事の川田順の養子となる。1937年京都帝国大学文学部英文科卒、京都大学医学専門学校教授、京都大学教養部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、甲南大学教授。
佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999… 佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999年7月8日)は、日本の西洋史学者、教育者。熊本学園大学名誉教授。朝鮮京城府大和町生まれ。京都帝国大学文学部史学科卒業後、京城の高等女学校で教員生活を始める。第二次世界大戦後は父の故郷である熊本県で熊本師範学校教授、熊本短期大学・熊本商科大学(いずれも現・熊本学園大学)教授、熊本商科大学付属高校の校長などを務めた。1983年、勲四等旭日小綬章受章。 1911年(明治44年)5月28日、朝鮮京城府大和町に佐々正之(まさし)・トキ夫妻の四男として生まれる。兄3人、弟1人、妹2人の7人きょうだいだった。父・正之は熊本藩士・佐々陸助(むつすけ)の四男として幕末の熊本に生まれたが、結婚後に京城に移ってジャーナリストなどを務めており、久を含む7人きょうだいは皆京城で生まれた。
一圓 一億(一円 一億、いちえん かずお、1911年〈明治4… 一圓 一億(一円 一億、いちえん かずお、1911年〈明治44年〉5月23日 - 1987年〈昭和62年〉6月3日)は、日本の法学者。専門は憲法。 高知県安芸郡安芸町(現安芸市)で、一圓太吉郎、猪久代の五男として生まれた。県立安芸中学校(現高知県立安芸中学校・高等学校)、高知高等学校を経て、1934年京都帝国大学法学部を卒業。 卒業後、民間企業に就職したが、個人的に京都帝大の教授であった田村徳治に師事し、憲法研究を行う。1943年、上海の東亜同文書院講師となる。 終戦により帰国。1946年愛知大学助教授、1953年関西学院大学法学部教授。1956年「法の解釈と適用」で関西学院大学より法学博士の学位を取得。
林 千博(はやし ちひろ、1911年 <明治43年> 5月2… 林 千博(はやし ちひろ、1911年 <明治43年> 5月23日 - 1987年 <昭和62年> 5月25日)は、日本の電気/電子物理工学者、制御工学者。工学博士(京都帝国大学)・理学博士(京都大学)。京都大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。 マサチューセッツ工科大学(MIT)・コロンビア大学客員教授。電気学会元副会長・名誉員。電子情報通信学会非線形問題研究会元専門委員長。国際非線形力学会元編集委員。元国際理論および応用力学連合(IUTAM)非線形シンポジウム組織委員。国際的な非線形振動研究のパイオニア。勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。 専門は、電気/電子物理工学、非線形振動/非線形力学・カオス理論・制御工学、電力工学・電気回路(電動機含む)。
牧野 忠永(まきの ただなが、明治44年(1911年)5月2… 牧野 忠永(まきの ただなが、明治44年(1911年)5月21日 - 昭和51年(1976年)11月22日)は、明治から昭和にかけての越後長岡藩牧野家の第16代当主。貴族院議員、子爵。妻は高倉永則の娘・元子。 明治44年(1911年)、大給松平家の宗家である旧三河西尾藩主家の子爵・大給松平乗統の次男として生まれた。初名は松平義夫。先代当主・牧野忠篤の死後、親族などの協議により養子に迎えられた。なお、牧野忠篤の長男・牧野忠康は、相続人からはずされていた。 昭和10年(1935年)4月21日、養父の死去により家督を継いで、越後長岡藩牧野家の第16代当主となった。そして、爵位を襲爵し子爵となる。同年、京都帝国大学経済学部を卒業し、三井生命保険に入社。