佐藤 拓也(さとう たくや、1994年8月12日 - )は、… 佐藤 拓也(さとう たくや、1994年8月12日 - )は、茨城県鹿嶋市出身の野球選手。JR東日本硬式野球部所属、右投左打。 7歳で野球のキャリアをスタートさせ、小学校4年生から投手のポジションにつき、鹿島中学校時代には軟式野球部に所属していた。浦和学院高校時代には、1年生の春から内野手でベンチに入り、1年の秋から、背番号1番を背負い、投手として明治神宮大会でベスト4に入る。高校3年生の時には春の選抜高校野球において、ベスト8に入るなど、甲子園に3回出場した経験を持ち、その後、立教大学に入学。大学1年生の春から東京六大学野球リーグ戦に出場し、大学2年生から4年生には大学野球の日本代表に選ばれており、2015年には第28回ユニバーシアード競技大会に出場して金メダルを獲得した。
田中 和基(たなか かずき、1994年8月8日 - )は、福… 田中 和基(たなか かずき、1994年8月8日 - )は、福岡県福岡市早良区出身のプロ野球選手(外野手)。右投両打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 NPBにおける平成最後の左右打席本塁打達成者。 福岡市立高取小学校3年時に、原少年野球部で野球をスタート。福岡市立高取中学校への入学当初は硬式野球の福岡ウイングスに所属していたが、1年の夏から校内の軟式野球部へ転じた。 西南学院高校への進学後は、両打ちの捕手として、対外試合で通算18本(右打席で10本、左打席で8本)の本塁打を放った。在学中の甲子園大会への出場はなかった。 立教大学への進学後は、硬式野球部での生活を四軍扱いの「D班」からスタートし、東京六大学野球リーグ戦へのベンチ入り可能な「A班」へ昇格したのは、2年時の夏になってからだった。
齋藤 俊介(さいとう しゅんすけ、1994年1月7日 - )… 齋藤 俊介(さいとう しゅんすけ、1994年1月7日 - )は、千葉県佐倉市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 佐倉市立千代田小学校時代から軟式野球を始めると、佐倉市立臼井南中学校時代には佐倉ボーイズに所属。 成田高等学校2年の夏に全国高等学校野球選手権千葉大会でのチーム20年ぶりの優勝を経て、第92回全国高等学校野球選手権大会にも控え投手としてベンチ入りを果たした。チームは58年ぶりに準決勝へ進出したが、自身の登板機会はなかった。翌年はエースとして夏の千葉県大会に臨んだが、4回戦で館山総合に延長15回サヨナラ負けを喫した。 立教大学では、1年時の東京六大学春季リーグ戦から中継ぎで登板。1年の秋季リーグ戦から先発へ転向すると、東京大学とのリーグ最終戦で初勝利を挙げた。
根本 和也(ねもと かずや、1993年8月20日 - )は、… 根本 和也(ねもと かずや、1993年8月20日 - )は、神奈川県川崎市中原区出身の元プロ野球選手(捕手)。 中高大で球歴がないながらもNPB入りを目指した、異色な経歴を持つ野球選手だった。ニックネームは「ねもい」。 川崎市立東住吉小学校2年生のときから野球を始め、「木月住吉町少年野球チーム」に所属し、投手や三塁手としてプレー。6年生のときには中原区選抜選手にもなった。しかし、進学した川崎市立今井中学校に野球部がなかったため、バレーボール部に入部。セッターとして活躍し、市大会を勝ち抜き、県大会にも出場した。高校生時代からテニスを始めソフトテニス部に所属し、都内で上位の成績を収めた。一浪して一般入試で合格した立教大学でも体育会ソフトテニス部に所属。
大城 滉二(おおしろ こうじ、1993年6月14日 - )は… 大城 滉二(おおしろ こうじ、1993年6月14日 - )は、オリックス・バファローズ所属の沖縄県島尻郡豊見城村(現在の豊見城市)出身のプロ野球選手(内野手)。
菊沢 竜佑(きくさわ りゅうすけ、1988年5月16日 - … 菊沢 竜佑(きくさわ りゅうすけ、1988年5月16日 - )は、秋田県秋田市出身の出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学校4年次に野球を始める。 秋田県立秋田高校時代は1年時からベンチ入りを果たすも、2年時に左大腿骨骨折の怪我を負う。3年時の夏の大会は主力投手として活躍、4試合に登板し準々決勝では後にスワローズでチームメイトとなる石山泰稚を擁する金足農業高校を破るも、準決勝で本荘高校に7回コールド負けを喫した。 高校卒業後は立教大学に進学。1年時からベンチ入りし、立教大学野球部が通算800勝を達成した試合での勝ち投手にもなった。3年時の夏に右肘の靱帯再建手術を受けたこともあり、4年間で通算14試合登板・勝ち星は1年生の時の1つだけに終わる。
戸村 健次(とむら けんじ、1987年10月20日 - )は… 戸村 健次(とむら けんじ、1987年10月20日 - )は、埼玉県日高市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。右投右打。 小学3年時から野球を始め、中学時代までは軟式野球をプレー。中学に入学する頃には東京六大学でのプレーを目指すため、大学の付属高校への入学を目標にしていた。志望校だった立教新座高校の合格の目安の偏差値が高く、3年生のときには受験勉強中心の生活になったため、中学最後の大会では野球部のレギュラーになれなかった。 勉強の甲斐あり、立教新座高校に合格し、進学。1年秋からのベンチ入りを経て、2年時の春からエースの座を確保した。在学中からストレートで最速145km/hを計測するなど、右の本格派投手として注目されていたが、春夏ともに阪神甲子園球場での全国大会へ出場できなかった。
小林 太志(こばやし ふとし、1983年5月11日 - )は… 小林 太志(こばやし ふとし、1983年5月11日 - )は、群馬県富岡市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 現役時代の愛称は「ハマのエクスプレス」。 中学時代は軟式野球をし、高校入学時に大学で野球をしたいと思い、野球部監督が立教大学OBの群馬県立富岡高等学校へ進学した。在籍時には最速144 kmのストレートで注目されたが、初戦敗退を喫する。 一般入試で進学した立教大学ではエースとして東京六大学野球リーグで活躍し、リーグ戦通算10勝を挙げた。大学3年時に埼玉西武ライオンズのスカウトが注目するも指名はされなかった。 大学卒業後の2006年にJR東日本に入社。堀井哲也監督の指導のもと、JR東日本硬式野球部で1年目からチーム投手陣の主軸に抜擢され、第77回都市対抗野球では2試合に先発、シダックスから補強された森福允彦らと共にチームのベスト4入りに貢献した。
多幡 雄一(たばた ゆういち、1982年7月2日 - )は、… 多幡 雄一(たばた ゆういち、1982年7月2日 - )は、石川県七尾市出身の元社会人野球選手(内野手)、野球指導者。 七尾市立有磯小学校3年の時に野球を始め、七尾市立涛南中学校までは捕手。星稜高等学校2年時に内野手に転向した。 高校卒業後は立教大学に入学。東京六大学野球リーグでは3度のベストナインを獲得し、4年時の2004年には第2回世界大学野球選手権と第33回日米大学野球選手権大会の日本代表に選ばれた。 大学卒業後の2005年に社会人野球のHondaに入社。2009年の都市対抗野球では長野久義・西郷泰之らとともにチームを優勝に導き、大会優秀選手に選ばれた。 2012年から3年間は日本代表の主将を務めるなど社会人野球屈指の内野手として活躍。
上野 裕平(うえの ゆうへい、1978年12月25日 - )… 上野 裕平(うえの ゆうへい、1978年12月25日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手。現在は、読売ジャイアンツの広報を務める。 小学5年生で捕手として野球を始め、中学では三塁手。金沢辰巳丘高校でエースとなり、卒業後は立教大学へ進学。県内でも甲子園準優勝投手であった星稜高校の山本省吾(慶大-近鉄等)らとともに注目され高校卒業時はドラフト1位候補と言われ、巨人がドラフト2位で獲得を狙っていたという噂もあったがプロ入りを拒否。 東京六大学野球では通算12勝13敗。大学3年の1999年秋、4勝をあげ1年多田野数人とともに17季ぶりの優勝に貢献してベストナインとなる。大学4年の2000年には通算20勝を期待されていたが、春に肩を故障し出遅れ、結局3勝にとどまった。
早川 大輔(はやかわ だいすけ、1975年6月3日 - )は… 早川 大輔(はやかわ だいすけ、1975年6月3日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投両打。 兵庫県伊丹市に生まれるも、ほどなく千葉県浦安市に転居。千葉県立船橋高等学校から立教大学へ進学。主に1番を打って、外野以外に遊撃手を守ることもあった。4年時は主将を務めた。東京六大学リーグ通算62試合出場、206打数48安打、打率.233、1本塁打、9打点、44盗塁。なお、船橋高校および立教大学へは一般入試で進学している(早稲田大学第一文学部・教育学部を受験するも失敗。高校受験では早稲田実業にも落ちている)。 卒業後、本田技研工業に入社。狭山野球部に在籍した4年間で都市対抗野球に3度出場し、2000年には新日本製鐵君津、2001年には日本通運の補強選手としてそれぞれチームのベスト4進出に貢献した。
広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は… 広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)、埼玉西武ライオンズ取締役。球団本部長。 小学生時代に「西武ライオンズ友の会」会員として、足繁く西武ライオンズ球場で試合観戦した。 越谷リトルリーグで硬式野球を始める。リトルリーグ時代は投手であったが、中学校の野球部(軟式野球)とシニアリーグ(硬式野球)を掛け持ちしていたため、肩・肘を痛めてしまった。その後立教高校(現・立教新座高校)からは外野手に転向し、立教大学に進学。 大学4年の秋、プロ入りを熱望しこの年のドラフトで指名を待っていたが、指名は無かった。 卒業後は野球から離れ、就職の内定していた全日空に入社し、入社式で総代に抜擢された。
川村 丈夫(かわむら たけお、1972年4月30日 - )は… 川村 丈夫(かわむら たけお、1972年4月30日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。 現役時代は横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)で先発・中継ぎ投手として活躍し、1998年シーズンには先発投手として同球団の38年ぶりセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。2022年シーズンからはDeNA在籍のまま神奈川フューチャードリームスの監督を務める。アトランタオリンピック野球競技の銀メダリスト。 1990年、神奈川県立厚木高等学校3年生の時に、神奈川県高等学校野球春季大会でベスト4進出。全国高等学校野球選手権神奈川大会には第1シードで臨み、強豪私立ぞろいの厳しい状況下でエースとしてチームをベスト8まで導く大黒柱となった。
高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - … 高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - )は、元社会人野球選手(内野手、外野手)。東京都千代田区出身。日本石油に所属していた。 父は元プロ野球選手の高林恒夫。 立教高校(現・立教新座高校)では、1984年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、エース原口哲也を擁する熊谷商に完封負け。翌1985年夏の県予選では、同期の平田国久(立大-日本生命)の好投もあり、決勝で石田雅彦のいた川越工を破り、夏の甲子園に出場。1回戦はエース吉田直喜を骨折で欠く佐世保実を降すが、2回戦では東洋大姫路高の豊田次郎に抑えられ大敗を喫する。他の同期に黒須陽一郎がいた。 卒業後は平田、黒須とともに立教大学に進学。
黒須 陽一郎(くろす よういちろう、1967年5月1日 - … 黒須 陽一郎(くろす よういちろう、1967年5月1日 - )は、東京都出身の元野球選手(外野手)。右投右打。 立教高では、2年次の秋から野球部の主将となり、3年次の1985年には4番・遊撃手として同校初となる夏の選手権に出場。2回戦でチームは東洋大姫路高に敗れたものの、この試合で豊田次郎から3ランホームランを放っている。 高校卒業後は、系列の立教大学に進学。外野手に転向して1年目の1986年からレギュラーとして活躍し、1年秋のリーグ戦でベストナインに選出された。4年生時の1989年になると主将を任され、春季リーグでは三番・中堅手として大森剛(慶應大学)との争いの末に本塁打王を獲得し、2度目のベストナインを受賞した。
矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手、スポーツライター。 医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、高校時代から1年先輩の長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合に出場し、245打数71安打、打率.290、17本塁打(当時歴代6位、現歴代10位タイ、立教大学の選手としては当時歴代1位)、38打点。ベストナイン2回。第16回日米大学野球選手権大会オールジャパンのメンバー。 1988年のドラフト会議で、大学の先輩である大沢啓二が常務であった日本ハムファイターズから6位指名され入団。
矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手、スポーツライター。現役時代の登録名は矢作 公一(読み同じ)。
蒲谷 良充(かばや よしみつ、1952年8月26日 - )は… 蒲谷 良充(かばや よしみつ、1952年8月26日 - )は、高校野球指導者。群馬県出身。群馬県立富岡高等学校、立教大学法学部卒。 高校、大学と野球選手として活躍。特に、立教大学時代は四番打者として江川卓投手と対戦するなど東京六大学リーグで活躍する。卒業後は、社会人野球の大丸(京都市)に所属し小林繁投手らとともに活躍した。 その後、地元群馬県内の高校野球指導者として、高崎北高校、藤岡高校、富岡高校の監督をつとめる。富岡高校監督在任中には、21世紀枠の群馬県候補校に選出された。また、大学野球で活躍する多くの選手を育成した。打者出身であるが、横浜DeNAの小林太志投手などの好投手も育てている。 高崎市立高崎経済大学附属高等学校野球部監督をつとめたのち、2013年3月定年退職。
横山 忠夫(よこやま ただお、1950年1月4日 - )は、… 横山 忠夫(よこやま ただお、1950年1月4日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。 網走南ヶ丘高校では、エースとして1966年秋季北海道大会決勝に進出。札幌光星高に敗れ準優勝にとどまる。翌1967年夏の甲子園にチーム初出場。1回戦で大分商の河原明と投げ合うが、12安打を喫し0-8で大敗。同年秋、サンケイアトムズからドラフト6位で指名されるも入団を拒否し、翌年立教大学に進学した。 同大学の硬式野球部ではエースとして活躍。東京六大学野球リーグでは優勝に届かず、1971年秋季リーグの3位が最高であった。1970年秋季リーグの東大との2回戦で、ノーヒット・ノーランを達成している。リーグ通算57試合に登板、16勝26敗、防御率2.91、168奪三振を記録した。
望月 充(もちづき みつる、1948年10月6日 - )は静… 望月 充(もちづき みつる、1948年10月6日 - )は静岡県富士市出身の元プロ野球選手、コーチ、スコアラー。
服部 敏和(はっとり としかず、1948年2月13日 - )… 服部 敏和(はっとり としかず、1948年2月13日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身の元プロ野球選手。ユーティリティプレイヤーとして知られ、捕手以外の内外野全般をこなした。
阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 -… 阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 - )は、千葉県銚子市出身の元社会人野球の選手(内野手)。 銚子商業高校では、1965年夏の甲子園に三番打者、遊撃手として出場。同期の木樽正明の好投で順調に勝ち進み、準決勝ではエース牧憲二郎を擁する高鍋高に9回裏2-1でサヨナラ勝ち。決勝では三池工と対戦するが、上田卓三に0-2で完封を喫し準優勝にとどまった。同年の岐阜国体では、決勝で岐阜短大付の淵上澄雄を打ち崩し優勝。同年秋の第1回プロ野球ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受けるも入団を拒否。 立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは、入学直後の1966年春季リーグから二番打者として起用され、同季は槌田誠、谷木恭平、秋山重雄らとともに7年ぶりの優勝を飾る。
広畑 良次(ひろはた よしつぐ、1947年 - )は、日本の… 広畑 良次(ひろはた よしつぐ、1947年 - )は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。 橋本高等学校では、3年生時に1965年夏の甲子園県予選でエースとして活躍。140kmのストレートを武器としていた。しかし、体調不良により、思うような投球ができずに、準々決勝で県立和歌山商業高等学校に敗退し、甲子園への出場は実現しなかった。同年のドラフト会議で東映フライヤーズから2位指名されたが入団を拒否し、立教大学に進学する。 大学卒業後は帰郷し、家業の生花店を手伝いながら、1970年夏から30年間に亘って、母校の橋本高校の野球部監督を務めた。2008年をもって勇退し、翌年には育成功労賞を受賞した。
秋山 重雄(あきやま しげお、1946年5月5日 - )は、… 秋山 重雄(あきやま しげお、1946年5月5日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手)。
中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は… 中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 下妻第一高校から立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験、しかしその後は優勝に届かなかった。4年時には主将をつとめ、三塁手、三番打者として活躍。同期のエース土井池憲治、捕手の田中鞆雅(日本石油)のバッテリーを擁し、1年下の望月充とクリーンアップを組み、低迷期の立大を支えた。 卒業後は1970年に本田技研工業へ入社し、同年の都市対抗に四番打者として出場。河本昭人らの好投もあり準々決勝に進むが、住友金属の山中正竹らに抑えられ、渡辺弘基(日産自動車から補強)のサヨナラ押し出し四球で延長11回サヨナラ負け。
小川 亨(おがわ とおる、1945年8月1日 - )は、宮崎… 小川 亨(おがわ とおる、1945年8月1日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球解説者、野球指導者。
横川 賢次(よこかわ けんじ、1945年4月1日 - )は、… 横川 賢次(よこかわ けんじ、1945年4月1日 - )は、埼玉県出身の元アマチュア野球選手(外野手)、野球指導者。 熊谷高等学校を経て、立教大学に入学する。 大学卒業後に、社会人野球のサッポロビールで俊足強打の外野手として活躍した。 1985年春から1995年までに母校の立教大学の監督を務め、1989年の秋季リーグでチームを23年ぶりの優勝に導いた。長嶋一茂、矢作公一、川村丈夫、広池浩司らを指導した。また次男は甲子園出場を経験して野球部に入部、監督を退いた翌年に主将を務めた。
村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )… 村上 公康(むらかみ きみやす、1945年2月24日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(捕手)。
溜池 敏隆(ためいけ としたか、1944年4月18日 - )… 溜池 敏隆(ためいけ としたか、1944年4月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。主なポジションは三塁手。
槌田 誠(つちだ まこと、1943年6月12日 - 1999… 槌田 誠(つちだ まこと、1943年6月12日 - 1999年1月7日)は、岡山県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。
松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 19… 松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 1992年7月1日)は栃木県出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 栃木商業高等学校では甲子園には出場できなかった。高校同期に宮下陽吾投手(国鉄)がいる。卒業後は立教大学へ進学。エースとして活躍するが、東京六大学野球リーグでは当時法大、慶大が二強として争い、優勝には届かなかった。リーグ通算43試合登板、20勝12敗、防御率1.27、99奪三振。大学同期に土井正三、山口富士雄(中退)、森本潔(中退)がいる。 大学を中退し1964年に阪急に入団。大型右腕投手として期待され、1965年には6試合に先発するが結果を残せず、その後は中継ぎとして起用される。
山口 富士雄(やまぐち ふじお、1942年7月16日 - )… 山口 富士雄(やまぐち ふじお、1942年7月16日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 20… 土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。兵庫県出身。
森本 潔(もりもと きよし、1942年4月13日 - )は、… 森本 潔(もりもと きよし、1942年4月13日 - )は、愛媛県西条市大谷出身の元プロ野球選手(内野手)。
太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )… 太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )は兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 兵庫高では甲子園に出場できなかったが、コールドゲーム参考記録を含め3度のノーヒットノーランを記録した。卒業後は立教大学に進むが中退し、1960年11月に大阪タイガース入団。 翌1961年にリリーフで初登板、9月には初先発を果たす。1962年には中継ぎとして一軍に定着し、リーグ優勝に貢献した。同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでも2試合に登板。その後も毎年20~30試合程度に登板し、防御率も2点台から3点代前半と安定していた。落ちるシュートとカーブが武器の投手だった。 1965年頃から登板数が減り始め、1967年には登板機会もなく自由契約になる。
石川 陽造(いしかわ ようぞう、1940年11月24日 - … 石川 陽造(いしかわ ようぞう、1940年11月24日 - )は、愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)出身の元プロ野球選手(投手)。
岡村 浩二(おかむら こうじ、1940年11月10日 - )… 岡村 浩二(おかむら こうじ、1940年11月10日 - )は、香川県丸亀市出身の元プロ野球選手(捕手)。
篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城… 篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(内野手)。 水戸商では、1958年の夏の甲子園に遊撃手として出場。3回戦で石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商に延長16回0-1xでサヨナラ負け。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、1961年春季リーグ、1963年秋季リーグで打撃成績2位を記録、両季とも三塁手としてベストナインに選ばれている。 1964年に国鉄スワローズに入団、同年のジュニアオールスターにも出場する。1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。
大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023… 大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023年11月28日)は、静岡県清水市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 「剃刀」と喩えられたストレートとスライダーを武器に、「カープ史上最速のピッチャー」と評された。 清水商業高校では3年次の1958年に春季中部大会1回戦で岐阜商に逆転負けし、夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は清水商野球部後援会と立教大学校友会静岡支部の推薦で立大進学が決まっていたが、家庭の事情でプロ入りが決まる。 1959年に広島カープへ入団し、同期には後に阪急でもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ、若くして主戦投手となる。
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2… 齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。 中学生の頃から野球を始め、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。 2000年から4年間、立教大学野球部監督。2007年に育成功労賞を受賞。 監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した。
丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 - )は、… 丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。 ファッションデザイナーの丸山敬太は実子。 西脇高校卒業後は1958年に立教大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1年次の同年、2年次の1959年に3度の優勝を経験。3年次の1960年秋季リーグでは打率.365で首位打者となり、一塁手としてベストナインにも選出された。リーグ通算64試合出場、237打数68安打、打率.287、0本塁打、25打点を記録。大学同期に青野修三、寺本勇がいる。 1962年に国鉄スワローズへ入団。1年目の同年は開幕直後から一塁手、外野手として起用され、一番打者に定着。
青野 修三(あおの しゅうぞう、1939年10月13日 - … 青野 修三(あおの しゅうぞう、1939年10月13日 - )は、愛媛県今治市(現役当時は、同県越智郡朝倉村)出身の元プロ野球選手(内野手)。
畑 俊二(はた しゅんじ、1939年7月6日 - 2020年… 畑 俊二(はた しゅんじ、1939年7月6日 - 2020年[要出典])は、日本の学生野球指導者。元四国学院大学硬式野球部監督、元国士舘大学硬式野球部監督。広島県呉市出身。 広島県出身。呉阿賀高校を卒業後、立教大学に進学。長嶋茂雄が卒業した後の三塁手として活躍し、社会人野球の電電東京に入社。チームの主力選手として都市対抗野球大会にも出場し、チームをベスト4に導いた。 現役を引退後、東都大学野球の国士舘大学の監督に就任、チームを1部リーグ昇格に導いた。その後、高校野球、社会人野球で監督を務め、中央大学、全日本大学野球選手権大会優勝時の近畿大学、選抜高等学校野球大会優勝時の観音寺中央高の臨時コーチを経て、2005年1月に四国学院大学の監督に就任。
寺本 勇(てらもと いさむ、1939年7月3日 - )は、兵… 寺本 勇(てらもと いさむ、1939年7月3日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元プロ野球選手(外野手)・プロ野球審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 芦屋高等学校では1956年、2年生の時に左翼手として春の選抜に出場。準決勝まで進むが中京商に敗れる。一学年上のチームメートに渡海昇二がいた。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは1、2年在学中に3度の優勝を経験するが、その後の立大は低迷を続ける。しかし1961年秋季リーグでチームは2位まで順位を戻し、寺本も打率.410(2位)を記録して、同季のベストナインに選出された。大学同期に丸山完二、青野修三がいる。 1962年に大毎オリオンズに入団するが、一軍出場に恵まれないまま1963年に退団。
杉本 公孝(すぎもと きみたか、1938年7月4日 - )は… 杉本 公孝(すぎもと きみたか、1938年7月4日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 岩国高校ではエース金沢宏を擁し、1955年秋季中国大会県予選準決勝に進むが山口高に敗退。翌1956年春季山陽大会では決勝に進出するが、岡山東商に大敗を喫する。同年夏は県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。 卒業後は立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは長嶋茂雄の後継三塁手として立大黄金期後半を支え、在学中5回優勝、全日本大学野球選手権大会2回優勝。1959年春季リーグではリーグ史上初の5連覇が期待されたが、高校同期の金沢を主戦投手とする早大に競り負け2位に終わる。リーグ通算79試合出場、283打数72安打、打率.254、3本塁打。
赤池 彰敏(あかいけ あきとし、1938年5月1日 - )は… 赤池 彰敏(あかいけ あきとし、1938年5月1日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。
森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵… 森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 史上7人目の完全試合達成者。 兵庫高校では、1955年に春の選抜に出場。2回戦(初戦)で、後に立教大学同期となる浜中祥和のいた若狭高に敗退。同年夏は県予選準々決勝で長田高に敗れる。 1956年に立教大学に進学すると長嶋茂雄・杉浦忠らの2年後輩となる。杉浦卒業後の3年次からは、1学年下の五代友和と投の二本柱として活躍。東京六大学野球リーグで在学8シーズン中、5度の優勝に貢献した。1957年・1958年に全日本大学野球選手権大会連続優勝。1959年の第3回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。
種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は… 種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
浜中 祥和(はまなか よしかず、1938年1月14日 - )… 浜中 祥和(はまなか よしかず、1938年1月14日 - )は、福井県出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 若狭高校では、同期のエース松井武雄を擁し1955年春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。夏の選手権は、2回戦で立命館の富永格郎投手に抑えられ敗退。同年の神奈川国体は決勝に進むが、エース高橋正勝を擁する四日市高に接戦の末に3-4で敗れ、準優勝にとどまる。 卒業後は立教大学へ進学。長嶋茂雄の2年後輩に当たり、東京六大学野球リーグでは5回優勝。1957年、1958年に全日本大学野球選手権大会連続優勝。リーグ通算37試合出場、126打数33安打、打率.262。
高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - … 高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - 2009年9月5日)は、昭和中期(1960年代前半)のプロ野球選手(外野手)。 東京都神田出身。錦華小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校)で野球を始める。立教高校(現・立教新座高校)では1年生からレギュラーとなり、中堅手として1955年の春の甲子園に出場する。1回戦で坂崎一彦、山本八郎らのいた浪華商に完封負け。浪華商はこの大会に優勝する。同年夏は都予選準々決勝で早実高に敗退した。 1956年立教大学に入学するが、2年生までベンチ入りすらできなかった。2年生時の1957年11月3日立教大学が東京六大学野球の秋季リーグで優勝を決めた日の夜に、高林は前科3犯の窃盗犯を捕獲して、神田警察署から表彰状と賞金500円を受け取る。