富田 一雄(とみた かずお、1939年1月1日 - )は、日… 富田 一雄(とみた かずお、1939年1月1日 - )は、日本の元競泳選手。福岡県久留米市出身、福岡県立三潴高等学校・日本大学卒業。1960年ローマオリンピック競泳男子4×100mメドレーリレー銅メダリスト。 高校在学中の1956年メルボルンオリンピック競泳代表に選ばれ、競泳男子100m背泳ぎ準決勝で敗退。また、三潴高校水泳部の全国大会優勝にも貢献。1960年ローマオリンピックでは競泳男子100m背泳ぎで準決勝敗退したものの男子4×100mメドレーリレーでは銅メダル獲得に貢献した。
須藤 明生(すどう あきお、1939年1月- )は、小説家。… 須藤 明生(すどう あきお、1939年1月- )は、小説家。 益子焼の窯元の出でもある日本製鐵勤務の父の任地・朝鮮平壌に生まれる。栃木県出身。日本大学法学部卒。 さまざまな職業をへたのち、建築会社、芸能プロ、キックボクシングジムを経営、海音寺潮五郎に師事する。同人誌『史道』を主宰した。
陰山 日出也(かげやま ひでや、1939年 - )は、有限会… 陰山 日出也(かげやま ひでや、1939年 - )は、有限会社サンフォルム設計事務所代表取締役、東京都建築士事務所協会理事を勤める日本の建築家。実業家。 1962年日本大学理工学部建築学科2部卒業。1962年株式会社日亜建築設計事務所。1966年モール建築事務所共同経営。1974年一級建築士事務所造形社。1991年有限会社サンフォルム設計事務所 代表取締役。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
櫻田 昭正(さくらだ あきまさ、1939年 - )は、日本の… 櫻田 昭正(さくらだ あきまさ、1939年 - )は、日本の政治家。勲等は旭日双光章。東京都三宅村長。 東京都三宅村出身。日本大学文理学部卒業。 公立中学校教諭、都教育庁三宅出張所嘱託員を経て、2006年7月から2012年2月まで約6年半、村教育長を務めた。 2012年(平成24年)村長選で現職の平野村長を破り当選 ※当日有権者数:当日有権者数人 最終投票率:最終投票率%(前回比:前回比pts) 2025年(令和7年)春の叙勲で旭日双光章を受章した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
髙木 勇夫(たかぎ いさお、1939年 - )は、日本の地理… 髙木 勇夫(たかぎ いさお、1939年 - )は、日本の地理学者。慶應義塾大学名誉教授。元常磐大学学長。 横浜市立大学文理学部卒業、日本大学大学院理工学研究科博士課程単位取得退学。1968年日本大学文理学部専任講師、74年助教授、81年教授。1984年慶応義塾大学経済学部教授。財団法人地域開発研究所所長を経て、2005年に慶応義塾大学を定年退職し、常磐大学学長に就任。専門は、地理学、自然環境論、地域政策・計画論。
筑波 耕一郎(つくば こういちろう、1939年 - 没年不明… 筑波 耕一郎(つくば こういちろう、1939年 - 没年不明)は日本の推理作家。東京都生まれ。幻影城新人賞の最終候補となった短編「密室のレクイエム」(筑波孔一郎名義)でデビューした。 本名は鴨川浩幸。日本大学法学部卒。内外タイムス、内外スポーツ、夕刊ニッポンで新聞記者を務める。1975年に募集が開始された第1回幻影城新人賞小説部門に「密室のレクイエム」を投じ、受賞は逃したものの「推薦新人」の作として掲載され、デビューした。同じ回で同じく推薦新人としてデビューした作家に宮田亜佐がいる。この回の入選は村岡圭三、佳作は泡坂妻夫、田中文雄だった。 幻影城新人賞受賞者を中心としたグループ「影の会」に所属。
山村 雅昭(やまむら がしょう、1939年 - 1987年2… 山村 雅昭(やまむら がしょう、1939年 - 1987年2月28日)は、日本の写真家である。 1939年、大阪府に生まれる。 10代の頃より、カメラ雑誌のコンテストで多数の入選を果たした。1962年、日本大学芸術学部写真学科を卒業する。1967年、自身にとって初の個展「奢りへの戴冠」が村松画廊にて開催される。1976年、個展「植物に」がニコンサロンにて開催され、写真集『植物に』がTBデザイン研究所より刊行される。同年、第1回伊奈信男賞を受賞した。 1987年2月28日、死去。47歳没。
三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 202… 三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 2022年3月22日)は、日本の報道写真家。国連から恒久IDカードを発行された世界でも数少ないジャーナリストの一人。 1938年、日本統治下の朝鮮北部・沙里院(現在は北朝鮮・黄海北道沙里院市)に生まれる。1948年に長崎県佐世保市に引き揚げる。山口県立萩高等学校在学中に、元朝日新聞のカメラマンであった角川政治に師事、写真を学ぶ。 1958年に日本大学藝術学部写真学科に入学。在学中の1961年には写真集「Document 小児マヒの記録」(法政大学出版局)を出版した。同年には初の個展「どんづまり―筑豊の女たち」を開催し、各方面より高い評価を得る。
木村 仲久(きむら なかひさ、1938年11月26日 - 1… 木村 仲久(きむら なかひさ、1938年11月26日 - 1999年3月29日)は、日本の写真家。地方公務員。全日本写真連盟や二科会にて活動した。写真集団影法師、写真集団山月会影法師を創立。写真集「静岡の民家」で林忠彦賞受賞。長年撮り続けた富士山の写真集「富士秀景」は静岡県の作品として国外の要人への贈呈品とされている。 1938年(昭和13年)、静岡県志太郡大井川町(現・焼津市)に生まれる。1957年(昭和32年)、静岡県立静岡高等学校卒業。日本大学に進学し、旧工学部(現日本大学理工学部)の土木工学科で学んだ。卒業後は静岡県庁に入庁した。 静岡県の職員として勤務する傍ら、アマチュア写真家として全日本写真連盟や二科会で活動した。
木村 久(きむら ひさし、1938年11月4日 - )は、群… 木村 久(きむら ひさし、1938年11月4日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 高崎高校から日本大学を経て1961年に阪急ブレーブスへ入団。1963年に引退。
阿部 圭吾(あべ けいご、1938年10月28日 - 201… 阿部 圭吾(あべ けいご、1938年10月28日 - 2019年12月21日)は、日本の松濤館流空手家。 1999年からは師範代 で九段位 。中山正敏 (空手家) (1913–1987), に師事。日本空手協会師範。 阿部は1938年10月28日、 愛媛県 伊予町( 四国島)生まれ 。先祖には侍 で過去に2人の泥棒が彼の家族の家に入った事件について、「私の家族が殺した; 2つの墓がまだ私の家の近くに立っている」と語った 。15歳の1953年に、彼は空手と柔道の武道の訓練を始めた。彼は当初、 志都流風の空手の勉強を始めた。 1956年、日本大学に入学し、工学を学び 、4年後に卒業した。1958年に中山正敏のもとで日本空手協会(JKA)本部道場でトレーニングを開始。
栗田 善成(くりた よしなり、1938年〈昭和13年〉10月… 栗田 善成(くりた よしなり、1938年〈昭和13年〉10月6日 - )は、秋田県出身のローカルタレント、ラジオパーソナリティ。 満州の藩陽の奥地で生まれる。両親ともに日本語学校の教師だった。終戦後は秋田へ引き上げ、大学入学とともに上京。秋田県立秋田高等学校を経て、日本大学芸術学部放送学科を卒業後、三木鶏郎の事務所でCMソングのプロデューサーとなる。 事務所の解散後はCMソングなどを作る広告会社を起こすが3年で解散して、1969年に福岡へ拠点を移す(理由はできちゃった結婚)。1971年、福岡県の放送業界で活動を開始した。 2021年3月、『栗田善成の土曜娯楽版』の番組終了を機に、50年に渡るラジオ番組の出演を退き、芸能界を引退した。
中島 順三(なかじま じゅんぞう、1938年8月1日 - 2… 中島 順三(なかじま じゅんぞう、1938年8月1日 - 2022年8月14日)は、日本のアニメーションプロデューサー。東京都墨田区出身。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団評議員。日本大学芸術学部写真学科卒業。 日本アニメーションには設立から加わり、プロデューサーとして、世界名作劇場を始めとする日本アニメーション作品の製作を行なった。 大学在学中からスチルカメラマンとして新東宝が制作したテレビ映画の宣伝用スチル写真を撮影するアルバイトを行っていた。テレビ映画はフィルムで撮影されたテレビドラマで、映画会社系の制作プロダクションの作品をこう呼んだ。大学を卒業すると、東映の子会社の東映テレビ映画株式会社に契約社員として就職。
黒井 和男(くろい かずお、1938年7月7日 - )は、日… 黒井 和男(くろい かずお、1938年7月7日 - )は、日本の映画プロデューサー。キネマ旬報社、角川映画の元社長、シネマ・インヴェストメントの元会長。黒井オフィス代表。 本名は土橋寿男。父親の土橋治重は、ジャーナリスト、詩人、作家。 日本大学藝術学部映画学科卒業後、株式会社興行通信社に入社した。映画の配給・興行に精通し、映画プロデューサー・コーディネーターなどで数多くの映画製作に携わる。 また、白井佳夫時代の『キネマ旬報』に業界記事の執筆を依頼され、本名では問題があると、白井の妻の名前にちなんで「黒井和男」というペンネームをつける。のち1973年ごろから、白井とのコンビ「ビアンコ・エ・ネーレ」で海外に行き、現地の映画情報を伝える記事を作る。
門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日… 門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日本のジャーナリスト、プロレス評論家。ニックネームは「ぼやき評論の第一人者」。 福島県相馬市出身。日本大学藝術学部卒業後の1962年、東京スポーツ新聞社に入社(「新日本プロレス12人の怪人」著者紹介より)。以降、プロレス記者として現場に関わり続け、記者時代には取材よりも取材先での飲み歩きに没頭していたことから「ドサ回りのモン」と呼ばれ、多い時には年間約200日も出張取材を行っていた。国際プロレスを主に担当し、国際プロレス所属レスラーやスタッフから「モンちゃん」のあだ名で親しまれた。1970年代には国際プロレス中継「国際プロレスアワー」の、また1980年代には「世界のプロレス」(ともにテレビ東京にて放映)の解説者も務めた。
荒木 保夫(、1938年〈昭和13年〉6月17日 - )は、… 荒木 保夫(、1938年〈昭和13年〉6月17日 - )は、日本の俳優、CMディレクターである。別名は荒木保男(読み同じ)。東京出身。 日本大学芸術学部を卒業後、東宝の専属俳優となり、ジャンルを問わず多くの作品に出演した。 1971年(昭和46年)、俳優専属制度廃止後もテレビドラマを中心に1990年代まで活動を続けた。[独自研究?]また、CMディレクターとして活動した時期もある。[要出典]
山岡 永知(やまおか ながとも、1938年6月14日 - )… 山岡 永知(やまおか ながとも、1938年6月14日 - )は、日本の法学者。専攻は英米法、国際取引法。日本大学法学部名誉教授・元非常勤講師。 東京都生まれ。日本大学付属第三高等学校を経て、1962年日本大学工学部建築学科卒業。1965年同大学大学院理工学研究科建築工学専攻修士課程修了、同大学生産工学部副手。1969年生産工学部専任講師、日本大学法学部法学専攻科修了、1972年同大学大学院法学研究科公法専攻修士課程修了。1974年生産工学部専任講師を退職。1975年ジョージ・ワシントン大学ロースクール修了、1977年テュレーン大学ロースクール修了。1985年秋田経済法科大学法学部専任講師、1986年日本大学法学部専任講師、1995年同教授。
菅原 武男(すがわら たけお、1938年5月23日 - )は… 菅原 武男(すがわら たけお、1938年5月23日 - )は、日本のハンマー投げ選手。秋田県鹿角市出身。秋田県立毛馬内高等学校、日本大学卒業。 1960年ローマオリンピック、1964年東京オリンピック、1968年メキシコシティーオリンピック、1972年ミュンヘンオリンピックに出場した。メキシコシティーオリンピックでは日本選手団の主将を務めた。 ハンマー投げを始めたのは高校3年と遅いスタートだったが、その年の県大会で優勝、東北大会で優勝、インターハイで4位入賞。日本大学4年時にローマオリンピックに初出場したが予選落ち。 大学卒業後、リッカーミシンに入社。東京オリンピックの前年に67m73の日本記録を打ち立てたが、1日12時間の猛練習で腰を痛め、東京オリンピックでは63m69の不本意な記録で13位に終わった。
石川 孝人(いしかわ たかと、1938年5月22日 - )は… 石川 孝人(いしかわ たかと、1938年5月22日 - )は日本の脚本家。福岡県出身。 1963年に日本大学芸術学部を卒業し、シナリオ作家協会のシナリオ研究所研修科の第1期生となる。
河合 孝雄(かわい たかお、1938年4月30日 - 201… 河合 孝雄(かわい たかお、1938年4月30日 - 2019年10月14日[要出典])は、日本の写真家。女優撮影の第一人者である。 1938年4月30日、東京都大田区に生まれる。 日本大学芸術学部写真学科を卒業後、出版社写真部勤務を経て、フリーになる。日活、東映所属女優を多数撮り続け『平凡パンチ』など多数の男性週刊誌に掲載される。 学生時代は体育会山岳部に所属ネイチャーフォトグラファーを目指す。 卒業後は出版社に勤務、新興宗教教団をルポした「神様こんにちは」(サン出版)などを手がける。 二年後退社しフリーとなりロサンジェルスに3年遊学LAの日本人街等を撮る。 その頃二世のアマチュア写真グループに誘われて始めてヌードを撮り面白さに目覚める。
猪俣 公章(いのまた こうしょう(本名: きみあき)、193… 猪俣 公章(いのまた こうしょう(本名: きみあき)、1938年4月11日 - 1993年6月10日)は、日本の作曲家、作詞家。
三澤 千代治(みさわ ちよじ、1938年3月29日 - )は… 三澤 千代治(みさわ ちよじ、1938年3月29日 - )は、日本の実業家。MISAWA・international株式会社代表取締役社長。(現)株式会社MISAWA代表取締役会長。 実業活動と並行して積極的に執筆活動を行っており、著書も数多い。 1938年3月29日、新潟県中魚沼郡十日町(現在の十日町市)土市に生まれる。新潟県立十日町高等学校卒業後、進学に伴い上京し、日本大学理工学部建築学科において建築工学を学んだ。 1967年、ミサワホームを創業した。ミサワホームは短期間で順調に業績を伸ばし、1971年に上場を果たす。上場企業の代表取締役としては、史上最年少であった。 耐久性やデザイン性に優れた商品開発を進めるなど、積極的な事業展開を行った。
柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は… 柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡県立戸畑高等学校から日本大学へ進学。大学時代は主将として活躍した。1961年に大洋ホエールズへ入団したものの、1年限りで引退。
梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年〈昭和13年/康徳5… 梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年〈昭和13年/康徳5年〉3月11日 - 2019年〈令和元年〉12月12日)は、日本の俳優、タレント、司会者、実業家。娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。 梅宮の先祖は、福島県会津若松市の城下で「梅宮屋」の名前で煙草を売っていた。梅宮の祖父・辰次郎が陸軍士官学校卒業後日露戦争に従軍。妻とともに満洲・奉天市に移住。辰次郎は関東軍参謀・板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだ。辰次郎の次男で父の次郎は同地で生まれ、満洲医科大学を卒業し医師となった後、満州国ハルビン特別市で満鉄病院に勤務していた。梅宮のほか弟と妹それぞれ2人ずつおり、5人兄弟の長男である。
大宮 政志(おおみや まさし、1938年3月10日 - )は… 大宮 政志(おおみや まさし、1938年3月10日 - )は、日本競輪選手会東京支部に所属していた元競輪選手。岩手県岩手郡滝沢村(現・滝沢市)出身。滝沢市スポーツ功労者。 盛岡第一高等学校時代の1956年、鎌倉で行われた第一回・全国高等学校自転車道路競走中央大会の個人、団体の部で優勝。また同年、大宮競輪場で開催された全国高等学校自転車競技選手権大会(インターハイ)ロード・レース「第1回全国高等学校自転車道路競走中央大会」(鎌倉~江の島~平塚の周回路)で優勝。 日本大学時代には世界自転車選手権、ローマオリンピックにも出場。1962年の第4回アジア競技大会個人ロードレースでは2位に入る。1964年東京オリンピックの個人・団体ロードに出場。
中島 誠之助(なかじま せいのすけ、1938年3月5日 - … 中島 誠之助(なかじま せいのすけ、1938年3月5日 - )は、日本の骨董商・古美術鑑定家、エッセイスト、テレビタレント。骨董屋「からくさ」の店主。なお、「からくさ」は2000年に閉店し、店舗営業はしていない。称号(現学位)は獣医学士。そのほか、伊万里文化大使の称号を持つ。
馬場 孝(ばば たかし、1938年2月17日 - 2021年… 馬場 孝(ばば たかし、1938年2月17日 - 2021年4月28日)は、日本の元陸上競技選手、指導者。神奈川県高座郡相模原町出身。日本大学商学部商業学科卒業。 昭和第一学園高等学校、日本大学出身。 高校では水泳をするつもりだったが、プールがなかったため陸上部の入部を希望した。しかし、体が小さかったため、初めは入部を認めてもらえなかったという。3年時にインターハイに出場したが、決勝では腹痛を起こして途中棄権だった。 高校卒業後は松屋百貨店に就職した。2月の20kmロードレースで日本最高記録で優勝し、中央大学陸上競技部監督の西内文夫や日本大学陸上競技部監督の森本一徳から勧誘を受け、最終的には社会人1年目に世話になった田中茂樹の出身校である日本大学に進学した。
三輪 嘉六(みわ かろく、1938年(昭和13年)2月17日… 三輪 嘉六(みわ かろく、1938年(昭和13年)2月17日 - )は、日本の考古学者。独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館元館長。専門は考古学、文化財学。 岐阜県瑞浪市出身。日本大学文学部(現在の文理学部)史学科卒業後、学校教員を経て、奈良国立文化財研究所に勤務。東京国立文化財研究所修復技術部長、文化庁文化財鑑査官、日本大学文理学部史学科教授等を経て、2002年、九州国立博物館設立準備室長、2005年、九州国立博物館の初代館長(2015年まで)。文化財保存修復学会会長、日本考古学会評議員などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
勝間田 具治(かつまた ともはる、1938年2月4日 - )… 勝間田 具治(かつまた ともはる、1938年2月4日 - )は、静岡県下田市出身の日本のアニメーション演出家、アニメ監督である。 日本大学芸術学部卒業後、叔父で俳優の岸井明の紹介で1960年に映画製作会社の東映に入社。東映京都撮影所でマキノ雅弘に師事し、工藤栄一、加藤泰、田坂具隆監督らの助手を務めた。これら監督につき、『次郎長血笑記・富士見峠の対決(1960年公開)』『次郎長血笑記・殴り込み荒神山(1960年公開)』 『ちいさこべ(1962年公開)』などの制作に関わった。その後、テレビアニメ事業に進出した東映動画(現・東映アニメーション)から請われて1964年に移籍し、アニメーションの演出家に転向。
石原 勝記(いしはら かつき、1938年2月2日 - )は、… 石原 勝記(いしはら かつき、1938年2月2日 - )は、日本の元競泳選手。熊本県出身。1960年ローマオリンピック・1964年東京オリンピック日本代表。50m自由形の元日本記録保持者。 熊本県立鹿本高等学校、日本大学卒。 1960年ローマオリンピックに初出場。100m自由形では準決勝敗退、400mメドレーリレーでは予選のみ出場した。 1964年東京オリンピックでは400mフリーリレーに出場し、3位と0.6秒差の4位に終わった。
木村 守男(きむら もりお、1938年1月24日 - 202… 木村 守男(きむら もりお、1938年1月24日 - 2023年6月25日)は、日本の政治家。青森県知事(3期)、衆議院議員(4期)、青森県議会議員(3期)などを歴任した。父は衆議院議員を務めた木村文男、長男は元衆議院議員の木村太郎。次男は衆議院議員の木村次郎。 青森県南津軽郡藤崎町出身。東奥義塾高等学校から青森県立浪岡高等学校を経て、1960年、日本大学法学部法律学科を卒業。 1967年から青森県議会議員を3期務め、その間、青森県議会農林常任委員長などを務める。 1977年、新自由クラブ公認で参議院青森県選挙区に立候補するが、落選。1980年、新自由クラブ公認で衆議院青森2区に立候補、初当選する。
都築 章一郎(つづき しょういちろう、1938年 1月5日 … 都築 章一郎(つづき しょういちろう、1938年 1月5日 - )は、日本の男性フィギュアスケート選手。現在はフィギュアスケートコーチ。愛知県名古屋市出身。日本大学卒業。娘は元アイスダンス選手の都築奈加子。 1958-1959年シーズンの全日本ジュニア選手権で初の表彰台となる3位、翌1959-1960年シーズンの全日本ジュニア選手権で優勝を果たした。1963年の大学を卒業とともに引退し、のちに指導者の道へ進んだ。 指導者に転進後は、1964年に稲田悦子や片山敏一らとともに日本フィギュアスケーティングインストラクター協会を設立した。日本オリンピック委員会指定コーチやプリンスホテルの専任コーチとなり、大学の後輩でもある佐野稔や五十嵐文男、渡辺しのぶ、岡部由紀子、娘の都築奈加子、在日朝鮮人である金妙実、川崎由紀子&アレクセイ・ティホノフペアらを指導した。
今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 20… 今泉 幸雄(いまいずみ ゆきお、1938年1月1日 - 2009年1月26日)は、昭和期の日本のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。背番号44。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業。 埼玉県入間郡鶴ヶ島町(現在の同県鶴ヶ島市)出身日本大学鶴ヶ丘高等学校→高橋ユニオンズ・トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ→日本大学 高校在学中に高橋ユニオンズの入団テストを受け合格。高校に通学しながらプロ野球選手として活躍する異色の経歴を持つ。現役時代は日本初の300勝投手・スタルヒン投手ともバッテリーを組むが、高校卒業と同時に高橋ユニオンズの球団合併に伴い引退し、日本大学に進学。プロ経験者のため大学リーグではプレーできなかったが、高木時夫(中日)、宮田征典(巨人)らとともに野球部で大学生活を送った。
松岡 義和(まつおか よしかず、1938年 – )は、日本の… 松岡 義和(まつおか よしかず、1938年 – )は、日本の劇作家。画家。教育者。市立名寄短期大学元学長。北海道常呂郡訓子府町出身。 1956年北海道北見柏陽高等学校卒業。1960年日本大学芸術学部卒業。同年、小清水町立中学校美術教諭。その後、紋別市立潮見中学校美術教諭、北見市立富里中学校美術教諭などを経て、1994年市立名寄短期大学生活科学科教授。1996年市立名寄短期大学学生部長。2002年市立名寄短期大学学長に就任。2006年市立名寄短期大学退官。同名誉教授。現在、大空町図書館長。芸術教育の会会長。北海道手作り絵本の会会長。
斎藤 公男(さいとう まさお、1938年 - )は、日本の構… 斎藤 公男(さいとう まさお、1938年 - )は、日本の構造エンジニア(構造家)。日本大学名誉教授、日本建築学会元会長。現在、A-Forum代表、日本建築文化保存協会理事。 群馬県立前橋高等学校卒業。日本大学在学時に坪井善勝の元で学び、バックミンスター・フラーに魅了される。空間構造や構造デザインに対する強い関心を育み、その後の大学における「教育・研究・設計」の融合を図ることへのテーマとつなげる。卒業後は、日本大学理工学部建築学科で教鞭をとりながら、空間構造デザイナーとして数多くの作品を生み出してきた構造設計者の一人である。特に、張弦梁構造の設計の第一人者として知られる。 全日本弓道連盟会長であった父の斎藤友治が日本弓をひく姿から「美と強」の調和的世界に感銘を受け、張弦梁構造の設計・デザインにつながったと語る。
柴 順三郎(しば じゅんざぶろう、1938年 - )は、日本… 柴 順三郎(しば じゅんざぶろう、1938年 - )は、日本の地方公務員、教育者。元静岡県副知事、元気象審議会委員、元学校法人三島学園理事等を務めた。 静岡県出身。静岡県立韮山高等学校卒業。1959年(昭和34年)3月、日本大学短期大学部卒業後は静岡県に奉職。県の企画部長・出納長などの職務を経験した後、同県副知事に就任。副知事に就任して以来、静岡県広報協会会長、気象審議会委員、静岡県日中友好協議会理事長などの要職に就いた。 副知事の任期満了に伴い、後任として鈴木雅近氏が選任された。退任後は、学校法人三島学園(知徳高等学校)理事を務めた。 2008年(平成20年)4月、瑞宝中綬章を受賞。
尾前 喜八郎(おのまえ きはちろう、1938年-)は、日本の… 尾前 喜八郎(おのまえ きはちろう、1938年-)は、日本の陶芸家。鹿児島県姶良市に窯を構えて活動。白薩摩の新たな魅力を引き出した作品が多数表彰される。日本工芸会正会員。鹿児島県美術協会名誉会員(元会長)。 鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ。1957年鹿児島県立甲南高等学校卒業。同高校では美術部に所属した。広告代理店のデザイナーを志望して日本大学芸術学部デザイン科に進学。同大学卒業後に広告代理店出身教授の助手を務めるが、進路を再考。弥生遺跡や薩摩の古窯を廻り、土の温もりを感じさせる土器に触れて、幼少期に父親によく連れられて行った東市来町美山(薩摩焼の最大の産地)の記憶もあって、陶芸の道に入ることを決める。
水谷 碩之(みずや ひろゆき、1938年- )は、日本の建築… 水谷 碩之(みずや ひろゆき、1938年- )は、日本の建築家。 愛知県生まれ。1962年、日本大学卒業後、坂倉準三建築設計研究所に入所。以来坂倉建築研究所で建築設計に従事する。その後アーキブレーン建築研究所を設立。 代表作に、Ntsシステム総合研究所がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
渡辺 明(わたなべ あきら、1938年 - )は、日本の建築… 渡辺 明(わたなべ あきら、1938年 - )は、日本の建築家。長野県生まれ。 その他の作品に、東京プリンスホテルがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
水谷 碩之(みずや ひろゆき、1938年- )は、日本の建築… 水谷 碩之(みずや ひろゆき、1938年- )は、日本の建築家。
小池 潜(こいけ ひそむ、1938年 - 2023年11月2… 小池 潜(こいけ ひそむ、1938年 - 2023年11月29日)は、日本の山岳写真家。日本山岳写真協会会員、日本山岳会会員。 岐阜県吉城郡上宝村(現在の高山市)出身で高山市在住。日本大学理工学部を卒業とともに小池義清(父)の後を継ぎ、北アルプスの双六小屋、鏡平山荘、わさび平小屋を経営。1988年からは黒部五郎小舎も経営する。そのかたわら、山岳写真を撮り続け、作品を雑誌やカレンダーなどに多数発表。 詳細は写真集の自伝を参照。
播 繁(ばん しげる、1938年 - 2017年9月5日)は… 播 繁(ばん しげる、1938年 - 2017年9月5日)は、日本の構造家。日本大学在学時に坪井善勝の元で学ぶ。 耐震構法SE構法を開発し、エヌ・シー・エヌ顧問も務めた。
山本 順也(やまもと じゅんや、1938年 - 2015年7… 山本 順也(やまもと じゅんや、1938年 - 2015年7月17日)は、日本の漫画編集者。日本大学藝術学部映画学科卒業。 1963年、小学館に入社。絵本編集部に所属し、手塚治虫の『ジャングル大帝』復刻版を担当。1968年、『週刊少年サンデー』の副編集長から移動し、少女漫画誌『少女コミック』の創刊メンバーとなる。1970年、『別冊少女コミック』の創刊に副編集長として携わる。当時まだ無名に近かった萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子らを登用。その後、倉多江美、樹村みのり、伊東愛子らも起用し、少女漫画界に新しい波を起こした。男性漫画家に対しても、山本の兄の知人の息子にあたる山田ゴロを見出している。1980年には『プチフラワー』の創刊に携わり、その後、編集長を務めた(初代編集長は渡辺静夫)。
小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 202… 小沼 勝(こぬま まさる、1937年12月30日 - 2023年1月22日)は、日本の映画監督。 1937年12月30日、北海道小樽市に生まれる。都立新宿高等学校を経て1961年、日本大学芸術学部映画学科を卒業し、日活に助監督として入社する。 1971年、『花芯の誘い』で映画監督デビューを果たす。以後、40本以上の日活ロマンポルノの作品を手がけた。耽美的な作風でSM物を得意とする。 1974年『花と蛇』での原作改変が原作者の団鬼六を激怒させ、その後は団原作ではないSM映画を数多く撮った。数年後には団とも和解して団原作映画も撮るようになっている。 ロマンポルノ以外では日本テレビ系『火曜サスペンス劇場』など、サスペンスドラマ作品の演出を手掛けたこともあった。
田邊 雅章(たなべ まさあき、1937年12月13日 - )… 田邊 雅章(たなべ まさあき、1937年12月13日 - )は、日本の映像作家。(株)ナック映像センター代表取締役。本名・俊彦(としひこ)。 広島市生まれで父は軍人。市内猿楽町(現・中区大手町)・産業奨励館(原爆ドーム)東隣の生家で育つ。山口県の母の実家に縁故疎開中の1945年、原爆投下により実家に残っていた父・母・弟を失う。自らも家族を捜すため入市し二次被爆した。 原爆投下から9日後の8月15日、終戦となったこの日に父親が死去(敗戦に伴う自害ではなく、原爆の影響による戦傷死)。軍人であった父親は自らが被爆したこともあり、米軍に対して拭いきれない憎しみを抱きながら軍刀を傍に置いたまま亡くなったという。
横須賀 功光(よこすか のりあき、1937年11月26日 -… 横須賀 功光(よこすか のりあき、1937年11月26日 - 2003年1月14日)は、日本の写真家。 神奈川県横浜市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。 大学在学中から資生堂の社内報『ハウスオーガン』の仕事に就く。 1983年、日本人初のイタリアンヴォーグ、ドイツヴォーグ、フレンチヴォーグのフリーランススタッフカメラマンとなる。 前田美波里、山口小夜子、宮沢りえなどの資生堂ポスターを撮影。
森永 純(もりなが じゅん、1937年11月11日 - 20… 森永 純(もりなが じゅん、1937年11月11日 - 2018年4月5日)は、日本の写真家。 1937年、長崎県長崎市にて誕生。日本大学芸術学部写真学科を卒業し、1962年にアメリカ合衆国の写真家であるユージン・スミスの助手を勤めていた。日本写真批評家協会新人賞、日本写真協会年度賞を受賞。 2018年4月5日、心不全のため死去。80歳没。
山根 久幸(やまね ひさよし、1937年8月21日 - )は… 山根 久幸(やまね ひさよし、1937年8月21日 - )は、日本の俳優。本名は同じ。 東京府出身。日本大学卒業。劇団民藝、アクターズカンパニー、日活、を経て、アクロス エンタテインメント所属。 身長175cm、体重65kg、血液型はO型。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月1… 金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月10日 - 2006年〈平成18年〉7月31日)は、昭和時代の日本の陸上競技選手。元円盤投日本記録保持者。ローマオリンピック代表・1964年東京オリンピック代表。日本選手権5連覇、日本記録更新7回など、数々の記録を打ち立てた。群馬県沼田市出身。身長175センチメートル、体重78キログラム。 群馬県沼田市硯田町出身。薄根中学校から群馬県立高崎工業高等学校に進学。高校では陸上部に所属し、1954年の関東大会で40m45をマークし優勝。翌1955年の関東大会で47m50の高校新記録を樹立し優勝し、酒田で開催された全国大会でも優勝。 翌1956年日本大学へ進学。
米塚 義定(よねづか よしさだ、1937年5月19日 - 2… 米塚 義定(よねづか よしさだ、1937年5月19日 - 2014年10月18日)は日本及びアメリカの柔道家。柔道の段位は講道館9段で、空手道でも8段を所有している。アメリカでは“ヨネ”として知られた。 青森県北津軽郡武田村(のちの中泊町)出身。小さい頃は相撲や陸上競技に取り組んでいた。武田中学校を卒業後、五所川原高校に入学してから柔道を始め、受け身の練習を始めてから2年後の高校3年次には青森県代表として国体出場を果たした。日本大学に進学すると、4年間の学生生活で引き分けはあっても負け試合は1度もなく、副主将を務めて全日本学生柔道優勝大会などで活躍した。 1960年に大学を卒業後、ニューヨーク州柔道協会に招聘されてアメリカで柔道指導にあたる事になった。