谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月1… 谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月12日 - 1987年(昭和62年)12月13日)は、日本の理論物理学者。1939年に物理学者の坂田昌一と共に中性中間子が非常な短時間で2つあるいは3つのγ線になることを発表した。兵庫県出身。 1949年に日本人で初めてノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞した湯川秀樹に師事し、1942年に坂田昌一、井上健と共に中間子とミュー粒子は別種であり、中間子はミュー粒子より重く、中間子が自然崩壊してミュー粒子に変化するという二中間子説を提唱した学者として知られている。 1916年3月12日、兵庫県に生まれ、大阪帝国大学(現:大阪大学)を卒業する。 名古屋帝国大学(現:名古屋大学)にて助教授を務め、神戸大学で教授となる。
三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994… 三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者、理学博士。参天製薬社長を務めた。兵庫県出身。 1938年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業し、1944年に母校の大阪大学で助教授を務め、1946年に参天製薬に入社。1970年12月に副社長に就任し、1983年7月には社長に昇格。1990年10月に会長に就任。 1994年12月12日心不全のために死去。79歳没。
森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年… 森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年12月17日)は、日本の教育学者、教育哲学者、文学博士、大阪大学教授。 大正4年(1915年)10月30日鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)で生まれる。 鹿児島県立第一中学校 (旧制)および旧制第七高等学校造士館 (旧制)(理科乙から文科乙に転科)を経て京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院教育学専攻修了。京都学派第一世代である田邊元に哲学を師事し、西田幾多郎門下の木村素衛の下で大学院において教育学を修める。 森は京都学派第二世代でこの学派の教育学領域において傑出した業績を残した。ドイツ留学以前、カントやヘーゲル等のドイツ観念論哲学・ハイデッガーやヤスパース等のドイツ系の実存主義哲学を基礎に、戦後新教育の思想的背景となったジョン・デューイの経験主義教育哲学の解釈に努めた。
高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1… 高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1987年1月24日)は、日本の実業家、工学博士。神戸製鋼所社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1915年9月20日熊本県で生まれる。1938年に大阪帝国大学理学部を卒業し、同年に神戸製鋼所に入社した。1966年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年10月から社長に就任した。1983年6月から会長に就任した。 日本溶接棒工業会、日本伸銅協会、日本産業用ロボット工業会、軽金属溶接構造協会の各会長、中東協力センター、造水促進センターの各理事長なども歴任した。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1985年に製鉄功労賞を受章した。
関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 201… 関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 2013年12月24日)は、日本の化学者(物理化学)。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(大阪帝国大学・1945年)。大阪大学名誉教授、日本学士院会員。 大阪大学理学部教授、関西学院大学理学部教授などを歴任した。 1915年兵庫県(現在の西宮市)生まれ。父は実業家の関桂三。1938年大阪帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。物質状態の理解に広く適用されている熱力学に物質構造の観点を加え、固体および液体状態の研究の発展に大きな貢献をした。また、「ガラス状態の熱力学的研究」は精密な熱測定による実験に基づき、物質内の分子の集合状態の研究を行った。
秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 … 秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 - 1994年7月9日)は、日本のジャーナリスト。滋賀県出身。朝日新聞社専務取締役、日本ジャーナリスト会議代表委員を務めた。 浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺住職の父諦観と母いくの次男として生まれる。1936年3月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)露語部を卒業する。 同1936年8月、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社し、奈良通信部に配属される。1937年1月、兵役に召集され、金沢の騎兵第9連隊に入営のため朝日新聞社を休職。満州ハルビンに配属されて初年兵の教育を受け、幹部候補生に採用されて6月に一等兵として帰国。翌1938年1月千葉県習志野の陸軍騎兵学校に入校、7月少尉任官、騎兵第9連隊が駐屯中の中国・蘇州で原隊復帰。
奥野 良臣(おくの よしおみ、1915年3月15日 - 20… 奥野 良臣(おくの よしおみ、1915年3月15日 - 2011年8月1日)は、日本のウイルス学者。大阪大学名誉教授。専門は病原微生物学。旧姓は牧浦。 1915年(大正4年)3月15日生まれ、大阪府出身。大阪帝国大学(現・大阪大学)医学部卒業。 1956年(昭和31年)、大阪大学教授となり、1968年(昭和43年)、大阪大学微生物病研究所所長。1954年(昭和29年)、麻疹ウイルスを分離、1960年(昭和35年)、麻疹生ワクチンを開発する。いずれもノーベル賞を受賞したエンダースと同年度に独立して成功する。日本ウイルス学会会長などを務める。 2011年(平成23年)8月1日、肺炎のため96歳で死去。
岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 … 岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の医学者。生理学者。 大阪府大阪市出身。大阪府立市岡中学校、浪速高等学校、大阪帝国大学医学部卒業。 1943年に大阪帝国大学(現大阪大学)講師、1945年に同大学助教授に就任。1945年7月、大阪大学医学博士。論文の題は「生体肝組織における酸化還元電位的場に関する研究」。 その後、1948年7月に新設の徳島医科大学(現徳島大学)初代教授に就任。1951年に新制大学の発足に伴い徳島大学教授となり、1967年に同大学医学部長に就任。 1975年より日本学術会議10・11期会員に選出、国際学術交流委員会会員・生理科学研究連絡委員会等を歴任。
新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日… 新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日 - 2005年〈平成17年〉3月5日)は、日本の実業家。ニッタ社長。大阪ゴム工業会相談役。ニッタ創業者新田長次郎の孫。ニッタ会長・新田長彦の父。 大阪府大阪市出身。新田長三の長男。1939年に大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業、新田帯革製造所に入社した。1945年に新田ベルト、新田ゴム工業各取締役に選ばれ、ついで新田ゴム工業社長に就任。芦原自動車教習所取締役をつとめる。 住所は大阪市浪速区芦原町、堺市出島海岸通2丁目、兵庫県西宮市上甲東園1丁目・2丁目。宗教は真言宗。趣味は写真、水泳、ゴルフ。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
伊藤 順吉(いとう じゅんきち、1914年(大正3年)3月1… 伊藤 順吉(いとう じゅんきち、1914年(大正3年)3月13日 - 2009年(平成21年)1月9日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は原子核物理学、物性物理学。 伊藤竹之助、ときの次男として生まれる。父・竹之助は伊藤忠兵衛 (初代) の長女・ときの婿養子。兄は伊藤英吉。妻は後藤文夫の次女保子。 甲南小学校(9回生)、旧制甲南高等学校を経て、1936年に大阪帝国大学理学部物理学科(一期生)を卒業後、同学科の菊池正士の下につく。高エネルギー電子線を活用する原子核研究を行うため、日本で最初のサイクロトロン建設に携わり、戦時中には同学科教授、1943年春から海軍嘱託として、海軍極超短波レーダーの基礎的部分の研究を山口省太郎(同学科助教授)と共に担当し、菊池グループで重要な役割を果たす。
金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年また… 金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年または1915年 - 1989年11月26日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の慶尚北道栄州郡出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。日本で製薬業を営んだほか、新聞記者を3年間務め、楽貴歌劇団の経営も行った。光復後は大同青年団・韓国青年会会長、大韓青年団栄州郡団長、博愛園園長、議会新聞社社長、厚生会理事長を歴任した。1948年の初代総選挙では栄州郡選挙区から無所属で出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙では大韓青年団の候補として当選した。国会議員時代は国会文教委員を務め、共和民政会所属で活動したが、議員非行糾弾事件により朴順天、尹吉重らと共に離党した。
水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10… 水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10月7日 - 1999年〈平成11年〉4月15日 )は、日本の実業家。ミズノ社長・会長を務めた。父はミズノ創業者の水野利八(次男)。長男はミズノ会長の水野正人、次男はミズノ社長の水野明人。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1936年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。大日日本電線での勤務を経て、1942年5月に美津濃取締役に就任。1947年に副社長に就任し、1969年には社長に昇格した。社長在任時には、1969年にアメリカに現地法人を設立するなど、ミズノを世界有数のスポーツ用品メーカーに育て上げた。1988年に会長に就任。 1972年から1994年までに関西経済同友会幹事を務めた。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 199… 若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 1993年4月2日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。第10代大阪大学総長。元大阪府教育委員長。長野県長野市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1… 竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1989年1月23日)は、日本の化学者。 生物活性アミノ酸並びに昆虫変態ホルモンの権威。日本薬用植物友の会名誉会長。 1913年(大正2年)大阪府岸和田市に生まれる。1933年(昭和8年)大阪薬学専門学校 (旧制)を卒業後、東京帝国大学医学部に勤務し生薬を研究。1949年(昭和24年)大阪大学教授、1960年(昭和35年)東北大学医学部薬学科教授。後に徳島文理大学に移って薬学部長を務めた。
石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1… 石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1993年9月15日)は、日本の産婦人科学者。名古屋大学医学部教授、同大学総長(第7代)を歴任し、大阪府立母子保健総合医療センター初代総長を務めた。絨毛性腫瘍の臨床的研究で知られる。 アメリカ合衆国・サンフランシスコに生まれる。大阪帝国大学医学部を卒業後、大阪大学で助手・助教授を務め、奈良県立医科大学教授を経て、1961年に名古屋大学医学部教授に就任した。 名古屋大学では、1971年から1972年にかけて名古屋大学医学部附属病院の院長事務取扱を務め、1972年から1974年まで医学部長、1975年から1981年まで第7代総長を務めた。 総長在任中の事績としては、大幸キャンパスへの名古屋大学医療技術短期大学部の設置(1977年)、医学部附属病院分院の移転(1979年)、中央図書館の完成(1981年)などが挙げられる。
杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - … 杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - 1976年12月17日)は、日本の実業家。荏原製作所社長を務めた。 和歌山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。 1962年12月に取締役に就任し、1970年12月に常務、1973年3月に専務を経て、1976年4月には社長に就任。 1976年12月17日、急性肝不全のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 196… 中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 1964年6月5日)は、日本の数学者(環論・表現論)。名古屋大学教授在職中に逝去。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学を卒業。1937年から2年間、プリンストン高等研究所に滞在。1941年、大阪帝国大学より博士号を取得。1944年、名古屋大学教授。1954年に日本学士院賞を受賞。1963年日本学士院会員。名古屋数学雑誌(NAGOYA MATHEMATICAL JOURNAL)の創刊、編集に尽力した。代数学における中山の補題で有名。1964年に結核のため死去。晩年、理学部A館4階の研究室まであえぎつつ階段を昇る博士のために置かれたという「中山先生の椅子」の話はいまでも語り継がれている。
西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 … 西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 - 2004年(平成16年)12月22日)は口腔解剖学者、大阪大学名誉教授。奈良県生駒郡出身。旧制・大阪府立高津中学校を経て大阪大学卒業。 1951年(昭和26年)に大阪大学に歯学部が設立された際、口腔解剖学講座として開設され、1951年(昭和26年)から1976年(昭和51年)まで初代主任教授を務めた。口腔解剖学講座は2000年(平成12年)の大学院部局化に伴い口腔分化発育情報学講座口腔解剖学第一教室となった。1985年(昭和60年)勲三等旭日中綬章受章。 1950年大阪大学医学博士、論文名は「歯牙硬組織缺損の法医学的研究 」。 2004年(平成16年)12月22日、老衰のため92歳で死去。
内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 20… 内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 2003年9月2日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の設計部員、富士重工業の取締役、東海大学の教授などを務めた。戦前は艦上偵察機「彩雲」、戦後は国産初の量産型ジェット機T-1の設計などを手掛けた。 第二高等学校、大阪帝国大学数学科を経て、飛行機の研究をするため、東京帝国大学工学部航空学科に入学。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、高山捷一、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。卒業論文は「翼性能に及ぼす乱れ及び規模効果の影響」。中島飛行機社長の中島知久平から連絡を受け、同級生の渋谷巌と共に向かい会社訪問で入社が決まった。
吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11… 内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11月15日 - 1988年(昭和63年)12月3日)は、昭和時代の日本の経営者 、実業家。 内藤節爾・タケの長男として東京に生まれる。1934年(昭和9年)大阪帝国大学機械工学科卒。現・三井化学の前身である東洋高圧工業に入社。東洋高圧工業化工事業開発室長を経て、1961年(昭和36年)東洋エンジニアリング設立とともに専務となる。1965年(昭和40年)同社副社長、1968年(昭和43年)社長、1982年(昭和57年)会長に就任。1987年(昭和62年)6月相談役となる。尿素を原料とした肥料プラントの輸出振興に努め同社の経営基盤を築いた。身障者への奉仕活動に尽力する。
川原 琢磨(かわはら たくま、1911年5月24日 - 19… 川原 琢磨(かわはら たくま、1911年5月24日 - 1980年10月2日)は、日本の土木・地球物理学者。大阪工業大学第5代学長。工学博士(大阪大学)。輻射科学研究会元監事。 専門は地球物理学・ 地球環境科学、環境水理学・土木工学、農業土木・農業気象学。 福岡県出身。京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(第3講座気象学指導教授:日本気象学会関西支部創設者の滑川忠夫)。同大学助手などを経て、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授 。1961年工学博士(大阪大学)。1972年大阪工業大学学長に就任するも、翌年、健康上の都合により同大学退官。 大阪工業大学工学部土木工学科にて、20年以上教鞭を執り、特に大学初期の地球環境科学/環境水理学と土木工学の融合の研究育成に貢献した。
釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 … 釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 - 1977年4月13日)は、日本の病理学者。元大阪大学総長。大阪市生まれ。 旧制大阪府立住吉中学校(現・大阪府立住吉高等学校)、旧制大阪高等学校を経て1936年、大阪帝国大学医学部卒業。同年12月、陸軍軍医に任命。1946年の復員まで中国戦線に従軍。1949年、大阪大学医学部講師。1952年、大阪大学微生物病研究所助教授、翌年同教授。1958年~69年、同所長を務めた。1969年〜75年、大阪大学総長。1977年4月13日、心筋梗塞のため死去。叙従三位、勲一等瑞宝章追贈。 1969年より大阪大学第9代総長を務めた。当時の大学紛争に対しては毅然と対処した一方、改革を推進し、人間科学部、溶接工学研究所、言語文化部、文学部日本学講座を創設した。
内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8… 内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8月18日 - 1996年 <平成8年> 10月31日)は、日本の経営者。日立電線社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1956年10月に日立電線に転じ、1961年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1968年11月に専務を経て、1970年5月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月に会長を経て、1983年6月から相談役を務めた。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1996年10月31日呼吸不全のために死去。86歳没。
森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - … 森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - 1986年8月29日)は、日本の中国思想研究者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。大阪大学名誉教授、佛教大学文学部教授。専門は仏教と老荘思想との関連を軸とした中国哲学史。 京都府舞鶴市生まれ。旧制・大阪府立高津中学校卒、1935年京都帝国大学文学部哲学科支那哲学史専攻を卒業。京都帝国大学副手、東方文化研究所(現京都大学人文科学研究所)を経て、1942年大阪高等学校教授に任命。1950年大阪大学文学部助教授、1962年「上古より漢代に至る性命観の展開」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1966年教授、1973年定年退官、名誉教授。
岡 藤次郎(おか とうじろう、1908年7月9日 - 199… 岡 藤次郎(おか とうじろう、1908年7月9日 - 1996年9月22日)は、日本の経営者。三菱油化(現・三菱ケミカル)社長を務めた。三重県出身。 1933年に大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に大阪市立工業研究所に入所。翌年に三菱化成に移り、1956年に三菱油化に移った。翌年に取締役に就任し、1969年に社長に昇格した。1972年から相談役を務めた。 1996年9月22日心筋梗塞のために死亡。88歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
中井 信夫(なかい のぶお、1908年(明治41年)5月31… 中井 信夫(なかい のぶお、1908年(明治41年)5月31日 - 2004年(平成16年)12月13日)は、日本の政治家。元大阪府議会議員(自由民主党)、元大阪府議会議長。薬剤師。大和屋薬局代表社員。位階は従五位。 大阪府出身。1929年(昭和4年)大阪薬学専門学校(のち、大阪大学医学部薬学科、現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。同年、堺市で薬局を開業する。堺薬剤師会長、堺市議を経て、1947年(昭和22年)大阪府議会議員に当選する。以来連続6回当選。 1964年(昭和39年)大阪府議会議長に就任。翌1965年(昭和40年)全国都道府県議会議長会会長に就任。同会長は1949年に会長職が置かれて以来、東京都議会議長が代々その座に就いていたが、同年に発生した都議会議長選挙に絡む汚職事件(東京都議会黒い霧事件)により、現職都議会議長で会長の小山貞雄が逮捕されたため、小山は会長を辞任。
竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月… 竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月22日 - 1994年〈平成6年〉6月27日)は、日本の化学者、化学史家。理学博士。大阪大学名誉教授。専門は有機化学。 新潟県新潟市礎町通一ノ町(現 新潟市中央区礎町通一ノ町)の製材業・竹林松次郎の次男として出生。 1925年(大正14年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学理学部化学科を卒業、4月に資生堂研究部に入社。 1933年(昭和8年)2月に資生堂を退職、東京帝国大学理学部大学院に入学、有機化学を研究、1935年(昭和10年)3月に大学院を退学、4月に東京開成中学校講師に就任、教壇に立つ傍ら、東京帝国大学理学部化学教室で研究に従事。
水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1… 水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1984年5月10日)は、日本の整形外科医・登山家。大阪大学名誉教授。 神戸市生まれ。1930年大阪府立医科大学(現大阪大学医学部)卒、同第一外科に入る。1946年「荷重と足骨骼構造」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。1947年大阪市立大学整形外科教授。1960年大阪大学医学部教授。1964年日本リハビリテーション医学会第1回会長。70年大阪大を定年退官[要出典]、名誉教授、川崎医科大学教授。72-80年同学長。 山歩きとスキーを趣味とした。1928年、西岡一雄、藤木九三らとロック・クライミング・クラブ(RCC)を創立した。アフガニスタンへ赴任したこともある。
藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 -… 藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 - 1992年8月15日)は、日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。 1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。祖父藤野升八郎から三代続けての医家。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
畠中 敏郎(はたけなか としお、1907年1月10日 - 1… 畠中 敏郎(はたけなか としお、1907年1月10日 - 1998年6月25日)は、フランス文学・比較文学者。 高知県香美郡岸本町(現香南市香我美町)出身。1927年大阪外国語学校仏語科卒、京都帝国大学助手、1931年大阪外語専任講師、1936年助教授、1938年教授、1944年陸軍教授となりサイゴンに勤務、1946年復員、1947年天理語学専門学校教授、1949年天理大学教授、1951年大阪外国語大学教授、1955年初めての渡仏、1971年定年退官、名誉教授、琉球大学教授を務めた。フランス政府より数次にわたりシュヴァリエに叙勲される。南仏について研究、プロヴァンス語も研究し、のち琉球の芸能についても論をなした。
岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 19… 岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 1982年10月23日)は、日本の経営者、工学博士。高知県出身。 1935年に大阪帝国大学工学部機械学科を卒業し、同年にクラレに入社。1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1972年1月に学位を取得した。 1982年10月23日腎不全のために死去。75歳没。
保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)… 保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医。外島保養院と邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。 1907年、和歌山県で出生。 1932年。大阪大学卒業。外島保養院医員。1934年。外島保養院水害後は邑久光明園に勤務。1938年。邑久光明園医務課長。1943年4月。奄美和光園園長発令。5月27日園長保田耕ほか職員7名と家族21名が奄美大島に到着。戦争が激しく奄美島民の出迎えはなかった。1943年8月31日。応召。1943年9月7日。中国で戦死。同日 松本当太郎が奄美和光園園長心得に発令。別の文献によると、43年9月に赤紙がきた。
伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10… 伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10月8日 - 2000年 <平成12年> 12月22日)は、日本の実業家。元ダイハツ工業社長。位階は従四位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市伊吹町)出身。旧制香川県立三豊中学校、大阪高等工業学校機械科(現 大阪大学工学部)卒業。 三豊中学在学中は、伊吹島を出て下宿先から通った。家が貧しかったので学費を稼ぐために、下宿先の手伝いをしながら勉学に励んだ。数学と理科が得意だったこともあり、先生の薦めもあって大阪高等工業学校に進学する。 1926年(昭和元年)大阪高等工業学校卒業後、日本生命保険に就職。入社後、間もなく応召され入隊。その1年後に除隊となり、22歳の時、發動機製造に入社。
南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2… 南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2月6日)は、日本の数学者。理学博士、大阪大学名誉教授。解析学の分野で多くの独創的な業績がある。
米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 20… 米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 2000年1月23日)は日本の小説家、医師。本名は庄三郎。 1905年2月12日、奈良県吉野郡下市町生まれる。 1932年(昭和7年)、大阪帝国大学医学部卒業。1937年(昭和12年)、日華事変により応召、野戦病院付き軍医として華北、華中を転々し、翌年帰国。1945年(昭和20年)、奈良県立医学専門学校(現奈良県立医科大学)創設により、同校教授となり、1948年(昭和23年)、退職して診療所を開業する。 1931年(昭和6年)、投稿した『生きてゐる皮膚』が『新青年』に採用され、同年に他二編、翌年に一編を『新青年』に発表。他に『サンデー毎日』や『大阪時事新報』などにも作品を執筆していた。
岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年… 岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年6月15日)は、日本の冶金学者。位階は正三位。 プラズマ研究や超高電圧電子顕微鏡の開発で大きな業績を残した。また、大阪大学総長を務めている。 香川県仲多度郡多度津町出身。1930年に東北帝国大学(現・東北大学)金属工学科を卒業後、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部に赴任した。同学部で助教授、教授などを務め、1966年には総長に就任した。この間、溶接工学研究所の設立などに貢献し、1945年から1949年並びに1954年から1955年まで溶接学会会長、研究面では1963年に島津製作所との共同研究で500kVの高電圧電子顕微鏡を開発した。さらに日立製作所と共同で3000kVの電子顕微鏡を作製し、1971年に大阪大学超高電圧電顕センターに設置された。
塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8… 塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の実業家。ニチボー第8代社長、ユニチカ第2代会長。 長崎県出身。1926年(大正15年)大阪高等工業学校機械科(現大阪大学)を卒業し、大日本紡績入社。1956年(昭和31年)取締役。1959年(昭和34年)常務取締役。 ブラジル現地の事情に精通していた原乙彦らによって大日本紡績のブラジル進出の準備が進められていた中、1960年8月9日、工場建設の先遣隊として、塩塚(常務)は、市居誠一(ニチボーブラジル初代社長)らと現地に向かった。ちょうどこの年の10月、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、日本代表チーム(東洋の魔女が主力メンバー)のコーチとなった大松博文と選手たちが、アメリカーナ (英語) に先遣隊を訪ね、互いに励ましあった。
寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1… 寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1996年4月3日)は日本の数学者。専攻は幾何学。大阪大学名誉教授、理学博士(1938年)。正四位勲二等瑞宝章。
石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8… 石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8月21日 - 2003年 <平成15年> 7月30日)は、日本の法学者。専門は、民法・不法行為責任論。岡山県出身。大阪大学名誉教授、神戸学院大学名誉教授。位階は従四位。 神戸学院大学法学部の設置にも関与した。1984年日本学士院賞受賞。 旧制岡山中学(現:岡山朝日高校)、旧制第六高等学校を経て、1926年京都帝国大学法学部卒。京都帝国大学在職中に滝川事件が起こり、抗議のため同大学を辞職した。100歳になっても、家族の介助による口述筆記により論文を書き上げた、というエピソードも残っている。2003年死去。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3… 大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3日 - 1971年〈昭和46年〉4月18日)は、日本の作曲家。 静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。
行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月1… 行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月18日 - 1974年(昭和49年)4月27日)は、日本の医師、医学博士、柔道整復師。 大阪医科大学(現・大阪大学医学部)卒。日本初 の柔道整復師養成施設である大阪接骨学校(昭和7年)と、行岡外科病院(大阪接骨学校附属行岡外科病院)(昭和9年)を設立する。 大阪府柔道整復師会 会長(1933年、1957年5月)、社団法人 大阪府医師会会長(1954年4月)、大阪府保険医協会理事長(1953年4月)、大阪市会議員(1951年以降連続6期)などを歴任。 大阪接骨学校(現:行岡医学技術専門学校・大阪行岡医療専門学校長柄校)の創設者。 1974年大阪市議のまま急性心不全のため、阪大病院で死去。
森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月2… 森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月26日 - 1980年 <昭和55年> 10月10日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1932年に旧制大阪工業大学冶金学科を卒業し、同年6月に中山製鋼所に入社した。 1943年12月に取締役、1945年12月に常務、1949年4月に専務、1972年5月に副社長を経て、1973年6月には社長に就任。1976年6月には会長に就任。 1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1980年10月10日、糖尿病腎症のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1… 姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1910年1月22日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道山清郡出身。旧制浪速中学校(現・浪速高等学校・中学校)卒、大阪大学商学部卒業または中退。大阪で硝子販売業を営んだ後、帰国しソウル南山洞に姜己文商店を設立し硝子販売および貿易業を経営した。その後、大韓建設工業会社社長、株式会社姜己文商店社長を務め、1948年の初代総選挙で当選した後は国会財政経済第1分科委員を務めた。朝鮮戦争の際、身を隠していたところ北朝鮮に拉致され以後消息不明。弟により失郷私民申告書が提出された。
生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年… 生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年)12月28日 – 1984年(昭和59年)4月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、ダイジェット工業社長、同会長。 奈良県宇陀郡三本松村(室生村を経て現宇陀市)で生まれる。生悦住安蔵の長男。1914年(大正3年)三本松村大野尋常高等小学校を卒業し、隣家、田畑商店の年季奉公人となり醤油の行商に従事した。1919年(大正8年)家出して大阪に移り石堂鋼商会で働く。大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)採鉱冶金科の夜学で学び、1923年(大正12年)に卒業した。 1924年(大正13年)米子製鋼所に入社。1928年(昭和3年)独立して三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で生悦住鋼商会を開業。
黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月… 黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月12日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 1898年(明治31年)京都府に生まれる。1916年(大正5年)京都府立京都第二中学校 (旧制)を卒業後。大阪医科大学 (旧制)に進学。1924年(大正13年)に卒業後、同大助手を経て、1931年(昭和6年)同大助教授に就任。1935年(昭和10年)にはロンドンで開催された第二回国際神経学会に出席した。1936年(昭和11年)大阪帝国大学教授、1948年(昭和23年)同大医学部長に就任。1956年(昭和31年)に退官後は園田学園女子短期大学、園田学園女子大学の初代学長をそれぞれ務めた。
三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 197… 三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 1979年4月18日)は、日本の機械工学者・航空工学者。大阪府立大学・大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元大阪帝国大学工学部航空学科創設者・教授。関西の航空工学研究の第一人者の一人。弟は衆議院議員を務めた三木喜夫。 専門は、航空工学・飛行機設計、流体力学・機械構造力学。 兵庫県姫路市出身。1923年東北帝国大学卒業後、愛知時計電機航空機部門(のちの愛知航空機)で海軍関係の飛行機の設計製作に携わる。同社とドイツのハインケル社の提携により、ドイツ留学を経験。日本語による航空工学の著書第1号として、1932年「航空工学」(太陽堂)を出版(のちの第2号は川西航空機・小野正三より出版)。
宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月1… 宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月10日 - 1979年5月19日)は、日本の法学者。専門は、憲法・行政学。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1961年)。九州帝国大学教授、八幡大学(現・九州国際大学)学長・理事長をつとめた。 1898年、茨城県古河市生まれ。 前身の法学校、専門学校から創設に於いて実質的な八幡大学の真の中心人物といえる宇賀田は1952年に学長に就任した。1954年人事に関し学長の宇賀田と一部教授陣との確執が大学紛争に発展し各メディアで報道される事になった。この八幡大学事件は八幡市長、八幡市議会、八幡商工会議所、安川電機株式会社等が両派の斡旋に動き、福岡地方裁判所小倉支部にて調停となったが断裂し、凡そ1年の及ぶ騒動は1955年1月、結局宇賀田の学長辞任(事実上解任)という結果で終止符を打った。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。