林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12… 林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12月31日 - 2004年(平成16年)8月19日)は、昭和時代から平成時代にかけての合唱指揮者、作曲家。 大阪市・船場で紙箱製造業を営む家庭の五男として生まれる。汎愛小学校、明星商業学校を経て1930年(昭和5年)関西学院高等商業部に入学。在学中は関西学院グリークラブに所属し、3年生より学生指揮者を務める。在籍中に後に「関学トーン」と呼ばれる独自の響きを編み出し、1933年(昭和8年)第7回競演合唱祭に初出場で優勝。 卒業後は合唱指揮、作曲・編曲で活動。特に宗教曲、歌曲、流行曲等多岐にわたる合唱編曲に力を入れ、また師事した山田耕筰から山田の全歌曲を合唱に編曲するよう依頼され精力的に取り組んだ。
古武 弥正(こたけ やしょう、1912年9月19日 - 19… 古武 弥正(こたけ やしょう、1912年9月19日 - 1997年11月13日)は、日本の心理学者。医学博士。「人間における条件反射の研究」などで顕著な業績を挙げた。関西学院大学名誉教授、元関西学院大学学長、兵庫医科大学名誉教授、元兵庫医科大学理事長。 大阪府出身。視力が常人の4分の一しかない弱視であったが、北野中学から関西学院専門部、関西学院大学とすすむ。1938年、排日気運のたかまるアメリカに渡り、ハーヴァード大学の視力障害者のためのパーキンス研究所に留学した。ハーヴァードでは実験心理学の修士号を取得し、帰国後、慶應義塾大学の著名な生理学者林髞(推理小説家、木々高太郎)の研究室で条件反射学を学んで「人間の条件反射学」の第一人者となった。
小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2… 小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2004年7月23日)は、日本の経済学者。第10代学校法人関西学院院長、元関西学院大学学長および経済学部教授。専門は金融論、国際金融論。日本金融学会第5代会長。 大日本紡績(後のユニチカ)社長・小寺源吾の四男。実弟はユニチカ社長を務めた小寺新六郎。元関西学院高等商業学部教授・小寺敬一は叔父。
丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 19… 丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。愛知県議会議員(2期)。名古屋市内の陸上自衛隊駐屯地で、統合失調症で入院から一時退院中だった男に首を刺され、翌月に亡くなった。弟は丹羽久章元衆議院議員。孫に丹羽秀樹衆議院議員がいる。 愛知県東春日井郡守山町(現・名古屋市守山区)出身。名古屋中学校(現・名古屋中学校・高等学校)卒業後、牧師を目指して関西学院神学部に進むも父である丹羽兵助(先代)の急逝にあう。長男として家業の土建業の丹羽建設を継いだ。 1941年4月、守山町議会議員に初当選。 1947年、愛知県議会議員選挙に東春日井郡選挙区から民主党公認で立候補し、初当選。
嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 19… 嘉納 正治(かのう まさはる、1911年5月10日 - 1989年9月21日)は、日本の経営者。白鶴酒造社長、会長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西学院大学高等商学部を卒業。1947年に白鶴酒造社長に就任し、1983年6月には会長に就任した。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年9月21日、心不全のために死去。78歳没。 妻の宏子は星島義兵衛の三女。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
伏水 修(ふしみず おさむ、1910年12月5日 - 194… 伏水 修(ふしみず おさむ、1910年12月5日 - 1942年7月9日)は、日本の映画監督。本名、伏水次男。 関西学院大学卒業。1932年1月に日活現代劇監督部入社、1934年3月にP. C. L.(東宝の前身)演出課に移る。1942年、病気のため死去。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 198… 谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 1986年9月28日)は、日本のキリスト教牧師。ノーモアヒロシマズ運動提唱者。娘は近藤紘子。 香川県坂出市で生まれる。関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。鹿児島県国分、加治木の教会、沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。 1945年7月まで、広島は空襲を受けていなかったが、多くの人は被害を予期し、人や荷物を都市から疎開させる作業を進めていた。谷本も教会の記録や備品を西郊外の己斐町の知人の屋敷に疎開させており、妻子は毎晩、北東郊外の牛田で寝るようにしていた。 広島市への原子爆弾投下があった8月6日に、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをしていた。
堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 19… 堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 1996年6月3日)は、兵庫県芦屋市出身 のサッカー選手、会社役員。 幼少期は兵庫県神戸市で過ごした。関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学 して、サッカー部に所属。関学クラブの一員として1929年10月および1930年2月に開催された2度のア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会および第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で後藤靱雄らと共に2大会連続で優勝した。そのプレースタイルは地味ながらもシュート力は正確無比であった。 1932年3月に卒業 して、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社。
福山 重一(ふくやま しげかず、1909年1月21日 - 1… 福山 重一(ふくやま しげかず、1909年1月21日 - 1992年9月21日)は、日本の経済学者(経済学博士)。教育者。芦屋大学の創設者。 大阪府立大学教育学部長を経て、1964年に芦屋大学を設立した。1968年に学校法人芦屋学園の理事長に就任。 職業指導学の研究に取り組み、芦屋大学で合計7回にわたって開催された職業指導学国際会議では、終身議長を務めた。F式選職能力テストの開発に取り組んだ。 1980年代後半にソビエト連邦のペレストロイカにおいてこの職業指導学が採用され、当時のソ連高等中等専門教育大臣、モスクワ大学総長を始めとするソ連の教育関係者と度々の会談を行い、ソ連の教育システム構築に関わった。
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 19… 加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 1995年12月13日)は、日本の実業家。トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役、顧問、名古屋商工会議所副会頭、学校法人関西学院理事長、世界デザイン博覧会協会協会理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。息子(次男)はレーシングカーデザイナーの加藤眞。 1907年11月25日、三重県伊勢市生まれ。甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校、4回卒)を経て、1930年に関西学院高等商業学部を卒業。日本ゼネラルモータースへ入社。 1937年、トヨタ自動車工業設立と同時に同社へ入社。1950年にトヨタ自動車販売設立に伴い、同社へ移る。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10… 藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10日 - 1990年(平成2年)3月16日)は、朝日新聞記者、関西学院大学社会学部教授などを務めた、日本のジャーナリスト、新聞学研究者。 愛媛県新居郡氷見町(後の西条市)に生まれる。1924年に愛媛県立西条中学校を卒業して、4年生の専門学校であった関西学院文学部社会学科に進み、1928年に卒業した。在学中は、河上丈太郎に師事した。 同年、大阪時事新報社に入り、1931年に大阪朝日新聞社へ転じた。1944年に出版局編集部次長兼『週刊朝日』副編集長となり、その後は在阪の出版局、整理部関係の役職を歴任して1962年に定年退職し、客員となった。この間、1945年には、収集していた新聞関係文献資料を大阪朝日新聞社に寄贈し、その目録が『藤原恵文庫目録』として出版された。
松木 治三郎(まつき じさぶろう、1906年2月21日 - … 松木 治三郎(まつき じさぶろう、1906年2月21日 - 1994年5月24日)は、日本の牧師、神学者。 福井県敦賀生まれ。1934年日本神学校を卒業後、日本基督教会木更津教会(1941年より、日本基督教団)、熊本坪井教会牧師を経て、1951年に関西学院大学文学部神学科教授、翌1952年から同大神学部教授として、聖書釈義、新約学を講義。1968年から神学部長を務めた。1974年に定年退職後は聖書解釈研究所を主宰した。 このほか、日本新約学会会長(1960年 - 1986年)、日本基督教団塚口教会主任牧師(1953年 - 1991年)を務めた。
石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8… 石田 恒信(いしだ つねのぶ、1905年〈明治38年〉6月8日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、大正時代に活躍した競泳選手。関西学院大学在学中の1924年、パリオリンピックに出場した。大学卒業後は阪神電気鉄道に入社。第二次世界大戦戦中・戦後の困難な時期に阪神甲子園球場の球場長を務めた。 大阪府出身。旧制茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に学ぶ。茨木中学校は体育教諭・杉本伝の指導のもとで水泳の盛んな学校であった。1920年(大正9年)8月、茨木中学校は石田(3年生)、入谷唯一郎・高石勝男(2年生)ら5人の選手で第4回戸田全日本競泳大会(静岡県戸田湾、東京帝国大学主催)に出場して優勝を果たす。
吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
天野 秀延(あまの ひでのぶ、1905年 - 1982年)は… 天野 秀延(あまの ひでのぶ、1905年 - 1982年)は、日本の音楽研究家。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市小高区)出身。相馬中学校卒、関西学院大学文学部英文科卒。卒業後帰郷し農業に従事。1940年から1945年にかけて福浦村の村長を務め、恩師の豊田君仙子を助役に迎えた。イタリア音楽の研究家であり、1960年『現代イタリア音楽』で芸術選奨文部大臣賞受賞。小高町の町民歌や浜通り地方の学校の校歌を作曲しており、各地方の小中学校の音楽指導も行っていた。郡山女子短期大学教授。
坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日… 坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉5月27日)は、日本の詩人。兵庫県加東郡東条村(現・加東市横谷)出身。 1904年、兵庫県加東郡東条村に生まれる。父は教職で兵庫各校の校長として辺地教育に力を注ぎ、そのため家庭を顧みるいとまがなく、母が農作業に従事して一家を切り盛りした[要出典]。 1923年、関西学院大学英文科に入学。同級生に竹中郁がいた。1925年、草野心平らの『銅鑼』同人となる。竹中郁らの『羅針』にも参加。1926年、神戸の下宿に草野が来訪し、母校の小学校の謄写板を借り、草野が筆耕、坂本が印刷を担当して二人で『銅鑼』7号を制作した[要出典]。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月1… 聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。 香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。戦後の1945年に日本共産党入党。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った。
光田 顕司(みつだ けんじ、1903年12月7日 - 198… 光田 顕司(みつだ けんじ、1903年12月7日 - 1988年8月21日)は、日本の経営者。神戸新聞社、サンテレビジョンなどの社長を務めた。広島県因島市(現在の尾道市)出身。 1929年に関西学院大学社会学科を卒業し、1942年に神戸新聞社へ入社した。1963年から1982年までにデイリースポーツ社社長を務め、1972年8月から1982年7月までに神戸新聞社社長を務めた。1972年9月から1982年6月までサンテレビジョン社長を務めた。 1988年8月21日、脳梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)… 荻田 庄五郎(おぎた しょうごろう、1903年(明治36年)5月9日 - 1983年11月2日)は、日本の英文学者、関西学院大学教授、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)教諭。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー研究の第一人者。 滋賀県彦根市生まれ。1928年、関西学院大学文学部英文学科卒業。青森県弘前市・東奥義塾を経て1930年、旧制兵庫県立柏原中(現兵庫県立柏原高等学校)の英語教諭となる。1946年、関西学院専門部教授、1969年、同商学部教授を退職し神戸海星女子学院大学英文学科教授となる。1981年同大を退職。 1928年に太田晃子と結婚後、1男5女をもうける。英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などの研究で知られる。
大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - … 大道 安次郎(だいどう やすじろう、1903年5月1日 - 1987年1月11日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。関西学院大学教授。初代社会学部長、図書館長。 福井県敦賀市出身。旧制敦賀商業学校(現福井県立敦賀高等学校)首席を経て、1927年関西学院高等商業学部(現関西学院大学)卒。同時に九州帝国大学へ進学し、1930年高等商業学部講師に就任。以後、助教授、教授となり、19944年、旧制大学法文学部教授に移籍。新制大学後、文学部教授となり、1960年の社会学部設立に際して中心的役割を果たし、初代社会学部長に就任。1972年定年退職。だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。
青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2… 青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2月26日 - 1989年(平成元年)1月23日 )は、日本の会計学者。学位は、商学博士(1955年)。関西学院大学名誉教授。関西学院大学商学部学部長・等松青木監査法人代表社員・大蔵省公認会計士3次試験委員・日本会計学会常務理事・税理士試験委員を歴任。日本会計学界の大御所的存在であった。 近代会計の動向,管理会計の研究、推進、発展に寄与し、多くの業績を残した。また会計実務の指導的意見で実務界の発展に寄与した。 滋賀県栗東町(現:栗東市)生まれ。
藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> … 藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 5月23日)は、日本の実業家。位階は正四位。 大阪府出身。1924年、関西学院高等学部商科を卒業し、大阪瓦斯に入社。1960年から1969年までに大阪ガス社長を務め、都市ガスの原料を石炭から石油に転換した。1964年から1968年までに日本ガス協会会長を務めた。1972年に勲二等旭日重光章を受章した。 2000年5月23日、老衰のために大阪市の病院で死去。98歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日… 永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日 - 1980年(昭和55年)4月23日)は、日本の政治家。位階は従三位。 農林大臣(第9代)、民社党副書記長を務めた。長男の永江一仁は民社党衆議院議員・神戸市会議員の永江一之は孫(一仁の長男)。 岐阜県恵那郡陶村(陶町を経て現瑞浪市)で生まれた。苦学して1924年(大正13年)関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学)を卒業。在学中、1921年(大正10年)神戸の川崎造船所・三菱造船所争議に参加。卒業後、福徳生命に入社し、同時に社会運動に参加し日本労農党、日本大衆党に属した。 1929年、神戸市会議員となる。1937年、第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 197… 大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 1976年8月13日)は、日本の政治家。位階は正四位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。奈良県議会議長。奈良県議会議員(6期)。奈良市議会議員(3期)。 奈良県桜井市初瀬町生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、関西学院大学卒業。 1930年、奈良市で大徳電気商会を設立。1944年、軍需省軍需監理部から発せられた「電気工事業整備要綱」に基づいて近畿地方の電気工事業者が統合し、設立された近畿電気工事株式会社の取締役に就任。 1961年、きんでん取締役社長。 1965年の第7回参議院議員通常選挙奈良地方区から自由民主党公認で立候補し、初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙再選。
中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - … 中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - 1986年9月28日)は日本の数学者。専攻は数学基礎論、数学史。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授、兵庫医科大学名誉教授、文学博士。従四位勲三等旭日中綬章。
稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1… 稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。 1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。 稲垣は1900年(明治33年)の年末、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時に祖父母のいる明石に移住し、神戸で育った。小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験を後の作品に昇華させている。1914年、関西学院普通部に入学。同院では今東光と同級になる。
神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992… 神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992年1月または2月1日)は、日本の元俳優、映画プロデューサー、新聞記者である。本名は近藤 茂雄(こんどう しげお)。旧芸名は神戸 光男(かんべ みつお)、カンベ・ヒカル。 1900年(明治33年)2月13日、兵庫県神戸市湊町3丁目(現在の同県同市兵庫区)に生まれる。関西学院大学を卒業。 卒業後、貿易商社員や「労働運動」誌支局員、大正活映(神戸光男名義)を経て、1926年(大正15年)6月、アナキストである笹井末三郎(1901年 - 1969年)の紹介で日活大将軍撮影所に入社。神戸光という芸名で畑本秋一監督映画『舶来頓珍漢騒動』などに出演。
矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 198… 矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 1984年3月26日)は、日本の教育者である。関西学院(新制)中学部の初代部長、関西学院理事長、および箕面自由学園園長を歴任した。 矢内正一は1900年2月1日、兵庫県佐用郡佐用町で誕生した。1924年3月に関西学院高等商業学部を卒業後、同年4月に関西学院高等部教諭に就任した。1932年4月には同学院高等商業学部教授に昇任している。 第二次世界大戦後の学制改革に伴い、1947年4月に関西学院新制中学部の初代部長に就任した。その後、1960年6月に関西学院理事に就任し、1964年4月には教育分野での功績が認められ藍綬褒章を受章した。同年12月には西宮市教育委員会委員長に就任している。
小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 -… 小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 - 1977年8月12日)は、日本の経営者。兵庫県小野市出身。 1924年に関西学院大学高等商業部を卒業。岩井商店、大日本セルロイドでの勤務を経て、1934年1月に富士写真フイルムに転じ、1937年5月に取締役、1943年5月に常務、同年11月に専務、1958年に副社長を経て、1960年6月に社長に就任。1962年には富士ゼロックス社長にも就任。。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月12日急性心不全のために死去。77歳没。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
九代目嘉納治郎右衛門(きゅうだいめかのうじろうえもん、189… 九代目嘉納治郎右衛門(きゅうだいめかのうじろうえもん、1898年(明治31年)7月5日 - 1972年(昭和47年)3月10日)は、日本の実業家。嘉納財閥・本嘉納家9代目当主。菊正宗酒造元会長。灘育英会元理事。従七位勲六等。 岡山県出身。神戸市東灘区在住。貴族院議員や山陽銀行(現:中国銀行)頭取を務めた土居通博の次男に生まれる。 1919年(大正8年)に八代目嘉納治郎右衛門(本嘉納家8代目当主)の養子となり、本嘉納商店取締役に就任。1923年(大正12年)関西学院高等商業学部を卒業。1935年(昭和10年)3月に、8代目死去と同時に前名・文治を改め治郎右衛門を襲名し、社長に就任。以来、25年の長い間社長の重責を務め、1960年(昭和35年)会長。
朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983… 朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983年4月11日)は、日本の実業家。長崎県大村市出身で鎮西学院、関西学院高商を卒業、江商(現兼松)株式会社副社長、相談役を経て、母校である関西学院大学理事、千刈cc理事長、(社)関西ゴルフ連盟常務理事、茨木CC理事・鳴尾GC理事とし関西学院大学、関西ゴルフ界の発展に寄与した人物である。大正11年(1922年)関西学院高商卒業。 関西学院体育会のモットーである「Noble Stubbornness(ノーブル スタボネス)品位ある不撓不屈の精神」は、大正9年に関西学院高商庭球部主将であった朝長が、ライバルの神戸高商(神戸大学)庭球部に完敗した時に庭球部部長であった畑歓三教授に、この悔しさを忘れない為に依頼して作られたモットー、標語である。
大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 … 大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 - 1954年11月30日)は、日本の学者。専門は、政治心理学。関西学院大学教授、法学部長、学長を歴任した。 1897年、滋賀県大津市に生まれる。関西学院専門部文学部社会学科を卒業後、東北帝国大学法文学部に進学し、1926年卒業。同年4月に、関西学院専門部教授に就任し、政治学・政治思想史を担当した。 1934年、大学昇格に際して法文学部助教授に就任。1937年、教授に昇任。1947年、新制大学法学部に移り、第2代法学部長に就任。1951年4月には学長に就任するが、学長在任中の1954年11月、病気のため急逝した。
河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 19… 河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師、伝道者、教育者。 1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学、オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。
山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治… 山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治29年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)。参議院功労議員表彰。 1896年島根県生まれ。1923年に関西学院大学文学部社会学科卒業後、コロンビア大学に留学し、1929年大学院修了。 関西学院大学で講師を務めた後、1943年マライ半島において陸軍司政官。戦後はシンガポール戦犯裁判所通訳、日本で浜田進駐軍首席通訳、1947年島根県議会議員。 1949年には第24回衆議院議員総選挙島根県全県区で民主党から出馬し、初当選。以後通算2期務める。 1958年には、第4回参議院議員通常選挙島根県選挙区補欠選挙で自由民主党から立候補し、初当選。
由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年… 由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年1月27日)は、日本の牧師、讃美歌作家。日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られる。パスカルの研究家で「パンセ」を翻訳した。教育者・郷土史研究者足立正の次男。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市)に足立正の次男として生まれ、生後間もなく由木虎松の養子になる。 養父虎松の宣教活動のために、鹿児島、神戸、対馬などに転居する。養父の影響を受けてクリスチャンになり、神戸二中時代に洗礼を受ける。洗礼を受けてすぐの中学3年の時、すでに最初の賛美歌を作った。1914年、死の危険に直面して献身を決意する。関西学院高等学部文科(関西学院大学文学部の前身)で聖書学と神学を専攻する。
箱木 一郎(はこぎ いちろう、Ichiro Hakogi、 … 箱木 一郎(はこぎ いちろう、Ichiro Hakogi、 1896年〈明治29年〉1月9日 - 1971年〈昭和46年〉1月23日)は日本の発明家。元社団法人発明協会本部理事。元財団法人科学技術連盟参与。日本曲面印刷機株式会社創立者、元社長。位階は従五位。 「負圧力利用曲面印刷体印刷方法」特許により製作した陶磁器自動印刷機 KURBA GRAVO を1937年のパリ万国博覧会に出品。11月25日にフランス政府より科学「グランプリ」賞を授与される。 関西学院学生時代、神戸新川の貧民窟で活動する賀川豊彦の元へ通った。また、神戸YMCAにて末包敏夫と共に会員向けに市民大学講座を企画し、一郎は知名の士との交渉を担当した。
志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年… 志賀 勝(しが まさる、1892年3月29日 - 1955年8月1日)は、日本のアメリカ文学者。 愛媛県宇和島市出身。関西学院高等学部文科英文学科卒業、のち母校教授、戦後は関西学院大学英文科主任教授を務めた。早くからアメリカ文学に注目し、病気に苦しみながら著作、翻訳多数を上梓した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 19… 神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 1959年4月16日)は、日本の教育者。関西学院大学商経学部教授、関西学院大学第4代学長、同学院院長(第5代、1940年〜1950年)などを歴任した。 1884年8月10日、東京麹町に生まれる。1901年、関西学院普通学部を卒業。カリフォルニア大学に留学し、同大学院に進学する。歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。吉岡美國第2代院長の娘婿となり、1921年、高等商業学部長就任のために帰国。大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部、大学の教授でもあった。ベーツ院長の離日後、1940年から1950年の10年間、第5代院長を務めた。
安井 絵里(やすい えり、11月21日 - )は、日本の女性… 安井 絵里(やすい えり、11月21日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。滋賀県出身。青二プロダクション所属。 関西学院大学社会学部社会学科卒業。青二塾大阪校21期生。 太字はメインキャラクター。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
中屋 藍(なかや あい、9月11日 - )は、元RSK山陽放… 中屋 藍(なかや あい、9月11日 - )は、元RSK山陽放送のアナウンサー。 和歌山県出身。関西学院大学文学部文学言語学科卒業。大学在学時には、オープンキャンパスの企画運営サークルで活動しながら和歌山県の観光大使も務めていた。観光PRのために岡山県を訪れた際、RSKの現地での愛されぶりなどを知り、それをきっかけに入社を熱望するようになる。以後は、学業と並行して大阪のアナウンススクール声光塾にも通っていた。 大学を卒業後、2020年4月にRSK山陽放送に入社。報道局アナウンス部に配属され、同期の新田真子、谷口笑子とともに同局のアナウンサーになる。 2024年10月現在、日本骨髄バンク 広報渉外部に転職。
久下 知秋(くげ ちあき、9月2日 - )は、日本の女性声優… 久下 知秋(くげ ちあき、9月2日 - )は、日本の女性声優。大阪府出身。 声優になろうと思ったきっかけは『機動戦士ガンダムSEED』を見て桑島法子に憧れたことから。 関西学院大学卒業。青二塾大阪校32期生。 2021年3月まで青二プロダクションに所属していた。 資格・免許は普通自動車免許。 趣味はストレッチ、スポーツ観戦。特技は水泳、バレーボール球技全般。方言は関西弁(大阪弁)。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
山内 佑利子(やまうち ゆりこ、8月10日 - )は、日本の… 山内 佑利子(やまうち ゆりこ、8月10日 - )は、日本のフリーアナウンサー。兵庫県芦屋市出身。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
今西 令子(いまにし れいこ、8月1日 - )は、元ラジオ大… 今西 令子(いまにし れいこ、8月1日 - )は、元ラジオ大阪アナウンサー。料理研究家。 京都府丹後半島出身。関西学院大学卒業後にラジオ大阪に入社。グルメに造詣を持ち、局アナの枠を超える食の世界をテーマに活躍し著書も出版した。現在はフリーである。靴サイズ23.5cm。兄がいる。尼崎市在住。既婚、1男あり。
宮城 しづこ(みやぎ しづこ、7月24日 - )は、日本のナ… 宮城 しづこ(みやぎ しづこ、7月24日 - )は、日本のナレーター。兵庫県出身。血液型はA型。161cm。以前ははキャラに所属していた。