廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年… 廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年)12月23日 - 1945年(昭和20年)2月24日)は、台湾総督府警察の警察官、海軍巡査である。毎年9月第三土曜日か日曜日に、台湾・苗栗県南庄郷の勸化堂で慰霊祭が斎行されている。 1905年(明治38年)12月23日、神奈川県足柄下郡根府川村(片浦村を経て現在の小田原市)に生まれる。片浦尋常高等小学校(現・小田原市立片浦小学校)・逗子開成中学・日本大学予科を経て、1928年(昭和3年)に幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊へ入隊。軍曹まで昇進する。 満期除隊後、湯河原町の小学校教員となるが、1930年(昭和5年)に職を辞して台湾に渡り、当時難関の職業であった台湾総督府巡査を志願し晴れて合格した。
宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月… 宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月20日 - 1966年(昭和41年)11月30日)は、昭和期の計理士、税務代理士(税理士)、政治家。衆議院議員。 秋田県山本郡能代港町下川反町(現能代市下川反町)で生まれる。1932年(昭和7年)日本大学経済学部を卒業。計理士、税務代理士の業務に従事した。 東京産業社長、協商社社長、中央観光開発社長などを務めた。 1945年(昭和20年)日本協同党・山本実彦創立委員長秘書、同党中央常任委員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 -… 鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 - 1977年12月5日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1960年)。日本大学名誉教授。 愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身。1930年(昭和5年)、日本大学国文科卒業。1939年(昭和14年)成城高等学校教授、1943年(昭和18年)日本大学助教授を経て、1949年(昭和24年)日本大学教授に就任。1960年(昭和35年)、論文「土佐日記の研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)までは日本大学櫻丘高等学校校長を兼任。 1976年(昭和51年)、日本大学教授を定年で退職した。
深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1… 深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1966年12月14日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 山梨県南巨摩郡身延村(現・身延町)大野生まれ。日本大学在学中より山梨県内各地で農民運動に関わり、昭和初期以降、日本共産党の強い影響下にあった全国農民組合全国会議派県連書記長を務める事となる。 1930年には奥野田村(現・甲州市)の小作争議で主導的な役割を果たした他、翌年5月1日に行われた県初のメーデーでは中巨摩郡東部・東八代郡西部2地区の指導者として活躍。また、1930年3月1日発足の甲府消費組合では組合長も務めた。この間、治安維持法違反により検挙される事10数度を重ね、1933年に発生した山梨共産党事件に連座し投獄、2年間にわたる服役の後、郷里を離れた。
片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月1… 片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月15日 - 2004年(平成16年)9月6日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 千葉県山武郡土気本郷町(土気町本郷を経て現千葉市緑区土気町)出身。1929年(昭和4年)日本大学専門部法律科を卒業した。 1924年(大正13年)鉄道省に入省し大井工場(現東京総合車両センター)に配属された。戦後、労働運動に加わり、国鉄新小岩工場(現川崎車両所)労組委員長、国鉄労働組合東京地方評議会議長、同本部書記長、全交通役員、全官公労役員などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で千葉県地方区に日本社会党公認で出馬して次点で落選。
楠美 省吾(くすみ せいご、1905年〈明治38年〉9月13… 楠美 省吾(くすみ せいご、1905年〈明治38年〉9月13日 – 1980年〈昭和55年〉1月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 青森県北津軽郡七和村大字高野(現五所川原市)出身。1925年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒。同年旧制弘前高等学校入学。1931年東北帝国大学法律科卒。翌年満洲国大同学院卒。卒業後は満洲国に勤務する。1942年の翼賛選挙では郷里の青森県から非推薦で立候補して当選した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から改進党公認で立候補したが落選、翌年の第26回衆議院議員総選挙で当選した。石橋、第1次岸内閣で行政管理政務次官に就任した。
大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 19… 大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 1976年11月9日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 岐阜県出身。1931年、日本大学法文学部法律科を卒業し、弁護士となる。 戦後、日本社会党に加わる。党常任中央執行委員会書記、中央執行委員長片山哲秘書などを歴任し、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選。参議院郵政委員長などを務める。1953年4月、第3回通常選挙で落選した。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に岐阜県第1区から出馬し当選。その後、民主社会党に移り、同党院内幹事、日中問題特別副委員長、災害対策特別委員長などを歴任。
朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 -… 朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 - 1973年12月16日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲国会議員。本貫は密陽朴氏。 朴 埈(読み、ハングル同)とも表記される。 慶尚北道(現・大邱広域市)軍威郡またはソウル鍾路出身。日本大学法学部政経科卒。日本政府施行弁護士試験合格後、満洲国の間島省で東振学校校長を務めた。解放後は海外通信社社長、国際評論社社長、ソウル合同消費組合理事長を歴任し、1948年5月の初代総選挙に軍威郡選挙区から無所属で立候補して、国会議員に当選した。同年6月より資格審査委員会に所属し、7月に無所属倶楽部の代表として、国務総理などの要職に現過渡政府と韓国民主党側の人物の起用を拒否する建議書を大統領の李承晩に伝えた。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 19… 亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 1945年11月14日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックフェザー級日本代表。福島県桑折町出身。 日本大学卒業。 1930年、全日本アマチュア拳闘連盟主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会にフェザー級で優勝を収めた。この大会には帝国ホテル所属選手として出場した。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにフェザー級の日本代表として出場したが、1回戦でこの大会の銅メダリストとなるアラン・カールソン(英語版)(スウェーデン)と対戦し、ポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、190… 黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、1905年2月15日 - 1984年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、牧師、政治家。順天邑副邑長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌原黄氏。同じく1948年の初代総選挙に出馬した牧師・過渡立法議員の黄保翼は兄で、元国会議員・全羅南道知事の黄聖秀は甥である。キリスト教徒。日本名は黄原斗淵。 順天郡出身。全羅南道麗水郡南面金鰲島(朝鮮語版)出身の昌原黄氏の5兄弟の1人である。全州新興中学校を経て、日本大学専門部法科3年中退または卒業、日本聖経学校卒。中央神学校での研究を経て、高興永泉学校教員・校長、順天美信会病院・安力山病院庶務課長を務めた。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年… 馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年11月6日)は、朝鮮の児童文学作家。本名は馬 湘圭(マ・サンギュ、마산규)。創作童話の執筆に生涯を捧げ、方定煥と共に朝鮮の児童文学運動を先駆を担う。その文才は菊池寛に認められ、『文藝春秋』の編集部に入り、のち『モダン日本』の社長となる。朝鮮人にして日本の文化界の一流文人として活動した。詩人の馬鍾基は子。 1905年1月8日、京畿道(現:黄海北道)開城市大化洞52番地に生まれる。父は木川馬氏の馬応輝、母は密陽朴氏の朴光玉で、7人兄妹の6番目である。幼名は昌録。6歳の頃から書堂で漢文を習い、1912年、7歳で開城第一公立普通学校に入学、1916年に卒業する。
馬場 明男(ばば あきお、1905年 - 1996年)は、日… 馬場 明男(ばば あきお、1905年 - 1996年)は、日本の社会学者、文学博士。日本大学社会学科主任教授、日本社会学会理事、東京社会科学研究所常務理事。大教寺(東京都目黒区)第24代住職も務めた。 東京都に生まれる。1928年に日本大学法学部社会学科を卒業した。1977年に勲三等瑞宝章を受章。
金 済能(キム・ジェヌン、朝鮮語: 김제능/金濟能、1905… 金 済能(キム・ジェヌン、朝鮮語: 김제능/金濟能、1905年 - 1960年9月23日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 出生地不明。日本大学法文学部卒。在中国張家口朝鮮人会長、大同青年団、のちの大韓青年団において瑞山郡団長を務めた。1952年の第2代総選挙の補欠選挙に自由党の公認で瑞山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。1960年9月23日に瑞山郡にて心臓麻痺により55歳で死去した。
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 -… 海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフとした作品を数多く制作した。1970年にパリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館をはじめとする各地の美術館に作品が収蔵されている。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。県立志布志中を卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら有島生馬に師事するかたわら川端画学校でも絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで活動をしていた藤田嗣治に師事。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日… 高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月17日)は、日本の教育者、政治家。国際短期大学の創立者にして初代学長。息子は二代目学長の高木一明。衆議院議員(1期)。東京出身。 1926年、日本大学専門部法律科卒業。同専門部法律科副手に就く。 1928年より二松學舍専門学校講師。1933年中野高等無線電信学校を創立し、幹事に就任。 1941年、財団法人中野学園を設立し、同理事長に就任。中野学園中学校(旧制)を創立。 1946年、国際外国語学校(国際短期大学の前身)を創立し、同学校長に就任。 1948年、財団法人中野学園を財団法人国際学園に改称し、中野学園中学校(旧制)を国際中学校と国際高等学校に変更。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 198… 秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 1988年11月14日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の詩人、アナキスト。終戦まで局(つぼね)清のペンネームを用いる。 1904年、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれる。小倉中学(現・県立小倉高)を経て日本大学中退。1924年創刊のアナーキズム系の詩誌『詩戦行』に参加。1930年、小野十三郎と『弾道』創刊。第二次世界大戦後、1946年、金子光晴、岡本潤、小野十三郎とともに詩誌『コスモス』を創刊。アナキスト連盟や新日本文学会常任委員の活動のかたわら、『新日本文学』、『現代詩』に詩や評論を発表。詩史や自伝、作家論などの著作も多い。
下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年(明治37年)2… 下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年(明治37年)2月1日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大正から昭和期の詩人、社会事業家、政治家。衆議院議員。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県静岡市太田町(現:静岡市葵区太田町)出身。1918年(大正7年)静岡商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)を卒業し、日本大学芸術科を中退した。 1924年(大正13年)に労働詩を発表。日本プロレタリア作家同盟(中央委員)、全日本無産者芸術団体協議会に加わり、詩、評論などを発表。戦前、戦中の静岡県プロレタリア文化運動の中心人物として活動し、反戦容疑などで2回投獄された。また、社会事業にも参画し母子ホーム託児所の建設、運営を行った。
小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま… 小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま すみや〉、1904年〈明治37年〉1月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月10日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(7期)。1960年日米安保改定への尽力や防衛庁長官を務めたことなどから、安保男(あんぽおとこ)と呼ばれた。 衆議院副議長、逓信大臣などを歴任した小泉又次郎の女婿。首相を務めた小泉純一郎の父。根津財閥の大番頭だった鮫島宗一郎は従兄弟。横須賀市議会議長をつとめた井料克己は甥。 鹿児島県川辺郡東加世田村大字小湊(後の万世町、加世田市、現:南さつま市加世田小湊)小松原地区の漁業・鮫島家に生まれた。父親の鮫島彌三左衛門は事業に失敗し、地元の鰹節工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。
石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1… 石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉10月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)、前橋市長(5期)。前橋市立工業短期大学学長。大日本帝国陸軍軍人(陸軍曹長)[要出典]。 群馬県勢多郡木瀬村大字野中(現・前橋市野中町)出身。永明尋常高等小学校を経て、1922年(大正11年)県立前橋中学校卒業。警視庁麻布警察署書記として勤務の後、日本大学に学ぶ。1926年(大正15年)司法試験合格。1927年(昭和2年)に日本大学法科を卒業し、同年法律評論社の編集記者として勤める。1928年(昭和3年)弁護士となる。須永好による強戸村農民運動に協力した。
川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 … 川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 - 1994年5月19日)は、昭和時代の労働運動家。全労会議・同盟副書記長。 高知県吾川郡諸木村(現高知市)生まれ。1922年私立高知工業学校機械科を4年で中退。兵役を経て、1927年4月東京電燈(現・東京電力)に入社。同時に日本大学専門部法科に入学。1928年1月関東電気労働組合に入会、労働農民党に入党。東京電力争議、目蒲電鉄争議、東京電灯争議などに参加。同年8月に当局がでっち上げた「帝都暗黒陰謀事件」で東京電燈を懲戒解雇。1929年高知県下の王子製紙争議を指導後、地下活動に入る。同年7月日本共産党に入党、全協常任委員・共産党全協フラクション責任者。
冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 -… 冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 - 1981年2月21日)は、日本の政治家、教育者。
市川 伊雄(いちかわ いゆう、1903年(明治36年)12月… 市川 伊雄(いちかわ いゆう、1903年(明治36年)12月 - 1967年(昭和42年)8月)は、曹洞宗の僧侶で、海門山興禅寺の開基である。 1903年(明治36年)12月、山梨県曹洞宗光善寺に生まれた。幼少の頃、神奈川県本覚寺禅堂で勉学に励み、日本大学仏教科を卒業し、仏道修行に励んだ。1935年(昭和10年)、海門山興禅寺を開創した。大本山總持寺地方副監院審事院審事、贈監院、権大教師等や横浜地方裁判所各種調停委員等の公職を歴任した。 横浜市道に面した寺の北側に「市川伊雄大和尚顕彰碑」が立つ。石碑は、和尚の履歴を述べた後、東條英機らA級戦犯7名の遺骨に関する和尚の功績について、次のような添え書きがある。
鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - … 鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - 没年不詳)は、大正から昭和時代に活動した日本の新聞記者、詩人、コラムニスト、映画監督。元富山新聞社社長。富山県出身。 旧名は豊朔(ほうさく)で、1954年(昭和29年)に改名した。号は太守庵(たいしゅあん)で、作詞家としてのペンネームに名部島 春(なべしま はる)がある。漫画家の藤子不二雄Ⓐは甥。 1903年(明治36年)、富山県東礪波郡(現在の砺波市)に生まれる。日本大学美術科を中退後、北陸タイムス(北日本新聞の前身の一つ)を経て北國新聞系列の越中新聞へ入社し、高岡支局長となる。越中新聞では「太守庵」のペンネームで主として時事に関するコラムを執筆し、社外では1935年(昭和10年)に自主映画『輝く孝道』の監督を務めた。
實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 19… 實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 1980年9月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 1903年、千葉県山武郡千代田村(現:芝山町)で農家の子として生まれる。父伊三郎は、村の信用組合理事のほか、村会議員や村役場助役などの公職を勤めたが、實川がまだ幼い頃に肺結核により他界した。本業の農業を人任せにしていた、大酒飲みの伊三郎は、實川家の資産を半減させてしまっていた。 千代田尋常高等小学校ののち旧制成田中学校で学ぶが、3年生のときに生徒によるストライキに関わり、退学。その後上京して日本大学中学校に転入し、ここでも身体検査に反対して停学処分を受けている。 1922年に中学を卒業して日本大学法文学部社会学科に入るが、社会主義運動に参加して千葉県での農民組合結成や日本学生社会科学連合会の活動家として軍事教練反対などの活動を行い、1926年に治安維持法違反で逮捕・収監され、授業料を納められず大学中退となる。
呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903… 呉 衡根(オ・ヒョングン、朝鮮語: 오형근/吳衡根、1903年10月4日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の政治家。甕津郡郡守、加平郡郡守、長湍郡郡守、第3代韓国国会議員を歴任した。 平安北道宣川郡出身。定州五山中学校、南京東明学院、日本大学法科卒。中学校教員を10数年間務め、新義州電気会社でも勤務した。宣川警察署保安係長を務めた時に越南し、加平郡で勤務した後、甕津郡守、加平郡守、長湍郡守を務めた。1954年の第3代総選挙では洪翼杓を抑えて当選し、自由党所属の国会議員を1期務めた。
平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1… 平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1939年4月28日)は、日本の小説家。 長男の松元眞はジャーナリストでテレビ朝日元報道局長を務め、現在文筆家。著書に 『父、平林彪吾とその妻のこと』『父 平林彪吾とその仲間たち 私抄 文学・昭和十年前後』などがある。
安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1… 安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1986年9月30日)は、八重山群島政府及び琉球政府の政治家。元衆議院議員(沖縄社会大衆党→民社党)。
三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36… 三角 寛(みすみ かん、みすみ ひろし、1903年(明治36年)7月2日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、小説家、山窩(サンカ)作家、映画館経営者。本名は三浦守。僧名は釈法幢。 大分県直入郡岡本村大字枝字真米(現・竹田市大字枝字真米)に農家の4人姉弟の末子として生まれる。私生児であった。幼少期に父親と死別し、10歳で豊後大野市大野町田中の真宗系の最乗寺に預けられる。1922年春、19歳で地元から出奔。日本大学法科卒業と自称していたが、筒井功はこれを疑問視し「三角の最終学歴は、小学校卒であった可能性が強い」と述べている。 1926年(大正15年)3月、記者の手伝いをする雇員(非正規採用)待遇で朝日新聞社に入社し、サツ回り担当(取材記者)となる。
山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 19… 山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 1989年7月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 東京都生まれ、もしくは岩手県盛岡市出身。1923年、日本大学政治科卒業。時事新報社、毎日新聞社政治部記者を務めたのち、東洋鋼材工業社長、東京製糖社長となる。1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1947年、第23回衆議院議員総選挙岩手1区に民主党から出て、初当選。以後5期務めた。1950年、衆議院懲罰委員長。同年7月、第3次吉田第1次改造内閣郵政政務次官。1951年、第3次吉田第2次改造内閣郵政政務次官。1952年、衆議院議事進行係。1956年、松浦董子(旧華族・元久邇邦久の妻)と結婚。
原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26… 原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26日 - 1977年〈昭和52年〉8月23日)は、昭和期の出版事業家。株式会社同志社(のちの婦人生活社、2003年に倒産)を創立する。同志社を創立させる前は、講談社『講談倶楽部』編集長をつとめた。1976年に書かれた『古代日本正史』の著作者として有名。千葉県生まれ。日本大学卒業。1973年4月、勲四等瑞宝章を受章。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5… 川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5日 ‐ 1991年〈平成3年〉6月6日)は、日本の実業家。京成電鉄第5代代表取締役社長、京成百貨店代表取締役社長、オリエンタルランド初代代表取締役社長、北総開発鉄道代表取締役社長、成田空港交通代表取締役社長、日本民営鉄道協会会長を務めた。また、日本大学第一学園の第6代同窓会長も歴任した。茨城県出身。趣味はゴルフ、邦楽、古いヴァイオリンの修理。 日本にディズニーパークを誘致する構想を提案した人物であり、東京ディズニーランドの建設計画にも中心的に関わった。京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で、従兄に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。
青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 19… 青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 1976年5月17日)は、日本の映画監督、プロデューサー。 1903年(明治36年)横浜市生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた。旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。明治大学卒業後、心座、美術座、前進座、芸術座、猿之助一座、東宝劇団といった新劇の舞台演出を手がけていた。 1933年(昭和8年)には、演出を手掛けた『源氏物語』が風教を害するという理由で上演直前に禁止命令を受ける憂き目に遭った。1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。
大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 20… 大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 2002年6月1日)は、日本の警察官、著述家。元警視庁警視正。 警視庁特高部外事課に所属していた警部補当時、副主任としていわゆるゾルゲ事件を担当し、事件の全貌を明らかにした。その功により、1943年(昭和18年)に内務大臣功労記章を受章した。 神奈川県横浜市出身。横浜商業学校を経て、日本大学専門部法律学科第二本科を卒業した。1924年(大正13年)、陸軍近衛野砲兵連隊に入営し、1928年(昭和3年)陸軍砲兵少尉に任官した。同年警視庁巡査となる。 1932年(昭和7年)に巡査部長、1935年(昭和10年)に警部補に昇進する。1936年(昭和11年)、特別高等警察部外事課欧米係となる。
杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)… 杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)2月25日 - 1988年(昭和63年)2月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県幡豆郡、のちの吉良町(現西尾市)で生まれる。1924年(大正13年)日本大学工学科を卒業した。 日本海員組合組織部員を経て、1945年(昭和20年)全日本海員組合の結成に加わり中央執行委員に就任。1946年(昭和21年)日本社会党に入党。1953年(昭和28年)新潟県労働組合協議会が結成されると議長に就任し9期在任した。 1962年(昭和37年)の参院選に新潟県地方区から社会党公認で出馬して初当選。任期満了に伴う1968年(昭和43年)の参院選には出馬を見送り、2年後の新潟県知事選に立候補するが現職の亘四郎に敗れる。
戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982… 戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982年12月25日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員の戸叶里子。 田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町(現佐野市)に生まれた。旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった。 1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される。
鈴木 勝(すずき まさる、1903年〈明治36年〉 - 19… 鈴木 勝(すずき まさる、1903年〈明治36年〉 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の歯学者(医学博士)。第六代日本大学総長、第四代、第五代日本歯科医学会会長。 会津路の峰、博士山の登山口である福島県河沼郡柳津町大成沢に生まれる。 1921年(大正11年)に旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業し、日本大学専門部歯科へ進む。在学中に馬術部の創設に関わり、選手として京都若草大会(学生の部)で3位となる。卒業後、専門部歯科助教授となり、放射線学教室を担当。教授に1943年(昭和18年)4月就任したが、より高度の知識と医学学位の取得を求め、1948年(昭和23年)には東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)医学科を卒業した その後、日大に戻り、歯学部教授兼学監、歯学部長、理事、総長を歴任。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日… 甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日 - 1975年(昭和50年)11月30日)は、昭和期の文部官僚、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県三潴郡蒲池村(現柳川市)で、甲木鹿松の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 文部省に入省し、同省嘱託、文部属兼厚生属、文部理事官などを歴任。1942年(昭和17年)大政翼賛会に転じ、錬成部副部長に就任。1944年(昭和19年)翼賛会を退職し、三笠製薬研究所を設立。戦後に株式会社に改組し三笠製薬社長に就任。三笠物産社長も務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第3区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 19… 三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日)は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残す。初期名三浦 光男(読み同)。 1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる。 旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『空は晴れたり』で、当時は「三浦光男」名義であった。
黒沢 幸一(旧字体: 黑澤 幸一、くろさわ こういち、190… 黒沢 幸一(旧字体: 黑澤 幸一、くろさわ こういち、1902年(明治35年)10月11日 - 1977年(昭和52年)7月2日)は、昭和期の社会運動家、政治家。衆議院議員。 栃木県河内郡上三川町の農家に生まれる。1924年、日本大学専門部法律科を卒業した。 卒業後は家業に従事し、労農運動に加わる。労農党栃木県連合会の結成や、日本大衆党栃木県連合会の結成に加わり、小作争議の指導を行う。宇都宮市会議員も務めた。1932年、阿久津村事件の首謀者として検挙され懲役3年、また1936年の争議でも検挙され懲役6ヵ月に処せられ服役した。 戦後、日本社会党に入党し、同党栃木県連書記長、同会長、栃木県地方労働委員会会長、栃木機械製作所総務部長などを務めた。
李 相慶(イ・サンギョン、朝鮮語: 이상경、1902年6月7… 李 相慶(イ・サンギョン、朝鮮語: 이상경、1902年6月7日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、水利組合理事、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 父は中枢院賛議を務めた李恩雨(朝鮮語版)。 本籍は慶尚南道河東郡。明治大学法学部、日本大学卒。日本統治時代の朝鮮では官僚を経て、郷里で蟾津江水利組合理事を務めた。光復後は大韓独立促成国民会河東郡支部長などを経て、1950年の第2代総選挙に国民会の公認で立候補して当選し、国会議員となった。朝鮮戦争の際、孝子洞で身を隠していたところ北朝鮮に拉致された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員に就任。以降の動向や活動ついての詳細は不明。
金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902… 金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902年5月14日 - 1982年4月28日または4月29日)は、大韓民国の警察官僚(総警)、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は光山金氏。仏教徒。 全羅南道宝城郡出身。普成高等普通学校卒、東京正則学校英文科修了、日本大学法科専門部卒。大韓独立促成国民会宝城郡支部支部長、民統宝城郡事務局長、立法議院宝城郡代議員、治安局教育科兼警察専門学校勤務員、大同青年団・大韓青年団宝城郡団団長、宝城中学校後援会、宝城郡顧問、康津警察署・木浦警察署・大邱警察署署長、金泉地区・高霊地区戦闘司令官を務めた。1954年の第3代総選挙で無所属で当選し、まもなく自由党に入党した。
金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月… 金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月15日または1909年2月15日または1910年2月25日 - 1977年8月26日〈陰暦7月12日〉または9月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、実業家、政治家。慶南体育会会長、国際新報(現・国際新聞)社長、第5代韓国国会議員(参議員)、東海生命保険(現・KDB生命保険(朝鮮語版))社長を歴任した。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。字は泰寛、号は一耕(イルギョン、일경)。筆名は九徳山人。元国家安全企画部長・国会議員・統一院長官・副総理の金悳(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚南道固城郡出身。日本大学専門部中退または卒業。
印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月1… 印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月13日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代にモダンな現代劇を得意とした。 1902年(明治35年)、広島県に生まれる。 日本大学を卒業し、兵庫県西宮市甲陽園にあった東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1927年(昭和2年)1月9日に公開された『黄金の弾丸』で、満24歳で監督に昇進した。同年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に招かれて秋田伸一を主演に『港の灯』を監督、山口俊雄の主演作『仇討殉情録』の脚本をマキノ・プロダクションで書いたり、山口俊雄が独立して設立した山口俊雄プロダクションで『月形半平太』を監督したが、1929年(昭和4年)には、東亜キネマに復帰した。
張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、190… 張 連松(チャン・ヨンソン、朝鮮語: 장연송/張連松、1901年12月11日または12月12日 - 1956年10月30日または11月6日)は、日本統治時代の朝鮮の発明家、反戦運動家、詩人、大韓民国の独立有功者、政治家。第2代韓国国会議員。 張 蓮松またはチャン・ニョンソン(장련송)という表記も見られる。日本名は張山 連松。 咸鏡北道吉州郡吉祥里出身。日本大学経済学部卒。日本統治時代には自由杖、二重縫針を発明したほか、20年以上をかけて木で永久機関の「無燃料原動力桓動機(恒動機)」を製作し、1939年に特許局から特許を取得した。また、「善と盗」という論文で個人主義を主張しながら、自由と自然主義を尊重することで人種間・民族間の対立を払拭させ、共存共栄・相互扶助しなければならないことを指摘した。
日野 吉夫(ひの よしお、1901年(明治34年)11月10… 日野 吉夫(ひの よしお、1901年(明治34年)11月10日 - 1978年(昭和53年)5月27日)は、日本の政治家、社会運動家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、日本社会党副委員長。宮城県桃生郡二俣村(後の河北町、現在の石巻市)出身。第1次橋本内閣の郵政大臣を務めた日野市朗は長男。 小学校を卒業後、働きながら検定試験を受験し、小学校教員の資格を取り故郷の河北町二俣で教師をする。大正14年(1925年)上京し、小学校で教鞭をとりながら日本大学の夜学に通って同大学高等師範部を卒業する。この間、社会運動に参加するようになり、日本独学青年同盟、全国労農青年同盟に参加する。昭和4年(1929年)郷里に戻り、宮城大衆党結成に参加する。