高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5… 高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5月17日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、明治、大正、昭和期の日本の実業家。 福岡県生まれ。1900年(明治33年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。大阪商船に入社。後に三井物産に転じ、藤原銀次郎の知遇を得て、1912年(明治45年)に王子製紙に入社。 苫小牧工場長を経て、1914年(大正3年)に王子製紙取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、藤原銀次郎の後任として1938年(昭和13年)12月に取締役社長に就任した。その後1942年12月まで王子製紙の社長を務めている。同社のほか、傍系会社の日本パルプ工業の取締役社長を1939年(昭和14年)5月から1943年(昭和18年)1月まで務めた。
長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11… 長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11月2日 - 1935年(昭和10年)3月28日)は、明治から昭和前期の林業家・農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岐阜県武儀郡菅田町長。 岐阜県武儀郡、のちの沙田村(菅田村、菅田町、益田郡金山町を経て現下呂市金山町)で、素封家・長尾四郎右衛門の長男として生まれ、1916年(大正5年)家督を相続した。慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)で学んだ。 帰郷して農業、林業を営む。また、大垣銀行監査役、美濃銀行取締役、濃飛農工銀行取締役、岐阜不動産取締役、菅田町農会長、同町教育会長、武儀郡教育会員、岐阜県農事協会理事などを務め、小作制度の改善などに尽力した。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 19… 広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 1955年6月24日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長などを務めた。弓道家(大日本武徳会弓道範士)でもある。 陸軍少佐や森村銀行頭取を務めた広瀬実栄の二男として生まれ、高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校、ニューヨーク・イーストマン商業専門学校を経て、1895年森村組入社。1917年には東洋陶器設立発起人となり、同社監査役に就任。1922年日本陶器社長。1939年日本陶器会長。森村豊明会監事なども務めた。 また弓道家でもあり、1929年5月に大日本武徳会弓道範士。名古屋市の弓道界で重きをなし、1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会弓道の部では審査員を務めた。
塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉… 塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉5月11日 - 1925年〈大正14年〉10月30日)は、日本の実業家。北海道鉄道専務取締役、東亜紡織発起人、秩父セメント取締役、日本フエルト取締役などを歴任した。 和歌山県海草郡黒江町生まれ。旧制中学校卒業後、1896年高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、日本鉄道入社。同社倉庫課で2年間勤務した。 川崎銀行庶務部長を経て、1918年に同行から鈴木商店(のちの味の素)に取締役として派遣されたが、1920年の戦後恐慌の際に経営危機に陥り引責辞任した。 同年東亜紡織発起人。1921年東京煉瓦監査役。1922年に中央毛糸紡績が設立されると同社取締役に就任。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3… 犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3月14日 - 1919年(大正8年)12月10日)は、日本の実業家。孫文の支援者で、南満州鉄道理事などを務めた。立山水力電気設立者。 原籍は佐賀県だが、東京で有馬小学校を卒業後、中学校には進まず、1890年に高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業後、17歳で三井物産に入社した。 三井物産では門司支店から始め、ロンドン等で勤務し、シンガポール支店長代理や、香港支店長等を経て、門司支店長を務めた。ロンドンや東京では悪友各務鎌吉らと女遊びに興じたという。 1906年に南満洲鉄道が設立されると、同社理事に就任。三井物産門司支店次席を務めていた部下の相生由太郎も同社に招聘した。
磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治… 磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治7年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉6月25日)は日本の実業家。明治屋社長、会長を務めたほか、キリンビール設立発起人となり、キリンビール社長や会長を歴任。同社をビール業界トップとした。 鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる。勉強がよくでき、1883年、9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。 鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)の授業料免除優待生を経て上京。高等商業学校予備門(現・日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、高等商業学校(現・一橋大学)入学。
川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 -… 川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 - 1945年〈昭和20年〉6月22日)は、日本の実業家。第2代三菱電機会長。 福島県耶麻郡、のちの翁島村(現猪苗代町)出身。若松中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1894年高等商業学校(現一橋大学)卒業。東京倉庫神戸支店副支配人、東京倉庫大阪支店支配人等を経て、1920年三菱電機代表取締役。1931年から三菱電機常務取締役として退任した武田秀雄前会長に取り替わり社業を統括した。1935年三菱電機取締役会長。三菱電機において消費者向けの家庭用電化製品事業の創設を進め、扇風機、モーターなどの生産の発案や、ショールームの設立などを行った。
牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月… 牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月17日 - 1943年(昭和18年)12月7日)は、日本の実業家。不動貯金銀行(のちの協和銀行、りそな銀行)創業者・元頭取。定期積金を考案し業績を拡大させ「貯金王」などと呼ばれた。族籍は東京府士族。 千葉県君津郡久留里町(現君津市)出身。旧久留里藩士・牧野治の長男。父・牧野治は明治維新後は警察官吏となり、牧野が小学校に入学する頃には千葉県内の各地に赴任、警察署長も務めた。 1886年、印幡郡土室村の北総英漢義塾に入学。更に高等商業学校(のちの一橋大学)に進むも、過度の勉学への意志が牧野の精神を侵し病気となったことから中退。病も癒えた1894年に成田町に創立された成田銀行に勤めた。
中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - … 中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - 1920年11月1日)は、日本の実業家。第2代宇治川電気社長。初代日本電力副社長。 1899年高等商業学校(現一橋大学)卒業、大阪商船入社。神戸支店助役、運輸課助役、仁川支店長、計理課長兼内航部長を経て、中橋徳五郎に任じられ宇治川電気総支配人に就任。1917年宇治川電気取締役。中橋の指名を受け1918年からは宇治川電気取締役社長を務め、日本電力副社長も兼務したが、在任中の1920年に死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)… 岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)1月14日 - 1942年(昭和17年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。自転車輸入商、相模鉄道社長。衆議院議員(通算6期)。 神奈川県横浜市相生町で、米屋・岡崎安之助の長男として生まれる。10歳で家出し上京、漢学塾の書生となり、1889年に高等商業学校(現一橋大学)に入学、同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)などがいた。1895年に卒業後三井物産に入り、取引先のアメリカ人に同行して渡米、一年余欧米を視察し、帰国の船中で徳富蘇峰と知り合う。三井に戻り結婚ののち、独立し京橋に日米商店(のち日米富士自転車)を開く。1898年よりたびたび海外へ視察に向かい、主要メーカーと特約を結び、大阪にも支店を持つなど成功する。
中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 194… 窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 1944年9月14日)は、日本の実業家。同じく実業家の内田信也は実弟。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)生まれ。実業家の内田信也は実弟。1896年高等商業学校(現:一橋大学商学部)卒業、三井物産入社。1907年に堺セルロイド(現:ダイセル)専務取締役。1910年北海道炭礦汽船幹事。1913年波佐見鉱業専務取締役。1914年窪田事務所を設立し、南洋諸島との貿易に従事。1918年富士製紙(後の王子製紙)社長。早川電力社長、如水会理事、日魯漁業(現:マルハニチロ)社長などを歴任。1927年東京米穀商品取引所理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月1… 庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月18日 - 1944年〈昭和19年〉11月10日)は、日本の実業家である。東洋紡績の社長を務めた。 秋田県の生まれ。1897年(明治30年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、大日本綿糸紡績同業連合会に入りインドのボンベイ(現在のムンバイ)駐在員や書記長を歴任した。1912年(大正元年)には大阪紡績に転勤し支配人を務め、1917年(大正6年)からは東洋紡績に社名変更し取締役や副社長も務める。1919年(大正8年)には第1回国際労働会議に出席したカネボウ(現在のクラシエホールディングス)の社長を務めた武藤山治の顧問を務めるために渡米したが、帰国後の1923年(大正12年)にアナキズム運動に関わった「ギロチン団」に狙撃される。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日… 安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日 - 1949年(昭和24年)2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。 長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。 弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944… 森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944年1月12日)は、日本の実業家。台湾銀行頭取等を経て、安田保善社理事に就任。昭和初期に安田財閥の最高経営者として組織・人事の再編成を行った。東京銀行集会所会長、経団連副会長等も務めた。 1873年(明治6年)2月24日に鳥取市本町の商家に生まれる。同郷の奥田義人特許局長の玄関番となり特許局で働きながら予備校で学んで、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学すると旧藩主による奨学金・寄宿舎に頼りながら、銀行家を目指して学ぶ。1897年(明治30年)7月に卒業すると、高橋是清副頭取の口添えで横浜正金銀行に就職した。1898年(明治31年)3月から上海支店に勤務し、1905年(明治38年)春に満洲の牛荘支店副支配人となった。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 19… 増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 1929年〈昭和4年〉)は、日本の実業家。 明治6年1月生まれ。明治26年、東京高等商業学校を卒業した。 渋沢栄一の秘書役として、白石喜太郎と共に、渋沢関係の各会社で活躍。1909(明治42)年、渋沢栄一が団長を務める渡米実業団に渋沢栄一の随行員として参加。
川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治… 川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治5年)9月 - 1945年(昭和20年)4月)は、日本の実業家。元明治生命保険会長。 滋賀県出身。父は滋賀県議の川原林徳明。妻は御師蔵田国治元豊川炭鉱馬車鉄道社長の五女。1896年高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本鉄道入社。1899年明治生命保険入社。明治生命保険仙台支店長心得、明治生命保険名古屋支店長、明治生命保険京都支店長、明治生命保険大阪支店長を歴任し、1925年、明治生命保険取締役に昇格。1927年全国支店出張所を東西に分けたことに伴い、西部監督となる。1935年常務取締役制新設により、明治生命保険常務取締役に昇格。1936年からは明治生命保険専務取締役を務めた。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5… 坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5月2日)- 1943年(昭和18年)5月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県で坂梨磯吉の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。 東亜煙草株式会社取締役、山東興業・山東水産・山東運輸株式会社取締役、神戸・第一水産取締役、坂梨(名)社長、坂梨商事社長、旭セメント社長、日之出漁業社長、日本海水工業社長、東邦化学工業社長、西部合同瓦斯監査役、福岡県会議員などを歴任。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙において、福岡県第15区で立憲政友会から出馬し当選し衆議院議員となり、1期務めた。
村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3… 村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3月29日) - 1924年(大正13年)4月9日)は、日本の保険学者、実業家。法学博士。族籍は兵庫県平民。 日本の海上保険学の祖とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)教授や帝国海上保険副社長を歴任し、独自の保険学を確立するとともに、多くの後進を育てた。申酉事件で母校防衛に尽力し、没後キャンパス内に胸像が設置された。 東京で生まれた。旧福井藩士・関戸由義の二男。兵庫県神戸市北長狭通出身。父である関戸由義は福沢諭吉の知人で、自家の屋敷内で福沢らが神戸商業講習所を設立。1883年、東京府平民・村瀬さだの死跡を相続する。 神戸商業講習所が改組された兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)を5回生として卒業後、1886年高等商業学校(現一橋大学)に入学。
深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4… 深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4年1月3日) - 1934年(昭和9年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。深川製磁創業者、元有田町長。有田焼の輸出を進め、パリ万国博覧会金賞金牌やセントルイス万国博覧会一等賞金牌を受賞。 当時の肥前国有田(現・佐賀県有田町)出身。8代深川栄左衛門の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1887年に独立して陶磁器製造販売業を営む。1894年に深川製磁を設立。ヨーロッパ人の陶磁器愛好家の好みに合わせてアレンジした大花瓶を、1900年のパリ万国博覧会に出展し金賞受賞。同年よりボールトン・アンド・ワットを代理店としてヨーロッパでの販売展開を進めた。
武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年… 武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年1月25日) - 昭和7年(1932年)12月9日)は、日本の実業家。内外綿頭取や在華日本紡績同業会委員長を務めた。 長野県諏訪郡湖南村生まれ。長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1892年高等商業学校(現・一橋大学)卒業、市立大阪商業学校(現・大阪公立大学)教諭。1895年日印貿易会社入社。1902年同社副支配人。1903年同社支配人。 1912年内外綿取締役。1922年から同社頭取となり、高付加価値化戦略を進めた。1929年在華日本紡績同業会委員長。また、日華学会評議員、大阪朝日新聞社内東亜調査会評議員なども務め、日満経済協和会を創立。
岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 195… 岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 1956年(昭和31年))は、新潟県出身の実業家。岸宇吉の子。アメリカ合衆国テキサス州南東部に移住して当地に稲作を広め、また当地での石油採掘で財を成した。現地では「バロン・キシ」と呼ばれた。 岸吉松は新潟県長岡市の名家に8人兄弟の1人として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)に進学したものの、1904年に日露戦争が勃発すると徴兵され、翌1905年の終戦まで満州にとどまった。その後、岸は満州に残ることを望んだが、地価と治安の問題により帰国した。 岸が渡米する数年前、1902年に、駐米総領事内田定槌はアメリカ合衆国南部を視察し、当地の稲作は未発達で、大きな利益が望めるとの報告を持ち帰った。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月… 杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和14年(1939年)5月2日)は日本の実業家、相場師。山一證券の初代社長や、東京株式取引所理事長を務めた。 1870年東京深川で江戸詰めの津軽藩藩士・納戸役の家に生まれる。翌年父が失職。 東京商業学校(のちの一橋大学)卒業。1889年日本銀行入行、1896年愛知銀行副支配人。 1902年名古屋銀行取締役支配人就任も、日露戦争後のバブル景気の崩壊による戦後恐慌の影響でモラトリアムを余儀なくされ、責任をとり1907年辞職し兜町で株の現物店の八幡屋を開設。 1910年、八幡屋の経営が思わしくなかったところ、小池国三に誘われ小池合資会社入社、七番番頭となる。
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1… 正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1870年3月29日〉 - 1961年〈昭和36年〉11月9日)は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。 日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、社団法人如水会理事長、貴族院議員などを歴任した。 上皇后美智子の祖父。今上天皇の曽祖父。 生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、館林の祖父・3代正田文右衛門の下で育てられた。 館林小学校を卒業。1884年(明治17年)上京し、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明… 久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉- 1965年〈昭和40年〉1月29日)は、日本の実業家、政治家。 日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。 衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。 「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となった。 戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。
三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日… 三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日(明治2年5月14日) - 1952年(昭和27年)4月27日)は、日本の実業家。第2代三菱商事会長を務めた。 1869年6月23日、愛媛県越智郡富田村の旧今治藩藩士・三宅川清三郎の嫡男として生まれる。 三宅川家は南北朝時代、伊予河野氏第26代当主通有の孫である越智朝臣三宅川備後守通房(伊勢国宮川領主)を始祖とする家系。血統紋は三つ鱗、定紋は崩三鱗改三霞摺菱、替紋は轡十文字、寺紋は三霞摺菱、墓紋は尻合わせ三階菱。 1892年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。一年志願兵を経て、1893年三菱合資会社入社。神戸支店、大阪支店、高砂製紙所勤務を経て、漢口支店長、上海支店長、北京支店長、営業部副長を歴任し、1913年門司支店長兼若松支店長兼船舶課長。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年… 赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年2月29日) - 1941年(昭和16年)7月5日)は、日本の実業家。南満州鉄道理事としてオイルシェール事業に取り組んだ。 赤羽家は「高遠以来」と称される保科家時代からの会津松平家家臣である。山形藩時代には1000石、500石、400石、150石を食む赤羽家があり、江戸時代を通じ100石以上の赤羽家が複数存在した。赤羽四郎(スペイン公使)や、陸軍航空草創期の軍人である赤羽佑之(航空兵大佐)などは同族である。赤羽の実父は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係であった赤羽治平友温。克己はその三男で、同藩士赤羽友春の養子となる。養母は若松市長松本時正の妹、長男はコーネル大学出身の中島飛行機技師で、第二次世界大戦期は同社の誉発動機推進主任を務める。
原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(186… 原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(1869年3月24日) - 昭和10年(1935年)10月9日)は、日本の実業家。東京書籍初代会長。 岐阜県羽島郡生まれ。同人社、高等商業学校(現一橋大学)を経て、ダリッジ・カレッジ卒業後、1886年にイギリスのサミュエル商会に入社。1892年同社横浜詰仕入部主任。1900年に父・原亮三郎が創業した金港堂書籍の社長を継いだが、1902年に教科書疑獄事件で偽証罪及び証拠隠滅罪の容疑で逮捕された。1909年東京書籍を創立し、初代会長に就任。1917年日本製紙発起人総代。1918年日本製紙会長。1921年日本製紙相談役。 父は金港堂書籍創業者の原亮三郎。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年1… 田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年10月1日) - 昭和4年(1929年)8月31日)は、日本の実業家。 播磨国姫路生まれ。1892年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資入社。旭硝子常務取締役、鶴見臨港鉄道取締役、日本板硝子監査役などを歴任した。 父は姫路藩士田村九一で姫路紡績所の創業者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明… 上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明治元年7月9日〕 - 没年不詳)は、日本の実業家。大日本人造肥料(現・日産化学)株式会社大阪支店長、小樽木材株式会社支配人、吉岡鉱山長。 1868年8月26日(明治元年7月9日)に東京府士族、上領純三の長男として生まれる。 1892年(明治25年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を退学。高商在学中に、校長の矢野二郎と衝突して、優秀な学生の大部分が退学する学校騒動の元祖ともいうべき矢野二郎排斥事件があったが、発頭人としてこれを先導した。また、在学中には、久保田富次郎(後の立教大学名誉教授)と親交が深く、久保田は上領の家に寄寓した。 高商卒業後、三菱合資会社に入社。
永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868… 永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868年7月10日) - 昭和4年(1929年)1月20日)は、明治・大正期の日本の海事実業家。高等商業学校(現・一橋大学)講師などを経て、日本郵船の副社長を務めた。 遠江国横須賀藩に生まれる。安房国花房藩横渚出身。高等商業学校(現・一橋大学)本科第二年生だった1889年から、村瀬春雄とともにアントワープ商業大学(Institut supérieur de commerce d'Anvers:現・アントウェルペン大学(英語版))に留学し、リサンシェ(フランス語版)(学士)を取得して卒業後、1894年に帰国し、高等商業学校講師となった。1895年に日本郵船に入社した。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(18… 相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(1867年5月31日) - 昭和5年(1930年)1月3日)は明治・大正・昭和にかけて満州で活躍した日本人実業家。 1867年福岡県福岡市の魚商相生久次の長男として生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本郵船、中学校教師などの勤務先を転々と変えた末、1904年三井物産入社、門司支店に勤務。炭坑人夫のストライキを収拾してその手腕を認められ、支店長犬塚信太郎の知遇を得る。 日露戦争後の1906年、上司の犬塚は新たに設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事に抜擢されるが、当時混乱を極めていた大連埠頭の荷役問題を解決できる唯一の人材として相生を推挙し、それを受けて相生は満鉄入りする。