田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1… 田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1983年6月20日)は、日本の経営者。西日本新聞社、テレビ西日本各社長を務めた。福岡県出身。 1920年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1921年に福岡日日新聞社に入社した。 1945年に取締役に就任し、1947年から1958年11月までに西日本新聞社社長を務めた。1958年3月にはテレビ西日本社長に就任。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月20日肺炎のために死去。86歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)1… 小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)11月9日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、陸軍参与官、秋田県会議員、秋田県仙北郡西仙北町長、強首村長。 秋田県仙北郡強首村(のち西仙北町を経て、現在の大仙市)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。陸軍に入り、主計少尉となる。除隊後、帰郷し、強首村議、同村長、同農会長を経て、秋田県議、同参事会員となる。1932年(昭和7年)秋田2区(当時)から立憲政友会公認で立候補し、初当選する。以後、4期連続当選。この間、阿部内閣で陸軍参与官を務めた。太平洋戦争により1943年(昭和18年)に応召されたが、終戦後の1945年(昭和20年)9月に復職した。
手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日… 手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県門司市助役。 福岡県浮羽郡田主丸町(現在の久留米市)出身。1920年(大正9年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1922年(大正11年)11月に高等試験に合格した。1923年(大正12年)宮城県属となり、以後、同柴田郡長、青森県商工水産課長を歴任。1928年(昭和3年)に退官するが、1930年(昭和5年)に宮崎県学務課長・社会課長として復帰。その後、香川県農林課長・官房主事、茨城県農林課長、静岡県農務課長、同教育課長・社会課長、青森県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)に愛媛県経済部長に就任した。
中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)… 中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)は、日本の郷土史家、柔術家である。号は剣堂。 1896年11月1日(明治29年)に三重県花野木村大字下之庄に生まれる。 15歳の春に眼病に罹り一年ほど半盲人同様の身となる。失明は免れたが極端な乱視となり右耳も聞こえなくなった。また後年の柔道修行の際に左耳を負傷したことにより聴力を失った。 1917年(大正6年)に帝國尚武會に入り野口潜龍軒より神道六合流を学ぶ。 帝國尚武會の神道六合流における段位は1920年5月(大正9年)に初段、1921年9月(大正10年)に二段、1923年1月(大正12年)に三段となっている。 1922年(大正11年)4月に上京し早稲田大学政治経済科に入学するが、1923年(大正12年)帰省中に関東大震災が起きる。
12代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1896年(明治2… 12代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1896年(明治29年)10月22日 - 1979年(昭和54年)12月5日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。富山県東礪波郡柳瀬村長(1931年11月11日 - 1946年12月12日、1951年5月13日 - 1954年1月14日)。 富山県東礪波郡柳瀬村(砺波町を経て現砺波市)出身。先代佐藤助九郎の二男・健太郎として生まれ、1931年(昭和6年)家督を相続する。1918年(大正7年)早稲田大学専門部政治経済学科卒業。 1919年(大正8年)以降、中越銀行勤務、富山県スキー連盟会長、富山鉄道、佐藤工業各社長、高岡新聞社、高岡劇場各取締役、中越無尽監査役、北日本新聞社長のほか、柳瀬村長、同村産業組合長、同村農会長を務めた。
10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1… 10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1896年(明治29年)10月18日 - 1960年(昭和35年)3月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。初名は隆。 佐賀県西松浦郡有田町で9代・深川栄左衛門(与太郎)の四男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学商科を卒業した。 有田合同運送社長、有田信用無尽社長、香蘭碍子販売社長、香蘭合名会社代表社員、香蘭社社長、西松浦通運社長、佐賀興業銀行取締役、有田陶磁器工業組合連合会理事、佐賀県工芸協会評議員、九州貿易振興会常任委員、佐賀県陶磁器工業協同組合相談役、窯業協会常議員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党公認で出馬して当選し、その後、改進党に所属して参議院議員に1期在任した。
清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没… 清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没年不明)は、日本の作家、編集者、劇作家。東京市神田区猿楽町生まれ。東京中学校卒、東京美術学校中退、早稲田大学英文科中退。『美術新報』『秀才文壇』の編輯に当たり、根岸興行部脚本部員だったこともある。
庄司 彦男(しょうじ ひこお、1896年〈明治29年〉10月… 庄司 彦男(しょうじ ひこお、1896年〈明治29年〉10月9日 - 1960年〈昭和35年〉5月18日)は、昭和期の漁業関係者、政治家。衆議院議員。八田一朗と共に日本へアマチュアレスリングの導入に貢献した。彦雄と表記される場合がある。 鳥取県西伯郡渡村(境港町を経て現境港市渡町)で生まれる。1920年(大正9年)に早稲田大学大学部商科を卒業。東京電気に入社する。小学校専科教員を務めた。 1921年(大正10年)にアメリカ合衆国のプロレスラーアド・サンテルが来日し、講道館の柔道家との異種格闘技戦を望んだ。しかし、館長嘉納治五郎が他流試合を許さず戦ったものは破門とすることを表明した。当時、早稲田大学柔道部に所属し柔道三段であった庄司と永田礼次郎がこれに応じて、同年3月、靖国神社相撲場でサンデルと試合を行い、試合は引き分けとなった。
木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)… 木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)9月25日(または10月8日) - 1971年(昭和46年)9月18日)は、日本の建築学者。 京都市生まれ。早稲田大学などにおいて、環境工学の基本的研究と教育にあたった。また、積雪荷重など雪害対策の基礎的研究方向を確立したほか、日本空気清浄協会、日本建築積算事務所協会の設立と運営にも尽力した。 日本建築設計事務所協会初代会長(l971年まで)。
広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-196… 広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-1964年9月17日)は、日本の経済学者。宮崎県出身。早稲田大学卒。マルクス主義の文献を翻訳した。戦後は日ソ親善協会常任理事、日ソ翻訳出版協会懇話会役員など。
金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日… 金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日 - 1969年9月19日または1971年1月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家、独立有功者。第2代韓国国会議員、原子力院(現・原子力安全委員会)院長を歴任した。 本貫は光山金氏。号は若嬰。キリスト教徒。 全羅南道順天出身。早稲田大学政経学部卒、コロンビア大学・ロンドン大学修学。東亜日報・朝鮮日報論説委員、ハワイ第二次汎太平洋会議朝鮮代表(徐載弼・金活蘭・申興雨と共同)、ニューヨーク三一新報主幹・主筆、ベルリン世界反帝同盟会議出席者、朝鮮興業株式会社重役を務めた。中国で金枓奉とハングル運動について意見を交わした後、1935年から朝鮮語学会に参加して辞典の編纂を財政的に支援したが、1942年の朝鮮語学会事件により3年間投獄され、1945年1月に懲役2年・執行猶予4年の刑を言い渡された。
中塚 元太郎(なかつか もとたろう、1896年9月1日 - … 中塚 元太郎(なかつか もとたろう、1896年9月1日 - 1972年10月9日)は、日本の政治家。岡山県児島市(現・倉敷市)長。 岡山県児島郡小田村出身。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、早稲田高等学院を経て、1920年、早稲田大学英法科を卒業する。証券会社に勤務した後は帰郷し、小田村収入役となる。その後、退職し、朝鮮に渡り、農場、酒造、漁業に従事する。再び帰郷し、1942年、児島町(小田村は1928年に町制施行し、児島町に改称)会議員、1947年、児島町長となり、翌1948年、児島市の発足により児島市長となる。2期務めた後、1956年の市長選では元助役の中村純雄に敗れるが、4年後の1960年に中村を破り、市長に返り咲いた。
佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8… 佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。
小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月2… 小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月21日 - 1982年 <昭和57年> 12月11日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。位階は従四位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1918年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に六十三銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年2月に頭取に就任。1973年5月には会長に就任。1973年5月に会長を経て、1975年12月に相談役に就任。信越化学工業監査役も務めた 1957年に黄綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治2… 大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治29年)8月18日 - 1947年(昭和22年)7月29日)は、日本の政治家、農民運動家。参議院議員(無所属懇談会、1期)。 三重県飯南郡花岡村(現:松阪市)生まれ。早稲田大学で建設者同盟に加わり、卒業後の1922年(大正11年)に日本農民組合関東同盟を組織。翌年には日農総本部書記となり、1927年(昭和2年)に日本共産党に入党。三・一五事件、四・一六事件で検挙された後に共産党から離党し、全国農民組合総本部書記を歴任。一方で労農派の立場から農民運動や左翼運動を指導し、人民戦線事件で検挙された。 戦後、日本農民組合の再建に関わり、1947年(昭和22年)2月には同会書記長になる。
海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925… 海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。 静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。 彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。
長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)… 長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)7月20日-1942年(昭和17年)10月29日)は、日本の会計学者、早稲田大学商学部教授、商学博士、陸軍司政長官。 1896年7月20日、埼玉県北埼玉郡羽生町(現在の羽生市)に生まれる。埼玉県立不動岡中学校を経て、1915年4月、早稲田大学第四高等予科に入学する。1916年8月、早稲田大学大学部商科に進み、1919年7月に卒業する。卒業後、横浜の増田貿易株式会社に入社し、木材部を担当する。1921年4月、早稲田大学海外留学生に決定され、同年12月からペンシルベニア大学において、1923年からロンドン大学において、会計学を専攻する。同年8月に帰朝後、早稲田大学商学部の講師となる。
高松 静男(たかまつ しずお、1896年7月18日 - 19… 高松 静男(たかまつ しずお、1896年7月18日 - 1945年9月8日)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県名古屋市出身。兄は名古屋商工会議所会頭を務めた高松定一。妻は伊藤由太郎の三女。 愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)から1915年に早稲田大学へ進学し、野球部の選手となる。ポジションは左翼手だったと伝わる。1919年に早大の主将として龍ヶ崎中(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を指導した記録が残っている。 早大卒業後、大学野球部のアメリカ遠征に主将として加わっている。また、一年志願兵となり、陸軍三等主計に任じられた。1924年に大日本人造肥料(現・日産化学)に入社、1928年に大阪鉄道に転職し、1938年時点では藤井寺球場係長を務めていた。
松平 銑之助(まつだいら せんのすけ、1896年(明治29年… 松平 銑之助(まつだいら せんのすけ、1896年(明治29年)7月9日 - 1978年(昭和53年)12月22日)は、昭和期の官吏、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧小幡藩主家当主、子爵・松平忠恕の八男として生まれる。甥・子爵松平忠相(義兄松平忠禎長男)の死去に伴い家督を継承し、1924年(大正13年)10月15日、子爵を襲爵した。 早稲田大学文科を修了。1926年(大正15年)衆議院兼逓信属に就任。その後、衆議院理事官、昭和食糧顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和21年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 19… 森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(10期)。 栃木県塩谷郡阿久津村(現高根沢町)出身、早稲田大学政治経済学部卒業。コロンビア大学に留学する。外務参与官、外務次官、特派大使を歴任。1936年の総選挙で立憲民政党から立候補して初当選。終戦後公職追放された。1950年追放解除。追放解除後の1952年に自由党から政界復帰。その後、衆議院外務、建設各委員長、自民党代議士会長や道路調査会長、国土開発調査会長などを務めた。1972年の総選挙で落選した。 1975年5月7日、死去。78歳没。同月9日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付で正五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った。
務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6… 務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(後に三郷村を経て現在は安曇野市)出身。 社会部や政治部が花形の新聞社にあって販売畑一筋で歩み、戦前まで東京を中心とした東日本のブロック紙に過ぎなかった読売新聞を日本屈指の全国紙にまで押し上げた。「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる」と言ったとされ、その辣腕ぶりから「販売の鬼」と呼ばれたが演劇や登山を好む一面もある。プロ野球の歴史では反長嶋・反江川で親川上・親藤田の座標軸に据えられている。
平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946… 平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946年7月7日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1896年、岐阜県生まれ。旧制早稲田大学文学部露文科第一期生として、片上伸・昇曙夢らの指導を受けるが、入学から3年で中退。その後は、かねてから親交のあった貴司山治の紹介でロシア文学作品の翻訳を始めた。 1938年に『死せる魂』の邦訳版を上梓した後、満州国に居を移し、南満州鉄道に嘱託社員として勤務する傍ら、『東方評論』の編集に携わった。太平洋戦争終結直後の1946年、滞在先のハルビンで病没した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - … 実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 19… 伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 1980年12月3日)は、日本の建築家。旧制・大阪商科大学や大阪市立美術館などの作品で知られる。学位は、工学博士(早稲田大学・1939年)。 大阪市建築課長として、学校施設・美術館などを多く手掛けた建築家。辰野片岡建築事務所を経て大阪市技師着任。退職後、大阪市立大学家政学部教授を務める。作品には、旧制・大阪商科大学昭和初期学者群、大阪市立美術館(実施設計監理)などがある。 千葉県出身。早稻田大學高等豫科理工科を経て、1917年に早稻田大學大學部理工科建築学科を得業(現在の早稲田大学創造理工学部建築学科を卒業)、学業優秀賞を受賞。大阪市技手を経て、1919年に片岡建築事務所入所。
森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966… 三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966年9月1日)は、日本の実業家、経済評論家。 兵庫県出身。1919年早稲田大学商科卒。三菱商事をへて1924年東洋経済新報社の記者となり、電力部門を担当、松永安左エ門、小林一三らの知遇を得た。1940年常務理事ののち退社。戦時中、九州の旅館で朝香宮の行状を女中に話したことが刑事に知れ、不敬罪で懲役1年半(執行猶予2年)の判決を受けた。戦後はNHK理事ののち1948年東宝取締役、東宝争議で退社。産経新聞論説委員、NHK放送審議会委員。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員。子に英語学者の三宅鴻。
木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28… 木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1951年〈昭和26年〉6月7日)は、大正から昭和時代にかけて活動した日本の編集者、児童文学者。赤い鳥社、中央公論社で編集者として優れた作品を世に送り出す一方、雑誌『赤い鳥』などで多くの童話を発表した。 1896年(明治29年)2月28日、広島県尾道市で生まれた。鉄道技師だった父の仕事の都合で、神戸、小樽と移り住み、10歳から父の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市志賀)で過ごす。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)卒業後、早稲田大学文学部英文科に進学する。大学在学中に、鈴木三重吉の作品と出会い、傾倒。三重吉の門を叩き、三重吉宅へ出入りするようになる。
鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 -… 鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 - 1971年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。清水市長。 静岡県清水市(現静岡市)出身。1914年早稲田大学商科卒。清水市議、同参事会員、静岡県議、同副議長などを経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に静岡県(当時は大選挙区制)から立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた後、清水市農地委員、同委員長を歴任し、1955年の清水市長選挙に立候補して当選した。 市長在職中は市内に住宅が増設され、日本平にテレビ塔とロープウェイが開設。1957年には静岡で国体が開かれ、天皇、皇后の視察を受けた。このほか、石岩ふ頭(富士見ふ頭)の完成や大型漁船の建造も進められた。
相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2… 相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1963年〈昭和38年〉11月23日)は、神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市)生まれの書家。 1916年に早稲田実業学校を卒業し、早稲田大学商科に入学したが、中途で退学している。1913年より中村春堂に師事し、また小野鵞堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。東洋家政女学校、慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校、女子高等学園に勤務した。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1… 仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。山中貞雄を助監督として起用し、その脚本を数多く監督した。川谷拓三は義理の息子、仁科貴と仁科扶紀は孫にあたる。 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち、中学3年のとき会津に戻る。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。
崔 昌益(チェ・チャンイク、1896年 - 1957年 / … 崔 昌益(チェ・チャンイク、1896年 - 1957年 / 1960年)は、日本統治時代における朝鮮の独立運動家・社会主義者。中国で金元鳳と共に抗日運動を行った。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国にも参加したが、のちに金日成によって粛清された。妻の許貞淑(許憲の娘)も北朝鮮の政治家。別名は崔昌錫、崔昌淳、崔東宇、李建宇。 咸鏡北道穏城郡の出身で、日本の早稲田大学政治経済学部を卒業した。京城(現:ソウル特別市)で結成された共産主義者の組織・ソウル青年会(いわゆる「ソウル派」。朝鮮共産党参照)に参加してその幹部として活動。1925年モスクワ国際共産党大会に、ソウル青年会代表として参加した。 1928年、第三次朝鮮共産党事件で逮捕される。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月… 香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月12日)は、日本の編集者、哲学者。 福岡県北九州市出身。1918年早稲田大学文学部哲学科卒。神田豊穂の興した春秋社に入り編集者として活躍、雑誌『帝国教育』『日本歴史』などを編集。香原志勢は長男。墓所は多磨霊園。
宋継白(송계백、1896年 - 1922年)は韓国の独立運動… 宋継白(송계백、1896年 - 1922年)は韓国の独立運動家。 平安南道平原郡出身。普成中学校を1915年に卒業して、日本に留学して早稲田大学で修学した。学生時代の1919年に三・一運動の口火になった東京での二・八独立宣言に11人代表の一人として参加した。 同年1月に開催されたパリ講和会議で国際情勢の変動が予見された中、1918年末から日本留学生の間では独立運動実行に対する雰囲気が高まった。彼らは宋継白を含めて崔八鎔と金度演など11人の実行委員を先任して独立宣言計画を推進した。 1919年1月初にこれら留学生の代表として国内に密派されて重要な役目を果たした。目的は李光洙が作成した独立宣言書を印刷可能な活字と運動資金を求めるのであった。
内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 193… 内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 1939年5月13日)は、美術史家。 大阪出身。早稲田大学卒。飛鳥時代の彫刻を主とした仏教美術を研究し、ギリシャ彫刻との比較研究をおこなった。
金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月… 金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の詩人。本名:金子安和(かねこ やすかず・後に保和を名乗る)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいて、衆議院議員の河野密(妹・捨子の夫)は義弟にあたる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現:津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月… 小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月8日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の舞踊研究家、民俗学者。 東京生まれ。小寺芳次郎の四男。開成中学校卒、1918年早稲田大学文学部英文科卒。歌舞伎舞踊、民俗舞踊を研究、1927年柳田國男、折口信夫らと民俗芸術の会を結成、『民俗藝術』を創刊した。小寺駿吉、中村伸郎の兄。小寺廉吉、小寺健吉の弟。
菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 -… 菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 - 1962年1月21日)は、日本の将棋観戦記者の草分け。本名は菅谷 要。 栃木県栃木市出身。県立栃木中学校卒業後、慶應義塾大学部理財科にはいるも中退。早稲田大学英文科卒業。大衆文藝を志す。 菊池寛の紹介で、当時将棋観戦記で活躍していた大崎熊雄の助手となる。1927年、将棋観戦専門記者として読売新聞に入社。この時筆名として「北斗星」を採用。1937年の坂田三吉・木村義雄の京都南禅寺決戦を始め、多くの観戦記・随筆を手がけた。 一方で将棋史研究にも手をそめ、関連するエッセイを多数発表している。
加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月… 加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月7日 - 1982年(昭和57年)7月28日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、静岡県志太郡島田町長。 静岡県志太郡島田町本通り(現島田市)で、木材業、加藤商事会社・加藤友吉の四男として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学予科 を卒業した。 家業の加藤商事会社社員となる。1920年代に、廓潰運動、部落解放運動、無政府運動に係わり、静岡県水平社などに資金援助を行った。1931年(昭和6年)静岡県会議員に選出され3期在任し、参事会員も務めた。1934年(昭和9年)島田町長に就任し3期在任した。日中戦争に出征し陸軍中尉となる。
中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月… 中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月7日 - 1976年8月21日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県出身。早稲田大学商学部卒業。龍ケ崎町会議員、茨城県会議員、同参事会員などを歴任。 1946年、戦後初の衆院選に茨城県選挙区から無所属で立候補し当選。その後、公職追放となり、追放解除後は旧茨城県第1区において第25回・第27回・第29回・第30回・第31回総選挙で当選し、衆議院議員を通算6期務めた。1969年12月の第32回総選挙には立候補せず引退。 その後、石橋内閣・第1次岸内閣の北海道開発政務次官、第1次佐藤内閣の行政管理政務次官、衆議院災害対策特別委員会理事、衆議院農林水産委員会委員などを歴任した。
岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不… 岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は中家 秀一(なかや ひでかず)。旧芸名は岩城 秀雄(いわき ひでお)。 1895年(明治28年)10月2日、兵庫県神戸市山本通(現在の同県同市中央区山本通)に生まれる。関西学院中学部卒業後、早稲田大学英文科に進学する。 早稲田大学2年修了(中退)後、海運業輸出部主任を務めていたが、1917年(大正6年)、岩城秀雄という芸名で新国劇創立と共に同劇団に入団。以降、主に端役・脇役として出演するが、1922年(大正11年)頃からは岩城秀哉と改名して活動している。1924年(大正13年)1月、帝国キネマへ入社。同年2月7日に公開された佐藤紅緑原作の松本英一監督映画『大盗伝』や、同年4月2日に公開された若山治監督映画『肉弾』など、悪役俳優として活躍していたが、出演配役に岩城の名前は見当たらず、岩城自身も少々不平があったようである。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月1… 瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1968年〈昭和43年〉)は、日本の政治家、東京府多額納税者、鍋屋、金融業、地主・家主。東京市会議員(板橋区選出、革正会会員)、板橋区会議員。 東京府北豊島郡板橋町大山出身。質商・瀬田文次郎の長男。 早稲田中学、同高等学院を経て1917年、早稲田大学大学部法学科英法科卒業。貸地貸家業、金融業を営んだ。 1921年5月、板橋町会議員に当選し、1932年9月市郡併合迄3期在職。1931年4月、板橋町名誉助役として市郡併合迄在職。 1932年11月、板橋区会議員に当選。1933年3月、東京市会議員に当選。1938年4月、東京市参事会員に当選。
坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月… 坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月3日 - 1966年(昭和41年)8月13日)は、大正 - 昭和期の日本の実業家。新潟市出身。元衆議院議員で元新潟新聞社社長の坂口仁一郎の長男。作家の坂口安吾の長兄。新潟日報社第2代社長。新潟放送初代社長。新潟県立新潟中学校、早稲田大学専門部政治経済科卒業。
松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1… 松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1982年9月)は、日本の建築家。「日本にはスパニッシュ(アメリカン・スパニッシュ様式)で自分の右に出る者はいない」と自負していた。 1895年(明治28年)に山形県山形市に生まれた。 1918年(大正7年)に早稲田大学理工学部建築学科を卒業すると、1919年(大正8年)にアメリカ合衆国に渡ってコロンビア大学に入学し、3年間建築設計を学んだ。この間、ニューヨークのトロウブリッジ・アンド・リビングストン建築設計事務所、アンドリュー・ジェ・トマス建築設計事務所、エ・エフ・ギルバード建築設計事務所で設計実務に従事している。1923年(大正12年)からはニューヨークのアーキテクツビル内にあるモレス・スミス建築設計事務所に勤務した。
小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日… 小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日 - 1944年(昭和19年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小沢。長男は元塩尻市長の小野光洪。 長野県上伊那郡小野村(現辰野町小野)で、小沢五郎三郎の三男として生まれ、東筑摩郡筑摩地村(現塩尻市北小野)の小野郡吾の養子となる。旧制長野県立松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1920年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。陸軍に志願して入隊し2年後に歩兵少尉で除隊し、1928年、予備役歩兵中尉に昇進。帝国在郷軍人会本会審議員、同第十四師管連合支部審議員、同東筑摩郡連合分会長、同東筑摩郡将校分団長、同長野支部参事など、在郷軍人会の役職を務めた。
前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月1… 前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月15日 - 1986年(昭和61年)7月19日)は、日本の実業家。前川製作所創業者。和敬塾創立者。 1895年、奈良県南葛城郡秋津村(現・御所市室)に林業を営む素封家の家に生まれた。前川福松の三男である。旧制奈良県立畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)卒業。1920年、早稲田大学大学部理工科(機械工学科)卒業。 独立し、1924年、前川商店(現・前川製作所)創業。冷蔵庫製造業を創めた。1955年、東京都文京区目白台に地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮(和敬塾)を創設。 1986年7月19日朝、病により死去。 趣味は読書。
中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月… 中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月2日)は、日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。 石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。