金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、… 金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、1921年7月9日 - 1975年11月2日)は北朝鮮の建築家・都市計画家。1940年代から1950年代にかけて、平壌の都市計画に携わったことで知られる。一般にも1987年に公開された映画『ある建築家に関する話』(한 건축가에 대한 이야기)で知られるようになる。 平壌は朝鮮戦争で壊滅的に破壊されたが、停戦後、ソ連の援助で復興事業が開始され、1951年の金の都市デザインにより、社会主義国特有の広場や、スターリン様式を取り入れたプロパガンダ色の濃い町が建設された。金はその後、平壌のみならず北朝鮮各地の都市復旧建設事業に尽力していく。 平安北道の農家の子として出生。
春日 俊二(かすが しゅんじ、1921年6月14日 - 没年… 春日 俊二(かすが しゅんじ、1921年6月14日 - 没年不明)は、日本の俳優、声優。旧芸名は春日 俊次(読みは同じ)。本名は春日 章良(かすが あきよし)。 新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。東京芸術劇場、劇団青俳、劇団民藝、銀座プロ、劇団新劇場に所属していた。
楠 正俊(くすのき まさとし、1921年〈大正10年〉6月1… 楠 正俊(くすのき まさとし、1921年〈大正10年〉6月11日 - 2007年〈平成19年〉12月13日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。海軍軍人。東洋英和女学院大学教授の楠精一郎は息子。 1921年(大正10年)東京府(現在の東京都)生まれ。1947年(昭和22年)文部省大臣官房宗務課(現在の文化庁文化部宗務課)勤務。3年勤務した後、1951年に設立された新宗連の結成に事務局員として参加。後に事務局長を務める。 1965年(昭和40年)第7回参議院議員通常選挙で全国区に自由民主党から出馬し、初当選。1971年(昭和46年)第9回参議院議員通常選挙全国区で再選。1973年(昭和48年)4月30日自民党の玉置和郎参議院議員、藤尾正行衆議院議員と訪台。
竹内 浩三(たけうち こうぞう、1921年(大正10年)5月… 竹内 浩三(たけうち こうぞう、1921年(大正10年)5月12日 - 1945年(昭和20年)4月9日)は、日本の詩人。 三重県宇治山田市吹上町(現・伊勢市吹上)に生まれた。 明倫小学校を卒業後、宇治山田中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に進学、中学在学中より友人と回覧雑誌を製作。1940年(昭和15年)に日本大学専門部映画科に入学し、伊丹万作の知遇を得る。1942年(昭和17年)6月、宇治山田中学校時代の友人中井利亮・野村一雄・土屋陽一と同人誌『伊勢文学』を創刊。同年9月に日本大学を繰り上げで卒業し、入営。久居(現・津市)で初年兵として1年の訓練の後、吉沼(現・茨城県つくば市)で落下傘兵として厳しい訓練を課される。
田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年… 田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年4月12日)は、日本の洋画家。春陽会会員。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学芸術科卒業。 1937年(昭和12年)三豊中学4年生の時に美術部を創る。1939年(昭和14年)東京美術学校油絵科に入学、小林万吾が保証人であった。その後、海老原喜之助に出会い日本大学芸術科に転校を薦められて入学した。在学中、独立美術協会展などに出展する。 兵役に就き復員後、第15回独立美術展に出品する。1947年(昭和22年)自由美術協会展に出品、同年4月に上京して以後出展を続けた。1950年(昭和25年)春陽会の出展して研究賞を受賞。
小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、… 小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、日本の労働運動家、日本福祉大学名誉教授。 横浜市生まれ。1943年日本大学経済学部卒業。44年荏原製作所入社。労働組合活動に参加し、49年総評調査副部長、1953年書記。60年同調査部長。1968年日本福祉大学教授。2002年定年退任、名誉教授。専攻は賃金論、日本産業史。時計産業史に関心をよせた。
佐竹 申伍(さたけ しんご、1921年1月15日 - 200… 佐竹 申伍(さたけ しんご、1921年1月15日 - 2005年2月24日)は、日本の小説家。 東京小石川生まれ。本名・佐藤静夫。日本大学芸術学部卒。映画関係の仕事を経て、文筆活動にはいる。はじめ時代小説を書き、のち歴史小説を書いた。一時期NHK大河ドラマにあわせて執筆していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
浅沼 良次(あさぬま りょうじ、1921年 - 2002年7… 浅沼 良次(あさぬま りょうじ、1921年 - 2002年7月1日)は日本の郷土史家である。八丈島の歴史・民俗を専門とする。
閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12… 閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12月30日 - 2000年12月22日)は、満洲国のジャーナリスト、大韓民国の政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 本貫は驪興閔氏。号は三隠(サムン、三隱/삼은)。 日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市器興区)出身。日本大学芸術科卒。満州日報記者、大韓青年団員を経て、1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の候補として龍仁選挙区より出馬し、国会議員に当選した。その後は韓国ポプラ社長を務め、1960年代には全国でポプラの植樹運動を推進した。2000年に死去、享年80。
佐々木 栄造(佐々木 榮造、ささき えいぞう、1920年(大… 佐々木 栄造(佐々木 榮造、ささき えいぞう、1920年(大正9年)12月16日 - 2019年(令和元年)12月26日)は、昭和から平成時代前期の政治家。青森県五所川原市長。号に遠城。位階は従四位。旭日中綬章。 青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)出身。五所川原農学校を経て、日本大学法学部、同大学大学院法学研究科修士課程修了。1958年(昭和33年)日本青年団協議会長、1959年(昭和34年)青森県議会議員を経て、1962年(昭和37年)五所川原市長に当選。公職選挙法違反で1966年(昭和41年)に一度は失職しながらも直ぐに復帰、1979年(昭和54年)に病気で市長から退くものの2代後の森田稔夫がリコールによって解職されたことに伴い1989年(平成元年)6月に12年ぶり市長に返り咲き。
石内 展行(いしうち のぶゆき、1920年12月5日 - 2… 石内 展行(いしうち のぶゆき、1920年12月5日 - 2017年)は、日本の造園家。 兵庫県に生まれる(『都政人名鑑 1962年版』では山口県防府市出身とされる)。東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)、日本大学高等工学校(日本大学理工学部・大学院理工学研究科)を経て、1938年に東京市に入庁した。 東京都自然公園課長、東京都多摩動物公園長、恩賜上野動物園長、東京都造園緑化業協会専務理事等を歴任した。 1991年秋の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。1993年、第15回日本公園緑地協会北村賞を受賞した。
孫 承徳(ソン・スンドク、朝鮮語: 손승덕/孫承德、1920… 孫 承徳(ソン・スンドク、朝鮮語: 손승덕/孫承德、1920年11月11日 - 1993年5月22日)は、大韓民国の政治家。第9・10・14代大韓民国国会議員。 1920年11月11日に生まれた。春川高等学校を卒業後渡日し、日本大学の専門部(商科)に進学し、卒業した。1973年2月27日に行われた第9代総選挙にて当選し国会議員となり、その後も2度国会議員を務めた。他には江原大学校期成会長、大韓体育会理事、大韓軟式庭球協会会長を務めた。 1992年の第14代総選挙で3選したが、1993年5月22日、江原道春川市漆田洞88公園の前で京春国道を渡る途中に孫娘と共にトラックにひかれて死去した。73歳没。
猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月2… 猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月27日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。福島県会津若松市長。 会津若松市出身。1943年(昭和18年)日本大学商経学部卒業。 門田村議会議員、会津若松市議会議員を経て、1967年(昭和42年)より福島県議会議員に5選する。1983年(昭和58年)会津若松市長に当選し、1987年(昭和62年)落選した。
尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月1… 尾島 隆利(おじま たかとし、1920年〈大正9年〉10月11日 - 1962年〈昭和37年〉)は、日本の食肉業者、会社役員。グリコ相模ハム常務取締役兼屠畜場長。 神奈川県藤沢市出身。2代目尾島正吉の嗣子。日本大学商科卒業。藤沢屠場主となる。1947年、神奈川県屠場協会専務理事、同県食肉商業協同組合専務理事。1951年、日本食肉協会理事。 1954年、神奈川県屠場協会長。1956年、日本食肉協会理事、神奈川県食肉組合連合会専務理事各辞任。1957年、グリコ相模ハム常務に就任。 尾島家は父祖3代にわたる屠畜・食肉業者で、尾島隆利は近代感覚と教養を身につけた紳士として知られた。住所は神奈川県藤沢市藤沢。
長島 喜平(ながしま きへい、1920年〈大正9年〉10月1… 長島 喜平(ながしま きへい、1920年〈大正9年〉10月11日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は、日本の教員、郷土史家。位階は正五位。 埼玉県生まれ。1942年埼玉師範学校を、1953年日本大学文理学部を卒業。埼玉県で高校教師を務めながら、郷土史研究を行った。1982年に埼玉県立坂戸高校校長をもって教員を退職した。その後、埼玉県郷土文化会会長、埼玉県文化振興基金幹事、嵐山町文化財保護委員長、嵐山町博物誌編さん委員会委員と同委員会中世部会部会長などを務めた。 1990年に勲四等瑞宝章受章。没日をもって正五位に叙せらる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石田 勝彦(いしだ かつひこ、1920年10月3日 - 20… 石田 勝彦(いしだ かつひこ、1920年10月3日 - 2004年7月9日)は、北海道出身の俳人。本名は和郎(かずろう)。1938年、旧制日本大学中学校(現、日本大学第一中学校・高等学校)卒業、國學院大學中退。戦後、結核のため清瀬の国立東京病院に入所。1952年、東京療養所俳句サークル誌「松濤」の加藤楸邨の選を受け、翌年、「寒雷」に入会。また石田波郷に師事し、1954年、俳誌「鶴」に入会。「鶴」支部句会で小林康治からも学んだ。波郷没後、1974年、小林康治の「泉」創刊に参加、編集を担当、1980年より「泉」を辞した小林に代わり選を務める。1988年、俳人協会評議員。1990年、健康上の理由で「泉」主宰を綾部仁喜に譲る。
松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日… 松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日 - 1987年5月7日)は、日本の脚本家、小説家。 埼玉県秩父郡大滝村大血川(現・秩父市)出身。1942年日本大学専門部国文科中退、満州映画協会に入社。1944年東宝に移籍し、黒澤明、山本薩夫らの助監督を務める。1948年脚本家に転向、代表作に「風速40米」(1958年)、「電光石火の男」(1960年)、「青年の椅子」(1962年)など。弟子に雪室俊一、曽田博久がいる。1966年からは小説も書いた。 生涯に映画脚本を約170本、テレビなどの脚本を含めると約340本を手掛けた敏腕だったが、その作業は弟子との共同作業が多く、作成の多くが弟子たちに口述筆記、清書させるものであった。
東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日… 東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月8日)は、日本の小説家。本名は東徤(あずま・たかし=行人偏に建)。23歳で夭折した。学習院時代の三島由紀夫と親交を持った。 父・東季彦は奈良県十津川村出身の法学者で、九州帝国大学法文学部教授や日本大学学長などを歴任。母・菊枝は軍人・石光眞清の次女。 「文彦」という筆名は、季彦が息子の名前にと一時考えていたものである。本名の「徤」は、祖父の東武の命名による。「徤」の字は『易経』にあり、天の運行の壮んさを表す。 神奈川県鎌倉市生まれ。幼時を父の赴任先の福岡で過ごした。小学校を福岡県男子師範学校付属小学校で過ごしたことは、文彦にとって重要なものであった。
稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 199… 稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 1998年4月20日)は、日本の俳優。本名:稲葉 吉久。 千葉県成田市宗吾出身。日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。劇団俳優座に所属していた。 芸術小劇場在籍中に応召。1950年俳優座に入り、『三文オペラ』『桜の園』などの舞台に立った。映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、多くの作品に出演し名脇役として活躍した。また、『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役などテレビドラマにも多く出演した。時代劇では善人役での出演が多いが、悪役として出演することもあった。 1998年4月20日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000… 長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000年?)は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 関東中学校、日本大学を経て、簡易保険局でプレー。1938年途中に名古屋金鯱軍に入団すると、1938年秋季シーズンはこれまでの正捕手であった松元三彦に代わって起用されるようになり、1939年と1940年は正捕手を務めた。 戦後は、1947年に国民野球連盟が設立されると大塚アスレチックスの選手として参加。のち、社会人野球の豊岡産業を経て、1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って毎日オリオンズが結成されるとこれに入団し、10年ぶりにプロ野球界に復帰する。毎日では阪神タイガースから移籍してきた土井垣武がいたため出場機会に恵まれなかった。
鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年>… 鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年> 6月26日 - 2004年 <平成16年> 2月22日)は、日本の経営者。鴻池運輸社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に日本大学商経済学部を卒業し、同年に鴻池組に入社。1970年11月に鴻池運輸社長に就任し、1989年12月には会長に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1997年4月に勲四等瑞宝章を受章。 2004年2月22日に肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - 2… 神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - 2011年8月10日)は、日本の児童文学作家。東京府出身。日本大学専門部社会科卒。社会福祉施設などに勤務。1950年いぬいとみこ、佐藤さとるらと同人誌「豆の木」を創刊。1955年作家となる。動物文学や偉人伝を描くことが多かった。日本児童文学者協会・日本児童文芸家協会会員。
北原 文枝(きたはら ふみえ、1920年5月28日 - 19… 北原 文枝(きたはら ふみえ、1920年5月28日 - 1980年10月6日)は、日本の女優、声優である。本名、阿部 房枝。夫は俳優の安部徹。 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。日本大学芸術学部卒業。北村喜八と村瀬幸子が1937年に結成した芸術小劇場で活動を始めた。1944年2月に劇団俳優座が設立されると、村瀬とともに参加。俳優座が御殿場に疎開すると、1945年に離脱し、独立した。 戦後しばらくはラジオを中心に活動した。NHKのクイズ番組や、文化放送の「冗談音楽」にレギュラーとして出演した。1953年、田中絹代監督『恋文』に端役で初出演した。1955年9月、当時所属していたプレーヤーズ・センターの事務員が北原や三木鶏郎など複数のタレントのギャラを何度も横領し、キャバレー代に使っていたと報道される。
金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1… 金 鍾珞(キム・ジョンナク、朝鮮語: 김종락または김종낙、1920年5月16日 - 2013年8月22日)は、大韓民国の実業家。 第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長を歴任した。兄は金鍾翊、弟は金鍾泌。 日本統治時代の忠清南道扶余郡出身。公州高等普通学校(現・公州高等学校(朝鮮語版))、日本大学商経学部経済科卒。韓一銀行(現・ウリィ銀行)専務、大韓卓球協会副会長、第9・12代大韓野球協会(現・大韓野球ソフトボール協会)会長(1966年~1980年および1989年~1992年)、ソウル銀行(現・KEBハナ銀行)銀行長、コリアタコマ設立者兼会長(1970年~1991年)、国際野球連盟副会長(1980年~1996年)、アジア野球連盟会長(1983年~1995年)などを務めた。
児玉 数夫(こだま かずお、1920年4月30日 - 202… 児玉 数夫(こだま かずお、1920年4月30日 - 2022年7月20日[要出典])は、日本の映画評論家。別名、玉松 徳夫(タママツ トクオ)。日本映画ペンクラブ名誉会員。 東京府東京市赤坂区溜池町(現在の東京都港区赤坂)に生まれる。本籍は三重県伊勢市。1941年、日本大学専門部経済科卒業後、外務省に入省し、調査部、情報局第三部に配属。 戦後は1947年にセントラル映画社に入社、のちロマンス社『フォトプレイ』日本語版・編集部他を経て、映画評論家となる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
厳 廷柱(オム・ジョンジュ、朝鮮語: 엄정주/嚴廷柱、192… 厳 廷柱(オム・ジョンジュ、朝鮮語: 엄정주/嚴廷柱、1920年4月28日 - 2000年4月8日)は、大韓民国の警察公務員、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。号は東泉(トンチョン、동천)。 日本統治時代の江原道寧越郡出身。日本大学経済学部卒。寧越警察署長(1949年6月12日〜1950年3月9日)、韓国鉱業振興株式会社副参事、シンシン薬品株式会社支配人、民主共和党江原第5地区党委員長・中央常任委員を歴任した。1963年の第6代総選挙では寧越・旌善選挙区より民主共和党所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。以後、大韓鉱業振興公社副社長、韓国ブドウ堂社長、大韓民国憲政会書画委員長などを務めた。
香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991… 香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991年5月13日)は、日本の児童文学作家、教育評論家。 香川県高松市中新町出身。旧制高松中学から日本大学(芸術科)に進むも中退し、香川県師範学校を卒業。 終戦まで北支と満洲で軍隊生活を送る。戦後、高松市内の小・中学校で教鞭をとった。1951年に上京。川越市立富士見中学校を振り出しに、1960年志木市立志木中学校の校長となり、1980年新座市立新座中学校の校長を最後に退職した。 その間作家として活動、1967年「セトロの海」で野間児童文芸賞、1980年「高空10000mのかなたで」で小学館文学賞受賞。 「中学生文学」を創刊し、編集長を務めて文学教育にも取り組んだ。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 200… 景山 克三(かげやま かつみ、1920年4月1日 - 2008年9月16日)は、日本の機械工学者、海軍軍人(技術大尉)、日本大学理工学部名誉教授。学位は工学博士。専攻は機械工学。勲三等瑞宝章受章者。 1920年、福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。日本大学旧工学部(現・日本大学理工学部)卒業後、大日本帝国海軍技術士官として、航空発動機の製造に従事。戦後、日本大学の機械工学科に戻り、二輪車の研究で工学博士を取得(「二輪自動車の動力性能に関する研究」日本大学工学博士1961-3-31)。その後自動車の操縦性•安定性の研究に従事、(社)自動車技術会車両運動性能部門委員会委員長。後に同学会理事。1990年日本大学理工学部定年退職、名誉教授。
服部 受弘(はっとり つぐひろ、1920年2月23日 - 1… 服部 受弘(はっとり つぐひろ、1920年2月23日 - 1991年12月6日)は、愛知県出身の元プロ野球選手(捕手、投手、内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。
大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 19… 大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 1989年3月3日)は、日本の俳優である。 秋田県能代市に生まれる。父の大坂連治郎は萬町で貸金業、米問屋を営んでいた。母の志保は沢口村小森(現在の北秋田市)の味噌醤油醸造工場を営む名望家の神成千代治の娘。妹に人形作家・陶芸家の神成澪がいる。1927年、夫の浮気性に嫌気がさした母は、志郎と澪を連れて上京し、新宿で郷土居酒屋の「秋田」を営んだ。店には太宰治や井上靖、木下恵介、川島雄三、河西克巳などの文壇映画人が集い、志郎の映画デビューも彼らの影響であった。新聞配達で家計を支え、旧制・日本大学第二中学校を中退し、「新築地劇団」研究生になる。その後、早稲田高等工学校機械科を卒業、満州国鞍山市の昭和製鋼の社員を経て、1942年、松竹俳優研究所に入所し、1943年の吉村公三郎監督の『開戦の前夜』でデビューする。
前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22… 前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、昭和期の華族(男爵)。別名直昭。 前田土佐守家第12代当主前田政雄の子として生まれる。1943年5月1日、祖父の死去に伴い男爵を襲爵した。 日本大学旧工学部機械科を卒業し日本曹達に入った。その後、前田土佐守家が所蔵する文化財を金沢市に寄付し前田土佐守家資料館設立に寄与した。また、2002年から2006年まで同館初代館長を務めた。
金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正… 金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正9年〉1月17日(陰暦1919年11月27日) - 1997年〈平成9年〉5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った。 日本統治下朝鮮の慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・大韓民国慶尚南道昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンスがいた。 父柄奎が遊蕩に耽り、破産。1925年(大正14年)、金達寿が5歳の時、両親は長男声寿と妹ミョンスを連れて、内地に渡る。
鵜澤 義行(うざわ よしゆき、1920年 - 2012年4月… 鵜澤 義行(うざわ よしゆき、1920年 - 2012年4月21日)は、日本の政治学者、日本大学名誉教授。 東京都生まれ。1938年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)卒。1938年、日本大学第一高等学院(予科文科)入学。1942年、日大法文学部法律学科卒。1948年、同講師、1953年、同法学部助教授、1958年、教授。1973年、「幕末政治思想の史的展開」で日大法学博士。1978年、日大副総長。1980年、日本大学第一学園8代同窓会長。1990年、定年退任、名誉教授。1994年、勲三等旭日中綬章受章。
竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 -… 竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 - 1993年2月14日)は、日本の脚本家、小説家。 山梨県塩山市(現甲州市)出身、1926年七里小学校(現・塩山南小学校)入学、甲府市貢川尋常小学校に転校、山梨師範学校(現・山梨大学)、日本大学卒業。山梨県北都留郡沢松国民学校、中巨摩郡竜王町の村立竜王小学校など県内の学校で教師となる。この頃、児童劇『桂川』の脚本を手がけNHKラジオで放送される。 時事新聞社山梨支社に事業部長兼文化部長として入社。芸術や文化活動の分野を担当する。演劇雑誌テアトロに戯曲を投稿。1955年頃上京し、東芸に所属し本格的に脚本を書きはじめる。 1956年5月28日、山梨県甲府市朝気で開業していた眼科医の雨宮一枝と結婚。
中桐 雅夫(なかぎり まさお、1919年10月11日 - 1… 中桐 雅夫(なかぎり まさお、1919年10月11日 - 1983年8月11日)は、日本の詩人、翻訳家。 本名は白神 鉱一(しらかみ こういち)。 福岡県生まれ。1939年、英作文と教練の出席時間不足により兵庫県立神戸高等商業学校で進級不可能となり、同校中退後、父の預金通帳を盗み出して金を下ろし、家出して上京。徴兵逃れで日本大学芸術学科に途中入学し卒業。読売新聞の政治部記者として働く。詩誌『Le Bal』を主催し、田村隆一と知りあう。戦後、田村、鮎川信夫、黒田三郎と『荒地』を設立。のちに詩誌『歴程』にも参加。ミステリーやSFを翻訳しつつ、英国モダニズム詩人、特にW・H・オーデンを翻訳、詩作を行い、大学でも英文学の教員として活動した。
島田 廣(しまだ ひろし、1919年9月27日 - 2013… 島田 廣(しまだ ひろし、1919年9月27日 - 2013年7月25日)は、日本のバレエダンサー、振付家、バレエ指導者である。本名・白成珪。第二次世界大戦前から日本バレエ界で活躍し、日本バレエ協会会長や新国立劇場舞踊部門の初代芸術監督を務めた。1986年に紫綬褒章を受章し、2002年には文化功労者に選ばれている。妻はバレエダンサーで、日本バレエ協会初代会長を務めた服部智恵子(はっとり ちえこ)。 1919年に京城(現在のソウル特別市)で生まれた。京城でコリアン・クリスチャン・カレッジの英文科に通っていたが、父親の反対を受けて日本に渡り、慶應義塾大学仏文科への編入を試みた。しかし、親の同意した渡航証明が間に合わなかったために編入試験が受けられず、日本大学芸術科の編入試験を受けて入学した。
具 常(ク・サン、本名:具 常浚(ク・サンジュン)、1919… 具 常(ク・サン、本名:具 常浚(ク・サンジュン)、1919年9月16日 - 2004年5月11日)は、大韓民国の小説家であり言論人である。キリスト教的な存在論を基盤として美意識を追求、伝統思想や仙仏教的な瞑想及び老荘思想まで包括する広範囲の精神世界を受容し、人間存在と宇宙の意味を探求する求道的な傾向が濃い。主要作品として『焦土の詩』などがあげられる。 本貫は綾城具氏。1919年ソウル特別市で生まれ、1920年代初期に家族と共に咸鏡南道元山に移住し、そこで育った。 天主教の家系の影響を受け、小神学校で学んだ。日本に渡り1941年東京の日本大学哲学科を卒業した。この時期にフランスや西欧の急進思想に触れ、1942年に帰国。
天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 19… 天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 1985年12月18日)は、日本の水泳選手。福岡県直方市出身。 1937年、福岡県立鞍手高等学校卒業。八幡製鐵を経て日本大学に入学。大学時代の1938年8月10日に神宮プールで行われた第14回関東水上選手権大会の1500m自由形で当時の世界新記録(18分58秒8。1000m通過タイム12分33秒8も当時の世界新記録)を樹立した。同記録は1949年8月の全米水上選手権予選で橋爪四郎に破られるまで11年間保持された。
鈴木 しづ子(すずき しづこ、1919年6月9日 - 195… 鈴木 しづ子(すずき しづこ、1919年6月9日 - 1952年以降消息不明)は、日本の俳人。本名は鎮子。奔放な作風で俳壇を賑わせたが失踪し、娼婦俳人、幻の俳人などと呼ばれた。 1919(大正8)年6月、東京市神田区三河町生まれ。父の俊雄は日本大学旧工学部卒で間組に勤務する会社員だった。小学校時代には愛知県犬山市に一時在住。東京淑徳高等女学校(現淑徳中学校・高等学校)卒。女子大学(府立高女)への入学に失敗し製図の専門学校に学び、1940(昭和15)年に製図工(インダストリアルデザイナー)として岡本工作機械製作所(その後GHQの接収により東芝車輌となる)に入社。男性名で詩誌に甘美な詩を寄せ、臼田亞浪の俳誌『石楠』に投句。
古澤 憲吾(ふるさわ けんご、1919年〈大正8年〉3月30… 古澤 憲吾(ふるさわ けんご、1919年〈大正8年〉3月30日 - 1997年〈平成9年〉1月16日)は、日本の映画監督。佐賀県鳥栖市出身。 1943年(昭和18年)、日本大学専門部美学科を卒業し、東宝に入社[要出典]。同年、海軍の航空戦隊に入隊。 1944年(昭和19年)、東宝が陸軍省の至上命令で製作した『加藤隼戦闘隊』(山本嘉次郎監督)に助監督参加。 1945年(昭和20年)、復員後、日大に復学。 1947年(昭和22年)、日大を卒業。 1948年(昭和23年)、東宝の監督部に入社。東宝復帰後は、市川崑、渡辺邦男、松林宗恵、本多猪四郎、稲垣浩、鈴木英夫らの助監督を務めた。 1959年(昭和34年)、『頑張れゴキゲン娘』で監督に昇進する。
佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3… 佐古 純一郎(さこ じゅんいちろう、1919年〈大正8年〉3月7日 - 2014年〈平成26年〉5月6日)は、日本の文芸評論家、二松学舎大学名誉教授、日本基督教団中渋谷教会名誉牧師。 大正8年(1919年)、徳島県名西郡神山町生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て朝鮮全羅南道光州東中学校を卒業。 昭和13年(1938年)、二松学舎専門学校入学。在学中の昭和15年(1940年)に亀井勝一郎を訪問。以後師事する。昭和16年(1941年)、二松学舎専門学校卒業。同年、日本大学法文学部宗教学科入学。同年5月、改造社が募集した第一回文芸推薦評論に『歴史と人間』が佳作入選。大学在学中の昭和18年(1943年)、創元社に入社。
早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 … 早川 良一郎(はやかわ りょういちろう、1919年3月3日 - 1991年4月26日)は、日本の随筆家。東京都出身。サラリーマン生活を経て文筆家として活動した。1991年(平成3年)、72歳で死去。 1919年(大正8年)3月3日、東京市麻布区材木町に生まれる。旧制麻布小学校を卒業後、麻布中学に進学するが3年で中退し、ドイツで医学を学ぶための足掛かりとしてイギリスに渡るが、語学力が乏しく、教授の薦めでロンドン大学へ聴講生として入学する。この時早川は教授がくゆらせていたパイプに興味を持ち、パイプを嗜むようになる。イギリスでは学業もそこそこに、ピカデリー・サーカスで射的をして過ごすことが多く、結局志なかばで帰国する。
岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15… 岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15日 - 1976年(昭和51年)8月9日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、大分県大分郡湯布院町長。 大分県速見郡、のちの由布院村(由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で生まれた。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1943年(昭和18年)日本大学医学科を卒業した。同年に応召し陸軍軍医として従軍した。 復員後に帰郷し岩男医院を継承した。由布院町青年団長、大分郡連合青年団長なども務め、1952年(昭和27年)の由布院盆地ダム化計画に対して反対運動を行い、計画の中止に貢献した。 1955年(昭和30年)湯布院町の発足に伴い初代町長に就任して5期在任した。
境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は… 境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は、日本人のインテリアデザイナー・建築家。1950年に個人アトリエを開設。以後、主に飲食店のインテリアデザインと建築デザインを手がける。家具やオブジェなどの特徴的な造形要素を一見至って自由に配置しながらも機能性を損なうことのない巧みなプランニング、親しみやすいモティーフを主題とする軽妙で詩的なデザインは、高度経済成長期において店舗事業者から広く受け入れられ、数多くの作品が発表された。国内におけるインテリアデザイナーの社会的認知を高め、その活動の場を拡げるとともに、現在に至るインテリアデザインの主要なボキャブラリーをかたち作った人物のひとりである。
中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 201… 中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 2011年11月23日)は、日本の通訳者、ASEANセンター代表。本名は中島進八郎。インドネシア料理店経営者。 大工になることを志し、1938年(昭和13年)、東京府立実科工業学校(現・東京都立墨田工業高等学校)を卒業し、陸軍航空本部建築課へ勤務。 1939年(昭和14年)、日本大学在学中に徴兵で陸軍野砲兵第一連隊入隊。南支、フランス領インドシナ、中支、マレー半島、シンガポール、スラバヤ、アンボン、西部ニューギニア等を転戦。最終階級は上等兵。インドネシア独立戦争に参加することなく1946年(昭和21年)帰国。 戦後は福田赳夫の通訳を務め、東南アジア問題では様々な献策も行う。
金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10… 金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。 1919年、沖縄県首里区桃原町(現那覇市首里桃原町)に生まれる。 1926年、唐手を始め奥里將現、1927年、知念三良、1932年、大城朝恕、1933年、徳田安文、1935年、真栄城朝徳、1938年、花城長茂に師事。 1939年、日本大学に入学、唐手同好会を設立。修道館の遠山寛賢に師範免状を授与される。
池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日… 池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日 - 1989年(平成元年)6月16日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期、自由民主党)。 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)で、清酒「聖泉」醸造元・池田酒造の二男として生まれた。木更津中学校(現千葉県立木更津高等学校)を経て、1947年(昭和22年)日本大学法文学部卒。 1948年(昭和23年)千葉県庁に入り、地方課長、総務課長、農林部長などを歴任し、1975年(昭和50年)出納長に就任。その後、国民保険会千葉県連合会副会長を務めた。 水田三喜男の後継者として1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に無所属で千葉県第3区から立候補し当選する。
沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 … 沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 - 2002年2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1941年(昭和16年)日本大学文理学部(高等師範)卒業。国鉄職員から国鉄労働組合役員、大宮市議会議員を経て、1959年から大宮市選出の埼玉県議会議員を4期務める。 1972年総選挙に日本社会党公認で旧埼玉1区から立候補するが落選。 旧1区から旧埼玉5区が分離独立した1976年総選挙では旧5区から立候補し、初当選を果たした。以後衆議院議員を6期務める。 この間1979年(昭和54年)11月に衆議院交通安全対策特別委員会理事・1989年(平成元年)に衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長を務める。
皆川 盤水(みなかわ ばんすい、1918年10月25日 - … 皆川 盤水(みなかわ ばんすい、1918年10月25日 - 2010年8月29日)は、福島県出身の俳人。本名・正巳。 磐城(現いわき市)生。日本大学法学部卒。少年時代に兄・二樓、叔父・山田孤舟の影響で俳句をはじめる。戦後、「かびれ」同人を経て、1958年に「風」同人。1966年、「春耕」創刊・主宰。同誌では棚山波朗、山田春生、伊藤伊那男らを育てた。1993年、句集『寒靄』により第33回俳人協会賞受賞。 代表句に「月山に速力のある雲の峰」などがある。みちのくの風土に即した明るく男性的な句風で、「風」参加以後は即物具象に徹した。また歌人・斎藤茂吉に造詣が深くその影響も受けている。2008年、「春耕」名誉主宰に就任。